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2012年3月19日 (月)

大阪市における「君が代」起立斉唱問題を契機に法律の規制が及ぶ範囲について考える

 アゴラ言論プラットフォームで北村隆司氏が、「君が代」斉唱問題に関わって興味深い三つの記事を書いています。

 まず最初の記事は、大阪市長の橋下氏が、職員の「入れ墨」についてそれを「消させよ」としたことについて、職員の「入れ墨」を禁止することは、憲法第11-14条の規定(基本的人権、その公共の福祉のための利用、個人としての尊重、法の下の平等)に抵触するのではないか、とする意見です。これは公務員の「入れ墨」が、「公共の福祉のための自由の利用」という範囲を逸脱した「権利の乱用」となるかどうか、日本では議論が分かれると思いますが、こうした一種の個人の趣味の問題を、法律で規制できるかどうかを問う問題提起としては、大変おもしろいと思いました。

それはないよ、橋下さん! ―「入れ墨は首、それが駄目なら消させよ」発言 北村 隆司
http://agora-web.jp/archives/1437985.html#more

「現行法では「入れ墨」は法的に何ら問題ありません。「入れ墨」を理由に職員を懲罰に課したいなら、先ず「入れ墨」を非合法化すべきです。ぶれない事が強みの橋下市長でしたが、「法律に触れない物は何をやっても良い」と言う年来の主張は、一体どこへ行ったのでしょうか?

「公務員に入れ墨を許す国がどこにある」とも言われたそうですが、欧米では「入れ墨」をした警官や消防夫、軍人などはざらです。

余談になりますが、米国で連邦予算局長、労働長官、財務長官、国務長官を歴任したジョージ・シュルツ氏は、母校プリンストン大学のシンボルである「虎」の入れ墨をお尻にしている事は有名な話です。

法律に疎い私ですが、この問題に関する限り、市長の言動は憲法が保障した国民の基本的人権への公権力による侵害としか思えません。又、条例で職員の「入れ墨」を禁止する事も、憲法第11-14条の障碍を乗り切れるかどうか、甚だ疑問です。」

 次の記事は、イスラエルにおいて、最高裁判事に選ばれたアラブ人ジョブラン判事が、イスラエルの伝統文化に基ずく国民統合を歌った国歌を、最高裁長官の送迎パーティーで起立はしたが歌わなかったことが問題視されていることについて、それを日本の公立学校の儀式における「君が代不起立不斉唱」の問題と対比したものです。
その主張するところは、

 「イスラエル最古の日刊紙とは言え7万部弱の発行部数しかない弱小紙である「Haaretz」紙が「少数派の人達をフェアに扱う事が真の民主主義で、その実行が如何に難しいかを我々ユダヤ人に教えてくれたジョブラン判事に、深甚の感謝を表さなければならない」と言う勇気ある社説を掲げ、更に続けて「敵意に囲まれた同僚を片目に、ジョブラン判事を冷静な立場で擁護する最高栽判事が一人も居なかった事には苛立ちを覚える」と批判したことについての論評です。

 氏は、「袋叩きに合う事は間違いないと知りながら、この様なコメントを出す新聞が残っていた事を知り、ジャーナリストの威厳と誇りがまだ健在だと勇気づけられました。」といい、続けて、「民族間、宗教間で戦争の続くイスラエルならいざ知らず、9割以上の国民が同じ民族で、同じ言語を持ちながら、「国歌」すら一緒に唱和出来ない「日本」。キリスト教徒、ユダヤ教徒、回教徒、ヒンズー教徒、黒人、白人、黄色人が揃って「God save the Queen」を歌える「英国」。

 この違いは何か?

 国民の成熟度の違いなのか? 対話の不足なのか? 埋める事の出来ない「違い」がどこかにあるのか?本来なら条例などなしに国旗掲揚、国歌斉唱が出来るのが当たり前なのに、日本では何故こうも揉めるのか?」

 と問いかけたものです。そこで、私の考えを次のようにコメントしました。

「イスラエル版『君が代』騒動に考える」北村隆司http://agora-web.jp/archives/1441120.html

(私コメント) 民主主義という政治制度を採る限り「思想・信条・良心の自由」は当然です。しかし、国家が政治的に保障するこの基本的人権と、歴史的伝統文化に由来する国民の統合原​理とは一見矛盾するように思われますが、基本的には両者は別の原理であって二者択一を迫るべきものではありません​。とはいえ、後者を国民統合の原理とする国家では、前者によって後者が毀損されるようなことは認めないと思います。

 この記事の場合、最高裁判事に選ばれたアラブ人が、イスラエルの伝統文化に基ずく国民統合を歌った国歌を、最高裁長官の送迎パーティーで起立はしたが歌わなかったこ​とが問題視されたわけです。この場合、最高裁判事に選ばれる条件がどのようなものであったか知りませんが、イスラエルが民主主義国家である限り、「思想・信条・良心の自由」が制限されるはずはないので、氏はあえてこうした行動に出たのではないかと思われます。

 それが物議を醸したわけですが、民主主義政治制度を採る限り、「少数派の人達をフェアに扱う」べきで、「その実行が如何に難し」いことであっても、その自由は保障されるべきである、というのがこの新聞社の主張だと思います。

 そこで、我が国の「君が代」問題ですが、これを否定する人たちの問題点は、政治的な「思想・信条・良心」の自由を主張するに止まらず、日本の伝統的文化的統合原理と​しての「天皇制」を否定している点にあります。つまり、冒頭の論で言えば、前者の自由の名を以て後者を否定しているわけです。

 では、なぜ日本でこのような問題が生じるかというと、日本国の統合原理とは何か、ということについて、また、その伝統的文化的統合原理としての「天皇制」に理解につ​いて、国民間でコンセンサスが得られていないためです。​これが日本の場合の問題で、イスラエルの場合とは決定的​に異なる点です。

 とはいえ、イスラエルのような国でも、以上のような論議がなされるのですから、伝統文化を異にする人びとを政治的に統合しようとする場合、民主主義政治制度を採る限​り、「いかにその実行が難し」くても、「少数派の人たち​をフェアーに扱う」ことが必要になります。

 このアラブ人判事の場合、起立をすることでイスラエル​の伝統文化に対する敬意を表し、謳わないことで自らの伝統文化への忠誠を示したわけですが、日本の公立学校で職​員に儀式での「君が代」の起立斉唱を求める場合も、これと同様の解決法を考慮すべきではないでしょうか。

 要は、自らの伝統文化に対する自信と誇りの問題で、それを維持発展させることについての覚悟の問題であって、​それくらいの余裕は持ちたいと思うのです。大阪の橋下氏​にもこうした余裕を持ってもらいたいと願っています。

