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2012年6月

2012年6月28日 (木)

「南京事件」(まとめ)――日本人は「南京事件」から何を学ぶべきか

 これまで9回に渡って、「南京事件」について論じてきました。ここで私が採った方法は、まず、この事件を「中国における日本軍の暴虐」として最初に報道した『戦争とはなにか』の記述内容を、『南京戦史』以降明らかとなった事実関係と付き合わせて、その真偽を検証することでした。

 その結果判ったことは、この事件についての最初の告発は、昭和13年1月10日付けのベイツからティンパーリ宛ての手紙にある次の記述だということ。

 「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼のできる私の友人の多くは、もっと多くの数を上げることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています。

 有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件とみています。私も8,000件以下であるとは思われません。・・・金陵大学構内だけでも、11才の少女から53才にもなる老婆が強姦されています。他の難民グループでは、醜いことにも、72才と76才になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が一人の女を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。」

 言うまでもなく、この「一万人以上の非武装の人間」というのは、軍服を脱ぎ便衣に着替え、武器を捨てあるいは隠匿して安全区に逃げ込んだ中国兵のことでした。この中に正式な手続きを経て投降したした兵士はほとんどおらず、その大半は便衣となって安全区に逃げ込みました。中には、将校の指揮下に再蜂起を狙い後方攪乱を行った便衣兵も多数いたのですから、これでは、その全体が不法戦闘員扱いを受けても仕方ありません。

 また、一般市民や婦女子の殺害も、紅卍会の埋葬記録によると、城内外区における三万余の埋葬死体の内、見つかった女子の死体は52体、子供の死体は29体であり、かつ、その死因が特定されていたわけではありません。ということは、日本軍により無差別に殺された一般市民の中に「少なからず婦女子が含まれていた」というようなことは言えないことになります。

 また、後段の「強姦の件数二万件」というのも、ベイツが「南京事件」の事例が全部集まっているという『南京安全地帯の記録』や、その他の一次資料に記録された強姦件数を全て足しても、二ヶ月間で243件にしかならない。これは一日平均4件であり、さらに、これらの事件の中から、文責者不明、被害者名不明、被害場所不明のものを除いた「事件らしい強姦事件」は5件しかないのです。これで、強姦「二万件」という数字がいかにデタラメなものであるかが判ります。

 もちろん、これは、日本軍兵士による非行がなかったことを意味するものではありません。これらについては、「第十軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」や「中支那方面軍軍法会議陣中日誌」(『続・現代史資料6軍事警察』所収)にその一部が記録されています。南京城内外における非行については、東京裁判における塚本浩次(事件当時陸軍省法務官)の証言に次のようなものがあります。

 「私は松井軍司令官の命令を帯し、作戦要務令の指示する処に従い、軍紀・風紀を破る者に対しては厳重にこれを処断し余す所はなかったと考えて居ります。各部隊としては上海派遣軍法務部が余り厳罰を科し微細な罪をも究明する態度を非難することもあった程でありました。」

 「罪種は主として略奪・強姦であり、傷害・窃盗は少なく、それに起因する致死は極めて少なかったと記憶して居ります。殺人も二、三件あったと思います。但し放火犯を処断した記憶はありません。又集団的虐殺班を取り扱ったこともありません。」「兎に角、上海派遣軍の法務部が取扱った事件・人名・処罰は全て陸軍省法務局に報告しましたから、それによれば判明するはずであります。・・・私の記憶では・・・少なくとも百二十件位は確実に処断したと思います。」(以上『日中戦争史資料8』P192)

 こうした犯罪の捜査は軍司令部に直属する憲兵が行い、その結果を法務部に送致したわけですが、当時、憲兵准尉であり12月17日に南京入りした的場雪雄は次のように回想しています。

 当時、欧米人外交官や新聞記者で「日本に対して(敵意はあっても)好意を持ったものは一人おらなかった」「当時、日本はどこの国からも好意を持たれたことがないんです。常に日本を憎んで考えていたという人ばかりでした。日本を取り巻く世界はね。」私は虐殺とか略奪や放火事件とか婦女暴行とかが事実あったことは認めます。しかしそれは「極めて小規模なものです。それを大規模に膨らませたのが日本に敵意を有する外人なんです。」

 つまり、「南京大虐殺」といわれる事件の本体は、安全区に逃げ込んだ便衣兵の摘出処断であって、ベイツ等はこれを不法殺害と思わせるために、話を「一万人以上」の一般市民の無差別殺人に創り変えたのです。その後の記述では、「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人だった」としています。  この段階で、一般市民の殺害数が4万人のうちの30%、12.000人になったのです。

 こう記述をしたベイツは、東京裁判でも「いろいろな調査・観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたと言うことを結論と致します。・・・今まで申したことは、中国の兵隊であり或は曾て中国の兵隊であった事のある何万人の男の虐殺を全然含まないものであります。」と証言しています。このベイツの、便衣兵の摘出処断を一般市民の虐殺に創り変えた証言が、いわゆる「南京大虐殺」の「核種」となったのです。

