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2012年3月

2012年3月31日 (土)

南京事件(4)―― 安全区に潜入した「便衣兵」の処断を日本軍の残虐性の証とした『戦争とは何か』

 前回、東京裁判において「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」という判決が下されたこと。そうした数字の積み上げにおいて基礎資料(一次資料)となったものがティンパーリーの『戦争とはなにか』であったこと。その本の副題は「外国人の見た日本軍の暴行」となっており、その第一章から第四章に、日本軍が南京において上記期間内に犯した「殺人、強姦、略奪・放火」事件の記述があったこと。さらに「南京暴行報告」等の具体的資料が付されていたこと、等について説明しました。

 次に、それらの記述内容の内主なものを見てみます。(以下『日中戦争史資料9南京事件』に掲載された「戦争とはなにか」により)*印の付された文章は、直前の記述に対する私のコメントです。

戦争とはなにか――中国における日本軍の暴虐――

H・J・ティンパーリー編

第一章 南京の試練
○(ティンパーリによる記述。ティンパーリは国民党中央宣伝部顧問であった)
① 華中の会戦だけでも、中国軍の死傷者は少なくとも30万に及び一般市民の死傷者も同じぐらいであった。
*これは華中戦区全体(揚子江デルタ地帯)における住民の死傷者数は30万とするものですが、この数字はジャキノ神父が推測した数字を借用したものです。これについてベイツは、3月3日のティンパーリへの手紙で『戦争とはなにか』の編集方針に関して、「戦争における野蛮な行為を(南京だけでなく)もっと広範に地域にわたって(書いた方が)全体的に見て、ずっと信憑性がある」と提案しています。これに対してティンパーリは「上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません」と答えています。

 注意すべきは、この30万というのは南京戦における死者数ではなく、上海から南京までの華中戦区全体での戦闘に伴って発生した死傷者数(死者数ではない)だということです。もちろん、兵士の30万については、通常、戦傷者は戦死者の2倍から3倍いるといわれますから、戦傷者20万人とすれば死者は10万人になります。当然、一般住民の死傷者の比率も同様のものと考えていいと思います。また、仮にこれらの数字が妥当なものであるとしても、これが日本軍の暴行によるものであると証明できる確実な証拠はほとんどないとティンパーリは言っているのです。

○(次は、南京の金陵大学教授であり南京安全区国際員会の委員をしていたベイツの「メモ」による記述。その後の調査でベイツは中華民国政府顧問であったことが明らかとなっている。)

② 「南京では日本軍はすでにかなり評判を落しており、中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました。・・・日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を恐れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分に大した損害を与えずに出て行ったのです。

*ここでベイツは、唐生智の直前の逃亡により中国軍がパニック状態に陥り、⑧に記すような大混乱となったことにはまるで触れず、整然と退却したかのような言い方をしています。しかし、いわゆる「南京大虐殺」は、南京防衛軍司令官であった唐生智が部下将兵に南京死守を命じながら、自らは南京陥落直前の昭和12年12月12日20時に南京城を脱出し浦口へ逃れた。そのために中国軍兵士はパニック状態に陥り、無統制のまま、南京城の攻略を目指して攻め上る日本軍との絶望的な戦いを強いられた結果、発生したものなのです。

 ある者は南京城を脱出しようとしてその混乱の中で圧死または墜死し、あるいは督戦隊に射殺され、ある者は揚子江を渡ろうとして溺死、あるいは江上を攻め上ってきた日本軍砲艦に殲滅され、ある者は陸上の三方から攻め上ってくる日本軍の囲みを破って脱出しようとして殲滅、あるいは大量投降した後暴動を起こして銃殺され、ある者は武器を棄て、あるいは隠し持ったまま、軍服を脱ぎ捨てて便衣となり、安全区に逃げ込んだ後、摘出されて処刑されたりしました。

 日本軍はこうした思いがけない状況に、部隊ごとにバラバラの対応をすることになりました。なにしろ、中国軍の最高指揮官は逃亡して不在であり、その最後の命令は日本軍の囲みを破って脱出することだったのですから、戦闘状態は継続したままだったのです。そのため、日本軍の敗残兵、捕虜、便衣兵等の取り扱いが厳しくなり、それが、難民の保護にあたっていた安全区国際委員会のメンバーだったアメリカ人宣教師等の眼には、非情かつ残虐なものに見えたのです。

 一方、日本軍の残虐性を欧米世界に宣伝することで、中国に対する欧米諸国の支援を獲得しようとしていたベイツ等にとっては、こうした日本軍の厳しい対応は、格好の宣伝材料となりました。彼等は、安全区国際委員会を組織し安全区の難民を保護するという名目で、日本軍の南京占領の「暴虐」を告発しようとしました。こうした行為を根拠づけ正当化したものが、日本軍の南京占領後、城内において頻発した、日本軍兵士によると思われる不法殺人、掠奪・放火、強姦事件の数々でした。

 これらが、先に紹介したティンパーリ著『戦争とはなにか』に列挙されているわけですが、読んで見ると、にわかには信じられないとは思いつつも、その余りのひどさに、暗澹たる気分にさせられます。しかし、はっきり日本兵の仕業と確認されたものはごくわずかで、事件当時上海派遣軍法務官であった塚本浩が、東京裁判で行った証言では十件内外となっています。では、その外の事件は誰によるものかというと、その大半は、安全区に潜入した便衣兵による後方攪乱あるいは難民自身によるものであった疑いが濃厚です。

③ しかし、二日すると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき市民の死体が多数転がっていたと報告しています。・・・死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきた時に射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。・・・その過酷さはほとんど弁解の余地のないものでした。南京安全区でも他と同様に、このような蛮行が行われており、多くの例が、外国人及び立派な中国人によって、はっきりと目撃されています。

*ベイツは、死亡した市民の大部分は13日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきた時、としているわけですが、この描写は、南京城内の安全区とそれ以外の地区を区別していません。日本軍が13日午後4時30分過ぎに南京城に入った時は、難民のほとんどは安全区に避難しており、その他の地区は、北部の獅子山付近や市の北部で若干の戦闘があった外はほとんど無人に近い状態でした。金沢第七連隊が残敵掃討の下調べのため安全区に入ったのは、その日の夜午後6時から8時でした。

 ラーベの13日の日記には、昨夜(12日)の状況として、中国軍の野戦病院があった「外交部に行く道ばたには死体やけが人が一緒くたになって横たわっている」「上海路(安全区内)へと曲がると、そこにも沢山の市民の死体が転がっていた」とありますから、日本軍入城以前の安全区には、「沢山の市民の死体がころがっていた」ことになります。ただ、13日の夜に行われた金沢第七連隊による安全区掃討下調べでは、「敵の軍人らしき者」が拘束され、12月14日に処刑されています。もちろん、拘束された者が全て処断されたわけではなく、解放された者やクーリーとして使役された者も多かったのです。なお、戦闘詳報に記された処断数にしても、戦果として誇大な数字が書かれる傾向があり、司令部ではその1/3程度を実数と見ていたと言います。

 しかし、いずれにしても、これ以降16日までの三日間に行われた安全区の残敵掃討によって拘束され処刑された者は、軍服を脱いで安全区に逃げ込んだ兵士(不法戦闘員と見なされ捕虜としての資格を認められなかった)であって市民ではありませんでした。このことについてベイツは後に、「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びと」、つまり、この三日間で市民約12000人が殺害されたと主張したのでした。

 言うまでもなく、それは、処刑された者が「不法戦闘員」と見なされた元兵士たちであれば、これを国際法違反として告発することはできませんから、そこで「その内の30%はかって兵隊になったことのない人びと」=一般市民としたのです。ベイツの目的は、日本軍がいかに暴虐であるかを西欧世界に宣伝し、中国への同情と支援を得ることであり、従って、15日の段階では③のような描写に止まっていたのです。しかし、『戦争とはなにか』をまとめる段階で、このような誇大な記述を挿入したのです。

 しかし、こうした記述は、南京陥落時の先に述べたような実情を知るものにとっては、その信憑性のなさは一目瞭然でしたので、『戦争とはなにか』に挿入されたこの部分の記述は、これを中国語に翻訳した書籍(『外人目睹中之日軍暴行』外)の中では、全て削除されました。

④ もと中国兵として日本軍によって引き出された数組の男達は、数珠つなぎに縛り上げられて射殺されました。これらの兵士達は武器を棄てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた者もいました。・・・難民区内のある建物から、日本兵に脅迫された地元の警官によって、400人が引き出され、50人ずつ一組に縛られ、小銃を持った兵隊と機関銃を持った兵隊にはさまれて護送されてゆきました。目撃者にどんな説明がなされても、これらの人びとの最後は一目瞭然でした。

