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2012年9月

2012年9月28日 (金)

「保守の思想」を再点検する2――満州問題の外交的解決に当たった最後の外交官佐分利貞夫はなぜ死んだか

 尖閣諸島の国有化がなされた日9月11日は、中国の「国恥の日」=9.18柳条湖事件の起こった日の一週間前です。そんなタイミングでこの島の国有化がなされたことを批判する意見もあります。といっても、東京都知事の尖閣購入は、この島の地権者の都合で出てきたものでしょうし、これに対して政府による購入・国有化は、これを阻止するためになされたといいますから、私は、むしろ、こうした外交案件の取り扱いにおける国内調整のなさこそ、問題とすべきではないかと思います。

 ところで、この昭和6年9月18日の柳条湖事件が、中国の「国恥の日」をなっていることを、日本人としてはどう考えるべきでしょうか。いうまでもなく、日本軍は、この事件を口実に満州を武力占領したわけですが、例の多母神論文「日本は侵略国家であったか」では、この事件はスルーされています。その代わり、その前段の張作霖爆殺事件が取り上げられ、この事件の真犯人は通説に言う河本大作ではなくて、「ソ連の工作員だった」とする新説が紹介されています。

 ではなぜ、多母神氏はこのような扱い方をしたのでしょうか。私見では、満州事変を直接弁護することは困難なので、その前段の張作霖爆殺事件――この結果、満州が支那の一部であることを宣言する易幟(えきし)が行われ、日本の租借地旅順大連の回収運動が始まるなど、満州における排日運動が激化した――をソ連の陰謀とすることで、その後の満州における排日運動をそのせいにできる。そうすることで満州事変を、そうした排日運動によって生じた権益侵害に対する「報償」(相手国が条約に違反した行為をしたときそれを止めさせるために軍事力を行使すること)と位置づけることができる・・・そういうことではないかと思っています。

 その後、この事件の新解釈として、張学良本人による「親殺し」謀略説(『謎解き「張作霖爆殺事件」』加藤康男)も出されています。しかし、これを実証する資料があるわけではなく、その論証部分はほとんど著者の推理です。こんな奇説が出てくるのも、この事件があまりに”馬鹿げている”からで、これについては、この事件当時アメリカの中国駐在公使であったマクマリーは、次のように評しています。

 「分からないのは、なぜ日本人が、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な『支那浪人』の集団であったにせよ――、1928年(昭和3年
)に張作霖を爆殺したかと言うことである。

 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。張学良は危険なほどわがままな弱虫で、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と、父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱してしまって、あぶはち取らずになっていた。現状でのたよりにならない不安定要因が彼であった。

 日本人と張作霖との関係は、全体的にみて満足できるものではなかったが、どうしようもないというわけではなかった。これに反して、張学良との関係を保つのは、日本にとってたぶん堪えられないものであったろう。だから彼が国民党へ忠誠を表明した時、彼が、満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になると、日本人が考えたのも十分理解できる。」(『平和はいかに失われたか』ジョン・アントワープ・マクマリーp178)

 つまり、日本にとって張学良は「たよりにならない不安定要因」であって、関東軍が張作霖を殺せば、日本はその後継者である張学良を相手にしなければならなくなる。そして、日本は張学良にとって「親殺しの仇敵」となるのであるから、彼が、「満州での日本の既得権や支配力を攻撃してくる中国の革新勢力の先鋒になる」ことは当然予測されたはずだ、というのです。

 では、この時、この事件の首謀者であった河本大作等は何を狙っていたかというと、これを機に日本が武力を発動して満州における日本の支配力を強化できれば、張学良を御すことは簡単だと考えられていたのです。これが、張作霖爆殺事件に関する従来の定説ですが、しかし、こうした理解は必然的に、この事件はプレ満州事変だったのではないかという疑念を生みます。そうすると、満州事変を、次のように”同情的”に解釈することが難しくなる。

 「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」災いだと、我々は解釈しなければならない。

 人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現のためには向こう見ずに暴力に訴え、挑発的なやり方をした。そして力に訴えようとして、力で反撃されそうな見込みがあるとおどおどするが、敵対者が、何か弱みのきざしを見せるとたちまち威張りちらす。そして自分の要求に相手が譲歩すると、それは弱みがあるせいだと冷笑的に解釈する。

 中国人を公正に処遇しようとしていた人たちですら、中国人から自分の要求をこれ以上かなえてくれない″けち野郎”と罵倒され、彼らの期待に今まで以上に従わざるを得ないという難しい事態になってしまう。だから米国政府がとってきたような、ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策は、ただ幻滅をもたらしただけだった。

 中国国民と気心が合っていると感じており、また中国が屈従を強いられてきたわずらわしい拘束を除こうとする願いを一番強く支持してきたのは、外国代表団の人々であった。この拘束とは、中国が二、三世代前に、国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否したがために、屈従を余儀なくされてきたものであった。彼らの祖父たちが犯したと同じ間違いを、しかもその誤りを正す絶好の機会があったのに、再びこれを繰り返すことのないよう、我々外交官は中国の友人に助言したものであった。

 そして中国に好意をもつ外交官達は、中国が、外国に対する敵対と裏切りをつづけるなら、遅かれ早かれ一、二の国が我慢し切れなくなって手痛いしっぺ返しをしてくるだろうと説き聞かせていた。中国に忠告する人は、確かに日本を名指ししたわけではない。しかしそうはいってもみな内心では思っていた。中国のそうしたふるまいによって、少なくとも相対的に最も被害と脅威をうけるのは、日本の利益であり、最も爆発しやすいのが日本人の気性であった。

 しかしこのような友好的な要請や警告に、中国はほとんど反応を示さなかった。返ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放をかちとらなければならないという答えだけだつた。それは中国人の抱く傲慢なプライドと、現実の事態の理解を妨げている政治的未熟さのあらわれであった。

 このような態度に対する報いは、それを予言してきた人々の想像より、ずっと早く、また劇的な形でやってきた。国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となったように見える。破局をうまく避けたかもしれない、あるいは破局の厳しさをいくらかでも緩和したかもしれない国際協調の政策は、もはや存在していなかった。

 協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである。」(上掲書p180~182)

 これは、先に紹介したマクマリーによる満州事変の解釈ですが、いずれにしても、当時の日本が中国や満州との関係において、破局的な状況に直面していたことは事実のようです。では、なぜこのようなことになったか。その原因の最大のものは、ワシントン体制下における日・米・英の協調体制が壊れたこと。岡崎久彦氏は、これを幣原喜重郎が日英同盟を廃棄したことや、第二次南京事件の際に、米英と共同して中国を制裁する案を、彼が拒否したこと等を指摘しています。

 これに対してマクマリーは、ワシントン体制崩壊の原因を、中国人自身の「外国に対する敵対と裏切」に求めています。そして、「国際関係における平等と責任という道理にかなった規範に従うことを尊大な態度で拒否」する中国人を厳しく批判すると共に、「米国政府が当時中国に対してとった「ヒステリックなまでに高揚した中国人の民族的自尊心を和らげようとした融和と和解の政策」も、これを助長したと批判しています。

 そして、これらの要因のために、日本が従来取ってきた「国際協調政策」は「中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人と我々アメリカ人に無視され」た。その結果、「東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって」満州事変が起こされ、「国民党の中国は、その力をくじかれ、分割されて結局は何らかの形で日本に従属する運命となった」と・・・。

 ところで、ここで日本が取った「国際協調政策」とは、いうまでもなく幣原外交のことですが、実は、そうした日本の対米英外交の基本姿勢は、田中内閣においても継承されていました。しかし、日支関係においては、三度にわたる山東出兵や張作霖爆殺事件に見るように、支那・満州における日本の権益を武力で守ろうとする動きがあり、そうした考えがが若手幕僚軍人等に共有されるようになっていたのです。

 マクマリーは、こうした日本軍内部の動きについてはよく知らず、そこで、その動きを「受け身的」に解釈していたようですが、それでも、先に紹介したように、なぜ日本軍が張作霖爆殺事件を引き起こしたか、ということについては、理解を絶することとしていました。

 こうした考え方を日本の指導者達も持っていたとすれば、当然、この事件の関係者は厳罰に処せられ、その真相も公表され、関係国への謝罪もなされたはずです。しかし、事実は、この事件の真相は不明とされ、犯人は単なる行政罰で済まされた。とりわけ注目すべきは、この事件の主犯河本大作は軍内で英雄視され、その後も、蔭で関東軍に重用され続けたのです。

