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2012年1月

2012年1月31日 (火)

「昭和の悲劇」は二大政党制に基づく政治主導により引き起こされた

アゴラ言論プラットフォーム掲載論文

  丁度、一年前、NHKスペシャルで「なぜ日本人は戦争へと向かったか」という番組が放送されました。4回シリーズで、第1回「外交敗戦"孤立への道」、第2回「”巨大組織"陸軍”暴走のメカニズム」、第3回「”熱狂”はこうして作られた」、第4回「開戦・リーダーたちの迷走」でした。

 第一回は、外交が政府と出先陸軍の間で二重化したこと。第二回は、エリート軍官僚集団の統制が効かなくなり暴走を繰り返したこと。第三回は、満州事変以降マスコミが国民の戦意高揚のための「宣撫機関」化したこと。第四回は、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、勇気ある決断を下すことができなかった日本のリーダーたちの無責任な姿が描かれていました。

 確かに、このようないくつかの要因が重なって、思いもよらぬ日中・日米戦争となり国を破滅に導くことになったわけですが、最も重要な視点が抜けていると、その時私は思いました。それは、「政治家の責任」と言うことです。戦前の昭和期を通じて政治家は一体何をしていたのか。

 この点に関して、民主党の小沢氏は、昨年の10月6日、自分の裁判に関する記者会見で、日本の戦前の歴史の失敗を例に出して、検察やマスコミなどを次のように批判しました。

 「日本は戦前、行政官僚、軍人官僚、検察警察官僚が結託し、財界、マスコミを巻き込んで国家権力を濫用し、政党政治を破壊しました。その結果は無謀な戦争への突入と、悲惨な敗戦という悲劇でありました。教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません」

 小沢氏はこうした認識を自分の裁判の不当性を訴えるために持ち出しているわけですが、実は、戦前において日本の政党政治を破壊し、日本を悲惨な敗戦へと導いたのは、「官僚、軍人、検察、財界、マスコミ」もさることながら、その最大の責任は政治家自身が負うべきなのです。政治主導が喧伝される今日、この事実を、今一度再認識しておく必要があります。

そこで、昭和期において、一体いかなる政治主導がなされたかについて私見を述べたいと思います。

 昭和において最初に政治主導が発揮された事件は、第二次南京事件が勃発した時(1927.3.27)でした。この事件は、蒋介石の国民軍が第一次北伐の途上南京に入城した時、軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行ったものです。日本の領事館などもその時被害に遭いました。この事件の背後には、「あえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀があったとされます。

 この時、外務大臣であった幣原は、こうした背後関係を察知して、列強が蒋介石に対し最後通牒を突きつけるなどの強硬策を取れば、それは蒋介石を陥れようとしている共産党を利することになるとして、これに加わりませんでした。一方で、蒋介石に紛争の原因の一掃を進言しました。結果的には、蒋介石は上海で反共産党大粛清を断行し(四・一二クーデター)、事件の関係者を処刑しました。また、同年7月には、武漢政府も「容共政策放棄声明」を発表し、共産党との絶縁を宣言、ボロジン以下ソ連の政治・軍事顧問を解雇・追放しました。

 ところが、この事件を「奇貨措くべし」として幣原外交を「国辱外交」と非難し、これを対支武力外交、在留邦人の現地保護主義へと転換しようとしたのが政友会の森恪でした。そこで幣原の対支不干渉外交を攻撃するため、「領事夫人以下あらゆる夫人が陵辱された」とか、「政府が領事館護衛の海軍軍人に丸腰を命じた」などという宣伝を行い世論を煽りました。そのため、国民の反支那感情は一挙に悪化し、幣原外交に対する不満は世論を圧するようになり、これが一つの原因となって、4月17日、若槻民政党内閣は総辞職を余儀なくされました。

 この南京事件の真相については、後に政友会の田中首相が衆議院本会議において、民政党永井柳太郎氏の質問に答える形で次のように答弁しています。(s2.5.5)

 「南京事件においては段々調査すると嘗て世間に流布せられた事柄には往々誤解があるということが判った。一例を挙げれば婦人の陵辱という如き事は事実ではありません。又帝国軍人の無抵抗主義ということは、これも軍人が好んでやった無抵抗ではなく、その居留民全体が要求した為、軍人は涙をのんで抵抗しなかったのである。」

 つまり、政友会がなした幣原外交攻撃は虚偽の宣伝だったわけですが、結果的には、これが功を奏して民政党若槻内閣を退陣に追い込むことに成功し政権を奪取することができたのです。森恪はその政友会田中義一内閣において外務次官となり、田中首相が外務大臣を兼務したことから、実質的な外務大臣として、田中内閣の対支積極外交、居留民の現地保護政策を主導することになりました。

 それは第一次山東出兵に始まり、東方会議でその対支積極外交を「国策」化し(これが「田中上奏文」という偽書を生むことになった)、第二次山東出兵では、北伐途上の国民軍と衝突事件を引き起こし、済南城を砲撃して多数の支那軍民を死傷させました(「中国側済南事件調査代表団」の報告では死者「約3,000人」という。いささか誇大な数字に思われるが正確な数字は不明)。これが中国の統一を妨害する行為と見なされ、蒋介石を敵に回すことになりました。

 さらに満州の武力制圧を目指した関東軍の一部軍人による張作霖爆殺事件を誘発することになり、満州の張学良を敵に回すことになりました。こうした田中内閣の外交政策の失敗によって、それまで英国を主目標としていた中国の排外政策は一転して日本に向けられるようになったのです。これが、その後の王正廷による革命外交や、張学良による満州での反日侮日運動を生むことになりました。

*この張作霖爆殺事件を、コミンテルンあるいは張学良の謀略とする説も出ていますが、実行犯が河本大作等であったことは明白で、もし、これがこうした謀略の結果であったとすれば、河本等は彼等に騙され踊らされたわけで、恥の上塗りと言うほかありません。

 ところが、こうした中国や満州における反日感情の高まりについて、これを幣原外相の対支不干渉政策の失敗に帰す意見が一般的で、支那共産党に対する認識が甘かったとか、あるいは幣原の支那に対する同情と寛容の精神が日本軍の不満や国民感情を逆なでした、などの批判がなされます。藤原雅彦氏も、「国民革命軍が日米英の居留民を襲い虐殺を行った。英米は艦砲射撃で反撃したが、日本軍だけは日支友好を唱える幣原外交の方針により日本人居留民を見捨て静観した。」(「管見盲語」)などと述べています。

 しかし、国家統一期にあってナショナリズムが急進化しつつある支那との外交が慎重を要したことは自明であって、これに対して、北伐(=支那統一戦争)を妨害したと受け取られかねないような山東出兵を三度に渡って行い、さらに北伐軍を攻撃して数千名を死傷させ、あまつさえ、「第一次満州事変」を狙った張作霖爆殺事件を誘発するような外交政策が正当化できるはずもありません。

 幣原は、こうした政友会の政策について、「これは畢竟、内政上の都合によって外交を左右し、党利党略のため外交を軽視した結果であると信ずる」と言っています。というのも、丁度この頃は、日本における二大政党制(民政党と政友会)が成立しつつあった時期にあって、この二大政党間の競争が、こうした「深謀遠慮を欠いた非常識な外交政策」を採らせることになったからです。この事実を、二大政党制が理想とされる今日、十分認識しておく必要があります。

 次いで、政治主導の失敗という点で最大の問題となるのが、昭和5年の統帥権干犯事件の時の政友会の行動でしょう。これも、一般的には軍令部長加藤寛治等が引き起こしたものとされていますが、必ずしもそうではない。それは、張作霖爆殺事件の真相もみ消し、第二次若槻内閣で幣原外相の腹心として対支外交関係の修復にあたっていた佐分利公使怪死事件(s4.11.29)とも連動した、幣原外交妨害工作の一環ではなかったかと私は推測しています。

 この統帥権干犯事件とは、ロンドン軍縮会議における海軍軍縮交渉において、政府が補助艦総括的対米7割は満たしたが、大型巡洋艦6割(7割要求)、潜水艦対等15,000t減(現有要求)で妥協したことに対して、海軍が「政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期しえない」として反対した事件です。しかし、最終的には、海軍側も政府が現有艦船の勢力向上、航空兵力の整備他の補充策を講じることで、このロンドン軍縮会議における日米妥協案を承認していました。

 ところが、このすでに決着したはずの「兵力量不足」の問題を、「統帥権干犯問題」として政治問題化したのが、これまた政友会の森恪でした。

 森格の伝記には「森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行った」と記されています。

 また、「岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』」と答えています。(『太平洋戦争への道1』p110)

 つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家だったのです。では、なぜ森恪は、「責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如き」統帥権干犯問題を引き起こしたのでしょうか。言うまでもなく森は、第二次南京事件以来、軍縮に不満を持つ軍人らを政治的に巻き込み、その実力で以て自らの大陸政策を推進しようとしており、この時も、「兵力問題」を「統帥権問題」として政治問題化することで、民政党からの政権奪還を図ろうとしたのです。

 まさに、政党政治家としては自殺行為であったわけですが、もし他の政治家が、こうした森恪の政治手法に与せず、統帥権(作戦用兵だけでなく編成権も含む)を政府の統制に服さない独立した権限とみなすような解釈を許さなかったならば、あるいは、満州事変という張作霖爆殺事件の「やり直し」のような謀略的軍事行動が引き起こされることもなかったのではなかと思います。この事件の首謀者である石原完爾は、この統帥権を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と形容していました。

