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2012年3月22日 (木)

南京事件(3)――東京裁判が捏造した「南京大虐殺」を信じた日本人、信じなかった日本人

 そもそも「南京大虐殺30万人説」が登場したのは、1946年7月から東京裁判における「南京大虐殺」に関する審判が始まってからで、検察側は最終論告で「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は26万ないし30万」と主張しました。しかし、1947年3月の判決は、次のようになっていました。(要約)

南京暴虐事件(昭和23年11月4日)
一、南京に残った住民は約50万、兵士は約5万で、兵士の大半は撤退するか安全地帯に避難し、抵抗は一切しなかった。

二、占領後日本の兵隊は、中国人の住民男女子供を無差別に殺した。その数は占領後に、三日の間に少なくとも一万二千人に達した。

三、幼い少女や老女を含む多数の女性が強姦され、殺され、死体は切断され、占領後の最初の一ヶ月間の強姦事件は約二万件に達した。

四、日本軍は欲しいものは何でも住民から掠奪し、店舗、倉庫、住宅を計画的に放火し、全市の約三分の一が破壊された。

五、一般男子の大量殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民に混じり込んでいるという口実で一団にまとめられ城外で機関銃と銃剣で殺害された。兵役年齢にあった中国人男子約二万が殺害された。

六、日本軍は、城外(南京から約66マイル以内)の人びとにも城内の住民と同じような仕打ちをし、5万7千人以上が収容され飢餓と拷問に遭い、多数のものが死亡し生き残った者の多くは機関銃と銃剣で殺された。

七、城外で武器を棄てて降伏し捕虜となった約3万人の中国兵は裁判の真似事さえ行われず殺された。

八、こうして日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上となった。これらの数字には死体を焼き捨てられたり揚子江に投げ込まれたり、その他の方法で処分された人びとは計算に入っていない。

 ところが、松井石根に対する判決書(昭和23年11月12日)に述べられた罪状は次のようになっていました。

 「この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占拠されたときに始まり、この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人びとが殺害され、無数の財産が盗まれたり焼かれたりした。」

 つまり、南京事件における殺害数と強姦数は、前者は二十万と二万人以上となっていたのに、後者では、十万以上と何千という数字に減らされていたのです。おかしな所はこれだけではありません。次に、その罪状をその後判明した事実関係と照らし合わせて見ます。

一、南京に残った住民数は約二十万であるにもかかわらず、これが約五十万に水増しされている。また、 中国軍の守備兵力は約5万であり、その大部分は撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したと言っている。

二、住民男女子供一万二千人が無差別に殺害されたというがそんな事実は全くない。

三、幼い少女や老女云々とか二万件の強姦なども全くのデマ宣伝で、当時安全区の警備・掃討に当たったのは第16師団歩兵第七連隊(金沢)の人数は約1,400名に過ぎず、それ以外の兵士の出入りは禁止されていた。

四、日本軍の入城後数日間は食料や家具類の徴発はあったが、日本軍兵士による放火は考えらない。

五、安全区に逃げ込んだ中国軍兵士は指揮官の指揮下に投降したわけではなく、軍服を脱ぎ平民服に着替え、さらに武器を隠し持ったまま安全区に潜入したものが多く、便衣兵と言うより捕虜の資格なき不法戦闘員と見なされてた。そのため、城内の戦闘を終わらせ安全を確保するためには、彼等を摘出する必要があった。その数は『南京戦史』によると約7,000人弱であるが、その内何人が処断されたかははっきりしない。第七連隊の戦闘詳報には刺射殺数として6,670という数字が上げられているが、実数はその1/3 程度ではないかと見られる。

六、これは幕府山に近い上元門付近の殺害数とされているが、この地域にいた日本軍部隊 は第13師団歩兵六十五連隊(会津若松)山田支隊約2,200人であった。この部隊に12 月14日、約15,000人の投降兵があった。そこで、その中に含まれていた非戦闘員を解 放し捕虜約8,000人となった。山田支隊はこれを上元門郊外の建物に収容したが十分な 給養ができず、その取り扱いについて、翌15日南京の16師団司令部に問い合わせたと ころ、「ミナ殺セトノコトナリ」(おそらく山本七平の言う「私物命令」で16師団参謀 長勇の言葉ではなかったかと推測される)という意見だった。

  しかし、山田少々はこれをはねつけ、両角連隊長もこれを支持した。しかし、16日 午後12時半頃、放火・暴動が発生し約4,000人が逃亡、その際約2,000人をやむなく揚 子江岸で射殺した。残り2,000人の処理については、揚子江「北岸」の草鞋州(ソウア イス)に船で渡して解放することとし、17日夜捕虜を軽舟艇に乗せて中流まで行った ところ、揚子江北岸の支那兵が敵前上陸と勘違いし銃撃を始めたため、捕虜は処刑され るものと錯覚して逃げだした。これを制止しようとして日本兵が銃を乱射したことから、 捕虜に多数の死傷者を出すことになった。(中国兵の 死者数百名?)この際護送した 日本兵にも若干の死傷者を出した。

七、六の5万7千人というのは、あたかも城外の一般住民であるかのように書いているが、実際は城内から脱出後幕府山付近で投降した兵士たちであった。従って、七の城外で武器を棄てて降伏し捕虜となった約3万人と言うのがこれにあたる。(5/3下線部訂正)

八、一から八までの数字を合計すると、約127,000人となるが、これに揚子江に流される などしたその他の死者を加えて、「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京 とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」とされた。

 これらの数字のうち、二から四に上げられた数字は、実はマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が南京在住の訪米人(匿名だったが南京金陵大学教授マイナー・ベイツと宣教師のジョージ・フィッチ)の原稿を編集して、昭和13年7月にイギリスのゴランツ社から発行した『戦争とはなにか――中国における日本軍の暴虐』の記述に基づくものでした。五の中国男子二万人というのは、南京駐在米副領事エスピーの推測に基づく証言によるもの。六の城外の人びと五万七千という数字は魯甦という中国人によるデタラメ証言、七の捕虜三万人以上は、むしろ六の根拠数と考えられる。そして、これらを合計した127,000人に、その他の揚子江に流されるなどしたその他の死者を加えて二十万以上としたのです。(5/3下線部訂正)