*ここでは、難民区に軍服を脱ぎ便衣に着替えて逃げ込んだ中国軍兵士たちについて、「これらの兵士達は武器を棄てており、軍服さえ脱ぎ捨てていた」ので、当然捕虜として取り扱われるべきだった、ということを言っています。こうした主張を、国際委員会は12月21日に第九号文書で、南京の日本大使館宛提出していますが、これ以後は同様の主張を行っていません。その主張が無理なことが分かったためで、それ以降は、敗残兵の見分け方の杜撰さなどを指摘するに止まっています。

⑤ 目抜き通りでは、中国兵が主として食料品店や保護されていないウインドウなどからこまごました略奪を行っていましたが、それが、日本軍の将校の監視の下で店先から店先へと組織的破壊にとって代わられました。・・先ず食料を求めたのですが、やがて、その他の日用品や貴重品もやれました。市内全域無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず中国人の家も外国人の家もまんべんなく略奪されました。・・・日本軍は(アメリカなど外国の)旗の引き下ろしてから自動車や他の財産を強奪しました。婦女強姦・凌辱の例も数多く報告されていますが、まだそれを細かに調査している時間がありませんでした。

*日本軍の入城直後は、兵站の遅れで食糧が不足していたため、食料の徴発が行われました。また、司令部等を設置するために家財等を徴発したこともありました。食料については兵站部隊が追いついてすぐに問題が解消されました。また、家財等の徴発については、司令部や集団宿泊施設の設置のための徴発が行われましたが、その旨通知がなされ対価も支払われました。ただし、外国資産の徴発については厳しく禁じられていました。しかし、個人的な徴発もあったらしく、これらについては現物返還または保証金によって解決し、犯人は処罰されています。(『日中戦争資料集9』所収「東京裁判記録」p252)

 この件に関し、中支那方面軍司令官松井石根は、第十六師団司令官中島今朝吾を「家具等の徴発を行ったこと」でもって厳しく叱責しています。ただ、ハーグ陸戦法規第五十二条の「徴発と課役」には「現品徴発及ビ課役ハ、占領軍ノ需要ノタメニスルニアラザレバ、市区町村又ハ住民ニ対シテコレヲ要求スルコトヲ得ズ」となっており、戦争中に軍が「占領軍の需要の為」に第三者の所有物を取り立てる「現品徴発」は不法ではありませんでした。(『再現南京戦』東中野修道p263)

○(『日中戦争史資料9南京事件』に掲載された「戦争とはなにか」の解説では、次の記述(手紙)はアメリカ聖公会布教団マギー師によるもの、とされていますが、イエール大学所蔵のベイツ教授作成の履歴書には第一章と第二章は、上記のベイツの「メモ」の部分を除き、ジョージ・フィッチが書いた、とされているそうです。(『南京事件 国民党の秘密文書から読み解く』東中野P141)

⑥ (中国軍の)総退却はその日の午後早くから始まっていたに違いありません。兵士たちが南方から市内に流れこみ、そのうちの多数が安全区を通過してゆきましたが、彼らのふるまいはりっぱで整然としていました。唐将軍は、日本軍と休戦協定を結ぶために、われわれの援助を求めてきました。スパーリング氏が旗と伝言をたずさえてゆくことに同意したか、時すでにおそすぎたのです。

*唐生智は12月9日の日本軍の降伏勧告を拒否しました。ところが、12月12日になって、三日間の休戦協定(この間に中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す)を日本軍と結びたいので、国際委員会に仲介して欲しいという依頼がありました。しかし、蒋介石の承認は得られなかったれしく、そこで唐は、「休戦願いは我々国際委員会の一存だと見せかけ」ようとした。「要するに・・・蒋介石や外交部がこわいから」で、「だから国際委員会、ないしはその代表者である私、ラーベに全責任を押しつけようとしたんだ。汚いぞ!」とラーベは12月12日の日記に書いています。

⑦ 彼(唐)はその夜(20時)逃亡し、その知らせが広まるとすぐに全市が混乱におちいりました。みんなが下関へ通じる城門や川(揚子江)の方へ行くさいに恐慌状態がおきました。道路には彼らが棄てていったライフル銃・弾薬・ベルト・制服・自動車・トラックなどが何マイルにもわたって散乱していました。それらはすべて軍用品でした。動きのとれなくなったトラックや自動車が転覆し、火に包まれていました。

*この件に関し、『ニューヨークタイムス』のダーディンは、中国軍は撤退を一切考慮しておらず、日本軍に「ねずみ吐露の中の鼠よろしく捕らえられ・・・木っ端微塵にするような状況に進んでおかれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振る舞いながら、日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにしようと意図していたことであることは疑いない」。ところが唐生智将軍が陥落直前に逃亡したためこの中国軍の計画は頓挫した、と述べています。

 そのことを証するかのように、12月18日に「軍事裁判の結果(唐生智将軍に)死刑宣告」との情報が流されました。この『戦争とはなにか』の中のフィッチの記述にも「唐将軍は、最近処刑されたと聞きました」とあります。ところが、実際には、唐将軍は処刑されていなかったのです。このことは、1966年に香港で出版されたWho's Who in Communist China に唐生智が「1949年に国民党を棄てて共産党に走り、戦後も共産党政権下で湖南省副所長などを歴任した」ことが記されていたことで判明しました(『南京事件 国民党の秘密文書から読み解く』東中野修道p102)。ということは、唐生智逃亡は蒋介石の承認を得ていたのではないか、ということが疑われます。

 というのは、国民党中央宣伝部は、前回紹介したような「編集課工作概況」報告に基づき、「首都陥落後の敵の暴行」を宣伝しようとしていましたから、唐が南京に止まって市街戦を行った後降伏したということになれば、国際法に基づく日本軍の南京占領となって、日本軍の暴行を宣伝することができなくなるからです。そこで、あえて唐生智を陥落直前に逃亡させ、中国兵をパニック状態に陥れて、日本軍の捕虜殺害などの虐殺行為を誘発させる。また、一部将校を安全区に潜伏させて後方攪乱を行い、日本軍の無統制や暴行を宣伝しようとしたのでないか、ということが疑われるのです。

⑧ 市の城門では、さらに多くの自動車がひしめきあい、焼き払われていました。恐るべき全燔祭です。足もとには死体が累々としていました。城門は閉鎖されているので、恐怖に狂った兵士たちは、城壁をよじ登り、綱とか、つながあわせたゲートルやベルトとか、衣服をひきさいたものとかを使って、向こう側におりてゆきました。落ちて死んだものも多数いました。揚子江はわけても凄惨な光景でした。

 一隊の帆船があるにはあったのですが、北岸に渡ろうと狂気のようになった群集にはそれではまったく役に立ちませんでした。超満員の帆船は転覆し、沈没しました。何千人という人が溺死しました。河岸でいかだを組んで渡ろうとしたものも大ぜいいましたが、同じ運命をたどっただけでした。うまく逃げられたものも多数いたでしょうが、このうちの多くのものも一日か二日後には、おそらく日本軍の飛行機に爆撃されたことでしょう。

*これが唐生智逃亡後に起こった中国軍のパニック状態です。

⑨ 14日の火曜日に、日本軍、つまり戦車や大砲や歩兵やトラックが、町になだれ込んできました。恐怖時代が始まったのです。その後の10日間は日に日に激しさと恐怖が増していきました。日本軍は中国の首都、憎い蒋介石政府の所在地の征服者であり、彼等は好きなように振る舞うことができたのです。・・・彼等の”誠意”の見せ方というのは、強姦・掠奪・殺人を意のままに行うことでした。我々の難民収容所から男達が群れをなして連行されました。その時は労働に使われるものとばかり思っていましたが、その後なんの音沙汰もなく、これからも音沙汰はないでしょう。・・・

*このあたりのフィッチの記述は、国民党政府顧問であったベイツの先に紹介した記述に似て、日本軍が南京城に征服者としてなだれ込み「強姦・掠奪・殺人を意のまま」に行ったとしています。フィッチは、その妻が蒋介石夫人宋美麗の友人であったこともあり、ベイツと協力して『戦争とはなにか』の編集に参加しました。こうして、唐生智が逃亡したことによって生じたパニック状態に伴って発生した日本軍の敗残兵処理や捕虜の取り扱いは、彼等が日本軍の暴虐を宣伝する上での格好の材料をなりました。彼等は、こうした宣伝を安全区国際委員会の名によって行ったのです。

 こうしたフィッチやベイツの宣伝行動に対して、国際委員会の中には軽快する動きがあったようで、1938年3月3日のベイツからティンパーレへの手紙には次のようなことが書かれています。

