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2012年7月

2012年7月29日 (日)

「私人」と「公権力」の関係を規定する「人権」概念が、「私人」間の関係を律するようになって起こったこと

 社会主義という言葉が、日本人の平等観念を刺激しなくなって以降、それに代わって日本人の人間関係を包括的に規制するようになった言葉が、「人権」ではないかと思います。私の友人には、「人権」という言葉が、あたかもアンタッチャブルの真理であるかの如く闊歩している状況をさして「人権真理教」と悪口を言う人もいます。実際、「人権」は今日の自治体行政の主要なテーマにもなっていて、自治体が市民に道徳としての「人権」を講釈する状況さえ生まれています。つまり、今日の日本では、道徳を説くのは宗教界の仕事ではなくて、役所の仕事になっているのです。

 私がこうした現象を不可思議に思うのは、もともと「人権」概念は法律概念であって道徳概念ではないと考えるからです。ご存じの通り、日本国憲法には「人権」についての規定があります。この内、市民「道徳」との関連で問題となるのが、市民の「精神的自由」を保障した「基本的人権」の規定で、次のようなものがあります。

・思想・良心の自由(特定の信仰・思想を強要されない、また思想調査をされない権利 (第19条、第20条、第21条))
・ 学問の自由―大学の自治保障(第23条)
・ 表現の自由(第21条)
・ 集会・結社の自由(第21条)
・ 通信の秘密(第21条)

 いうまでもなくこれらは、「私人」としての市民と、「公権力」としての国や自治体との関係を規定するもので、公権力が「私人」たる市民に権力を行使する際、これらの市民の「精神的自由」を侵害してはならないことを規定するものです。言い換えれば、市民がどのような「思想・信条」を持とうとそれは個人の自由であって、公権力がそれを規制したり、干渉したりすることを禁ずるものです。

 もちろん、今日の社会秩序は、「法」によって守られています。しかし、法的規制はあくまで個人を外面的行為を規制するだけであって、個人の内面を規制するものではありません。では、個人の内面を規制するものはなにか、というと、実は、これが倫理とか道徳とか常識とかいうものであって、それは、あくまで個人を内面的・自律的にコントロールしようとするものです。

 では、この自己を自律的にコントロールする力は、どのように習得されるのかというと、いうまでもなく、これは「しつけ」や「教育」によって、親から子、大人から子供、教師から生徒へと「教え」られるものです。ところが、この親から子、大人から子供、さらに教師から生徒へと伝えられるべき「教え」が、戦後の民主化・平等化・自由化の流れの中で次第に融解し形をとどめなくなっていること。その代用として登場したのが、上述した「人権」という法律概念なのです。

 つまり、本来、個人の内面的自由を保障するはずの「人権」概念が、個人の内面を権力的に規制する「えせ」道徳概念へと転化したのです。そして、そのことに誰も異議を申し立てることができなくなったいる。異議を申し立てれば、その個人は倫理的・道徳的・法律的に許されない、いわば「差別者」として断罪されるという、極めて倒錯した状況が今日の日本に生まれているのです。

 こうした、戦後の日本社会における法律概念と道徳概念の混同という現象に、いち早く警告を発したのが福田恒存でした。氏は、「人権と人格」と題するエッセイの中で、当時はやった「嫌煙権」を題材につぎのように述べています。

 「煙草にせよ、酒にせよ、その他何にせよ、迷惑を掛ける側が他人の立場に立って自分を抑へる、その心の働きは常識である。それがまた道徳に道を通じてゐる。なぜなら人は善意からに心せよ、或は背に腹は代へられぬ苦境からにもせよ、必ず誰かに迷惑を及ぼす、人間存在そのものが悪の根源だからである。隨って、人間は絶えず後ろめたさに堪へながら生きてゐる。良心とは自分の存在、言動に後ろめたさを感じ得る能力の事であり、その能力の統一ある働き、詰り、後ろめたさに堪へ、なほそれと闘ひ、自分との馴合ひを抑ける努力を通じて人格が形造られる。円熟とはその揚句の果に到達した境地、どうやらやっと自分と折合ひが附いたといふ事であらう。それは馴合ひとは違ふ。争はなければ折合ひは無い。馴合ひは争いの廻避である。

