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2011年12月20日 (火)

最近のツイートと補足コメント――Nスぺ「メルトダウン」から「金正日死去」まで

 私の場合、ツイートをどう利用するかまだ定まっていません。根拠示さないで意見を述べるのは無責任だと思いますが、簡潔に意見を述べるには便利です。とりあえず、最近私が興味を持ったことをツイートして見ましたので紹介しておきます。(追加コメント)は今回新たに付したものです。

(以下12月19日分)
(金正日死去について)
金正日の死去に対する各国の報道を見ていると、まともな国と異様な国、まともな国民と異様な国民の違いが分かります。立花隆氏が『天皇と東大』で戦前の日本を現在の北朝鮮と比べて、”あれ以上に異様だった。北朝鮮は首領様だが日本は神だった”と言っていますが、これは明らかに言い過ぎですね。

(半藤一利・加藤陽子著『昭和史裁判』について)
半藤一利氏と加藤陽子氏の『昭和史裁判』ざっと目を通したが、両氏とも日中戦争の開始原因を読み間違っていると思った。これは華北分離を強行する日本軍に対する防衛戦で、日本側にとっては日中連携のための親日政権作りだったが中国にとっては侵略であり抗戦する外なかった、ということ。

(両氏は)トラウトマン工作で、蒋介石は日本の和平条件を本気で検討していたが、病気で期限までには対応できなかった。参謀本部の多田らが延長を主張したが広田や近衛が打ち切った、と(する)通説を補強する意見を述べているが、私は、蒋介石は日本軍を信用しておらず、抗戦意志を維持していたと見ている。(参照「トラウトマン和平工作」

確かに日中戦争の根本原因は日本の大陸政策にあるが、日本は(中国と)戦争するつもりはなかった。しかし王道文明vs覇権文明という図式の中で華北分離まで突き進んだことが中国に抗日戦争を決意させた。そして戦争になれば応戦するほかない。昭和天皇の戦争意志はここから生まれた。ではいつ戦争をやめるか。

(結果的にはやめられなかった)ではなぜ日中戦争をやめられなかったか。その根本原因はそれが始まりであった如く「王道文明vs覇権文明」という図式を脱却できなかったから。つまり、中国を主権を持った独立国と認識できなかった。蒋介石は日本のそうした誤りを昭和10年に中央公論「敵か友か」論文で示した。(参照「蒋介石の「敵か友か」中日関係の検討」)が、それでも分からなかった。

(追)この点は昭和史を理解する上で極めて大事なポイントですので、別稿であらためて論じたいと思います。両氏はこの戦争原因を統制派である「一撃派」にあるとし、王道派とも言うべき石原派(多田や堀場など)による華北分離の責任を軽く見ています。

 トラウトマン工作でこの石原派が交渉延期を主張しますが、マッチポンプの論であって一度火のついた戦争は容易なことでは止まらない。蒋介石は上海戦ですでに持久戦争を決意している。12月14日にはすでに王克敏の華北傀儡政権が出来ている。従って、少々交渉を延ばしたところでこの段階で講和が成立したとは思われません。

 何より軍内部が分裂して統制がとれなくなっていたではないか。統帥部も意見が一致していたわけではない。この事実を等閑視して広田や近衛の責任を追求してもはじまらない。もちろん近衛の「対手とせず」は失敗で弁護の余地はありませんが、すでに世論は手を付けられなくなっていた。そんな大火事を引き起こしたのは石原派であって、彼等がそれに小便をかけたからといって免罪されるわけはない、と私は思います。

 また、これに関連してお二人は昭和天皇を「一撃派」と同類視するなど、この紙上裁判において昭和天皇の大元帥としての責任を問い「有罪」と判決しています。しかし、昭和天皇はあくまで明治憲法に従い立憲君主として行動されたのでは。大元帥という立場でも補翼責任者がいたのでは。補弼・補翼者の間で意見対立したら天皇が決裁する責任を負うというのは、天皇親政の考え方ではないか。

 明治憲法の解釈にそうした曖昧な点があった事は事実だが、昭和天皇ご自身は機関説天皇で良いと思っており、その範囲で行動していた。そもそも、天皇親政という言葉を持ち出した軍部は、統帥事項の判断を天皇の裁断に委ねようとしたのではなく、あくまでもそれを自らの統帥権さらには政治支配権を確立するために利用しただけだった。

