フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »

2012年12月

2012年12月30日 (日)

我善坊さんとの対話――日本文化の個別性の自覚なしにそれを普遍化し他に押しつけようとしたことが昭和の悲劇を生んだ

日本の保守主義について論じていたところ、我善坊さんから個別主義に跼蹐するのでなく普遍主義を目標とする視点が大切だとの問題提起を受けました。日本人の普遍主義を考える上で大変重要な観点ではないかと思いましたので、以下、氏とのその後の対話を再掲させていただきます。戦前の日本思想の最大の誤り――日本文化の個別性の自覚なしにそれを普遍化し他に押しつけようとしたこと――に触れる問題と思いましたので、参考までに・・・。

投稿: 我善坊 | 2012年12月26日 (水) 09時40分
Edmund Burkeの保守主義の規定から、これに対立する自由主義の定義までの行論、および戦前戦後(1955年ころまで)の日本の政治思想の評価としては、バランスのとれた議論だと思います。しかし政治思想としての保守主義や自由主義を見て行く上ではもう一つ、普遍主義Univerasalismと個別主義Particularismという軸を設定しないと公平な評価は出来ないのではないか?
国家とは多かれ少なかれ個別主義に立つものであることは、以前福沢の「痩我慢の説」を引いて解説されていた通りですが、日本は政治家を見る限り普遍主義の要素がいかにも希薄で、僅かに大正期以降の一部に見られるだけです。(たとえば石橋湛山)
現在の日本の右傾化の最大の危険は、多くの政党に普遍主義への配慮がなく、日本の歴史や文化への盲目的信仰を煽るだけに終わっている点で、それを単純に「戦前回帰」と呼ぶのも、あながち不当なことではない。
教育基本法が廃された今、日本の政治システムの中で普遍主義を正当に評価しているのは憲法のみです。
もちろん固有の歴史や文化は大切ですが、それと同じ程度に、いやそれ以上に世界の歴史を通じて人類が築き上げて来た、相対的ながらも現時点で「普遍的」と認められている価値に対する敬意を失わぬこと、これこそが現在の日本に最も必要とされる要素でしょう。
世界が「日本の右傾化」として警告を発しているのは、まさにこの点です。

投稿: tikurin | 2012年12月27日 (木) 02時05分
我善坊 さんへ
重要な問題点を御指摘いただきありがとうございます。以下個別に私見を申し上げます。

>しかし政治思想としての保守主義や自由主義を見て行く上ではもう一つ、普遍主義Univerasalismと個別主義Particularismという軸を設定しないと公平な評価は出来ないのではないか?

tiku ユニバーサリズムといっても普遍的な一つの思想にはなかなかまとまらないのが現実なのではないでしょうか。ユニテリアン・ユニバーサリズムを標榜する団体もあるようですが、「メンバー(UU教徒)が自由に思想・信仰を決める事ができる。これにより宗教的多元性、多文化の伝統を尊重し同じ教会内でも複数の信仰や活動を認めている」「UUは個人が自己や社会、自然との繋がりの中で各自意味を追求することを重要視し決められたドグマを持たない」(wiki)とされます。

一方、パティキュラリズムという言葉を、「推論における道徳原理の役割に懐疑的で、我々は個別の道徳判断において一般規則に訴えることはできず、時にはそれが有害だとする。正しい行為を見つけるには、個々の事例において敏感にそして詳細に事例を検討し、その事例に含まれる特異な特性を把握する以外にない」http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/~sasaki/study/McNaughton1988_ch13.html
というような考え方だとすれば、ユニバーサリズムの考え方とそれほど大きくかけ離れてはいない、ということになります。

いずれにしろ、ここにおける日本人の課題は、自らが無意識のうちに拠っている「ものの考え方」を他との比較の上で相対的に把握すると言うことで、それが出来て始めて、他の文化と比較して、自分たちの「ものの考え方」を修正したり発展させたりすることができるようになるのです。まあ、日本人にとって大思想=普遍思想はいつも外からやってきて、それ故に、それへの迎合と反発を繰り返しているわけですが、早くこうした状態から抜け出し、自らの伝統思想を把握しそれを更改することで未来に対処するという基本的態度(=保守の思想)を身につける必要がありますね。

>国家とは多かれ少なかれ個別主義に立つものであることは、以前福沢の「痩我慢の説」を引いて解説されていた通りですが、日本は政治家を見る限り普遍主義の要素がいかにも希薄で、僅かに大正期以降の一部に見られるだけです。(たとえば石橋湛山)

tiku政治における普遍主義ということになると道徳における普遍主義以上に個別主義的になることは、主権概念を一つを見ても明らかですね。といっても第一次大戦後の不戦条約に見るように国際紛争を武力によらず外交交渉で解決しようとする流れもあるわけで、そうした国際政治における「普遍化」への努力を怠ることなく、その上でしっかり個別文化を主張すること、この両者の整合性を図ることが大切だと思います。

>現在の日本の右傾化の最大の危険は、多くの政党に普遍主義への配慮がなく、日本の歴史や文化への盲目的信仰を煽るだけに終わっている点で、それを単純に「戦前回帰」と呼ぶのも、あながち不当なことではない。

tikuこの場合の普遍主義の内容は具体的にどういうことか、また「右傾化」あるいは「戦前回帰」と呼ぶべき日本の歴史や文化とは何であるか、もちろんその盲目的信仰ではなく対象化が必要な事は言うまでもありませんが・・・。この点については今後論じようと思っています。

>教育基本法が廃された今、日本の政治システムの中で普遍主義を正当に評価しているのは憲法のみです。

tiku旧教育基本法の普遍主義とは、また日本国憲法の普遍主義とはどのようなものだとお考えですか?戦力放棄による平和主義ということ?

>もちろん固有の歴史や文化は大切ですが、それと同じ程度に、いやそれ以上に世界の歴史を通じて人類が築き上げて来た、相対的ながらも現時点で「普遍的」と認められている価値に対する敬意を失わぬこと、これこそが現在の日本に最も必要とされる要素でしょう。

tiku異論はありませんが、現在の日本より中国により強くこれを求めたいですね。圧倒的な軍事力を持つと使いたくなるらしいですから。かっての日本軍と同じように。だから挑発に乗らないようにしないといけませんね。

>世界が「日本の右傾化」として警告を発しているのは、まさにこの点です。

tiku「日本の右傾化」批判が「日本の主権制限」を意味するのでなければよろしいですが。いずれにしても、その批判の具体的中身が分からないことには何とも・・・。

投稿:我善坊 | 2012年12月27日 (木) 17時39分
「tiku ユニバーサリズムといっても普遍的な一つの思想にはなかなかまとまらないのが現実なのではないでしょうか(以下略)」
お話は政治思想についてであると思いましたので、道徳や神学、スコラ哲学にわたる論争は予定していませんでした。その方面はWikipedia程度の知識もありませんのでー。
もう一つ加えれば、「現実政治」に限らず、「政治思想」についてのお話と理解しましたが、間違いでしたか?
政治思想における「普遍主義」からは、いろいろ紆余曲折はありながらも、国家の対外的暴力手段は封じ、国家の主権は制限しようという方向にあり、個人の信条(信仰)、言論、表現などの自由は極力擁護してゆこうという方向にあることは間違いない。
もちろんそこに直接、しかも5年や10年で行き着くとは、だれも思っていない。しかし、やむを得ず短期的にこれに逆行しなければならないなら、為政者たる者そのことを自覚し、本来の道への早期の復帰を模索しなければならない。
「tiku旧教育基本法の普遍主義とは、また日本国憲法の普遍主義とはどのようなものだとお考えですか?戦力放棄による平和主義ということ?」
(旧)教育基本法の真の眼目は、愛国心教育の有無などにはなく、第10条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」で「教育行政は、この目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」というくだりにあると、考えてきました。つまり「教育行政は教育の中身に関してではなく、環境条件の整備に徹する」という点にあった。これは教育と国家(行政)との関係について、世界の大きな流れです。(ニュージーランドでは、教育行政はおろか教育委員会制度も廃し、学校ごとに校長を含む評議会を組織し、教育内容を決定するという方向に動き出しています)
日本国憲法で言えば、前文と第9条は国際紛争を解決する方法としてパリ不戦条約の延長にあるもので、これも普遍主義的な理念です。
この理念を隣国にも守らせたいというなら、自らがそれにふさわしい行動をとった上でなら堂々と、かつ実際的にも有効に説得できるでしょうが、「彼奴がやらないならオレもやらない!」という程度の批判なら、自らを貶める以外の何ものでもありません。
「tiku「日本の右傾化」批判が「日本の主権制限」を意味するのでなければよろしいですが。いずれにしても、その批判の具体的中身が分からない」
たとえばTIME誌(アジア版)12月17日号をご覧ください。この他の各誌・紙にも載っています。外国誌・紙でなくても毎日新聞の西川恵など外の動きを熟知している記者は、クレヂット付きで昨今の日本の異常さを指摘しています。
敗戦後の日本は、過剰な個別主義が日本のみならずアジアを惨禍に陥れたことの反省に立って、普遍主義と個別主義のバランスの上に立った国家を建設しようとした。(それは「(一方的な理想主義ではなく)、理想と現実のバランスの上に」と言い換えてもよい)
残念ながらそれも、その後の右派長期政権の中で形骸化して来ましたが、我々戦後を直接に知る世代は、憲法も(旧)教育基本法も国家や政府がこの理念から逸脱しないように、政治家に課した「枷」であると考えてきました。(右派政権の重要なメンバーでありながら、故・後藤田正晴氏は間違いなくそう考えていた一人でした)
その最後の枷を破壊しようとする政治家や、それを見て見ぬふりをするだけでなく、挙句は支持までする若い世代は、まったく理解できません。もはやネズミの大群となって、崖に向かってすさまじい勢いで走り出してしまったような、恐怖を感じます。

