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2012年4月

2012年4月30日 (月)

南京事件(6)―― 便衣兵処断を一万人の一般市民虐殺といい、さらに三万人の捕虜虐殺を加えた「戦争とは何か」

*引き続き、『戦争とはなにか』の記述内容を検証します。

第三章 約束と現実
○(金陵大学における難民登録において2,300人の元兵士が自首して出た件についての記述。ベイツによって1938年1月25日に書かれたもの)
㉑ 12月20日・・・登録の実際の指揮は将校達に任されていたが・・・彼等は比較的慎重で分別のある人たちであった。・・・指揮官その他は、登録開始に当たって不必要な恐怖を引き起こすことを避けようと極力骨を折った。・・・名乗り出なかった者も含めて残りの男達の中から、兵隊たちが1,000人近くを取り調べのために選び出したにもかかわらず、・・・将校たちはこの1,000人のうち一人をのぞいて全員を釈放して登録することを許可した。

*住民分離のための住民登録の開始は12月24日からおおむね二十日間続きました。従って、その開始を12月20日としているのは間違い。この平民分離を指揮したのは第16師団歩兵第30旅団長の佐々木到一少将で、城内より摘出した敗残兵二千を外交部に収容したとその「手記」に書いています。『読売新聞』(昭和13年1月10日)の記事には「敗残兵1,600名とその他の者」が市民として認められたとあります。(『「南京虐殺」の徹底検証』)また、敗残兵は苦力(クーリー)として雇われ給与を支給されたともあります。

㉒(そこへ階級の上の二人の将校がやって来て、警備兵の丁重な態度に不満を抱き、2,300人を二つのグループに分けた・・・という記述があり、その後に、その彼等がその後どうなったかについての「生き残ったという中国兵によるその殺害の証言」が記されています。「彼の言うには、昨夜連行された2,300人のうち、仲間がほとんどが(漢西門外の運河の堤防に連れて行かれ機関銃で)殺された」と。

*この時摘出された兵士の大半が市民として認められたのは上述した通りです。ただし、漢中門外においては、12月13日下関から脱出してきた約二万の中国兵と、鹿児島四十五連隊第十一中隊が衝突し激戦が行われ多数の中国兵が戦死しています。また、この段階では埋葬は行われていませんので、多数の中国兵の死体が放置されたままになっていたものと思われます。

㉓ この事件はここ二週間にわたって続けられた一連の同様の行為の内の一つに過ぎないが・・・ともかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保障されるという国際法の条文を語る場所ではないし、日本軍もまた、国際法など眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告発した人間に対しては復讐すると抗弁と言明したのである。

*安全区に潜伏した兵士が捕虜として認められないことは国際委員会も承知していましたので、その議論には深入りしないまま、日本軍は国際法など眼中にないといい、その処刑の動機を復讐と言って違法処刑を匂わせようとしています。

㉔ 埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである。こうした状況に私が特に関心を抱くのは次の二つのことが原因である。
つまり第一には、約束しながらそれをみすみす破るという甚だしい背信の故に、多数の人間が自ら死地におもむく破目になってしまったことである。第二には、我々の資産・職員・女性の被保護者(難民)の運命が、この恐ろしい犯罪のさまざまな段階に極めて密接に結びついていたことである。

*この『戦争とはなにか』と同時に漢訳本『外人目睹中之日軍暴行』が出版されていますが、ここでは、「4万人近くの非武装の人間が殺され、その内約30%がかって兵隊になったことのない人びとである」という記述は省かれているそうです(『南京事件国民党秘密文書から読み解く』p204)。また、その後国民党が開いた記者会見でも一般市民の殺害や捕虜の不法殺害=「南京大虐殺」が訴えられたことは一度もありませんでした。しかし、ベイツはこれと同様の証言を東京裁判で行っています。後段は、自分たちの財産が損なわれたとの訴えですね。

㉕ また、殺害の方法・場所・時間に関する全体的な証拠は、男が集団で拉致され、二度と帰ってこなかった若干の他の事例よりもむしろ多い。しかし、こうした事例については、我々は断片的情報しか持っていないのである。他の場所から集められたグループと一緒にされた若干のものを含めて、安全区から連行された男たちの大多数はその夜のうちに殺された、とはっきり断言できると思う。

*安全地帯からの兵士の摘発については、その任にあたった第七連隊に「掃討実施に関する注意」が12月13日に発令され、「青壮年ハスベテ敗残兵マタハ便衣隊ト見ナシ、スベテコレヲ逮捕監禁スベシ。青壮年以外ノ敵意ナキ支那人民特ニ老幼婦女ニ対シテハ寛容之ニ接シ、彼等ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰セシムベシ」とされました。しかし、15日午後8時30分発令の「歩兵第7連隊策命甲111号」には、二、連隊ハ明16日全力ヲ難民地区ニ指向シ徹底的ニ敗残兵ヲ補足殲滅セントス」となっており、敗残兵撃滅を目的とした掃討に切り替えられています。

 この理由は、その頃はまだ、13日に南京を脱出した中国軍大兵力による上海派遣軍司令部の襲撃が行われるなど、南京一体の治安は不穏な情勢であり、かつ、これらの城外兵力と安全区に潜んだ敗残兵が策応するとの懸念があったこと。安全区の敗残兵は逐次摘出されてはいるが、将校はほとんど逮捕できず、しかもかなりの武器、弾薬が発見されたため、安全区内に潜伏した敗残兵を「戦意も抵抗力もない非戦闘員」と見なし得る状態ではなかったこと。そんな状況の中で、17日の入場式までに城内の治安を確立すべき任務が、歩七連隊に与えられたためではないかと『南京戦史』は推測しています。