 ここに、欧米と日本の考え方の違いが現れているわけですが、では、なぜ日本はこの時、欧米と同様な考え方ができなかったのでしょうか。それは、もし、この事件の真相が証され、軍の関与が明白となれば、満州問題の武力による解決は二度とできなくなるからです。従って、軍は総力を挙げてその真相公表を阻止した。そのため、田中首相は天皇に食言を叱責され、退陣を余儀なくされた・・・。

 次いで登場したのが、民政党の浜口内閣で、その外務大臣には再び幣原喜重郎が就きました。この結果、日本外交は「国際協調外交」に復帰することとなり、中国もこれを歓迎しました。そして、その交渉担当者として選ばれたのが佐分利貞夫で、彼は駐支那公使として満州問題の外交的解決を目指しました。ところが、彼が中国との予備交渉を終えて帰国し、本国政府との打ち合わせを済ませて任地に帰ろうとしたその前日、佐分利は、箱根の富士屋ホテルで、謎の死を遂げました。

 死因は拳銃自殺とされましたが、その前後の状況から見て自殺とは到底考えられず、また、手に持っていた拳銃は軍用の大型拳銃だったのに、その入手経路も明らかにされないまま自殺と発表されました。故に、”怪死事件”とされるわけですが、この佐分利貞夫が、その死の直前、交渉相手である国民政府の外交部長王正廷に、次のような内容の書簡を送っていたことが判明しました。

(佐分利公使が王部長に送られたる最後の所信の内容を知りたる経過)
於南京 板坂留一

 「佐分利公使が逝去を入電せし後五日にして一封の親展書が王部長の官舎に配達された。王部長はこれを開封するや極度の懊悩を来たし一日公務を廃し客にも接せざりしと。
次で後十日目自己の腹心国民政府外交部亜細亜司第一課員馬長亮辛楊藻の両人を官舎に呼び金庫より公使の書信を出し口頭にて翻訳を命じ記録を作らしめなかった。

 終りに王部長は厳命して曰わく之は極秘にせよ他に漏らすことあらば厳罰に處す可しと。一言一句譯語を述べたるに王部長は沈痛なる嘆声を放ち・・・「ウーウ」とうなって頗る感激に打たれたと云う。当時昨年十二月消極的態度を取り辞をほのめかし外交部各員に結束せしめたることがある。之もその一原因だと云うて居たので余程重大な手紙であったらしい。以上の談片は私が興味を以て或は故意に尋ねた譯でなく偶然日支交渉の行悩みを嘆したる際両君から佐分利閣下が居たならなーと語ったので反問して問うたる場合に秘かに以上を述べたるものである。

 全文は二人が記憶して居ると云うから更に機会を見て申し上げたい。芳沢公使を単に公使と云い佐分利公使は閣下と敬称した。

 佐分利公使が王外交部長に致された書信の概略
冒頭に兄が読める丈理解しうる丈読め決して第三者に示してはならぬと書き出され
儒堂兄(王部長の号) 署名

 自分は貴国の革命工作の予測に対しては十年前より十分考慮し予測もしてきたことがある。
 現在の陛下に対し奉り御進講申し上げたることさえもある。自分は非常に希望と期待を以て刻々来たる貴国の情報に目を通し研究した。
 今回貴国に任を奉じ赴くに際し南北を通して革命後の実際その現状又は対内的の施設種々なる状況を見るに自分の監察したる結果は全々自分の予測を裏切られて居ると申し上げたい。

 我等外交官の立場としては相互の円満なる提携之を主としなければならぬと思う。それを考える前に故原敬公使から教へられた対支政策を回顧したい。其対支方針と我か外務省の対支方針は完全に一致して居る(詳細に認めてある)

 之は古今を通して動かすことのできない方策だと確信する。此の主義に依って我か外交当局が貴国に臨んだことは我々は如何なる輿論に対しても是なりと信ずる。其結果から見ればたとえ一時でも上陛下の聡明を掩い奉り下国民に対し何を以て謝してよいか自責の念に堪えない。

 日本上下の輿論は或は今日迄或は現在信じて居る対支政策を認めなくなる時期が来らんと想像さる。
 我国には他に伝統的の政策がある。やゝもすれば我が朝野の輿論は将に此の政策に共鳴せんとする傾向がある。之は一面貴国の当局に於て十分なる責任を負はるゝ必要があると思う。

 貴国が激越な対外政策は極めて危険なもので又拙劣なるやり方である。貴国をして反て亡国に導く様なものであると思う。
 日本に対する貴国の政策は非常に誤って居る。特に日本を敵国とする遠交近攻の政策は東洋平和の為め不利である(理由は詳細に述べてあると云う)。

 貴国は一日も早く内部の不安の状態を一掃し内部的には団結を欠いて居るから此方面も解決を急ぎ改めなければならぬ。外部からは有形無形に列強の圧迫があり煽動がある。之は一に貴国の内部に待つことである。

 列国は貴国に対して平等の精神を以てして殊に平和に関しては寧ろ誠意を以て解決してやらねばならぬ。互譲を原則として貴国の新政府建立を幇助しなければならぬ。
従来列強が貴国に臨んだ態度を見るに各々本国の利益を求むるに急で互に反間苦肉の策を弄して居る。
一方自分の関係する或は醸成せる支那紛乱の局に対しては冷笑こそすれ毫も責任を負うとはしない。
ただ従来獲得せる所謂既得権の蔭にかくれて赤い舌づつみを打たんと夢見つつある現状だ。

 革命完成後の貴国の政策と内部の状態は悉く自分の期待を裏切って極めて悪化して居ることを申し上げたい。
国民政府は之に対し充分なる考慮と責任を負わねばならぬ云々

 譯者はこんな簡単なものでなく極めて詳細に懇切を以て書いてあると云う。以上は座談の一班に過ぎないことを付記す。」

 こうした、佐分利公使による王正廷に対する批判は、先に紹介したマクマリーの中国批判とほぼ一致しています。ただ、佐分利の場合は、日本陸軍の伝統的大陸政策の存在や、それに共鳴する国内世論の動向を熟知していて、それが支那の激越な対外政策によって力を得ていること。そのため、外務省が故原敬以来進めてきた互恵平等の対支政策がとれなくなっていると強い危機感を抱き、支那政府に対して警告を発していたのです。

 というのは、佐分利公使は公使就任後の独自調査で、自分が進めようとしている「互恵平等」の対支外交政策が、軍との関係でほとんど調整不能なレベルに達していることを知ったのです。それは死を覚悟させる程のものでした。そこで、交渉相手である王正廷に対して、上記のような警告を発したのです。こうした外交官としての佐分利の行動を見る限り、佐分利が絶望して自らの命を絶ったとは到底思われません。

 松本清張は、その著『昭和史発掘』「佐分利公使の怪死」の末尾に、当時の警視総監であった丸山亀吉の言葉を印しています。「あの事件の真相は、日本に国体が変わったときに初めて判る」。おそらく、その死は、幣原外務大臣の下で進められることになった対支「互恵平等外交」が進捗し、日支関係が改善し満州問題が外交的に解決されることを、なんとしてでも阻止しようとしたグループによる犯行だったのではないでしょうか。

 というのも、この頃、幣原外務大臣自身は「ロンドン条約」締結問題にかかりきりで、対支外交交渉は佐分利公使に一任していました。しかし、その佐分利が死んだことで、幣原の対支外交は大きく躓きました。その後、幣原は、軍と結託した政友会の森格等による「統帥権干犯」の執拗な攻撃を受けました。その間、首相浜口雄幸の暗殺、その後、三月事件、満州事変、十月事件といった軍のクーデター事件に相次ぎました。

 こう見てくると、こうした軍の行動の根底には、ある強固な意志が一貫して流れていたことを看取しないわけにはいきません。では、それは一体何だったか。端的に言えば、それは、満州問題を軍事力によって一気に解決すること。それによって日本の人口問題、資源問題、経済問題さらには安全保障問題、そして軍人の処遇問題も抜本的に解決できること。それは満州人、ひいては中国人のためにもなる、というものでした。

 そして、こうした軍の動きの背後には、こうした考え方に同調し、或いはその力を利用して政権奪還を計ろうとする政治家たちがいました。それが功を奏して政友会田中義一内閣が誕生し、その結果、森恪を中心とする、軍と連携した対支積極政策が推し進められたのです。それが第一次山東出兵、東方会議、第二次山東出兵となり、そして済南事件を引き起こし、その結果、日本は支那の統一を妨害する国と見なされるようになりました。こうして、それまで英国に集中していた反帝・反植民地運動は一気に日本へと向かうことになったのです。