投稿: tikurin | 2012年12月28日 (金) 01時13分
我善坊さんへ

>お話は政治思想についてであると思いましたので、道徳や神学、スコラ哲学にわたる論争は予定していませんでした。その方面はWikipedia程度の知識もありませんのでー。
もう一つ加えれば、「現実政治」に限らず、「政治思想」についてのお話と理解しましたが、間違いでしたか?

tiku 「現実政治」の背後には「政治思想」があり、さらにその奥には「道徳観や神学=宗教観」があります。話を政治思想に限定すればユニバーサリズム云々の話は主権の範囲に止まりますから、あえて個別文化の価値観の違いを超えた普遍主義の追求がどのようなものかを見てみたのです。お解りでしたか?

> 政治思想における「普遍主義」からは、いろいろ紆余曲折はありながらも、国家の対外的暴力手段は封じ、国家の主権は制限しようという方向にあり、個人の信条(信仰)、言論、表現などの自由は極力擁護してゆこうという方向にあることは間違いない。

tiku 国家の自衛権に基づく武力行使は国際法で認められています。また、個人の思想・信条の自由、言論・表現の自由などの基本的人権は、主権概念の属性である統治権に含まれるもので、国によってその保障の具体的内容は異なります。国際法上の人権概念でもって国家の主権を制限すべきとの考えもあるようですが、今のところ実効性は余り期待できない。ともあれ、北朝鮮や中国などを説得することから始められたらいかがでしょうか。

>(旧)教育基本法の真の眼目は、愛国心教育の有無などにはなく、第10条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」で「教育行政は、この目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」というくだりにあると、考えてきました。

tiku教育基本法は「理念法」であるべきか「施策法」であるべきか、私はその基本的性格は後者だと思っています。法律は基本的に外面的行為を律するもので精神に関する規範を規定するものではないと考えるからです。愛国心であろうとその他の普遍的?道徳規範であろうと同じです。
 
 なお、「教育行政は教育の中身に関してではなく、環境条件の整備に徹する」というお考えについてですが、かって教育行政のインターナ・エクスターナ論がありました。教育行政は教育内容にアンタッチャブルで教師のみがそれを決定できるという主張で、指導要領の法的拘束力が争われましたが、これは最高裁判例「あり」で決着しています。日本近現代史などもっと時間を取って教えて欲しいですね。

 また、旧「教基法」十条の「不当な支配」と「国民全体に直接責任を負って行う」ですが、前者は「不当な支配」の判定は誰がするのか明確でなく、後者もその主体がはっきりしない。まあ欠陥法文ですね。

>ニュージーランドでは、教育行政はおろか教育委員会制度も廃し、学校ごとに校長を含む評議会を組織し、教育内容を決定するという方向に動き出しています。

tiku とのことですが、その評議会の構成は?教科書の選定権も教職員の人事権も持つというお考えですか。私は長年教育行政に関わり実態もよく知っていますが、この組織では到底「教育政治」を処理できないでしょう。

> 日本国憲法で言えば、前文と第9条は国際紛争を解決する方法としてパリ不戦条約の延長にあるもので、これも普遍主義的な理念です。この理念を隣国にも守らせたいというなら、自らがそれにふさわしい行動をとった上でなら堂々と、かつ実際的にも有効に説得できるでしょうが、「彼奴がやらないならオレもやらない!」という程度の批判なら、自らを貶める以外の何ものでもありません。

tiku 9条第一項は不戦条約の流れにありますが、第二項の「戦力放棄」はそうではありません。自衛権行使のための戦力の保持まで否定するものではありません。また、侵略の定義は国連安全保障理事会の判断に委ねられています。なお、日本はこの9条の規定にそって自衛権の行使についても極めて抑制的に解釈してきました。だから、「オレがやってる程度には中国も自衛権の行使を抑制したら」と言えるのでは?少なくとも言えたのでは?と言っているのです。あなたはそんな当たり前のことが言えない。その上、その自らの不作為の責任を他に転化しようとする・・・。

>(日本の「右傾化」批判について) たとえばTIME誌(アジア版)12月17日号をご覧ください。

tiku 原文を見ましたが、どの部分の批判ですか?
http://www.channelnewsasia.com/stories/afp_asiapacific/view/1243107/1/.html

>毎日新聞の西川恵など外の動きを熟知している記者は、クレヂット付きで昨今の日本の異常さを指摘しています。

tiku慰安婦問題については私は秦郁彦の『戦場の性と慰安婦』を参照していますが、西川氏の慰安婦論は、日本以外の国の戦場にも適用して公正に論じていただきたいですね。

>敗戦後の日本は、過剰な個別主義が日本のみならずアジアを惨禍に陥れたことの反省に立って、普遍主義と個別主義のバランスの上に立った国家を建設しようとした。・・・
残念ながらそれも、その後の右派長期政権の中で形骸化して来ましたが、我々戦後を直接に知る世代は、憲法も(旧)教育基本法も国家や政府がこの理念から逸脱しないように、政治家に課した「枷」であると考えてきました。

tiku 民主党の政治家に架したその「枷」はうまく機能したのですか?そこでは普遍主義と個別主義のバランスはどのようにとられたとお考えか?また、3年半で政権を失ったのはなぜ?なお、憲法制定あるいはその改正は主権行使の最たるものです。その主権を否定するおつもり?山本七平は「自分が作ったものは変えられるが、他が作ったものを権威として受け入れたものは変えられない」と言っています。憲法改正が必要な所以ですね。

>その最後の枷を破壊しようとする政治家や、それを見て見ぬふりをするだけでなく、挙句は支持までする若い世代は、まったく理解できません。もはやネズミの大群となって、崖に向かってすさまじい勢いで走り出してしまったような、恐怖を感じます。

tiku 枷は何度でもよりいいものに作り変えればよろしい。大切なことはその主体性を持つこと。自分は古い枷を守るだけ、それを作り変える人は悪い人、というあなたの論法は主権放棄と見られても仕方がない。もちろん認識不足の若者は大いに論破して、よりいいいものを作る、悪いものは作らない、これは必ずやらなければならない仕事だと私は思います。それに恐怖を感じるのは、貴方の「道徳感」あるいは「正義感」の然らしめるところで、私の関知するところではありません。