 ところが、それまで政党政治確立のために軍閥と戦ってきたはずの犬養毅や鳩山一郎までが、この森格に引きずられて、政府の統帥権干犯を議会で攻撃したのですから、話しになりません。このため、時の総理浜口雄幸は右翼青年に狙撃されて死亡。これ以降、軍の統帥権を盾にとった軍事行動に政府は全くタッチできなくなり、日本外交は政府と軍の二重外交に陥って、国際社会における日本の信用は地に落ちました。

 さらに、こうした政党政治家による党利党略的な行動が日本の進路を誤らしめたもう一つの決定的な事件が、昭和10年の「天皇機関説排撃事件」でした。

 この事件は、昭和9年に、狂信的右翼思想家蓑田胸喜らが美濃部達吉の著書『憲法撮要』を国体破壊にあたるとして不敬罪で告発したことに端を発しています。しかし、当時の学界や官界では美濃部の学説が定説とされていて、これは不起訴となりました。そこで蓑田は貴族院の菊池武夫に美濃部の天皇機関説を攻撃させ、これを政治問題化しようとしました。その結果、国会における論戦では美濃部は菊池を圧倒しました。

 ところが、この時の美濃部の弁明について、菊池も「それならなにも問題にならぬ」と納得したにも拘わらず、政治的には「機関説」という言葉が天皇の「神聖性」を犯すとして忌避されるようになり、なんと、貴族院と衆議院で機関説排撃「国体明徴」決議案が可決され(s10.3)、続いて、政府による二度にわたる「国体明徴」声明がなされ、翌年5月には、文部省より『国体の本義』が刊行されるに至りました。

 この天皇機関説排撃事件によって、それまで三十年来唱導され、学界、官界、政界に定着していた明治憲法下における天皇の国家法人説に基づく機関説的理解が、理論上の問題としてではなく、あくまで心情の問題として否定されるに至ったのです。こうして、「天皇親政」さらには「国体明徴」という意味不明な言葉に人々は思考停止させられ、憲法に規定する複数政党制に基づく議会政治も否定されるに至りました。

 この結果、それまでの日本の思想・政治・教育・宗教などのあり方が、皇国史観に基づく尊皇思想に基づいて根本的に見直されることになりました。その後、肇国の精神、万邦無比の国体、祭政一致、現人神などといった独善的・狂信的な国体観念が国内世論を圧するようになりました。こうして、国民の思想・信条の自由は圧殺され、、泥沼の日中戦争、そして日米戦争へと突入していったのです。

 このように、昭和の政治家が実践した政治主導や二大政党制は、実に惨憺たる結果を生んだのです。では、その原因は何か。それは政治家が、一、虚偽の宣伝をなし国民の客観的な事実認識を誤らしめたこと。二、党利党略に終始し世論誘導・迎合的な政策を採ったこと。三、議会において実のある政策論議を行わなかったこと、四、法に基づく厳格な制度運用や処罰をしなかったこと、等によります。また、より根本的には、国民の思想・信条・言論・集会の自由を守ることができなかったことです。

 そこで、こうした歴史的教訓を今日の政治にあてはめてみると、果たして、この一、二、三、四の問題点は十分克服されているでしょうか。特に民主党による「政治主導」については、このいずれも落第と言わざるを得ず、党内からも、「政権交代ではなく、政権泥棒だ」との批判が出る始末です。最後の、国民の思想・信条・言論・集会の自由については守られていると思いますが、橋下氏から「決定できない民主主義」「責任をとらない民主主義」との批判を受けています。

 では、この橋下氏の大阪維新の会についてはどうでしょうか。願わくば、彼等が、この一、二、三、四の歴史的教訓をクリアするだけの見識を備えた政治グループであって欲しいと思います。「思想・信条・言論の自由」の保障は言うまでもありませんが、1月28日の「朝ナマ」での討論を聞いて感じたことは、橋下氏の一番の問題点は、「法は個人の外面的行為を規制するのみ」ということについて、どれだけ自覚的であるか、ということです。

 例えば、「日の丸・君が代」の起立斉唱を条例で規定しても、イヤな人は「口パク」でもかまわないのです。日本の歴史や文化についての正しい理解や国を愛する心は、国民一人一人の主体的意志によるほかないのであって、それを強制しても意味がありません。また、教育行政制度改革について言えば、政策立案には先行研究の成果を十分踏まえる必要があります。ご意見を拝聴する限り、いささか思いつきのレベルを脱していないように思われました。

 以上、今日当たり前のように思われている「政治主導」や「二大政党制」が歴史的にどのような結果を生んだか。政治家に見識がなければ、それがいかに悲惨な結果をもたらすか、について説明しました。政治家の皆さんにはこうした歴史的教訓を十分踏まえていただきたいと思います。

2012年1月22日 (日)

橋下vs山口論争について――現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心こそ解くべき

アゴラ言論プラットフォーム掲載論文

 標記の論争の観戦コメントで盛り上がっているこの機会に、日本の教育委員会制度の今後のあり方について、具体的な改善策を提起をしておきたいと思います。私は、先日アゴラに「橋下徹大阪市長への提言――府教育基本条例案は早急に撤回し教育委員会制度の改革を目指すべき1,2」と題する記事を書きました。

 簡単におさらいしておくと、日本における教育委員会制度は、アメリカがその占領政策の一環として導入したものであるということ。当時アメリカは、戦前の日本の軍国主義は日本の中央集権的な教育制度によりもたらされた、と考えていましたので、日本の学校教育を内務省の中央集権的統制から解き放ち、その管理を、地域住民の代表により構成される合議制の教育委員会の下に置こうとしました。

 その時モデルとなったものが、アメリカの教育委員会制度でした。実はアメリカの教育委員会は開拓時代の名残で、行政組織もない奥地に入植した人々が、子供たちを教育するために自治的に組織したものでした。そのため、教育委員会は行政区とは別の組織になり、それに独自の財政措置がなされるようになりました。といっても、都市化につれて学区と行政区画が一致するようになり、次第に教育行財政も一般行財政に従属するようになったといいます。

 つまり、日本の教育委員会制度は、こうしたアメリカ軍による占領統治の思惑と、その時導入された教育委員会制度がアメリカのそれをモデルとしたことで生まれたものなのです。そのため、教育行政の地方分権と教育行財政の一般行財政からの独立の二つの理念が、あたかも民主的な教育行政改革理念であるかのように見なされたのです。しかし、教育行政はともかく教育財政を一般行政から分離することは日本では無理で、そのため前回紹介したように、昭和31年の教育委員会制度の抜本改革=地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」と称す)の制定となったのです。

 本当なら、この時すでに日本は独立を回復していたのですから、この占領時代の遺制である教育委員会制度は廃止して、日本の教育文化の伝統によりマッチした学校管理制度を確立すべきだったのです。ところが、この頃は、丁度、東西冷戦下のイデオロギー対立で国論が二分しており、とりわけ教育界は左翼思想で固まっていましたから、政府は、この教育委員会制度を逆利用して、日教組勢力の押さえ込もうとしたのです。

 それ以降、ソビエト帝国が崩壊し東西のイデオロギー対立がなくなるまで、地方における教育委員会の役割は、ほとんど日教組対策に終始した観がありました。つまり、この間の教育行政とは日教組対策に他ならなかったのです。この間、教育委員会のやったことは、新規採用教職員を日教組に入らせないこと。校長・教頭への昇任の機会をとらえて組合員を日教組から離脱させること・・・。その有様は、あたかもキリシタン弾圧時代の「踏み絵」を思わせるものがありました。

 一方、日教組の方は、そうした教育委員会――小中学校は市町村教育委員会、高校等は県教育委員会――に対して団体交渉で対抗しました。ただ、教育委員会といっても市町村教育委員会の事務局は、役場の職員で構成されているため教育のことはほとんど分からず、次第に職員団体との交渉を忌避するようになりました。その結果、教育行政権は教職員の任命権を持つ都道府県教育委員会に集中するようになり、そこが、組合(県単位に組織される)と教育委員会とのせめぎ合いのポイントになりました。

 この間、教条的な組織運営を行ったことで、当局による切り崩し工作に抗し得なかった県教組は次第に組織率を減らし地方教育行政に対する影響力をなくしていきました。一方、臨機応変に当局との政治的取引を行うことで組織率を維持し、教職員人事に対しても隠然たる影響力を保持し得た県教組は、教育委員会事務局をも抱き込み、地方教育行政運営全般に対する影響力を行使するようになりました(このことは左右を問わず言える)。現在民主党の幹事長を務める輿石氏の出身母体である山梨県教組はその典型ですね。

 話を元に戻しますが、上述したように、いわゆる55年体制が終わって東西のイデオロギー対立がなくなると、文科省vs日教組という対立図式も次第に解消に向かいました。その結果、その後の教育改革論議の中でようやく教育委員会の形骸化の問題が取り上げられるようになったのです。ところが、丁度この頃、教育界にとって新たな問題として浮上したのが、臨教審による「教育の自由化論」の提起と、大蔵省による教育費国庫負担削減あるいはその適用除外の問題でした。

 このため、教育界は「教育の自由化論」を公教育の解体と見てこれに反対すると共に、教育費国庫負担削減及びその適用除外に対しても、一致して反対するようになりました。こうして、従来、対立抗争を繰り返してきた文部省・教育委員会と日教組、その他の教職員団体が一致して共闘関係を構築するようになったのです。このため、教育委員会制度はその形骸化が明らかであるにもかかわらず、これを教育界の自律性を守る防波堤として維持しようとする心理が、関係団体に働くようになったのです。

 こうした情況の中で、「教育委員会制度の形骸化」をめぐって行われることになった論争が「橋下vs山口」論争でした。ではまず、この論争の前段にある橋下氏の大阪都構想がどのような大阪の現状認識の中から生まれてきたのかを見てみたいと思います。これは、大阪に居住する大西宏氏の次のような意見で総括できるのではないかと思います。(参照「反橋下市長の人たちがなぜ共感されず非力なのか」)