 では、なぜ東京裁判はこのような不確かで誇大な数字を積み上げて「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京と その周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」としたのでしょうか。言うまでもなくその背後には、東京大空襲、広島、長崎原爆による非戦闘員虐殺の罪を覆い隠そうとしたアメリカの思惑があったこと。また、国民党には、日本の敗戦後中国国内で熾烈化しつつあった中共とのヘゲモニー争いにおいて、中共が、国民党の日本軍宥和政策を激しく非難したことから、これに対抗するため、抗日戦における日本軍の残虐性をアピールする必要に迫られたのかもしれません。

 その結果、中支那方面軍司令官であった松井石根は、日本軍の南京における暴虐を防止するための努力を怠ったという、いわゆる「不作為」の罪に問われて、A級戦犯として起訴され、訴因第五十五号(通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ対スル罪)について有罪となり絞首刑に処せられました。

 東京裁判で、戦時中に日本軍がこのような残虐行為を犯していたと聞かされて、日本国民は半信半疑ながらも、中国に対して深刻な贖罪意識を持つようになりました。ところが、このナチのホロコーストにも匹敵すると宣伝された南京大虐殺は、その後中国においても、有罪の判決を下した連合国においても、日本においても、それが話題に上ることはありませんでした。そのため、昭和50年に発行された教科書『詳説日本史』(山川出版)の日中戦争に関する記述にも「南京大虐殺」に関する記述はありませんでした。(『南京事件 国民党の極秘文書から読み解く』p8)

 それが全ての教科書に「南京大虐殺」として記述されるようになったのは、9171(昭和46)年8月から朝日新聞が「中国の旅」を連載し始めて以降のことでした。その翌年の日中国交回復の年には本田勝一著『中国の旅』(本多勝一著)が出版されベストセラーになりました。これは当時高度成長下の日本で平和を享受していた日本人に大きな衝撃を与えました。さらに、その翌年には、この大虐殺が本当にあったことを裏付ける資料として、先に紹介した『戦争とはなにか』(英語版の翻訳)が洞富雄教授らによって紹介されました。

 そこには、南京陥落後の南京において日本軍が犯したとされる、東京裁判における第二から四までの罪状に相当する殺人、強姦、略奪・放火事件が、当時南京において実際に見たというアメリカ人の証言のもとに記録されていました。その後、この証言者は、南京の金陵大学教授であり宣教師であったベイツ他だったことが明らかとなりました。その結果、こうした第三者的立場にあったアメリカ人宣教師らが”嘘をつくはずがない”と信じられたことから、「南京大虐殺」は日本人に真実と受け取られるようになり、それ以降、ほとんどの教科書に、この事件が記載されるようになりました。

 一方、このような、日本人が中国において犯したとされる残虐事件を中国人の視点から日本人に紹介した本多勝一氏の「中国の旅」について、疑問を呈する人も現れました。まず、イザヤ・ベンダサンが、「中国の旅」の中の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)=「百人斬り競争」の記事をフィクションだと断定したことから、本多勝一氏との間で論争が始まりました。次に鈴木明が、同様の疑問から「南京大虐殺のまぼろし」を『諸君』に掲載し始めました。さらにそれを受け継ぐ形で、実際の軍隊経験を元に検証作業を始めたのが山本七平でした。(「私の中の日本軍」)

 この結果、「百人斬り競争」については、この記事を書いた東京日日新聞の記者浅海一男記者が、戦意高揚記事を書くため両少尉に”やらせ”の証言をさせ、それを記事にしたものであることが立証されました。これに対して、「南京大虐殺」を真実と主張するいわゆる「自虐派」の人びとは、「百人斬り競争」は実は戦闘行為ではなく捕虜の「すえもの斬り」だったとする主張するようになりました。同時に「南京大虐殺」を証拠づけるための資料の発掘に尽力しました。その成果が、『日中戦争資料集』第八巻(極東軍事三番南京事件関係記録S48)や第九巻(「戦争とはなにか」「南京安全区檔案」「南京における戦争被害」「T・ダーディン記者報道」S48)及び『南京事件資料集』のアメリカ編と中国編(1992年)でした。

 この間、旧日本軍人の間でも、この事件の真相を解明しようとする動きが始まり、その結果、本稿の冒頭に紹介した偕行社による『南京戦史』(平成元年)及び『南京戦史資料集Ⅰ(平成元年)、『南京事件資料集』Ⅱ』(平成5年)が刊行されました。こうした資料収集と実態解明の努力が進められた結果、東京裁判判決の基礎資料となったティンパーリの『戦争とはなにか』に記載された、「外国人の見た日本軍の暴行」における記述内容は、必ずしも実態を正確に反映したものではなく、意図的に日本軍の残虐性を強調することで、欧米人の支援を得ようとした中国の宣伝文書ではないかと言うことが疑われるようになりました。

 その嚆矢となったのが、この本の著者ティンパーリが、国民党中央宣伝部の顧問だったことが鈴木明によって発見されたことでした。(「国民党政府は彼を英米に向けて派遣し宣伝工作に当たらせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。編著に『中国における日本人の恐怖』(1938年)一書がある」『近代来華外国人名辞典』)(『新「南京大虐殺」のまぼろし(1996)』P292)。また、北村稔氏は、この裏付けとなる資料を、国民党の国際宣伝処の組織と活動の研究書『中国国民党新聞製作之研究』(王凌霄著台湾で発行)における南京事件に関する次のような記述に発見しました。

 「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアンの記者ティンパーリとアメリカの教授スマイスに宣伝刊行物の《日軍暴行紀実》と《南京戦禍写真》を書いて貰い、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当を出す等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際有人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝方法は、国際線伝書が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」。

 さらにその極めつけとして、北村氏は、蒋介石に委任され、日中戦争開始以前から上海で外信の検閲に従事していた曽虚白の『自伝』に次のような記述を発見しました。

 「我々が検討した結果、戦局が全面的劣勢に陥った現段階で明らかにすべき最も重要な事柄は、第一には戦闘にたずさわる将士たちの勇敢に敵を倒す忠誠な事績であり、第二には人民に危害を加える人道にもとる凶悪な敵の暴行であった。物事は信じがたいほど都合よくいくもので、我々が宣伝工作上の重要事項としてて易の暴行(の事例)を探し求めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた」。

