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2012年5月

2012年5月31日 (木)

南京事件(8)―― なぜ、アメリカ人宣教師等は中国軍撤退作戦の失敗を日本軍残虐宣伝にすり替えたか

 これまで7回にわたって、「南京大虐殺」の情報発信源となった『戦争とはなにか』について、その真偽を検証してきました。この結果、この本に書かれた不法殺人、略奪、放火、強姦などの犯罪行為の中には、確かに日本軍兵士によるものも含まれているが、その多くは、難民自身による略奪や、安全区に潜入した中国軍便衣兵による後方攪乱であった可能性が極めて高いことが判りました。ティンパーリやベイツら数人の国際委員会委員は、これらを全て日本兵の仕業とし、日本軍の残虐性を国際社会に宣伝したのです。

 といっても、この本に挙げられた数は、「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人だった」であって 、これは、戦後、中国が主張するようになった30万人以上という数字と比べるとはるかに少ない数字です。

 また、この4万人という数字がどこから出てきたかというと、それは、昭和13年5月に終了した紅卍会の埋葬記録(四万三千余体)に拠るのです。ただし、これ以前の1月10日にベイツが書いた記事には、「一万人以上の非武装の人間(武装解除された元兵士)が無残にも殺されました。・・・さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」となっていました。

 つまり、一万人以上プラスアルファーの数字が、紅卍会の埋葬記録の出現によって4万人となり、その約30%約12,000人が、婦女子を含む一般市民とされたのです。しかし、この4万という数字は、この埋葬作業を監督した当時南京特務機関員であった丸山進氏によると、少なくとも一万四千体以上の水増し(埋葬作業を急がせるため水増し賃金を払った)があり、実数は二万九千体以下であったといいます。それでも、この統計は、成年男子と女子と子供を区別していて、城内外区合わせて見つかった女子の死体は52体、子供の死体は29体に過ぎませんでした。

 ということは、この「一万人近くの非武装の人間」というのは、安全区に逃げ込んで摘出された便衣兵のことですから、便衣兵は国際法上捕虜としての資格を有せず処刑されても仕方がない。そこで、不法殺害となるプラスアルファー分を、「兵士であったことのない」一般市民や婦女子12,000人の殺害としたのです。しかし、便衣兵と間違われて処刑された一般市民の数は僅かであり、また、婦女子の遺体は合計81体(誰により殺害されたものであるか不明)に過ぎないのですから、この12,000人という数字が過大であることは明らかです。

 そこで、ベイツは、こうした数字では説得力に欠けると判断したのでしょう。「有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件とみています。私も8,000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯されているのです。」などと、証拠なしに伝聞証言だけで日本軍の残虐性を訴えることのできる強姦に焦点を移すことにしたのです。安全区に潜んだ便衣兵が後方攪乱をするにしても、これが最もやり易くまた効果的だったと思います。

 この安全区の役割について、南京陥落時に500名の部下とともに安全区に潜入した郭岐は、自らの回想録で次のように述べています。

 「第四に、このような集団がここ(=安全区)でしっかりと団結しており、加えて軍人が大半を占め、銃器が至る処で手に入るというのであれば万が一チャンスがあったなら、内外から呼応し南京は再び我々のものとなるのではないか。このために、日本人の傀儡自治会は夜もおちおち寝ていられなかった。彼らは針のむしろに座っているかのように神経を尖らせており、一触触発といった状況であった。」(「南京陥落後の悲劇」『南京事件資料集2』p236)

 こうした動きが実際にあったことが、ラーベの日記(1月8日)にも次のように印されています。

 「今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪い返そうとしているという噂が、またもやひろまった。それどころか、市内で中国兵の姿を見かけた、という話まで出ている。まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。日本の腕章も中国人のほぼ全員がつけていたのだが。そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、相当数の難民が日本大使館を襲おうと考えていたという。この時ささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。」(『南京の真実』p171)

 このことに関わって、当時、南京特務機関員として紅卍会の埋葬業務等の監督に当たった丸山進氏は、一体なぜ唐生智が南京陥落直前に「敵前逃亡」したのかについて、次のような「大胆な推測」を披露しています。

 「唐生智ほどの武将が意図的に激戦中の南京市から離脱する以上後に何らの策をも残さなかったとは考えられない。況して側近中の側近と見なされる龍大佐と周大佐が唐司令官から与えられた秘密命令がどのようなものであったかはおおかた推測することができる。」

一、残されている南京城内の家屋と建設物は安全区を除き一件も残さず灰燼に帰すること。
一、住民に対しては略奪、強姦、殺害等を行いその罪をすべて日本軍の将兵になすりつけること但し国際委員会には気づかれないように注意する。
一、日本軍が安全区に潜入している組織に気付かずに主力部隊を南京市城内外から撤退させるのを待って一斉に蜂起して首都奪還を図ること。(「ラーベの日記を読んで(上)」)