 「ここにいる外国人のグループのある者は、全ての伝導団が南京から追放されないように、当局に対して徹底的に報告を行ったり、抵抗したり、あるいは間接的に宣伝することはやめるよう懇願し続けています。それはスマイスやミルズに対してもある程度行われ、フィッチがここにいた時は彼に対しても行われました。以上のことは、しばらくの間、用心深くする必要があることを示唆するために触れました。」(『南京事件資料集アメリカ編』p358)

⑩ その日(16日)の朝から強姦事件が報告されるようになりました、我々の中でも100人以上の婦人が兵士に連行されましたが、その内7人は大学の図書館の職員でした。しかし、自宅で強姦されたものはその何倍もいたに違いありません。

*17日は、松井石根中支那方面軍司令官の南京城入場式が行なわれた日でした。そのため、日本兵は13日の南京陥落以降、城内掃討や清掃その他の準備に忙殺されました。また、その翌日の18日は戦没者に対する慰霊祭が行われました。従って、この記述にあるような、16日の朝から100人以上の婦人を連行して強姦するなどといった行為を行う余裕が、当時の日本軍兵士にあったとは思われません。また、日本軍兵士は夕方も点呼が行われ、夜間外出は禁止されていました。従って、これらは、日本軍による城内掃討を攪乱しようとした、便衣兵の仕業であったことが疑われるのです。
(つづく)

2012年3月25日 (日)

橋下政治の今後の帰趨を制する第一のポイントは何か。――権力行使における私情抑制がカギ

橋下大阪市長への期待と不安 http://agora-web.jp/archives/1441811.html

 *辻元氏のアゴラ上記記事に対する私のコメントです。なお、この記事のコメントでは「権力行使が自己抑制的になされる間」としていましたが、「自己抑制的」を「私情抑制的」に訂正致します。

 本論は、橋下氏の推し進めている政治改革について、「行政システムの改革による効率化によって、国民負担増を伴うことなく、財政再建することは不可能」。唯一の方法は「消費税30%程度の増税と社会保障の削減」など「国民の負担増」である。よって、それを正面から国民に訴えるべきであって、公務員バッシングなどのポピュリズムに走るべきではない、というものです。

 この意見は現行の公務員制度が抱えている問題点を看過していると思います。私見では、日本の公務員制度の問題点は、それが必然的に共同体化(=ムラ化)するということです。これは日本の労働組合(公務員の場合職員団体)が全職種を抱え込んだ企業別組合になっているためで、民間企業の場合は、変化する経済状況に対応して経営的観点からの組織の合理的再編を常に迫られますが、、公務員組織の場合はそうした契機が全く働かない。また、一般職は公務員の職務上、政治的行為に一定の制限が課されていますが、現業部門にはそれがないので、どうしても組合運営が現業主導となってしまう。そのため、組織の共同体化(=ムラ化)の維持が、組合運営の中心課題となってしまうのです。おそらく大阪市の組合も、こうした弊に陥っているのではないでしょうか。

 ではこれをどう改革するか。方法としては現業部門の民営化と公務員の業績評価システムの導入しかないと思いますが、これは一種の共同体解体ですから大変なことです。しかし、これを避けては自治体組織における「ムラの論理」の排除はできません。従って、自治体の財政再建も困難になります。これができなければ、当然、国民全体に対して、増税や社会保障削減による財政再建を正面から訴えることもできなくなります。つまり、問題は、グローバル化という経済状況の変化に対応するために必要とされる、国民の意識改革をどう進めるかということなのです。

 これを成功させるためには、まず、「ムラ意識」の温床となっている自治体職員の意識改革から始めるしかないでしょう。しかし、そうした意識改革が理性の説得だけで可能なら何も問題はないわけですが、それは無理で、政治的に決着するしかない。また、民主主義のもとでその意志決定を左右するのは世論であり、その世論形成に多数を占める民間は、こうした時代の変化により自覚的ですから、その自覚に乏しい公務員に対する不満は強くなります。それが、現在、世論が橋下氏を支持している理由だと思います。

 ただ、こうした改革も、氏の権力行使が私情抑制的になされている間はうまくいくと思いますが、それが恣意的なものに感じられるようになると、世論の支持離れは早いと思います。この点が、橋下政治の今後を占う第一のポイントだと、私は見ています。

2012年3月22日 (木)

南京事件(3)――東京裁判が捏造した「南京大虐殺」を信じた日本人、信じなかった日本人

 そもそも「南京大虐殺30万人説」が登場したのは、1946年7月から東京裁判における「南京大虐殺」に関する審判が始まってからで、検察側は最終論告で「6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は26万ないし30万」と主張しました。しかし、1947年3月の判決は、次のようになっていました。(要約)

南京暴虐事件(昭和23年11月4日)
一、南京に残った住民は約50万、兵士は約5万で、兵士の大半は撤退するか安全地帯に避難し、抵抗は一切しなかった。

二、占領後日本の兵隊は、中国人の住民男女子供を無差別に殺した。その数は占領後に、三日の間に少なくとも一万二千人に達した。

三、幼い少女や老女を含む多数の女性が強姦され、殺され、死体は切断され、占領後の最初の一ヶ月間の強姦事件は約二万件に達した。

四、日本軍は欲しいものは何でも住民から掠奪し、店舗、倉庫、住宅を計画的に放火し、全市の約三分の一が破壊された。

五、一般男子の大量殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民に混じり込んでいるという口実で一団にまとめられ城外で機関銃と銃剣で殺害された。兵役年齢にあった中国人男子約二万が殺害された。

六、日本軍は、城外(南京から約66マイル以内)の人びとにも城内の住民と同じような仕打ちをし、5万7千人以上が収容され飢餓と拷問に遭い、多数のものが死亡し生き残った者の多くは機関銃と銃剣で殺された。

七、城外で武器を棄てて降伏し捕虜となった約3万人の中国兵は裁判の真似事さえ行われず殺された。

八、こうして日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上となった。これらの数字には死体を焼き捨てられたり揚子江に投げ込まれたり、その他の方法で処分された人びとは計算に入っていない。

 ところが、松井石根に対する判決書(昭和23年11月12日)に述べられた罪状は次のようになっていました。

 「この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占拠されたときに始まり、この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人びとが殺害され、無数の財産が盗まれたり焼かれたりした。」

 つまり、南京事件における殺害数と強姦数は、前者は二十万と二万人以上となっていたのに、後者では、十万以上と何千という数字に減らされていたのです。おかしな所はこれだけではありません。次に、その罪状をその後判明した事実関係と照らし合わせて見ます。

一、南京に残った住民数は約二十万であるにもかかわらず、これが約五十万に水増しされている。また、 中国軍の守備兵力は約5万であり、その大部分は撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したと言っている。

二、住民男女子供一万二千人が無差別に殺害されたというがそんな事実は全くない。

三、幼い少女や老女云々とか二万件の強姦なども全くのデマ宣伝で、当時安全区の警備・掃討に当たったのは第16師団歩兵第七連隊(金沢)の人数は約1,400名に過ぎず、それ以外の兵士の出入りは禁止されていた。

四、日本軍の入城後数日間は食料や家具類の徴発はあったが、日本軍兵士による放火は考えらない。

五、安全区に逃げ込んだ中国軍兵士は指揮官の指揮下に投降したわけではなく、軍服を脱ぎ平民服に着替え、さらに武器を隠し持ったまま安全区に潜入したものが多く、便衣兵と言うより捕虜の資格なき不法戦闘員と見なされてた。そのため、城内の戦闘を終わらせ安全を確保するためには、彼等を摘出する必要があった。その数は『南京戦史』によると約7,000人弱であるが、その内何人が処断されたかははっきりしない。第七連隊の戦闘詳報には刺射殺数として6,670という数字が上げられているが、実数はその1/3 程度ではないかと見られる。

六、これは幕府山に近い上元門付近の殺害数とされているが、この地域にいた日本軍部隊 は第13師団歩兵六十五連隊(会津若松)山田支隊約2,200人であった。この部隊に12 月14日、約15,000人の投降兵があった。そこで、その中に含まれていた非戦闘員を解 放し捕虜約8,000人となった。山田支隊はこれを上元門郊外の建物に収容したが十分な 給養ができず、その取り扱いについて、翌15日南京の16師団司令部に問い合わせたと ころ、「ミナ殺セトノコトナリ」(おそらく山本七平の言う「私物命令」で16師団参謀 長勇の言葉ではなかったかと推測される)という意見だった。

  しかし、山田少々はこれをはねつけ、両角連隊長もこれを支持した。しかし、16日 午後12時半頃、放火・暴動が発生し約4,000人が逃亡、その際約2,000人をやむなく揚 子江岸で射殺した。残り2,000人の処理については、揚子江「北岸」の草鞋州(ソウア イス)に船で渡して解放することとし、17日夜捕虜を軽舟艇に乗せて中流まで行った ところ、揚子江北岸の支那兵が敵前上陸と勘違いし銃撃を始めたため、捕虜は処刑され るものと錯覚して逃げだした。これを制止しようとして日本兵が銃を乱射したことから、 捕虜に多数の死傷者を出すことになった。(中国兵の 死者数百名?)この際護送した 日本兵にも若干の死傷者を出した。