 次の記事は、同じ「君が代」斉唱問題について、北村氏は、朝日新聞が「個人の歴史観で見解が分かれる君が代をめぐり、最高裁は職務命令で起立斉唱を強制することに慎重な考慮を求めた」と1月16日の最高裁判決を紹介したことに対して、これは真っ赤な嘘で、判決文は「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えない」と言っているだけであり、この朝日の社説は「判決文を書き換えた」悪質な詐欺的記事だと批判しています。

 さらに判決は、「学校の規律や秩序の保持等の見地から重きに失しない範囲で懲戒処分をすることは,基本的に懲戒権者の裁量権の範囲内に属する」と学校当局の「懲戒権」を認めた上で「懲戒は重きに失しない範囲」と懲罰の重さに慎重である事を求めたに過ぎない。従って、公共の利益の為には強制力を持つ公務員は、一般人以上の法的義務の厳守(コンプライアンス)や上司の命令に対する厳しい忠誠義務が求められているのであって、卒業式で、生徒や父兄が「君が代」に対し、起立斉唱を拒否する事は市民の権利に属するが、教員は公務員である限りそうは行かない、と言っています。

 確かに、日の丸君が代が国旗国歌として法制化され、儀式におけるその掲揚・起立斉唱が教育委員会規則で定められた以上、公務員たる教師がそれを守ることは当然です。しかし、「君が代」を歌っているかどうか口元の動きをチェックするなどといった監視行為が「国歌斉唱時に起立を強制したとしても、個人の歴史観や世界観を否定するものではなく、又特定の思想の強制や禁止、告白の強要とも言えない」という最高裁の判決の範囲に止まるものかどうか、いささか疑問なしとしません。

 そこで、私は次のようにコメントしました。

朝日新聞のインチキ社説「大阪の卒業式―口元寒し斉唱監視」を読んで!北村隆司http://agora-web.jp/archives/1441120.html   

(私コメント) 「法が規制できるのは人の外面的行為のみです。確かに国​旗国歌法が制定され教育委員会が儀式における国旗掲揚と​国歌の斉唱を職員に義務づけたなら、その法や規則に従う​のが正しいが、その場合も外面的行為の規制に止まるので​あって、だから私は口パクでもいいと言ってきました。だ​がその確認は実際には困難だから起立をもって斉唱と見な​すべきです。

 もともと、こんな法律や規則ができたのは、公立学校の一部の職員が、日の丸君が代を国旗国歌と認めず、それを儀式において掲揚・起立斉唱することを妨害あるいは不起​立不斉唱することで、自らの思想をアピールしようとしたためです。だから、例え日の丸君が代に反対でも、自らの思想をこんな形で表明しなければ、これらの法律や規則は生まれなかった。

 しかし、それらが法律や規則として制定された以上、これを公立学校の職員が遵守するのは当然です。しかし、その場合も、その効力はあくまで外面的行為の規制に止まる​のであって、歌い方を詮索する必要はありません。歌は心で歌うものであって嫌々歌うものではありません。そんな歌い方をするなら、はじめから歌ってほしくないと考えればいいことです。

 問題は、なぜ戦後日の丸君が代に対するこうした反対運​動が生まれたかです。それは敗戦の結果、国民の間に戦前​の日本の国家体制に対する不信感が生まれたためです。従​ってこれを克服するためには、自らの民族や国家に対する​自信と誇りを取り戻すことが必要です。そこで問題となる​のが、いわゆる自虐的歴史観をいかに克服するかというこ​とです。

 これは、政治の課題ではありません。日教組の最大の誤りは、実はこれを政治的に解決しようとしたことにあった​のです。」

 実は、私も長年教職員団体に所属していて役員もやったのですが、こうした日教組の政治団体化の問題については一貫して批判してきました。しかし、今日までそうした体質は変わらず、今大阪で提起されているような問題を惹起しているわけですが、おそらく、この問題は、日本における労働組合組織が企業別組合であって、それが公務員に適用された場合、倒産のおそれがないだけに、その組織が「ムラ共同体」になってしまい、組織の法的合理性が失われてしまうということだと思います。

 といっても、こうした被使用者の利益を協同して守る組織が必要な事は言うまでもなく、もしこれがなくなると、それこそ「権力を三日握ればバカになる」の言葉の通り、まさに”やりたい放題”恣意的な権力行使を免れないのです。ここに「法による支配」「国民主権に基づく政治家の選挙」「権力の分立とその相互牽制」「基本的人権の保障」などの民主主義政治原理の重要性が出てくるのです。

 橋本市長の「維新八策」は、公務員組織に限らずとかく「ムラ」化しやすい日本社会に風穴を開け、国民の自主独立を基調とした新たな国作りを目指す斬新なアイデアに満ちていると思います。それだけに、その実現を目指す政治手法において、上記の民主主義政治原理を十分踏まえて、落ち着いて事を進めることを切に願いたいと思います。

(参照)日本国憲法
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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時事問題」カテゴリの記事

コメント

神戸の南さんへ

その集団の論理が「言葉の論理」でなく「空気支配」になってしまうこと、これをいかに克服するかということだと思います。「空気」ができるとものを言えなくなってしまうでしょう。ではその「空気」に力を与えているものは何だろうか、なぜそれが一切の反論を許さないほど強力な力を持つのだろうか。

これを研究したのが山本七平の「空気の研究」ですが、私も、その根本にあるもの、それを支えている「大義名分」は、日本人の内にある「性善信仰」だと思いますね。それは無意識の内に日本人を拘束している信仰箇条なので、そのため、触れることを許されない一種のタブーになってしまっているのです。

ところが、本当は人間は山本七平が言うように、「善悪人」なのです。だから良いこともするが悪いこともする、生きてる限りそうなのです。そのことを自覚できさえすれば、その善悪を弁別をしない限り物事が処理できないでしょう。その時使える唯一の方法が「言葉の論理」なのです。

といっても日本人は「言葉の論理」=思想を中国から権威として受け取った。そのために、それを自分たちの感性に合うように作りかえた。それが「かな文化」だったのです。その結果、中国の思想=「言葉の論理」を「からごころ」とか「さかしら」と言って屁理屈と受け取るようになった。

一方、日本人は平和な島の環境の中で自然に身につけた美意識に基づく「かな文化」を育てることで、言葉を論理としてよりも詩的表現として使うようになった。だから論理の外にある「言外の言」を重視するようになったのです。

この「言外の言」にあるものとして大事にした感情の根っこにあるものが「もののあわれ」で、これは日本的リアリズムに根ざしていますから、このリアリズム(=「善悪人」の自覚)から日本人のオリジナルの「言葉の論理」=思想を創造することができると思うのです。今はその過渡期なのではないでしょうか。

そういった地道な仕事は自国民がやるしかなくて、中国や韓国がやってくれるわけではないのです。これはこつこつ何百年かけてやるしかないのです。外国からの働きかけには、いろいろな思惑があるでしょうが、その思惑を冷静に見抜き政治外交的に対処することが大切です。それに振り回されてはなりません。