 事実、唐生智が「敵前逃亡」で処刑されたという当時の新聞報道は誤りで、氏は戦後も生き延びていて、1949年以降中共軍に寝返り、湖南省で指揮官、および知事になったことが確認されています。このことは、先の丸山氏の推測を肯わせるものですが、例のアイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』には、唐生智が「敵前逃亡」するに至った経緯について、次のように記されています。 

 「しかし、もっと悪いニュースが唐を待っていた。そして、今回の悪いニュースは敵の成功によるものではなく、蔣自身の側から届けられたものだった。二一月一一日正午、唐の本部に顧祝同将軍からの電話が入った。顧は唐配下の軍団の全面退却を命じ、これは蒋からの直接の指示であると通告した。唐自身は、川の対岸にあり、渡河船と鉄道の終点である浦口に直行すると、待機している別の将軍が彼を安全な場所に移動させるということだった。

 唐の表情に衝撃が走った。自分の軍団を見捨てるという、およそ指導者として不名誉な選択を要請されている事実はおくとして、彼は別の非常に深刻な問題を抱えていた。その時点で、彼の軍は、苛烈な戦闘の最中にいた。彼は顧に、日本軍がすでに前線に突入していて、退却命令の実行は不可能であると説明した。それは実際には潰走に転じることになる。

 顧は言った。「それについて憂慮する余裕はない。とにかく、貴殿は今夜中に退却しなければならない」。

 突然かつ性急な退却がもたらすと思われる結果について唐が再度説明すると、顧は、蒋が個人的に唐に「今夜中に渡河する」よう命令していることを思い出させた。必要ならば部下を残して状況に対処させろ。しかし「貴殿は今夜中に川を渡らなければならない」。顧は繰り返した。

 不可能だ。唐は言った。どんなに急いでも、揚子江を渡ることができるのは明日の夜になる。顧は、敵との状況が切迫した事態に発展しているので、可能な限り早く市を離れるよう警告した。

 その日の午後、唐は命令を促す蒋の電報を受け取った。「唐司令長官、戦況を維持できないのならば、将来の反攻に備えて、[軍を]保存し、再編成するために、退却の機会をつかむべきである。十一日」。その日のうちに、窮迫する唐のもとへ、蒋からの二通目の電報が届き、再び退却を迫った。

 戦線を維持できず、圧力をかけられ、唐は従うことにした。それは中国の軍事史上最悪の結果のひとつをもたらすことになる決定だった。」(上掲書p92~93)

 つまり、唐生智は勝手に「敵前逃亡」したわけではなくて、それは蒋介石の命令によるものだった、と言うのです。また、チャンは、それによって中国軍民間に引き起こされた悲劇的についても、その情景をリアルに描写しています。また、「敵前逃亡」した唐生智やそれを命令した蒋介石の責任について彼女はどう考えているのかというと、これについては次のような見解を表明しています。

*印のついたパラグラフは私見。  

 「一一月に蒋介石が南京から政府のほとんどを疎開したときに、蒋が彼の軍を引き上げて都市を無防備な状態にしていたならば、恐らくあの大がかりな虐殺は避けられたのではないかという仮説は、よく語られ、説得力がありそうに見える。しかし、少し考えてみれば、この議論の弱点が見えてくる。いずれにしろ、日本軍はその数ヶ月前から、南京へ進軍する経路で組織的に村や都市を破壊し、同じような虐殺を他の場所でも行っていたのである。明らかに、彼らは自らの行為について、中国人の挑発を必要としていたわけではないのである。」

*南京から中国兵が完全撤退して南京城がオープンシティーにしたとしても、日本軍が南京へ進撃する経路で行った組織的破壊行為や虐殺行為を見れば、同じことが南京でも起きたはず、というです。しかし、それはチャンの勝手な思い込みであって、事実に基づくものとは言えません。また、この文章は、この時の唐生智の「敵前逃亡」が「中国人の(日本軍による虐殺を招くための)挑発」となる可能性を認めていたことをも示しています。

 「中国兵がまったくいなくなった都市は、少なくとも、民間人の中に隠れている兵士を取り除くために系統的な処刑が必要だったという日本人の言い訳の根拠を奪ったということだけは確かに言えるだろう。しかし、それによって彼らの行為が変わったという根拠は何もないのである。」

*この記述は、アイリス・チャン自身、安全区に逃げ込んだ「便衣兵」は、摘出され処刑されても仕方ないと認めていたことを示しています。ということは、南京城内の中国人はほとんど安全区に避難していて、そこに中国兵が軍服を脱ぎ捨て、武器を捨てあるいは隠して潜り込んだのですから、日本軍によるその摘出処断は合法と認めたことになります。