 さらに、それに引き続いて、張作霖爆殺事件が引き起こされ、満州の張学良まで敵に回すことになりました。本来そうした行為は、彼らの大先輩である陸軍大将田中義一(首相)に対する叛逆ですし、また、ようやく田中が張作霖を説得してまとめた満州経営計画を台なしにするものでしたから、厳罰は当然でした。しかし、軍はこれに反対し、事件の真相が明るみに出ることを総力をあげて阻止し、その裏で、再度の「満州武力制圧」計画を、周到に練り上げて行きました。

 では、こうした軍内の「一般意志」を抑え込み、それを政府のコントロール下に置くことが、当時、誰かにできたでしょうか。政治家は、彼らの不満を利用して政権奪還を計ろうとし、かえって”ミイラ取りがミイラ”になった。産業界はこうした軍による領土拡張政策に便乗しただけ。また、ようやく普通選挙権を手にした国民そしてマスコミは、金権腐敗の政治家よりも、清潔で純粋な軍人たちを信じた・・・。

 こう考えると、この時、軍の暴走を抑えることができたのは、軍内部の、自己抑制的で合理的な判断のできる人材だけだったように思われます。この点、岡崎久彦氏が指摘するように、もし日英同盟が継続されていたら、これら若手のエリート軍人たちの教育訓練は、ドイツではなくイギリス軍やアメリカ軍でなされていたでしょうから、彼等が非合理的な軍の暴走を食い止める役目を果たし得ていたかもしれません。

 しかし、それは所詮他力依存の願望であって、そこで、日本人自身の責任を追求するなら、私は、やはり、国の進路決定に最終的な権限と責任を有するのは政治家ですから、日本の敗戦責任は、やはり日本の政治家自身が負うべきだと思います。それと同時に、その政治家を選んだのは、マスコミを含めて日本国民ですから、その責任を「一部軍国主義者」のみの責任に帰すことはできないと思います。

 とはいえ、日本の外交が幣原外交の水準に達していたことも紛れもない事実です。それが日本国民に受け入れられなくなった理由としては、それがあまりに合理的かつ理想的であって、マクマリーが紹介したような中国の現状に適切に対応できなかったから、とされます。しかし、それを言うなら、そのアンチテーゼとして実行された田中積極外交は、こうした状況にどのように対処したか、その結果はどうだったかと問うべきだと思います。

 とんでもありませんね。それは、幣原外交によって積み上げられた日本外交に対する信用基盤を、一気にぶち壊し、とりわけ日本と中国・満州との関係を仇敵関係にしただけでした。さらに、張作霖爆殺事件の真相もみ消しによって、日本外交の国際的信用は地に落ちました。こうして傷ついた日本外交の立て直しを図ったのが、第二次幣原外交であって、しかし、それも、佐分利公使の死や幣原に対する執拗な統帥権干犯攻撃によって、再び挫折することになったのです。

 こうした事実経過を無視し、張作霖爆殺事件の実行犯が河本大作であることは間違いないのに、それをソ連の工作員あるいは張学良の陰謀とすることで、日本をその被害者に見立てようとする・・・、それによって、満州事変を、日本の「報償」(相手国が条約に違反した行為をしたときそれを止めさせるために軍事力を行使すること)行為に位置づけようとする。そうした歴史解釈のトリックを、いわゆる「保守派」と称する人たちは行っている。

 重ねて言いますが、そうした歴史解釈は、田中積極外交の惨憺たる失敗を糊塗し、その後満州において高まった排日運動の責任を、幣原外交に転嫁しようとするものです。実際のところ、軍は、そうした排日運動の高まりを口実に満州を武力占領する機会を狙っていましたし、機会を得て満州を軍の統制下に置くことができれば、そこを基地として日本の国家改造を図ろうとしていたのです。

 こうした明白な事実を看過するようでは、それを真の「保守思想」と呼ぶことはできません。また、そんなことでは、中国や韓国による、内政干渉・主権侵害という外ない一方的な歴史認識の強要に、有効に対処できるはずがありません。まして、日本人のためのより客観的で生き生きとした歴史認識を作りあげることなど到底できません。真の保守思想とは何かを、今一度考え直し、堂々たる議論を組み立てていただきたいと思います。

最終校正9/28 8:30 

2012年9月18日 (火)

「保守の思想」を再点検する1――日本には明治期も戦後期も真の「保守主義」は根付かなかった

 民主党政治の惨憺たる失敗で日本外交のあり方がクローズアップされています。その嚆矢となったものが、鳩山元首相の沖縄米軍基地国外or県外移転公約とその撤回によって混迷した日本の安全保障問題です。次いで菅内閣のもとで起こった中国漁船衝突事件を契機とする日中間の尖閣諸島領土問題、さらに、野田内閣のもとで起こったロシアのメドベージェフ大統領国後島訪問後の北方領土問題、そして、李明博大統領の竹島上陸を契機とする竹島領有権問題と「従軍」慰安婦問題です。

 従来、日本の政界では”外交は票にならない”と言われてきました。しかし、これら諸隣国のエゴイスティックな立ち振る舞いや言動は、日本人の国際平和に関する戦後的幻想を覚醒させるものとなるでしょう。今後、沖縄の米軍基地の問題は、中国の軍事的膨張への警戒心の高まりと共に、日本の安全保障を前提とする議論へと変わっていくと思います。また、韓国との間の竹島領有権問題や、「従軍」慰安婦問題の異常性は、日本人に従来の歴史観の再検討を迫るものになると思います。

 言うまでもなくこうした状況は、日本人に国家意識をしっかり持つことの重要性を教えるもので、このことは自ずと憲法改正論議につながっていくと思います。また、従来の日本人の近現代史観は、多分に戦勝国の都合で作られたものですから、今後、日本人の間に、自分たちの目で見た、より客観的な歴史認識を持とうとする動きも強まってくると思います。しかし、中国や韓国は、こうした日本の動きに激しく反発し、”右傾化・軍国主義化”という言葉を投げつけてくるに違いありません。

 その際、その主要なターゲットとなるのは、私は、日本の「保守の思想」ではないかと思います。しかし、幸いなことにというべきか、冒頭に紹介したような事態は、民主党政権下で起こったことなのです。周知の通り民主党政権は、日、米、中の関係を「正三角形」といい、アジア共同体構想の下、中国とのより緊密な関係を樹立しようとしました。また、韓国との関係でも、日韓併合に対する贖罪意識から、外国人参政権の問題や慰安婦問題などで韓国に譲歩する姿勢を示していました。

 にもかかわらず、というか、それゆえにというべきか、冒頭に紹介したような思わぬ事態が次々と発生したのです。これに対して民主党は、かっての自民党の現状維持的対応とは異なった、ある意味でより強硬な対応策を採りました。尖閣での中国漁船衝突事件では、漁船の船長を国内法で裁くと言い、中国に脅迫されると腰砕けとなり、処分保留で船長を釈放しました。竹島の領有権問題では、李明博大統領の竹島上陸を契機に、日本はその領有権を主張して国際司法裁判所に提訴するとしました。

 また、慰安婦問題については、菅内閣当時、日韓併合100年に合わせて「首相謝罪談話」を発表したにもかかわらず、2011年12月14日には、韓国の日本大使館前に慰安婦像が設置されました。さらに、李明博大統領は、自身の竹島上陸について、それを日本政府が慰安婦問題に積極的に対処しないことの”いらだち”の現れとしました。こうした韓国の慰安婦問題についての異常な執着に、さすがに民主党内にも、松原議員のように「河野談話」の見直しを主張する者もでています。

 この「河野談話」が如何なるものであったか、ということについては、前稿「竹島、従軍慰安婦問題から私たち日本人が学ぶべきこと」で詳述しました。要するに、”日本軍や官憲による慰安婦の強制連行を証明するものはなかった”が、当時の韓国が日本に併合されていたという状況を考慮して、日本政府の責任を大枠で認めたものでした。これは自民党宮沢内閣下の出来事ですが、民主党政権下でも、これと同じことが繰り返されたわけです。ここで民主党も自民党と同じ立場に立ちました。

 これらのことは、日本にとっては、従来、国民間で分裂してきた国家観や安全保障観を一致させる上でも、さらには自虐史観を克服する上でも、一つの貴重な経験となったのではないかと思います。この意味では、自民党から民主党への政権交代は、一定の意義があったということができます。そこで問題は、この日本人の国家観や安全保障観、さらには歴史観が今後どうなるかという問題ですが、民主党の失敗がすでに明らかとなった以上、次に問われるのは私は「保守の思想」ではないかと思います。