七、六の5万7千人というのは、あたかも城外の一般住民であるかのように書いているが、実際は城内から脱出後幕府山付近で投降した兵士たちであった。従って、七の城外で武器を棄てて降伏し捕虜となった約3万人と言うのがこれにあたる。(5/3下線部訂正)

八、一から八までの数字を合計すると、約127,000人となるが、これに揚子江に流される などしたその他の死者を加えて、「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京 とその周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」とされた。

 これらの数字のうち、二から四に上げられた数字は、実はマンチェスター・ガーディアン紙中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が南京在住の訪米人(匿名だったが南京金陵大学教授マイナー・ベイツと宣教師のジョージ・フィッチ)の原稿を編集して、昭和13年7月にイギリスのゴランツ社から発行した『戦争とはなにか――中国における日本軍の暴虐』の記述に基づくものでした。五の中国男子二万人というのは、南京駐在米副領事エスピーの推測に基づく証言によるもの。六の城外の人びと五万七千という数字は魯甦という中国人によるデタラメ証言、七の捕虜三万人以上は、むしろ六の根拠数と考えられる。そして、これらを合計した127,000人に、その他の揚子江に流されるなどしたその他の死者を加えて二十万以上としたのです。(5/3下線部訂正)

 では、なぜ東京裁判はこのような不確かで誇大な数字を積み上げて「日本軍が南京を占領してから最初の6週間に、南京と その周辺で殺された一般人と捕虜の総数は二十万以上」としたのでしょうか。言うまでもなくその背後には、東京大空襲、広島、長崎原爆による非戦闘員虐殺の罪を覆い隠そうとしたアメリカの思惑があったこと。また、国民党には、日本の敗戦後中国国内で熾烈化しつつあった中共とのヘゲモニー争いにおいて、中共が、国民党の日本軍宥和政策を激しく非難したことから、これに対抗するため、抗日戦における日本軍の残虐性をアピールする必要に迫られたのかもしれません。

 その結果、中支那方面軍司令官であった松井石根は、日本軍の南京における暴虐を防止するための努力を怠ったという、いわゆる「不作為」の罪に問われて、A級戦犯として起訴され、訴因第五十五号(通例ノ戦争犯罪及ビ人道ニ対スル罪)について有罪となり絞首刑に処せられました。

 東京裁判で、戦時中に日本軍がこのような残虐行為を犯していたと聞かされて、日本国民は半信半疑ながらも、中国に対して深刻な贖罪意識を持つようになりました。ところが、このナチのホロコーストにも匹敵すると宣伝された南京大虐殺は、その後中国においても、有罪の判決を下した連合国においても、日本においても、それが話題に上ることはありませんでした。そのため、昭和50年に発行された教科書『詳説日本史』(山川出版)の日中戦争に関する記述にも「南京大虐殺」に関する記述はありませんでした。(『南京事件 国民党の極秘文書から読み解く』p8)

 それが全ての教科書に「南京大虐殺」として記述されるようになったのは、9171(昭和46)年8月から朝日新聞が「中国の旅」を連載し始めて以降のことでした。その翌年の日中国交回復の年には本田勝一著『中国の旅』(本多勝一著)が出版されベストセラーになりました。これは当時高度成長下の日本で平和を享受していた日本人に大きな衝撃を与えました。さらに、その翌年には、この大虐殺が本当にあったことを裏付ける資料として、先に紹介した『戦争とはなにか』(英語版の翻訳)が洞富雄教授らによって紹介されました。

 そこには、南京陥落後の南京において日本軍が犯したとされる、東京裁判における第二から四までの罪状に相当する殺人、強姦、略奪・放火事件が、当時南京において実際に見たというアメリカ人の証言のもとに記録されていました。その後、この証言者は、南京の金陵大学教授であり宣教師であったベイツ他だったことが明らかとなりました。その結果、こうした第三者的立場にあったアメリカ人宣教師らが”嘘をつくはずがない”と信じられたことから、「南京大虐殺」は日本人に真実と受け取られるようになり、それ以降、ほとんどの教科書に、この事件が記載されるようになりました。

 一方、このような、日本人が中国において犯したとされる残虐事件を中国人の視点から日本人に紹介した本多勝一氏の「中国の旅」について、疑問を呈する人も現れました。まず、イザヤ・ベンダサンが、「中国の旅」の中の「競う二人の少尉」(昭和46年11月5日)=「百人斬り競争」の記事をフィクションだと断定したことから、本多勝一氏との間で論争が始まりました。次に鈴木明が、同様の疑問から「南京大虐殺のまぼろし」を『諸君』に掲載し始めました。さらにそれを受け継ぐ形で、実際の軍隊経験を元に検証作業を始めたのが山本七平でした。(「私の中の日本軍」)

 この結果、「百人斬り競争」については、この記事を書いた東京日日新聞の記者浅海一男記者が、戦意高揚記事を書くため両少尉に”やらせ”の証言をさせ、それを記事にしたものであることが立証されました。これに対して、「南京大虐殺」を真実と主張するいわゆる「自虐派」の人びとは、「百人斬り競争」は実は戦闘行為ではなく捕虜の「すえもの斬り」だったとする主張するようになりました。同時に「南京大虐殺」を証拠づけるための資料の発掘に尽力しました。その成果が、『日中戦争資料集』第八巻(極東軍事三番南京事件関係記録S48)や第九巻(「戦争とはなにか」「南京安全区檔案」「南京における戦争被害」「T・ダーディン記者報道」S48)及び『南京事件資料集』のアメリカ編と中国編(1992年)でした。

 この間、旧日本軍人の間でも、この事件の真相を解明しようとする動きが始まり、その結果、本稿の冒頭に紹介した偕行社による『南京戦史』(平成元年)及び『南京戦史資料集Ⅰ(平成元年)、『南京事件資料集』Ⅱ』(平成5年)が刊行されました。こうした資料収集と実態解明の努力が進められた結果、東京裁判判決の基礎資料となったティンパーリの『戦争とはなにか』に記載された、「外国人の見た日本軍の暴行」における記述内容は、必ずしも実態を正確に反映したものではなく、意図的に日本軍の残虐性を強調することで、欧米人の支援を得ようとした中国の宣伝文書ではないかと言うことが疑われるようになりました。

 その嚆矢となったのが、この本の著者ティンパーリが、国民党中央宣伝部の顧問だったことが鈴木明によって発見されたことでした。(「国民党政府は彼を英米に向けて派遣し宣伝工作に当たらせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。編著に『中国における日本人の恐怖』(1938年)一書がある」『近代来華外国人名辞典』)(『新「南京大虐殺」のまぼろし(1996)』P292)。また、北村稔氏は、この裏付けとなる資料を、国民党の国際宣伝処の組織と活動の研究書『中国国民党新聞製作之研究』(王凌霄著台湾で発行)における南京事件に関する次のような記述に発見しました。

 「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直ちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアンの記者ティンパーリとアメリカの教授スマイスに宣伝刊行物の《日軍暴行紀実》と《南京戦禍写真》を書いて貰い、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当を出す等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際有人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝方法は、国際線伝書が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」。

 さらにその極めつけとして、北村氏は、蒋介石に委任され、日中戦争開始以前から上海で外信の検閲に従事していた曽虚白の『自伝』に次のような記述を発見しました。

 「我々が検討した結果、戦局が全面的劣勢に陥った現段階で明らかにすべき最も重要な事柄は、第一には戦闘にたずさわる将士たちの勇敢に敵を倒す忠誠な事績であり、第二には人民に危害を加える人道にもとる凶悪な敵の暴行であった。物事は信じがたいほど都合よくいくもので、我々が宣伝工作上の重要事項としてて易の暴行(の事例)を探し求めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた」。

 この「事実」とは、東京日日新聞が伝えた「百人斬り競争」の報道と、日本軍は「怒濤のごとく南京城内に殺到した」という読売新聞の掲げた見出しでした。そして前者は『戦争とはなにか』に収録される際、「Murder Race(殺人競争)という表題がつけられ、いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であると言う装いがなされ」ました。そこには「かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した」とも記されていました。(『「南京事件」の探求』p43)

 この事実は、東中野修道氏によって、台北の国民党党史館にあった国民党中央宣伝部資料の極秘文書中の「対敵課工作概況」の中の「(一)対敵宣伝本の編集制作」の中の次の記述によっても確認されました。