 が、人はとかく自分の、或は人間そのものの後ろめたさに気附く事を恐れる。その結果、それに気附かずに済ませる様な機構の整備にばかり意を用ゐる様になる。悪や利己心の克服を自分の能力や責任の問題とする事を避け、それを外部の物的メカニズムに肩代りして貰はうとずる。人は事毎に自由を求め、その実現を計る事によって、却つて自由を働かせる余地を狭める事に狂奔してゐるとしか思はれない。自由の為の法、政治機構、社會制度を完備すれば、それらに頼り、それらによって保障された自由は、それらに左右された自由といふ事になり、真の自由ではない。」

 いわんとするところは、「迷惑を掛ける側が他人の立場に立って自分を抑へる、その心の働きは常識である。それがまた道徳に道を通じてゐる。」ということ。そして、こうした「こころの働き=良心」を強めるためには、「自分の存在、言動に後ろめたさを感じ得る能力」、その「後ろめたさに堪へ、なほそれと闘ひ、自分との馴合ひを抑ける努力を通じて「自分と折り合いをつける」こと。それが「人格」を形づくるということ。それは、自分と「馴合う」ことではない。「争はなければ折合ひは無い。馴合ひは争いの廻避である。」ということです。

 この文章は、昭和53年に書かれたものですが、その後、この「人権」概念は同和問題ともからんで、次のような「人権教育」へと発展しました。

 「日本における人権教育は、かつての同和教育を継承・拡張させてきた側面を持ち、社会的少数者への認識を深め、差別に反対し平等な社会を築くことをめざした学習が中心となっている。

 同和教育で問題にされたのは、被差別部落出身者に対する差別であった。しかし次第に内容が拡張され、在日韓国・朝鮮人の問題、女性の問題、障害者や高齢者の問題、子供の問題なども含めた人権問題一般を扱う人権教育に発展した。

 また、国による同和対策も進行して実体としての差別的状況がおおよそ改善されたこと、人々の意識に上る被差別部落が減ったことなどの状況の変化があり、地対財特法などの特別措置も期限が切れ、具体的対象が明確化しづらくなったこと(被差別部落というべき対象の形式的な消失)から、同和という言葉そのものの存在理由が見いだしづらくなり、かつての同和対策事業から人権啓発事業に切り替えられた。」(wiki「人権教育」参照)

 つまり、この段階で、「人権」という個人の「内面的自由」を保障するための概念が、「差別しない」という個人の「内面」を律する道徳的規範へと転化したのです。もちろん、これが、あくまで個人の良心に働きかけ、その人格形成を促すものであれば何も問題はない。しかし、これが行政権力と結びついて個人の内面の自由を規制するようになると、憲法に保障された個人の思想・良心の自由、学問の自由、表現の自由、 集会・結社の自由が侵害されるという、まさに倒錯した状況が生まれるのです。

 おそらく、こうした奇怪な現象が日本の社会に風靡することとなり、それに触れることが許されず、誰もが沈黙を余儀なくされるようになったのは、戦後社会が、個人の内面を律する日本の伝統的な道徳概念を否定したために起こったことではないかと思われます。結局、その隙間を他の何者かによって埋めることを余儀なくされ、その代役を務めることになったものが、本来、私人と公権力の関係を規定するはずの「人権」概念だった、ということではないかと思います。

 だが、どうあがいても「人権」概念が「道徳」概念に代わることはあり得ない。「人権」概念は法律概念に止まってこそ、その効力を発揮する。しかし、それが私人間の関係を規制する道徳概念となると、先に述べた「人権教育」の場における「沈黙」と相まって、極端に言えば、”一切他人の思想信条には干渉するな”ということになり、個人間の生き生きした会話や議論が一切失われる・・・という実に殺伐とした風景が日本社会を蔽うことになるのです。

 これでは、福田恒存が危惧した通り、日本の社会から「良心」や「人格」を鍛える「思想信条・良心の自由」の場が失われてしまう。この点、大阪市長の橋下氏のタブーを恐れない果敢な発言は、確かに政治権力を握るものとしては行き過ぎた部分もあるかと思いますが、人間の「良心」や「人格」を鍛えるための自由闊達な言論空間を日本社会に現出せしめた点において、まさに革命的意義を有すると思います。

 氏の言説に対して堂々たる反論を加える論客が輩出するようになることを切に期待したいと思います。

2012年7月23日 (月)