 この「事実」とは、東京日日新聞が伝えた「百人斬り競争」の報道と、日本軍は「怒濤のごとく南京城内に殺到した」という読売新聞の掲げた見出しでした。そして前者は『戦争とはなにか』に収録される際、「Murder Race(殺人競争)という表題がつけられ、いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であると言う装いがなされ」ました。そこには「かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」とも記されていました。(『「南京事件」の探求』p43)

 この事実は、東中野修道氏によって、台北の国民党党史館にあった国民党中央宣伝部資料の極秘文書中の「対敵課工作概況」の中の「(一)対敵宣伝本の編集制作」の中の次の記述によっても確認されました。

1、単行本
 本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。
A『外人目賭中之日軍暴行(外人目撃中の日本軍暴行)』
この本は英国の名記者田伯烈(=ティンパーリ)が著した。内容は、敵軍が一九三七年十二月十三日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに悪逆非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記載している。

 また、この本に匿名で記事を載せたベイツは中華民国政府の顧問であり、もう一人のこの本の著者フィッチも、彼の妻が蒋介石夫人の宋美麗の親友であったことも、同氏によって明らかにされました。なお、英語版の『戦争とはなにか』の漢訳本が『外人目賭中之日軍暴行』であり、これは英語版と同時出版されていました。(『南京事件――国民党の秘密文書から読み解く』P20)

 私は、この『戦争とはなにか』の第一章「南京の生き地獄」、第二章「掠奪・殺人・強姦」、第三章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第四章「悪魔の所為」や、付録の「南京の暴行報告」「国際委員会の(日本側との)書簡文」「百人斬り競争」(以上訳文は日本版『外国人の見た日本軍の暴行』による)などを読んだ時さすがに暗澹たる気持ちになりました。これらの報告をしているのは欧米新聞記者やアメリカ人宣教師や大学教授であり、また、これらの暴行事例が日本側にも知らされていたことなどを考えると、誇張があるにしても、ここには相当の事実が含まれているのではないかと思わざる得なかったからです。

 しかしこうした疑念も、その後の阿羅健一氏や板倉由明氏等による『南京戦史』の刊行、北村稔氏『「南京事件」の探求』、東中野修道氏「南京事件 国民党秘密文書から読み解く」、冨沢繁信氏『南京事件の核心』などの著作によって、その真相が次第に明らかになってきました。その結果、ティンパーリの『戦争とはなにか』に記載された日本軍の暴行記録には、便衣兵による後方攪乱や、単なる伝聞証言あるいは安全区の難民自身によるものが多く含まれることが分かってきました。ベイツ等国際委員会のメンバーは、それを検証もせず日本軍兵士の仕業と決めつけ、これを日本軍の残虐行為を告発するための宣伝に利用していたのです。

 しかし、それにしても、南京は日本軍が占領していたのであり、第三国人が運営する安全区国際委員会のこのような中国側に立った虚偽の告発について、日本側はなぜそれを実地検証をするなどして事実確認をしなかったのでしょうか。残念ながら、これらの事件の内どれが日本軍兵士によるものかは、『南京戦史』にも具体的な記述がありません。しかし、冨沢繁信氏は、南京事件に関する一次資料の全てをデーターベース化しそれを様態別に集計することによって、事実と認定できるものと単なる伝聞であって信用できないものとを、区分することに成功しました。

 次回は、その分析結果を見ながら、さらに、「南京大虐殺」の真相に迫りたいと思います。

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コメント

歴史認識客員学者希望者様へ

・撫順・太原戦犯?管理所内で、"取引"でもあったというのでしょうか?
tiku 「撫順戦犯管理所」をご覧下さい。これを朝日新聞やまたNHKなども「周恩来首相には人間を変えない限り、戦争を防止できないという考えがあったといわれ、これを洗脳の一 言で否定し去るだけでは一面的な見方」であるというような見方をしていましたが、こうしたやり方で自白を迫る方法が「洗脳」であることは言うまでもありません。

 wiki「エドワード・ハンターは、日本人捕虜や朝鮮戦争でのアメリカ人捕虜に対する中国共産党の「思想改造」における洗脳手法について、「勉強会」での「学習」、集団学習会での自己批判、巧妙な賞罰(犯罪を告白したものを賞賛し、告白しないものには同調圧力を加える)、罪の意識(罪悪感)を植え付けるなどの特徴を指摘している」
「(中国共産党による洗脳)は戦争である。心理戦ともいわれるが、「脳の戦争」と呼ぶ方が適切である。武器は身体に対して行われ、対象者を無能力にし、破壊する。一方で、精神に対する工作では、(それまでに持っていた)信念を転覆させてコントロールする。脳の戦争においては、対象者の考え方や、感情、気持ちを征服することが、最終的な勝利となる。— Hunter, Edward,BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it,p.47
 こうした洗脳は「朝鮮戦争」でも行われました。

・同じく東京裁判でも、何らかの"取引"が存在したのでしょうか?
tiku  ”取引”?

・"通州事件”は、関東軍空軍誤爆に対する、中国人保安隊反乱隊員による、個人的報復殺戮との弁明:、BUT空軍誤爆に対する復讐対象は、非戦闘民間人・婦女子供=ハーグ陸戦規定違反戦争犯罪」の先駆け例。
tiku 通州事件とは、盧溝橋事件発生後の対立状態の中で、関東軍飛行隊の誤爆を契機に、冀東保安隊と国民党軍とが連携し抗日一斉蜂起をしたもの。通州の日本軍守備隊は主力が南苑攻撃に向かっていたため通州には留守部隊、憲兵、平坦兵器部を合わせ110名しかおらず全滅、それに止まらず通州居留日本人385名中223名が虐殺された事件。言うまでもなく後者は組織的な非戦闘員虐殺で戦争犯罪です。

・南京事件も、軍律無視の下士官兵の個人的報復行為可。多少・かなり?やりすぎたようですが。
tiku  南京事件では南京の非戦闘員に対する組織的虐殺事件はなかったと考えています。「竹林の国から」 「南京事件では一般市民の組織的虐殺はなかった」 http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-6736.html