 つまり、便衣兵の摘出処断だけでは、日本軍の「残虐性」の証明にはならなかったということです。もちろん、この便衣兵の中には南京城内外で徴兵された「雑兵」も多数含まれていましたから、一般市民と区別がつきにくかったという事情はあったと思います。しかし、約一万の兵士が安全区に逃げ込んだということは事実で、その責任は、それを許した国際委員会、あるいはそういう不法行為を為した中国軍により重く問われるべきです。

 ただ、未だ南京城内外が不穏な情勢にある中で、なぜ、12月17日という早い段階で、入京式を強行する必要があったのか。この点、松井司令官の責任が問われるべきだと思います。というのは、これら便衣兵の多くは、摘出後直ちに処断されたわけではなく、一度は収監されていること。また、兵士たちは南京陥落で戦争は終わると思っていたわけで、入場式さえ急がなければ、これらの兵を慌てて処断する必要はなかったからです。

 このことは、12月14日、幕府山に近い上元門付近において第13師団歩兵六十五連隊(会津若松)山田支隊約2,200人に、約15,000人の投降兵があり、この内、釈放や逃亡等で残った約4,000人について、16日と17日に機関銃による捕虜殺害があった件についても言えます。これは揚子江の中州である草鞋州(ソウアイス)への釈放を意図するものであったと思いますが、17日の入場式や18日の慰霊祭における治安確保を急いだための事故であったといいます。

 以上、本稿の「まとめ」ですが、ここでは、私は東京裁判以降提出された中国側の資料は全く使いませんでした。これらは一次資料とは言えないから。その後、朝日新聞の「中国の旅」を契機に、日本でも「南京大虐殺」の真偽が問われるようになりました。幸い、平成元年には旧軍人の親睦団体である偕行社から『南京戦史』が出版されました。これは、南京戦における日中双方の一次資料をもとに「何があったか」を数量的に検証したもので、これによって、この事件の被害者数の上限が明らかになりました。

 その結果、今日では、南京事件について「30万人大虐殺」を唱える者はほとんどいなくなり、大方の理解は「中間派」と呼ばれるグループの主張する「一万~二万」程度に落ち着いてきたのではないかと思います。ただし、これらも、便衣兵の処断を「法的手続きを欠く」として不法殺害に区分した上での数字です。実際は、便衣兵の処断は必ずしも不法とは言えないのですから、その実情をより厳密に検証すべきだ、とする意見も出るのも当然です。

 いずれにしても、この事件の核心は、「便衣兵の摘出処断の適法性」如何と言うことであって、非戦闘員である南京の一般市民の無差別殺害などではなかったということです。つまり、「南京大虐殺」というのは戦争プロパガンダであって事実ではないということ。この事件は、中国軍の南京城防衛戦における撤退作戦の失敗がその主たる原因であって、そのために発生した大量の便衣兵や投降兵の出現に、日本軍各部隊が個々に緊急対応を迫られた結果起こった事件だということです。

 この時、日本軍は、こうした大量の便衣兵や投降兵の発生を予想していなかったし、最後の決戦に向けて敵を包囲殲滅することを考えていた。ただし、抵抗しないものは寛大に扱うとしていました。ところが結果は先述した通りで、敵の対応もバラバラで、当然日本軍の対応もバラバラとなりました。とはいえ、繰り返しになりますが、南京陥落後四日目に入場式を強行するようなことをしなければ、戦争は南京陥落で終わると信じられていたのですから、拙速な便衣兵処断や投降兵の無理な処理はせずにすんだのではないかと私は思います。

 この点は、松井大将の失策であり、責任を負わなければならないことではなかったかと思います。また、松井が当初から上海にとどまらず南京を攻める考えを持っていたことについての責任も問われます。松井は熱心なアジア主義者で、蒋介石が抗日持久戦を決心した以上、国民政府は見限り、それに代わる親日政権を中支に打ち立てるべきことを政府に強く進言していました。また、そのために必要な作戦行動を積極的に展開するよう主張していました。

 おそらく、純軍事的にはそれが正しかったのかも知れません。何しろ上海事変以降の日中戦争は蒋介石の意志で始められたものでしたから。その作戦計画は、(1)華北退却戦、(2)華中への誘因作戦、(3)奥地引きこみ作戦と段階的に構想されていて、日本側が希望したように「一撃」で決着がつくはずもなく、もちろん南京陥落でも片付かず、必然的に持久戦に移行せざるを得ない性質のものでした。つまり、昭和天皇が言った通り「華北なんかに手を出さなければ」こうしたことは起こらなかったのです。

 では、なぜ陸軍は華北に手を出したか、ということですが、次は、鈴木貞一の証言による石原完爾のこの点についての考え方です。

 「支那に対する考えであるが、日本の軍備は対ソ作戦に向けて中国は絶対やってはいけない。この考え方は石原も云っているが、私は石原と大激論をしたことがある。私は内閣調査局にいて、石原が参謀本部の作戦課長であった。私は支那本土に絶対に手を出しちゃいかん、とこれは前からそういう考えでやっていた。それを私が考えている時に、石原も兵を使うのはいかんと考えている。しかし兵は使わないけれども、北支那の資源、鉄鋼と石炭は欲しいという。ここに病根がある。それで大激論をした。