 「また、蒋介石が意味のない南京からの退却命令を出さず、最後の一人まで市の防衛のために戦っていたら市の運命は違うものになっていたかもしれないという仮説も語られがちである。しかし、我々はここでも慎重にならなければならない。一対一の白兵戦は機能しなかっただろう。日本軍ははるかに優れた武器を持っていたし、よく訓練されていたのだから、遅かれ早かれ中国軍を打ち負かしたはずである。しかし、遊撃戦の戦術に基づく長期の戦闘を引き伸ばせば、日本軍の士気を喪失させ、中国軍のそれを高揚させることができたかもしれない。少なくとも、もっと多くの日本兵が中国兵との戦闘で死に、激しい抵抗によって彼らの中国兵に対する傲慢さが封じられることにはなっただろう。」
 

*唐生智が逃亡せず、日本軍に市街戦を挑めば、南京城内は安全区も含めて激しい戦闘が繰り広げられることになったでしょう。しかし、当時の中国軍の非正規兵を多く含む戦力では、いずれ降伏を余儀なくされる。それでは、その戦闘で生じた中国軍民の死に対する責任は中国軍が負わなければならなくなる。だから、「降伏」を避け、「将来の反攻に備え[軍を]保存し、再編成するためには、あえて唐生智を「敵前逃亡」させる必要があったということです。

 それによってはじめて「虐殺」の責任は日本軍に負わせることが出来るわけで、そこで蒋介石はこのような「高等戦術」を採ったのではないでしょうか。だが、こうした解釈はヒューマニストのチャンには耐えられないので、唐生智には「逃亡」せず部下将兵とともに日本軍と徹底抗戦する戦術を採って欲しかったと言っているのです。

 しかし、非情ではありますが、蒋介石の取った戦術の方が、アメリカの同情を買う上ではより効果的でした。ティンパーリの『戦争とはなにか』や、アメリカの国民大衆を熱狂的な中国ファンにしたエドガー・スノーの『アジアの戦争』や、スメドレーの作品はここから生まれたのですから。

 なお、この間の事情について、秦郁彦氏は中国側文献によるとし、その経過を次のように説明しています。(増補版『南京事件』p310)

 「当初は死守方針を明示していた唐生智司令官が、前日に受けた蒋介石からの指示によって軍長、師長以上の高級指揮官を招集、主力は南方へ、一部は北へ渡江して日本軍の包囲を突破せよとの撤退命令を伝達」、その結果、「第八十八師の一部が下関へ向かい退却に移ったのが他部隊へも波及して、夕方には全軍壊乱の様相を呈した。しかも司令部の幹部やスタッフが早々と逃散(午後八時頃に渡江)して通信が切れたこともあって、整然たる正面突破の退却作戦は不能となってしまう」

 ここでは、「蒋介石の指示による整然たる正面突破の退却作戦」と言っていますが、こうした土壇場での退却作戦がうまくいかないことは唐には判っていました。だから、「退却命令の実行は不可能・・・それは実際には潰走に転じることになる」と、蒋介石の命令に抵抗したのす。しかし、最終的には、上述したような蒋介石の作戦を受け入れて、「自分の軍団を見捨てるという、およそ指導者として不名誉」というほかない”敵前逃亡”をあえてやったのです。

 結果的には、これが功を奏したのですね。日本軍は、このような中国兵の「安全区への大量逃げ込み」や「便衣兵の計画的潜入」、それに幕府山付近で発生したような大量の投降兵の出現などを全く予測していませんでした。また、こうした事態に対応するための法的・外交的・宣伝的準備も全く出来ていませんでした。とりわけ、日本軍に敵意を持つ欧米人によって構成される国際委員会が安全区を管理し、中国軍便衣兵を匿い、意図的な日本軍残虐報道を展開するとは思ってもいませんでした。

 実は、今までの「南京大虐殺」研究で欠落している観点がこれです。つまり、日本の軍事行動に対する欧米人の敵意がなぜこれほどまでに高かったか、ということです。実は、この欧米人の日本軍に対する敵意こそが、「南京大虐殺」と言う戦時プロパガンダを生む心理的基盤となっていたわけで、このことについての自覚が日本軍には欠けていたのです。(このことは今も言えるかも知れません)

 このことについて、昭和12年12月17日に南京入りした憲兵准尉(当時)的場雪雄氏は次のように回想しています。

 当時、欧米人外交官や新聞記者で「日本に対して(敵意はあっても)好意を持ったものは一人おらなかった」。欧米人の言うことは「みな日本軍の悪口ばかりだった」。「当時、日本はどこの国からも好意を持たれたことがないんです。常に日本を憎んで考えていたという人ばかりでした。日本を取り巻く世界はね。」私は虐殺とか略奪や放火事件とか婦女暴行とかが事実あったことは認めます。しかしそれは「極めて小規模なものです。それを大規模に膨らませたのが日本に敵意を有する外人なんです。」