東電の「全面撤退」問題に関する野村修也氏の見解について――問題の本質は菅前首相の「人望のなさ」

 国会事故調の元委員、野村修也さんが、東電の「全面撤退」問題について、7月28日次のような連続ツイートを行っています。どうも論理が一貫していないように感じられましたので、以下私見を申し述べます。私は今回の事故についての東電の責任は免れないと思いますが、このやりとりに関する限り、ここから得られる教訓は、東電の無責任体制と言うより、政府の人間とりわけ菅前首相の「人望のなさ」ということに尽きる、つまり、政治家にも最低限の「人望」が必要だ、ということではないかと思います。

以下、①~⑨は野村氏のツイート、*のパラグラフはそれに対する私のコメントです。

①東電の撤退問題を解く鍵は、誰が残留人数の決定権を持っていたかという点にある。残留人数は炉の状況によって決まるため、決めるのは発電所長となっていた。本店はその決定を待っていたが、現場は事故対応に追われ、結局14日中には決定されなかった。SR弁が作動し一息つくことができたからだ。続

②その間、清水社長は海江田大臣らに電話で連絡しているが、退避のシナリオは決まっていなかったので、まるで官邸の意向を探るかのような曖昧な内容だった。東電に不信感を持っていた海江田大臣に全員撤退の申し出と聞こえたのも仕方がない面があるが、その時点ではまだ退避人数は決まっていなかった。続

*退避のシナリオは決まっていなかったのだから、政治主導でそれについての最終決定権を持つはずの官邸への報告が曖昧になったのは当然では?それを野村氏は”海江田大臣が全面撤退の申し出と聞こえたのも仕方ない”と言うが、なぜ「仕方ない」と言えるか。海江田氏は東電の意向を確かめるべきではなかったか。また、”その時点では(福島第一からの)退避人数は決まっていなかった”のであるから、海江田大臣から菅首相への報告は”この時点では退避人数は決まっていない”であるべきではなかったか。

③深夜に再び2号機の状態が深刻になったため、午前2時ごろ清水社長と武藤副社長が吉田所長に電話をし、緊急対応チームを残して退避することを決めた。東電が残留人数を決めたのはこの時が最初だった。その後官邸に呼ばれた清水社長が菅総理に対して全員撤退を否定したのは、この決定を踏まえたもの。続

*15日午前2時、武藤副社長が吉田所長と話して緊急対応チームを残して退避することが決定された。その後、清水社長は官邸に呼ばれた際、③の決定を踏まえて「全員撤退しない」と菅首相に伝えた。

④全員撤退と理解した海江田大臣は、枝野官房長官や福山官房副長官らにそれを伝えたため、東電が全員撤退を考えているとの理解が広がった。しかし、その一方で、枝野官房長官の証言によれば、仮眠中の菅総理を起こす少し前に、吉田所長の意向を確認し、残留して頑張る意向であることを確認している。続

*これは、②の段階で海江田大臣が、東電は「全員撤退」するという誤った情報を枝野官房長官や福山官房副長官らに伝えたということです。これは、明らかに海江田大臣のミスですね。さらに、枝野官房長官は、仮眠中の菅総理を起こす前に、吉田所長に電話して、東電は③で「緊急対応チームを残す」と決定をした事実を確認しているのです。

⑤官邸にいた伊藤危機管理官は、官邸にいた東電の者から東電が全員撤退を考えていることを知らされたと証言しているが、我々の調査では、管理官に伝えたのは東電の者ではなかった(当時官邸には顔を知らない者がたくさんいたので役人を東電社員と勘違いした)ものと考えられる。続

⑥官邸が、残留人数は発電所長が炉の状況を見ながら決めることになっていたことを知っていたならば、吉田所長が残留を決めていることを確認した時点で、全員撤退問題が誤解であり杞憂にすぎなかったことに気づいたはずである。それを理解できなかった背景には、不信感を招く東電側の経営体質があった。続

*ここがおかしい。第一の情報判断のミスは、上述した通り、海江田大臣が東電の②の段階での「撤退シナリオ未決」の状態を、「完全撤退」と誤認したこと。しかし、④の段階で、枝野官房長官は東電の③の決定を確認しているのだから、官邸は、この情報に基づき、海江田大臣の誤認を修正できたはず。しかし、官邸はそれができず、東電「完全撤退」という誤情報を維持した。これ、あくまで官邸の情報判断のミスなのでは?なのに、そうした官邸の判断の誤りを招いた原因は、「東電側の経営体質が官邸に不信感を持たせていたため」などというのは、いかにもおかしい!