投稿: 我善坊 | 2012年12月28日 (金) 17時18分
tiku様、

たびたび長いレスポンスをありがとうございました。
「現実政治ー政治思想ー道徳、神学、哲学」を時に都合よく(自在に?)跳び越える技量には感心しましたが、私は現下の日本の政治情勢は「保守主義」「自由主義」ということ(だけ)では説明出来ず、「普遍主義」「個別主義」という軸を設けなければ、世界が警戒している「右傾化」についてさえ理解できないのではないかと考えて、そこに議論を絞っているつもりです。
これを超える話は、ブログの僅かなスペースへの書き込みでは難しいと思います。
また政治思想においては「(普遍主義的)価値」と言っても、かつて神学や観念論哲学が志向したような、唯一絶対な「価値」があるなどとは考えない。個人の自由と社会や国家との調和を模索し、国家による災禍を減らしてゆく為の漸進的な検討であって、時代によって少しづつ変わるものです。
現実政治を見る上での普遍主義、個別主義とは、以前このブログで採り上げておられた「痩我慢の説」を例にとれば、「公」は普遍主義、「私」は個別主義を代表していると言っても良いでしょう。もちろん現実は未だ国家間に境界を立て、区々たる争いに終始している状況にあり、福沢も小生もそこが総ての出発点であることは重々理解しています。
しかし「この状況は未来永劫に続く。従って偏頗心を有効に活用し、他国を凌駕すべき手段に育てることこそが課題の総てである」と考えるなら、それは悪しき現実主義、いや現実から何も学ばない「現実べったり主義」に過ぎません。それはまた、日本を世界の利害関係の客体とのみ考える三等国意識に過ぎない。我国もまた世界を構成する一員であり、世界のより良き秩序に向って貢献しなければならないはずです。それを謳い上げているのが憲法前文です。
tikuさんは永年教育行政に携わってこられたとのことですが、どういう立場だったかは存じませんが、凡そ教育においては先ず、人間としてのあるべき、普遍的な道徳(モラル)を教えることから始まり、文明への理解と敬意を深めたうえで、我国固有の文化やマナーを教えるのではないでしょうか?よもや、主権国家が現在許容されている限界を最大限に解釈し、その範囲で国威発揚に向けてあらゆる手段を行使せよということだけを教えるのではありますまい。もちろん政治や通商などに携わる実務家には後者は必須のことですが、日本人が総てそういう役割を担うわけではない。しかし一方で、総ての日本国市民は国家の行為を監視する義務があり、国家に対して責任を負っています。
福沢の時代からの一世紀余だけでも、世界は愚行を繰り返しつつもそこから学び、僅かながらも普遍的な価値を具体化してきました。その間の政治思想もまた、主権国家の存在を相対化させる方向に進んできました。
福沢を論じ、政治思想を論じられる以上、このブログもそうした当然の(まさに「普遍主義的な」)志向をもった方のものと思って書き込ませていただきましたが、「そんなのんびりした議論には関心がない。今や喫緊の課題は領土問題であり、国(家)益の死守こそ最優先すべきである」という昨今の一部の風潮を繰り返すだけでしたら、これ以上申し上げることは何もありません。

投稿: tikurin | 2012年12月28日 (金) 23時23分
我善坊 さんへ
> 「現実政治ー政治思想ー道徳、神学、哲学」を時に都合よく(自在に?)跳び越える技量には感心しました

tiku 技量のいる話ではありません。国際政治における「普遍主義」と「個別主義」を論ずるのであれば、当然そういう話になると言うことです。また、「右傾化」は必ずしも「個別主義」に結びつくわけでもなく、むしろ「普遍主義」と結びついた時の方が危険だと言えます。

>我国もまた世界を構成する一員であり、世界のより良き秩序に向って貢献しなければならないはずです。それを謳い上げているのが憲法前文です。

tiku 我が国だけでなく他国も「世界のより良き秩序に向かって貢献しなければならない」はずですね。憲法前文を中国や韓国にも採用するよう働きかけるべきでは。

>凡そ教育においては先ず、人間としてのあるべき、普遍的な道徳(モラル)を教えることから始まり、文明への理解と敬意を深めたうえで、我国固有の文化やマナーを教えるのではないでしょうか?

tiku 結局、普遍的な道徳(モラル)の話になっているじゃありませんか。

>よもや、主権国家が現在許容されている限界を最大限に解釈し、その範囲で国威発揚に向けてあらゆる手段を行使せよということだけを教えるのではありますまい。

tiku 誰がそんなことを主張しているのですか?一定のルールの下に国家間の競争が行われることは当然いろんな分野においてあることだと思いますが、それは「あらゆる手段を行使して」「国威発揚」することとは違うでしょう。
  
>総ての日本国市民は国家の行為を監視する義務があり、国家に対して責任を負っています。

tiku 公法が基本的に権力の足枷であることはその通りですが、それは権力の秩序形成力を認めた上のことで、国民はその秩序形成に参加すべき義務も負っています。その上で権力の暴走を防ぐため、法治主義、国民主権、権力分立・相互牽制、選挙による政権交代などの近代民主主義的な諸原理や諸制度が確立しているのです。このたびの政権交代もこうした制度的保障の下で起こったことです。

> 福沢を論じ、政治思想を論じられる以上、このブログもそうした当然の(まさに「普遍主義的な」)志向をもった方のものと思って書き込ませていただきましたが、「そんなのんびりした議論には関心がない。今や喫緊の課題は領土問題であり、国(家)益の死守こそ最優先すべきである」という昨今の一部の風潮を繰り返すだけでしたら、これ以上申し上げることは何もありません。

tiku おそらく、我善坊さんは将来、国際政府機関が出来るとしたら、各「個別文化」が完全に解け合って、まさに普遍主義的な「合金」道徳を共有する単一世界国家が出現すると思っておられるのでしょう。

「世界が単一市場化すると「地球人」とか「国際人」と言う生態不明のものを生み出すのではなく、各民族がそれぞれ文化的民族自治を要求するような状態を生み出すであろう。言葉を変えれば国家統制を離れた「民族」が出てくる・・・いわば世界の単一市場化は一面で民族の時代の到来だが、この言葉はすぐ日本では誤解される――というのは(日本では)民族と民族主義国家を区別しないからである(一つの国家の中に複数の民族が固有の文化を保持しつつ共存する状態を知らないということ=筆者)。遠い将来には、単一世界市場の中の文化的民族自治連合のような体制になるかも知れないが、これはあまりに遠すぎて予測がつかない。さしあたって予測できることは、普遍主義の中における文化的自治という状態であろうが、これも地球的規模にはなるまい。政治は経済ほど進行が早くない。イスラム教圏、中国圏、インド亜大陸圏等は、伝統的な普遍的宗教乃至普遍主義に基づいていて、先進国圏とは別の普遍性を持ち、それぞれの圏内において文化的民族自治へと向かうと想像して良いと思う。ただその自治の形態は決して同じではあるまい。」(『民族とは何か』山本七平P134)

つまり、国際政治における「普遍主義」と「個別主義」を論ずる場合に問題となるのは、文化圏によって「普遍主義」の内容が異なる、ということであって、これを強権的に「合金化」するようなことをしてはいけないと言うことなのです。また、同一文化圏例えば「先進国文化圏」においても「普遍的」と考える観念は民族によって異なります。それは日本の左翼の反米ナショナリズムを見ても明らかです。これに比べれば「領土問題」は一定の国際法上のルールも確立していますので、あからさまな侵略は困難で、日本は相手国の武力挑発に乗せられないよう、また、万一の場合の抑止力を用意しておけば良いのです。

といっても、韓国が竹島の武力的実効支配にこだわるのは、過去の朝鮮併合に対する民族のプライドをかけた抵抗の証だそうですし、中国が尖閣を領土問題化しようとするのは、資源の問題と言うより第一列島線内を領海化することだそうですから、領土問題はまさに両国にとって国威発揚の象徴なのですね。こうした行為に警告を発すべきことは当然で、もちろん日本の取るべき態度は上述の通りで、安倍政権もこの通りだろうと思いますので、ご心配には及ばないと思います。まあ、半年もすれば判ります。

といっても、私が本稿で「保守の思想」を論じているのは、安倍氏らの歴史認識が保守反動に陥ってはいけないと思うからで、これはこれで結構シビアーな議論になると思っています。我善坊さんの阿倍批判は、戦前の八紘一宇的な世界人類皆兄弟思想の模様替え普遍主義に依拠しているように思われますが、これこそ最も伝統的な無意識の普遍主義ではないでしょうか。この普遍主義を信じない人を「非国(際)民」と決めつけるあたりそっくりですね。