 挙げ句の果てに自らの内部統制も保持できず軍としての最終案をまとめることができなくなると、その最終決定の責任を、首相また天皇に負わせることで自らの責任を逃れようとした。それが軍が実際にやったことではないか。こんな無責任な軍部の態度を支持できるわけもなく、まして、その責任を昭和天皇に負わすなんてあまりにも公正を失している。

 そもそも、いったん戦争になれば、勝つほかないわけで、君主たる者がそれを願わないわけがありません。その際の片言隻句を取り上げて、その判断の是非を問うなどということは、それこそ君主に”哲人あるいは神”たることを求めていることになるわけで、まあ、なんと過酷なかつ非情な歴史裁判官である事よと思いました。

 この点について山本七平は天皇が「閣議決定」の上奏に拒否権を行使した例は皆無であると言っています。ただし、「内奏」は別で天皇が各大臣に意見を述べたり、重臣を呼んで意見を徴したり、それに対して天皇がご自身の状況判断やご意見を述べられることもあれば、時には叱責されることもある。

 「もちろん天皇の状況判断やご意見が常に正しかったことはあり得ないと私は思っているし、天皇もそう自覚されていたのであろう。というのは、それなるが故に、「憲法上の責任者が慎重に審議して、ある方策を立て、これを規定に遵って提出し、裁可を請われた場合には、私はそれ外に満ちても意に満たなくても、よろしいと裁可する」わけである。

ただ、この「内奏」とそれへの天皇の「応答」は、正確には分からない。というのは、これについて、天皇が何も言われないのは、マッカーサー元帥との場合と同じである。ただ侍従長、侍従武官長が立ち会ったり、またメモを読んだりする場合、また天皇が何かの感想を述べられたりして、それが彼等が「日記」に記している場合にだけ残る。いわば、これはあくまでも「天皇のフリートーキング」であり、正規の機関からの憲法上の手続きを経た「上奏・裁可」ではない。」(『裕仁天皇の昭和史』p336~337)*上3パラグラフ挿入12/21

 もちろん、お二人による先のような有罪判決は、それぞれ資料に基づいた判断でしょうから、読者としてはそれを有り難く利用させていただきますが、私にはその批評の視点は、昭和史という歴史的現実から遊離した大変お気楽で無責任なもののように思われました。

 半藤氏の『あの戦争と日本人』はご本人の体験と史論とがうまくかみ合っていて興味深く読むことができましたが、『昭和史裁判』では半藤氏は加藤陽子氏に付き合いすぎたためか、バランスを失いひっくり返されたような印象ですね。昭和天皇が金属の拠出等をしたことを福沢の帝室論を引用して”細かくて情けない”などと慨嘆していますが、福沢の帝室論における「天皇の万機を統ぶる」行為はあくまで「政治社外のものなり」が前提ですよ。

 私自身は、常識ある日本人は天皇親政なんか信じていなかったと思いますし、政治責任は臣下が負うべきものと考えていたと思います。それを戦後の平和を無償で享受できる人間が、戦中における天皇の「内奏に対する応答」(いわばフリートーキング)について親政責任を問うというのですから、一体どうなっちゃったの?というのが私の率直な感想でした。*下線部12/21挿入

(『謎解き 張作霖爆殺事件』について)
山本七平賞奨励賞に『謎解き 張作霖爆殺事件』が選ばれた。一読してそれに値しないと思った。肝心な部分がノンフィクションではなくほとんど”小説まがい”だから。何処に爆薬がしかけられていたかは探求の余地(「必要」を訂正)はあるが、仮に客車天井裏の爆薬がしかけられていたとしても満鉄線橋脚の爆薬とシンクロ

したと説明しなければならない。これを、本筋はコミンテルンが仕掛け国民党内のルートを通じて張学良が行った”父殺し”で、これに河本が共謀したため実行犯にさせられた。つまり、この事件はコミンテルンのトラップだというわけですが、騙されるにも「程(ほど)がある」話で、日本の弁護にはなりませんね。