 また、質問者の「例えば軍は不法行為を見ていながら、不問に付したということはなかったか、との問いに対しては、

 「松井司令官が入城する前に厳重な布告、えっと、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を出しておりますね。この布告に反することは、例え師団長とか旅団長であっても、それは出来ない」。「これに反する不法行為を見逃すことはしなかったですね・・・そこに憲兵の辛さがある・・恨みを買いますよ。軍紀を保持するためには処罰は絶対に仕方がないとです」(『南京「虐殺」研究の最前線(平成15年度版)』)と答えています。

 では、こうした、当時の欧米人の日本に対する敵意はどうのようにして生まれたのか、と言うことですが、大方の日本人はこれを人種的なものと解釈しています。私はそれも一理あると思いますが、その第一の原因は、やはり、満州事変以降の日本の行動、それを推進した軍部、そのため日本外交が二重化したこと。それによって日本は、国際社会での外交的信用を失ってしまったことにある、と思っています。

 この点に関して、昭和13年2月11日、国民党の社説「敵軍の規律問題の本質について」には、この問題を考える上で実に興味深い指摘がなされています。

 「甲・・・だから簡単に言えば、このたびのこと(=南京事件)は日本の少壮軍官の精神が徹底的に破産し、権威を失ったことを証明しているのである。あのように国内で飛揚・跋扈し、日本を改造し世界を征服すると標榜していた少壮派の軍官は、本来、このように無規律で非人道的で、淫にして貪な一軍だったという本質が暴き出されたのである。おたずねするが、何の面目があって死去した犬養〔毅〕・高橋〔是清〕にまみえ、何の資格があって中国を征服すると語ることができようか。」(『南京事件資料集(2)』p39)

 「南京大虐殺」が、蒋介石の決意によって開始された「上海事変」の延長であることは論を待ちませんが、その蒋介石をして抗日戦争を決意させたものが、実は、こうした日本における「少壮軍官の跳梁・跋扈」だったと言うのです。この文の末尾「おたずねするが、何の面目があって死去した犬養〔毅〕・高橋〔是清〕にまみえ、何の資格があって中国を征服すると語ることができようか。」は実におもしろい。五・一五事件と二・二六事件で日本は何を失ったか、と問うているのですから。

2012年5月 3日 (木)

南京事件(7)―― 『戦争とは何か』が宣伝本だったことで明らかとなった日本軍残虐報道のウソ

 これまでに見てきたように、「南京大虐殺」の核心は、南京陥落後に大量に発生した「便衣兵」や捕虜の処断が、戦時国際法に照らしてはたして適正なものであったかどうか、ということです。この点については、松井大将は、12月7日に「南京城攻略及入城ニ関スル注意事項」を全軍に次のように示達しています。

 二、部隊ノ軍紀風紀ヲ特ニ厳粛ニシ支那軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰帰服セシメ苟モ名誉ヲ毀損スルカ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要す

 三、別ニ示ス要図ニ基ヅキ外国権益特ニ外交機関ニハ絶対ニ接近セサルハ固ヨリ特ニ外交団カ設定ヲ提議シ我カ軍ニ拒否セラレタル中立地帯(安全区)ニハ必要ノ他立チ入リヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス

 四、入城部隊ハ師団長カ特ニ選抜セルモノニシテ予メ注意事項特ニ城内外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ要スレバ歩哨ヲ配置ス 五、掠奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スル者ハ厳罰ニ処ス 軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム

 としていました。

 また、「和平開城ノ勧告文」において、「・・・日軍ハ抵抗者ニ対シテハキワメテ峻烈ニシテ寛恕セサルモ、無辜ノ民衆オヨヒ敵意ナキ中国軍隊ニ対シテハ寛大ヲモッテシ、コレヲ犯サス、・・・」としていました。しかし唐生智が南京陥落直前に部下に敵の包囲を突破して脱出することを指示したまま、浦口に逃れたために、大量の捕虜や「便衣兵」が生まれることになりました。日本軍は便衣兵については、上海戦より中国に対して警告を行ってきましたので、彼等を捕虜としては扱わず、人目につくところでも公然と処刑しました。

 ところが、南京の安全区に逃げ込んだこれらの「便衣兵」の中には、正規兵の他に周辺農村から拉致されてきた兵士や、南京城内で徴兵された少年兵士など一般人と区別のつかない雑兵が多数含まれていました。そのため、日本軍によるそれら「便衣兵」の摘出・処断は、それを目撃した在南京の外国人達には、一般難民や武器を捨てた兵士を平気で殺害する残虐な日本軍、かわいそうな中国人というイメージを強烈に印象づけることになったのです。また、南京陥落後、安全区内の外国人居住区に対して、繰り返し行われた掠奪・放火・強姦事件は、日本軍の暴虐と無統制を証拠立てるものとされました。