 これらの処断された敗残兵の数は、歩七の戦闘詳報では12月13日から24日の間に6,670とあり、その大部分は16日に処断されたとなっています。その情況を下関碼頭付近や漢中門外で目撃したという記録も残されています。こうした処置について、歩七参戦者は、昭和60年末の聞き取り調査で、「今にして思えば、連隊長の当時の状況判断については痛恨の情に堪えない」と答えています(『南京戦史』p331)。ただし、⑬で紹介したような証言もあり、その時処刑された正確な人数は判りません。ただ、南京陥落後まだ戦闘が終熄したわけでもないのに、なぜ17日に入場式を強行しなければならなかったのか不思議です。

 また、佐々木少将が行った「平民分離」の結果摘出された敗残兵約二千は、旧外交部に収容し、また、外国宣教師の手中にあった支那傷病兵は捕虜として収容したと、その『私記』に書かれています。従って、㉕に言う平民分離に際して「安全区から連行された男たちの大多数はその夜のうちに殺された、とはっきり断言できると思う」というベイツの言葉は単なる憶測に過ぎません。

第四章 悪夢は続く
○((ベイツが日本軍の南京占領一ヶ月後の実情を1月10日に書かれた手紙の中で述べたもの。従って、前章の記事が書かれた1月25日より以前の記述)

㉖ 元旦以来、満員の安全区内では事態がかなり緩和されましたが、これは主として、日本軍の主力部隊が出発したからです。”軍紀の回復”はまったく微々たるものであり、憲兵でさえ強姦・掠奪をはたらき、自分の義務を怠っている有様です。

*城内に入った軍隊は、京都16師団の久居33(下関)、奈良38(中山北路、中央路間)、京都9と福知山20(中山路、中山東路間)の4連隊。金沢9師団は金沢7(安全地帯)、富山35と敦賀19(中山東路、中正路間)の3連隊。宇都宮114師団は高崎115連隊(中華路東部)、熊本6師団は熊本13、大分47(第3大隊のみ)、都城23(漢中路、中正路、中華路間)の3連隊で、これらの部隊が、城内の指定された()内の地区の掃討を行いました。

 この時、第9師団第7連隊(約1,400人)以外の部隊が安全区に入ることは厳しく禁じられました。26日以降は、この地区の警備担当は第16師団の佐々木到一少将の指揮する部隊に代わりました。元旦には自治委員会が正式に発足し、これにより、南京城の治安維持は国際委員会の手から自治会、つまり日本軍の管理下にある自治委員会組織の手に移ることになり、安全区内の事態がかなり緩和されて来ました。  

㉗ 一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼のできる私の友人の多くは、もっと多くの数を上げることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています。

 有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件とみています。私も8,000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が一人の女を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。

*「南京大虐殺」はこの記述から生まれたと言っても過言ではありません。しかし、この記述は、南京防衛軍司令官唐生智が南京陥落直前に逃亡し、パニック状態に陥った中国軍兵士の多くが、軍服を脱ぎ捨て便衣に着替え、武器を捨てあるいは隠して安全区に潜んだ、という事実を隠しています。それ故に、彼らは戦争法規上捕虜の資格を有しない不法戦闘員と見なされたわけで、従って、摘出され処刑されても、当時国際法上問題とされなかったのです。

 こうして難民区から摘出された中国兵は、『南京戦史』では約9,000人となっていますが、「処断」と記録に残っているのは歩七の6,670人です。しかし、この数字は、⑬㉕にも言及しましたが、いささか誇大な数字ではないかと思います。というのは、下関埠頭で刺殺あるいは銃殺したという目撃情報もありますが、兵士の証言も照らし合わせて見ると、処刑されたものは「悪性の敵性分子」と見なされたものだけで、実数はその数分の一程度ではないかと思われます。

 こうした敗残兵の処理については、各部隊の指揮官の判断によるところが多く、この歩七を指揮した伊佐連隊長は、17日に予定された入場式迄に城内治安を確保する必要もあって、その厳重処分を行ったものと推測されます。同様の判断が、幕府山周辺で大量の捕虜を得た第13師団65連隊の捕虜の扱いにも反映していたように思われます。そうなると問題は「17日の入場式の強行」ということになりますね。(5/3挿入)

 なお、後段の、一般市民や婦女子が無差別に殺害されたと言うような目撃情報はなく、また、二万件という強姦件数もほとんどデタラメです。こうしたそれに類する他の記述も、ことさら日本兵の醜さを強調するために挿入されたもので、プロパガンダというしかありません。これについては冨沢繁信氏の『南京事件の核心 データベースによる事件の解明』により、一層明らかとなりました。

 というのは、ベイツが「南京事件」の事例が全部集まっているという『南京安全地帯の記録』や、その他の一次資料に記録された強姦件数を全て足しても、二ヶ月間で243件しかなく、これは一日平均4件であること。さらに、これらの事件の中から、文責者不明、被害者名不明、被害場所不明のものを除いた「事件らしい強姦事件」は5件に過ぎないこと。確かに、日本兵による強姦事件等も憲兵隊により摘発されていますが、その件数は10件程度です。

㉘ 市内では事実上すべての建物が日本兵により繰り返し掠奪を受けました。その中には、アメリカ・イギリス・ドイツの大使館や大使公邸も含まれていました。外人住宅はかなりの割合で被害を蒙っています。掠奪の対象となった主なものはあらゆる種類の車両・食物・衣類・寝具類・現金・腕時計・絨毯・絵画、その他貴重品です。掠奪はいまでも、特に安全区の外では続いています。

 商店の多くは、立ち入り御免の破壊とちょろまかしの後で、トラックを使って行動する日本兵の集団による(しかもこれはしばしば将校の監視と指揮の下に行われたが)、計画的な略奪が行われ、それから放火されたのであります。現在でも毎日数件の火事があります。住宅街のほとんどは故意に焼き払われました。われわれは日本兵が放火の目的で用いた化学薬品の見本を数種持っていますし、その手口の一部始終も調査しました。