 そこで以下、「保守の思想」とはそんな思想をいうのか、ということについて考えて見たいと思います。

 とはいったものの、この「保守の思想」というのは、日本では、それをはっきりしたイメージでもって具体的に語ることは大変困難なのです。これは、「見方によってはたんなる反動のように思われたり、もしくはむしろ自由主義者に見えたりすることが多い。そのいずれでもないとしても、保守と呼ぶよりは、単にナショナリストと名づけたほうが余程ぴったりすると思われることも多い。」と橋川文三はいっています。(『保守の思想』「日本の主主義の体験と思想」)

 さらに、このように「保守の思想」が曖昧であるということ、それ自体が、「日本の近代思想史上の一つの問題と見てもよいであろう」と指摘しています。

 では、ヨーロッパにおいては、この「保守の思想」はどのようなものと考えられているのでしょうか。これを、「保守主義者」エドマンド・パークの定義によって示せば、

 「それは第一につねに〈現状のなかに〈守るべきものと〈改善すべきものを弁別し〈絶対的破壊の〈軽薄〉と〈一切の改革をうけつけない頑迷〉とをともに排除しようとするものであり、第二に、そのような〈保守と改革〉とにあたっては〈旧い制度の有益な部分が維持され〉、〈改革〉によって〈新しくつけ加えられた〉部分は、これに〈適合するようにされるべきであり〉、全体としては、〈徐々とはしているが、しかし、きれ目のない進歩が保たれることを政治の眼目とする」(小松茂夫「保守の価値意識」、岩波講座『現代思想v』所収)ということになります。

 つまり、ここでバークが言わんとしていることは、「凡そ人間の進歩ということは、決してある個人の頭脳から人為的に作り出された「省察」によって導かれるのではなく、「全体が一時に老年・中年・青年であることは決してなく、普遍の恒常性のもとで、不断の衰退・没落・革新・進歩というさまざまな過程をとおってすすんでいく」ような、自然な歩みにしたがうものである」ということなのです。

 では、この保守主義の対立概念である進歩主義とはどのようなものかというと、これをバークが生きた時代に即して言えば、

 「フランス革命の理念は、まさしくそのような自然の「すばらしい英知」を無視し、人為的な「機械学的哲学の原理」(=啓蒙的合理主義)によって、社会の一切を一挙に改革しようとするものであった。それは「じぶんたちにぞくするすべてのものをけいべつすることからはじめ」、「すべての先行者とすべての同時代者をけいべつすることをおしえ、かれらじしんをけいべつすることをさえおしえて、ついにはかれらがほんとうにけいべつすべきものとなる点にまでみちびくようなとほうもない優越な思索」の結果として生じたものであった。」ということになります。

 これは保守主義の立場からする進歩主義=革新思想の批判ですが、逆に進歩主義の立場からすれば、

 「保守主義はつねに直接の個々の場合から出発し、自己の特殊な環境を越えてその地平を拡大することはない・・・従って本来、その生きている世界の構造を問題にしようなどとはしない。それに対して、総ての進歩的行動は、つねに可能なるものの意識によって生きており、与えられた直接的なるものを、その体系的な可能性において捉え直すことによって超越する。それは具体的なるものとの闘いにおいて、別の具体的なるものをそれに代えようとしてではなく、別の体系的な発端を求めて闘うのである。」(マンハイム)ということになります。

 そこで、こうした保守主義の考え方が、日本近代史においてどう扱われたかを見てみると、〈保守〉と〈反動〉のカテゴリーがすでに明治中期頃から癒着して使われており、そのため「今日まで保守がおおむね自称として通用せず、およそ実際上自由主義でも進歩主義でもなく、むしろ反動の傾斜の大きい政党までが〈保守〉の名を敬遠」するような状態なのに加えて、「大正末期以降マルクス主義の急速な普及のためにますます保守反動という一括した使い方と考え方が定着した。」(「反動の概念」丸山真男)というのです。

 こんなわけで、日本には保守主義が知的及び政治的伝統としてほとんど根付かず、そのため、保守にしろ革新にしろ、その内在的な思想的発展がほとんどできませんでした。そもそも「保守」とは、先のバークの定義によれば、権力の発動形態としての「反動」とは結びつかないのですが、明治の近代化=西欧化が明治政府によって啓蒙的・権力的に押し進められたために、あくまで「進歩」を歴史や伝統の発展形態として捉える保守の立場が、後ろ向き=反動という言葉とセットでイメージされるようになったのです。

 というのは、明治においても「その過去は・・・単に否定さるべきものとしかみなされず,逆に未来は、アプリオリに有望な価値にみたされているとされていた」からです。ベルツの日記には、この時代の日本の知的ムードについての驚きが、次のように語られています。

 「・・・今日の日本人は自身の過去については何事も知ることを欲してはいない。・・・〈何もかも野蛮至極であった〉と一人が言った。他の一人は、余が日本の歴史につき質問した時に、明白に〈我等は歴史を持っていない。我らの歴史は今から始まるのだ〉と叫んだのである。」

 これと全く同じことが、戦後においても繰り返されたことは言うまでもありません。この時は、敗戦という現実の中で、占領軍の軍政統治の必要からも、また戦勝国の立場からも、過去の日本の歴史は全否定され、未来は、アメリカ民主主義(あるいはスターリニズムあるいは毛沢東主義あるいは人権思想など)をモデルとして、ゼロから構築されるべきものとされたのです。

 しかし、こうした歩みは悉く失敗し、これらのいずれの主義・思想も、民主党政権下における内政・外交のあらゆる局面において、その虚構性と無知・無力性が暴露されることになりました。かといって、こうした民主党の思想的崩壊によって、保守を自認する自民党の支持率が向上したかというとほとんど増えない。それは「真の保守」ではないからだ、ともいわれますが、ではその「真の保守思想」の中身をよく見ると、単なる「反動」の域を出ないものが多いように思われます。

 それでは、日本における真の「保守の思想」とはどのようなものを言うのでしょうか。残念ながら、明治維新の時も、敗戦後も、日本における真の「保守主義」の思想的立場は確立されなかった。それ故に、真の「進歩主義」も生まれなかった。おそらく両者は、前者を基底としつつも、それを相克せんとする「進歩主義」との葛藤関係で捉えられるべきものでしょうが、いずれの立場においても、その思想形成が、その国あるいは民族の過去の歴史や伝統と切り離れたところで可能となるはずはないのです。

 つまり、真の「保守の思想」とは、自らの歴史・伝統に立脚し〈守るものと改善すべきものを弁別〉するとともに〈軽薄と頑迷を排除〉し、改善すべきものを守るべき伝統に適合させていく思想なのですが、そうした強靱な思想的伝統は日本には定着しなかったのです。とはいえ、そうした思想を体現した人物がいなかったわけではなくて、そうした時代情況にありながらも、敢然と「保守の思想」を体現した「知的巨人」も少数ながらいました。上掲の本には、三宅雪嶺、徳富蘇峰、柳田国男、津田左右吉、鈴木大拙、柳宋悦、唐木順三などが紹介されています。

 そこで、その「保守の思想」とはどのようなものかを、より判りやすく知ってもらうために、その「保守の思想」を代表する一人、津田左右吉の言説を紹介したいと思います。もともと津田は当時進歩派の歴史家と思われていて、その古代史研究の著作は戦前発禁処分を受けたのですが、戦後、天皇と皇室についての言説(天皇は神であられたとか、政治上の絶対権力を持ていたとか、軍国主義の思想と本質的に離るべからざる存在であったなど)は事実に基づかぬ虚偽であるといい、それを安泰にしその永続性を確実にするのは「国民みずからの愛の力」と説いた人物です。

津田左右吉「日本歴史に関するいわゆる知識人の知識」

 「日本の進むべき新しい道を開き新しい日本を作ってゆくについて深く考うべき一つの問題がある。今の日本人は世界の文化の中に生活する一国民としてその世界の文化を進めてゆく任務をもってい、そうしてその世界の文化の要素としてはヨウロッパに発達したものの多いことは、いうまでもないが、この書の第三章で考えておいた如く、それには大なる欠陥がある。それと共に日本人は、世界人でありながら、どこまでも日本人であって、特殊の風土に生い立ち特殊の歴史によって養われて来た特殊の生活をしていることによって大なる制約をうけると共に、そのことがまたヨウロッパ人やアメリカ人とは違った特殊の文化をつくり出すはたらきをもする。