満州事変を起こした日本のある参謀将校に中国の高官が言った言葉、「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」つまり、日本人が勝手に思い込んだ「内なる中国」観を中国人に押しつけるのではなく、「中国は日本とは別の普遍主義思想をもつ国である」ことを知って欲しいといっているのです。このように、それぞれの民族の個別主義を尊重しつつ共存の道を探ることが、戦前の日本を反省する最も重要なポイントなのです。

そうした日本人の「内なる中国」観(=内なる普遍主義)を脱却すること。自らの文化の個別性を自覚すること。安易にそれを普遍化して他に押しつけたり、他に仮託したりしないこと。それが最も肝要なことではないかと思います。その「内なる中国」観の脱却どころか、逆にそれを日本人に押しつけ、それを受け入れない日本人を「崖に向かって走り出す鼠に大群」と規定するようでは、昭和の青年将校らの悲憤慷慨「めしいたる民、世に踊る」と変わりませんね。

2012年12月19日 (水)

「保守の思想」を再点検する7――保守主義と自由主義の対立関係を止揚する「保守の思想」の確立ということ

 本稿の始めに、日本では十分に理解されていない「保守主義」の定義について、エドマンド・パークの説を紹介しました。

 「それは第一につねに〈現状のなかに〈守るべきものと〈改善すべきものを弁別し〈絶対的破壊の〈軽薄〉と〈一切の改革をうけつけない頑迷〉とをともに排除しようとするものであり、第二に、そのような〈保守と改革〉とにあたっては〈旧い制度の有益な部分が維持され〉、〈改革〉によって〈新しくつけ加えられた〉部分は、これに〈適合するようにされるべきであり〉、全体としては、〈徐々とはしているが、しかし、きれ目のない進歩が保たれることを政治の眼目とする」(小松茂夫「保守の価値意識」、岩波講座『現代思想v』所収)

 つまり、ここでバークの言わんとしていることは、「凡そ人間の進歩ということは、決してある個人の頭脳から人為的に作り出された「省察」によって導かれるのではなく、「全体が一時に老年・中年・青年であることは決してなく、普遍の恒常性のもとで、不断の衰退・没落・革新・進歩というさまざまな過程をとおってすすんでいく」ような、一種有機体の成長に似た自然な歩みにしたがうものである、ということです。

(次は、『現代日本思想体系・新保守主義』解説「現代における保守と自由の進歩」林健太郎の要約)

 こうした「保守の思想」は、フランス革命の衝撃に対する反応として生まれ、その後一貫してその存在理由を保ってきた思想であって、その特徴は、固定した理論体系を持っていないと言うこと。むしろ、具体的な状況に応じて自ずから発展した一つの心的態度であって、それは時と所によって様々のニュアンスを取って現れるので、その考察はその具体的な発現形態に即してなされなければならないものだ、ということです。

 この保守の思想に相対立する概念として発達したものが、同じくフランス革命から生まれた自由主義です。そもそもフランス革命自体が、自由主義思想の一大発現であったのであって、それがナポレオンと王政復古という反対物に取って代われた後、改めて政治運動としての自由主義として定着をしてきたのです。

 その後、この保守主義と自由主義とは相克を繰り返しながら、その後の社会的発展を演出してきたわけですが、その形態は、イギリスにおいては革命と反革命、変革と対立ではなく、ただ変革の速度の差における対立であったのに対し、大陸においてはフランス革命の影響が直接的かつ強烈であったために、その保守主義はいきおい社会の進歩に逆行しようとする復古的・反動的性格を帯びることになりました。

 このように保守主義は反動思想として現れたこともありましたが、総体的に見れば、保守主義は自由主義と並ぶ車の両輪として、時代の発展と歴史の形成に貢献してきたのです。また、こうして、特定の理論形態を持たない保守主義が生き延びてきたと言うことは、「そこに人間生活のある本質的な一面を表現する観照が一貫して流れている」と見ることもできます。

 とはいえ、保守主義と自由主義が19世紀の時代思想を二つに分かつ対立物であった以上、その両者の間には、社会・人生に対する見解において明瞭な相違が存在したことも事実です。その違いは、次のような諸点にありました。

 第一に、社会の変革に対する態度で、両者とも変革そのものは否定しないが、自由主義の場合は多かれ少なかれフランス革命の精神を一つの価値基準としており、時には現実を無視して変化を求める傾向があるのに対し、保守主義は、変化の中にも過去とのつながりを重視する。いはば、前者はゾルレンとしての抽象的概念から、後者はわれわれが現実に見出すザインから出発する。従って、一般的に保守主義者は自由主義者よりも多く漸進主義者であると言うことができる。

 第二に、自由の観念に関して、ここでも保守主義者は自由の否定を旨とするものではないが、その自由の解釈の仕方が自由主義と違う。すなわち彼らは自由というものをあくまで具体的な事物との関連の中で把握しようとする。つまり、抽象的、無規定的な自由というものは存在しない。それは概念的対立物である権威というものとの相関関係の中においてのみ考えられる。一方、自由主義は権威そのものを否定するのではないが、とかくそのような要素を捨象して自由を説く。しかし、それが結果的に伝統的権威による制約を脱した絶対的政治権力を生むに至ったことも事実である。

 第三に、合理主義と非合理主義の差というべきものが考えられる。自由主義は人間の本性が理性にあり、従って人間の事物は合理的思惟によって処理できると考える。これに対して保守主義は、理性信仰に代えるに「生」を重視し、その生とは、理性を重要な要素としながら、それ以外の感情・本能・意志等の諸要素との複合として存在するもので、それらの諸要素の調和・均衡的発展を図ろうとする。といっても、それは理性の万能的支配を認めないと言うことであって、理性そのものを否定するものではない。

 最後に人間能力の評価である。保守主義は、自由や進歩を否定も軽視もしないが、その掲げる標語の単純な支配に賛成しないのは、人間存在の本性に対する反省と人間の能力の限界についての認識が存在するためである。自由主義はこうした保守主義にある人間の能力の限界についての認識が希薄である。

 しかし、以上の保守主義と自由主義の比較は19世紀のものであって、20世紀には大きな変化が生じた。それは政治勢力としての自由主義が保守主義と合体したということ。これは、両者の対抗思想である社会主義が台頭したためでもある。また、フランス革命に見られた理性万能の啓蒙主義的思惟方法が、実証科学的な思惟方法=「事実による仮説の検証」に取って代わられ、自由主義の抽象性・観念性が薄まったこと。その結果、自由主義も具体的な生の関連の中の自由を重んじるようになり、保守主義との対立の基礎が失われることなどによる。

 これに対して新たに登場した社会主義は、かっての自由主義が持った理性万能主義的性格をそのまま受け継ぎ、あるべき社会状態の想定からする現状批判、人間社会を一つの法則的発展観念の下に解釈しようとした。また、自由主義のような個人主義、自由第一主義には立たず、公共の福祉を個人の自由に優先させたことから、いきおい、個人の内面的自由を軽視する傾向を持った。この点、保守主義は、市民社会における公共性を重んじる観点から自由の制約を説きはしたが、個人の内面的自由の制約は説かなかった。

 しかし、こうした保守主義と社会主義の対立も、西欧社会においては共に民主主義的な政治制度を採用することで、共に社会改良主義的な政策を採るようになった。ただし、保守主義は、前述したように、固定した理論体系を持つものでなく、現実の事態の尊重の上に立って、その改革のあり方を構想する。従って、何を持続し何を捨てるか、自由の限界をどこにもとめその発揮を如何なる形において定めるかは、その時々の自主的決定によって決まる。そこで、その間における判断の正鵠と妥当が重要な課題となる。

 こうした保守主義の流動的性格は、その決定の過誤を当然に内包することになる。しかし、複雑な諸要素の聚合から成る人間社会は、決してそのすべての要素が一様に変化するものではないから、進歩は何らかの意味での安定の破壊をもたらすことになる。その場合、安定を重んずるあまり変化を恐れ、当然行わるべき改革を怠ったり、或いはそれに反対したりする場合が生ずることは避けがたい。そのため、「保守的」という言葉が「事なかれ主義」や「頑迷」の意味に使われることになる。