 つまり参謀本部が、天津駐屯軍の兵隊が少ないからそこを増強しなくちゃいかん、とこういう。それで私はそれはもっての外だと思う。元来、北支那における日本の駐屯軍というものは、よそに率先して引き揚げちまう方がいい、よく満州経営をやれば北支那に兵隊なんかいらない、と考えていたから私は、「反対だ」と云った。すると石原は、「いやあ、あれでは北支那の資源を確保する上の圧力をかけるために足りない」と云う。それで、
「北支那の資源と云ったって、北支那にある資源は満州にいくらでもあるじゃないか」
「いやあ満州のは足りない」

 
 「君は満鉄の宮崎という調査委員の材料を基にして話しているんだろう。満鉄の調査なんていうのは、まだ狭い満鉄の付属地から覗いたことであって、満州の科学的調査というものはまだちっともできていないんだ。満州を占領してからわずか数年じゃないか。この間に科学的調査ができるわけはない。ぼくが東満で勤務していた時、資源は無限にある、という感じを持っているんだ。これは、これから科学的調査によって得られるので、よそに兵隊を持って行ってまでやる必要はないじゃないか」と云った。

 「まあしかし、そんなことを云うけれど、満州の調査によると満州だけじゃ国防資源は足りないから」と云う。とにかく
「ボクは兵隊を動かし、威圧の下にそういうことをやることは、非常に不同意だ」といって石原と別れたことがある。(『秘録 永田鉄山』p68)

 つまり、石原の頭には「最終戦争論」にいうところの「東洋文明vs西洋文明」対立史観があったのです。その最終戦争に向けて高度国防国家を作ることが、石原の最終目標だった。それが、満州問題の解決において満州事変という「奇道」を採らせただけでなく、華北分離工作という「国防資源欲しさ」の侵略的行動をも採らせることにもなったのです。これが中国には華北の「満州化」と受け取られた。

 蒋介石は、昭和10年(かっての革命外交を反省し)、広田外相に対して(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、の三項目を提示し(2月26日)、日中親善の関係改善を図ろうとしました。これに対して広田外相も「蒋介石氏の真意にたいしては、少しも疑惑を持たない」と言明し、中国の対日態度転向は天佑である、などと述べました。

 これに対して陸軍は、外務省の対華親善政策を批判し、中国の対日態度転換は欺瞞だといい、国民政府をして親日政策を取らざるを得ないようにするためには、「北支那政権を絶対服従に導き」、それと日本との「経済関係を密接不可分ならしめ、綿、鉄鉱石等に対し産業開発及び取引を急速に促進」する必要があるとしました。

 そして、政府の日中親善政策を妨害するため、昭和10年6月の天津の親日新聞社長らの暗殺事件を口実として、露骨な武力的威嚇により中国に、「梅津・何応欽協定」(国民党勢力の河北省からの撤退:昭和10年6月10日)、「土肥原・秦徳純協定」(国民党のチャハル省からの撤退、長城線以北からの宋哲元軍の撤退:昭和10年6月27日)を押しつけました。

 こうした日本軍の妨害活動にもかかわらず、中国は対日親善方針は不動であるとして、先に広田に示した三原則の実現により、日支両国が真の朋友となり、経済提携の相談もでき、さらに「共通の目的」のため軍事上の相談をなすこともできるといいました。最大の難問は満州問題ですが、これについては「蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日はこれを不問に付す(日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずと言う意味)」と説明しました。

 しかし、この蒋介石の日中親善を求める交渉は、日本陸軍の反対に遭って挫折しました。結論的に言えば、日本側の対案である「広田三原則」からは「中国側三原則」に対応した文言が消えてしまったこと。また、外務省と海軍が主張した「本件施策に当り、わが方の目的とするところは、支那の統一または分立の助成もしくは阻止にあらずして、要綱所載の諸点の実現に存す」というような「華北分離工作」をしない旨の文言も消えてしまったのです。

 前回、二重化した日本外交に対する不信が、欧米人の日本に対する不信を招き、これが日本軍残虐宣伝を目的とする「南京大虐殺」の誇大宣伝を生んだ、ということを申しました。では、この時の日本外交を主導した軍の考え方の何が問題だったかというと、それは簡単にいえば「中国を「他国」と認識すること」ができないということ。つまり、東洋文明=王道文明という言葉で両国を「兄弟」と見なす考え方が、結果的に中国に対する侵略的行為を生んだということです。

 このことに日本も気づき中国を「主権を持った独立国」と認識して欲しい・・・その願いが、上記の中国側三原則、(一)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること、(二)両国は真正の友誼を維持すること、(三)今後、両国間の一切の事件は、平和的対抗手段により解決すること、に現れていたのです。要するに、中国を独立主権国家として認め、両国間の一切の問題は、平和的外交手段により解決したいと云うことでした。

 中国にしてみれば、日本人の「東洋文明vs西洋文明」という考え方は、日中関係を兄弟視し、中国を日本の都合の良いように従順に従わせようとするもので、独善的かつ偽善的なものとしか映らなかったのです。また、西洋人にとっては、「西洋文明=覇権文明」という図式で、中国における彼らの権益侵害が正当化されているのですから、当然、日本の侵略に抵抗する中国に同情を寄せることにならざるを得ませんでした。

 もちろん、ここには日本側の問題だけでなく、中国側及び西欧諸国、特にアメリカに問題があったことも事実です。このことについては、昭和3年9月に日本政府の代表としてアメリカ政府との交渉にあたった内田康也(伯爵)の言葉に次のように表明されています。