その国はその国でオリジナルの思想を形成する努力をしているわけで、それに失敗すれば消滅する他ない。それぞれ必死なのですよ。といっても未だに謀略まがいの政治的働きかけをしてくる国がありますが、人が「善悪人」であるように国家も「善悪国家」であって、その善悪の弁別をしっかりつける冷静さと知性を持つことが大切なのです。

私はそう考えています。

tikurinさんへ

>個人倫理より集団の論理のほうが強いのです。だから少数の極端な大義名分論を振り回す人間に多くの人が逆らえずに黙ってついて行くことになるのです。戦前のみならず日本人の大きな課題ですね。

難しい問題ですね・・・日本人各自に集団の論理を優先するという気持ちがあればこそ、地震や停電などの災害時にも秩序だった行動をとれるのでしょうし・・・「長所はそのまま短所となりうる」というような言葉が重くのしかかってきます・・・

かつて”革新(革命?)”を目指した集団がその実、もっとも伝統的な(古い?)一君万民平等社会を理想とする・・・ このことも「全ての過去を消し去ってしまうから、かえって自らが呪縛されてしまう」という山本七平さんが指摘していたような現象なのでしょうか・・・


ありがとうございました。

神戸の南さんへ

だから国鉄の分割民営化が必要だったように、日本の教育制度もおそらく公務員制度も経営責任を明確にする方向での改革が必要なのです。

ご紹介いただいたような事例が、公務員や公社などの世界に広く多く見られたことは、私も経験して知っています。それを何としても克服したいと考えてきました。結論としては、日本の組織は経営的組織にしないとうまく機能しないということです。それと自己絶対化して他を攻撃するだけの人が極めて多い。集団になるとこうした攻撃的人間が主導権を握ります。個人倫理より集団の論理のほうが強いのです。だから少数の極端な大義名分論を振り回す人間に多くの人が逆らえずに黙ってついて行くことになるのです。戦前のみならず日本人の大きな課題ですね。

tikurinさんへ

私が日教組、教員に対して決定的に不信感を持つに至ったのは 一止羊大さんというペンネームをもつ元学校長が記した 「学校の先生が国を滅ぼす」という本を読んだ時以降です。
 それまでもいろいろと疑問や疑惑を抱いていたのですが、この書籍を読むと広島の校長が自殺したという問題の背景が多少理解できた気がしました。

一例をもって全てを判断することは誤解のもとであるとは思いますが、この書籍の内容はあまりに酷すぎて、他の公務員の不祥事、事故、事件などとはレベルが違いすぎると考えております。

一般社会では到底通用しないようなやりかたで管理職である学校長、教頭などを糾弾、つるしあげていく教職員や就業時間中に当然のように組合活動をしている教職員など、もし万一普通の企業でこのような社員がいればまちがいなく解雇される事でしょう。
解雇できずに放置しておけば、その企業が倒産すると思われます。
それほど酷い内容でした。
(この本では特に、日の丸君が代に対する異常な反対運動をとりあげています)

教員の中にはまともな人間もいるのでしょうが、そうした人々は排除されるか、肩身を狭くして彼ら日教組の意向に消極的に従うしかないという状況らしいです。

この話はかつての国鉄を思い出させるものです。
まじめに勤務する職員に対して「そんなことをするとワシらも同じようにせないかんようになってしんどくなるやないかい!」などと屁理屈をこねて怠惰な作業へと強要したり、「労働者の権利」を過剰に訴えて私鉄では考えられないくらいの非効率な業務体系をとらせたり・・・
(郵便局もそうでしたが・・・)

幸か不幸か、国鉄は経営が成り立たなくなりJRになりました。
(膨大な借金は全て国民におおいかぶせられましが・・・)

このような職員が多数いるのが実態であるとすれば、組織図の上の方をいかに変えようと、管轄を変えようと実態にはなんら変化をもたらさない可能性が高いと考えます。
食うに困れば真剣に問題に取り組むようになるのが人間であるとすれば、不良職員は解雇して学校の中身を改めていくのが一番よい方法ではないかと思えます。

教員に限らず公務員全体にいえるでしょうが、彼らの身分保証は過剰です。民間の経済がこれだけ痛んでいる現状では、歳入にみあった支出で収めるという原則を守るためにも、公務員の解雇を進めるべきではないかと考えます。

健介さんへ
>>根本的な原因は、現行制度上、学校経営の責任主体が曖昧になっていることにあると思っています。つまり、それが学校にあるのか、市町村にあるのか、都道府県にあるのか、文科省にあるのかよく分からないのです。

> これは子供の教育は誰がするかに集約される。それは親に決まっている。

tiku 私は学校経営のことを言っています。教育権の所在は、教育を受けることが国民の権利であると共に義務となっていますので、両者に分有されていると考えるのが妥当でしょう。もし親が全ての教育権を持つとしたら、親によっては国旗国歌なんか歌わせないという親はいくらでも出てきます。

>従ってどのような親の下に生まれるかが決定的で、この問題を正面から我国教育界は取り上げたことは無い。

tiku 前者はその通りですが、後者は貴方の勝手な決めつけです。

>戦前は別に学校へ行かなくてもよく。義務教育というがそれは政府が義務教育の仕組みを作れということで、そこへ行かせるかいかせないかは各自が決める。従って小学卒の資格があかないかは校長が試験をして認めることができたはずである。

tiku 黒柳徹子の「ともえ学園」(幼稚園、小学校)は昭和16年の国民学校令以前は設置が許可された。ただし、土地は借り物、校舎はバス(将来建てると申請)、予算は自前で公的助成はない。そのかわり教育内容は自由、校長が教育者であり経営者、しかし財政的に維持できず昭和21年に小学校部廃止。要するに、小学校令に基づく学校の例外的存在で、一種の障害児教育のような特例として認められたにすぎない。

>子供が中学のとき父兄会で<ある問題について、親の意見と学校の意見が異なった時に学校は子供にどのように指導するか>とたずねたところ。質問の意味が分からず、そのままになった。ただ校長は理解したが、目をつぶっていた。

tiku 親の教育権が優先するという意味ですか?