・撫順・太原戦犯?管理所内で、"取引"でもあったというのでしょうか?
・同じく東京裁判でも、何らかの"取引"が存在したのでしょうか?
・"通州事件”は、関東軍空軍誤爆に対する、中国人保安隊反乱隊員による、個人的報復殺戮との
弁明:、BUT空軍誤爆に対する復讐対象は、非戦闘民間人・婦女子供=ハーグ陸戦規定違反戦争犯罪」の先駆け例。南京事件も、軍律無視の下士官兵の個人的報復行為可。多少・かなり?やりすぎたようですが。

tikurin さん、お返事ありがとうございます。いかにしてつくられたのかという細かい過程についは推測するしかないですが、カーペンターの言動は示唆に富みますね。

まるきよさんへ

2ヶ月ほどブログ更新を中断していたため返事が大幅に遅れました。ご容赦ください。

お尋ねの南京軍事裁判の件ですが、1946年2月15日開廷。谷寿夫は2月2日東京で逮捕、同年8月上海に護送、10月16日南京に送られ、19日から審理開始。翌3月10日に死刑判決。谷は上申書を書き再審を請求したがいれられず、4月26日に銃殺刑執行。(南京事件資料集中国関係資料)

向井敏明は昭和21年7月1日市ヶ谷の東京法廷に召還され、国際検事団の米国検事より予備尋問を受けたが、新聞記事は伝聞であり証拠とならないとして釈放。

「百人切り競争」の記事を書いた記者も検事側事務官に呼ばれて事情聴取を受け「戦意高揚のために書いた記事で、当人から話は聞いたが、現場を見たわけではなく、すべて伝聞である」と答えた。

その後、向井、野田の両名は南京軍事法廷の請求に基づき、GHQによって47年9月2日、8月20日にそれぞれ日本で逮捕され巣鴨戦犯拘留所に収容。11月には中国側へ引き渡され、同12月に南京に護送、12月4日に起訴。田中軍吉は同年5月中国側の要求で日本で逮捕、南京に送られ、同年9月20日起訴。12月18日、三被告に対する全員死刑の判決、翌48年1月28日谷寿夫と同じく雨花台で処刑された。(前掲資料集)

なお、東京裁判は昭和21年5月3日から市ヶ谷で始まったが、7月下旬、東京裁判のために日本に来ていた梅汝璈はマッカーサー総司令部の司法部長カーペンターの訪問を受け、次のような質問を受けた。

「いま、中華民国政府は、既に日本に帰国している谷寿夫に対してB級戦犯として南京に送るよう依頼が来ているが、中国は谷寿夫に対して、公平な裁判ができるのか、あるいは、少なくとも表面的に、表面的に、公平な裁判であることを印象づけるような裁判ができるのか、心配している」。

 実は「『南京大虐殺』に対しては、中国よりもむしろアメリカの方で大きな関心を持っていたと思われ、中国人ではなく、アメリカ人の係官が南京に出向いて、南京市民の証人、あるいは宣誓供述書を集めていた」。

もちろん中国側も南京中央調査統計局ほか14部門を総動員して調査を開始したが、「自発的に殺人の罪行を申告するもの甚だし少なきのみならず、委員を派遣して訪問せしむる際に於ても、冬の蝉のごとく口を噤みて語らざる者、或いは事実を否認する者・・・」という有様で、調査は異常な困難があったと、中国側の宣誓供述書の冒頭に記されている(にもかかわらず最後は被害者確数34万人となっていた。しかしここには「百人切り」の記述なし」)。

カーペンターはこれらの調査を読んでいただけでなく、向井の尋問もその前に行っていたので、中国が公正な裁判ができるかどうか聞いてみたのである。

しかしアメリカ当局は中国側の求めに応じて谷寿夫を、その後、向井、野田、田中を南京に送った。裁判の結果はカーペンターの危惧した通りのものとなった。(資料集の他は「新南京大虐殺のまぼろし」参照)

東京裁判の3か月前という記述を見つけたのはwikiではなく他のサイトです。

私の前の投稿ですが、相対化ではなく相殺の間違いです。

南京軍事法廷は、1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた戦犯裁判とwikiには書いてあります。東京裁判の3か月前という記述をサイトで見かけました。ということは1946年2月でしょうか?

「南京事件の総括(田中正明著)」のP63にはこう書かれています。

(引用開始)
国民党政府は1945年11月、東京裁判に資料を提出するためと、第六師団長谷寿夫中将の処刑を急ぐため、南京市あげてのおおがかりな資料集めに乗り出した。「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」といういかめしい名称の委員会が設置された…(中略)…その結果まとめたものが「敵人罪行調査書」である
(引用終わり)

国民党政府は虐殺を裏付ける証言や死体の埋葬記録を作成しました。
本書には東京裁判に提出するためにいわゆる「敵人罪行調査書」が作成されたと書かれています。日本軍の暴虐を証明する資料を収集し東京裁判に提出するようにアメリカから中国国民党に要請があったと考えていいでしょうか?

東京裁判は1946年7月から審判が始まって、1947年11月に判決が出たました。
一方、南京軍事法廷は1947年2月に裁判が始まり、3月には判決が出たようです。南京大虐殺が審議されたのが1947年の2月からで開廷したのは東京裁判より早いという情報をネットで見かけたのですが、南京軍事法廷のいつから始まりいつ終わったかご存知ないですか?

国民党は1946年2月にすでに「敵人罪人調査書」完成させています。しかし南京大虐殺を審議しているのは東京裁判のほうが早いんですよね。(判決が出たのは東京裁判のほうが遅いですが)。

南京軍事法廷で南京大虐殺の罪で日本を裁いたのは国民党の共産党対策ということですが、ということはもし東京裁判で南京大虐殺が審議されなくとも、独自に中国国民党は日本軍将兵を南京大虐殺の罪で裁いていたであろうと考えておられるわけですね。

【南京大虐殺の罪で日本を裁判で断罪した経緯】
アメリカと中国国民党の間でどのような話があったかは不明ですが、空爆による日本の民間人虐殺を相対化したいアメリカが主導し基本的に中国国民党はそれにならった(国内事情も考慮して)ということで間違いないでしょうか?