 「大阪市と大阪府は、いやもっと京都や阪神間を含めると兵庫県まで、実際の経済や社会は、広域化しているのが現実です。たとえば、モノづくりの拠点は東大阪市や守口市、門真市に集積し、コンビナートなどは堺市に集積しています。都市機能として、大学や研究機関の存在も欠かせませんが、実際には大阪市内はそれらが薄く、大阪府下、また県外に広がっています。IT企業は、大阪市内である新大阪あたりから吹田市の江坂地域にシームレスに集積しています。産業政策にしても、実際にはすくなくとも大阪府の広域でやらないと実効性が薄いのですが、現実は大阪市は大阪市、大阪府は大阪府、近郊都市は近郊都市でやることがバラバラで連携がほとんどありません。大阪市と大阪府の境界など、実際の生活にしても、ビジネスにしても意味が無いのですが、行政だけが分かれているのです。なぜ府と市で一体とする行政組織に変えてはいけないのかに対する心に響く反論がありません。結局は他人ごとなのです。」

 私は、教育委員会制度について私見を申し述べますが、先ほど申しましたように、教育委員会制度が形骸化していることは、すでに、教育関係者の間で自明のことなのです。なのになぜこの組織を維持しようとするのか。なぜ、もともと対立していたはずの文部省や日教組、その他の教職員団体も一致してこれを守ろうとしているのか。

 それは、本当に日本の教育の事を思ってやっているのか。あるいは、それは彼等が自らの既得権を守るために、自らの思想信条を度外視して、連携したと言うだけの話ではないのか。こうした疑問が、橋下氏から提起されたのも、けだし当然と言わなければなりません。この場合、橋下氏に特別反日教組的イデオロギーがあった、というわけではなく、池田氏も指摘する通り、むしろ、この形骸化した組織を既得権擁護のために温存しようとする体質そのものを、氏は攻撃対象としているのです。(「日の丸・君が代」論争など私はイデオロギー論争に値しないと思っています)

 そこで、橋下VS山口論争についてですが、山口教授は不用意なことにこの形骸化した教育委員会制を守ろうとしました。いや、守ること自体は悪くはないのですが、氏は、先に紹介したような教育委員会の形骸化の意味を十分理解しておらず、従って、それを改善するための具体的方策を何も持っていなかったらしい?ということです。これでは、その形骸化を知事職を通して知り、それを長の権限を強化することで改善しようとしている橋下氏に対抗できるはずがありません。

 もし、この時、山口氏が、形骸化した教育委員会組織の機能を回復させるための具体的プランを持っていたなら、それを基に、橋下氏の「教育基本条例案」を批判することも出来たでしょう。この点、橋下氏は、争点が「教育基本条例案」に移ることをうまく避け、それを教育委員会制の形骸化の問題に収斂させることで、山口氏を現状維持派に押し込めることに成功しました。その結果、「橋本市長が山口二郎教授をフルボッコ」といったようなワンサイドゲームの印象を視聴者に与えたのです。

 そこで、橋下氏が、この形骸化した教育委員会制度を機能させるための具体的方策として提出した「大阪府教育基本条例案」についてですが、はたしてこの案はこの問題を解決するための方策として妥当なものでしょうか。もちろん、この条例案は、あくまで現行教育委員会制度下における地方教育行政制度改革案であるわけですが、その狙いは、大阪府知事を大阪府の教育行政の最終の責任者とすると共に、府教育委員会を実質的に諮問機関化することを狙ったものです。

 このことは、基本条例第6条と7条に次のように規定されています。

第6条 知事は、府教育委員を任命する権限のみならず、地方教育行政法の定める範囲において、府内の学校における教育環境を整備する一般的権限を有する。

2 知事は、府教育委員会との協議を経て、高等学校教育において府立高等学校及び府立特別支援学校が実現すべき目標を設定する。

第7条  府教育委員会は、前条第2項において知事が設定した目標を実現するため、具体的な教育内容を盛り込んだ指針を作成し、校長に提示する。

2 府教育委員会は、常に情報公開に努めるものとし、府内の小中学校における学力調査テストの結果について、市町村別及び学校別の結果をホームページ等で公開するとともに、府独自の学力テストを実施し、市町村別及び学校別の結果をホームページ等で公開しなければならない。」

 実は、現行の教育委員会法(以下「地教行法」と称する)の下では、「地教行法」第24条の規定により、知事の学校教育に関する権限は、都道府県教委の予算に関する事務の執行の他、府立学校の体育を除くスポーツ及び文化財保護を除く文化に関する事務に限定されています。従って、第6条、7条の規定は「地教行法」違反となります。従って、ここで述べられているようなことを可能にするためには、現在の教育委員会制度を規定する「地教行法」の抜本的改正が必要となります。

 また、橋下氏は、その大阪都構想において「政令指定都市である大阪市・堺市と大阪市周辺の市を廃止して特別区」とすることを提案しています。その特別区は「東京都をモデルとし、東京23区のように「大阪都20区」を設置。東京都23区を例にすれば20区内の固定資産税・法人税などの収入を都の財源とし、20区内の水道・消防・公営交通などの大規模な事業を都が行い、住民サービスやその他の事業は20区の独自性に任せる。」(wiki「大阪都構想」)としています。

 では、この構想において、現在大阪市教育委員会の管理下にある市立小中学校の経営管理はどうなるのでしょうか。これについては、大阪府教育基本条例案第5条3以下の次の規定によって、そのおおよその見当をつけることが出来ます。

3 府内における小中学校教育は、市町村が次の各号に掲げる事項について主体的な役割を担い、府は補完的役割を担うべきものとする。
 一 小中学校の設置、管理及び廃止
 二 小中学校の教員の人事
 三 小中学校の校長、副校長、教員及び職員の研修
 四 小中学校の組織編制、運営

4 前項の理念を達成するため、府は、地方教育行政法第55条第1項に基づき、府内における市(但し、指定都市を除く。)町村立小中学校の府費負担教職員に対する府教育委員会の人事権その他の権限を、自治体としての規模や能力にも配慮しながら、できる限り当該市町村に移譲するよう努めなければならない。

5 府及び府教育委員会は、府内の市町村及び市町村教育委員会に対し、地方教育行政法第55条の2第2項に基づき、小中学校教育の体制が本条例の趣旨を反映したものとなるよう、必要な助言、情報の提供その他の援助を行う。

6 府及び府教育委員会が前項の助言、情報の提供その他の援助をするに当たっては、当該市町村及び市町村教育委員会の自主性を尊重しなければならない。

 これを見ると、大阪市や堺市に新たに設置されることとなる区にも教育委員会が置かれることになるようです。そこには教員の人事権(=任命権)や研修権が、府や政令市から移管されることになります。といっても、大阪都はこれらの区及び教育委員会に対して、その自主性を尊重しつつも、「小中学校教育の体制が本条例の趣旨を反映したものとなるよう、必要な助言、情報の提供その他の援助を行う」権限を持つことになります。

 なお、この区における区長と区教育委員会の関係ですが、おそらくこれは、本条第1項の規定「府における教育行政は、教育委員会の独立性という名目のもと、政治が教育行政から過度に遠ざけられることのないよう、選挙を通じて民意を代表する議会及び知事と、府教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校の教職員を含む)が、地方教育行政法第25条に基づき、適切に役割分担を果たさなければならない」という規定に準ずる扱いになると思います。

 しかし、「地方行法」第25条は、教委及び首長が行政事務を管理・執行するにあたっては法令に準拠して行わなければならないことを規定するだけであって、知事が教育行政に介入できる根拠となるものではありません。従って、この第5条に述べられていることも、第6,7条の場合と同じく、現行教育委員会制度を抜本的に改正しない限り実現不可能です。

 といっても、これら各条に述べられた地方教育行制度の改革構想が無意味かというと、そうは言えず、先に紹介したような日本の教育委員会制度の形骸化の歴史を踏まえる限り、一定の説得力を持つ提案であることは間違いありません。というのは、まず、現行制度下の教育委員会は、地教行法第23条に規定する19項目に及ぶ教育事務の管理・執行機関としては全く機能しておらず、実質的には、教育長の諮問機関的な役割しか果たしていないからです。

 また、現行法では、教育長はこの教育委員の中から選出されることになっていて(地教行法第16条2)、かつ、この教育委員は長が任命することになっている。さらに、教育委員会の予算に関する権限は教育委員会ではなく長が持っているのですから、結局、教育委員会という名の合議制(3人から6人)の教育事務の管理・執行機関は、現状を追認する限り、長の諮問機関として位置づけた方がよほどすっきりする、ということになります。

 にもかかわらず、あえて、この合議制の教育委員会を長に対する独立の行政委員会と位置づけることは、長に対する一種の「不信」の表明となるのであって、橋下知事のように、行政組織の運営目標を明確に設定し、その下での無駄のない合理的な組織運営を行おうとする者にとっては、到底納得できることではないでしょう。まして、このように長に対する「不信」が表明される一方、教育委員会における実際の意志決定が、制度外の力によって左右される現実があるとすれば、この制度は、これらの組織のダミーではないかと言われても仕方ありません。

 私は、以上のように考えて、橋下氏の大阪府教育基本条例案における地方教育行政事務の改善策については、一定の評価をしています。ただし、それはあくまで、今後の教育委員会制度改革を展望する中での一改善案としてであって、現行の教育委員会制度下における一地方自治体が制定する「教育基本条例案」としては評価できません。その組織規定は現行法に違反するだけでなく、その内容は半ば「教員等」の懲戒や分限に関する運用規定であって、教育基本条例と称するには余りに品位に欠けるからです。