1、単行本
 本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。
A『外人目賭中之日軍暴行(外人目撃中の日本軍暴行)』
この本は英国の名記者田伯烈(=ティンパーリ)が著した。内容は、敵軍が一九三七年十二月十三日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに悪逆非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記載している。

 また、この本に匿名で記事を載せたベイツは中華民国政府の顧問であり、もう一人のこの本の著者フィッチも、彼の妻が蒋介石夫人の宋美麗の親友であったことも、同氏によって明らかにされました。なお、英語版の『戦争とはなにか』の漢訳本が『外人目賭中之日軍暴行』であり、これは英語版と同時出版されていました。(『南京事件――国民党の秘密文書から読み解く』P20)

 私は、この『戦争とはなにか』の第一章「南京の生き地獄」、第二章「掠奪・殺人・強姦」、第三章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第四章「悪魔の所為」や、付録の「南京の暴行報告」「国際委員会の(日本側との)書簡文」「百人斬り競争」(以上訳文は日本版『外国人の見た日本軍の暴行』による)などを読んだ時さすがに暗澹たる気持ちになりました。これらの報告をしているのは欧米新聞記者やアメリカ人宣教師や大学教授であり、また、これらの暴行事例が日本側にも知らされていたことなどを考えると、誇張があるにしても、ここには相当の事実が含まれているのではないかと思わざる得なかったからです。

 しかしこうした疑念も、その後の阿羅健一氏や板倉由明氏等による『南京戦史』の刊行、北村稔氏『「南京事件」の探求』、東中野修道氏「南京事件 国民党秘密文書から読み解く」、冨沢繁信氏『南京事件の核心』などの著作によって、その真相が次第に明らかになってきました。その結果、ティンパーリの『戦争とはなにか』に記載された日本軍の暴行記録には、便衣兵による後方攪乱や、単なる伝聞証言あるいは安全区の難民自身によるものが多く含まれることが分かってきました。ベイツ等国際委員会のメンバーは、それを検証もせず日本軍兵士の仕業と決めつけ、これを日本軍の残虐行為を告発するための宣伝に利用していたのです。

 しかし、それにしても、南京は日本軍が占領していたのであり、第三国人が運営する安全区国際委員会のこのような中国側に立った虚偽の告発について、日本側はなぜそれを実地検証をするなどして事実確認をしなかったのでしょうか。残念ながら、これらの事件の内どれが日本軍兵士によるものかは、『南京戦史』にも具体的な記述がありません。しかし、冨沢繁信氏は、南京事件に関する一次資料の全てをデーターベース化しそれを様態別に集計することによって、事実と認定できるものと単なる伝聞であって信用できないものとを、区分することに成功しました。

 次回は、その分析結果を見ながら、さらに、「南京大虐殺」の真相に迫りたいと思います。

2012年3月19日 (月)

大阪市における「君が代」起立斉唱問題を契機に法律の規制が及ぶ範囲について考える

 アゴラ言論プラットフォームで北村隆司氏が、「君が代」斉唱問題に関わって興味深い三つの記事を書いています。

 まず最初の記事は、大阪市長の橋下氏が、職員の「入れ墨」についてそれを「消させよ」としたことについて、職員の「入れ墨」を禁止することは、憲法第11-14条の規定(基本的人権、その公共の福祉のための利用、個人としての尊重、法の下の平等)に抵触するのではないか、とする意見です。これは公務員の「入れ墨」が、「公共の福祉のための自由の利用」という範囲を逸脱した「権利の乱用」となるかどうか、日本では議論が分かれると思いますが、こうした一種の個人の趣味の問題を、法律で規制できるかどうかを問う問題提起としては、大変おもしろいと思いました。

それはないよ、橋下さん! ―「入れ墨は首、それが駄目なら消させよ」発言 北村 隆司
http://agora-web.jp/archives/1437985.html#more

「現行法では「入れ墨」は法的に何ら問題ありません。「入れ墨」を理由に職員を懲罰に課したいなら、先ず「入れ墨」を非合法化すべきです。ぶれない事が強みの橋下市長でしたが、「法律に触れない物は何をやっても良い」と言う年来の主張は、一体どこへ行ったのでしょうか?

「公務員に入れ墨を許す国がどこにある」とも言われたそうですが、欧米では「入れ墨」をした警官や消防夫、軍人などはざらです。

余談になりますが、米国で連邦予算局長、労働長官、財務長官、国務長官を歴任したジョージ・シュルツ氏は、母校プリンストン大学のシンボルである「虎」の入れ墨をお尻にしている事は有名な話です。

法律に疎い私ですが、この問題に関する限り、市長の言動は憲法が保障した国民の基本的人権への公権力による侵害としか思えません。又、条例で職員の「入れ墨」を禁止する事も、憲法第11-14条の障碍を乗り切れるかどうか、甚だ疑問です。」

 次の記事は、イスラエルにおいて、最高裁判事に選ばれたアラブ人ジョブラン判事が、イスラエルの伝統文化に基ずく国民統合を歌った国歌を、最高裁長官の送迎パーティーで起立はしたが歌わなかったことが問題視されていることについて、それを日本の公立学校の儀式における「君が代不起立不斉唱」の問題と対比したものです。
その主張するところは、

 「イスラエル最古の日刊紙とは言え7万部弱の発行部数しかない弱小紙である「Haaretz」紙が「少数派の人達をフェアに扱う事が真の民主主義で、その実行が如何に難しいかを我々ユダヤ人に教えてくれたジョブラン判事に、深甚の感謝を表さなければならない」と言う勇気ある社説を掲げ、更に続けて「敵意に囲まれた同僚を片目に、ジョブラン判事を冷静な立場で擁護する最高栽判事が一人も居なかった事には苛立ちを覚える」と批判したことについての論評です。

 氏は、「袋叩きに合う事は間違いないと知りながら、この様なコメントを出す新聞が残っていた事を知り、ジャーナリストの威厳と誇りがまだ健在だと勇気づけられました。」といい、続けて、「民族間、宗教間で戦争の続くイスラエルならいざ知らず、9割以上の国民が同じ民族で、同じ言語を持ちながら、「国歌」すら一緒に唱和出来ない「日本」。キリスト教徒、ユダヤ教徒、回教徒、ヒンズー教徒、黒人、白人、黄色人が揃って「God save the Queen」を歌える「英国」。

 この違いは何か?

 国民の成熟度の違いなのか? 対話の不足なのか? 埋める事の出来ない「違い」がどこかにあるのか?本来なら条例などなしに国旗掲揚、国歌斉唱が出来るのが当たり前なのに、日本では何故こうも揉めるのか?」

 と問いかけたものです。そこで、私の考えを次のようにコメントしました。

「イスラエル版『君が代』騒動に考える」北村隆司http://agora-web.jp/archives/1441120.html

(私コメント) 民主主義という政治制度を採る限り「思想・信条・良心の自由」は当然です。しかし、国家が政治的に保障するこの基本的人権と、歴史的伝統文化に由来する国民の統合原​理とは一見矛盾するように思われますが、基本的には両者は別の原理であって二者択一を迫るべきものではありません​。とはいえ、後者を国民統合の原理とする国家では、前者によって後者が毀損されるようなことは認めないと思います。

 この記事の場合、最高裁判事に選ばれたアラブ人が、イスラエルの伝統文化に基ずく国民統合を歌った国歌を、最高裁長官の送迎パーティーで起立はしたが歌わなかったこ​とが問題視されたわけです。この場合、最高裁判事に選ばれる条件がどのようなものであったか知りませんが、イスラエルが民主主義国家である限り、「思想・信条・良心の自由」が制限されるはずはないので、氏はあえてこうした行動に出たのではないかと思われます。

 それが物議を醸したわけですが、民主主義政治制度を採る限り、「少数派の人達をフェアに扱う」べきで、「その実行が如何に難し」いことであっても、その自由は保障されるべきである、というのがこの新聞社の主張だと思います。

 そこで、我が国の「君が代」問題ですが、これを否定する人たちの問題点は、政治的な「思想・信条・良心」の自由を主張するに止まらず、日本の伝統的文化的統合原理と​しての「天皇制」を否定している点にあります。つまり、冒頭の論で言えば、前者の自由の名を以て後者を否定しているわけです。

 では、なぜ日本でこのような問題が生じるかというと、日本国の統合原理とは何か、ということについて、また、その伝統的文化的統合原理としての「天皇制」に理解につ​いて、国民間でコンセンサスが得られていないためです。​これが日本の場合の問題で、イスラエルの場合とは決定的​に異なる点です。

 とはいえ、イスラエルのような国でも、以上のような論議がなされるのですから、伝統文化を異にする人びとを政治的に統合しようとする場合、民主主義政治制度を採る限​り、「いかにその実行が難し」くても、「少数派の人たち​をフェアーに扱う」ことが必要になります。