 以上は、保守主義の発展についての思想史的解説ですが、日本における問題点は、以上説明した保守主義と自由主義の思想的な対抗関係が十分検証される暇なく、従って両者の違いが止揚されることもなかった、ということです。つまり、前者は、皇国史観に基づく一君万民平等の家族共同体的国体観をベースとしていたということ。後者は、明治憲法に規定されたイギリス流立憲君主制をモデルとしていたということ。そして前者は教育勅語によって顕教的に説かれたのに対し、後者は一部の政治家・知識人によって密教的に保持されたということ。

 この矛盾した関係が、第一次大戦後の政治的・経済的・社会的混乱状況の中で顕在化し、前者の保守主義が、後者の自由主義をそうした混乱の元凶として駆逐することになったのです。この際の保守主義は保守反動と化し、教育勅語に語られた宗主的天皇は神格化され、かつ、天皇の統帥下にある軍は内閣からの独立を主張しました。こうして、日本の政治・外交の実権が軍に握られた結果、明治以降日本が積み重ねてきた政治制度の近代化の流れ――立憲君主制の下での政党政治・議会政治は崩壊し、代わって、軍中心の国家社会主義体制が敷かれることになったのです。

 この場合、軍がもっとも忌避した思想が自由主義でした。本来は、先述したように、保守主義と自由主義は、近代民主主義的な政治制度を確立する中で、理性万能主義を排し、漸進的に社会改革を進める「車の両輪」の関係にありました。この両者の関係が、昭和に至ってアンビバレントな矛盾関係に陥ったのは、実は、軍が依拠した保守主義は明治政府の採った近代の保守主義ではなく、皇国史観に基づくファナティックな尊皇攘夷思想だったからです。

 さらに言えば、そこにおける天皇親政はあくまでも建前であって、当時軍を支配した幕僚軍人らの本音の思想は、軍が実権を握る国家社会主義だったということです。言うまでもなく国家社会主義は、社会主義的理念を国家権力をもって一気にその実現を図ろうとするもので、本来の保守主義――「理性を重要な要素としながらも、それ以外の感情、本能、意志等の諸要素との調和、均衡的発展を図る」漸進的改良主義とは対蹠的な、いわば初期の自由主義の「理性万能主義」を引き継ぐものだったのです。

 こうして、伝統的権威による制約をも脱した絶対的政治権力が生まれることになりました。昭和の幕僚軍人は、国民に対しては天皇を神格化しそれへの絶対忠誠を説く一方、現実政治においては、天皇を”錦の御旗”あるいは”玉”と称して、自らの権力絶対化のための手段としました。昭和動乱の発端となった満州事変は天皇の奉勅命令を無視して推し進められました。この結果、明治維新以降大正デモクラシーに至る日本の政治制度の近代化・民主化の流れは圧殺されました。

 その後、皇国史観に基づくファナティックな尊皇攘夷思想と、西欧の反近代思想である国家社会主義とが結びつくことになりました。この時石原完爾によって説かれた思想が、西欧文明を覇権文明、東洋文明を王道文明と規定し、日本を西洋文明に対抗する東洋文明の盟主と位置づけ、軍事大国化を目指す道でした。それは満州事変に始まり、華北分離、日中戦争を経て大東亜戦争に発展し、ついに破滅的な敗戦を迎えることになったのです。

 こうした失敗をもたらした、その思想上の問題点は何だったかというと、一言で言うと、先述したような保守主義と自由主義の対抗関係を、民主主義的政治制度を確立する過程で止揚出来なかったということです。人間社会は、時代の変化に対応して政治・経済・社会の仕組みを変えて行かなければならない。その際の改革の進め方は、伝統文化の生命力を生かし、弱点を克服しつつ漸進的に進めて行く外ない。この宿命を見定めた「保守の思想」を確立できなかったということです。

 このことは、戦後日本の思想的発展にも大きな障害をもたらしました。戦後日本の思想の流れは三つあります。一つは、明治維新から大正デモクラシーに至る日本の政治文化の近代化の流れを復活しようとした、いわば幣原、吉田ラインとでも言うべき保守主義の流れ、もう一つは、この保守主義と軍部の保守反動思想とを一緒くたにして、敗戦に至る日本の歴史を全否定し、社会主義思想の下に、一君万民平等の理想社会を実現しようとした社会主義の流れ、最後は、アメリカの占領政策――東京裁判からプレスコードによる検閲によって、日本の歴史的伝統文化の連続性を破壊しようとした占領政策の流れです。

 この三つの流れのうち、最初の保守主義の流れ、これを自由主義との対抗関係を止揚する中で発展させることが日本にとっては最も望ましかったわけです。しかし、アメリカの占領政策が、軍政の常として原住民政府と原住民の関係を敵対化したために、社会主義を理想とする革新派の反体制運動が主流となった。さらに、それと平行して、アメリカが、プレスコードによる検閲によって、日本の歴史伝統文化の連続性を破壊しようとしたために、日本の革新派の運動は、反国家さらには反日本歴史・文化運動になってしまった。

 こうした革新派の、反国家、反日本歴史・文化的体質が、朝日や毎日などの大新聞や、進歩派知識人・反体制政党などに受け継がれているのです。問題はそれだけではない。こうした日本の革新派は、実は、無意識的に戦前の尊皇思想の一君万民平等主義、徳治主義・家族主義的国家論に拠っており、かつ、反英米=反自由主義ナショナリズムをその基底に持っている。つまり、その思想的系譜は明治維新期の尊皇攘夷思想にあるということ。それゆえに、この思想は今日まで生き延びた、と見ることができるのです。

 しかし、こうした反国家、反日本歴史・文化的体質を持つ革新派に支えられた民主党政権は、三年半の施政を経て政権を失いました。財政を無視した社会主義的ばらまき政策の挫折、反米ナショナリズムに迎合した沖縄基地問題の処理の失敗、さらには夫婦別姓などの日本の伝統文化否定の動き、鳩山首相や菅首相らの無国籍かつ人望なきリーダー体質の暴露等々・・・。こうして自民党安倍政権が誕生することになったわけです。

 しかし、改めて国会の政党構成を見ると、一部少数政党を除いて、他は保守政党だということ。つまり、ここにおいてようやく、保守主義と自由主義の対立関係を止揚する、日本の「保守の思想」(これはイデオロギーではなく上述したような態度)の基盤が出来たと言うことができると思います。

 これによって、それぞれの保守政党の政策について、その保守主義の真贋を問うことができるようになります。もちろん保守反動はダメ、理性万能主義の自由主義や社会主義もダメ。先に、「保守主義は固定した理論体系を持たず、現実の事態の尊重の上に立ってその改革のあり方を構想する。その場合何を持続し何を捨てるか、自由の限界をどこにもとめその発揮を如何なる形において定めるかは、その時々の自主的決定によって決まる、従って、その間における判断の正鵠と妥当を政党間で争うことになる」ということを申しました。

 今回の選挙では、各党の政策の違いが必ずしも明確でなく、そのためか投票率も前回より10%程低かった、ということが指摘されます。また、選挙後のマスコミ評では、自民党安倍政権の保守性を批判する意見も多く聞かれます。しかし、上述したように、こうした状況を、保守主義の真贋を見分けるための基盤が出来た、という観点から見ると、ここではじめて、各党の歴史認識や日本の伝統文化理解、さらにはその継承策・改善策の正鵠と妥当を問えるようになったわけで、日本の政治近代化の大きな前進と見ることができると思います。

 そこで次回は、こうした観点から、自民党や日本維新の会の政策を具体的に検証して見たいと思います。

最終校正2013/1/1

2012年12月11日 (火)

「保守の思想」を再点検する6――敗戦を国民の胸に深く刻み、その原因を究明し公表すること

 本年の9月から10月にかけて、「負けて、勝つ~戦後を創った男・吉田茂」という題名のNHK歴史ドラマがありました。「負けて、勝つ」というのは、アメリカに「戦争では負けたが、外交で勝った」という意味なのですが、では、ここで「外交で勝った」というのはどういうことなのかというと、これが必ずしもはっきりしない。吉田茂を始め当時の日本人は、マッカーサーを”救世主”のように崇めましたし、例の「日本人12歳説」がなければ、東京湾の入り口には、自由の女神よろしくマッカーサーの銅像を建ったそうですから、”マッカーサーに勝った”とはとても言えない。まあ、吉田のマッカーサーに対する態度が堂々としていた、という程のことかと・・・。