⑦東電は、規制当局を虜にすることができるほどのパワーを持ちながらも、自らは矢面に立たず、責任を回避しようとする黒幕のような経営を続けてきた。清水社長の官邸に対する連絡の取り方は、事故後においてもなお、官邸に責任を負わせようとする姿勢の現れだったとみることができる。続

*ここで野村氏は、”清水社長の官邸に対する連絡の取り方は、事故後においてもなお、官邸に責任を負わせようとする姿勢の現れ”などというが、以上のやりとりを見る限り、②の段階では、東電の「撤退のシナリオが未決」だったからそうなったのであって、しかし、③で「緊急対応チームを残す」ことが決まった段階で、清水社長はそのことを菅総理に伝えているのであるから、それが、”事故後の責任を官邸に負わせようとする態度の現れ”などとは、到底言えないと思う。

⑧その意味で、東京電力は、官邸側の誤解を責め立てることができるような立場にはなく、むしろそうした事態を招いた張本人ということができる。続

*おそらく、この野村氏のツイートの説明が中途半端なのでしょうね。というのは、このツイートの文脈による限り、私の結論は、海江田大臣の「早とちりに基づく情報誤認」、枝野官房長官は、自ら「緊急対応チーム残留」を確認したにもかかわらず、海江田大臣の誤情報を訂正できなかったこと。さらに菅首相は、清水社長から「全員撤退はない」と直接聞きながら、なお、「全員撤退」と決めつけたこと、この三つが「そうした事態を招いた張本人」のような気がします。

 なお③の「その後官邸に呼ばれた清水社長が菅総理に対して全員撤退を否定した」というのがどの時点なのか、ということですが、これは、菅首相が15日目明、東電本店に乗り込んで「撤退などあり得ない」と怒鳴り散らす前の「未明」ということです。この時、菅首相は、清水社長が「全員撤退を否定」したにもかかわらず、なお、それを「全面撤退」と決めつけ、あまつさえ、東電本店に乗り込んで、「撤退はあり得ない」と東電社員を怒鳴りつけたのです。

⑨先ほどプライムニュースを見ていたら、福山元官房副長官が、私が公開質疑の場で示した資料を読み上げて、高橋フェローが「全員の撤退」と発言していることを全員撤退の証拠として強調していた。これを見ていて、やはり誰が残留人数を決めることになっていたのかを知らないことが良く分かった。了

*この番組は私も見ていましたが、福山氏は、東電の「全員の撤退」の証拠として「高橋フェローの14日19:55分の発言『全員のサイトからの退避は何時頃になるんですかね』という会話をあげていました。しかし、このやりとりの中で清水社長は、20:20の発言で「現時点でまだ最終避難を決定しているわけではないということを、まず確認して下さい。それで、今、然るべき処と確認作業を進めています」と明快に高橋フェローの言葉の誤りを指摘しています。

 野村氏は、この福山氏の発言を聞いて、東電の「残留人数の決定権を持っていたのは発電所長の吉田で、残留人数は炉の状況によって決まるが、現場は事故対応に追われ、結局14日中には決定されなかった。本店はその決定を待っていた」。つまり、高橋フェローの「全員のサイトからの退避は何時頃になるんですかね」の発言は、高橋フェローの誤認であって、これでもって、東電が「全員撤退」を決めていた証拠とする福山氏の指摘は誤りだと言っているのです。あたりまえですね。この高橋氏の発言の後で、清水社長は、その発言を「最終退避を決定しているわけではない」と訂正しているのですから。

 もちろん、この「最終避難」がどういうことを意味するのか「全員撤退」か「残留人数をいくらにするか」という判断に関わるものかはっきりしませんが、いずれにしても、残留するものの人数は、いわば「特攻」であって、”死を覚悟しなければ決められない数"であったことは間違いありません。であれば、その決定に際して、「然るべき処と確認作業」をするのは当然で、官邸が、その最終確認をする権限を持っているとするなら、当然、官邸は東電と一体となり、この「特攻作戦」の責任を負う覚悟が必要でした。

 しかし、事実は、官邸は、海江田大臣が東電の意向を誤認しただけでなく、枝野官房長官は事実を確認しながらそれを訂正することもできず、さらに、菅首相は、清水社長から「全員撤退しない」ことを直接聞きながら、あくまで「全員撤退」と決めつけ、東電本店に乗り込んで事故対応に追われている社員を「全員撤退はない」と怒鳴りつけたのです。”これが、「特攻」を指揮する最高指揮官のやることだろうか・・・"。これが、当時の私が感じた率直な疑問でした。