 このアラブ人判事の場合、起立をすることでイスラエル​の伝統文化に対する敬意を表し、謳わないことで自らの伝統文化への忠誠を示したわけですが、日本の公立学校で職​員に儀式での「君が代」の起立斉唱を求める場合も、これと同様の解決法を考慮すべきではないでしょうか。

 要は、自らの伝統文化に対する自信と誇りの問題で、それを維持発展させることについての覚悟の問題であって、​それくらいの余裕は持ちたいと思うのです。大阪の橋下氏​にもこうした余裕を持ってもらいたいと願っています。

 次の記事は、同じ「君が代」斉唱問題について、北村氏は、朝日新聞が「個人の歴史観で見解が分かれる君が代をめぐり、最高裁は職務命令で起立斉唱を強制することに慎重な考慮を求めた」と1月16日の最高裁判決を紹介したことに対して、これは真っ赤な嘘で、判決文は「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えない」と言っているだけであり、この朝日の社説は「判決文を書き換えた」悪質な詐欺的記事だと批判しています。

 さらに判決は、「学校の規律や秩序の保持等の見地から重きに失しない範囲で懲戒処分をすることは,基本的に懲戒権者の裁量権の範囲内に属する」と学校当局の「懲戒権」を認めた上で「懲戒は重きに失しない範囲」と懲罰の重さに慎重である事を求めたに過ぎない。従って、公共の利益の為には強制力を持つ公務員は、一般人以上の法的義務の厳守(コンプライアンス)や上司の命令に対する厳しい忠誠義務が求められているのであって、卒業式で、生徒や父兄が「君が代」に対し、起立斉唱を拒否する事は市民の権利に属するが、教員は公務員である限りそうは行かない、と言っています。

 確かに、日の丸君が代が国旗国歌として法制化され、儀式におけるその掲揚・起立斉唱が教育委員会規則で定められた以上、公務員たる教師がそれを守ることは当然です。しかし、「君が代」を歌っているかどうか口元の動きをチェックするなどといった監視行為が「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えない」という最高裁の判決の範囲に止まるものかどうか、いささか疑問なしとしません。

 そこで、私は次のようにコメントしました。

朝日新聞のインチキ社説「大阪の卒業式―口元寒し斉唱監視」を読んで!北村隆司http://agora-web.jp/archives/1441120.html   

(私コメント) 「法が規制できるのは人の外面的行為のみです。確かに国​旗国歌法が制定され教育委員会が儀式における国旗掲揚と​国歌の斉唱を職員に義務づけたなら、その法や規則に従う​のが正しいが、その場合も外面的行為の規制に止まるので​あって、だから私は口パクでもいいと言ってきました。だ​がその確認は実際には困難だから起立をもって斉唱と見な​すべきです。

 もともと、こんな法律や規則ができたのは、公立学校の一部の職員が、日の丸君が代を国旗国歌と認めず、それを儀式において掲揚・起立斉唱することを妨害あるいは不起​立不斉唱することで、自らの思想をアピールしようとしたためです。だから、例え日の丸君が代に反対でも、自らの思想をこんな形で表明しなければ、これらの法律や規則は生まれなかった。

 しかし、それらが法律や規則として制定された以上、これを公立学校の職員が遵守するのは当然です。しかし、その場合も、その効力はあくまで外面的行為の規制に止まる​のであって、歌い方を詮索する必要はありません。歌は心で歌うものであって嫌々歌うものではありません。そんな歌い方をするなら、はじめから歌ってほしくないと考えればいいことです。

 問題は、なぜ戦後日の丸君が代に対するこうした反対運​動が生まれたかです。それは敗戦の結果、国民の間に戦前​の日本の国家体制に対する不信感が生まれたためです。従​ってこれを克服するためには、自らの民族や国家に対する​自信と誇りを取り戻すことが必要です。そこで問題となる​のが、いわゆる自虐的歴史観をいかに克服するかというこ​とです。

 これは、政治の課題ではありません。日教組の最大の誤りは、実はこれを政治的に解決しようとしたことにあった​のです。」

 実は、私も長年教職員団体に所属していて役員もやったのですが、こうした日教組の政治団体化の問題については一貫して批判してきました。しかし、今日までそうした体質は変わらず、今大阪で提起されているような問題を惹起しているわけですが、おそらく、この問題は、日本における労働組合組織が企業別組合であって、それが公務員に適用された場合、倒産のおそれがないだけに、その組織が「ムラ共同体」になってしまい、組織の法的合理性が失われてしまうということだと思います。

 といっても、こうした被使用者の利益を協同して守る組織が必要な事は言うまでもなく、もしこれがなくなると、それこそ「権力を三日握ればバカになる」の言葉の通り、まさに”やりたい放題”恣意的な権力行使を免れないのです。ここに「法による支配」「国民主権に基づく政治家の選挙」「権力の分立とその相互牽制」「基本的人権の保障」などの民主主義政治原理の重要性が出てくるのです。

 橋本市長の「維新八策」は、公務員組織に限らずとかく「ムラ」化しやすい日本社会に風穴を開け、国民の自主独立を基調とした新たな国作りを目指す斬新なアイデアに満ちていると思います。それだけに、その実現を目指す政治手法において、上記の民主主義政治原理を十分踏まえて、落ち着いて事を進めることを切に願いたいと思います。

(参照)日本国憲法
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

2012年3月 6日 (火)

南京事件(2)―― 偕行社『南京戦史』が明らかにした「南京大虐殺」の実相

 野田首相は衆院予算委員会で自民党議員の質問に答える形で南京大虐殺について語り、「どれくらいの規模だったかは諸説ある」と述べた。また、、「名古屋市と南京市の間で適切に解決されるべき問題で、早急に解決されることを期待する」と述べ、政府として静観する姿勢を示した、そうです。なかなか落ち着いた対応ですね。地方自治体間の議論を国家間の議論にはしない、そう言ってボールを中国に投げておく。もし中国が動けばそれに応じた対応をする・・・。ま、中国は不用意には動かないと思いますが。

 というのは、この事件は、もともと日本と蒋介石国民政府との戦いの中で起こったことであって中共は直接関係ないからです。もちろん、中共としては、これを、今、国民党つまり台湾との「統一戦線」形成に利用しようとしているらしいので(『新南京大虐殺のまぼろし』参照)、簡単にこれを手放すことはないと思います。しかし、その後の日本側の研究の進捗によって、それが「戦争プロパガンダ」であったことがネタバレしていますので、あまりこの問題を深追いすることはないと思います。

 では、以下、その「南京大虐殺」の「戦争プロパガンダ」としての謎解きを、南京事件研究の諸著作を参考に、進めてみたいと思います。

 まず最初に、中国は、現在この「南京大虐殺」をどのようなものと認識しているかを見てみます。

 「1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事変を起こし、全面的な中国侵略の戦争を発動した。同年8月13日、日本軍は上海を攻撃し、上海を南京攻略の第一歩とした。11月12日、日本軍は上海を占領し、その後、兵を三つのルートに分けて南京へ向かった。12月13日、日本軍は南京を占領したあと、公然と国際公法に違反して、武器を手放した兵士と身に寸鉄も帯びない平民たちを大量虐殺した。その期間は六週間にもわたり、犠牲者総数は30万人以上にも達した。その期間に、南京の三分の一の建物が破壊され、市内で起こった強姦輪姦などの暴行は二万件以上にのぼり、数多くの国家財産と個人財産が略奪され、文化の古都は空前の災禍に見舞われ、南京城は人間地獄と化してしまった。この世のものとも思われない悲惨なこの歴史事件は、日本軍が中国侵略期間中行った数え切れない暴行の中でも、もっとも際立った代表的な一例である。この大惨禍は永遠に人類の文明史上に記されるであろう。ここに展示されている写真、資料、映像と実物はすべてゆるがぬ歴史的証拠である。」

 これが「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」いわゆる「南京大虐殺記念館」の入り口に掲げられた「前書き」です。つまり、これが歴史的事実であることを証明するために、この記念館が建てられた、というわけです。では、これが建設されるに至った経緯はどういうものかというと。これは、wiki「南京大虐殺記念館」に次のように説明されています。

 「日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた。」

 「1982年、田辺の再三の建設要求と破格の資金提供に対し、中国政府の鄧小平ならびに中国共産党中央委員会が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。この支持を受けて、1983年、中国共産党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館を設立することを決定し、中国共産党南京市委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。」

 おそらく、日本社会党委員長の田辺誠氏は、上記の「南京大虐殺」を事実だと思い込み、中国への贖罪意識と共に、こうした残虐事件を引き起こした日本人と自分とを切り離すべく、中国に対してこのような働きかけをしたのだと思います。それにしても田辺氏らは、かって日本の兵士が、6週間の間に、無抵抗の中国人を30万人も殺し、2万件以上の強姦事件を引き起こした、などということを、本気で信じたのでしょうか。