 そこで、本稿で論じた、戦後憲法の”ビックリ条項”いわゆる象徴天皇制と戦力放棄条項がどのような経緯で書き込まれたを、このドラマに注意して見ることになったわけですが、この点は、実に明快に、幣原喜重郎がマッカーサーに申し出たものとして描かれていました。ということは、この憲法の”ビックリ条項”とりわけ戦力放棄条項は、アメリカが日本に押しつけたものではなく、日本人がマッカーサーを教唆し憲法に書き込ませたものとNHKは解釈しているわけです。日本はアメリカに「戦争では負けたが、外交で勝った」というメッセージは、ここに込められていたわけですね。

 この点に関して、岡崎久彦氏は『吉田茂とその時代』で、昭和21年1月24日の幣原喜重郎とマッカーサーの会談の内容について、次のように言っています。

 マッカーサーはその占領政策を成功させるためには、天皇制維持が必要だと考えていた。そのためには「戦争放棄などを含む、極東委員会の誰も反対しようのないリベラルな憲法」を極東委員会が開催される2月26日までに作ることが必要で、しかも、それが占領軍の強制ではなく、あくまで日本側の自発的意志ということでなければならなかった。そのため、幣原は、マッカーサーとの会談で、「大筋として、今後必ず平和憲法をつくり、そしてそれは占領軍の強制ではなく、日本側の発意だったとする約束をする以外になかったのである。」(上掲書P151)

 つまり、幣原は、この時、マッカーサーに「戦争放棄などを含む、極東委員会の誰も反対しようのないリベラルな憲法」をつくる必要性を告げられ、かつ、それを日本側の発意とすることを約束させられた、というのです。しかし、それは、「戦争放棄」ではあっても「戦力放棄」ではなかったのではないか。また、その憲法草案はGHQが作って日本側に押しつけたものであることは明白だったわけですから、それを「日本側の発意」とすることにそれほど大きな意味があったとも思われません(それをあえて「日本側の発意」とする意味は、「戦力放棄」が日本側の発意だったからではないか)。従って、問題は、なぜここに「戦力放棄」条項が挿入されたか、ということではないでしょうか。(下線部12/13挿入)

 ところで幣原は、敗戦の年の10月に東久邇内閣の外相吉田茂に次のような「終戦善後策」を書き送っています。(上掲書P80)

(1)連合国の信頼をかち得ること
 もし国内の秩序が乱れて内外人に被害が出たり、また権謀術数を弄して公約の実行を怠ったりすると、連合国によるわが国の主権制限は厳しくなり、占領も長くなるであろう。

(2)敗戦を国民の胸に深く刻むこと
 たんに生活のために連合国の歓心を求めるのに汲々とし、あるいは、敗戦の恥を忘れて偸安に耽るようでは日本の再建はできない。

(3)国際情勢のチャンスを逃さず、日本に有利な局面の展開を図ること。列国間に百年の友もなく、百年の敵もない。終始列国の動向に注目し、好機に乗ずるべし。

(4)政府は敗戦の原因を究明し公表すること。  

 (1)は、負けっぷりの良さを示し、国内秩序をしっかり維持すること。(2)は、敗戦という現実を主体的に受け止めること。(3)は、国際情勢の動向に注視し、日本に有利な局面展開を図るべく好機に乗ずること。(4)は、敗戦の原因を政府の責任において究明し、その結果を公表して、国民の歴史的教訓とせよ、ということです。これは、幣原が首相になる以前のものですが、この内の(1)と(3)の策が、まさに、GHQが憲法草案を押しつけてきたこの局面において発揮された、ということが言えるのではないでしょうか。

 つまり、戦勝国が、敗戦国である日本に憲法を作って押しつけるなら、この際、その戦争放棄の理念をさらに徹底させて戦力放棄とし、日本人が、戦後の米ソ対立構造の中でアメリカの先兵として使われる危険性を予め排除する・・・と幣原が考えたとしても決して不思議ではないと思うのです。その後、幣原は知己であった柴垣隆氏に次のように語ったとされます。

 「今度の憲法改正も、陛下の詔勅にあるごとく、耐えがたきを耐え、忍ぶべからざるを忍び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。これこそ敗者の悲しみというものだ」としみじみ語り、そして傍らにあった何か執筆中の原稿を指して、『この原稿も、僕の本心で書いているものではなく韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。いずれ出版予定のものだが――これは勝者の根深い猜疑と強圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ』」(上掲書141)

 これは、幣原の長男道太郎氏が、「第九条幣原提案説は百パーセントの嘘である」ことを証明するために引用したものですが、私には、これは、「第九条、特にその戦力放棄条項は、上記のような理由で、幣原がマッカーサーの理想主義を逆用して新憲法に書き込ませた」ものであることの証言のように思われます。おそらく、この時、幣原が書いていた原稿は、戦後の国際政治における戦力放棄の意義を説いたもので、それは、まさに「勝者の根深い猜疑と強圧を和らげる悲しき手段の一つ」だったのではないか。

 ということは、幣原の本心においては、戦勝国から憲法を押しつけられるなど、国家としては最大の屈辱だったわけで、それなら、それを弁護する必要など全くないということになります。にもかかわらず、なぜ、幣原は、その戦力放棄条項を自らの発案と言い、その意義を論文に書いてまで強調したのか。それは、言うまでもなく、「国際情勢のチャンスを逃さず、日本に有利な局面の展開を図り、好期に乗ずる」ためであり、そのための策が、戦争放棄をさらに進めて戦力放棄条項とし、それを新憲法に書き込むことだった、と見ることができると思います。

 さて、これによって幣原は、吉田と共に、先の4項目の策の内、(1)と(3)を達成することが出来ました。残ったのは(2)と(4)ですが、これについては、戦後60年経った今も、未達成のままだと言うことですね。あえて再掲すれば、(2)敗戦を国民の胸に深く刻むこと。(4)政府は敗戦の原因を究明し公表すること。つまり、戦勝国に憲法を押しつけられたことの屈辱を決して忘れるな、ということ。また、戦勝国の都合による戦争(歴史)解釈に拠らず、自らの力で、主体的に日本の敗戦原因を究明し、それを国民の歴史的共有財産とせよ、ということです。

 ともあれ、幣原と吉田は(おそらく昭和天皇とも連携して)、(1)と(3)の策によって、軽武装・経済立国・日米協調という日本の戦後政治の基本スタイルを確立することに成功しました。しかし、重ねて言いますが、(2)と(4)の課題をクリヤーすることなしには、日本の再建はできません。では、なぜ、日本が独立を回復した後にもこれが出来なかったか。その原因は、日本人自身の問題でもあるわけですが、占領軍の占領政策=軍政下の思想統制が極めて巧みだった、ということにもよります。

 この問題を最初に指摘したのが山本七平です(『ある異常体験者の偏見』「洗脳された日本原住民」(昭和48年)。そして、この事実をアメリカの占領軍関係の文書(スートランド国立公文書館分室のG-2関係資料、及びメリーランド大学付属マッケルディン図書館のプランゲ文庫)によって実証したのが、江藤淳の『閉ざされた言語空間』でした。

 ただ、江藤淳の場合は、「アメリカは、占領下の日本での検閲を周到に準備し、実行した。それは日本の思想と文化とを殲滅するためだった。検閲がもたらしたものは、日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖である」との指摘。問題は、後段の「日本人の自己破壊による新しいタブーの自己増殖」ということですが、その原因が、アメリカ軍が日本占領中に実施した検閲にあったことは間違いないとしても、日本人が独立回復後もこのタブーを破れなかった、その責任は、やはり日本人自身が負うべきだと思います。