○日本は地理的な必然性により、他の列強諸国に比べると経済的に、それ故にまた政治的にも中国へ大きく依存している。 

○日本は過去において、あらゆる障害を粉砕して、日本の意志を中国に押しつけたい誘惑に駆られてきた。

○ワシントン会議は、日本自身の最高利益がアメリカ政府の主張する共存・共栄の政策と一致することを、日本が納得する根拠と機会を与えた。

○その基礎の上に国際協調政策に全幅の信頼を抱き、日本はさまざまな主張を放棄したばかりか、東洋社会で重きを為す多くの威信もしくは”面子”も捨てた。

○このような国際協力は、ワシントン虚条約に対する全面的な支持を包含するものであるとするアメリカの考え方に、日本は、中耳つかる良心的に従って行動してきた。

○それにもかかわらず中国は約束した国際協力を忌避して、条約署名国、その中でも特に日本に対し敵意と無責任の政策をとり続けてきた。 

○もし中国が、自分の利益のために約束された国際協力を拒否したり不快視するなら、また協力しようとする諸国との良好な関係の樹立を排斥したり否認するなら、各国は少なくとも各国同氏で団結し、もっと冷静な時代に中国が喜んで承認した諸目的を達成するようにしなければならない。

○日本政府は、アメリカ政府が中国問題に関する国際協力理念の保証人であると認識している。我々が、中国をこの国際協力の枠組みに引き戻すよう決定的な影響力を、アメリカが放棄するのかどうかを日本は知りたいと願っている。

 この内田をアメリカに派遣したのは田中義一首相です。これで、彼の対中外交の基本方針は「ワシントン体制遵守」であった事が判ります。しかし、彼の行った三度にわたる山東出兵とその間に発生した済南事件、さらにその後の張作霖爆殺事件は、こうした国際協調の外交基盤を破壊することになった。そのことが反映したのでしょうか、こうした日本政府の問いかけに対するアメリカ政府の回答は、次のような冷淡なものでした。

 「中国がなした外国政府への約束と、外国の諸国民に対する義務の履行について、中国の国民政府が認める処理の仕方に関しては、米国政府は、国民政府が国際慣行の最高水準に従って行動しようとしているものと確信し、国民政府がその意図を行動で示すだろうと確信している」(『和はいかに失われたか』マクマリーp166~168)

 こうしたアメリカの回答が、日本政府に「アメリカ人は結局”中国びいき”なのであり、中国の希望に肩入れすることにより、協力国の利害に与える影響を無視してでも自らの利益を追求しようとする」との印象を抱かせたのです。そしてこのような状況の変化が、ワシントン会議以来の日本政府の穏健な政策に対抗して、満州での”積極政策”を唱えていた陸軍閥を台頭させることになったのです。

 「協調政策は親しい友人達に裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、避難と軽蔑の対象となってしまったのである。」とマクマリーは言っています。

 では、なぜアメリカは「中国の領土保全と門戸開放、中国及び太平洋諸島に関するワシントン諸条約において、全ての関係諸国の同意を得て公式化され正式に承認された」国際法に基づく善隣友好の原則を、中国の革命外交に肩入れすることで無視する行動に出たのでしょうか。こうしたアメリカ政府の行動の背後には、次のような「中国に対する米国民の広範な親近感があった」とマクマリーは言っています。

 「この親近感は、米国政府が、利己的な国々から中国を守ってきてやったのだと信ずる若干恩着せがましい自負の念と、わが国の協会組織が、中国での布教活動に支えられて、数世代に私中国との好ましい関係を育ててきた事績に負う所が大きかった。この時点で布教活動の指導者達は、自分たちの仕事は、中国の政治的要求を支持する政策によってもっと発展すると確信していた。」

 「アメリカにおける宗教組織の強力な党派性は、新聞論調にも反映された。中国国民党は1776年(アメリカ独立の年)の愛国精神と二重写しにされ、蒋介石は中国のジョージ・ワシントンと目されることが少なくなかった。このような動きは、アメリカの議会と行政府の双方に対し、かなりの圧力となって作用した。」この結果、「国際協調政策は、利己的な他の諸国の身勝手で反動的な目標に奉仕しているだけであると、広く非難」されるようになったのです。(上掲書p122~125)

 こうしたアメリカ人の中国に肩入れする心理が、満州事変以降日本外交を二重化することで武断的大陸政策を推し進めつつあった日本軍に対する警戒心と相まって、国際委員会の宣教師等に、国民党中央宣伝部による「南京大虐殺」という謀略宣伝に肩入れさせることになったのです。

 そこで、これらを総括して、日本人はこの「南京事件」から何を学ぶべきか、ということですが、それは、ワシントン体制下において国際協調路線を採った日本外交の基本姿勢を崩すべきでなかったということ。しかし、満州事変という奇策は、こうした日本の外交姿勢を一変させ、それを独りよがりなものに変えてしまった。その結果、日本外交は二重化し、華北分離工作という中国の主権侵害行為をもあえてさせ、日中戦争を不可避としたのです。