まるきよさんへ
私はこれは中国共産党対策だったと思っています。国民党と共産党は戦後のヘゲモニー争いの中で中国国民の支持をいかに調達するかでしのぎを削っていましたからね。特に、蒋介石の以徳報怨は共産党の格好の攻撃材料になっていました。この宣伝戦に対抗するためにも残虐な日本軍と戦った国民党、というイメージをハイライトする必要があったのではないでしょうか。悪くすると、この南京戦における蒋介石の失敗が追求されかねない危険性もありましたから。もちろん、これが大虐殺と言えるものでなかったことは、蒋介石自身よく知っていて、後にそのような証言もしています。

もし東京裁判が行われなかったら、はたして中国国民党は南京軍事法廷で「南京大虐殺」の罪で日本軍の将兵を独自に裁いたでしょうか?

tikurinさん、どうもありがとうございます。これですっきりしました。しかしお詳しいですなあ。私も結構勉強したほうですが、まだまだ知らないことがたくさんあるといった感じです。

まるきよさんへ

>「また当時の南京にとどまったアメリカ人教授のベイツやスマイスは目撃した実情に基づき本法廷で宣誓署名して事実であることを証言した」

また168pにはこう書いています。

>このあとスマイスは第二次世界大戦後の南京での戦犯裁判に際しても書面による宣誓を付して自らの報告を法廷に提出する「南京事件関係資料編 308ページ)

>スマイスは南京軍事法廷で証言台に立って証言したわけではないのでしょうか? 書面による証言だけなのでしょうか? おそらく口述書は東京裁判で朗読されたものと同じだと思いますが、証言台に立って何か具体的な日本軍の戦争犯罪を証言したのかどうか、もししたのなら、それはどのような内容なのかが知りたかったのです。

tikurin P168に、書面による宣誓署名と書いてあるじゃないですか。その証言内容は、南京事件関係資料 中国関係資料編308にある通り、「戦争とは何か」(「中国における日本人の暴虐」)に付録として掲載された抗議書と、スマイスの作成した調査報告書のみであって、それと判決文とが全く食い違っていることは、「南京事件の探求」p168にも「スマイス報告の内容が「30万人大虐殺説」と矛盾することに気がつかなかったのであろうか。いずれにせよ判決書としてはずさんの極みである」と書いてあるじゃないですか。
要するに彼らはこれらの本に書いた以上のことは証言していないのですよ。そこが中国人とは違うところですね。

私が申し上げているのは南京軍事法廷のことなのです。

北村稔の『南京事件のまぼろし』の71pにはこう書いてあります。

そして以上の「南京罪行調査報告書」を補完する証拠資料としてティンパーリーやスマイスの著作が援用されるのである。

「このほか外国人記者ティンパーリーの著した『日軍暴行記実』や、スマイスの著した『南京戦禍写真』、さらに南京攻防戦に参加した我が軍の営長の郭岐が著した『陥都血涙録』があり、これらの書物の各部分はことごとく一致する。

また当時の南京にとどまったアメリカ人教授のベイツやスマイスは目撃した実情に基づき本法廷で宣誓署名して事実であることを証言した」


また168pにはこう書いています。

このあとスマイスは第二次世界大戦後の南京での戦犯裁判に際しても書面による宣誓を付して自らの報告を法廷に提出する「南京事件関係資料編 308ページ)

スマイスは南京軍事法廷で証言台に立って証言したわけではないのでしょうか? 書面による証言だけなのでしょうか? おそらく口述書は東京裁判で朗読されたものと同じだと思いますが、証言台に立って何か具体的な日本軍の戦争犯罪を証言したのかどうか、もししたのなら、それはどのような内容なのかが知りたかったのです。

はるきよさんへ
>スマイスはどうでしょうか? スマイスが南京市内と郊外での中国人死傷者の調査結果を記した本(南京戦禍写真)を南京裁判に提出したことは分かっています。
その本とは別に南京裁判でのスマイスの意見書または口頭での証言の記録は残っているのでしょうか?

tikurin
東京裁判ではスマイスは宣誓口述書を提出しただけで証人台には立っていません。弁護側が反対尋問を受けない証言は認められないと強く抗議しましたが、検察側は氏を承認として立てる意志はないと突っぱねています。おそらく、他の証人の証言内容と余りにかけ離れているのでマズイと思ったのでしょう。

その口述書は裁判で朗読されています。その記録は『日中戦争史資料8南京事件Ⅰ』P113に掲載されています。内容はラーベ(レーブと表記)と一緒に一般支那住民や武装を解除された兵士に対する虐待行為に関して、ほとんど毎日それを二通の抗議書にまとめて日本大使館に持参したこと(「南京安全区檔案」『日中戦争資料9南京事件Ⅱ』所収)。1938年の春に「南京地区の戦禍及び都市村落の調査」を作成したことが記されているだけです。
調査書の全文は『日中戦争資料9南京事件Ⅱ』に掲載されています。(参照「L.S.Cスマイスの戦争被害調査」http://www.history.gr.jp/~nanking/reason09.html)

なお、その調査書の分析は多くの方が行っていますが、『全貌』平成4年10月号に掲載された「『スマイス調査』が内含する真実を探る」が参考になります。

スマイスはどうでしょうか? スマイスが南京市内と郊外での中国人死傷者の調査結果を記した本(南京戦禍写真)を南京裁判に提出したことは分かっています。
その本とは別に南京裁判でのスマイスの意見書または口頭での証言の記録は残っているのでしょうか?

まるきよさんへ
その証言のオリジナルテキストが『戦争とは何か』なのですよ。さらに、この編集過程を明らかにしたのが『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳です。

tikurinさん、こんにちは。

先日、北村稔の「南京事件の探求」を読みおえました。本書によると、判決文で南京軍事法廷でベイツとスマイスは日本軍の非人道的行為を目撃したことを証言したそうなのですが、その証言の全文を読んだことがありますか? これは公開されていないのでしょうか? 