 『南京戦史』では、中国兵の捕虜総数を(最大で)2万8千と見積もり、収容6千、釈放3千、逃亡3千、処断1万6千としています。そして、この1万6千の処断の当不当については、『南京戦史』は当時の状況が分からないとして、その判断を保留しています。

 こうした『南京戦史』の推計に対して、ティンパーレ(オーストラリアの市民権を持つ「マンチェスター・ガーディアン」の中国特派員で、鈴木明によって国民党中央宣伝部顧問であったことが判明した)の『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』(昭和13年6月発行)は、「南京城内または城門の付近で殺された四万人近くの非武装の人間の内30%つまり12,000人を、かって兵隊になったことのない人びとである」としました。

 しかし、『南京戦史』によると、武装解除された中国兵の内処刑されたものは主に「便衣兵」であって、その数は7,000名弱に過ぎませんでした。また、この場合の「便衣兵」とは、投降しないで軍服を脱ぎ捨て、あるいは武器を隠匿して一般民衆に偽装した兵士であって、A指揮者の存在、B(兵士であることの)特殊標章の装着、C公然たる武器の携行、D戦争の法規の遵守という捕虜の資格要件を欠くため、戦時重犯罪人として処刑を含む重罰に処されても仕方がありませんでした。

 つまり、『南京戦史』で処断されたとする総数1万6千のうち、7,000弱はこうした「便衣兵」の処断であって、その摘出に当たっては「靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目つきの鋭い者」等をよく検討し後は放免した、としています。歩兵第七連隊第一中隊・一等兵の「水谷荘日記『戦塵』」(『南京戦史資料集1』所収)によれば、12月16日の掃討では百数十名を引き立てその内36名を銃殺しています。「抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井対象の命令が出ているから、掃討ははきびしい」「多少の犠牲者は止むを得ない」と記しています。

 つまり、こうして処断された者の中に「兵隊になったことのない」一般住民が少数含まれていた可能性があるとしても、それは、上記の便衣兵の摘出のときだけであって、処断された「便衣兵」の総数は最大限見積っても7,000弱(先述したようにこの数字も過大)なのですから、そこに一般住民の犠牲者が12,000人含まれていた、などということはあり得ません。つまり、こうした記述は、日本軍の残虐性を印象づけるための「戦時プロパガンダ」に過ぎないのです。

 この本の著者であったティンパーリと、南京国際委員会委員であったベイツ(この人も最近中華民国政府顧問であったことが明らかになった)が、この本(『戦争とは何か』)の出版をめぐって交わした手紙(1937年3月)には、次のような興味深い会話が残されています。

 「ミルズ(北部長老伝導団)、スマイス(金陵大学教授)と私(ベイツ)の三人は考えうる善悪とを比較して検討した結果、責任を持って本の刊行を進めることを了承しました。急いで仕事を進めることによって、この紛争の今後の行方を大きく支配することを願ってやみません――もちろん、西側諸国各国の特殊な状況と全ての軍事ゲームの持つ残虐性の両方に、注視することを願っています。しかし、このことは、フィッチや私、そしておそらくスマイス等にとっても、深く関わってきたライフワークのおわりとなるかもしれません。」

 そしてティンパーレから送られてきたこのこの本の原稿の問題点の一つとして次のような指摘をベイツが行っています。(ベイツからティンパーレへ、1938年3月21日)

「16残念ながら、関係部隊についてはまだ資料がありません。私たちとの接触者は、真の姿が伝わるとは限らないが、確かに(占領=筆者)統治で権力を振るっていた、山本、中島部隊について広範囲に及ぶ生々しい記憶を語ってくれました。・・・」「17上海について記述がないのはどうだろう?上海は君の庭も同様のところだし、上海のことは君が考えているほど海外の一般の人たちにはまだ知られてはいない。松江や嘉興については?」

これに対してティンパーレは、1938年3月28日のベイツ宛の返信で次のように回答しています。

「なぜ私が上海、松江、嘉興を放っておくのかとのお尋ねですが、七章を読んでいただければ分かるかと思います。この点を調べていくと、上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません。日本に対して申し立てられた事件は主として南駅の爆撃とか攻撃機から民衆を機銃掃射するといった一連の空爆が主なのです。・・・」「嘉興の記事は、外すことにしました。・・・難民区から数ヤードしか離れていないところに、対空砲が設置されているからです。・・・」