 南京事件・・これを「南京大虐殺」とする謀略宣伝は、こうした日本軍の無統制な行動に対するアメリカ人宣教師等の敵意に根ざしたもので、その淵源を尋ねるなら、それは、そこに至るまでの日本軍の行動が国際社会の支持を得なかったということに尽きると思います。もちろん、こうした日本外交の孤立を誘発したアメリカ外交の失敗もあったし共産主義勢力の謀略もありました。しかし、日本外交が統一を失わなければ、これを乗り切ることができたはずです。

 この意味で、日本外交が最も大きな困難に直面したこの時代、国際協調路線でこれを乗り切ろうとした幣原外交を再評価することが、「南京大虐殺」という謀略宣伝に振り回された戦後67年を総括する上でも、極めて重要ではないかと私は考えています。氏は、満州問題の解決のために仮に武力を使うことがあるとしても、国際社会の支持をとりつけることが絶対に必要だと考えていましたから。

おわり

2012年6月17日 (日)

南京事件(9)―― 満州事変以降「二重化」した日本外交への不信が「南京大虐殺」を生んだ

 河村名古屋市長の「南京大虐殺」に関する発言が、国内のマスコミで余り大きな問題とならないのは、『南京戦史』(平成元年)以降、中国側の主張する「30万人虐殺説」を支持する勢力が国内にほとんどいなくなったことを意味します。朝日新聞の社説筆者も、平成3年2月2日の野村吾朗氏(富山歩兵三十五連隊第一大隊本部書記・軍曹)宛ての返書で、「三十万という数が正しいとは思いません。・・・中公新書『南京事件』(秦郁彦著)の見方が、現時点では妥当ではないかと考えます」と答えたそうです。

 この秦郁彦氏の「4万人説」は、日本軍の公式記録(戦闘詳報等)に記載された「捕われて殺害された中国兵の推計」3万人に、スマイス調査(修正値)による一般人の死者2.3万人の二分の一~三分の一(1.2万~8千)を足した3.8万~4.2万の中間値を取ったものです。これに対して『南京戦史』は、「我が軍に摘出逮捕された敗残兵・便衣兵」の総数3.8万人(戦闘詳報等)の内、処断された人数を1.6万(ただし、その当・不当の判定は保留)とし、それにスマイス調査による南京市部及び江寧県の死者・拉致数を1.6万、合わせて3.2万としています。

 ところで、このスマイス調査の数字についてですが、これには、戦闘員としての戦死、戦闘行為の巻き添え、中国軍による不法行為、中国軍の堅壁清野戦術による犠牲者が含まれています。また、南京市部における暴行による死者2,400や拉致4,200という数には、便衣兵と見なされて摘出、あるいは処断されたものも含まれていて、必ずしも日本軍により不法殺害された一般市民の数を表すものではありません。従って、その実数はこれよりかなり小さなものになります。

 板倉由明氏は、これらを考慮し『南京戦史』の中国軍兵士の処断数1.6万の二分の一~三分の二、つまり8千~1.2万を不法処断数とし、一般市民については、スマイス調査による1.6万の三分の一~二分の一、つまり5千~8千を不法殺害としています。合計すると、不法殺害された軍民の数は、1.3万から1.9万となりますが、板倉氏は、こうした推計はランクわけした方が良いとして、不法殺害数をおよそ「一万から二万」としています。

 これに対して、秦氏の4万人説は、我が軍に「捕われて殺害された中国兵の推計」を3万とし、それをそのまま不法殺害としています。また、スマイス調査(修正値)による一般人の死者2.3万については、その二分の一~三分の一(1.2万~8千)を不法殺害としています。しかし、この3万という数は、当時「日本軍の公表戦果が実数の二~三倍にふくらむのが常識」とされていたことをあえて無視したもので、また、2.3万という一般人の殺害数は、江寧県だけでなく南京近郊五県の死者数を累計したものです。

 しかし、板倉由明氏と秦郁彦氏には共通点があって、それは、両者とも、南京陥落後の城内およびその周辺地域における状況の把握において、ティンパーリの『戦争とは何か』の記述にかなりの信を置いているということです。そのため安全区に逃げ込んだ「便衣兵」の処断や、城外において大量の発生した投降兵の扱いについて、日本軍の責任をより重く追及する結果になっています。また、安全区内で頻発した掠奪・放火・強姦事件等の多くも日本軍兵士によるものとしています。

 こうした傾向は秦郁彦氏に特に強くて、第十三師団の山田支隊に投降した大量の捕虜がその後どう扱われたのかということについても、「当初は捕虜を釈放するつもりだったようだ」が、結果的には一万人前後の大量殺害となった、とか、「城内の病院(と臨時病院)には相当数の中国傷病兵が収容されていた」が・・・「彼らを目撃した証言はいくつかあるにもかかわらず、最終的にどう処理したかに触れた証言は見当たらない」などと、不法殺害を思わせる記述をしています。

 また、南京城内における掠奪行為については「市内全域の無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず略奪されました」とか、「南京での略奪品目は・・・ピアノ200台」に及んでいました、というベイツの証言を事実であるかのように紹介しています。また、放火については「南京国際救済委員会の調査によると、城内のメインストリート地区で損傷した建物2828棟のうち、軍事行動によるものはわずか2.7%で、放火が32.6%、略奪に起因するものが54.1%にのぼった」と紹介し、あたかも日本軍が南京城内の建物の大半を焼き払ったかのような記述をしています。