*こうした事件の申し立てについても、前項で紹介した冨沢氏の研究によると、『南京安全地帯の記録』やその他一次資料に記録された全ての殺人、強姦、拉致、略奪、放火、傷害、侵入等の総数517件の内、「事件らしい事件」は二ヶ月間で95件しかなく、さらに、その内の13件は日本兵の外出が禁止されていた夜の事件です。なお、この95件という件数は、人口二十~二十五万の都市としては大変治安のよい都市ということになります。(ちなみに同程度の人口の新宿区における平成10年の反正件数は年間で8,753件、検挙件数3,269件だそうです)(上掲書p89)

㉙ われわれは、あらゆる出来事に目や鼻を働かせては、難民に食と住を与え、交渉し保護し抗議をする一般的な仕事をするほかに、多く略奪を阻止したり、強姦中の者あるいは強姦の目的で群れをなしてやって来る日本兵を説得したり、すかしたりして追い払いました。ある日本大使館員の話によれば、軍は中立国人の監視の下で南京占領を完了しなければならなかったことを憤慨しているとのことです。世界史においてこんなことはいまだかって正しかったためしがないというのです(もちろん何も知らない者のいうことです)。

*ここには、難民区国際委員会が、その本来の「安全区」の管理という役割を越えて、日本軍の南京占領を住民を味方につけて妨害する役割を果たしていたことが明白に示されています。では、なぜ日本がこうした国際委員会の妨害活動を黙認したのかというと、一つは戦時物資の供給をアメリカに頼っていたこともありますが、もう一つは、パネー号撃沈事件でアメリカに平身低頭していたためです。また、当時の外務省と軍部が対立関係にあったことも、国際委員会の宣伝活動に有効に対処できなかった原因の一つだと思います。

㉚ 我々は時にはうまくいかないことがありましたが、うまくいった割合は、我々の努力に十分見合うだけ大きいものです。・・・日本大使館が間に入って軍部と外国人の利益を和らげようという努力を大いにしてくれたので大変助かったこと、領事館警察も比較的丁重であった(これは少数であり、全部がそうであったわけではない)という点は認めなければならないでしょう。また、この仕事に当たった主な人物が三国防共協定加盟国のドイツ人でもあり、またアメリカ人でもあったのですが、アメリカ浅薄に野蛮な攻撃が加えられた後で、おとなしくしていなければならないために、仕事がやりやすかったことも認めねばなりません。

*国際委員会は、上述したような活動に対する日本軍の干渉を防ぐため、このように軍部と外務省の対立関係を利用していたのです。また、ドイツ人であるラーベを委員長としたのも、そのためでした。さらに、「パネー号撃沈事件」をもうまく利用していたこともここで判ります。

㉛ 中国軍は高級将校の敵前逃亡・軍の統制・決断を欠いていたという点では不面目でした。しかし、比べてみれば兵士一般は日本軍よりずっと立派でした。
 いうまでもないことと思いますが、この手紙は日本人に対する憎しみをかき立てるために書いたのではありません。もし事実が、ある近代的な軍隊、それも虚偽の宣伝を行って自分の罪悪行為を隠しているような軍隊の、不必要な残忍な行為を語っているなら、その事実に語らせようではありませんか。私にとって重大なことは、この征服戦争による計り知れない知れない悲惨、放縦と愚行により倍加され、未来にまで暗い影を投げる悲惨です。

*日本軍は虚偽の宣伝を行い、自らの罪悪行為を隠そうとしている残忍な軍隊であり、それが未来に暗い影を投げかけているので、それを暴くことが我々の務めだといっているのです。それを、日本人に対する憎しみからではなく、事実を語っているだけだと公平を装っています。

第八章 組織的な破壊
結論(ティンパーリーによる総括)
㉜ 戦争といいうものはすべて惨禍を引き起こしてきたのだという陳腐ないいわけでこれらの事実を弁明しようとする人びとは、主として日本こそ国際信義に違反して中国で戦争を行っているという事実をともすれば忘れているのである。・・・日本軍が中国で起こした暴行はただ勝利の熱に浮かされた軍隊の無軌道な結果に過ぎないのか、それともどの程度まで当局の計画的恐怖政治の政策を表していたものかという疑問をいだいた読者もおられるであろう。

㉝ (日本という)近代的工業国家は、厳しい現実の中では、封建的軍閥の媒体にすぎないし、それが日本の姿である。日本の一般民衆は、農民であれ工場労働者であれ、日本の歴史においていつの時代でもそうであったようにとなったように、現在も自らの運命の支配にほとんど発言力を持っていない。国の経済生活を支配している大財閥と結託した軍国主義者が日本を支配している。議会が無力であるゆえに、人民は民主的権利も自由も全然持っていないし、言論の自由も出版の自由も存在しない。

㉞ 侵略戦争は日本の支配階級が社会的手不満に対してとる昔ながらの治療法である。安易な征服によって繁栄がもたらされるという作り話が信じられている限り・・・権力者の間には一致した目的がある。

㉟ しかし、もし侵略が危険でもうけのないものとなれば、そして特に、イギリスとアメリカから経済的圧力が日本に加えられるならば、軍国主義と財閥の間には亀裂が生じることはほとんど確実であろうし、それによって日本人民は自由を獲得し、戦争を已まさせることにもなろう。日本の大衆はこの戦争で、何ら得るところがなく、逆に失うところが大きいのである。

㊱ 中国で発生した事態、依然として発生しつつある事態は、我々全員(集団安全保障を擁護する者も孤立主義者も含めて)が関心をもつべきことである。私が強く望むことは、中国の現在の苦難の物語、特に各章でそれぞれの体験を語った南京その他に住む高潔な男女の物語は、国際正義の大義を心にいだくあらゆる人びとに一つのはげましとなることである。確かに中国が屈服することは許されない。もし屈服することにでもなれば、人類は今後、何世代にもわたって善悪のけじめをつける権利を放棄することになろうし、現在、中国が体験している言語に絶する惨禍を自ら繰り返す危険をおかすことになろう。