ここから分かること、それは、この本の著者であるティンパーレやその編集に関わったベイツ、フィッチ、スマイス等は、日本軍の残虐性を西側諸国に宣伝するためのあるライフワークを共有していたということ。また、この本で日本軍の住民虐殺事件が南京に偏りすぎると、彼等の勤める「(南京の金陵)大学でのキリスト教教会の活動に対する重大な排斥」につながりかねないので、上海など他の地域での虐殺事件を取り上げたかったが、確実な証拠がほとんど見つからず、また、難民区の側に対空砲が設置されていたため、それを断念したということです。

 これで、南京大虐殺を世界に広めることとなったこの『戦争とはなにか』という本がどういう目的を持って書かれたものであるか、ということがわかります。ちなみにこの本の付録として掲載された記事の一つに「南京の『百人斬り競争』」があったのです。この本は1937年6月に出版されましたが、その翌月には『外人目睹中之日軍暴行』として漢口の国民出版社から刊行されています。いかに、ティンパーレ等と国民党中央宣伝部とが連携してこの宣伝工作を行っていたかが分かります。

 さらに、1038年4月12日の「ベイツの回状――『中国における日本軍の暴虐』の出版予告」には、次のような記述があります。

 「私にはこの出版企画に対する法的な責任はないのですが、最初からこの企画に関係し、編集プランや進行上のさまざまな段階でチェックを行ってきました。完全にそろった最終原稿も点検致しました。さらに言うならば、その本には、十二月十五日に、当日南京を離れようとしていた個々の新聞記者に利用してもらおうと、私が準備した声明が掲載されています。・・・」

 なんと、南京が陥落した1037年12月13日の二日後の12月15日にベイツは、避難のため南京を離れようとしている西側諸国の新聞記者に次のような「ベイツレポート」と呼ばれるメモを手渡しているのです。

 「南京では日本軍は既にかなり評判を落としており、中国市民の尊敬と外国人の評価を得る折角の機会さえ無にしてしまった。中国が佐藤曲の不面目な瓦解と南京地区における中国軍の壊滅によって、ここに残った多くの人びとは、日本側が公言している秩序と組織に応じようとしました。・・・少なくとも住民達は無秩序な中国軍を恐れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分にたいした損害も与えずに出て行ったのです。

 しかし、二日もすると、度重なる殺人、大規模で半ば計画的な掠奪、婦女暴行を含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数転がっていたと報告しています。南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体が数えられたほどです。死亡した市民の大部分は、13日の午後と夜、つまり日本軍が進入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。

 元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男達は、数珠つなぎに縛り上げられて射殺されました。これらの兵士達は武器を捨てており、軍服さえ脱ぎ捨てていたものもいました。・・・難民区内のある建物から、日本兵に脅迫された地元の警官によって、四百人が引き出され、五十人ずつ一組に縛られ、小銃を持った兵隊と機関銃を持った兵隊にはさまれて護送されていきました。目撃者にどんな説明がされても、これらの人々の最後は一目瞭然でした。

 日本兵は・・・先ず食料を求めたのですが、やがて、その他の日用人や貴重品もやられました。市内全域の無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず、中国人の家も外国人の家も、まんべんなく掠奪されました。・・・大学付属の鼓楼病院職員は直接、現金や時計を奪われ、また看護婦宿舎からもその他の所持品が奪い取られました。・・・夫人強姦、陵辱の例も数多く報告されていますが、まだそれを細かに調査している時間がありません。・・・」

 これは、南京陥落後三日間の記録ですが、後に伝えられることになる30万に及ぶ婦女子を含む住民の虐殺ほどではありません。また、これと同時期に「ニューヨーク・タイムス」のマクダニエル記者が、パナイ号救援たため南京に到着した米砲艦オアフ号から発信した記事は次のようになっています。

 「十二月十六日、南京発(米砲艦オアフ号より無線、AP」。かってその繁華を謳われた中国の古都は、今や町が被った砲爆撃と激戦により殺された防衛軍兵士および一般人の屍体が散乱するありさまだ。町中に軍服が散らばる。潰走する中国兵が脱ぎ捨てて平服に着替え、日本軍の手による死を免れようとしたものだ。

 日本軍の猛攻に中国軍の防衛が崩壊し、南京から退却する間、少数の中国兵による散発的掠奪があったが、彼等が去った後は少数の日本兵による掠奪が行われた。日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃をしないよう努めてきた。十万以上の中国人が地区内に避難した。

 中国軍の安全区退去が遅々としてしていたにもかかわらず、日本軍は地区内を攻撃しなかった。迷い弾が少々落下し、数名が死んだだけであった。・・・」(上掲書P37)