 そして今、国会事故調査報告の取りまとめに当たった野村氏の見解を聞いたわけですが、私は、以上の通り、⑧の野村氏の「東京電力は、官邸側の誤解を責め立てることができるような立場にはなく、むしろそうした事態を招いた張本人」という結論には到底納得することができません。といっても、あくまで、上記のツイートの文脈に沿った判断ですが・・・。

 そんなわけで、この事件についての私の感想は、事故後の6月1日に書いた私ブログ記事「人望の条件――菅首相の場合」http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b6a4.htmlと同じということになります。参考にしていただければ幸いです。

2012年7月13日 (金)

石原完爾の個人的責任を免除した片山杜秀著『未完のファシズム』

池田信夫氏の書評「独裁はなぜ生まれたか――『未完のファシズム』」http://agora-web.jp/archives/1467251.htmlで紹介された著者の主張で、引っかかった所がありましたので買って読んでみました。

 引っかかった所、というのは次の箇所

 「日本軍は日清・日露戦争までは「まぐれ当たり」で勝ったために自己の力を過信し、太平洋戦争まで暴走してしまった、という解説がよくあるが、その間には第1次大戦があった。これはそれまでの地域紛争とは質的に異なる総力戦であり、そこで勝敗を決するのは動員できる物資の量だから、日本のような「持たざる国」がアメリカのような「持てる国」に勝つことは不可能である。

これを誰よりもよく理解していたのは、当の軍人だった。したがって持たざる国である日本が戦争に勝つ道は、論理的には二つしかない

1.日本より貧しい国だけを相手にして戦争する
2.日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない

このうち1の路線をとったのが小畑敏四郎などの皇道派であり、2をとったのが永田鉄山などの統制派だった、というのが著者の理解である。」

 えっ、そんな皇道派と統制派の分類ができるの?これでは皇道派の方が現実的な思想の持ち主だったということになるじゃないの!というのが私が最初に感じた疑問でした。そこで、本文を読んでみたわけですが、小畑の、「日本より貧しい国だけを相手にして戦争をする」というのは、満州事変のような「戦争」のこと。実際、小畑は、石原完爾の満州事変における作戦指導を「速戦即決の『持たざる国』の理想の戦争」として絶賛していました。

 また、満州事変後、陸相となって宇垣派を逐い皇道派全盛時代をもたらした荒木貞夫は、満州事変の軍国気分を背景として、「盛んに国体精神の高揚を説き、満州事変の意義を強調し、内政の改革」を論じていました。なお、皇道派の対内外政策は「農村救済論と対ソ予防戦争論の二つ」(『軍ファシズム運動史』秦郁彦p77)に代表されますが、ここにおける「対ソ予防戦争論」とは、本書では次のように解説されています。

 「持たざる国」が「持てる国」相手に長期戦争をしても勝ち目はない。ロシア革命のように国体を護持できぬ危険も高まる。第一次世界大戦後の日本の仮想敵はアメリカ、イギリス、ソ連等の「持てる国」ばかりであって、彼らと正面きっての本格戦争を遂行する力は日本にないと断ずるよりほかはない。避戦に徹するべきである。けれどソ連とは満洲の利権を巡って衝突する可能性を否定できない。最も起こりうる戦争である。そのための万全の準備は必要だ。

 といっても日本のような「持たざる国」がソ連の国土に侵攻するなどという事態は破滅的だから不可である。防衛戦争のみにする。日本の縄張りに突入してきたソ連軍とだけ戦う。その場合、日本陸軍にとって参考になる最近の例はやはり第一次世界大戦の東部戦線だ。東部戦線でのドイツ軍以上の作戦指導と兵の戦意維持を可能とするように軍隊教育で徹底する。将校はタンネンベルクの包囲殲滅戦を学習し、兵隊には必勝の信念を植えつけなければならない。

 ソ連軍は日露戦争や第一次世界大戦でのロシア軍並みと想定する。小畑が東部戦線において肌で知ったロシア人気質の横溢した統率の粗雑な軍隊である。ソ連軍はきっと日本軍よりも遥かに大人数だろう。それでも予想通り粗雑な軍隊であれば包囲殲滅も可能なはずである。こうした条件が全部揃った限定的短期戦争だけがポスト第一次世界大戦時代に日本陸軍が行える戦争だというのが、小畑のたどり着いたところだったのです。