 こうした本文に続く付属資料として、
A 第二、三章にかんする暴行事件の報告
B 第五章にかんする暴行事件の報告
C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告
D 安全区委員会と日本透谷との公信など
E 揚子江デルタ諸都市を攻略した日本軍部隊
F 南京の「殺人競争」
G 南京の状況に関する日本側報道
 が付されています。

 以上が、ティンパーリの『戦争とはなにか』のポイントとなる箇所を摘記したものです。いささかうんざりされたことと思いますが、この本の狙いは、つまり、中国で起こっている戦争に「我々全員(集団安全保障を擁護する者も孤立主義者も含めて)が関心をもつべき」であり、中国が屈服しないよう西洋諸国は中国を支援すべきであるということ。「もし中国が屈服することにでもなれば、人類は今後、何世代にもわたって善悪のけじめをつける権利を放棄することになろうし、現在、中国が体験している言語に絶する惨禍を自ら繰り返す危険をおかすことにな」ると、西欧世界に警告を発するためだったのです。

 つまり、そのために、日本軍がいかに暴虐であるかを世界に宣伝しようとしたわけで、それを宣伝するために、㉔「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人だった」  と、㉗「強姦の件数を二万件とみています。私も8000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯された」という誇大な記事を作成したのです。

 前者については、ラーベは東京裁判での証言で、これを「最初の三日間に生じた」事件といっていますので、それは、日本軍が難民区の掃討と処刑を行ったことを指しています。では4万という数字は何を根拠としたかというと、紅卍会による埋葬記録(城内1,793体、城外41,279体)によるとしています。

 しかし、この埋葬作業は昭和13年2月1日から始まり3月15日に終了していますので、この数字はこの作業が終わった後に書き込まれたものと考えられます。つまり、㉗の「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺された」(1月10日)が、ここでは「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され」となり、かつ、その約30%12,000人は「かって兵隊になったことのない人」=一般民衆となっているのです。

 しかし、埋葬死体を全て虐殺された者とするのもおかしいですし、城外の兵士の死体は軍衣ですが、安全区に逃げ込んた兵士は便衣に着替えていたわけですから、それが兵隊であったか一般民衆であったかを見分けることはできなかったはずです。従って、この埋葬記録でもって上記のような断定をすることはできません。

 さらに、紅卍会の埋葬記録も、自治委員会のと通してそれに協力した丸山進氏の証言によると、その4万3千の総埋葬量も「厳密に検討すれば少なくとも14,000体以上の水増しがあると考えられるので総計は29,000体以内であると見られる」こと。さらに、この埋葬記録では、城内の総死体2,830(上海戦以後負傷し南京に後送された後死亡した兵士を含む)の内、女子は48体、子供29体となっています。(「私の昭和史(22)―南京事件の実相」)

 こうした誇張された記述についてベイツは、3月21日付けのティンパーリへの手紙で、「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚をとるやり方もできるでしょうが、ここでは劇的な効果を上げるためにも、それを犠牲にしなければならないと思うのです」と提案しています。その1週間後の3月28日には、ティンパーリはベイツへの返書に「21日付けの手紙は、原稿と一緒に詳しい変更内容も、ともに受け取った」としていますので、この時、この部分の挿入がなされたものと思われます。(『南京事件資料集 アメリカ編』p371、国民党の秘密文書から読み解く』p183)

 なお、後者の記述も、「劇的な効果を上げるため」つまりこの本を「ショッキング」なものとするためにあえて挿入されたものであることはいうまでもありません。

2012年4月19日 (木)

南京事件(5)―― 安全区に潜伏した便衣兵による後方攪乱を日本軍の暴虐として告発した宣教師たち

*引き続きティンパーレ『戦争とはなにか』の記述内容を検証します。

第二章 掠奪・殺人・強姦
○(本章を書いたのは、上掲書(『日中戦争史資料8』)では「マギーの日記による記述」とされているが、東中野氏の調査によるとジョージ・フィッチ)

⑨ 12月17日、金曜日。掠奪・殺人・強姦は衰える様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦されたのです。別の婦人は五ヶ月の赤ん坊を故意に窒息させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣を見舞われるのです。

*この事件はアメリカや中国が南京事件を映像化mする時必ず出てくるシーンらしく、一万人以上の難民女性を収容していた金陵女子文理学院に日本兵が侵入して起こした大強姦事件とされるものです。しかし事件当時この学院の責任者であったミニー・ヴォートリンは、この日のことを日記(『南京事件の日々』)に次のように書いています。

 「12月17日7時30分・・・彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は12才の少女から上は60才の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で指されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが)・・・

 (金陵女子文理学院に)審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている間に、他の兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が十二人の女性を選んで、通用門から連れ出したことを後で知った。すべてが終わると、彼らはF・陳をつれて正門から出て行った。・・・連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。」

 ところが同じ事件について、ヴォートリンがアメリカの金陵女子文理学院理事会に送ったレポートには、この事件は17日の午後9時から10時に間に起こったことで、ヴォートリンは陳氏は銃殺されるか刺殺されるに違いないと思っていたが、しばらくして陳氏は解放されたことを知った。さらに彼女たち(日記には12人となっているがここでは6人となっている)も翌朝5時には無傷のまま戻って来た、と書かれています。(『正論』2012.3「南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(下)」)

 これが16日と17日の夜に起こったとされる事件の全てで、「昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました」などとはどこにも書かれていません。そもそも、日本軍兵士の夜間外出は禁止されていましたし、朝夕点呼もありました。また、安全区内の掃討を命ぜられた金沢七連隊が14日に出した命令には「掃討地区内では歩七(歩兵七連隊)以外の部隊の勝手な行動を絶対阻止せよ」となっており、要所には歩哨が立って他部隊の兵士の進入を防いでいたのです。

 また、17日は日本軍の入場式、翌18日は慰霊祭であり、各部隊はそれに向けて戦場整理を行ったり、衣服を整えたり、また銃器の手入れをするなど多忙を極めていました。従って、その前日、前々日の夜に、あえて安全区内の避難所となっている外国施設を選んで、日本軍兵士がこのような強姦事件を引き起こすなど到底考えられません。