 さらに「強姦および強姦殺害」については、「はなしはんぶんとしてもラーベ国際難民区委員長の二万人強姦説(東京裁判の判決でも採用)は当たらずといえども遠からずであろう」といい、その証人として「曽根一男の告白」を紹介し、「クーニャン狩りに独特の嗅覚を持つ兵士たちは・・・獲物を見つけるのに余り苦労しなかったようだ」と総括しています。(その後、曽根一男は歩兵分隊長ではなく砲兵馭者であり、その「告白」は「虚偽の体験記」であったことが板倉由明氏によって暴かれた。)

 さらに、昭和59年8月5日付けの『朝日新聞』で紹介された都城二十三連隊兵士の日記の記述「近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえてきては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片で叩き殺したり」という記述を引用し、「こうした無差別殺人に走った日本兵士の行状は、まさに鬼畜の所行というべく、同じ国民の一人として唯恥じ入るほかは無い」と慨嘆しています。結局、この日記は史料批判もなされないまま、朝日新聞が「連隊は南京大虐殺と無関係」というお詫び記事を出すことで終結しました。

 秦氏ほどの歴史研究者が、史料批判もなしにこれらの「告白」を事実と信じ込むのも不可解ですが、それだけ、『戦争とは何か』による「日本軍残虐宣伝」の呪縛が強かったということが言えると思います。その後、秦氏は、2007年に増補版の『南京事件』を発行しています。しかし、本文は旧版のままで、それに「南京事件論争史」を加える中で「1,国民党中央宣伝部の役割」、「2,虐殺写真の検証」、「3、データーベースによる解明」を紹介し、『戦争とは何か』における殺人・強姦・放火に関する記述の誇大を認めています。

 その上で、残された論点として、「1,難民区の便衣兵狩り」の当・不当については、「全然審問を行わずして処罰をなすことは、現時の国際法規上禁ぜられる所」(立作太郎『戦時国債放論』1931)と解釈するのが妥当かと思われる」と総括しています。また、「2,幕府山の捕虜たち」については、「これを計画的殺害とみるか、・・・釈放の意図を誤認しての反抗から生じた突発的事故なのか、見解は依然として分かれている」と見解を保留しています。1,2,ともいささか往生際の悪さを感じますね。

 ただ、従来4万としてきた犠牲者総数については、「この二十年、事情変更をもたらすような新資料は出現せず、今後もなさそうだと見極めがついたので、あらためて四万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」としています。この4万という数は、先述した通り「日本軍の公表戦果が実数の二~三倍にふくらむのが常識」だったことを一切無視したものである上に、南京近郊五県における彼我の責任不明の死者数を加えたものですから、あくまで最高限の数字だと断ったわけです。

 つまり、秦氏における実数は、板倉氏(一般人の死者数は江寧県のみ算定)の1万から2万というランク付けとほぼ一緒だと言うことです。しかし、これらの数字は、「難民区の便衣兵狩り」を不当とし、さらに、「幕府山の捕虜たち」の計画的殺害の可能性を認めた上での数字ですから、前者を合法とし、後者を突発的事故による捕虜の暴動と見る立場に立てば、その数は、さらに小さなものにならざるを得ません。この観点をさらに詰めた数字は上杉千年氏より提出されていますが、そこでは、兵士の不当処断4,400、江寧県を含めた市民の被害2,500の範囲内となっています。(『作り話「南京大虐殺」の数的研究』)

 問題は、南京城陥落時の包囲殲滅や残敵掃討や便衣兵の摘出が、どのような情況下で行われたかということですが、これについては、前回までの論考で紹介した通り、安全区に逃げ込んだ万余の中国兵の中には、後方攪乱を企図する将校等が多く含まれていて、武器を隠匿し便衣となって潜んでいたということ。さらに、それを欧米人で組織する国際委員会の委員らが黙認していたということ。その上で、城内で頻発した略奪・放火・強姦等を全て日本軍兵士によるとして抗議を繰り返していたという事実。

 ということは、南京城内に設置された安全区は、中国軍兵士の潜入を防ぐどころか、その後方攪乱基地になっていたということで、つまり、戦闘は依然として継続中だったということになります。つまり、安全区からの便衣兵の摘出は、武装解除された無抵抗の兵士の摘出ではなくて、まさに便衣兵として後方攪乱中の戦闘員の撃滅処断だったということです。そういうことであれば、彼らが「審問を行わずに処分された」としても、これを不法ということはできませんね。

 同様のことは、城外において大量に発生した敗残兵や投降兵の処置についても言えます。彼らは、あくまで南京城に向けて攻め上る日本軍の包囲を突破することを命じられていたのです。その絶望的な戦いの中で多くの兵士の命が失われ、一方で、日本軍部隊の兵員数をはるかに上回る万余の投降兵が発生したのです。その典型的な例が幕府山事件であって、これは、武装解除された大量の投降兵が突発的事故を契機に暴徒と化し鎮圧されたもので、これも、捕虜の不法殺害ということはできません。