 ただ、12月15日にオアフ号に乗って南京を離れようとしたとき、マクダニエル記者やダーディン等は、下関の揚子江岸のバンド(停泊地)で200人の男性(便衣兵)が処刑されるのを見ています。つまり、日本軍はこうした便衣兵の処刑行動を軍隊行動として少しも隠そうとなかったのです 

 また、確かに日本軍の兵士による食料品を中心とした掠奪行動(日本軍はこれを徴発と言ったが、南京入城に際しては司令官名で厳禁とされていた)や強姦事件もあったようです。しかし、「中国軍自身が略奪行為を犯した事も紛れもない事実なのです。中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。」(南京アメリカ大使館エスピー報告)(上掲書P55)との報告もなされています。

 このような中で、南京陥落の翌日12月14には、南京城内に残った一般住民の安全を確保するため、ドイツ人やアメリカ人を中心に15名で構成する「南京安全区国際委員会」の活動が始まりました。先ほど出てきたベイツ、スマイスは南京金陵大学の教授、フィッチはY・M・C・A、後に出てくるマギー師はアメリカ聖公会伝導団の牧師です。なお、この委員会の委員長に選ばれたのがドイツ人ラーベ(中国に武器を売っていったジーメンス社の社員)で、その頃の日本とドイツの関係を考慮して選ばれたものと思われます。

 この「南京安全区国際委員会」と日本軍の関係ですが、先に紹介したベイツ、フィッチ、スマイス等が含まれていることから容易に想像できるように、国際委員会は日本軍にとってほとんど安全区に潜り込んだ便衣兵の隠れ蓑のような存在になりました。そして、この委員会は、その後安全区内において頻発した掠奪、放火、強姦事件を、その事実関係を少しも検証することなく、全て日本軍兵士によるものだと決めつけて抗議文書を突きつけたのです。

 しかし、冨沢繁信氏の『南京事件の核心』によると、12月13日に日本軍が南京に入城して以降の『安全委員会記録』に印された殺人件数は26件合計人数53人です。また、市内で頻発した略奪、放火、強姦などについても、その多くが日本兵によるとの訴えがなされましたが、確かにそうした不心得な日本兵もいたようですが、その多くは安全区内の空き家になった裕福な人々の住宅を狙った難民自身による略奪・放火、あるいは、潜伏便衣兵による後方攪乱によるものでした。

 ただし、『安全委員会記録』他一次資料に記録された12月12日以降の全期間におけるこれらの事件の一日平均の件数は、上掲書では、強姦5件、掠奪4件、放火0.5件に過ぎないとされています。それが『戦争とは何か』では、「昨日白昼及び夜間強姦された婦女はすくなくとも一千人」とか「南京の外国人の財産はほとんど日本軍の掠奪に遭っている」「日本兵による放火がなかった火は一日もない」などと記述されているのです。

 さらに、上記の一次資料に記録された全事件の89%は、伝聞記録であって、外人で組織された国際委員会が、中国人より聞いた事件を検証することなくタイプしたものが大半だったようです。南京のドイツ大使館シャルフェンベルク事務長も、「暴行事件といっても、全て中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」(『南京の真実』p246)といい、国際赤十字南京委員会委員のマッカラムも「中国人の中には、掠奪や強姦、放火は日本軍の仕業ではなく、中国軍がやったのだといわんばかりのものもいる」(『南京事件資料集アメリカ編』p266)と嘆いていました。

 ところが、国際委員会は、日本軍への敵対心から、これらの事件を全て日本兵によるものとしました。しかし、これらの多くが難民自身による略奪・放火、あるいは、潜伏便衣兵による後方攪乱によるものであったことは、南京戦当時の指揮官であった郭岐の回想録にも明らかです。彼は、南京失陥後、500人の部下を便衣に着替えさせた後イタリア大使館に逃げ込み、それから難民区に入り込んで部下と共に後方攪乱活動を行ったと、その手記に記しています。

 また、1938年1月4日のニューヨーク・タイムスには、「中国軍大佐1名とその部下の将校6名が、南京の金陵大学にかくまわれていたことが発覚したこと。彼等は南京で掠奪したこと、ある晩などは避難民キャンプから少女達を暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人達や他の外国人のいる前で白状した」という記事が掲載されていたことを、阿羅健一氏が発見しています。(『南京大虐殺への大疑問』村松俊夫)

 以上、南京城内で発生した事件について述べてきましたが、実は、先に紹介した『戦争とは何か』の著者ティンパーリは、国民党中央宣伝部顧問であり、その意を受けて日本軍の南京における暴状を世界に宣伝するため、この本を出版したのです。また、ベイツは中華民国政府顧問であって、東京裁判では「城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致します」「これは中国の兵隊であり、あるいは中国の兵隊であった事のある何万もの男の虐殺を全然含まないのであります」とウソの証言をしています。