 実は、この間に発生した、安全区内における夜間の略奪、放火、強姦などの犯罪行為は、安全区内に避難した難民自身やそこに潜んだ便衣兵の仕業であった疑いが濃厚なのです。南京陥落後城内に潜んで攪乱行為を指揮した郭岐の『陥京三月記』には、「一般に生計が苦しく度胸がある難民たちは、昼は隠れて夜活動するというねずみのような生活をしていた。夜の間は獣兵(日本兵を指す)は難民区の内外を問わず、活動する勇気がなく、兵隊の居住する地区を守る衛兵がいるだけで、この時が活動の機会になった。」と書かれています。

 また、国際委員会が作成して日本大使館に提出し、またアメリカ国務省にも転送された「市民重大被害報告」(殺人、強姦、略奪の事例が記載されたもの)について、ドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は2月10日の日記に「第一、暴行事件といっても、全て中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」(『南京の真実』ラーベP246)と書いています。ヴォートリンの書いている少女の拉致や強姦の話にしても伝聞に過ぎません。

⑩ 12月19日、日曜日。完全に無秩序の一日。兵士達の放火によって大火事がいくつか発生し,今後さらに起こる模様です.米国旗が多くの場所でひきずりおろされされました。

⑪ 12月20日、月曜日。蛮行と暴力は止まるところなく続いています。市の全域が組織的に焼き払われているのです。午後五時にスマイスと一緒に私は車で出かけました。城内最大の繁華街である太平路一帯は炎上しておりました。

*日本軍は12月7日発令の「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」の三で「別に示す要図に基づき外国権益特に外交機関には絶対に接近せざるはもとより・・・中立地帯(安全区)には必要の外立入を禁じ所要の地点に歩哨を配置す」、五「掠奪行為をなし又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ」と厳命していました。厳しすぎると苦情が出たほどでした。

⑬ 12月23日、木曜日。農村師資訓練学校にある我々の収容所から70人が拉致されて銃殺されました。全くデタラメです。兵隊たちは怪しいと思ったものは誰でもひっつかまえます。手にタコがあるとその人が兵隊だったという証拠になり、確実にあの世行きです。
・安全区国際委員会が設置した収容所にも多数の敗残兵が紛れ込んでいたということです。

*兵士であるかどうかの見分け方ですが、兵士の中には周辺の農村から拉致された農民や城内で徴募された住民や少年など軍隊訓練をほとんど受けたことのない雑兵も多く含まれていました。また難民区に逃げ込んだ兵士は軍服を脱いで便衣に着替えていましたので、敗残兵の摘出に際して、住民との区別がつきにくいという事情もあったようです。ただ、摘出されてもその後市民と認められたものは帰されています。

 また、良民か中国兵かを区別するための審問もいろいろな方法で行われています。さらに、摘出された中国兵が全て処刑されたかというと、必ずしもそうではなかったようです。ラーベ委員長の16日の日記には「晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人かいたのは確かだが、残りは揚子江にあるシマの強制収容所に送られた」と書かれています。(以下『再現「南京戦」』東中野修道他参照)

 また、12月13,14日に中山門から市内に入った榊原主計少佐〔上海派遣軍後方参謀〕は、城内の「俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食料や収容場所などが決定しなかったので、『取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時期は速やかに示す』こととしました。・・・無錫の倉庫で米約6,000袋を押収したとの報告を受け、又刑務所や監獄が使用できるようになったので、入場式の前後に俘虜の移管を受けた記憶があります。中央刑務所に収容された俘虜は約四~五千であったと思います。それは翌年一月、上海地区の労働力不足を補うため、多数の俘虜を列車で移送し、約半数二千を残したように記憶しております。」(「証言による南京戦史」⑪P8)と答えています。

 なお、陸軍歩兵学校「対支那軍戦闘法ノ研究」(秘)の中の「其六 捕虜ノ取扱」の項には次のような興味深いことが書かれています。
甲、武装解除に関する着意
一、支那軍は欺瞞的投降を装うことあるを以て不用意にこれを許すは危険なること多し。
(通説甲第七項参照)
二、捕虜はその場に武器を放棄せしめたる後これを監視容易なる地域(捕虜の種類及び兵数により地域の数を定む)に逐い込み且要すれば之を三乃至五人毎に聯縛スルを要す。
乙、捕虜の処置
四、捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の他之を現地または他の地方に移し釈放して可なり。
支那人は戸籍法完全ならざるのみならず特に兵員は浮浪者多くその存在を確認せられある者少なきを以て仮に之を殺害または他の地方に放つも世間的に問題となること無し。

 こういう中国的事情を考慮した上での処置もなされていたということですね。ただ、安全区の掃討に当たった金沢七連隊の戦闘詳報には、一、消耗弾 小銃5000発 重機関銃2000発、二、刺射殺数(敗残兵)6670と書かれており、この数字が一人歩きしているわけです。しかし、上記の榊原主計少佐の証言とは食い違っていますし、掃討に当たった兵士の証言も実際の処刑数ははっきりしない。一説には、6670という数字は補充弾の数に合わせただけともいいます。

⑭ 12月24日 金曜日。中国人の登録は今日はじまりました。軍部の言によれば、まだ安全区には二万人の兵士がおり、これらの”化け物ども”を一掃しなくてはならないというのです。100人残っているかどうか私は疑問に思います。

*日本軍が、非武装地帯である安全区から、便衣に着替え潜伏した中国軍兵士を摘出しない限り治安の安定化は図れないと考えたのは当然です。また、住民数を正確に把握し食糧問題に対処する必要もありました。そこで、日本軍は城内の全住民に指定された場所に出頭し住民登録を行うことを求め、一人一人に「安居之証」を手渡すという方法で、兵民分離を進めることにしたのです。