 このことを、江藤淳より10年前に指摘したのが山本七平で、その問題構造を次のように明らかにしています。

 「占領下の言論統制やプレスコードの実態は不思議なほど一般に知られていない。マスコミ関係者がこの問題をとりあげると、必ず、例外的な犠牲者を表面に立て、自分はその陰にかくれて、自分たちは被害者であったという顔をする。それは虚偽である。本当の被害者は、弾圧されてつぶされた者である。存続し営業し、かつ宣撫班の役割を演じたのみならず、それによって逆に事業を拡張した者は、軍部と結託した戦時利得者でありかつ戦後利得者であって、「虚報」戦意高揚記事という恐るべき害毒をまき散らし、語ることによって隠蔽するという言葉の機能を百パーセント駆使して「戦争の実態」を隠蔽し、正しい情報は何一つ提供せず、国民にすべてを誤認させたという点では、軍部と同様の、また時にはそれ以上の加害者である。

 占領下の言論統制やプレスコードという問題になると、・・・多くの出版人が言うように「プレスコードのしめっけは東条時代よりひどかった」のは事実であろう。この点、内務省や軍部の統制には、表むきは実にきつく、つまらぬことまでうるさく干渉するくせに、どこか幼稚なところがあった。「××は×××である」で本が出せた時代などは、ソビエトや中国の言論統制と比較すれば、幼稚を通り越した間抜けであろう。戦時中は非常にきびしくなったとはいえ、やはり、こういった間抜けがあった。

 マックの統制はこれとは型が違ったらしい。神経症的な毛嫌いはなく、かつ枠は一見大きいように見えたが、占領政策に障害ありと認めたものは、即座に出版を停止させ、抜け道は一切なかった。『野呂栄太郎全集』の中断は、それが理由だときいた。たかだか二千部三千部という、部数という面から見ればほとんど影響はあるまいと思われるものにまで直接的統制が及んだということは、新聞・放送は徹底的に統制されていた証拠といえるであろう。

 そしてこの、日本的な抜け道がないということが「東条時代よりきつい」という印象の原因であろうと思う。事実マックは、「私信」すら遠慮なく組織的に開封して点検した。こういうことは、戦争中の軍部も行わなかったし、日本軍の占領地でも全く行われなかったそうである。ほかの多くの例は除くが、あらゆる点から見てマックの言論統制が戦争中より徹底したものであるという古い出版人の意見は、妥当性があると私は思っている。

 ただ彼は軍部よりはるかに巧みであって、一般の人びとにはほとんどそれを感づかせず、「言論」が自由になったような錯覚を、統制した新聞を通じて、人びとに与えていたのである。そして今でも人びとは、この錯覚を抱きつづけている。民主主義と軍政の併存(?)は、実は、この錯覚の上に成り立った蜃気楼にすぎない。

 プレスコードによって情報源を統制してしまえば、あとは放っておいて「自由」に議論させればよい。そしてその議論を誘導して宣撫工作を進めればよいわけである。この点日本の新聞はすでに長い間実質的には「大日本帝国陸海軍・内地宣撫班」(と兵士たちは呼んだ)として、毛沢東が期待したような民衆の反戦蜂起を一度も起させなかったという立派な実績をもっており、宣撫能力はすでに実証ずみであった。これさえマック宣撫班に改編しておけば、占領軍に対する抵抗運動など起るはずはない、と彼は信じていた。

 これは私の想像ではない。私にはっきりそう明言した米将校がいる。そしてそれはまさに、その通りになった。「史上最も成功した占領政策」という言葉は、非常な皮肉であり、同時にそれは、その体制がマックが来る以前から日本にあり、彼はそれにうまくのっかったことを示している。そしてこれは戦争中の軍部の位置にマックを置いてみれば明らかであろう。

 「占領統治・宣撫工作」の基本図式は、日本軍がやろうと米軍がやろうと同じことである。まず「民衆はわれわれの敵ではない」と宣言する。何しろ「一億玉砕」とか「徹底抗戦」とかいうスローガンを掲げて、竹槍まで持ち出していたのだから、どんな復讐をうけるかと思っていたところに、こういわれるとホッとする。一方占領軍は民衆の散発的抵抗という、最もいやな問題に直面しないですむ。そこで「占領軍は民衆の味方であり保護者である」と宣言する。ついで「お前たちをこのように苦しめた一握りの軍国主義者はわれわれの手で処罰する」という。

(中略)

 この行き方は軍政なるものに必然的に付随するようにも思う。第一 「お前は敵ではない」と宣言しなければ「対話」はできない。では敵でないなら、なぜこの国へ侵入してきたのかとか、なぜわれわれに干渉するのか、となると「それは、百年にわたり東亜を侵略した米英帝国主義者からアジアを解放するためで、従ってお前は私の味方であって、米帝国主義者や一握りのその手先は日比共同の敵である。従ってその敵と戦うためお前たちの協力を求める」という言い方しか出来なくなるのである。

 相手はその言葉をどこまで本気で聞いたかわからないが、一応「うけたまわって」おけば、何しろ敵ではないと言われたのだから、自分が安全なことは確かである。何しろ相手は武器をもっているから反論はできない。そして本当の反論は、武器には武器という形になるであろう。従ってこれは対話のように見えるが、実はきわめて一方的な宣言にすぎず、「占領軍の命令指示に従え、そうすれば生命財産は保証する。ただし敵対するなら射殺するぞ」という一方的な命令を、「対話」の形式でいっているにすぎないのである。これが宣撫なるものの基本型であり、以上の台詞がその原則の一である。

(そうした)原則を、新聞・放送を通じて複雑な表現で言っただけであり、違うのはただ伝達の手段と表現だけであって、伝達する内容は結局は同じことにすぎない。そしてそうするのは、それが占領軍にとって有利だからだ、という理由だけである。結局占領軍の原則とは「占領軍に有利」ということだけであるから、たとえ原則らしいことを口にしても、それが自己に不利ならば、平然と自分の原則を自分で破る。

 たとえば経済力の集中は排除する、独占は許さんと言っても、軍の移動に必要ならば当時独占企業であった日本通運はそのままにしておく。戦時中の独占的書籍雑誌配給企業である日配(日本出版配給株式会社)は解体しておきながら、単行本の配給機関などとは比較にならぬほど大きな影響力をもつNHKや大新聞は解体せず、自己の宣撫工作のためそのままにしておく。・・・そこでどのような手段を使っても絶対に避けようとすることは、占領軍が徹底的に不利な立場に立たされることである。

 そしてその最たるものは占領地のあらゆる不平不満が占領軍に集中して来て、ついには爆発して、両者の正面衝突となり、収拾がつかなくなることである。ひとたびこれが起れば、アメリカにおけるマックの声望は一瞬にして急落する。しかしどの社会にも不平不満や利害の衝突は必ずある。そこで宣撫班は、不平不満はいかなる場合も「原住民の当局に向うよう」誘導しなければならず、また「原住民の政争その他の争いに直接介入してはならない」のである。

 こうすれば、自分は矢面に立たないですみ、あらゆる不平不満は原住民の政府に向うだけでなく、これは一種の分割統治となるから原住民が結束して占領軍に刃向う心配がなくなるわけである。従って占領軍はたえず原住民の分裂を策し、また常に野党の立場に立って、原住民を原住民政府に向わせ、そのエネルギーを自己に集中させないようにする。これは宣撫工作の原則の二である。

(中略)

 宣撫のもう一つの原則は「原住民に深く考えさせないことと直接的情報を受けさせない」ことである。というのは宣撫班の言っていることは、ちょっと静かに考えれば、だれが口にしようと「子供だまし」で、常識のある社会人に通用する代物ではないからである。と同時に社会人は社会に生きているから、身辺から直接情報がとれる。物価が上がった、物資がなくなった、食料を売ってくれない、闇値が高騰した等々から、どこにゲリラが出た、だれだれが消えてなくなった等々まであらゆる情報があり、どんなに情報を統制しても、この直接的情報は消すことはできない。

 中国人やユダヤ人はこの直接的情報を組織化することが上手だそうだが、戦争中日本にいた中国人は、直接的情報だけで、日本の敗戦の日時を正確に予測していたそうである。これは宣撫班にとって最もこまる問題であり、一歩誤れば宣撫工作はこの点で瓦解する。そして、これに対処するため、宣撫班は二つの方法を使う。一つには絶えず架空の「危機」を言いたて、同時に「占領体制」に批判的な人間にその危機の原因を転嫁して糾弾し、それを沈黙ざせてしまう方法である。