 小畑を実質的な産みの親とする新しい『統帥綱領』や『戦闘綱要』も局限された状況でしか活きない代物だったのです。

 小畑には、そして荒木貞夫にも、次の戦争は必ずこの形だという絶対のヴィジョンが有されていて、『統帥綱領』や『戦闘綱要』はそのために当て書きされたと考えるとしっくり来るのです。」(『未完のファシズム』p152~153)

 ここに、『統帥綱領』が出てきますが、この本は、司馬遼太郎が『この国のかたち1』「6機密の中の”国家”」で次のように紹介したものです。

 「・・・『統帥綱領』の方は昭和3年、『統帥参考』のほうは昭和7年、それぞれ参謀本部が本にしたもので、無論公刊の本ではない。公刊されれば、当然、問題となったはずである。内緒の本という以上に、軍はこの本を最高機密に属するものとし、特定の将校にしか閲覧をゆるさなかった。

 特定の将校とは、「統帥機関である参謀本部所属の将校のことである。具体的には陸軍大学校に入校をゆるされた者、また卒業して参謀本部で作戦や謀略その他統帥に関する事項をうけもつ将校をさしている。」

 ここでは『統帥参考』の成立は昭和7年となっていますが、「統帥要綱と統帥参考は遅くとも1928年頃までに皇道派の鈴木率道により成立したと考えられる」そうです。また、皇道派の面々は、その「名前に反し・・・国家主義であるが、生きている天皇はないがしろにする傾向があり、要綱のなかに軍隊の忠誠の関係も含めて天皇に触れた箇所はない」。『統帥参考』にはありますが、軍隊の統帥は総て御親裁によるものとは限らず、ある範囲は統帥補翼機関に委任される、としています。

 続いて司馬は次のように言います。

 『統帥参考』の冒頭には、「統帥権」について、「・・・之ヲ以テ、統帥権ノ本質ハ力ニシテ、其作用ハ超法規的ナリ」と規定している。超法規とは、憲法以下のあらゆる法律とは無縁だ、ということで、さらに、一般の国務については憲法の規定によって国務大臣が最終責任を負う(当時の用語で補弼する)のに対して、統帥権は「輔弼ノ範囲外ニ独立ス」と断定している。

 「従テ統帥権ノ行使及其結果ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ。議会ハ軍ノ統帥・指揮並之が結果ニ関シ、質問ヲ提起シ、弁明ヲ求メ、又ハ之ヲ批評シ、論難スルノ権利ヲ有セズ。」

 もちろん「国家が戦争を遂行する場合、作戦についていちいち軍が議会に相談する必要はない。このことはむしろ当然で、常識に属するが、しかし『統帥参考』のこの章にあっては、言いかえれば、平時・戦時をとわず、統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづけている存在だとしているのである。

・・・然レドモ、参謀総長・海軍軍令部長等ハ、幕僚(註・天皇のスタッフ)ニシテ、憲法上ノ責任ヲ有スルモノニアラザルガ故ニ・・・

 つまり、「天皇といえども憲法の規定内にあるのに、この明文においては天皇に無限性をあたえ、われわれは天皇のスタッフだから憲法上の責任なんかないんだ」としている。

 「さらにこの明文にはおそるべき項目がある。戦時や”国家事変”の場合においては、兵権を行使する機関(統帥機関・参謀本部のこと)が国民を統治することができる、というのである。「大日本帝国憲法Lにおいては、その第一条に「大日本帝国八万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって統治権は天皇にある。しかしながらこの『統帥参考』の第二章「統帥ト政治」の章の「非常大権」の項においては、自分たちが統治する、という。

・・・兵権ヲ行使スル機関ハ、軍事上必要ナル限度ニ於テ、直接二国民ヲ統治スルコトヲ得・・・

 ・・・この文章でみるかぎり、天皇の統治権は停止されているかのようである。天皇の統治権は憲法に淵源するために――そしてその憲法が三権分立を規定しているために――超法機関である統帥機関は天皇の統治権そのものを壟断もしくは奪取する、とさえ解釈できるではないか(げんにかれらはそのようにした)。

 要するに、戦時には、日本の統治者は参謀本部になるのである。しかもこの章では「軍権ノ行使スル政務ニ関シテハ、議会ニ於テ責任ヲ負ハズ」とあくつよく念を押している。

 憲法に関するこのような確信に満ちた私的解釈が、国家機関の一部でおこなわれているということを、当時、関係者以外は知らなかったにちがいない。いまふりかえれば、昭和前期の歴史は、昭和七年に成立したこの機密”どおりに展開したのである。」(上掲書p55~61)