⑮ 中国人の自治委員会が・・・一昨日結成されましたが・・・しかしすでにスパイどもが仕事を始めています。我々はここでその一人を捕まえました。・・・彼は絞首刑にされるのではないかと思いますが、それでもうかつなことはするなとはいっておきました。

*この「スパイども」というのは一体誰のことでしょうか。おそらく、安全区国際委員会の委員、とりわけフィッチやベイツは彼等の素性とその活動を知っていたのではないでしょうか。国際委員会の委員長であったラーベも、そのことに薄々は感づいていたようでしたが、彼等との友情を信じてあえてそれを問いただすようなことはしなかったのです。しかし、やはり騙されていたと知って『ラーベの日記』には次のようなことが書かれています。

 「二月十二日 南京陥落直前しばらく泊めてくれと頼みにきた人たちの中に国民政府の幹部二人がいた。私は承知した。二人はトランクにいっぱい金を持っていて、うちの使用人に何かにつけてチップをはずんだが、その額ときたら、いくらなんでも程度を越えていた。・・・ある日、書斎の机に五千ドルの札束を見つけた・・・そこにはメモが添えてあり、『哀れな人びとを救う貴殿の誉れある行為に』とあった。」

 二月十五日 昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。今日発つという。どうやって家に帰るのかは知らない。計画を打ち明けられなかったし、こちらも聞かなかった。残念ながら我々の友情にはひびが入った。それはともかく、二人が無事に香港に戻れるよう祈る。けれどもまた会いたいとは思わない。」

⑯ 12月27日 月曜日。兵隊は依然としてまったく統制がとれず、軍と大使館の間には何らの協力もありません。軍は、大使館が発足させた自治委員会の承認さえも拒否し、委員会のメンバーは故意に無視されています。中国人は被征服民族であり、何らお情けを期待してはならないと彼等はいわれているのです。

*安全地帯を掃討した金沢九師団は12月26日に南京を離れ、南京の警備は京都十六師団に引き継がれました。その司令部及びその直轄部隊と歩兵三十旅団(佐々木支隊)主力が南京の警備を担当しました。そして、12月24日から、南京の秩序と安寧を回復するための「平民分離」を開始しました(1月5日まで)。「平民分離」では、城内の子供や老女を除く中国人は各自指定された場所に自ら出頭して市民登録(安居ノ証交付)することを命ぜられました。

⑰ 12月29日、水曜日。登録は極めて非能率に続きます。・・・さらに多くの難民が敗残兵として拉致されます。婦人や老人がやってきて、ひざまずいて泣きながら、夫や息子をとりかえすのに手を貸してくれとわれわれに頼むのです。二、三の場合はうまくいきましたが、軍はわれわれが口出ししようものなら憤慨するのです。

*つまり、安全区の管理が国際委員会の手を離れて自治委員会の手に移るのを彼らはいやがっているのです。しかし、「平民分離」によって南京の治安は次第に回復し、自治委員会は翌1月1日に発足しました。その際「軍司令官殿より金一万円下賜」がなされています。おそらく、国際委員会は日本の外務省と出先軍との間に確執があることを知っていたので、自治員会の発足に際してそれを利用しようとしたのでしょう。

 実際のところ、ラーベをはじめとする国際委員会の委員は、先に紹介したように、南京陥落後安全地帯に逃げ込んだ中国軍将校を匿っていた可能性が大きい。その結果、安全区は彼らによる後方攪乱の基地と化していたのです。12月28日には、こうした後方攪乱のための掠奪・扇動・強姦に携わっていた中国軍将校23名と下士官54名、兵卒1498名が日本軍憲兵隊に摘発されています。日本軍がこうした国際委員会の活動を問題視したのは当然です。

⑱ 12月31日、金曜日。比較的平穏な1日。夜間に暴行事件の報告がなかったのは初めてのことです。日本側は新年の準備でいそがしがっています。

*「平民分離」によって、次第に治安が回復してきたことの証拠ですね。

⑲ 私は以上の説明を何ら復讐の気持ちをもたずに書いてきました、戦争は残酷なものであり、征服のための戦争はことに残酷であります。この中で私が経験したこと、・・・キリスト教的理想主義をまったくもたない日本軍は、今日非道な侵略軍となっており、東洋ばかりでなく,他日は西洋をも脅かすことになろうということがうかがわれ、また世界はこの現実の真相を知るべきであると思われるのであります。

*ラーベもこれと同じように、この戦争は日本軍の征服戦争、侵略戦争であるといい、他日は西洋をも脅かすことになろうと警告しています。こうした日本軍に対する不信感と警戒心は、欧米の新聞記者や知識人の共通認識となっていたようです。日本軍も記者会見を行いましたが、中国側の記者会見には多くの記者が集まるが、日本軍の記者会見には記者はほとんど集まらなかったといいます。

⑳ 中国人は多くの長所に加えて、苦難に耐える卓越した能力を持っております。最後には正義が勝つに違いありません。とにかく、私は彼等と運命を共にしたことをつねにうれしく思うでありましょう。

*中国人の忍耐力を称讃し、彼等を正義と認め、彼等と運命を共にできたことを喜んでいるのです。このことは、それだけ日本軍に対する不信感と警戒心が強かったということで、これが、「南京大虐殺」という虚報を生み出す彼らの心理的動機となっていたことは間違いありません。

2012年4月 6日 (金)

いわゆる「マッカーサー証言」について――「自虐史観」からの脱却には役立つかも?