 そんなわけで、私は、前回の記事で、この大阪府教育条例案は早急に撤回し、それを形骸化した現行教育委員会制度を機能させるための問題提起とすることを提案しました。なお、この条例案に含まれている「教員等」に対する懲戒や分限処分規定の厳格化が何を意味するかと言えば、端的に言って、それは教職の専門性やモラルに対する市民の不信の表明です。従って、こうした事態を抜本的に改善するためには、教員免許を国家資格試験にして、教員資格に対する国民の信頼を高める必要があります。

 この場合、教員免許試験の受験資格については、学歴や年齢条件を撤廃する必要があります。一定の職業経験の後に教師を目指してもいいわけです。そうすることによって、採用段階の過当競争もなくなりますし、それに伴う情実人事も防げます。また、全国何処の学校でも公立・私立を問わず教員としてはたらくことが可能になります。懲戒・分限処分の対象になることももちろんあるでしょうが、逆にFA権を行使することも出来るでしょう。つまり、教師の専門職性を高めることで、現在の教職の「身分制」を打破することが出来るのです。

 そこで最後に、今後の教育委員会制度改革の具体的な方策について、私見を申し述べて終わりにしたいと思います。

 先に述べた通り、大阪府教育基本条例案に示された教育委員会制度改革構想も、その改革方策の一つだと思います。それはなにより、現行教育委員会制度下において教育委員会が実質的に果たしている諮問機関としての役割を一層明確にするものであって、違うのは、それを教育長の諮問機関ではなく、教育長による学校経営を評価しそれを長に報告すると共に、市民に対してその結果を公表する役割を担うということです。

 といっても、これを橋下氏の大阪都構想の下において考える場合、都と区の関係は、他の県における県と市町村との関係とは異なり、区の行う学校経営に対する都の関与はより強まることになります。他の県においては、もし、現行法下の県費負担教職員制度が廃止されれば、教職員の任命権や給与負担が市町村に一本化されることになりますが、未だ小規模市町村も多いことから、地域の学校経営管理機関の設置単位を、大阪都構想における区程度の規模に平準化することが考えられます。

 この場合、教育委員会の設置単位を区相当規模にするため広域連合組織にするか、あるいは教職員の身分を県に移管して、人口規模30万程度の地域に学校経営管理機関を設置するという方法も考えられます。もちろん、この学校経営管理機関は、大阪都構想における大阪の区と同様に自立した学校経営権を持つことになります。また、この場合、県も、大阪都構想における都と同程度の地区学校経営に対する権限を持つことになります。それが出来ない場合は、基礎自治体の広域化を推進して任命権を委譲し学校経営の責任体制の明確化を図るべきです。

 しかしながら、このような自治体の長の教育行政及び学校経営に関する権限を明確化する案は、教育の政治的中立性を犯すとの批判を招くことになるかも知れません。しかし、長は、学校経営を直接行うわけではなく、あくまで教育長という学校経営の専門家に任せるのです。そして、その学校経営の評価を市民の代表によって構成される合議制の教育委員会が行いそれを長に報告する。長はその報告に基づいて教育長に必要な指示を行うわけで、それで一定の学校経営上の自律性は保たれるのではないかと思います。この場合、教育委員の任命権を議会とすることも考えられます。

 もちろん、その場合の長の判断が、不当な政治的支配に相当するのであれば、教育基本法第16条に違反することになりますし、次の首長選挙で落選させることも可能です。この点、欧州各国においては、教育行政を一般行政から切り離すという例はほとんどないとのことですが・・・。従って、この点に関して過剰な警戒心を持つ必要はないのではないでしょうか。むしろ、その教育行政の政治的中立という建前の裏で、インフォーマルな権力行使が、市民の知らない所でなされるよりよほど良いと思います。

 あるいは、それでもなお教育行政を一般行政から分離する必要があると言うなら、考えられる方策としては、地域における学校経営管理機関を国立大学と同じように法人化することも考えられます。この場合、教育費は全て国庫より支出することとして、これをクーポンで児童生徒の保護者に給付し、保護者は行きたい学校にそれを提出する。いわゆる学校の自由化論に基づくバウチャー制度の導入です。これは、学校経営を市場の選択に委ねるものですが、「教育の機会均等」を確保できるかどうか・・・。

 いずれにしても、懸案の現行教育委員会制度の形骸化という問題を解決し、真に責任ある教育行政及び学校経営体制を確立する必要があると思います。こうした状況の中で提起されたものが橋下氏の大阪都構想、その下での自治体再編と教育委員会制度の改革構想です。確かに大阪府教育基本条例案は、現行法を無視するものであって品位を欠くものであると言わざるを得ませんが、そこに盛られた教育委員会改革構想は、一定の説得力を持つものであることを率直に認めるべきだと思います。

 最後に、本稿の標題「現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心こそ解くべき」について説明しておきます。以上紹介した教育の政治に対する不信は、もとをただせば、戦前のアカデミズムと共産主義を恐れた政治との対立に起因しているのです。それだけならまだ良かったのですが、蓑田胸喜等狂信的現人神思想家と政治家が結託して天皇機関説排撃事件を起こし、これに皇道派軍人が加担したことで国体明徴運動に発展しました。ここから、教育と政治の不幸な関係がはじまったのです。

 以後、日本の教育は次第にいわゆる「軍国主義教育」一色になりますが、日本の教育がこのような国粋主義的排外主義に陥るのは、昭和13年以降のことで(参照「山本七平の天皇制理解について5」)、それ以前の日本の教育が全てそうであったというわけではないのです。天皇機関説にしても昭和10年以前は公認の学説でしたし、日本の歴史観にしても、右翼イデオローグの二大巨頭とされた北一輝や大川周明は、尊皇思想からは全く自由に独自の史観を展開していました。大川周明などはむしろその被害者で、彼の著書『日本二千六百年史』は昭和15年に書き換えを余儀なくされています。

 おそらく、こうした記憶が、終戦直後吉田第一次内閣で文部大臣を務めた田中耕太郎の「大学区構想」(全国を9ブロックに分け、その中心を欠く帝国大学としてその下に高等学校、中学校、小学校をピラミッド状に置き、各帝大学長をその学区庁の長官とする案。内務省の反対で消滅)にも反映していたのではないでしょうか。教育委員会法にいう「不当な支配」もこの不信に根ざしていることは間違いありません。しかし、はっきり言って、それは日本の政治家がだらしなく党利党略にかまけ、思想・信条・言論の自由を守り切れなかったところに原因があるのです。

 もし、昭和5年の統帥権干犯事件――これは時の政友会幹事長森恪等が海軍をたきつけて政治問題化したもの――や、天皇機関説排撃事件の処理において、政治家がこれを党利党略に利用するようなことをしなかったならば、これらの事件は一部狂信家の策動に止まり、また軍につけ入られることもなかったのです。民主党政権において「政治主導」が叫ばれ、その結果、その政策がいかに”でたらめ”であったかを知って見れば、戦前の日本人が政治家を信用せず、「純粋な」軍人を信用した気持ちも分かるような気もしますが・・・。

 つまり、こうした日本人の歴史的な政治不信が、教育を政治から分離しなければ危険だという”思い込み”につながったのです。戦後の日教組運動も、同様の思いから出発したはずです。しかし、残念ながら逆の面からその不信を拡大してしまった。”教え子を再び戦場に送るな”と言う。しかし、それは「不義」なる戦場に「教え子」を送った戦前の教師の「悔恨のモノローグ」であったはず。それを戦後生まれの教師が平和教育のスローガンとして叫ぶ。それは兵役を有する国の教師に通じるか。あるいは、日本に対する不信の表明か?

 できることなら、こうした日本に対する不信は取り除きたい、と私は思います。。そのためには、政治は何としても思想・信条・言論の自由を守り抜かなければならないし、政治家には明快な言論をもって党利党略を超えた民主政治を実現してもらいたい。その点、橋下氏が言論で勝負していることは、まあ、いささか無礼な言辞が目立ちますが、民主政治は革命の制度化であって言論による権力闘争なのですから、それは八百長でないことの証明でもあるわけで、平和な社会の政治には、そうした劇場的効果もあってもいいのではないかと思います。といっても政治家が平静を失うようでは困りますが・・・。

 そういうわけで、「現行教育委員会制度の裏にある日本に対する警戒心」について注意を喚起してみたわけです。この機会に、教育委員会制度改革に関する大胆かつ率直な意見交換がなされ、教育と政治の関係が再考され、よりよい教育行財政制度、責任ある学校経営システムができあがることを期待したいと思います。

2012年1月15日 (日)

最近のツイート――「かんぽの宿」、菅・枝野氏のうそ、原発問題、橋下大阪市長への提言、小沢裁判ほか

*部分は、私の追加コメントです。ツイッターも使い方によっては便利だなーと思いました。

 小沢裁判を見ていて思ったこと。政治家の言行録をネット上にアップする必要があるということ。裁判では証拠がなければ何とでも言えるが、政治家はそういうわけにはいかない。その点、産経の阿比留氏はいい仕事をしていますね。http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2566636/
1月13日

*ヒトラーの大衆操縦術「大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切り型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読み取ってくれる。」にはまらぬよう、その言動を時系列的に記録しその論理の矛盾を突くべきです。

 かっての日本軍の体質を継承していたのは革新陣営だった。ではその日本軍の体質とは。http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html
1月12日

*アゴラ研究所の池田信夫氏より「一読推奨」の評価をいただいたもの。一週間で2万件近くのアクセスがありびっくりしました。

 橋下徹大阪市長への提言――府教育基本条例案は早急に撤回し教育委員会制度の改革を目指すべき(2) http://agora-web.jp/archives/1421488.html 説得力有り、良記事。橋下さんがこの提言を一読する事を期待。
1月11日