 そこで以下、それが事実であったかどうかを検証して見たいと思います。幸い、その後の日本側の粘り強い研究の積み重ねによって、これは、中国国民党による「戦争プロパガンダ」だったということが次第に明らかになって来ています。以下、そのことをできるだけ分かりやすく説明したいと思います。

 なお、こうした結論を導くに際して、一つの画期となったのは、私は、新旧日本軍人の「親睦・互助・学術研究」団体である「偕行社」によって、『南京戦史』がまとめられたことではないかと思っています。その「刊行の目的」には、次のように述べられています。

1,本刊行の第一の目的は、南京攻略戦、及びその占領後南京およびその占領直後南京およびその周辺に於いて、我軍は如何に行動し、何をしたかを明らかにして、会員各位に南京戦および所謂「南京事件」の実相を、把握していただくことにあります。

2,第二の目的は、学校の教科書等に記載されている「南京事件」の誤った記述を、是正してもらう根拠を提供することであります。

3,(略)

 また、その編集方針には、

「戦史、すなわち歴史書として、後世の史家の批判にも耐え得るよう、可能な限り学術的に価値ある本とする、ということ」「史実は一つしかありません。・・・私たちは一つしかないその一つを、再現することに全力を尽くしました。すなわち最も信憑性のある第一次資料によることを第一の条件と致しました。そのため我々としては公表を憚りたくなるようなものも、あえて採り上げ収録致しました。」

 と述べられています。

 そこで、この『南京戦史』によって総括的に把握された、南京戦における中国軍の兵力や死者数についてですが、それは、各種資料を総合して、中国軍の総兵力を最大7万6千、その内3万を戦死、渡江による脱出1万5千、陸上突破3千、残り2万8千を南京城内外での敗残兵・捕虜・便衣兵と推定しています。この内、日本軍によって処断された者を1万6千、残りの約1万2千を、釈放・収容・逃亡と推定しています。なお、処断された者1万6千の内便衣兵で処断された者は約7千ですから、その他の約9千は南京城周辺の戦闘で敗残兵として掃滅されたり、また、捕虜となったが、何らかの事情で処断された者ということになります。

 また、当時、第三国人が推計した中国軍総兵力は約5万で、ニューヨーク・タイムスのダーディン記者は、1938年1月9日の記事で、殲滅された3万3千の内戦死1万3千、捕虜や敗残兵で処断された者2万としていました。また、イギリスの12月17日付「マンチェスター・ガーディアン・ウイークリー」は、7万5千強の兵が実際に南京付近に駐屯したとするのは疑わしい。・・・最終攻撃には、たかだか2万の中国軍と戦ったこと、それも南京防衛軍の兵士ではなく、陳江からの撤退組であった・・・」との認識を示していました。(『南京事件資料集Ⅰ』p523~524)

 
 これを見ると、『南京戦史』の数字は、想定された「最大値」に近いものではないかと思います。私の印象としては、特にその処断数の見積もりに、いささか過大なものがあるように思われますが、このことは後述することとして、当面は、この数字をもとに論述を進めたいと思います。

 
 そこで、なぜ、これだけの大量の敗残兵・捕虜・便衣兵が発生したかということですが、そこには次のような事情がありました。

一、南京は、東・南・西の三方からの包囲が可能で、しかも北面は揚子江によって退路が阻まれており防衛戦には向かない。従って、無用の犠牲は生まないよう「南京放棄論」が当時の中国軍首脳の間では大勢を占めていた。しかし、蒋介石は、首都防衛の面子や漢口に首都機能を移すための時間稼ぎのため、それに唐生智が南京固守を主張したこともあって、彼を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。

二、また、一説には、長期持久戦に備える観点から、あえてここで防衛戦をやることで、できるだけ敵兵力を消耗させる。それとともに、その結果生ずる城内の混乱状況を利用して、「埋伏の兵」による後方攪乱をやる。つまり、安全区に便衣兵を潜ませ、安全区内の難民区や外国人居住区において事件を引き起こし、それを日本兵の仕業に見せかけることで、日本軍の残虐性を世界に宣伝する。それによって、中国に対する国際社会の支援を取り付けようとした。

 こうして、唐生智による南京防衛戦が始まったわけですが、(当然のことながら)彼は、昭和12年12月9日の日本軍による降伏勧告を無視して、部下に徹底抗戦を命じました。にもかかわらず、唐生智は、昭和12年12月13日の南京陥落の直前12月12日20時に、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」との命令を発して、城内に5万?の将兵を置き去りにしたまま、揚子江北岸に逃れました。

 その際、直系軍の主力は渡江脱出させましたが、残りの兵(周辺農村から拉致した農民兵や、南京城内で徴兵した少年兵などの雑兵が多く含まれていた)は、三方より南京城に迫る日本軍の囲みを破って脱出しようとし、脱出路となった挹江門で圧死・墜死した者、あるいは揚子江を渡ろうとして溺死した者、督戦隊によって射殺された者、あるいは軍服を脱いで便衣に着替え安全区に逃げ込んだ者などがあり大混乱に陥りました。また、指揮官の指揮下に便衣に着替え安全区に潜入した者もいました。

 これが南京陥落時の中国軍の状況ですが、ここで問題となるのは、こうした混乱状態の中で、敗残兵や捕虜となり、あるいは便衣兵となって安全区にもぐり込んだ中国兵は、その後どうなったかということです。敗残兵の多くは、南京城に東方、南方、西方より攻め上る日本軍と遭遇し殲滅されました。しかし、投降して捕虜となった者も多かったのです。彼等の中には、一旦収容された後釈放されたり使役されたりした者もいましたが、暴動を起こして射殺された者もいました。

 特に問題だったのは、便衣兵の存在で、日本軍は上海戦以来便衣兵によるゲリラ戦法に悩まされてきましたので、これらは厳しく処断しました。ところが、南京戦においてはこの便衣兵を含めて捕虜が大量に発生したのです。なにしろ、幕府山付近では日本兵を遙かに上回る1万4千の投降集団があったといいます。そのため、これらの捕虜等の取り扱いは、戦闘が継続中であった事もあり、各部隊指揮官に任されました。その結果、それぞれの状況に応じた対応(釈放・収容・処断)が採られることになりました。

 なお、これに先立って、南京城内に居住する難民を保護するため、南京に残留した外国人宣教師等によって、安全区が設置されました。その運営は彼等を中心に15人の西欧人で組織する国際委員会があたりました。国際委員会は、安全区に逃げ込んだ敗残兵の取り扱いについて、武器を捨てたのだから戦時捕虜として扱うよう日本軍に要求しました。しかし、これが拒否されると、便衣兵と一般市民の選別が基準が杜撰であり、罪のない民間人が多数処刑されたなどと、日本軍の処置を激しく非難しました。

 しかし、便衣兵は、ジュネーブ条約第四条に謳う①指揮官の存在、②特殊標章の装着、③公然たる武器の携行、④戦争の法規の遵守、という合法戦闘員としての資格を満たしていないため、捕虜としては扱われませんでした。また、南京の場合は、中国軍は全軍そろって降伏したわけではなく、便衣兵が難民区に潜り込んでいる限り戦闘は継続中と見なされましたので、その戦闘を終わらせるためにも、一般市民に紛れ込んだ兵士を摘出分離する必要がありました。

 ところが、前述した通り、便衣兵の中には周辺農村において拉致されたり、南京城内で徴兵された少年兵など雑兵も多数含まれていたため、国際委員会の目には一般市民と兵士との区別はつきませんでした。しかし、体つきを見れば兵隊と一般市民は直ぐ区別がついたらしく、そこで「自治委員会の中国人と一緒に相談をしながら分離作業をやった」。従って、一般市民を狩り立てるようなことはなかったと、平民分離にあたった陸軍省通訳官は言っています。(『南京戦史』p387)

 しかしながら、そうした日本軍による便衣兵の摘出・処断は、国際委員会を構成するのアメリカ人宣教師等に、「武器を捨てた兵士を平気で殺害する残虐な日本軍、かわいそうな中国人」というイメージを強烈に印象づけることになりました。また、便衣兵の摘出が一段落した12月16日以降、安全区内の難民区や外国人居住区において、掠奪・放火・強姦事件が頻発しましたので、彼等は、これらは全て日本兵が引き起こしているものと思い込みました。

 そこで彼等は、安全区で発生するこれらの事件を逐一記録し、それを日本大使館や日本軍に提出して改善を求めました。それを記録した「安全地帯の記録」には517件の事件が記録されていますが――これらをデータベース化した冨沢繁信氏によると、その中で文責者、被害者及び被害場所が記されている事件はわずか95件しかなく、これは20万都市で二ヶ月間に起こった事件の数としては、それほど多くないといいます。。(以下『データーベースによる南京事件の核心』参照)