 この証言は、司令官を解任されたマッカーサーが1951(昭和26)年5月3日に、米上院軍事外交合同委員会の公聴会で行ったものです。これを、小堀桂一郎氏らがニューヨーク・タイムズ紙の記事を基に証言録を入手、翻訳文と解説が雑誌「正論」などで紹介されました。

 そのポイントとなる箇所は、日本が戦争に飛び込んでいったその主要な動機は、実は資源のない日本が、国家の生存権を確保するという意味におけるセキュリティーを確保する必要に迫られたためだった、と述べたところです。つまり、この時代(おそらく昭和初期)日本は戦争に訴えない限り、原料の供給は断ち切られ、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを日本は恐れた、というのです。

 この証言が、都立学校の現代史の教材として英文で掲載されたことが話題になっているわけですが、産経新聞の解説では、これを「日本の戦争=自衛戦争」と認めたものと解釈しています。そして「東京裁判史観」の是正や「南京大虐殺」が中国の反日誇大宣伝であったことの認識とも合わせて、これを前向きに評価しているのです。

 次は、以上のことを報じた産経新聞の解説です。

 「この聴聞会が日本で広く知られるようになったのは、間違いなくこの一節によるだろう。「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れた。したがって、日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」いわゆる自衛戦争証言である。

 重要性を考えるにあたり、二つの極東情勢をふり返る必要がある。「戦前の日本」と「戦後のマッカーサー元帥」である。

 戦前の日本、とりわけ明治維新によって近代国家となった日本にとって、帝政ロシアと旧ソ連の一貫した南下政策は大きな脅威だった。

 朝鮮半島が敵対国の支配下に入れば、日本攻撃の格好の基地となる。後背地がない島国日本は防衛が難しいと考えられていた。日露両国間に独立した近代国家があれば脅威は和らぐ。しかし李王朝は清朝に従属していた。その摩擦で日清戦争が勃発。清朝が退き空白が生じるとロシアが台頭、日露戦争となった。どちらも舞台は朝鮮と満州である。

 西欧列強もまた、大きな脅威だった。当時の日本を小説にして世界へ伝えたフランス海軍士官、ピエール・ロティは、外国艦船が頻繁に出入りする長崎、横浜港の様子を書き残している。アフリカ、インドを経て太平洋まで到達した英仏などの艦船が近隣国を攻撃し、矛先がいつ日本に向くのか分からない、緊張の時代だった。

 一方で、米国は、日本が韓国を併合したようにハワイ王国を併合し、こちらは現住民族を滅ぼした。日本列島の太平洋側に米国が封鎖陣形がはられた。

 この経緯を作家の林房雄は「一世紀つづいた一つの長い戦争」と表現する。幕末の薩英戦争・馬関戦争で徳川二百年の平和が破られたとき「一つの長い戦争」が始まり、昭和二十年八月十五日にやっと終止符が打たれた。この百年の間、日本は欧米列強に抗するため、避けることのできない連続する一つの戦争「東亜百年戦争」を強いられたという。

 しかし、こうした主張を戦後許さなかったのは、ほかならぬマッカーサー元帥だった。「日本は列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は封じられた。GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官として占領統治を成功させるには、日本の過去を完全に否定しなければならなかったからである。

 ときはくだり一九五〇(昭和二十五)年。マ元帥が常に口にした共産主義への懸念>は、朝鮮戦争で現実のものとなった。ワシントンは中国参戦後、日本を「防共の砦」とし、朝鮮半島を明け渡す可能性も示唆してきた。

 マ元帥は、朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられた凶器となりかねない位置にあるため、朝鮮防衛を考えた。さらに、ソ連製のミグ戦闘機が飛来すると、兵站部だった満州爆撃の許可を本国に求めた。

 朝鮮と満州の敵勢力を掃討して日本を防衛する。マ元帥のこの行動は、日本が戦前、独立を保つためにとった行動そのものだった。朝鮮の地に自ら降り立ち、大陸からの中ソの脅威に直接立ち向かってはじめて、極東における日本の地政学的位置を痛感し、戦前の日本がおかれた立場を理解したのである。

 この証言に至る下りで、マ元帥は「日本人は・・・労働の尊厳のようなものを完全に知った」と証言した。士官学校卒業後、初の東洋だった長崎で「疲れを知らないような日本の婦人たちが、背中に赤ん坊をくくりつけ、手で石炭カゴを次から次へと驚くべき速さで渡す」のをみて驚嘆したという。こんな体験も日本観形成の要因だったかもしれない。」

 なお、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)は「現在ではもっぱら国家安全保障national securityの意味で使われる」(平凡社世界大百科事典)の記述により、安全保障と訳した。」と訳者の註が施されています。

 こうした意見に対して、ネット上ではいくつかの反論がなされています。肯首できる意見としては、「マッカーサー証言」全体の文脈の中で、この部分を、日本の大陸進出を「自衛」のための戦争と認めたものと解釈するのはおかしい、というのがあります。つまり、「セキュリティ(security、安全、安心、安全保障)」を「自衛権の行使」という意味に解するのは間違っているというのです。

そこで、その証言部分を見てみます。

【対訳 マッカーサー証言、1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会で語った内容】*原文資料の57,58ページ参照
(英語原文 正論)
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/maca/mac-top.html

[ヒッケンルーパー上院議員]
 では五番目の質問です。赤化支那(中共:共産中国)に対し海と空とから封鎖してしまへといふ貴官(マッカーサーの事)の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。

[マッカーサー]
 はい。 太平洋では、私たちは彼らを迂回し包囲しました。日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島に犇いているのだということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は、量的にも質的にも、私がこれまでに接した何れにも劣らぬ優秀なものです。

 歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間が怠けているときよりも、働き、生産しているときの方がより幸福なのだと言うこと、つまり労働の尊厳と呼んでも良いようなものを発見していたのです。

 これまで巨大な労働力を持っていると言う事は、彼らには何か働く為の材料が必要だと言う事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき材料を得ることが出来ませんでした。

 日本原産の動植物は、蚕をのぞいてはほとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫(すず)がない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在したのである。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。

 したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分がその安全保障(「セキュリティ確保」)の必要に迫られてのことだったのです。