 もちろん、日本軍がこうした事態をあらかじめ予測し、大量の投降兵が発生した場合の処置について国際法にかなった基準を各部隊に周知徹底し、かつ捕虜収容所や食料の準備に万全を期していたら良かった。しかし、日本軍の南京城攻撃は、中国軍の全面撤退につられて勢いでなされたもので、こうした準備はほとんどなされていなかった。そんな状態の中で、日本軍各部隊は、無統制状態に陥った中国軍への個別の対応を迫られた。その結果、多くの中国兵の命が無駄に失われたわけで、その責任は中国側により重しとしなければなりません。

 にもかかわらず、本来中立の立場を堅持すべき安全区国際委員会は、こうした事情を一切無視して、日本軍に対する「敵対行為」とも思える宣伝行為を行いました。それは、その委員会に属するアメリカ人宣教師の内の数人が、国民党中央宣伝部のエージェントだった、ということにもよりますが、問題は、そうした中国支援の雰囲気が、当時の欧米人とりわけアメリカ人に支配的だったということを意味します。その結果、国際委員会による日本軍残虐宣伝が功を奏することになったのです。

 それにしても、南京は日本軍の占領下にあったわけで、日本軍は安全区を正式承認していたわけではないのですから、彼らの敵対的宣伝行為について、直ちに調査を行いその真偽を糺すべきでした。それをしなかったのは、一つには、日本の外務省と軍が敵対関係にあったためだと思います。このことは、ラーベの日記を見れば判りますが、国際委員会と南京の日本領事館員とは日本軍に対して一種の「共闘関係」にありました。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎が、国際委員会の日本軍残虐宣伝を真に受けたのもそのためです。

 こうに見てくると、なぜ、「南京大虐殺」という虚偽の虐殺宣伝が、その後「事実」として世界に通用するようになったか、その根本原因が判ると思います。その第一の原因は、当時の日本の対中国外交姿勢が、国際社会におえて全く支持されていなかったということです。第二に、日本外交が外務省と軍との間で二分していて、実質的な敵対関係にあったということです。先の石射局長などは、その頃「日本は行く処まで行って、行き詰まらねば駄目と見切りをつけ」ていました。(『外交官の一生』p328) 

 ではなぜ、南京事件当時の日本はこのように、国際社会の敵意を一身に受けるような存在になっていたのでしょうか。実はこれが、日本人が「南京大虐殺」を考える際に忘れてはならない最も重要な観点なのです。確かに「南京大虐殺」は国民党中央宣伝部が仕組んだ「戦争プロパガンダ」でした。しかし、それをプロパガンダたらしめ、その後、虚実ない交ぜの日本軍残虐宣伝が世界に流布することになったのは、こうした日本軍に対する敵意が、欧米の宣教師やジャーナリストの間に偏在していたということ、この事実を確認しなければなりません。

 だが、これまでの「南京大虐殺」論争において、この点に注意が払われたことはほとんどありません。ここには「大虐殺派」、「まぼろし派」、「中間派」があり、今日では「中間派」から「まぼろし派」の中間あたりがその主流を形成しつつあります。しかし、その主たる論点は、日本軍あるいは日本の兵士が残虐であったかなかったかに帰結しがちで、この事件が、なぜ第三国の宣教師等によって誇大に宣伝され流布していったかを問うものはほとんどありません。

 中には、これを人種問題として解釈する意見もあります。また、当時のアメリカ政府の日本の自然的条件(領土、人口、資源・エネルギー)の厳しさの認識や、日本が極東において果たしている安全保障上の地位や役割に対する認識の甘さを指摘する意見もあります。だが、人種問題については、一方で中国人が熱烈な支援を受けているし、後者については、幣原喜重郎が日本の外交を司っていた間は、極東における日本の地位や役割は十分尊重されていて、これが失われたのはその失脚後です。

 こうなると問題は、当時の日本の政治体制やそれを支えた国民思想はどうだったか、それは日本の大陸政策にどう反映したか、国際社会はそれはどのようなものと受け止めたか、等を問う必要があります。いうまでもなく「南京大虐殺」は、山東出兵以降の日本の大陸政策の延長上に起きたことであって、この観点を抜きにしては「南京大虐殺」の真因を掴むことはできません。もちろんその前に、その虚偽宣伝による心理的呪縛から日本人を解き放つことが必要で、ようやくそれに成功しつつあるのですが・・・。

 しかし、こうした謀略宣伝は国際政治にはつきものであって、日本人もこうした情報戦に耐えるだけの冷静さと知力を持つ必要があります。実は、このあたりのことを、この「南京大虐殺論争」に関して最も早く指摘したのが、イザヤ・ベンダサンでした。

 その言わんとするところは、「日本は11月7日トラウトマン和平工作で三条件(1.満州国承認、2.日支防共協定の締結、3.排日行為の停止その他)を中国側に提示した。これに対して中国側は12月2日に、この条件を基礎とした和平会談の開催を提案してきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変化はないかと、念を押してきた。これは当時の中国にとっては「無条件提案受諾」であり、これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった・・・。

 というのは、日本は百パーセント目的を達した。中国が満州国を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認の雪崩現象」が期待できるであろう。これで、「満州領有確認戦争」は日本の一方的な勝利で終わったわけであった。何よりも満足したのはナチス・ドイツ政府であったろう。これで蒋介石軍の崩壊は防がれ、日蔣同盟が中ソ国境の脅威となり、ドイツの東方政策はやりやすくなる・・・ところがここに全く想像を絶する事件が起こった。12月8日に日本は中国が日本の提案を受託したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか12月10日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?