*1月14日の橋下氏のツイートを見ると、氏はその教育改革戦略を完全に教育委員会制度改革にシフトしたようです。

 日本の言論空間を支配する「空気」について【その2】~日本人の親切とは~ http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-672.html
1月11日

*私と共に山本七平の紹介に努めている「一知半解」さんのブログです。過去ログも参考にして下さい。大変分かりやすい。

 @Semagumo 教員免許を国家試験にして国民の教師に対する信頼性を高めることが先。その上で学校経営機能をどう高めるか、どういう経営システムを採るべきかを議論すべき。橋下氏は知事の教育行政権限の強化を提案しているが、その他の主張は民営化。ここにこの議論の混乱がある。
1月11日

*私がアゴラに投稿した記事「橋下市長への提言」へのツイッターコメント「私は、教育も民営化すべきだと思うんだが・・・」に対する私の返信。

 @JBpress 「この原発事故の根底にあるものと、第2次世界大戦での日本の失敗との類似性」が指摘されている。最大の問題は「想定外を想定」できないこと、つまり、絶対安全なんかないのに、絶対安全と言わないと人々が納得しないので、絶対安全と言っている内自分もそれを信じた、ということ。
1月11日

*JBプレスの記事に対する私のコメント。「なぜあんな無謀な戦争をしたのか」という疑問に対比して「なぜあんな初歩的な安全策をとらなかったか」と問う欧米専門家の疑問。「原発事故の教訓: 福島のブラックボックス-話にならないほど初歩的な失態も」 《The Economist》- http://goo.gl/qyZLH

 @YoichiTakahashi お説に対してそんな”うまい話はない”という意見が政府、日銀で大勢を占めているのだと思いますが、この信じられない認識ギャップを経済学という学問は埋められないのですか。私にはこれが信じられません。
1月11日

*高橋洋一氏の”お札を刷れば良い”という金融緩和論と、日銀・大蔵省のインフレ懸念論の理論的ギャップがどうして経済学者の間で埋まらないのか、という私の疑問。今も分かりましぇん。

 多様な生き方と多数決は別物。多様な生き方とは単に流行に流されないということ。では多数決とは何か、なぜ人は多数決に従うのか。かって人はそこに”神の意志が現れる”と信じた。ただし、それは政治的意志決定をする場合のこと。個人的意志決定は神?の言に従う。その時始めて後者が優先される。
1月11日

*人気ブロガーchikirinさん(私に似てるが別人物)のブログ記事「多様な生き方を尊重する社会へ」http://agora-web.jp/archives/1417139.htmlに対する私のツイート。なんか基本的な所で分かっておられないのでは?

 @miyachi_hisa 教育委員はその二分の一以上のものが同一政党に所属してはならないとされ任期は4年です。心身の故障または職務上の義務違反、委員たるに適しない非行があった場合の他はその意に反して罷免されないことになっています。大阪は本人の同意を得て任期をずらしたのか?
1月10日

*大阪市教育委員会の教育委員の任期は一年ずつずらしているそうで、それに対する私のコメント。

 @ikedanob また、とるべき具体的な対応策については可能か不可能かを徹底して論じる必要がある。その場合もその対応策をめぐる「事実論」を冷静に論じる事ができるかどうかが問題になる。つまり、「事実論」を「是非論」と切り離して冷静に論じられるかどうかがキーポイント。
1月8日

*微量放射能の人体に与える影響について、定説が確定しているわけではないが、現段階で分かっている限りの事実論を確認した上で、今後の実施可能な対応策を考える必要がある。その「現段階で分かっている限りの事実論」をアゴラ研究所が「2012年1月2日に研究機関グローバル・エネルギー・ポリシー・リサーチ(GEPR)」を創設紹介している。この問題の処理について非科学的な「空気」に支配されないためにも大切な仕事です。
http://agora-web.jp/archives/1419482.html

 @ikedanob 事実論には「わからない」レベルから「定説」レベルまで仮説のグレーゾーンがある。しかし、危険を伴うものには何らかの仮説を立てて対応策を考えざるを得ない。つまり、仮説がなければ対応策は論じられない。だから仮説が「わからない」人は、対応策も「わからない」というべき。
1月8日

*未だよく判らない事象に対処するためには「仮説」を立ててそれへの対処法を作成するしかするしかない。やってみて失敗するかも知れないが、そのリスクをとらなければ科学技術を発展させることはできない。完成した技術だけを輸入すれば良いという時代はすでに終わっているのです。

 @takenoma どのような編集になっているのですか。私は『日本の神話伝説』吉田敦彦+古川のり子著などを読んで始めてその面白さを理解しましたが、そうした解説を付することが必要な気がしますが。
1月8日

*明治天皇の曾孫にあたられる竹田恒泰という皇族の方(慶応大学講師)が主導して、古事記を日本のホテルに配布することにしたそうで、それについての私見を申し述べました。お返事には、ホテル配布分は現代語訳のみ、市販本は武田氏の解説付きということでした。買って読んでみたいと思います。

 @agora_japan 「・・・村」というのは電力業界に限らず既得権益に守られたところには何処にでも偏在します。その閉鎖空間を突破し共通の自由闊達な知的言論空間を形成すること。それこそが平成維新の開国と呼ぶにふさわしいと思います。
1月8日

*橋本市長が日本の統治機構の改革と言うことを言いますが、それは、組織(機能集団)のガバナンスを確立するということであり、そのためには仲間内のかばい合いより、いわゆるコンプライアンス(法令遵守基本規定)を優先するということだと思います。このことは、今特に公務員組織(電力会社もそれに近かった)に問われているのですね。

これからの日本人のための「おまじない」 ー アゴラ研究所の発足に寄せて http://agora-web.jp/archives/1419051.html
1月8日

*「今回、アゴラ研究所は、破綻した日本のエネルギー政策、科学よりも小市民的正義を重視し中世的衆愚政治社会への回帰を目指すマスメディア、そして自己保存のみを優先させ臆病と無策に陥った政治家たちにより生じた空白を埋めるべく発足された」というもの。http://agora-web.jp/archives/1419051.html#more

橋下徹氏は平成維新の主導者たり得るか。「大阪府教育基本条例」が孕む問題点について私見を申し上げます。http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e6e8.html
1月5日

*私のアゴラメンバーとしての最初の投稿記事です。

 新年を迎えて願うこと、皇太子徳仁親王妃雅子さまが健康を回復されること。
1月2日

*同級生の話によれば”お優しく目立つことが嫌いなご性格だった”(『文藝春秋』今月号)といいます。元気で明るい姿を見たいですね。

 @310kakizawa 政治家と専門家の役割の違いを明確にする必要があるのでは。その上で板野氏のついた嘘の是非を論ずべきだと思います。知らんぷりは許されません。http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-20a5.html
12月30日

*福島第一の事故の後の政府の対応では枝野氏の落ち着いた対応が好評だったわけですが、まあパニックを防ぐ為だったのでしょうが、随分事実と異なった説明をしていたわけですね。それは専門家の責任なのか、政治家が責任を負うべき事なのか、いずれきっちり整理しておく必要があると思いました。

@ikedanob 残念ですがそんな印象ですね。

*河野太郎氏の原発に関する意見は、いわゆる核燃料サイクルが破綻している、というものですが、それは政治的判断か、それとも技術的判断か、その辺りがどうもはっきりしません。
12月30日

 @NomuraShuya 自民党から民主党への政権交代のきっかけとなった事件が鳩山邦夫がでっち上げ民主党が自民党攪乱に利用しマスコミが喧伝した「かんぽの宿」問題でした。こんな茶番で起きた政変ですからその結末も茶番になりそうです。http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/jijimondai/minsyutou.html#2009/9/18
12月28日

*「かんぽの宿」の問題と「JPエクスプレスの承継」問題(運送単価が極端に安い不採算顧客を全て承継するという現経営陣の著しく不合理な経営判断によって、年間1000億円ずつの巨額損失を出した問題)については、原発事故と同様に、議員立法で国会に調査委員会を設けて徹底的に調査して欲しい。

 @ishiitakaaki 菅前首相が「東電が全面撤退しようとするのをオレが止めた」と自己宣伝していた問題、いよいよ事実関係が明らかになるようですね。当時マスコミはこの問題を余り取り上げませんでしたが・・・。参照http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-93f3.html
12月28日

*菅首相が、政治家としても個人的人格においてもいかに不適格であったか、周囲の人たちはこれを見抜くことができなかったのでしょうか。私自身は、「菅首相の正体不明」http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/jijimondai/kan.htmlで疑問を呈しておきましたが・・・。

2012年1月10日 (火)

橋下徹大阪市長への提言――府教育基本条例案は早急に撤回し教育委員会制度の改革を目指すべき

アゴラ言論プラットフォーム掲載論文

 大阪府教育基本条例案を読んでみました。率直に言って、この条例制定の動機は政治的過ぎるし、また適法性にも欠ける(『大阪維新の会「教育基本条例」何が問題か』市川昭午著参照)ので、これは早急に撤回した方がいいと思いました。これにこだわっていると、民主党が「ばらまきマニフェスト」にこだわったために、政治改革の本筋を見失ったように、折角の「維新」が元の木阿弥になるおそれがあります。それよりも、諸悪の根源は教育委員会制度にあるのですから、これを、地方自治体が責任を持って学校経営できるものに変えるよう全力を尽くすべきです。そうしない限り、地方教育行政組織の機能不全は今後も続きます。

 実は、日本における教育委員会制度の機能不全という問題は今に始まったことではなく、それが立法趣旨通りに機能したことは、昭和23年に教育委員会法が制定されて以来一度もないのです。言うまでもなくこの制度は、アメリカが占領政策の一環として日本に持ち込んだもので、戦前の教育行政を内務行政から切り離し、アメリカ生まれの教育委員会制度を日本に移植しようとしたものでした。しかし、アメリカと日本の歴史は全く違いますから、教育委員会を日本全国の市町村(当時二万以上あった)に設置することには無理があり、そのため、その義務設置を昭和27年まで延期したのです。