おっしゃる通りだと思います。
日本的集団主義の共同体の内の論理、論理的に導かれた結論ではなく調和と無責任なその場の空気が優先される社会が問題を起こす原因になっています。GHQの占領政策に起因する問題でもありますね。
貴重なご意見と有用なサイトのご紹介ありがとうございます。

まるきよさんへ

1.撫順・太原戦犯管理所以外に洗脳が行われていた捕虜管理所はありますか? その結果、虐殺を証言した日本人はいますか?

tiku ないと思います。撫順・太原戦犯管理所における洗脳の様子は田辺敏雄氏のサイト「脱洗脳史講座」http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/mokuji.html

に詳しいです。

2.洗脳されていない人間で見聞ではなく実行者を名乗った人物はいますか? 私は東日記は読んだことがないのですが、彼は「南京大虐殺」を実行したんでしょうか? それともただ見聞しただけなのでしょうか?

tiku いくらでもいます。その証言で一次資料的価値のあるものは偕行社の「南京戦史資料集Ⅰ、Ⅱ」に収録されています。また、その基になった資料集として畝本正巳史の「証言による南京戦史」があります。http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shougen_kaikosha.html

なお、東日記の信憑性については、松尾一郎氏のサイト「南京大虐殺派ウソだ」http://www.history.gr.jp/~nanking/
 
で検証されています。もっとも裁判でその虚構性が証明されていますが。

3.先に名前の上がった元兵士で富永博道と太田壽男は中国共産党に洗脳されたようですが、他の日本人は違うのでしょうか?

tiku 富永ではなく永富です。彼は太原戦犯管理所、太田は撫順戦犯管理所です。その他の先に名前の挙がった人物は洗脳の結果ではなくて、有名になりお金になりさえすればウソをつくことも平気な人たちで、まあ、中国で言えば「漢奸」ということで最悪人ということになりますね。

ところが日本ではこれが罪を率直に認めた勇気ある人物と言うことでマスコミがこれを持ち上げあちこち公演に連れ回すのですから困ったものです。おそらくこれは日本人の「オレが悪かった、イヤオレが悪かった」という一種の相互懺悔告解方式による和解の伝統に基づくもので、日本人はこうした態度が賞賛の対象になるのです。

ところが、中国や韓国ではこれは罪を認めたと言うことで徹底的な糾弾の対象となります。彼らを支援したマスコミはその違いが全く分からず、こうした日本の伝統的な和解の方式に無意識的に従っているのでしょう。従って、彼らは自白者の証言内容を全く検証しようとしません。それは、「オレが悪かった」と率先して自分の落ち度を認める態度こそが大切だと考えるからで、それを検証する必要を認めないのです。

しかし、その「自白」には、”それによって罪が許される、許してもらえる”という甘えがありますし、マスコミには”勇気ある懺悔”として称讃されるのですから、それへの迎合が嵩じて、その証言内容がエスカレートし虚実入り交じった残虐話になってしまうのです。その結果、そこで得られた証言が、相手によって「動かぬ証拠」とされ糾弾、賠償の対象となるのです。

ここで、こうした日本人の心的態度と共に明らかになってくるのが、”事件の処理において「事実の検証を徹底してやらない」”という問題点です。それからもう一つ、「偽証を罰する伝統がない」ということです。国会議員でも平気で嘘をつきますし、それがマスコミで糾弾されることもほとんどない。

南京大虐殺や慰安婦問題などの誇大宣伝・虚偽宣伝が未だにまかり通っているのは、実はその根底には、以上指摘したような日本人の伝統的な考え方が伏在しているということ、このことを私たち日本人は自覚的に対象化する必要があると思います。こうして視点をもって、これらの問題を考えることが大切だと考えています。

疑問が出てきたので、また質問させていただきます。もしご存知ならお教えください。

1.撫順・太原戦犯管理所以外に洗脳が行われていた捕虜管理所はありますか? その結果、虐殺を証言した日本人はいますか?

2.洗脳されていない人間で見聞ではなく実行者を名乗った人物はいますか? 私は東日記は読んだことがないのですが、彼は「南京大虐殺」を実行したんでしょうか? それともただ見聞しただけなのでしょうか?

3.先に名前の上がった元兵士で富永博道と太田壽男は中国共産党に洗脳されたようですが、他の日本人は違うのでしょうか?

まるきよさんへ

twittew のユーザー名はtikurintw です。

Twitterのダイレクトメールでも構いません。

tikurinさん、ご返答ありがとうございます。
ところであなたにメールで少しお話ししたいことがあるのですが、メールアドレスはどこかに記載されていますか?

まるきよさんへ

>南京大虐殺の日本人の証言者は撫順と太原収容所で洗脳された元兵士。それと東史郎。この二つしか知らないのですが、他に何かありますか?
また東史郎はなぜ洗脳されていないのに嘘の証言をしたのでしょうか?

tiku 南京事件の証言者と言っても、戦闘従事者の日記や書簡、作戦命令書、戦闘詳報、陣中日記から、実際に”やった、見た”と言う兵士の証言、”聞いた”という伝聞証言、さらに架空の作り話までいろいろあります。

この内一次資料として扱える主なものは偕行社の『南京戦史資料集』に収録されていますのでご覧下さい。なお、お尋ねは「嘘の証言者」についてでしょうが、これについては南京事件の全体像解明の最大の功労者板倉由明氏の『本当はこうだった南京事件』の「にせ証言の代表者たち」に詳しく書いてあります。webにも紹介されていますので紹介しておきます。「南京事件 偽資料列伝6」http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page049.html

ついでですので、これら虚言者の主なものを列挙しておきます。参照:http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/10763888.html

東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。支那じゃ未だに真実扱い

中山重夫…戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが場所時間がコロコロ変わったのでうそがばれた

永富博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明

舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するというカッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×

曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、秦郁彦も騙された

田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状

太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった

富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた

上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」でしかもそんな命令が出たという史料は一切無し


匿名・仮名証言の嘘の例
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言』というトンデモ本は匿名(仮名)の証言集だが、バレバレの嘘だらけ。

例えば、南京で強姦しまくったと証言した鬼頭久二(第16師団歩兵第33連隊 第1大隊)(仮名)は、計算すると南京戦当時11歳だったことになるが、帝国陸軍に11歳の少年兵は居なかった。