 これは二方向に作用する。人間は危険の表示に非常に弱い。ただの水をビンに入れ、これに「劇毒」と表示しておけば、だれも絶対にふれないが、同時にそれに注意が集中して、他のことが念頭になくなってしまう。そして対象を変えつつ、たえずこれを行うと、人間は思考力を失って、指示された方のみを見、指示された通り反射的に動き出すようになってしまう。・・・いわば「原住民」をある程度は、軍隊を動かすように動かしうる状態にもって行き、宣撫班が直接間接に与えるさまざまな指示しか見ず、指示された通りにしか動かないようにしてしまうわけである。

 この面に関する限り、宣撫班による被害は、実に昭和五年ごろの「非常時」「超非常時」の叫び以来、半世紀近くわれわれは受けつづけているのである。日本人が天性暗示に弱いとか扇動に乗りやすいとかいうのは恐らく誤りで、情報を遮断され、絶えずアントニーの詐術にふりまわされ、そのうえ絶えず「危機」「危機」とやられればどの民族でもそうならざるを得ないと私は思う。そしてこれは新聞宣撫班が日本に流した最も大きな害毒の一つだと私は思う。

(中略)

 昭和五年ごろから、実にあらゆる面で、危機・危機・危機の叫びは絶えずくりかえされている―― 一つ終れば、また一つと。人間も生物だから、絶えずこれをくりかえされていると、断続的な私的制裁の恐怖の下に常に置かれている兵士と同様、行動が衝動的反射的で思考は不能という状態にならざるを得ない。そうなってくれれば、宣撫班はこれを思うがままに操ることができる、操れれば「原住民」が一致して自分に立ち向う心配はない。そればかりでなく、それを「占領軍にとって好ましからぬ人間」への攻撃へと誘導すれば、自らの手を汚さずにある人間を抹殺し、ある人間を沈黙さすことができる。いわば一石二鳥で、これが最初にのべた二つの方向である。

 以上にのべた宣撫の原則の基本にあるものは何か。それは宣撫とは軍事行動であり戦争であり、従って、あらゆる方法を駆使して打倒すべき敵かおり、そのためマスメディアを使っての手段を選ばぬ作戦と戦闘が展開されているのであって、ぞの実態は情報の提供という意味での報道とは全く別だということである。従って宣撫班は敵がいなくなれば存在理由を失う。戦争中は確かに敵がいた。従って宣撫班は架空の敵をつくる必要がない。しかし戦争が終ったら敵はいない。そこで平和時の「軍政」では、軍政を維持していくためには、宣撫班はまずありとあらゆる架空の敵を作り出さねばならない。

 戦犯・パージ・レッドパージ、右翼の追放、共産党の追放等々々から戦争の責任の追及まで――ただし、宣撫に使えると見たものは、全部、温存しておいたのだから、民主化の為だなどとは全く白々しい。この細部を見ていくと全く無原則に見えるが、その底にあるものは「軍事占領」であり、「自軍に有利」の原則である。そして温存する場合、必ずその組織内の「戦争反対者」を表面に出して実体を隠蔽した。

 もし、冷たい戦争の時期が少し早く来て、マックが、日本の陸軍を温存することが占領軍に有利と判断したら、自衛隊を新たに創設することなく、東条に抵抗し開戦に反対して追放された軍人を表面に立てて、同じことをやったであろう。そういう人はいくらでもいた。彼らは専門家で実態を知っていたから、おそらく、宣撫されていた者より「戦争反対者」は多かったはずである。  

 新聞は新しい「権力」だなどといわれるが、「新しい」は誤りで、戦争中から、最高の権力者であった。プレスコードで統制された新聞とは、連合軍最高司令官の機関紙に等しいから、これを批判することは「占領政策批判」であり、そういうことをする者は、抹殺さるべき「好ましからぬ人物」であった。・・・(そして原住民の)不満を「原住民政府」と「架空の敵」に転嫁して、占領軍の安泰を計り、かつ「占領地日本の原住民」を相互に争わせてその勢力を減殺さすべく、宣撫班は実に忠実に行動したわけであろう。そして人びとは、言論の自由があると錯覚させられており、プレスコードの存在すら知らないままでいた。しかしこれは、戦後のことでなく、実に、戦争中からであった。

 その当時の新聞は、うっかりそれを批判すればそれはそのまま「軍部批判」となった。配属将校の耳にでも入ったらそれこそ大変と、親切な先生からゴツゴツと諭された体験が私にはある。もちろん立派な批判をしたわけではない。私が迂闊なので、ついついある記事を「こりゃ嘘だ、軍部へのオベッカだ」と言っただけである。それが問題になるぐらい新聞とは恐ろしい存在・絶対の権威であった。従って絶対的権力者であった――もちろん虎の威を借る狐だったのであろうが。そしてこの状態がはじまったのは、前述のように昭和五年乃至十年ごろからではないであろうか。思えば実に長い期間である。

 マックは去った。しかしマック制は存続した。ひとたび権力を握った者は、革命なしではその権力を手放すことはないという。その通りであろう。そして不幸なことに、マック制という軍政擁護の錦の御旗に「新憲法」がつかわれた。すなわち最高決定権はなお軍司令部宣撫班にあるという形態である。憲法で定められた通りなら最高裁のみが違憲の決定ができるはずである。しかし占領体制はそうはいかない。たとえ最高裁が何をいおうと、マックが違憲だといって、そう新聞に出れば違憲なのである。従って新聞は最高裁の決定をくつがえしうる絶対的な権力となる。

 軍部が支配したときも同じで、旧憲法でも信教の自由は一応保障されている。しかし、宣撫班は、この「不磨の大典」といわれた明治憲法の保障ですら、「国民精神総動員」の音頭をとって、実質的になくしてしまうのである。(中略)この体制は戦争が終っても形を変えて、マック体制の下で生きつづける。当時も今も、人は最高裁が何と判決を下そうと新聞が「憲法に違反し・・・」と書けば憲法違反だと信じているから、憲法にこうあるから、新聞判決の方がおかしいではないかといってもダメなのである。

(中略)

 ではどうすべきか。まず、われわれが置かれている現実の位置を見、過去における決定的な失敗の跡をたどり、それへの検討を新しい方法探求の基盤とすべきであろう。何しろ戦後三十年近くは空費してきたのだから、今急にあわてても何の結論も出るわけがない。考えるのは五年がかりでもよいであろう。そして考えるためには、まず、マック制とその宣撫班的発想から自らを解放することである。これがある限り、何の結論も出てくるはずはない。」(上掲書P182~191)

 「マック制とその宣撫班的発想から自らを解放すること」。それが独立後の私たちの課題だと言うのです。しかし、戦後三十年どころかそれから37年経った今でも、マック制という隠された軍政下の思想統制によって植え付けられた宣撫班的発想から自由になったとは言えません。朝日や毎日などの大新聞は、占領軍に代わって「新憲法」の平和主義や言論の自由を盾に、昭和史の反国家的宣撫班的解釈を国民に押しつけてきました。言うまでもなく、それは軍政維持のための方便だったわけで、それは言論の自由に支えられた民主主義とは無縁のものだったのです。

 このことを、米軍の占領政策のやり方から見抜き、それに服従すると見せかけてマックの理想主義を逆用し、彼らが日本に押しつけようとしている「新憲法」に戦力放棄条項を潜り込ませた。それによって予測される米ソ対立構造の中、日本人がアメリカ軍の先兵として使われる危険性を未然に防いだ。これが、幣原喜重郎や吉田茂等の「戦争に負けて、外交に勝つ」秘策だったのではないか。一方、マックの軍政擁護の宣撫班として、占領中はその情報統制の事実を隠し、独立後は、その宣撫思想の誘導に努めたのが、日本の大新聞だったのではないか。

 であれば、今こそ、幣原の「終戦前後策」の(2)敗戦を国民の胸に深く刻むこと。(4)政府は敗戦の原因を究明し公表すること、の二つを、日本再建に不可欠な課題として再認識する必要があると思います。それによって、昭和史の宣撫班的解釈からの脱却と共に、その反動としての陰謀史観から脱却する。日本人から見た「真の敗戦原因」を究明する。その上で、国民が大いに議論して、日本人の手になる「真の平和憲法」を創る。これができて初めて、日本は独立を達成したと言えるのではないでしょうか。

« 2012年11月 | トップページ | 2013年1月 »

twitter

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

最近のトラックバック