(追)この件で、まず調査すべきは、爆弾が車内にしかけられていたかどうかですね。全てはその後だと思います。

(半藤一利著『あの戦争と日本人』について)
「坂の上の雲」がNHKで放映されていますが、203高地の戦いについて、12月5日高地を占領し旅順港を見下ろした所、敵艦隊はすでに壊滅していた!なんと9月28日から10月18日までの28インチ砲による山越の砲撃で・・・。この事実は隠蔽されてきたが、ドラマでは従来の説のままでした。

また、日本海海戦において、ロシア艦隊が対馬海峡に来るかそれとも津軽海峡かで、東郷は対馬海峡とし微動だにしなかったことで名将とされる。が、事実は5月25日開封の密封命令で津軽に向かうとした。しかし第二艦隊参謀長藤井らに説得され開封を24時間延期。ドラマではそのように修正されていた。

(ところで)203高地の戦いについて、12月5日高地を占領し旅順港を見下ろした所、敵艦隊はすでに壊滅していた!という話、半藤氏の『あの戦争と日本人』にあった。つまり二万に及ぶ兵士の死は無駄だったというわけだが、にわかには信じられない。なぜ、艦隊壊滅が分からなかったか、不思議な話です。

(追)ドラマでは、203高地を占領した兵士が”旅順港は丸見えです”と叫ぶシーンがありました。こちらは小説のままで訂正されていないわけですが、やはりこの説は無理があると判断されたのでしょうか。

 というのは、28インチ砲の射程は分かっていたはずで、それによる旅順港砲撃の結果も分からないはずがない。となると、旅順要塞及び203高地占領の目的は別にあった、ということになりますが、ではなぜ、あんな犠牲の多い戦法を採用したのか分からなくなります。

(李明博大統領と慰安婦問題について)
@ikedanob 慰安婦問題についての事実論を再度公開ガチンコ論争の形でやっておく必要があるのではないでしょうか。

(追)事実論をしっかり押さえておくことがいかに大切か、ということですね。韓国は日本に儒教的「義」への応答を、”そういう事実があった”ということを前提に、日本国政府に求めているわけです。従って、再度、その事実の確定作業を、まず国内でやる必要があると思います。日本的な「相互懺悔・相互告解方式」は国外では通用しないのですから。

(Nスぺ「メルトダウン」での「イソコン」について)
@inosenaoki 当時の報道で全電源喪失後も機能するはずのイソコン(非常時緊急冷却装置)の存在について確認なりアドバイスなりをした専門家はいましたかね。

(追)東電の責任のみならず、専門家や、政府の対応のまずさも次第に明らかになってくるでしょうね。それにしても本来機能集団であるべきものが共同体化し自分たちを守るための生活集団と化すという日本組織の宿弊は、今回の事故を教訓として徹底的に改める必要がありますね。大阪の橋下氏がやろうとしていることもそれだと思いますが、そのポイントは組織目的の明示とその不断の検証と共有ということだと思います。

 つまり、日本もリーダーを必要としているということですね。日本の課題は、そうしたリーダーを今後どのように創っていくのか、ということだと思います。その点、「科挙」的身分制ではない、任免自由な上級公務員制度を作る必要がありますね。それにしても、いわゆる現状維持派の情けないこと。橋下氏の話では、”やめる”といってやめたひとは府知事時代一人もいなかったとのこと。”武士に二言はない”というのは一体何処の国の言葉だったのでしょうか。

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コメント

>なんと9月28日から10月18日までの28インチ砲による山越の砲撃で・・・。この事実は隠蔽されてきたが、ドラマでは従来の説のままでした。

これは本当ですか?藤井較一中佐と島村中将の話は知っていましたが、これは初めてです。射程距離を計算すれば出ることですが、事実なら、それはどこに書いてあるのですか。
 一戸兵衛伝(?)だったか、203高地を早い段階に占領したが、参謀本部から撤退命令が出たので撤退した、そのわけは<乃木の名誉のためにはなさない>と述べたとありました。

 この人の姪かもらい子が小野寺機関の小野寺氏の妻である百合子でした、記憶違いがあるかもしれません。したがって小野寺氏はよく知っていたっともいます。

半藤氏と加藤陽子女史はちょっとねえ。陽子氏は片岡哲哉氏の弟子ではなかったかとおもいます。

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