 つまり、国際委員会が日本人による犯行として訴えた事件の大半は、実は、中国人の訴えを検証することなくそのまま記録されたり、日本兵の格好はしていたが、日本兵であることが確認されたわけではない事件がその大半を占めていたのです。また、その発生頻度をグラフにして見ると、日本軍が南京城に入城した時と、住民を国際委員会の管理する安全区から自治委員会(つまり日本軍)の管理する安全区外の居住区に帰還させた時期(1月23)が極端なピークになっています。

 これは、安全区が日本軍の進駐によって「地獄」と化したことを証明するために、この時期に事件を集中させたものと見る事もできます。また、後者は、住民が安全区を離れて、自治委員会(つまり日本軍)の管理する城内の他の区域に居住するようになることを、その区域で事件が多発していることを示すことで、それを阻止しようとしたようにも見えます。では誰がこのようなことをやっているか、と考えると、安全区において行動の自由を得ている或るグループの存在が疑われます。

 また、国際委員会の主要メンバーであったベイツが、マンチェスター・ガーディアンの記者だったティンパーリと共に1938年7月に出版した『戦争とはなにか』には、南京城内で発生した517件の事件の内305件を不採用にし、205件のみを収録しています。この時不採用となった305件の内の226件は、1月23日以降、安全区以外の居住区で発生したものです。それが外されたということは、ベイツ等も、その信頼性に自信が持てなかったのではないかと冨沢氏は推測しています。

 ともあれ、国際委員会のメンバー達は、日本軍が南京を占領して以降、城内で掠奪・放火・強姦事件が頻発しているとして、それを西側新聞記者等を通じて世界に宣伝しました。それは、便衣兵に対する先に言及したような同情もあったと思いますが、彼等の間に日本軍に対する反感が根強く存在したことを物語っています。まあ、この点は後述するとして、ではこうした国際委員会の行動が、果たして「良心」にのみ基づくものであったか、というと、実はそうではなく、それは一部の委員によって、きわめて綿密かつ巧妙に計画され実行されたものであったことが、近年ようやく分かってきたのです。

(つづく)

2012年3月 3日 (土)

南京事件(1)―― 一次資料の集成で暴かれた戦争プロパガンダとしての「南京大虐殺」

 名古屋の河村市長の発言が問題になっていますね。河村氏の当初の発言は「南京事件はなかったのではないか」といい、終戦時に氏の父親が南京市にいたことを挙げ、「事件から八年しか経っていないのに、南京の人は日本の軍隊に優しくしていたのはなぜか」と付け加えた。これに中国外務省が反発を示した。そこで藤村修官房長官は「非戦闘員の殺害、略奪行為は否定できない」と河村市長の発言を否定し、「村山談話以来、政府の姿勢は変わっていない」と述べた。これに対して河村氏は自らの発言について、「象徴的に30万人とされるような、組織的な大虐殺はなかったのではないかとの趣旨だった」と釈明した・・・。

 この話を聞いたとき、私は、漠然と「なかったのではないか」というのではなく、厳密な歴史考証を踏まえた言い方をすべきだと思いました。で、最後の「象徴的に30万とされるような・・・」という釈明になったわけですが。こう言えば、歴史的事実としては河村氏の方が正しい。また、政府はこの問題を村山談話でなんとか済まそうとしたわけですが、「南京大虐殺」と村山談話は直接の関係はない。おそらく中国は引かないでしょう。また、河村氏も「正しい」と思ったら引かない人だから容易には片はつかないと思います。一方、メディアの反応は、「市長としての発言にはもっと慎重であるべきだ」とか、「配慮が足りなすぎる」などというもので、相変わらずの逃げ腰であって、この事件の本質に触れようとしません。

 中には、日中共同研究で日本側も「南京大虐殺の事実を認めた」とする新聞もあります。しかし、そんなことはなくて、中国側が「被害者数は延べ三十余万人」との従来の見解を示したのに対し、日本側は「20万人を上限に4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と反論して溝が埋まらず両論併記された、というのが本当です。また日本側は、犠牲が拡大した「副次的要因」として「中国軍の南京防衛作戦の誤り」などを指摘し、引き続き検証作業が必要との認識を示しています。

 まあ、このような国家間の面子に関わる歴史的事件の解釈については、それぞれの国の内政が絡みますから、それを外交的に処理するにはそれなりの政治的判断をせざるを得ないわけで一定の時間がかかります。しかし、それはあくまで国家間の話であって、私たちのような市民レベルでは、遠慮することなく自由闊達にその事実関係について論ずべきだと思います。なにしろ、この事件は、今から80年前の1937年12月から翌年の2月頃までに発生したとされる事件であり、かつ日本人の「人間性」に関わる重大は問題なのですから。(下線部1927を訂正)

 この事件は、東京裁判で取り上げられた後、日中国交回復期に朝日新聞が「中国の旅」で再復活させて以降、いわゆる「自虐派」、「まぼろし派」そして「中間派」の間で激しい論争が繰り返されてきました。まあ、このおかげで、旧軍人の親睦団体である偕行社による①『南京戦史3巻』、南京事件調査研究会による②『南京事件資料集1,2』、日中戦争史資料編集委員会による③『日中戦争資料 南京事件Ⅰ、Ⅱ』などの基本資料が整ったわけで、長い目で見れば私は良かったと思っています。というのは、今後、これらの資料を中心に、さらなる資料収集や研究分析が進められ、この事件の全容が解明される日が必ず来ると思いますので。

 私自身、先に論じた「百人斬り競争」との関係もあって、この事件の全体構造をなんとかして掴みたいものだと思い、関連資料を少しずつ読んできました。しかし、これらの資料から「事実の核」を取り出すことは容易ではありません。確かに、「婦女子を含む非戦闘員30万人の虐殺」という中国側の言い分は、途方もないものであってホラだと言うことはすぐ分かります。だから、河村氏は自説を撤回する必要はない。しかし、南京陥落後、日本兵によるまさに”狂った”としか言いようのない掠奪・放火・強姦事件、それを告発した「良心的」アメリカ人達の記録を見ると、自虐派ならずとも気が滅入ってしまいます。

 つまり、これらの告発が、仮に根も葉もない宣伝工作であったとするならば、なぜ、当時の日本軍や日本外務省は、これに対して有効な対策がとれなかったのか。多分、当時の日本外交が政府と軍部間で二重化していたために、それができなかったのだとは思いますが・・・。といっても、当時は、同時代のことでもありその宣伝工作はあまり効果を発揮しなかった。ところが思いがけなく東京裁判で復活した。その後、日中国交回復時に朝日新聞がこの対日宣伝工作を買って出ることになり、それが教科書誤報問題以降、中国の対日外交カードとして使われることになったわけです。

 だが、悪いことはできないもので、その虚偽性が「百人斬り競争」論争を契機に暴かれることになりました。さらに、その本体である「南京大虐殺」も、その後の研究の積み重ねによって、ようやく、その「対日プロパガンダ」としての全貌が明らかになりつつあります。

 こうした一連の研究で、今、私が最も注目しているのは、松村俊夫氏です。氏は、本年2月号と3月号の『正論』に、『南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師達の記録、上・下』を掲載しています。これは、先ほど言及した「南京陥落後、日本兵によるまさに”狂った”としか言いようのない掠奪・放火・強姦事件、それを告発した「良心的」アメリカ人達の記録」について、それがまさに謀略的宣伝工作であったことを、見事に証明する資料提供となっています。

 これで、「南京大虐殺」を構成する二大要素――「婦女子を含む非戦闘員30万人の虐殺」と、「南京占領後、荒れ狂った日本軍兵士による掠奪・放火・強姦事件」による、日本人の民族的・精神的呪縛が解かれることになると思います。なお、この宣伝工作の片棒を担いだのが、南京安全区国際委員会を構成するベイツを中心とする数人の「良心的」アメリカ人であったわけですが、彼等のこの宣伝工作の虚偽性を暴いたのは、同委員会の他のメンバーが同時期に家族に充てた手紙だった、ということになります。

 以下、この事件の基本構造を捕らえる上でポイントとなる考え方を申し述べたいと思います。もちろん、これは、先に私が「百人斬り競争」事件について論じた時にも申しましたが、これらの意見を「私は絶対正しい」と言うつもりはありません。あくまで、一読者として、多くの優れた研究者に学び、先に紹介したような基本資料を読むことで得た、現時点における私の解釈に過ぎません。お気に召さない方もおられると思いますが、そういう考え方もあるのだ、という程度にお聞きいただければ幸いです。
(つづく)

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