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2013年1月

2013年1月20日 (日)

「保守の思想」を再点検する9――「神聖秩序」と「世俗秩序」を二元論的に並立させる思想と日本の天皇制の関係について

 これまで、西欧近代社会におけるデモクラシーの発展と平行して確立された「保守の思想」とはどういうものか、について説明してきました。それは、西欧の中世社会におけるキリスト教を基軸とする神聖秩序から世俗権力としての政治を分離させることで、前者の信仰の自由は個人の内面において認め、後者の政治的自由は民主制のルールに従うこととしたこと。そこで、各個人に政治秩序形成における一種の「中庸の精神」が求められるようになり、それが「保守の思想」として確立された、というものです。

 ここで注意を要することは、このキリスト教を基軸とする神聖秩序と、民主主義に基ずく世俗秩序とは決してアンビバレントな関係ではなく、両者は緊張関係を持って並立すべき二元論的な関係に置かれたと言うことです。従って、個人の内心においても、この二つの秩序原理は緊張関係を持って併存することになります。実は、こうした考え方を前提にして始めて、基本的人権という考え方、とりわけ、その中心概念である思想・信条・良心の自由が認められることになったのです。

 では、私たち日本人の場合はどうでしょうか。日本人は一般的に江戸時代以降、脱宗教体制に入ったと言われます。確かに、江戸時代はキリスト教が禁止され、国民は強制的に寺の檀家制度に組み込まれ「仏教徒」となりました。しかし、その結果、寺が戸籍管理のような役割と葬祭業を独占的に担うようになったために、僧職が役所の市民課職員のようになり仏教の脱宗教化が一気に進むことになったのです。その精神的間隙を埋めたのが朱子学的世界観にもとづく儒教倫理でした。

 そこで、次に、この朱子学的世界観の下における政治的秩序が、その後、日本においてどのように構成されるに至ったかについて見てみたいと思います。言うまでもなく、朱子学は、孔子や孟子の教えについて書かれた儒教の教典を、「四書」(大学、中庸、論語、孟子)を中心にまとめ、それに新たな注釈を加えると共に、その思想的体系化を図ったものです。

 まず、孔子や孟子の説いた儒教についてですが、これは、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の関係を維持することを教えています。ここで五常の「仁」とは、人を思いやること。「義」とは 利欲に囚われず、すべきことをすること。「礼」とは、仁を具体的な行動として表したもの。「智」とは、学問に励むこと。「信」とは、言をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること等を意味します。

 次に、五倫の「父子の親」は、父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならないということ。「君臣の義」は、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならないということ。「夫婦の別」は、夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なるということ。「長幼の序」は、年少者は年長者を敬い、したがわなければならないということ。「朋友の信」は、友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならないということです。

 孟子は、以上の五徳(倫)を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えなければ、人間は禽獣に等しい存在であると教えました。なお、『中庸』では、これを「五達道」と称し、君臣関係をその第一としています。また、江戸時代初期の日本の儒者林羅山は、自著『三徳抄』において朱子学にもとづいて三徳(智・仁・勇)を概説し、五達道(五倫)との関連を述べています。

 こうした儒教の教えを、太極を中心とする宇宙構造下の「理気二元論」で説明したものが朱子学です。その朱子学の「理」とは形而上のもの、「気」は形而下のものであってまったく別の二物(「理気二元論」)ですが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係にあるとします。

 また、「気」は、この世の中の万物を構成する要素で、つねに運動してやむことがない。そして「気」の運動量の大きいときを「陽」、運動量の小さいときを「陰」と呼び、この陰陽の二つの気が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出されるとします。

 そして、「理」は、根本的実在として「気」の運動に対して秩序を与えるものとする。この「理気二元論」の立場に立つ存在論から、「性即理」という実践論が導かれる。「性即理」の「性」とは心が静かな状態ということ。この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。

 「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要というのが、朱子学の説く倫理的テーマです。つまり、朱子学の核心は実践倫理であって、朱子学は、この「性」にのみ「理」を認める(=「性即理」)のであり、この「性」に戻ることが「修己」なのです。