 ベイツの証言を裏付けるものとして、,紅卍会の埋葬記録(兵市民の区別はない)が示されていますが、紅卍会による埋葬が始まるのは2月1日であって、ベイツの一万二千という数字は、それ以前の1月25日にベイツによって唱えられていました。なお、紅卍会による埋葬者数は、この埋葬作業を監督した特務機関の丸山進氏によると、水増し分を引いた実数で、二万九千体であったといいます。もちろんこの数字には戦死した兵士や上海戦以来の戦闘で負傷し南京に後送され死亡した兵士も含まれます。

 以上で分かることは、ティンパーレの言う、城内外における12,000人の婦女子の虐殺などは全くなかったこと。また、三万の非武装の兵士といっても、これらは武器を捨てて安全区に潜り込み「便衣兵」として摘出された者や、南京城外で降伏して捕虜となった者だったことが分かります。前者については、捕虜とは見なされず不法戦闘員として処刑された者が多かった。後者は、揚子江内の中州に解放するため移送の途中、暴動が発生し射殺された者がその主なものであること。この両者の総数が『南京戦史』では16,000人となっているのです。

 こうして、昭和13年6月には、ティンパーレの『戦争とは何か』が出版されました。しかし、こうした宣伝にもかかわらず、この事件は、アメリカ国務省をはじめとする政界やマスコミでもほとんど関心を呼ばず、こうした状態は日本の敗戦まで続いたそうです。ところが、東京裁判において、突如、この事件がナチスのホロコーストに匹敵する大虐殺事件として告発されることになりました。

 ではなぜ、蒋介石は、戦後の東京裁判においてこの事件を大虐殺事件として取り上げたのでしょうか。また、なぜアメリカは、このあまりにも誇大に誇張された事件を、東京裁判において取り上げたのでしょうか。

 それは、中国国民党にとっては、抗日戦争終結後の中国大陸における中共とのヘゲモニー争いの中で、日本軍の残虐性を中国国民に印象付けることで、抗日戦に果たした国民党の役割を印象づける必要があったこと。そして、アメリカにとっては、日本各地の都市への無差別爆撃や、広島及び長崎に対する原爆投下による無差別殺人の罪を、希薄化し相対化する必要があったということです。

 しかし、こうして東京裁判で採り上げられた「南京大虐殺」も、東京裁判が終了した後は、取り立てて問題とされるようなことはありませんでした。ところが、日中国交回復期の昭和46年に朝日新聞に連載された「中国の旅」を契機に、日中戦争における日本軍の犯した残虐行為が、再び喧伝されるようになりました。ここには、中国に対する日本人の贖罪意識を高めることによって、日中国交回復交渉を有利に進めようとする中国政府の思惑があったとされます。

 ところが、こうした中国政府の意向に沿う形で朝日新聞が採り上げた日本軍の残虐行為の内の「百人斬り競争」について、これをフィクションとするイザヤ・ベンダサンと、この記事を書いた本多勝一記者の間で論争が始まりました。同時に、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」が書かれ、続いて、山本七平の「私の中の日本軍」が書かれました。これによって、この事件が、戦意高揚を狙った従軍記者による”ヤラセ記事”がであったことが明らかになりました。

 その後、日本国内において、いわゆる「自虐派」と「まぼろし派」それに「中間派」を交えて、激しい「南京大虐殺論争」が繰り返されることになりました。その過程で「自虐派」は中国へのご注進を繰り返し、また、当時の社会党は中国政府に「南京大虐殺記念館」の建設を持ちかけ、あるいは資金援助した結果、この記念館が大虐殺があったとされる南京西郊の江東門に建設されることになったのです。

 では、それが今日中国にとってどのような意味を持っているか、ということですが、鈴木明の『新・南京大虐殺のまぼろし』によると、現在の中国の最大の外交課題は、台湾国民党との関係を修復し、それを将来の中国統一に結びつけることであり、そのための最も有効な手段が、「南京大虐殺」を民族統一のシンボルに担ぎ上げることだといいます。つまり、そのための統一戦線作り=「統戦」のシンボルが「南京大虐殺」だというのです。

 以上、「南京大虐殺」がどのようにして生まれ、今日に至っているかについて概略説明しました。では、日本人としては、今後これにどのよう対処して行けばいいのでしょうか。

 実は、私はあまり慌てる必要はないと思っています。というのは、今までも時間はかかりましたし、また、これからもかかるでしょうが、なによりも事実関係が確実に明らかになってきているということです。こうなると、中国も、いつまでも虚偽の宣伝を繰り返すわけにはいきませんので、その内、片が付くのではないかと思っています。問題は、私たち自身が、この事件から何を学ぶかということです。次回は、このことについて総括的に論じて見たいと思います。(以下の論考は次回に回します。)

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