>第一塾へ行かせないと授業にはついていけず、高校入試もおぼつかないということは商品としての学校教育が売れないということである。

tiku 教育はどんな親に元に生まれたかが決定的というお説と矛盾します。おそらく教育の自由化論を主張されているのだと思いますが、塾も学校と認めて公費助成し、校長や教員に自由に教育させ、親は好きな学校を選ぶ。しかし全ての教育責任は親に負う。黒柳徹子の例は親が東京フィルかなんかの楽団員、クリスチャンの家庭で教育方針もしっかりしていたから良かったですが、モンスターペアレントも多いですからモンスターチルドレンも輩出するでしょう。公教育の目的は何か、それは個人の能力の慎重・人格の完成と共に、良き社会人、良き国民を作ることです。個人の好き勝手にさせれば全て良しというものではありません。論語にも「教えなければ禽獣に近し」とあります。戦後「禽獣」に近い子供が増えました。

 以下の貴方の言説は時間の無駄ですので付き合いません。貴方の教育論の根本は「どのような親の下に生まれるかが決定的」だと思いますので、日教組の責任を問う前に、まず自らの教育責任を問うべきです。重ねて言いますが、思想とは自分が生きるものであり、他人に強制するものではありません。自分の言葉で自分を律する事をしない人ほど、他人の責任を追及したがります。まずは「どのような親の下に生まれるかが決定的」という貴方自身の言葉で貴方自身を厳しく省察することが必要なのではないでしょうか。

>根本的な原因は、現行制度上、学校経営の責任主体が曖昧になっていることにあると思っています。つまり、それが学校にあるのか、市町村にあるのか、都道府県にあるのか、文科省にあるのかよく分からないのです。

 これは子供の教育は誰がするかに集約される。それは親に決まっている。この頃、保護者という言葉を使うが、アレは百人斬りと同じセンスの用語の使い方に過ぎない。
 従ってどのような親の下に生まれるかが決定的で、この問題を正面から我国教育界は取り上げたことは無い。戦前は別に学校へ行かなくてもよく。義務教育というがそれは政府が義務教育の仕組みを作れということで、そこへ行かせるかいかせないかは各自が決める。従って小学卒の資格があかないかは校長が試験をして認めることができたはずである。
子供が中学のとき父兄会で<ある問題について、親の意見と学校の意見が異なった時に学校は子供にどのように指導するか>とたずねたところ。質問の意味が分からず、そのままになった。ただ校長は理解したが、目をつぶっていた。
 第一塾へ行かせないと授業にはついていけず、高校入試もおぼつかないということは商品としての学校教育が売れないということである。
 教育の機会均等とかそのほか日教組の言う事はそれこそ以前紹介した精神分裂病患者が医者に言う事とおなじである。
 塾へいけないと授業についていくことができないならその塾の費用を払えない人々にとって、教育の機会均等が無いことになるが、そのように思考が行くと日教組の存立基盤が崩れる。だからしない。していないことすらきずかないほど染まりきっている。
 したがって、何を言われているか分からない。

 日教組の始まりはわが国を潰すための意図がその最初にあった。これが一番だが明治のとき行われた学校教育は徳川幕府を倒した政権がしたために、革命的要素と似た要素があり、非常に親和性があったから、動きやすかったでしょう。
 ちなみにわが国には夜間中学が今もあるはずで、国民全員が中学へ行くようになたの刃昭和40年代半ばでしょう。明治の<一人も不学の人を作らず>でしたか、それが実現した。と同時に教育が変質した。
 日教組の活動の基盤は給料が低いことで、これを解決したのが田中角栄でそれと同時に教育のレベルが落ち始めた。何故であろうか。ここが教育の妙な要素があり、普通の商品とは異なるものが教育商品にあるからである。
 従ってそれを初めから問題にしているなら、現在のような惨状を日教組は呈しないが、一番の元は給料が低いことであったが為にそれが解決したら、解散することだが、違う項目を挙げたがために、内部崩壊を起こして、もはや力を持っておらず、内部は腐敗と退廃の巣となり、自分たちだけの食い扶持のみが関心だけの集団となった。
 それは日教組だけではなく文部官僚も同じである。ここには日本人に化けた朝鮮人が多く入っていると見ているがこれはまた別の問題です。
 寺脇研という男がゆとり教育(実を言うと健介は賛成である)をして、文部官僚を辞めて朝鮮学校の理事になってソレヲするかというとしない。これを矛盾とは思わない。

 あげればいろいろあるが、大多数の子供は日教組が教え込もうとしたであろう物は受け付けずに健全さをこれまで保てきたが、これからは怪しいと思っていたがインターネットがそれを遠慮会釈なく壊している。若い人ほどい感じがする。

 先日子供小学三年くらいから<叔父さんエコ知らないの>といわれたのには驚いた。<小学教育でエコを教えるとはなにを考えているのだろう、大東亜戦争のときに教えたようにおしえたなあ>と思った。

 変わらぬ、我々の教育風景で、その教育は親として適当にするようにしないと子供が人生を棒に振る。その棒に振った大人が多い世界がわが国である。

神戸の南さんへ

>彼ら(日教組など)の天皇陛下に対する見方は”一種の絶対君主制であり民主主義に反するから反対”とのことですが、では中国(中華人民共和国)に対してはどの様に認識しているのでしょうか?

tiku マルクス主義の影響だと思いますね。君主制より共和制が歴史的進歩と考えられていましたから。だから戦後はソビエトが理想化されていました。ところがフルシチョフのスターリン批判からその偶像が墜ちて後、今度は毛沢東主義が理想化されました。韓国は朴正煕の時代は大変評判が悪く、北朝鮮を理想化する人も少なくありませんでした。でも、これらは次々に化けの皮がはがれ、彼等が感情移入できる国がなくなりましたが、彼等の理想的国家イメージはなくならず、逆にそれが満たされない分だけ、自国を悪く言う「自虐史観」に陥ることになりました。

では彼等の理想とする国家イメージはどのようなものかと言うことですが、実は意外なことに、それは幕末の尊皇思想が理想とした国家イメージ=教育勅語に語られた家族主義的・徳治主義的一君(=天皇)万民平等社会なのです。それは、戦前の滅私奉公的・強権的天皇制に対するアンチテーゼとして、自由・自主、正義と愛に満ちた「一君万民平等」の平和国家としてを希求されました。この時彼等は、その理想国家を思想的には社会主義や共産主義国家に求めたわけですが、その内実は、尊皇思想が理想とした前述のような国家イメージに過ぎなかったのです。

こうした理想的国家イメージは、実は、それは伝統的なものであるだけに、戦後も国民全体に広く共有されていました。しかし、民間企業の場合はリアリズムに対応できないと生き残れませんから、次第に家族主義的経営から契約合理的経営へとシフトしていきました。ところが、公務員の場合は、倒産がありませんから、そうした伝統的理想的社会のイメージは、かって理想とした国々の偶像破壊が進んでも、追求すべき理想として保持されました。日教組が、自虐史観に立ち天皇制に反対し続けているのも、こうした社会のリアリズムに晒されないためです。といっても、その組織率は減り続け現在では28%くらいになっていますが。

こう見てくると日教組の問題は、その歴史観が「自虐的」であること、「日の丸・君が代反対運動」(組織としてやっているわけではないが)に象徴される反体制(=反天皇性)体質にある事が判ります。しかし、南京事件の真相解明に象徴されるように、彼等は戦争プロパガンダに騙されていただけだった、ということが次第に明らかになりつつあります。また、天皇制の問題も、その象徴天皇のおだやかなあり方が、政治の混迷にもかかわらず、国家の精神的基軸として国民の支持を集めつつあります。よって私はこの日教組の問題も早晩終熄に向かうだろうと思っています。