*この安全保障(「セキュリティ確保」)の部分の訳が、「失業者対策(保護)」であったり、「資源の確保」であったり、単に「安全保障」であったりいろいろです。

 原料は、日本の製造業のために原料を供給した国々マレーシア、インドネシア、フィリピンのような国々の全拠点を、日本は、準備して急襲した利点を生かして抑えていた。そして彼等の戦略的概念とは、太平洋の島々、遠く離れたところにある要塞をも維持することだった。だから我々が、こうした島々を再び征服しようとすれば、我が軍の財産を搾り取られ、日本が攻略した地の基本的な産品を彼等が管理する事を許す条約に最終的には不本意ながら従うことになり、犠牲があまりにも大きいと思われた。

 この事態に直面して、我々は全くの新戦略を考え出した。日本がある一定の要塞を確保したのを見て我が軍が行ったことは、こうした要塞を巧みに避けて回り込むことだった。彼等の背後に回り、日本が攻略した国々から日本へ到達する連絡路につねに接近しながら、そっと、そっと忍び寄った。米海軍がフィリピンと沖縄を奪う頃には、海上封鎖も可能となった。そのために、日本陸軍を維持する供給は、次第に届かなくなった。封鎖したとたん、日本の敗北は決定的となった。

 最終結果を見ると、日本が降伏したとき、少なくとも三百万人のかなり優秀な地上軍兵士が軍事物資がなく武器を横たえた。そして我が軍が攻撃しようとした要所に結集する力はなかった。我が軍は(迂回して)彼等がいない地点を攻撃し、結果として、あの優秀な陸軍は賢明にも降伏した。(以下略)」

 これは、アメリカ上院の公聴会において、朝鮮戦争でアメリカが共産中国を屈服させるためにとるべきであった戦略について、議員がマッカーサーに意見を徴したのに対し、マッカーサーが答えたものです。その意味はその後の証言も合わせて考えると次のようになります。

 マッカーサーは、それは、アメリカが日本に対して迂回包囲作戦をとったのと同じやり方で可能だったと言いました。日米戦争においてアメリカは、日本の東南アジアからの原料供給を封鎖する作戦をとった。それが功を奏して日本はギブアップした。

 これと同様のことが中国に対しても言える。彼等は、かって日本帝国が持っていたような資源は持っていない。従って、彼等に対しては、かって日本に対してとったと同じような資源封鎖をすればよい。その封鎖は、国際連合に加盟している国々が協力すれば容易にできる。

 中国が資源を得るための唯一の方法はソ連から供給を受けることだが、ソ連は極東の大部隊を維持するための輸送路を確保するのに精一杯だ。つまり、ソ連の中国に対する資源供給力には限度がある。だから、中国は海軍も空軍も持てないのだ。

 私の専門的見地から言えば、中国の近代戦を行う能力はひどく誇張されたている。もし我々が、上述したような資源封鎖をやり、空軍による爆撃でその輸送路を破壊しさえすれば、然るべき期間内に、必ず彼等を屈服させることができたであろう。

従って、件の箇所の訳は、

 「したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、その大部分が「資源を確保することで自国の生存権を擁護する」必要に迫られてのことだったのです。」と訳したほうがいいように思います。

 従って、これを、マッカーサーが日本の満州事変から日中戦争そして大東亜戦争までの日本の戦争を「自衛戦争」と認めた、と解釈するのは、いささか我田引水のような気がします。マッカーサーが言っているのは、日本のような資源のない国に対しては、そうした資源封鎖が戦略上有効だということです。その主眼は、朝鮮戦争におけるアメリカの中国封鎖戦略の有効性を主張するためだったのです。

 従って、日本の昭和の戦争をどう評価するか、という問題は、こうしたマッカーサーの言葉とは別に考えるべきです。この場合、日清戦争は、日本の安全保障上の観点から朝鮮における日本の清国に対する軍事的優位を確保するためのもの。日露戦争は、朝鮮における日本のソ連に対する軍事的優位を確保するためのもの、ということでよろしいのではないでしょうか。

 では満州事変以降の戦争についてはどうか。満州事変の前後は、アメリカにおける排日移民法の制定、金融恐慌・世界恐慌とそれに伴う自由経済からブロック経済への転換、東北地方の冷害等も重なって、日本は未曾有の経済的困窮状態に陥っていました。そこで満州問題、つまり満州における日本の特殊権益の確保という問題が、俄然脚光を浴びることになったのです。

 つまり、この時日本が直面していた問題は、直接的にはマッカーサーが指摘したような資源問題や移民問題であったわけです。また、満州における日本のプレゼンスを確保する、つまり、ソ連の共産主義革命に基づく膨張政策、中国における反日運動の高まりに対処するという観点から言えば、日本の安全保障の問題でもあったわけです。

 では、そうした問題を解決するためにとるべき日本の外交政策としては、どのような政策を採るべきであったかというと、蒋介石と連携して中国の共産化を防ぐことが最大の戦略目標であったはずです。従って、こうした観点からその後の日本の行動を見る限り、満州事変のやり方や華北分離政策が有効だったとはとても言えません。

 まして、中共の謀略にはまって泥沼の日中戦争に足を突っ込み、さらに南京事件を引き起こしてアメリカを敵に回しアメリカの経済制裁を受けることになった。これに対抗し資源を押さえるために仏印進駐をした。さらにドイツと軍事同盟を結んでアメリカを掣肘しようとして失敗し、結局、対米英戦争に引き込まれた。

 こうした、その後の日本の行動が、満州事変当時の「資源確保や安全保障上の理由」だけで正当化できますかね。まあ、単純な「日中兄弟論」的な考え方しか持てなかったために、中共やソ連に騙され、あるいはアメリカに騙され、暴発させられて自滅したわけで、余り自慢になる話とも思われません。

 まあ、それは、巷間言われるほど日本に悪意があったわけではないということの証明にはなると思います。よって、いわゆる「自虐史観」からの脱却には少し役立つかも知れません。しかし、そうした解釈から、日本人が昭和の戦争から学ぶべき真の教訓が得られるとは、私には到底思えませんね。

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