 しかし、昭和27年になっても、その設置単位や権限をどうすべきか等の話がまとまらなかったので、さらにその義務設置を1年延期することになり、そのための法案が政府文部省より国会に提出されました。ところが、この法案は衆院文教委員会において、突如、与党自由党によって否決され、同年八月、国会において審議未了となり、その結果、教育委員会は全国の市町村に義務設置されることになったのです。

 もともとこの法案は、文部省が大蔵自治庁とも協議し、社会党や日教組もこれに同調していたものでしたので、この法案の不成立は「文部省にとってはまさに晴天の霹靂と称すべきもの」であり、同省は「この意想外の事実に遭遇して、『周章狼狽、なすところを知らない』有様であった」といいます。

 では、なぜ与党自由党は、こうした大方の意志に反してこれを強行したのでしょうか。それは、当時、「日教組は官僚制を廃し教育の自由と教師の自由を保障することを掲げて、(都道府県)教育委員選挙に積極的に取り組み、組織力を使って組合員や推薦者を多数当選させたため、保守勢力は市町村にまで教育委員会を設置して委員に地域の有力者を送りこみ、日教組の監視を図った」ためであるとされます。

 当時、文部省にあって、その衝に当たっていた相良惟一文部省総務課長は、次のように述懐しています。「いわずとしれた、それは日教組対策に外ならなかった。日教組の進出に、強い反感と恐怖を持っていた自由党が、日教組勢力の分断を策するために、地教委をいっせいに設け、任命権をそこに移し、日教組の監視役たらしめようという意図をもったのである。」(山本敏夫、伊藤和衛共編・『新しい教育委員会制度』所収「教育委員会制のためになげく」)

 こうして全国の市町村に教育委員会が義務設置されることになったのです。つまり、日本の教育委員会制度は、もともとはアメリカが占領政策の一環として持ち込んだものですが、その占領が終わった後に、全国の市町村にそれを義務設置したのは、時の政権党自由党だったのです。その目的は、市町村に教育委員会を設置し、そこに教職員の任命権を移すことで、地域の有力者の力で、日教組の勢力伸長を掣肘することにありました。

 しかし、こうして発足した教育委員会制度は「必要な諸要件の未整備という客観的に不利な条件のほかに、創置後年月の浅いこの制度の運営に、委員たちが十分習熟しないというやむを得ない事情もあって」、市町村教育委員会は、教員人事や財政活動など実際の運営面において、種々の混乱を引き起こすことになりました。このため、特に、行財政面で教育委員会と密接な関連を有する地方自治体側から地教委(=市町村教育委員会)廃止の激しい運動が湧き起こりました。

 しかし、政府はこれらの廃止論に対して、当初は日教組対策の思惑もあってその「育成策」を主張して譲りませんでした。ところが、地方財政の窮迫や教員人事の停滞等により批判的世論が高まったため、この根本的改正を企図するようになりました。その手はじめが「地財再建法」(s30.2.29公布)及び「地方自治法一部改正法」(s31.6.12公布)で、これにより、教育委員会の財政権が大きく制限されることになりました。もちろんこれは、地方自治体側の要求に沿ったものでした。

 そして、その総仕上げとして提出されたものが、現行の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」(s31.6.30)でした。その改正要点は第一に、教育委員の公選制を長の任命制とすること。第二に、教育委員会の予算送付権を廃し、支出命令権を長に移すこと。第三に、教職員の人事権を都道府県教委に移すこと。また、文部省から地教委までの一貫した中央教育行政の管理体制を確立すること等でした。これによって、地方自治体の不満を一部解消すると共に、日教組監視役としての教育委員会の機能維持を図ろうとしたのです。

 これが、わが国の教育委員会制度が歴史的に抱える基本的な問題構造です。橋下氏は大阪府知事就任以来、この教育委員会の学校経営機関としての機能不全を激しく攻撃する言動を繰り返しています。そして、この機能を回復するための方策として、大阪府教育基本条例案を提案しているわけです。しかし、この条例案は現行地方教育行政制度の下においては「自爆装置」となる可能性があります。そうなってしまっては、教育委員会制度の抜本改革という本丸に切り込むことは到底できません。

 橋下氏は、この教育委員会制度の学校経営機関としての機能不全という問題に直面し、それを解決しようとしているのですから、本筋の地方分権型統治機構改革と軌を一にして、実現可能な教育委員会制度改革案を策定して欲しいと思います。そのための材料はいくらでもある。例えば、民主党の2009年の政策集には、「②現行の教育委員会制度は抜本的に見直し、自治体の長が責任をもって教育行政を行います。③学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する学校理事会制度により、主体的・自律的な運営を行います。」とあります。

 また、「中央教育委員会の設置」と題して、

 「教育行政における国(中央教育委員会)の役割は、①学習指導要領など全国基準を設定し、教育の機会均等に責任を持つ。②教育に対する財政支出の基準を定め、国の予算の確保に責任を持つ。③教職員の確保や法整備など、教育行政の枠組みを決定する――などに限定し、その他の権限は、最終的に地方公共団体が行使できるものとします。」

 また、「保護者や地域住民等による『学校理事会』の設置」と題して、

 「地方公共団体が設置する学校においては、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する「学校理事会」が主な権限を持って運営します。学校現場に近い地域住民と保護者などが協力して学校運営を進めることによって、学校との信頼関係・絆を深め、いじめや不登校問題などにも迅速に対応できるようにしていきます。こうした学校との有機的連携・協力が生まれることは、地域コミュニティの再生・強化にもつながります。」と提言しています。

 私は、この学校理事会の下に教育長をおいて学校経営にあたらせるべきだと考えていますが、この民主党の考え方にはおおむね賛成です。しかし、これを大阪府教育基本条例案に規定する地方教育行政組織に見てみると、そもそも府教委の教育委員は現行法では知事が任命し議会の同意を受けているのに、その教育委員に対する不信が露骨に現れています。その結果、知事が学校教育目標を設定したり、任期途中で教育委員を罷免したり、議会を通じて知事が府教育委員会に是正要請をすることができるなどの規定が見られます。

 また、教職員の人事任用制度のあり方については、現行の県費負担教職員制度は、教職員の任命権・給与負担と服務監督権が都道府県と市町村に分離しているために、学校経営の責任主体が都道府県教委にあるのか市町村教委にあるのか分からなくなっていることが問題なのです。従って、これを是正するためには、教職員の任命権を市町村教委に一本化する必要がありますが、従来、小規模市町村の学校管理能力に限界があるため、現在は政令指定都市のみに任命権が委譲されているのです。

 また、教育委員会制度そのものも、行政委員会として長部局に対する相対的自律性が法制上保障されていますが、現実的には、予算編成権や予算執行権は長にあり、また、市町村教育委員会事務局の人事権は、指導主事等専門的教職員を除いて長が握っています。都道府県教育委員会の場合は、事務局の人事権を巡って教職と行政職の間で綱引きが行われますが、これは、都道府県教職員組合の組織状況によって大きく左右される。つまり教育委員会の自律性はこうした事情によっても左右されるのです。

 おそらく、大阪府の教職員団体の組織率は高いので、橋下氏にとってはそれが白河法皇における「山法師」のようなものに見えたのでしょう。ただ、その団体交渉の様子をYOUTUBEで見ると、職員団体の分が悪いようですが・・・。いずれにしても、これらの問題は、学校経営の管理主体がどこにあるのか。学校か、教育委員会か、あるいは自治体の長かが判らなくなっていることが原因なのです。従って、この問題さえ解決できれば、教職員の職務モラルは高いですから、自ずと専門的リーダーシップを発揮する方向で問題解決が可能になると思います。

*以下2パラグラフでは区市長としていましたが、大阪都構想では市は廃して区のみにするとなっていましたので、市を省きました。(1/11)

 では、以上述べたような問題点を持つ現行教育委員会制度をどのように改革すべきかということですが、これを橋下氏が構想している大阪都構想に即して言えば、まず、学校管理の最終責任は区長が負う。区長は区内の学校の経営にあたる教育長を任命する。また、その教育長による区学校経営の監督機関として保護者、地域住民、学校評議会委員、教育専門家等よりなる学校理事会(=教育委員会)を置く。区長は、この学校理事会の意見を踏まえて教育長の任命・解職を行う。また、学校には校長の他、当該校の学校経営を評価する学校評議会を置く。

 では、このように区長を区市の学校経営の最終的な責任主体とした場合、大阪都はどういう役割を果たすか、ということですが、都は都全体の広義教育行政機能(給料表の作成や勤務条件の基準の設定等)を担う事になると思います。それは、知事部局の部課で処理すればよく、合議制の教育委員会を置く必要はないと思います。また、採用試験は都が行うとしても、実際の採用・転任、昇任・昇格等は区教育長が行う。教科書採択は折角教科書検定制度があるのですから、できるだけ学校の裁量権を拡大すべきです。(下線部修正1/11)

 なお、国には、民主党の政策集にあるような「中央教育委員会」を設置する必要があります。ここでは、全国的な教育基準の設定や、教育研究・教職員研修、教育内容研究や指導技術の開発、各種教育資料の提供、教育の機会均等を保障するための教育予算の確保、教員免許の授与(教員免許を国家試験とする)、教職員定数標準の設定等の、国の教育行政の全体的枠組みを設定します。