 だからこれから後に日本の進んでゆく道は、ヨウロッパやアメリカの文化の世界にますます深く入ってゆき、従ってまたそれを日本人の生活に包みこんでゆくばかりでなく、日本人のもっている、それとは違った、精神をそれに注入し、そうしてそれを超克してゆく一面も、その道に無くてはならぬ。どうしてそういうしごとをしてゆくかは、むつかしいことであって、メイジ時代から今日まで断えず国民を悩まして来た問題であるが、それができなくては、世界に於ける日本人の独自の地位も無いことになり、世界の文化に日本人の寄与し得るものを造りだしてゆくこともできない。そうしてそれは日本人の覚悟次第努力次第でできないことではない。

 敗戦以来、日本の一部の知識人が日本人としての自信を喪い、何ごとにつけてもヨウロッパやアメリカやまたは世界に於ける異様な存在としてのソ連に追従するように国民を引きずってゆこうとしているのは、みずから侮ることの甚しきものであって、そういう考が国民のすべてにゆきわたるようになるならば、日本は精神的に自滅してしまう。みずから侮るものは人これを侮る。日本は世界から侮られる外は無い。そうして世界から侮られることがまた日本人のみずから侮る気風を増長させる。

 幸に国民のすべてが上記のように考えているのではない。明かに意識していないにせよ、日常の生活の上にそれはおのずから現われている。それを明かに意識させるには、世界の諸国民の生活の実相とその歴史的由来とを知らせると共に、日本人みずからの歴史に関する正しい知識をもたせることが必要である。

 過去の生活を知ることは現在の生活を知ることであり、現在の生活を知ることによって未来にどうそれを進めてゆくべきかを知ることができる。生活は現在のうちから現在とは違った未来を作り出してゆくことであるが、その現在は過去となった昔からの歴史の成果であり、過去の生活がいろいろの形で現在の生活に内在している。それが現在の生活を制約し従って未来の生活を制約するが、生活は自己を新しくしてゆくことであるから、そういう制約の下に生活するその生活が現在を新しくし、従って新しい未来を作ってゆくことなのである。

 だから日本人が日本人自身の歴史に関心をもたず、或はそれについて誤った知識をもつということは、未来に向って新しい生活を創造してゆく力を弱め、そのはたらきを鈍らせ、またはその方向を誤らせるものである。日本人は深くこのことを考えねばならぬ。学校に於ける歴史教育の重要なる所以もそこにある。」

 津田左右吉は、このように「保守の思想」の基本的考え方を明らかにした上で、日本人の改善すべき点を次のように述べています。

一、今のことでも昔のことでも、事実をしっかり突き止めてそれに基づいて物事を考えようとはせず、世間でいいふらされていること、その多くはジャーナリズムの上に絶えず現れるまちがった記事や言説やまたは故意の宣伝やによって与えられたことであるが、そういうものをそのまま受け入れ、それが果たして事実であるかどうかを批判する用意がないということ。

二、一般的に物事の考え方が正しくないということ、その一つは、人の生活には多方面があって、国民としての生活も社会上の現象も、その多方面のことの複雑な働きあいによって成り立っているのに、その内の一面のみを見てそれが全体であるように思うこと。

 例えば、
・経済の働きが国民生活の全体であるとする考え方
・日本をアジアの一国と見るようなこと
・国民生活の全体について統一した見解を持とうとしないこと
・具体的な生活を具体的な生活として見ず、何事も概念的に割り切って考えること
など。

三、また、思想的傾向としては、
・自己の自己に対し全体としての国民または社会に対する責務の念に乏しいこと
・国民生活社会生活の内部に存する伝統への愛着のないこと。そのため、伝統に含まれている人間的情味とその美しさとを感知することのできない。
・「若い世代」が「年取った世代」「古い世代」のものを軽侮する気風のあること

 こうした思想的傾向は、「終戦の直前において、当時日本との間に締結せられていた中立条約を一言の交渉もなく廃棄することを予告し来たり、終戦の当時には、日本がポツダッム宣言を拒否したという無根の言を理由として宣戦を行い、満鮮方面の我が軍に攻撃を加えたのみならず、手あたり次第に捕虜として運び去った軍人及び同地方の在住していた一般日本人に対して、暴虐非道の限りを尽くしたソ連の行動について、日本人が憤怒することを忘れ、世界の世論に訴えてそれを難詰することもせず、日本人の正義感を政党に主張しなかったこと」に現れている。・・・

 「日本の伝統を傷つけ誇りを傷つけ国家を傷つけたこと、ソ連に対する当時の日本人の態度より甚だしきものは、これまでの史上にまだ一度もなかったのではないか。」

 また「共産主義国のシナに対してもまた日本人の態度はあまりに卑屈である。いわゆる中共人が自らその国を中国と呼んで日本を夷狄視する旧時の陋習を脱しないのに、日本人がそれを甘受しているのも、その一つである。(中華民国人に対しても同様に考えるべきである。)シナ人は日本人に対しては、今なお中華意識を保持しているが、いわゆる中共人はそれに加うるにさらに戦勝国を以て日本に臨まんとしているようにさえ見える。日本人が彼らをしてその非理なることを悟らせるようにしないのは、やはり卑屈な態度であろう。」

 この津田の文章は昭和27年に書かれたものですが、こうした津田の指摘した戦後日本人の問題点が、今日も少しも改善されることなく残っていること。その根本原因が、戦後の日本人が自らの祖国の歴史・伝統・文化に対する誇りを失ったことにあることは言うまでもありません。

 では、そうした卑屈な考え方をどのようにしたら克服できるか、ということですが、それは、津田左右吉も言うように、この国の歴史教育を国民が自らの視点で学び直すことから始めるほかないと思います。そこで、私自身は、昭和史に関心をもって勉強してきましたので、次回以降、この昭和史についての「保守」派の見方を紹介しつつ、私見を申し述べたいと思います。私は昭和史理解のキーポイントは、幣原外交の挫折をどう解釈するかにあると思っていますので、この点にポイントを絞って論じてみたいと思います。 

 

2012年9月 3日 (月)

竹島、従軍慰安婦問題から私たち日本人が学ぶべきこと。

 私が中高生の頃、竹島付近で日本人漁師が拿捕・抑留されたり銃撃され死亡したりするニュースをよく聞いたものです。(1952年李承晩ラインの一方的設定から1965年の日韓基本条約までの間、日本漁船328隻が拿捕、日本人44人が死傷(うち5人が死亡)、3,929人が抑留された)最近では、ロンドンオリンピックのサッカー三位決定戦で、韓国が勝利した後のパフォーマンスで、韓国のMFパク・ジョンウが「独島はわが 領土」とのプラカードを掲げた問題がありました。

 なぜ、韓国人はたかが竹島問題であんなに異様なほどエキサイトするのだろう?と不思議に思っていましたが、8月24日のフジテレビプライムニュース「竹島、尖閣、北方領土、日本外交は機能不全?」と題する番組の中で、元外務省条約局長東郷和彦氏と評論家松本健一氏の解説を聞いて、なるほどと得心する所がありました。

松本:日本政府は、1905年に竹島は日本に編入された(1905年(明治38年1月28日)、島根県隠岐島司の所管の竹島と閣議決定し、以降、竹島は行政区画では島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地であり、正式に日本の領土となった。)という。しかし、韓国人は、それは、第二次日韓協約(1905年11月17日)―― 韓国は外交権を日本に譲渡し、日本の保護国となった――が締結される直前に行われたものであり「日韓併合」を象徴するものとなっている。故に、韓国は「他国によって併合されるような民族ではなかった」ということを主張するためにも、この時の日本の竹島領有は認められないのだ。

東郷:竹島が島根県に編入されたことは、韓国人は全員、併合前夜の出来事だと思っている。韓国人の前でこの問題を持ち出すと韓国人の顔色が変わる。魚の問題ではないのだ。

 まあ、常識的に見れば、こうした韓国人の言動は単なるナショナリズムの発露であって、国際的な理解を得られるものではありません。まして、その実効支配が、「国際法上の慣例」を無視した李承晩ライン(軍事境界線)の設定(1952年1月18)によって武力的に推し進められて来たものである以上、国際紛争の解決の手段としての「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄している日本としては、これを認めるわけにはいきません。

 では、1905年以前はどうなっていたかというと、
 日本側は「竹島は日本が島根県に編入するまで他国に実効支配されたことはなく」つまり、実質的に日本が実効支配していた。」従って、「竹島の編入手続きは、国際法に照らしても全く合法的である。」とする。これに対して、韓国側は、「1905年1月の日本による竹島編入は、軍国主義による韓国侵略の象徴であり強制的に編入された。もし日本領であったなら編入する必要はない。この年11月に締結された第二次日韓協約によって、大韓帝国は外交権が事実上奪われていたため、独島(竹島)の島根県編入を知った後、日本が敗戦するまで抗議できなかった。」(wiki「竹島」参照)としています。