それから、神戸の南さんは教員一般に強い不信感をお持ちのようですが、私は日教組の持つ以上述べたような問題点を含め、学校批判が絶えないその根本的な原因は、現行制度上、学校経営の責任主体が曖昧になっていることにあると思っています。つまり、それが学校にあるのか、市町村にあるのか、都道府県にあるのか、文科省にあるのかよく分からないのです。それが職員管理上あるいは教育指導上の無責任体制を生んでいると思っています。この件については、アゴラでも私見を述べましたので参考にして下さい。http://agora-web.jp/archives/1424599.html

以上

tikurinさんへ

ここでの私の発言は日教組に牛耳られた教師たちに対するものであり、tikurinさんに対するものではなかったのですが、表現のつたなさからもしも誤解なさったようならお詫び申し上げます。

tikurinさんに伺いたいのですが、彼ら(日教組など)の天皇陛下に対する見方は”一種の絶対君主制であり民主主義に反するから反対”とのことですが、では中国(中華人民共和国)に対してはどの様に認識しているのでしょうか?

私から見れば、共産党一党独裁体制というのは言論の自由も思想信条の自由も何も保障されていない恐るべき世界である、という気がするのですが・・・
私の認識では、日教組というのは共産党と同じく、共産主義社会革命を目指している集団 というものです。
ゆえにもし万が一、彼らが完全に権力を掌握すると
皮肉な事に、言論の自由も思想信条の自由も何も保障されない暗黒社会が(現在の中国のような)やってくると心配しています。
(民主党が政権についてから、少しずつそうなりつつあると感じています)


tikurinさんの見立てでは、彼らは何を目標として活動しているのでしょうか?

まず言そのものと対決すべきです。本田勝一氏の何が問題か、それは氏の言そのものです。その対手を殺す側に置き他を断罪し抹殺する思想は、その根底にあるいは民族的ルサンチマンが伏在していたのかもしれません。しかし、朝日新聞をはじめとする日本のジャーナリズムがそれをバックアップしなければ彼の言説は力を持たなかったわけで、やはりネイティブの責任ですね。でも、氏のジャーナリストとしての生命は終わりました。

>機関説論についての私見はHP「山本七平学のすすめ」にまとめていますので参考にして下さい

 朝日の本田記者は帰化朝鮮人といいますから彼の言動は普通の扱いをする必要が無いのではないですか。
 要するに在日朝鮮人の行動の一つとしてみることでそれ以上のことはないでしょう。それが結論ではないでしょうか。
 しかしそのしでかした影響は今も続いている。
初めから彼が帰化朝鮮人と分かっていたなら、これほど大きな問題にはならなかったでしょう。
 なぜなら言は誰が言ったかが第一の問題で、それを無視できるのは数学だけでしょう。
 いわゆる社会科学は常に誰の言かが最初に問題にすることです。
 本田氏のそれがあると、ちょっと読む気がしません。
 文章は悪いし、頭も悪いことが見えますから。まあこんなことは誰でも知っていることでしょう。
 彼の文章は物事の理解がどのような仕組みで、誤ったものになるかを知るにはいいサンプルで、それは彼のどの著作においても言えるものではないかと思って、少し調べ始めたが、やめました。
 気の毒な人だなが現在健介が思うことです。
紹介された文章をもう一度読みます。

健介さんへ
君が代反対は天皇制に関わる歴史認識の問題です。(さらに付け加えれば尊皇思想の「一君万民平等」及び「水と安全はタダ」という伝統的思考の無自覚的反映です)
この思想史的解明は山本七平がやりましたが、十分理解されていないのです。私自身それを本ブログで書きかけて中途になっていますが(「山本七平の天皇制理解について」)、南京事件の記事が書き終わったら、再開しようと思っています。機関説論についての私見はHP「山本七平学のすすめ」にまとめていますので参考にして下さい。http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/yamamotogaku/tennousei.html

もう一つ追加します。戦前統帥権干犯といって軍部が議会に介入しましたが、そのやり方が君が代反対派と同じで、同じ気分と目的があるのではないか?
 健介は同じものだと見ています。
彼等は統帥権そのものが問題ではなく別なものが目的で、ただ利用したにすぎません。
 同じように君が代反対派は別のものが目的で国歌としての君が代がどうのこうのは方便にすぎません。
 統帥権干犯と同じ仕組みで、我国国内の私立学校は政府から金を強奪しています。
 日本国憲法86条をよく読んで、現状を見られるといいでしょう。
 わが国は法治国家であるような無いような奇妙な二重国家です。これが命取りになるとともに発展の元です。
 機関説賛成反対といったことはそれこそ以前書いた精神分裂病患者が医者に言う事と同じでしょう。

 それが健介の基本的みかたです。

分裂病患者には議論は通用しない。同じように君が代反対派に色々議論を吹っかけても、つうようしない。
 非常に南朝鮮と朝鮮人に似ている。彼等は。

再度ですが、これで機関説についての議論は打ち切りです。

>そもそも明治憲法は機関説なのですから、それを否定した軍部の解釈が間違っているのです

これは間違いでしょう。何故それが出てきたかを考えるべきで、今も同じようなものが別の形で出てくると見ています。
 どうも機関説についての見方に齟齬があるようです。
 これで打ち切ります。

神戸の南さんへ

>私がこの問題(公立学校での教職員に対する国旗掲揚、国歌斉唱の義務付け)について感じている事は、なぜこれを思想信条信仰の自由と言うたいそうな問題として考えなければならないのか?という疑問です。

tiku 私は日の丸君が代を法制定以前から国旗国歌と思っていますし学校の儀式で起立斉唱することは当然だと思っています。しかし、天皇制は民主主義に反すると考える故に君が代に反対する人はいるわけで、それは思想信条は個人の自由ですからかまわない。ただ、公立学校の職員である限り、儀式で起立斉唱はすべきです。といっても口パクを見分けることは困難だし、まあ起立すればよろしいのではと思っています。

>なぜ諸外国(特に中国、韓国、北朝鮮など)へ行って 「貴方の国でもナショナリズムはよろしくないので、国旗掲揚や国歌斉唱はやめるべきだ」とは言わないのでしょうか?

tiku 彼等は特にナショナリズムを否定しているわけではありません。民主的ナショナリズムであるべきと言っているのです。中には鳩山ルーピー元首相に似た考えの人もいますが・・・。