で、なぜこのような偽証言者が輩出するかという問題ですが、その時代の「正義の流行」に迎合して名を売ろうとする人物に事欠かない、ということです。

また、それを事実の検証もせず持ち上げ「英雄」に祭り上げるマスゴミの存在でしょうね。

最近でも上杉某という虚言癖を持つジャーナリストとそれを支持する信者が話題に上っていますが、日本ではそうした虚言癖を持つ人物――従軍慰安婦問題での吉田清治や南京大虐殺の中山重夫など――が「流行の正義の仮面」をかぶった時、それを怪しむのではなく逆に信じ込んでしまう極めて多いのです。

こうした傾向は、朝日新聞などの日本の大手メディアにもあり、さらに、それが虚言であった事がばれても、訂正しないで頬被りする、例の「百人斬り競争」について言えば「据えもの斬り」という罪を捏造してまで二少尉を罪に落とそうとするのですからひどいものです。

こうした日本人の「迎合的虚偽自白」の問題点の指摘は、イザヤ・ベンダサンが『日本教について』で行っていますが、いわゆる勧進帳の世界なのですが、日本にも旧約聖書の十戒にあるように「嘘の証言」を罪とする伝統を根付かせる必要がありますね。

再度失礼いたします。南京大虐殺の日本人の証言者は撫順と太原収容所で洗脳された元兵士。それと東史郎。この二つしか知らないのですが、他に何かありますか?
また東史郎はなぜ洗脳されていないのに嘘の証言をしたのでしょうか?

tikurinさん、どうもです。南京事件は全体像は見えているのですが、所々で知識が曖昧だったり、国家や機関や人物の相関関係がつかめないところがありました。理解するためのパーツが少し埋まりました。ありがとうございます。

まるきよさんへ
南京事件については拙稿「南京大虐殺の真相」で論じていますからそちらをご覧下さい。http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/kingendai/nankin.html

>「南京大虐殺」を捏造したのは端的にいえば東京裁判なのか南京軍事法廷なのか、どちらなのでしょうか? 
私としては南京軍事法廷、つまり主犯が中華民国で共犯がアメリカだと理解しているのですが、この認識は間違っていますか?

tiku 主体は「国民党中央宣伝部」で、その宣伝活動を肩代わりしたのは、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員で国民党中央宣伝部顧問だったティンパーリと、南京金陵大学教授で中華民国政府顧問であったベイツ、それフィッチ(彼の妻が蒋介石夫人の宋美麗の親友であったとされる)でした。特にベイツはアメリカ人宣教師が中心となって組織した南京安全区国際委員会を主導し、日本軍の南京入城直後からその暴虐を世界に宣伝する工作を行い、その集大成として書かれた本が「戦争とは何か―南京に於ける日本軍の暴行」(ティンパーリ編1938.7)で、これが「南京大虐殺」を証言する基本資料となりました。これが、どれだけ事実に基づくものであったかを検証したのが上に紹介した拙稿です。

 では、なぜ、国民党中央宣伝部はこのようなやり方をしたかというと、「南京に於ける日本軍の暴虐」を国民党の宣伝ではなく、中立的なジャーナリストや大学教授・宣教師による告発であるように見せかけ、それに真実味を持たせるためでした。
しかし、こうした国民党の宣伝活動は、当時、国民党自身によってはほとんど為されて居らず(おそらく国民党軍の撤退作戦のミスが知られていて、その被害を大きく宣伝することは不利と考えられたのではないか)、従って「南京大虐殺」というのは、当時の欧米のマスメディアを騒がした程度に止まったようです。といっても、アメリカにおいては着実に日本軍に対する残虐イメージを高める効果を持ったようですね。それがアメリカを対日参戦させる上で効果的な国民党による謀略宣伝であったとすれば、この宣伝は大成功であったということになります。

 そして、これが戦後の東京裁判でも利用されることになりました。アメリカにとっては日本に対する原爆投下をはじめとする都市の無差別爆撃という残虐行為の罪を、日本軍の「南京大虐殺」を持ち出すことで相対化することができました。また、、国民党にとっては戦後の中共とのヘゲモニー争いの中で、「以徳報怨」で日本軍を寛大に扱う一方、暴虐な日本軍との戦いに勝利した自らの功績を国民にアピールする必要がありました。だから、東京裁判で南京大虐殺が持ち出された時日本人は寝耳に水で大ショックを受けたわけですが、いささか誇大宣伝が過ぎたために、その後はあまり話題に上ることはありませんでした。

 ところが、文革後の中国の経済再建の必要から中共が日本との国交回復が必要と考えるようになると、今度は国民党に代わって中共が、日本に対する外交戦略として,日本の中国に対する贖罪意識を甦らせることで、この交渉を有利に進めようとする戦略をとるようになりました。それが、昭和45年の朝日新聞の本多勝一による「中国の旅」の連載報道になるのです。日本はこの心理的「負い目」から、それまでの中華民国政府との外交関係を断ち切り、中華人民共和国を唯一の中国の正統政府として認めることに同意して外交関係を樹立し、その後膨大な経済援助を行い中国の復興と近代化を助けました。

 つまり、このように中国の外交戦略は見事に成功したわけですが、その外交カードとして使われたものが「南京大虐殺」をハイライトとする日本軍の中国における残虐事件だったわけです。ところが、こうした中国の宣伝を真に受けて、それを事実と思い込む「良心的」日本人や「迎合的」日本人さらには「自虐的」日本人が沢山現れました。この結果、中国はその後も繰り返しこれを歴史認識の問題として外交カードに使うようになりました。また、「自虐派」の学者らはこれらの残虐事件が事実であることをなんとか証明しようとしました。

 これに対して、それは中国の宣伝だったのではないか、と疑う人たちも出てきて論争が始まり資料発掘も為されたわけですが、その結果、以上述べたような事実関係が次第に明らかになってきたのです。なお、こうした動きの端緒となったのが、本多勝一の南京大虐殺関連記事「百人斬り競争」をフィクションとしたイザヤ・ベンダサンの論考、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」、山本七平の「私の中の日本軍」などです。これらの人たちと後続の研究者のおかげで、この事件の真相と、その宣伝によって捏造された部分との腑分けができるようになりました。