 要するに、韓国が現在やっていることは、竹島を、日韓併合の歴史的怨みをはらすための「抵抗のシンボル」としているということです。従って、その実効支配が武力を用いてなされたことについては、その国際法上の当不当ということより、むしろ、実力でもって日本の韓国併合の残滓を跳ね返した英雄的行為としての意味合いの方が強いのです。これが、現代の日本人には容易に理解できないところです。

 結論からいえば、韓国が竹島を実効支配しそれを武力で守る意志を持ち、一方日本がそれを武力で奪還する意志を持たない以上、現状のまま推移するほかないでしょう。日本にできることは、この問題をICJに提訴して、韓国による竹島の実効支配を国際法上不当であるとアピールすることだけです。しかし、提訴しても韓国が応じなければ裁判は成立しませんから、これで日本と韓国の和解が成立するということにはならないと思います。

 ではどうすればいいか。日本としては、「日韓併合」が、韓国人が言うように本当に非道かつ侵略的・収奪的なものであったかどうかの歴史的検証を行い、その実相を把握し歴史観を共有する必要があります。というのは、次の、従軍慰安婦問題に見るように、韓国人の日本人に対する批判には常軌を逸したものがあり、これをこのまま放置していては、日本人の国際社会における信用が毀損される恐れがあるからです。

 もちろん、それが事実に基づく非難であればやむを得ませんが、そうした非難・攻撃の対象となっている歴史的事実の認識に、甚だしい事実の歪曲や誤認があることは、すでに多くの研究によって明らかだからです。おそらく、こうした傾向は、独立後の韓国の反日教育によって拡大再生産されたものなのでしょうが、こうした隣国に対する悪意に満ちた虚偽宣伝を、これ以上、漫然と放置すべきではありません。

 なお、こうした韓国人の不可解な行動を理解するためには、かって小室直樹氏が指摘した次のような観点を念頭に置く必要があります。

 「独立は自ら勝ち取らなければならない、という大原則」・・・ 

 「大韓臨時政府主席金九は、亡命地の重慶で、日本敗北のニュースを聞いたとき、思わず絶句した・・・。

金九は言った。
日本が敗戦して朝鮮解放の日は近づいた。嬉しくてたまらないはずなのに、少しも嬉しくない。韓国光復軍が日本軍を破ることによって、韓国は独立を獲得したかった。このままだと韓国には発言権かないことになってしまう。

 予言的な言葉である。と言いたいところだが、そうではない。これぞ国際政治の常識。韓国光復軍といったところで、実は、何もしなかったのであった。

 いくら何でも、正式の会戦で日本軍を破れ、ここまでは、ルーズベルトもチャーチルも、蒋介石も周恩来も要求はするまい。いや、考えてもみないだろう。しかし、重慶に本拠をおく大韓臨時政府の軍隊たる韓国光復軍。せめて、対日ゲリラくらいには参加してもよかったのではないか。

 韓国の「解放」が、日帝から戦いによって奪取したものでなく、日帝とアメリカとの取引によって得られたものであること。

 この外傷が致命的な後遺症となって大韓民国を呪縛することになる。・・・
 大韓民国には、韓国人民によってではなく、アメリカによって処刑された、大日本帝国の亡霊かまといついて離れないのである。宿命か作為か。」(『韓国の悲劇』小室直樹p66)

 おそらく、韓国人の日本に対する理不尽とも思える敵対心の背景には、こうした心理作用が働いているのでしょう。だとすれば、日本人が彼らの前に言うべきことを言わず、小心よくよくとした臆病な姿をさらすことは、彼らの目には、その日本に反攻できなかった自分らへの、さらなる屈辱感として、跳ね返っていくのではないではないしょうか?

 なお、以上のような心理は、韓国人の「従軍慰安婦」問題の扱いにより露骨に見る事ができます。これは、戦時中日本は、韓国人の女子を強制的に狩り立て、戦地に送り日本軍兵士の慰安婦とした、ということを国際社会に宣伝することで、日本人を道徳的に貶めようとするものです。この問題の解決策として「アジア女性基金」制度が発足したのですが、あくまでこの受け取りを拒否して、日本政府が強制連行を認め国家賠償することを求めています。

 しかし、戦時中に慰安所を作り慰安婦を置くことは、日本だけがやったことではなく、戦場での強姦を防ぐなどのためにどの国もやったこと(もちろん韓国も)です。また、当時は公娼制度もあり、韓国などでは、戦後も外貨獲得の手段として近年まで行ってきたのであって、日本だけが道徳的に非難される”いわれ”はありません。もちろん、戦中、そうした職業に就いた女性の多くが、気の毒な境遇にあったであろうことは容易に想像できます。

 まあ、この時、日本が戦争なんかしておらず、また、日韓併合なんかしていなければ、こんなことにはならなかったわけですが、こうして慰安婦になった女性たちの約4割は日本人、約2割が韓国人(秦郁彦)だったそうですから、韓国人が特に標的にされたというわけではありません。といっても、貧困の度合いは韓国の方がひどかったようで、それだけ未婚女性が慰安婦になるケースが韓国では多かったといいます。

 ただ、こうして慰安婦として働く期間は、「前渡金」を返済するまでの期間が基本であって、奴隷的に拘束され働かされたというわけではないようです。また、賃金は、二等兵兵士の約数十倍から百倍だったそうで、雇い主との折半割合もほぼ半々であり、早い人では約1年で故郷に帰る人もいたそうです。もちろん、雇い主はあくまで民間人であってその条件はいろいろだったでしょうが・・・。

 いずれにしても、こうした日本の戦中における慰安婦制度によって、約2万人の韓国人慰安婦が生まれたことは事実です。ただし、日本の敗戦後、戦争賠償問題が李承晩大統領との間で話し合われた際、その補償対象にはこれらの慰安婦は含まれていなかった。このことを、その後起こったことと対比してみると、この問題は、金銭的な問題というより、慰安婦の名誉回復の問題であった、と見る事もできます。

 このことに関わって、いわゆる「河野談話」の作成にあたった石原信雄元官房副長官は、次のように述懐しています。(当時その取材に当たった産経新聞の阿比留瑠比氏のインタビュー記録。「1回目はアポなしで石原氏の自宅に押しかけ、家の前で長時間立ったまま話を聞いてノートにメモし、2回目(2005.7)はきちんと約束して指定先に出向いて取材し」た、その時のメモを元にまとめたもの)

「Q  河野談話からは、甘言、強圧の主体が誰かが欠落している

石原氏 これはまさに日韓の両国関係に配慮して、ああいう表現になった。普通の談話であれば、物的証拠に基づく手法ではああいうものはできない。だから、論者によっては当然、そこまでいかないのになぜ強制を認めたのかという批判はあるでしょう。あの当時、「絶対強制なんかなかった」「とんでもない話だ」と反対意見もあったし。だけども、本人の意思に反して慰安婦にされた人がいるのは認めざるをえないというのが河野談話の考え方、当時の宮沢内閣の方針なんですよ。それについてはいろいろとご批判はあるでしょう、当然。当時からあったが。

Q  石原さんは反対しなかったのか

石原氏 私は補佐役だから、弁解なんかしない。過程はいろいろあるが、政府として内閣として補佐にあたった以上は私は全責任を負わないといけない。個人的にどうだとか言ってはいけない、組織の人間としては。まとまるまでは中で議論があったが、まとめた以上はそこにいた人間は逃げられない。

Q  河野談話が出された結果、国連人権委員会などでも「セックススレイブ」という言葉が使われるようになった

石原氏 それはもちろん、そういうことに利用される可能性は当然ある。限られた状況の中で意に反した人がいたと認めれば、やはり訴訟している人たちは一事が万事、すべてが強制だと主張している。それを認めることになるというリスクは当然、あの談話にはあるわけだ。それは覚悟した。そういう風に言われるだろうと。だから出すべきでないという意見も中にはあった。だけど、政府として決めたんだから、我々関係者は少なくとも弁解がましいことはいえない。

Q  宮沢首相の政治判断か

石原氏 それはそうですよ。それは内閣だから。官房長官談話だけど、これは総理の意を受けて発表したわけだから、宮沢内閣の責任ですよ、もちろん。

Q  国家賠償請求につながるとは思わなかったのか

石原氏 全く想定していない。それはもちろん、あの談話をまとめるにあたっては外務、財務、法務省すべて関係者は承知している。われわれはあの談話によって、国家賠償の問題が出てくるとは全く想定していなかった。当然、当時の韓国側も、あの談話をもとに政府として要求するということはまったくありえなかった。