>tikurinさんには申し訳ないのですが、最近の私には学校の教師というものに抜きがたい不信感があります。筋の通らぬ屁理屈で反日、反国家の態度を貫くのであれば、まずその嫌いな対象から金をもらうのをやめるべきです。

tiku 少しも申し訳なくありません。ただ、重ねて申し上げますが、彼等は必ずしも反日・反国家ではなく、天皇制という日本の文化伝統を一種の絶対君主制と見なして反対しているのです。私自身は日本の文化的伝統である象徴天皇制を支持しており、これを今後も継承し発展させていきたいと思っています。

>彼らの自虐史観に少なからぬ影響を受けてしまったかつての子供(現在はオッサンですが)として強く申し上げます。

自虐史観に関する私の意見は、私論「かっての日本軍の体質を継承していたのは革新陣営だった」を参照して下さい。http://www7b.biglobe.ne.jp/~sitiheigakususume/yamamotogaku/yamamotogaku.html

自虐史観の克服のためにこそ、素顔の昭和史の解明に取り組んでいるのです。

>>tiku 君が代に反対している人たちは、君が代を国歌とすることに反対しているのです。

>それなら彼らは別の国歌を主張するのですか?

tiku 一体何を言っているのですか。私は、彼等は、君が代を国歌として歌うことに反対しているのだから、それがほんとに嫌なら学校を辞めるでしょうと言っただけです。それに対する貴方の反論?「その国歌をもつ国家とはどのようなものを彼らは想定しているのですか」なんて、そんなこと私知りません。私は君が代=国歌と思っていますから。

>天皇機関説は最終的にはそれに反する聖断によって収拾されましたから、事実として我が国は機関説国家ではなかったことが歴史的事実です。

tiku 昭和天皇の終戦時の聖断によって日本が機関説国家でなかったことが証明されたのではなく、この時は出席者の意見が3対3で対立してしまったことから、首相である鈴木が国の元首のお立場から昭和天皇に聖断を仰いだのです。これは非常事態下の例外的措置であって昭和天皇自身もそのような認識を示しています。そもそも明治憲法は機関説なのですから、それを否定した軍部の解釈が間違っているのです。

>ではどういう政体がいいと言っているのですか
という私の問いに対する貴方の答えは、「歴史的にあったのは軍事政権ですから、どのような政体がいいといわれれば、歴史の恐ろしさを見れば、軍事政権がいいというのが回答です。」

tiku 軍事政権で現存しているのはアジアではミャンマーくらいですので、そちらに帰化するしかありませんね。日本が軍事政権になる見込みは全くありませんし、私はアメリカとの同盟は必須と思っています。以上で、対話終了とさせていただきます。

私がこの問題(公立学校での教職員に対する国旗掲揚、国歌斉唱の義務付け)について感じている事は、なぜこれを思想信条信仰の自由と言うたいそうな問題として考えなければならないのか?という疑問です。

入学式や卒業式という節目の行事に国旗を掲揚し国歌を斉唱することのどこに問題があるのか?

これをする事が本当に戦争への道だ、などと本気で信じているのであれば、なぜ諸外国(特に中国、韓国、北朝鮮など)へ行って 「貴方の国でもナショナリズムはよろしくないので、国旗掲揚や国歌斉唱はやめるべきだ」とは言わないのでしょうか?

彼らのこの問題への態度は完全にダブルスタンダードであり、日本の国旗や国歌(すなわち日本国そのもの、という意識でしょうが・・・)は許すべからざる悪の象徴であるけれども、他の国のものはそうではない、ということらしいのですが・・・(米国のものも嫌っているむきはあるようです・・・)

同じようなことは軍事についてもいえるようです。
(反核運動で米国の核には反対しても、ソ連や中国の核については全く問題視していなかったように思えます)

反ナショナリズム、反戦平和主義者と名乗るのであれば、洋の東西は問わず、いかなる国や個人に対してでも、同じ行為をしている者については同じく批判し反対すべきではないのでしょうか?
ところが彼らは日本や米国などに対してのみ、異常ともいえる執拗さで反対運動を起こし、中国の軍事行動(チベットやウイグルに対するものなど)については殆ど無視しているかのようです。
これが普段、「人権 平和 反戦」を唱えている者のとるべき態度として許されるのでしょうか?


tikurinさんには申し訳ないのですが、最近の私には学校の教師というものに抜きがたい不信感があります。

彼らに対しては”社畜”ならぬ”校畜”になれ、などというつもりは全くありませんが、まず筋を通してから自らの意見を主張してもらいたい、と望みます。
筋の通らぬ屁理屈で反日、反国家の態度を貫くのであれば、まずその嫌いな対象から金をもらうのをやめるべきです。その上で反国家運動や革命などやれるのであればやってみればよい、と思いますが間違っても子供を巻き添えにすることだけは辞めてもらいたい!
彼らの自虐史観に少なからぬ影響を受けてしまったかつての子供(現在はオッサンですが)として強く申し上げます。

>tiku 君が代に反対している人たちは、君が代を国歌とすることに反対しているのです。

それなら彼らは別の国歌を主張するのですか?
その国歌をもつ国家とはどのようなものを彼らは想定しているのですか。
 何も無いでしょう。
もともと国歌は
>お正月(=祭日)に国旗を掲げることは、国民が普段国家をどの程度意識しているかを表します
とおなじ要素があります。当該国家の成立に関係しています。
 アメリカフランスイギリスなどのそれを見れば十分でしょう。
 彼らは君が代に軍国主義のにおいがするというでしょうが、君が代は歴史的な和歌で、その要素は無い。むしろフランスやロシアの国歌のほうが軍事的要素が大きい。
イスラエルの国歌を見ればいいでしょう。リズムと旋律は日本人にあうでしょう。

 
君が代において騒ぐ人々にあるのはその人々の無知と気分にすぎない。

 我が国日本は欧米とも異なり支那とも異なりますからその歴史生成を自覚する事です。
 明治政府がなぜ君が代を国歌としたか、ソレヲまず知る事でしょう。
 次に女性宮家についてですがそれは天皇機関説との兼ね合いで書いたに過ぎず、基本構造は天皇機関説とおなじで、将来同じ展開をする可能性があることを指摘しただけです。

 天皇機関説は最終的にはそれに反する聖断によって収拾されましたから、事実として我が国は機関説国家ではなかったことが歴史的事実です。

したがって
>貴方の主張は天皇機関説反対でしょう。ではどういう政体がいいと言っているのですか。法律外の天皇制のどのような位置づけを主張しているのですか。私は宮家の話などしていません

このような見方はおかしい。我が国の政体といわれるが歴史的に見れば複雑で簡単ではなく、絶えず内部に崩壊の要素を含んだものです。これは崩壊するというのではなく。はじめから崩壊する事が当たり前として、できている事を言います。

タダひとつだけいえることは我が国は法治国家であるような無いような国家であることと、我が国政府(これは国家とは関連がありますが国家ではない)
はその始まりは常に軍事政権です。
したがって
>。ではどういう政体がいいと言っているのですか