 「統帥権の独立」は、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結時における「統帥権干犯問題」以降世間に知られるようになったものです。しかし、こうした考え方は、その二年前の昭和3年に、皇道派の理論家たち(鈴木や小畑ら)によって、参謀本部内の一部の将校だけが閲覧できる最高機密の”秘密文書”として成立していたのです。

 このような「統帥権」の解釈が当時の幕僚軍人に共有されていたからこそ、天皇の意思を無視して満州事変を起こすことができたのです。その後、皇道派は、統制派を”3月事件や10月事件で「天皇大権を私議した」との批判を繰り返しました、しかし、上述したような明治憲法における統帥権の解釈自体が、「天皇大権の私議」であって、こうした考え方は「統制派」のみでなく「皇道派」にも共有されていたのです。

 また、2の「日本がアメリカを上回る経済力をもつまで戦争しない」という考え方を採ったのが永田鉄山などの統制派だった、という分類もおかしい。これは石原完爾の考え方で、著者も、「持たざる国」日本を何が何でも「持てる国」日本にすぐさま変身させようというラディカルな野心はおそらく永田にはない。」昭和3年1月、永田は木曜会の会合で石原の、全支那を利用して「持てる国」になるという話を聞いて、「石原の議論にはおよそ必然性がない」と呆れ気味だった、と書いています。

 もちろん、永田と石原を「統制派」で括ることも無理で、永田を統制派の首領とするなら、永田は2の「戦争論」を否定していたのですから、統制派が「持てる国」との戦争を始めたとも言えません。もちろん、皇道派の戦争論は「対ソ予防戦争論」であって「持てる国」との戦争は否定していました。では誰が?というと、永田が皇道派の相沢三郎中佐に殺された後の武藤章や東条英機等ということになりますが、それは、「石原が引き起こした満州事変をきっかけとしてなし崩しに戦線が拡大した結果」という外ないものです。

 では、なぜ、このような誰も意図しなかった「持てる国」との戦争=対米戦争を日本がやることになってしまったのか。著者は、「国家としての意思決定が機能していれば、どこかでブレーキがかかったはず」である。しかし、明治憲法には、内閣の最高意思決定機関としての権限がなく、軍の統帥権がそれから独立しているため、実質的な中枢だった元老の権力が(山県有朋を最後に)衰えた後は、軍部の「下克上」に歯止めをかける人がいなくなった、といいます。

 では、誰が、こうした軍内部における「下剋上」を蔓延させたかというと、それはいうまでもなく、満州事変を引き起こした石原完爾ということになります。この本には、この事実が、酒井鎬次元陸軍中将の回想として次のように紹介されています。

 「酒井が真っ先に批判するのは石原莞爾の起こした満洲事変です。それがもたらしたものは何であったか。「持たざる国」を「持てる国」に化けさせるバラ色の未来ではなく、単に仮想敵国のひとつ、ソ連との国境線を激増させ、「持てる国」との戦争リスクを高めただけであった。酒井はそう言うのです。

 満州事変企図の一つに国防線の推進による国家安全保障の増進を欲したりとせば(中略)全く反対の結果を来す。これは幾何学的に見ても中心より遠ざかるに従ひ、円周の延長は増大するものにて、古来多くの政治家、武人の陥る錯覚にして考慮すべき教訓と信じ候。

 領土ないし勢力圏が拡大する。国境線が長くなる。しかも国境線の向こうは仮想敵国のソ連である。「持たざる国」を「持てる国」にするつもりで満洲を獲得したつもりかもしれない。ソ連と日本本国の中間の満洲を獲得することで、スペースがとれ、日本がより安全になったというつもりだったかもしれない。

 が、戦争を国家間の摩擦の極端化と解するならば、摩擦の起きる大なる場所は国境線に他ならない。国境線が長くなればなるほど、面と向かい合うところが増えれば増えるほど、仮想敵国と戦端の開かれるリスクが拡大する。「持てる国」になる前に戦争が起きる確率が格段に上がる。これが火中に飛び込むような乱暴な選択でなくて何なのか。酒井は怒るのです。

 ついで酒井は、満洲事変が石原ら関東軍によって中央の意思を無視し独断専行で行われたことを重く見ます。世間にもありがちな視点ですけれども、酒井の視点は一味違うところがあります。彼は第一次世界大戦期のフランスの政治と軍事のありさまをつぶさに現地で見聞しました。