(中略)慰安婦問題はすべて強制だとか、日本政府として強制したことを認めたとか、誇大に宣伝して使われるのはまことに苦々しくて仕方ない。もちろん、こういうものをいったん出すと悪用される危険はある。外交関係とはそういうものだから。だけど、あまりにもひどいと思う。

(河野談話発表の)あのときは、これで日韓関係は非常に盤石だ、お互い不信感がとれたと日韓間で言っていた。韓国側も、自分たちが元慰安婦たちの名誉のために意に反してというのを認めろと求めたのを日本が認めた。これで未来志向になると言っていた。それが(韓国は)今日まで、いろんな国際会議で日本政府が政府の意図で韓国女性を強制的に慰安婦にしたと言っているが、全く心外そのものだ。 (後略、おわり)」

 つまり、政府の調査の結果、軍が強制的に慰安婦を集めたという物的証拠はなく、ただ、元慰安婦の訴えを聞いただけであること。また、それが事実かどうかは調べようもなく、本人の証言を信用するしかなかった。その時、韓国側が元慰安婦たちの名誉のために「意に反して」というのを認めてくれ、それで日韓関係は盤石になる、といったので、そういう書き方をした。まさか、国際会議で、それが日本政府の意図で韓国女性を強制的に慰安婦にした、と宣伝されるとは思ってもいなかった、というのです。

 この国際会議とは、1992年2月に韓国「挺対協」が、国連本部やジュネーブの人権委員会に代表を送り、これを国際的な人権問題として訴えたことを指しています。結果的には、慰安婦問題は、家庭内暴力を主題とする「クマラスワミ報告書」の付属文書という扱いで、「そういう報告があったと”聞きおく”程度の意味で拘束性もない」(『慰安婦と戦場の性』秦郁彦P271)ものとなりました。

 しかし、これを不満とする日本人も沢山いて(坂本義和、吉見義明、田嶋陽子、山崎朋子他)その後、慰安婦の国家補償の議員立法化や、「アジア女性基金」の受け取りを拒否する運動が展開されるようになりました。その後、この運動はさらにエスカレートし、2000年には、昭和天皇を有罪と宣告した女性国際戦犯法廷、2007年には、アメリカ下院に次のような対日決議案が提出されるに至りました。

(その決議の内容)
 決議一二一号
 日本政府による軍事的強制売春である「慰安婦」システムは、その残酷さと規模の大きさで前例のないものと考えられる。集団レイプ、強制妊娠中絶、辱めや性暴力を含み、結果として死、最終的には自殺に追い込んだ二十世紀最大の人身売買事件になった。日本の学校で使用されている新しい教科書のなかには、「慰安婦」の悲劇や第二次世界大戦中の日本のその他の戦争犯罪を軽視しているものもある。

 日本の官民の当局者たちは最近……河野談話を薄め、もしくは無効にしようとする願望を示している。……’』のため、以下、下院の意思として決議する。

 日本政府は、
(1)日本帝国軍隊が若い女性に「慰安婦」として世界に知られる性奴隷(Sexual Slavery)を強制したことを、明確にあいまいさのないやり方で公式に認め、謝罪し、歴史的責任をうけいれるべきである。

(2)日本国首相の公的な資格でおこなわれる公の声明書として、公式の謝罪をおこなうべきである。

(3)日本帝国軍隊のための性の奴隷化および「慰安婦」の人身売買はなかったといういかなる主張にたいしても、明確、公式に反論すべきである。

(4)「慰安婦」にかんする国際社会の勧告に従い、現在と未来の世代に対しこの恐るべき犯罪についての教育を行うべきである。

 こうした動きに対して、日本の国会でも「河野談話」の取り扱いをめぐる議論がなされるようになり、安倍首相は、2007年3月1日記者会見で、「強制性を裏付ける証拠はなかったのではないか」「(強制性の)定義が(狭義から広義へ)変わったということを前提に考えなければ」などと注釈しました。しかし、これをニューヨーク・タイムスなどが「首相が河野談話を全面否定した」と書きたて、さらに国粋主義者、歴史修正主義者と批判したため、安倍首相は3月5日の参議院における質疑で、あらためて「河野談話は基本的に継承していく」と答えました。

 この件について、大阪の橋本市長は、8月24日の記者会見で次のように語っています。

「Q赤旗 慰安婦問題だが、橋下市長は強制の事実は確たる証拠はないといったが、河野談話をみていると強制の事実を認めているが見直すべきか

橋下氏「2007年の閣議決定はどうか。鳥の目というか全体の視野を持たないと。2007年の閣議決定では、強制連行の事実を直接示す記述は見当たらなかったと、そういう閣議決定が安倍内閣のときになされている(※「政府が発見した資料の中に、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」)。僕は歴史家ではないから、すべての資料について、古文書等含めて行政文書を含めて全部調べたわけではないので、政治家として93年の河野談話と、それについての2007年の閣議決定、この2つをもとにして自分の意見を組み立てている。

河野談話でいろんな表現はあるけれども、しかし2007年に強制連行を示す、それを裏付けるような、直接の証拠はなかったということを2007年の安倍内閣のときに閣議決定がされているわけです。そうであれば河野談話の中身をもう一度しっかり疑義がないように内容を見直すのか、それとも2007年の閣議決定が間違ったのかどちらかですよ。

で、僕は2007年の閣議決定というのは、河野談話出した以降、日本政府が閣議決定をやっている以上は責任をもってやっていると思いますよ。河野談話は、閣議決定されていませんよ、それは河野談話は談話なんですから。」

 要するに、2007年に安倍内閣のもとで、慰安婦の募集に「強制性を裏付ける証拠はなかった」ことが閣議決定されている。つまり、河野談話で「慰安婦の募集において官憲等が直接これに加担した」と解釈されている部分については、それを裏付ける証拠はなかったということで訂正されている。また、この見解は閣議決定されているから、これが日本国政府の正式見解だ、と言うのです。

 しかし、前述した通り、安倍首相は「河野談話は基本的に継承していく」と言っています。ただし、その強制制の意味は、「強制連行を示す」狭義の意味ではなく、「本人の意志に反して集められた」という広義の意味だ、といったのです。しかし、それが大変わかりにくく、言い逃れに聞こえたために、国際的な非難を浴びることになった。そんなことなら、はじめから「官憲による強制連行はなかった」だけで押し通した方が良かった、と秦氏は言っています。

 橋下氏は、秦氏のこの見解を支持し、あえて、2007年に閣議決定した慰安婦の募集に関する政府見解を、「強制連行がなかったこと」の表明としているのです。

 ところで、この慰安婦問題がどのような経緯で河野談話という形で発表されることになったか、については、自民党の片山さつき氏が次のように簡潔にまとめています。

 「一九六五年の日韓基本条約において、五億ドルの賠償を支払う等により、日韓間の戦争に拘わる賠償は最終的に解決されました。時の李承晩大統領は、「反日」政策で有名ですが、日本への要求リストに「従軍慰安婦」はありません。戦争で徴用、徴兵された人々に対する補償は、同条約で解決したのに慰安婦は、話題にもなかったという重要な事実があります。

 一九八三年に吉田清治という日本人が「私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行」という本を出し、「軍命令で済州島に行き、若い未婚の女性等を連行した」と名乗り出た。八九年にこの本が韓国語に訳され、現地新聞が取材したが、住民は「そんな事実はなかった。吉田氏は嘘をついている」と証言。九一年にNHKも現地取材したが「軍に連行された」人も一人もいなかった。(この取材に池田信夫氏も当たり同様の証言をしている)

 九一年八月十一日付けの朝日新聞が金学順氏を取り上げ、「「女子挺身隊」の名で、戦場で連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた。」と報じた。しかし、金氏は韓国向けの会見では、「貧しさのため母親に40円でキーセンに売られた。自分を買った義父に連れられて日本軍慰安所に行った」と証言しています。彼女は日本政府相手に訴訟を起こしていますが、訴状にも「親に売られた」と書いています。この記事を書いた植村隆記者の妻は、韓国人で、その親は日本政府相手に裁判を起こしている遺族会の幹部でした。

 九二年一月に朝日が報道した「軍の関与」とは、なんと「慰安婦募集業者がトラブルをおこさないように取り締まること」でした。

 日本政府は、一年近く調べたが、慰安婦を権力によって強制連行したという文書は出てこなかった。

 韓国ソウル大安乗直教授は、名乗り出ていた40人の「慰安婦」の聞きとり調査を行い、「権力による連行は証明されていない」といっている。」

 つまり、(この問題は)吉田清治という商業的「ザンゲ屋」の、慰安婦狩りの作り話が発端で、それを真に受けた朝日新聞が、1982年の紙面に「告白」と題して彼を初登場させ、また、「慰安婦問題がホットな話題となった91年半ば頃から、1年間に四回も吉田を紙面に登場させ」たこと。さらに、応募投書を単行本化した『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞社刊)には、吉田関連記事をはめ込んだことで一般に知られるようになったものだということ。(『慰安婦と戦場の性』P240)