 で、南京軍事法廷と「南京大虐殺」との関係ですが、南京軍事法廷では、第6師団長谷寿夫、第6師団歩兵第45連隊中隊長田中軍吉、そして「百人斬り」の第16師団歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長向井敏明と歩兵第9連隊-第3大隊副官野田毅少尉の4人が処刑されています。後二者については裁判記録(上申書や判決書)が残されており、この事件の真相がこれを取材報道した東京日日新聞(毎日新聞の前身)の従軍記者浅海一男の戦意高揚のための創作記事であったことが明らかとなりました。また、前二者についても虚構の事件を捏造するための「生贄」処刑と言うしかありません。しかし、この裁判についての国内報道はわずかでその裁判のデタラメさが問題とされることはありませんでした。

 ここで問題となるのが、こうした中国の残虐宣伝に材料を提供することになっていたのが、日本の新聞の誇大戦果報道だったということです。この典型的な例が「百人斬り競争」で、ティンパーリの「戦争とは何か」にも収録されました。この報道の真偽をめぐっては日本では裁判も行われ、これを「据えもの斬り」だったと新たな捏造を行った朝日新聞、当時の淺海記者の取材は正当だった(つまり二少尉の話をそのまま記事にした)と主張した毎日新聞に典型的に見られるように、日本のマスコミの事実検証能力のなさ、「時の勝者」への迎合的体質、責任転嫁体質が明らかになりました。

 そこで、これらをまとめて「南京大虐殺」を捏造したのは誰か、というと、その主体は国民党中央宣伝部、その宣伝活動を肩代わりしたのが、欧米の新聞記者と南京のアメリカ人宣教師や学者、そうした宣伝に格好の材料を提供したのが日本軍の誇大戦果発表と戦意高揚記事を書き続けた日本の新聞、それを東京裁判で利用したのがアメリカと中国国民党、さらに日中国交回復期の外交交渉のカードとして利用したのが中共、それを真に受けて事実と強弁しかえって墓穴を掘ったのがいわゆる日本の「自虐派」知識人・ジャーナリストということになります。

 ここからどういう教訓を得るか、それが今後の日本人に残された課題だといえます。まあ、「世界で最も謀略に弱い国」と日本が言われるのは、日本人が言論による事実究明が十分できず、また、価値論争が徹底せず空気支配に陥りやすいためで、この弱点をいかに克服するかが今後の第一の課題ではないかと思います・・・とは言え、この事件の真相解明に時間はかかりましたがなんとか成功したわけで、大したものだと思いますし、研究者の皆さん方のご努力に対し心から感謝しています。
  

詳しく教えていただきありがとうございます。

ところで、「南京大虐殺」を捏造したのは端的にいえば東京裁判なのか南京軍事法廷なのか、どちらなのでしょうか? 
私としては南京軍事法廷、つまり主犯が中華民国で共犯がアメリカだと理解しているのですが、この認識は間違っていますか?

>国際委員会のメンバーは安全区にいたんですよね? では残りの西洋人はどこにいたんでしょうか? 彼らも安全区に避難していたんでしょうか?

tiku もちろん安全区です。その安全区には外国人や富裕なシナ人の家がある地区が含まれていました。シールズ(英国の中華工業国外貿易協会支配人)は、安全区にそういった地区を含ませたのは自分たちの財産を守るためではないかと疑念を呈していました。

 なお、「南京残留西洋人リスト」は22名で、その内アメリカ人が14名、ドイツ人5名、オーストリア人1名、白系ロシア人2名です。しかし、安全区国際委員会のメンバーの中には、このリストに含まれていない人物が6名も含まれています。従って、実際の南京在留外国人の総数は28名程度だったものと思われます。この数字は昭和13年1月6日に南京に還ったアメリカ大使館員のエスピー報告にも見えます。

  これらの外国人の中で、日本軍の残虐宣伝に従事したのはアメリカ人が中心で、ベイツ(金陵大学教授)、ミルズ、マギー、マッカラム、フィッチ(宣教師)、それに、スマイス(金陵大学教授)、ウイルソン(医師)が関わったようです。彼らが親中派のドイル人ラーベ(ジーメンス洋行の「武器商人」でヒトラー心酔者)を安全区国際委員会委員長に祭り上げて、その実態を隠そうとした。その他の国際委員会のメンバーは、そうした彼らの謀略的宣伝行動の危険性を察知し、それを止めさせようと働きかけていたことが判っています

 なお、南京陥落後の12月15日にオアフ号で南京を離れた英米人ジャーナリストとしては、ニューヨークタイムスのスティール、ダーディン、ロンドンタイムスのマクドナルド、APのマクダニエル、ロイターのスミスの名が知られていますが、前三者の記者に、ベイツが「日本軍のありとあらゆる暴状」を話しており、これが12月17日以降の欧米の各新聞に掲載されるようになり、日本軍を統制のとれない悪辣な軍隊とする報道が相次ぐようになりました。しかし、後二者は「自分が見ただけ」を記しています。(以上『「南京大虐殺」への大疑問』松村俊夫参照)

ありがとうございます。国際委員会のメンバーは安全区にいたんですよね? では残りの西洋人はどこにいたんでしょうか? 彼らも安全区に避難していたんでしょうか?

まるきよさんへ

昭和12年12月16日に日本大使館に提出された「南京残留西洋人リスト」によると南京に残留した外国人は22名、その内15名で南京安全区国際委員会が組織されました。太原戦犯収容所組で南京大虐殺を証言したのは、永富 博道・元曹長がいます。http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/sennou/tsumi-no-ishiki.html
彼らの証言は洗脳の結果ですから病理学の研究対象ですね。

もうひとつもしご存知なら教えていただきたいのですが、撫順戦犯管理所の元囚人である日本人が南京大虐殺を証言していることは知っているのですが、太原戦犯管理所にとらわれていた日本人達も南京大虐殺の残虐行為を自白したのでしょうか?

ちょっとお聞きしたいのですが、南京安全区には支那人以外の外国人はいたのでしょうか?

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