では無く歴史的にあったのは軍事政権ですから、どのような政体がいいといわれれば、歴史の恐ろしさを見れば、軍事政権がいいというのが回答です。

 したがってさらに軍事力を増強して、アメリカ軍を外に追い出す事が基本ですが、近代社会においてはそれは我が国の立場としては無理がありますから、どのようにアメリカ軍を使うかというのが希望する軍事政権の姿です。
 

>>君が代斉唱で起立することがほんとに嫌な人はその内辞めるでしょう。」

>君が代ではなく国歌を歌うということの意味です。国歌としての君が代がいやなのか、別の国歌ならいいのかです。それと正月に国旗を揚げるということはナショナリストとも関係ないでしょう。

tiku 君が代に反対している人たちは、君が代を国歌とすることに反対しているのです。だからそれを国歌斉唱で歌わされるのがほんとに嫌な人は公立学校を辞めるでしょうを言っているのですが、貴方は辞める必要はないと言っているのですか。

お正月(=祭日)に国旗を掲げることは、国民が普段国家をどの程度意識しているかを表します。祭日とはもともとその民族あるいは国家形成の節目の行事として設けられたものであって、単なる休みではありません。その祭日と民族や国家との関係を全く意識していないということは、ナショナリズムははやっているがその中身はない、ということではないかと言っているのです。ただ排外論としてのみ現出するナショナリズムは本物ではない。また、国旗=国家だと主張する人が、お正月に家庭で国旗掲揚することをなぜ否定するのですか。

>>それで、貴方は国家の一部分として天皇を位置づける天皇機関説に反対なのですか?それ皇国史観に立脚したものですか?

> これは簡単ではないですよ。

簡単です。貴方の主張は天皇機関説反対でしょう。ではどういう政体がいいと言っているのですか。法律外の天皇制のどのような位置づけを主張しているのですか。私は宮家の話などしていません。

>君が代斉唱で起立することがほんとに嫌な人はその内辞めるでしょう。」

 君が代ではなく国歌を歌うということの意味です。国歌としての君が代がいやなのか、別の国歌ならいいのかです。それと正月に国旗を揚げるということはナショナリストとも関係ないでしょう。
 大体国旗をを燃やす、しかも当該国の大使館前ですることは、一種の戦争行為のひとつではないかという意識が無い人々がいる。
 それは日本人にもある。


>震災瓦礫は拒否するし、日本人の愛国心や同胞愛はからっぽです。

これは同感です。戦前も愛国心は無かったと見て、だから戦争が起きたという見方は必要でしょう。

>それで、貴方は国家の一部分として天皇を位置づける天皇機関説に反対なのですか?それ皇国史観に立脚したものですか?


これは簡単ではないですよ。

現在女性宮家についていろいろありますが、天皇陛下が旧皇族を復帰させると明言されたらどうされますか。
 もともと天皇家の問題に過ぎないのか日本国家の問題なのか。
 もう一度ご聖断を政府は仰ぐつもりなのか?

まるで対話になっていませんね。

>>最近はナショナリストが多くなっていますが、正月に国旗を掲げる人はほとんどいないし、震災瓦礫は拒否するし、日本人の愛国心や同胞愛はからっぽです。

この私の言葉の意味はナショナリストが増えて国家を意識する人が増えたなら、お正月に国旗を掲げる人が増えてもいいし瓦礫処理に協力する人が増えてもいいと言っているのです。

また「君が代斉唱で起立することがほんとに嫌な人はその内辞めるでしょう。」というのは、公立学校の儀式で国旗国歌起立斉唱がほんとに嫌な人はその内公立学校を辞めるでしょうと言っているのです。

これに対する貴方の言葉
「この文言は無いでしょう。国旗というものは物ではない。布でできたものではない。ひとつの思想を具現したもので、その背後にはその国旗を持つ国の存立の思想、道徳、歴史、国民がある。」

これ何?国旗国歌は物ではない思想を具現化したものなので、つまり精神なのでお正月に自宅に物である国旗を掲げる必要はないと言っているのですか。それならどうして公立学校の儀式での国旗国歌起立斉唱を主張するのですか。

起立することは・・・国家に対する忠誠を表明だから、自分はお正月に国旗は掲げないし瓦礫処理にも反対だが、学校の儀式では国家への忠誠を誓うべく起立斉唱しろと言っているのですか。

また、「思想信条信仰の自由とはそのような現象をもたらす」とは何ですか。その自由を否定するなら、あなたは自分の思想信条をネット上で自由に表明するのは控えるべきです。それとも自分だけがその自由を享受し他人にはそれを認めないと言うことですか。

>天皇機関説は、国家の一部分として天皇があるか天皇が国家の上にあるかの問題で、国家の一部というのが天皇機関説です。この理解で間違いは無いと思いますがでしょうか?

それで、貴方は国家の一部分として天皇を位置づける天皇機関説に反対なのですか?それ皇国史観に立脚したものですか?

書き込みは、思いつきでなく十分自分の考えを整理した後にやって下さい。

>最近はナショナリストが多くなっていますが、正月に国旗を掲げる人はほとんどいないし、震災瓦礫は拒否するし、日本人の愛国心や同胞愛はからっぽです。また君が代斉唱で起立することがほんとに嫌な人はその内辞めるでしょう。

 この文言は無いでしょう。国旗というものは物ではない。布でできたものではない。ひとつの思想を具現したもので、その背後にはその国旗を持つ国の存立の思想、道徳、歴史、国民がある。
 起立することはそれに敬意を表することではなく、忠誠を表明する事です。外国人は異なります。
 日の丸に起立しない人はそれを国旗と見ていないことにみなされます。しかし起立していてもそれは外部からわからないが、それで規制しようという事です。
 思想信条信仰の自由とはそのような現象をもたらす。
 天皇機関説は、国家の一部分として天皇があるか天皇が国家の上にあるかの問題で、国家の一部というのが天皇機関説です。この理解で間違いは無いと思いますがでしょうか?
 国旗についていろいろ言う人は当人の無知を示しているに過ぎない事が多い。

最近はナショナリストが多くなっていますが、正月に国旗を掲げる人はほとんどいないし、震災瓦礫は拒否するし、日本人の愛国心や同胞愛はからっぽです。また君が代斉唱で起立することがほんとに嫌な人はその内辞めるでしょう。民間でも実力があれば教育者としていくらでも活躍できるし、福沢諭吉は一生官職に就かない民間の教育者でした。なお、日本では入れ墨はヤクザ的イメージがありますがタトゥといってファッションの一つと考える人も出てきていますからね。その内裁判で判決が出るでしょう。なお言論において銘記すべきこと。思想とは人に押しつけるものではなく自分が生きるものだと言うこと。その責任は他人に負わせるのでなく自分が負うものと覚悟すべきです。なお、健介さんの天皇機関説論wikiなどで基本的なことを調べた後論じるようにして下さい。デタラメは時間の無駄です。