 その後、秦氏の調査で吉田証言が全くの作り話と判った後も、朝日は、それまでの報道の真偽を確認することも訂正することもせず、「それどころか、別の場所では「〈強制〉を〈強制連行〉に限定する必要はない。強制性が問われるのは、いかに元慰安婦の〈人心の自由〉が侵害され、その尊厳が踏みにじられたか、と言う観点からだ」と論点をそらし、社説では、「歴史から目をそらすまい」との一般論で逃げを打っている」と、秦氏は朝日を批判しています。

 最近、朝日新聞は、韓国の李明博大統領が慰安婦問題に関して日本側に「謝罪」を求めたことが日本側の反発を呼んでいることに対して、8月31日の社説で次のように批判しています。

 「見過ごせないのは、松原仁・国家公安委員長や安倍晋三元首相ら一部の政治家から、1993年の河野官房長官談話の見直しを求める声が出ていることである。

 河野談話は、様々な資料や証言をもとに、慰安所の設置や慰安婦の管理などで幅広く軍の関与を認め、日本政府として「おわびと反省」を表明した。

 多くの女性が心身の自由を侵害され、名誉と尊厳を踏みにじられたことは否定しようのない事実なのである。

 松原氏らは、強制連行を示す資料が確認されないことを見直しの理由に挙げる。枝を見て幹を見ない態度と言うほかない。」

 ここでは、枝=「強制連行などを示す」狭義の意味での強制はなかったが、幹=「本人の意志に反して集められた」という広義の意味での強制はあった。だから、慰安所の設置や慰安婦の管理などで幅広く軍の関与を認め「お詫びと反省」を表明した河野談話を見直すのはおかしい、と言っているのです。(産経新聞の阿比留氏は、この問題の「幹」は「強制連行の事実関係」であるはずなのに、朝日は「本人の意志に反して集められた」を「幹」、「強制連行」を「枝」にして論点をすり替えていると批判しています。)

 この部分を読んで私は、かってベンダサンが『日本教について』で指摘した日本人の「雲の下」論を思い出しました。これは、「雲の上に現れた峰に過ぎない」ものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」、「雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である」、従って、(表に現れた細かい)点の矛盾点を故意にクローズアップして、それによって「事実」がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない、という論法です。

 しかし、これは、「事実か否かが立証されていない(雲の下の)『語られた事実』をまず『事実』と断定しておいて、その上に組み立てた議論である。しかし、人間が知りうるのは『語られた事実』だけであって、その「語られた(複数の相矛盾する)事実」から、ぎりぎり決着の『推論』で「事実」に到達しようというのに、その前に(雲の下の)「語られた事実」を『事実』と断言してしまえば、もう何の証拠も要らなくなる」。

 ベンダサンは、これを本多勝一氏との「百人斬り競争」論争の中で指摘したのですが、これは、先ほどの朝日新聞の慰安婦問題における「枝・幹」論そのものです。つまり、枝である慰安婦の強制連行が、それを自白した吉田証言が全くの「作り話」であったことで明らかになっても、それを無視して、幹である「本人の意志に反して集められた」ことは事実だから、枝である強制連行がなかったとは言えない、と言っているのです。

 しかし、ここで証明さるべきは、慰安婦募集における軍や官憲による強制性の有無であって、戦中の慰安婦制度によって「多くの女性が心身の自由を侵害され、名誉と尊厳を踏みにじられたこと」の事実関係ではありません。なのに、ここでは、この異なった二つの事象が、枝と幹の関係で一体化されているのです。そして、後者を”自明=証明済み”とすることによって、前者の強制性が証明されたとしているのです。

 これは、一見正しい議論のように見えますが、実は、後者が”自明=証明済み”だと言っても、その内実は様々であって、それは慰安婦の雇い主の問題であったり、親の意志あるいは本人の覚悟の問題であったり、あるいは貧困、公娼制、戦争を含めたその時代の制約であったりするわけで、その原因を特定することは困難です。まして、その責任者を特定し処罰の対象とすることはほとんど不可能です。

 つまり、「幹」と称する部分の事実関係や責任関係が証明されているわけでもないのです。従って、これをもって、「枝」の部分の事実関係や責任関係が、すでに「幹」によって証明されたということはできません。また、この「強制性の証明」に「狭義」「広義」の概念を導入することも問題を分かりにくくするだけです。強制性の有無は、あくまで軍あるいは官憲による慰安婦募集の強制性を示す証拠によるべきです。

 もともと、こうした分類法は、朝日新聞が女子挺身隊を慰安婦として報道したことに同調して、「強制連行説」を唱えた吉見義明氏が、90年代半ば以降、「慰安所生活に自由がなかったとする「広義の強制論者」に転向した」際に主張したものだと言います。安倍首相は、この敵の論理を、慰安婦募集における軍や官権の強制がなかったことの論拠にしようとしたのですが、逆に、これに足を掬われた格好になった。

 では、なぜこうした論法を、朝日新聞が採ったかというと、それは第一に、慰安婦に対する贖罪意識を先行させることで、事実関係の究明を曖昧にできる。第二に、事実関係の究明ができず責任関係を特定することができなくても、「ゴメンナサイ」と謝る、それによって謝った人の責任は解除され、逆に、謝らない人はその責任を追求され断罪される。こうした日本的相互懺悔・相互告解方式に無意識に従ったからです。

 しかし、こうした論理は、日本以外では通用しない。実は日本政府も、この論理に乗って、慰安婦の募集に軍や官憲の強制の事実を証明する資料が見つからなかったのに、相手の気持ちをおもんぱかって「ゴメンナサイ」と謝った。それで和解が成立することを期待した。しかし、逆にそうして謝ったことが、慰安婦募集における軍や官憲の強制の証拠とされるようになった。

 では、こうした状態から脱却するにはどうしたらいいか。これは今までの論述から明らかな通り、この問題についての事実関係の究明を徹底すること。すでに「ゴメンナサイ」といったために「事実」とされたもので、実は証拠がなく事実と認定できないものは訂正する、そして、そうした議論を世界に向けて発信する。韓国政府による悪質なデマ宣伝には逐一断固として反撃することです。

 で、その事実関係の究明としては、私は、秦郁彦氏を初めとする研究者やジャーナリストの努力によって、すでにその作業は完了していると考えます。ここでは、慰安婦の実態を理解するために、秦郁彦氏が「〈慰安婦伝説〉を再考する――その数量的考察」でまとめた、いわゆる「従軍慰安婦」(正確には慰安婦は軍属ではなかったから「従軍・・・」とはいわない)についての8項目の結論部分を紹介しておきます。(『現代史の対決』秦郁彦p106)

1,慰安所には軍専用と軍民共用の二種があった。
2,軍専用慰安所にいた慰安婦の総数は一万数千人。
3,慰安婦の民族別では内地人(日本人)が最多。
4,戦地慰安所の生活条件は平時の遊郭と同レベルだった。
5,思案婦の95%以上が生還した。
6,軍を含む官憲の組織的な〈強制連行〉はなかった。
7,主要各国の軍隊における性事情は第二次大戦時の日本軍と相似している。
8,慰安婦たちへの生活援護は、他の戦争犠牲者より手厚い。

 近年は、池田信夫氏や大阪市の橋本市長のように、徹底した論争スタイルを持つ論者が現れています。その結果、朝日新聞に典型的に見られるような「ゴメンナサイ」方式=相互懺悔・相互告解方式による情緒的な問題解決法は、論理的にも現実政治上でも破綻しつつあります。

 また、池田氏や橋本市らの論争スタイルは、日韓併合の論議についても適用すべきです。先日、金美齢氏の講演を聴きました。金氏は、日本の植民地政策が決して悪逆非道なものではなかったこと。光の部分と影の部分があるが、精算すれば光がプラスだったこと。このことは、先の東日本日本大震災における台湾からの義援金が、他の世界全体の義援金の総計より多かったことで証明された、と言っていました。

 私たちは、韓国が事実に基づかない「反日教育」や「反日宣伝」を繰り返していることについて、あくまで事実論を基礎として、徹底した論争を挑んでいく必要があります。それが、日本のためにも韓国のためにもなると確信します。

最終校正 H24.9.6 17:00

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