 通常こういう場合の解釈は二つしかない。一つは、日本政府が何らかの必要から、中国政府をも、トラウトマン大使をも欺いたという解釈である。これは大体、当時の世界の印象で、これがいわゆる「南京事件報道」の心理的背景であり、また確かにそういう印象を受けても不思議ではない(というのは、他に解釈の方法がないから)が、どう考えてもこの解釈は成り立たない。

 結局、当時の世界の、この事件へのやや感情的な結論は、「日本人は好戦民族なのだ」ということであった。これに対する日本人の反論は、常に「歴史上、日本人ほど戦争しなかった民族はない、だからそうは言えない」ということであった。しかしこれは反論にならない。(つまり)これへの反論では、まず南京総攻撃、およびそれ以後の戦闘の理由を説明しなければならない。それができないのならば、「戦争が好きで、これを道楽(ホビー)として、たしなんでいたのだ」と言う批評は甘受せねばならない。

 このようなベンダサンの見方に対しては、日本軍の南京城攻撃の目的は、敵の首都である南京城を落とせば”戦争は終わる”と考えていたからで、そもそもこの戦争は蒋介石が始めたものであるから、それ以外に戦争を止める方法はなかった、とか、蒋介石は三条件を基礎に話し合うと言っただけで吞んだわけではない、等の反論がなされています。また、トラウトマン和平工作における和平条件が加重されたことについては、蒋介石の回答が遅延したためで、日本軍はすでに南京城周辺に迫っておりその間相当の犠牲も払っているのであるから当然とする意見もあります。

 しかし、これは、満州事変以降の日本の対中外交における基本政策は何だったか、ということを忘れた議論です。それは中国に「満州国を承認させる」ことに尽きていた。であれば、蒋介石が南京陥落直前これを認めたのですから、当然のことながらこれで戦争は終わりのはずです。ところが、日本軍はこうした外交の経緯をまるで無視し、12月9日には南京城を守る中国軍に降伏勧告を行い、それが拒否されたとして南京城総攻撃を開始したのです。

 実はこの件について、当時参謀本部戦争指導課員であった堀場一雄が、このトラウトマン和平工作を主導した広田弘毅を厳しく批判した文章があります。これは、12月7日に蒋介石がディルクセン大使を介し、「日本側提示の条件を和平会談の基礎とすることに同意する」ついては先に示された条件に変化はないか、と問い合わせてきたのに対し、広田が当初これを受け入れながら、その後条件を加重したことを、次のように厳しく批判したものです。

一、念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するの他なし。これ道義に反す。

二、成し得べくんば支那側今時の申出を取り上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥協の道自ずから開くべし。

三、本条件絶対に容認し難しとせば、我が欲する条件を明確に示すべし。その条件はすでに久しく用意あり・・・群衆は常に強硬なり。解決条件は寛大なるを要す。いわんや日支大転換を企図するにおいてをや。・・・
*ここで「その条件はすでに久しく用意あり」とするその条件とは、「積極論を保障事項に封じ妥結最良を委せしむると共に、具体問題に関し先の受諾条件に近接せしめたる所に苦心存す」としたもので、基本的には広田が示したものと同じ。
    
 だが、こうした参謀本部の苦心も、先に述べた通り、外交交渉より南京占領を優先させたため、蒋介石の日本に対する不信をさらに決定的なものにしてしまいました。従って、その後条件加重された第二次和平提案でも、翌1月15日以降交渉を継続していれば蒋介石の妥協を引き出せたのではないかとの意見もありますが、私はその可能性はゼロだったと思います。というのも、蒋介石の日本に対する不信は、外交上の信義が、既成事実の積み重ねの上に簡単に破られる、ということにあったのですから。

 つまり、このように日本外交が二重化し、その主導権を軍が握り、かつ、その軍内でも参謀本部と陸軍省の見解が対立しており、さらに、軍中央が出先軍の暴走を止め得ないような状況では、まともな外交交渉が行われるはずもなかったのです。こうした日本外交に対する不信が、満州事変以降華北分離へと突き進む中で蒋介石に次第に高まっていた。そして、それを決定的にしたものが、このトラウトマン和平交渉における外交を無視した南京城総攻撃だった、というのです。

 こうした、日本人の行動は、欧米人にはまるで理解しがたいものだった。その結果、日本軍は「戦争が好きで、それをホビーとしてやっている」というような解釈が生まれ、また、それを実証するように、南京陥落後、武器を捨て安全区に逃げ込んだ兵士や、投降兵に対する、日本軍による公然たる大量処刑が行われた。これが、宣教師等の眼には、日本軍の理解しがたい残虐行為と映り、それが国民党中央宣伝部の工作を経て、虚偽かつ誇大な日本軍残虐宣伝へと発展していった。

 どうも、このような日本軍の、いや日本人の”既成事実の積み上げで交渉条件を次々に加重していく”・・・こうした日本人の感情優先の外交姿勢が、日中戦争のみならず大東亜戦争の根本原因になっていたような気がしますね。

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