 以上、大阪都構想に即して、あるべき地方教育行制度改革のあり方を述べてきましたが、このためには、現行教育委員会制度の抜本的改革がどうしても必要です。実は、このような教育委員会制度の改革の必要性については、過去、教育改革論議がなされるたびに繰り返し指摘されてきたのですが、その都度換骨奪胎されてしまいました。なぜか。その最大の理由は、この地方教育行政組織を巡る関係者の利害が、同床異夢で不思議に一致しているからです。

 というのは、教職員にとっては管理機関は弱体の方がいい。市町村長には予算権がある。市町村教委は人事的に長部局と一体であり、曲がりなりにも学校管理権がある。都道府県教委は知事部局に対する相対的自律性が保障されていて教職員閥が構成できる。教職員団体は組織率さえ高ければ、地公労組織を通じて教育委員会や知事部局に対するヘゲモニーを握れる。文科省は教育委員会を地方出先機関として地方教育行政に対する指導力を発揮できる、というわけです。だから、この制度が学校経営上の機能不全を起こしていても、それは関係者にとって深刻な問題とはならないのです。

 橋下氏が大阪府知事となってこれを問題としたのは、おそらく大阪府の小中学校の学力向上のため、学力テスト結果を公表しようとして、府市教育委員会に反対されたためではないかと思われます。これ加えて、府知事選で、職員団体が組織的に現職知事を支持し、公務員には禁止されている選挙活動を公然と行い、しかもこれが常態化しているということもあって、冒頭言及したような、拙速かつ感情的で適法性を欠く府教育基本条例の提案となったのではないかと思われます。

 だが、地方教育行政組織における学校経営組織の機能不全という問題は、教育委員会制度を抜本的に改革しない限り、決して解決できません。これを、府教育基本条例案に見るようなやり方――知事の教育管理権を強化したり、教職員の処分権を強化したりするようなやり方で解決できると考えることは、現行法に抵触するというだけでなく、民主政治下における権力行使の作法という点でも、余りに感情的かつ独善的であるとの批判を免れないと思います。

 といっても、大方の世評は、既得権にしがみつく現状維持勢力に対する、氏の切れの良い、長時間の応答にも耐える、明快かつ攻撃的言説に拍手喝采しているようです。確かに、決定できる民主主義、責任をとる民主主義を目指すことは正しい。また、強烈な権力意志を持つことは政治家としての必要条件です。また、氏の演説は人々の関心を的確に捉えてよどみがない。しかし、府教育基本条例案は、そうした評価を台なしにしてしまう程拙速かつ不用意なものです。

 この事実に橋下氏が一日も早く気付き、この条例案を撤回し、「克・伐・怨・欲」の悪しき感情を四絶することによって、真の、決定できる民主的リーダー、責任をとる民主的リーダーに成長されることを切に希望します。

2012年1月 4日 (水)

福田恆存が「滅び行く日本」で問うたこと――橋下徹氏は成功せる平成維新の騎手たり得るか?

*前エントリーへの健介さんのコメントに対する応答です。長文ですので本文掲載としました。

健介さんへ

 その後、福田恆存の書いたものをいくつか読んで見ました。以前より山本七平と同じ視点だと思っていましたが、福田はかって『日本人とユダヤ人』について「ベンダサンの赤い舌」(これは全集にはない!)というエッセイを書いていました。一見、それは日本教を褒めているようで、その実、裏で赤い舌を出しているのでは、という意味ですが、『日本教について』では、日本教の宗教社会学的な構造分析がなされましたので、その後、氏が山本七平を論評することはなかったように思います。

 福田も山本も、「もののあわれ」に根ざす美意識に支えられた日本人の伝統的な規範意識を、ユダヤ・キリスト教の絶対神信仰に根ざす欧米人の生き方と比較する中で対象化し、それを改めて自覚的に捉え直すことの大切さを説いていたと思います。この場合、山本は福田が論争的啓発に終始したのに対して、日本人の伝統的な考え方を日本教という概念を用いてユダヤ・キリスト教的な考え方と対比的に論じたのです。

 山本は、さらに、日本人の神概念、特に昭和の超国家主義の思想史的系譜を明らかにしました。また、北条泰時の制定した貞永式目による日本的法治主義の伝統、それが皇室を中心とする律令的秩序と併存し一種の二権分立になったこと。幕府政治は治安維持をその主たる任務としていて宗教が政治に関与することは排除したが、政治が宗教に関与することには無関心であったことなど、幕府政治の基本的性格を明らかにしました。

 福田は「滅びゆく日本」というエッセイで、日本民族の連帯感を希薄にするような危険な事態がどこから生じたか、その原因について次のように述べています。

 「一言で言えば、それは私たち日本人が敗戦によって私たち自身の歴史、伝統を自ら否定し、意識的にそれとの断絶を計ったことにあります。国家や民族ばかりでなく、個人の場合でも同じですが、一人の人間を他の人間区別し得るもの、詰り、その人をその人たらしめているもの、それはその人の過去以外の何物でもありません・・・過去を失えば、現在をも含めて今後どうして生きていったら良いか、何をすべきか、その方途も根拠も全く失ってしまうのです。人が未来に向かって行動を起こす出発点はその人の過去であって、現在そのものでは決してない。なぜなら、現在とは過去の集積そのものだからです。」

 だから、私たちが、自分及び自国の歴史を見る時、健介さんが紹介されたような、
<それを書いた場所と書かれたときが一番の問題である>まずそれを見ることである。
<今日、昨日のことを昨日かかれたものを。今日、昨日の目で見ることである>
<その多くは、今日の目で昨日を見ることになる。この落差こそが核心で、その差を絶えず意識する事だ>
 などが大切になってくるのです。

>日露戦争は、たぶん回避が正解でしたでしょう。

tiku 伊藤博文の満韓交換論(日本は満州における東支鉄道沿線のロシアの特殊権益を承認し、ロシアは韓国における日本の優越的地位を承認し、共に清韓両国の領土保全と機会均等を約束すること)をロシアが容れなかったことで、日露戦争は不可避だったというのが岡崎久彦氏の見解です。その後のロシアのマヌーバーを見ればそう言えるのではないでしょうか。(以下引用『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦)

 日露戦争の戦後処理の問題点としては、ポーツマス条約成立直後に日本に対してなされたアメリカの鉄道王ハリマンによる南満州鉄道共同経営の提案を、当時の政府首脳(桂、伊藤、井上ら)は賛成したのに、小村がこれを阻止したことが上げられます。

 この協定を支持した政府元老は、日露戦争による財政窮迫、満州鉄道の経営負担に自信がなく、また、ロシアの報復や、支那の裏面の外交工作によって、繰り出される列強の圧力から、日本を守り切る自信はありませんでした。そこで、満州を米国、支那を巻き込んだ国際的地域にしておいた方が安全だと考えたのでした。

 それは、「ペリー来航以来の弱小日本の苦難の経験を知っている元老としては、日本がいつまでも欧米列強と張り合えるとは思っていず、早く安全策を講じたかった。」しかし、日清、日露戦争を経て帝国主義的情熱に燃えていた新しい世代はそうは考えなかったのです。高橋是清は、1906年「今から十年の内に日本は、米国と共同で満州鉄道を経営しなかったことを悔いる時が来るであろう」と言ったそうです。

 その後、満州では、戦争中に日本の満州軍司令部によって行われていた軍政が、講和成立後も関東総督府という名の下に続けられていました。他方、法的日本にとって外国である満州内の主要都市は外務省の領事館がおかれ清との外交関係が維持されていました。この関東総督府による軍政と、外務省の領事館を通した清との外交関係に摩擦が生じることになるのは当然でした。

 こうした状況を危惧した伊藤は1906年5月22日、意見書を首相官邸で開いた「満州問題に関する協議会」(統監:伊藤博文、枢密院議長:山縣有朋、元帥:大山巌、内閣総理大臣:西園寺公望、枢密院顧問官:松方正義、井上馨、陸軍大臣:寺内正毅、海軍大臣:斉藤実、大蔵大臣:坂谷芳郎、外務大臣:林薫、陸軍大将:桂太郎、海軍大将:山本権兵衛、参謀総長:兒玉源太郎)に提出し、それを全会一致で決定しています。(『日本外交年表 竝 外交文書(上)』)

 次は、その意見書の岡崎久彦氏による要旨とその解説です。(『小村寿太郎とその時代』p288~230)

 
 「現在の軍政の状況を続ければ、英米は、日本が多年の主張と累次の声明に反して満洲の利益を独占し、門戸を閉ざすとの印象をもつに至るであろう。かの親日的な英国のマクドナルド新駐日大使も、これは、日本に同情した国々を疎遠にする自殺的行為であり、将来ロシアと再戦の場合に日本は大きな打撃を受けるであろうと内々警告してきている。 

 こういうことをしていると、ロシアの武断派の術中に陥って、ロシアはこれを口実として極東の軍事力を強化し、ポーツマス条約は一時の休戦条約と同じことになってしまう。

 また、日本が多大の犠牲を払った清国に対する好意は無になり、日本は清国の怨恨の的となり、このまま放置すれば、満洲のみならず、二十一省の人心はついに日本に反抗するようになるだろう。

 この判断のうえに立って伊藤は、軍政廃止の実行案を具体的に提示し、会議は討議に入った。 伊藤は本来柔軟な頭脳をもった政治家である。超然主義の憲法を主張しながら、最後には政友会という政党の総裁にまでなった。日露協商に固執しながら最後には日英同盟に賛成した。しかし、この問題では伊藤は妥協の余地を認めなかった。この会議における伊藤の一歩も譲らない信念の強さは天晴れというほかはない。おそらくは、国民世論、軍の意向の滔々たる流れを感知して、自分以外にこれを押し止める人間はいないと知っていたのであろう。