 政治と軍事、さらに経済と社会までが一体となって強力な意思統率が行われなければ、総力戦遂行は不可能であると肌身で知りました。ところが日本の国家機構は政治と軍事をバラバラにし、また経済活動でも私権を積極的に擁護している。基本的には自由主義である。総力戦体制作りを考えるときには甚だしく不向きと言わざるをえません。

 そんな多元的でまとまりのない日本をもっとまとまらなくしたのが石原だと、酒井は舌鋒を鋭くします。石原の独断専行が結果オーライで認められたがゆえに軍というひとつの組織の統率すらも失われ、多元化が促進されてついに歯止めが利かなくなった。特に「持たざる国」が総力戦時代に対応するには一元化が不可欠だというのに、石原は逆に日本の多元化を推し進めてしまった。酒井はそう考えるのです。

 満州事変は出先当局が中央の意図に反し独断積極的に行動し、しかもこれが後日中央により是認、賞讃され論功行賞されるに及び、石原は英雄視され、これに倣はんとするもの続出(中略)

 海軍上層部が僅かに一佐官たる中原に引きずられ北海事件、海南島占領迄にずるずると進み、蘭印に手を附けんとして始めて対米作戦の必然に気付き苦悶したるは上層部の無定見、愚鈍を示すものにして、かかることは当然、始めから判りきったことにて、若しこれを予見し得ざりとせば愚鈍であり、知りつつ引きづられたりとせば、その無責任を問はるべきと存じ候。この頃になると陸軍の下剋上の風が海軍に移行したることを示すものと存じ候。そして酒井はこの角田宛書簡を石原批判の駄目押しで締めます。

 これを要するに、昭和に於ける日本の敗戦直接の近因は、実に対内、対外、政治、軍事何れの点より見るも満洲事変にあるやに感ぜられ申候。これを以て見るも石原将軍の研究は将来の課題と存じ候。」(本書p328~330)

 本書は、このような歴史の教える教訓として、「背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。・・・転んだ時の痛さや悲しさを想像しよう。そうした想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう」ということをその末尾で述べています。

 一方、その前段では、「酒井によれば、満洲事変という、将来の見通しにおいてもやり方においてもかなり乱暴な背伸びが強引になされて大きな歪みを生じ、ついにそれを補正出来なかったことが亡国の原因となるのでしょう。これは単に石原個人を責める話ではありません。酒井を支配しているのは、第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体に対する悔恨なのです。そういう感情が石原という個人を通じて語られているのです。」とも述べています。

 石原個人より、「総力戦時代にうまく対処できなかった日本のあり方全体」を問題にしようと言うわけです。つまり、本書の書名「未完のファシズム」との整合性を図ろうとしているのです。しかし、では「完成したファシズム」だったら「持てる国」との戦争を回避し得たかというと、それは、さらに悲惨な結果をもたらした可能性が大。例えば、本土決戦の遂行など・・・。それを止めるたのが、権力の集中を防ぐ天皇中心の「しらす」政治、それを規定した明治憲法体制だった、とも言えるのです。

 その「しらす」政治を理想とする明治憲法体制を逆用し、天皇の意思をも無視して軍が独断的に行動できるという統帥権の拡大解釈を梃子に満州事変を引き起こしたのが石原完爾でした。この結果、中国との持久戦争、次いで「持てる国」アメリカとの戦争をなし崩し的に始めることになったのです。そして、その絶望的な戦争の戦い方として生み出されたものが、玉砕という「死の哲学」でした。

 つまり、この「死の哲学」が先にあったのではないということ。それを生み出したもの、それは、「持てる国」との戦争を必然とし、そのためには中国の資源を共有する必要があると考え、それを実行に移すため統帥権を拡大解釈して満州事変を引き起こし、軍内に下剋上を蔓延させただけでなく、日本の政治的統一を破壊した石原完爾の個人的責任が最も大きい、ということです。さらに言えば、こうした石原の行動を皇道派も絶賛していた、ということです。

 しかし、それでは、「未完のファシズム」という書名と整合しない。そこで、酒井が指摘したような石原完爾の個人的責任を免除し、それを「第一次世界大戦のもたらした総力戦時代への日本の向き合い方全体」の問題とした。もちろん、死を美化する思想的伝統が日本にあるのは事実---そのイデオローグとしては平泉澄で十分---ですが、玉砕という「死の哲学」は悲劇的な戦争の結果であって必ずしも原因では無い、本書の無理はそこにある。私はそのように感じました。

7/14 1:45最終校正

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