>刺青に関する私の意見は、概ね健介さんが仰るところと同じですが、「刺青をした外国人の入国禁止」までは無理があるのではないかと思えます。

 ここが難しい問題でしょう。
西洋諸国は陸続きで、人が自由に行き来して、それによって生じたトラブルの解決方法が思想信条信仰の自由で、なおかつ法治国家という回答でした。

 我が国はその生成を考えると、そのやり方は無理ですが、現時の国際社会においては、それこそ

>刺青をした外国人の入国禁止」までは無理があるのではないかと思えます。

です。しかしそれを外国から理不尽といわれてもする必要があり、実際にして、見ることもいいのではとおもいます。
 国内の外国人において、支那人朝鮮人は入れずみに相当するものを持っていますから、彼らには強制することが必要です。基本的には彼らは我が国の習慣、法律、その他社会的な要素に対して、従うというセンスがありません。そもそも彼らの世界には社会という感覚がない。

 したがって刺青に相当するものを持っていますから理不尽でも規制する事で、それが外交問題に発展しますがスルコトデす。
 一番の問題は欧米に対する対応を朝鮮支那に対して同じようにすると我が国が壊れる要素があるということです。
 つまり彼らに思想信条信仰の自由を保障すると飛んでもいない問題が生じて我が国が困ります。
 それは天皇機関説によって我が国が困ったように困ります。
 基本は入れない、つまり天皇機関説は誤りだとする立場に立たないと今後大きな問題には立ち向かえません。しかしそれをすると欧米から非難がきます。
 これが最大の問題のひとつでしょう。

新規建築現場において製品を建築中に入れましたので、記されたことをしました。工事の前に機械がどこへ行く、どこで何の工事をしているといったことを各場所の下請けの担当者が朝の会合において説明してその後現場へ行きました。初めてで、その時間を最初に考慮してなかったので、かかりました。
 セメントを入れられるとあとがないので、その順序だけは間違えないようにしました。また他の設備が先に入ると入らなくなるのでそれも気をつけていました。個人的には下請けで言われたとおりにするのも気楽でいいなあと思いました。
 期日どおりに行かないと担当の責任者は必死でした。一度どのようにみても工程どおりには終わらないと思い、掃除をしていたおばさんにたずねると、少し周りを見て<やっちゃうよ>といわれてたので、準備だけはしました、本当でした。徹夜をしてしたと担当者はいっていました。遅れると支払いを減らされるそうですが、壁を仕上げる人々は最後だから、遅れのすべてがそこに集中して気の毒でした。

刺青に関する私の意見は、概ね健介さんが仰るところと同じですが、「刺青をした外国人の入国禁止」までは無理があるのではないかと思えます。

日の丸、君が代の問題については職場の規定に従えないのであれば、その職場をさればよいのであって、辞職する事もなく”思想信条の自由”などと眠たい事を言っている教職員の感覚を疑います。
私は土方(いわゆる土木作業員)として働いていますが、現在ではほとんどの現場で朝にはラジオ体操やKY活動ということをやっており、それに参加しないものは現場への出入りを禁止されます。
ラジオ体操に関して言えば、まじめにやらずに、いい加減な体の動かし方をしている者は監督から注意され、それでも態度を改めなければやはり出入り禁止となるようです。
KY活動というのは”危険予知活動”という言葉の短縮したもので、本日の作業予定ではどのような危険があり、それにたいする安全対策はこれこれです、というようなことを作業員の間で確認しあい、最後には「○○ヨシ!」(たとえば、「足元注意ヨシ!」)という具合に指差呼称を皆で行って終わります。

いずれにしても、いい年をしたオッサン連中が毎朝繰り返し行うものですが、もし仮にコレを嫌がり「俺はこんな事はできない、俺の主義(思想信条というのかは疑問ですが)に反するからやりたくない、などと言えば即時に現場から追い出されるだけです。
とはいえ、こうした活動をしていない職場も多々あるわけですので、そういう人はそこへ行けばよいわけです。

公務員として税金から給与を得ていながら、国旗や国家を否定するというその精神が理解できません。
国旗が嫌い、国家が嫌い、でも教師になりたいというのであれば、私立のキリスト教系の学校へ就職するなり、塾の講師になるなり、職業選択の自由はおおいに残されていると思うのですが・・・

日の丸を否定し、君が代を否定し、国家を否定するのであれば、公務員として税金で飯を食うのをやめてから、クーデターなり政権交代で多数をしめるなどして、自分たちの意見が法律として通るようにしたらよいのであって、「子供たちの未来が危ない!」などと見当違いの偏見を無理に他人におしつけながら、自らは公務員としての身分で安泰に生活するというのは虫が良すぎる話だと考えます。

君が代についての大阪市の職員の行動において一番の問題は、今まで起立していなかった教師たちが法的規制によってそれをせざるをえなかったときに、教師をやめないで、それに従う人ばかりであることが問題に過ぎない。 その程度の事である。
 要するにそれまでの君が代についてのいろいろな意見や行動はさほど詳しく当人たちも考えていない事である。
 生徒から見ればお笑い種の教師たちで、終戦後それまで鬼畜米英といっていた先生が民主主義に変わる事と同じ現象に過ぎない。面白い事に君が代についていろいろいう人々が戦前の教育を批判する。深層には当人たちがそこの浅い知性を持ている事をしめしているにすぎない。多くの生徒はそんなことは無視して、生きていくに過ぎないがまじめな生徒が困る。

>(参照)日本国憲法
があげられているがその内容は我々日本人が思考して得た結果ではない。

 刺青に対して、憲法上の意見から橋下氏を批判する事は戦前美濃部達吉氏の天皇機関説と同じ意見いすぎず、北村 隆司氏はそれらについてはまったくしらない人でしょう。
 それが以前示した精神病患者の言う事です。北村氏の言動はそれです。
 思想信条信仰の自由は普遍的な原理ではなく西洋の歴史から生み出された思想で具体的にはキリスト教との抗争からでてきた。我が国にはそれが無いから、その内容が何かはわからず、精神分裂病患者のような言動をする。
 
刺青を我々の伝統から見ると江戸時代に犯罪者に刺青をしました、またかたぎでないやくざ者やそれらが生息していた領域と行き来がある人々が刺青をした。したがってそこにおおきな境界があり、それはかたぎとかたぎでないという普通の庶民が持つ判断である。
 したがって橋下氏が主張することは正しい。我が国は法治国家といいがたい要素があり、これが我が国の命取りになったし今後もなるであろう。シュルツ氏と比較することは無理筋である。

 われわれは足元を見て、刺青に対する我々の強力な感覚で見ることである。

 外国人でも刺青をするやつはろくでもないやつとして入国を禁止する事である。それこそ福沢諭吉の言う独立である。、自尊である。
 

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