 いちばん矢面に立った児玉が種々弁明するのを、伊藤はいちいち呵責なく論破している。外国の例からみても日本のしていることはすべて不当だというわけではない、という児玉の抗弁に対しては、「自分が心配なのは米国の世論が強大なことだ。政府当局がいかに日本に同情的でも、いったん世論が動けばやむをえず世論に合った政策をとる」といっている。まさに、二十世紀のすべての指導者が直面する最大の問題を、真正面から指摘している。つまり、問題は理屈ではない、米国の世論に与える印象なのだといって、ああだこうだと日本の行動を正当化しようとする小理屈を粉砕している。

 そして、寺内正毅陸相が、伊藤の提案を全部議論する時間はないが、その趣旨は賛成だ、とそ場をおさめに入ると、「大体において異存がないというのではダメだ、異存がないなら、これを実行する手段を論じてほしい」と決めつけている。

  結局は、伊藤と考え方を同じくする西園寺首相のまとめで、列席者全会一致で、伊藤の提案にまったく異議がないこととなり、その決定は実施されることとなった。

 元老というのは法律に規定のある身分でもなく、官職でもない。あえて定義すれば、天皇から個人の名指しの勅を賜わって、天皇を輔佐する役である。伊藤は名実ともにその元老であり、日本という国家の舵取りの役を立派に果したわけである。

  しかし、元老といっても、伊藤と並び立っていた山県は終始、軍、藩閥を代表して民主主義の 足を引っぱったし、最後の元老西園寺は、その場その場の判断は正しかったが、伊藤のように国民世論の大きな流れに抵抗してそれをねじ伏せるだけの行動力、破壊力はもっていなかった。

  畢竟政治は人であろう。伊藤の見識をもってはじめて、日本は議会制民主主義という世界の政治思想の中道を歩き、英米協調という世界政治の主流の路線を歩むことができたのである。伊藤が逝ってからの元老の役割は、やがて、政変後の後任の首相推薦による政局の操作だけに矮小化されてくる。」

 「畢竟政治は人であろう」という言葉は、ほんとに重いですね。その資質を持っていたと思われる戦前の政治家、伊藤も原も濱口も犬養も暗殺されましたし・・・。 

>まるで今は大正時代を過ぎ、昭和のはじめのような時代状況になりました。

tiku今は戦後60年代にあたります。明治維新後の60年代は昭和元年にはじまります。大正デモクラシーに対する反動が昭和維新であったとすれば、戦後デモクラシーに対する反動が平成維新ならぬ大阪維新と言うことになるのでしょうか。現在、橋下大阪市長が飛ぶ鳥を落とす勢いですが、氏とガチンコで議論し論破できるような人が沢山出てこないといけませんね。

 氏は確かに「維新」の空気を捕らえていると思います。しかし、それが昭和維新のような結末を迎えるようなことになっては大変です。では、昭和維新の失敗の原因は何だったかというと、一言で言えば国内だけでなく国際的な「法的秩序」を無視したということ。その結果、独りよがりの超国家主義的全体主義思想に陥ってしまったのです。

 そこで、その橋下氏の主張を最近のツイッターに見てみたいと思います。(1月3,4日分から抜粋)

(中央集権体制を道州制に)
 明治から続いている中央集権体制、国と地方の融合型の統治機構はもう腐っています。つぎはぎだらけの改善ではもう無理です。リセットして一から統治機構を作り直さないといけない。それは道州制と言う大号令をかけるしかない。しかし道州制など、口で言うだけでは何も進まない。

(行政機構・公務員制度・教育委員会制度の改革)
 行政機構、公務員制度、教育委員会制度、ありとあらゆる統治機構を一から作り直さないといけない。日本全体でいきなりやるのは難しい。それだったらまずは大阪から作り直していく。府市統合本部ができて府市に横たわっていた長年の課題が解決・動き出した。市長と市民の距離の遠さは、区長改革で埋める

(キーワードは決定できる民主主義)
統治機構を作り直すのは、課題解決のため。課題を一つ一つ解決することによってしか地域や国は良くならない。魔法の政策等ないし超人の政治家などいない。解決するためのキーワードは、決定できる民主主義。日本の統治機構は決定できない民主主義に陥っている。

(平成の世に合わせた統治機構)
 平成の世に合わせた統治機構、すなわち今の世において物事を決定できる仕組みを作らないといけない。決定する以上は責任も負う。決定できる民主主義、責任をとる民主主義を具現化する統治機構を作らなければならない。大阪都構想は、大阪における決定できる・責任をとる統治機構

(大阪都構想は道州制へのきっかけ作り)
 もうね、国政がやっているようなチマチマしたつぎはぎだらけの制度改善では国は持ちません。グレートリセットです。一から作り直すしかない。そのためにも道州制を目標にして、何から何まで一から作り直しましょう。次の総選挙の争点は道州制しかありません。そのきっかけ作りが大阪都構想です。

(首相公選制の導入・税制の抜本改革)
 皆さん、次の衆議院総選挙は国の一からの作り直し、道州制、そして首相を国民が直接選ぶ首相公選制を争点としましょう。消費税が争点なんてちっちゃいちっちゃい。5%上げたところで日本が持ち直すわけがない。やるなら税制を一から作り直す。

(現状維持では乗り切れない)
 政治なんて言うのは、常に光と影が付きまとう。何かをやれば必ず光と影がある。大きなことをやればやるほど、光も影も大きくなる。しかし何もやらなければ現状維持。現状維持で乗り切れるほど現実は甘くない。だから光を求めてやり続けなければならない。影の部分は少しでも影がなくなるように努める。

(批判するなら具体的な代案を)
 この繰り返しが政治だ。影が少しでも生じるから何もやらないなんて言うのは、文系・無責任大学教授にしか許されない。批判するなら、具体的な代替案を提案しなさい。そのために大学には税が投入され、大学教授を国民が養っているんだ。

 要するに、「決定できる民主主義、責任をとる民主主義を具現化する統治機構」を作ると言うことで、そのためには憲法改正して首相公選制を導入するべきだ、ということだと思います。大阪都構想はそのミニモデルだというわけですが、当然複数政党制による議会政治が機能しなければなりませんし、そこにおける武器は言論ですから、公開の徹底的な論戦がなされなければなりません。

 で、その首相公選制によって何を実現するかというと、今の「行政機構、公務員制度、教育委員会制度、ありとあらゆる統治機構」を一から作り直すというのです。つまり、これらの統治機構が明治以降の中央集権体制の下で腐りきっていて、日本の民主主義を何も決定できない無責任体制に陥っている。だからこれを首相公選制にして橋下氏のような強力リーダーを選び、決定できる民主主義、責任をとる民主主義を実現しよう、というのです。

 ここで行政機構改革とは、道州制の導入によって基本自治体、道州、国の役割分担と権限関係を明確にし、それぞれの組織の責任体制を確立すること。公務員制度改革とは、終身雇用制や年功賃金制を基本にしている現在の公務員の任用制度を徹底した業績主義に切り替えると共に、職員の懲戒・分限条例をより厳しく適用しようとするもの。教育委員会制度改革とは、独立行政委員会としての教育委員会制度を、知事が教育基本条例を制定する事で実質的に知事の管理下に置こうとするものです。

 いずれも国政レベルの制度改革を前提とするもので、それを大阪という地方で、そうした制度改革に向けたきっかけを作ろうとしているわけですが、大阪府と大阪市の二重行政の問題や職員団体との確執というローカルな問題の解消という点では十分理解できますが、それを上述したような国政レベルの制度改革に結びつけようとするには、いささか無理があるように思われます。

 とりわけ、大阪府教育基本条例案は、その必要性、適法性、有効性、効率性、公平性、協同性という評価基準に照らして多くの問題点があることが指摘されています(『大阪維新の会「教育基本条例案」何が問題か』市川昭午)。

 確かに、現在の日本の「行政機構、公務員制度、教育委員会制度」が問題を抱えていることは事実であり、民主党や自民党などのマニフェストにも関連する制度改革案が提示されています。従って、折角こうした問題点を地方からその解決策を提示しようとするなら、目先の問題だけでなく、福田恆存が指摘したような日本の歴史や伝統を踏まえた、法的にも十分説明できる制度設計をすべきです。

 その点、大阪府教育基本条例案は、ローカルな職員団体との感情的な敵対意識が前面に出ているように思われます。そのため、「国内の法秩序」を無視したような拙速な教育基本条例案となっているわけで、これでは折角の改革意志も台なしになる可能性があります。(この件については、今後より具体的に論じていきたいと思っています。)

>実を言うと小林秀雄を読んだとき、<あれこれは「福田恒存のまねではなかいか>と思い、読みませんでした、その後読もうとしましたが妙に読めず、本居宣長補記のみ読めました。順序が逆で福田恒存が小林秀雄を師匠にした。
 その福田恆存が小林英雄を尊敬していることをしり、馬鹿な読み方をしたがしかし私にとっては福田恆存が一番です。

tiku福田恆存は、小林秀雄が自分(福田)の書いたものを一度も批評してくれなかったと言って嘆いていたのをどこかで読んだ記憶があります。

>イマから思うと「私の国語教室」に一種の問題が提出してあり、ソレヲとくに10年ほどかかりました。そのとき手紙でもなんででも書いて、送ればよかったなとおもいました。

tiku「私の国語教室」は、戦後の漢字制限、ローマ字教育(表音文字化)の推進を批判すると共に、現代かなづかいの不合理を指摘し歴史的かなづかいをすすめるものでしたね。漢字制限が間違っていたことはその通りだったと思いますし、日本語をローマ字表記するなどというばかげたことは幸い起こりませんでした。だが、カタカナ表記する外来語は今はあふれかえっているし、歴史的かなづかいはほとんどなくなりました。私自身は、それを問題視するだけのものを持ちませんが、福田氏の言うのももっともなような気もするし、今後の問題とされることがあるかも知れませんね。

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