 そして、その「修己」の方法が「居敬窮理」であって、「居敬」(心を一つにして他にそらさないこと)の心構えで、万物の理を窮めた果てに究極的な知識に達し、「理」そのもののような人間になりきることができる、つまり「良知」に達することができる、とするのです。

 これに対して王陽明は、「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた「心」そのものが「理」に他ならないという立場をとります。王陽明は「致良知」といいますが、この「良知」とは、貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもあるとします。

 また「致良知」とは、この「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものと考えます。逆に言えば、この「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されないということ。ただし、「意」(心が発動したもの)が働くことで善悪が生まれるので、これを「良知」によって正す・・・これを格物といいます。

 このように、心の外に「理」を認めない陽明学では、経書など外的知識によって「理」を悟るわけではなく、むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考えます。これを「知行合一」といいます。従って、もし「知」と「行」が分離すれば、それは私欲によって分断されていると考えます。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教えますが、「知行合一」はこれへの反措定ということになります。(以上、wikiの関連項目参照)

 こうした朱子学や陽明学の教えが江戸時代以降の日本に大きな影響を与えました。もちろん、それは、それまでの日本の「神・儒・仏」混合の宗教的伝統の延長上に起こったことで、その受容にあたっては日本的な変容を免れませんでした。そこで次に、それがどのように変容したかについて見てみたいと思います。明治維新という大変革も、その後の近代化も、それによって可能になったわけだし、さらに言えば、昭和の悲劇もその延長と見る事もできますから。

 次に、山本七平が、「日本教」の”聖書”の如く江戸時代後期の日本人に読まれた、という貝原益軒の『大和俗訓』から、彼が多くの儒者と交わり、朱子学と同時に陽明学も修めル中で身につけた、彼の生涯における思想的決算というべき部分を紹介します。

 「『天地は万物の父母、人は万物の霊なり。天地は万物をうみ給う根本にして大父母なり、人は天地の正気をうけて生るる故に、万物にすぐれてその心明らかにして、五常の性をうけ、天地の心を似て心として、万物の内にてその品いととうとければ、万物の霊とはのたまえるなるべし。霊とは、心に明らかなるたましいあるをいう。

 天地は万物をうみ養い給う中にも、人をあつくあわれみ給うこと、鳥獣草木とことなり。ここを以て万物のうちにて、もはら人を以て天地の子とせり。されば、人は天を父とし、地を母として、かぎりなき天地の大恩を受けたり。故に天地につかえ奉るを以て人の道とす」

* ここでは天地と万物(人を含む)との関係を自然科学的・合理的な関係ではなく親子関係のような”よんどころない”関係としています。とりわけ人は万物の霊として五常の「性」を受けているので、その天地に対する大恩を忘れず、天地につかえよと・・・。

 「天地につかえ奉る道は別にあらず。天地の御心にしたがうを以て道とす。」「天地につかえ奉る人の)道はいかんぞや。およそ人は、天地の万物をうみそだて給う御めぐみの心を以て心とす。この心を名づけて仁という。仁は人の心に天より生れつきたる本性なり。

 仁の理は人をめぐみ物をあわれむを徳とす。この仁の徳をたもち失わずして、天地のうみ給える人倫をあつく愛し、次に鳥獣草木をあわれみて、天地の人と万物を愛し給う御心にしたがい、天地の御めぐみのちからを助くるを以て、天地につかえ奉る道とす。これすなわち、人の道とする所にして仁なり。」

* 「仁」は、人の心に天より生まれつきたる本性、という考えは、朱子学の「性即理」の考え方を反映しています。しかし、ここでは、それを親子関係に同定することによって根拠づけ、それを「人をめぐみ物をあわれむ徳」としています。

 「かくのごとく、極りなき大恩をうけたれども、凡人はしらず。いわゆる百姓は日々に用いて知らざるなり。しかるに(そのために)、天地につかえ奉らずして、人欲にしたがい、天理にしたがわざるは、天地の大恩をこうぶりて天地にそむくゆえ、天地の子として大不孝なり。人の子として、その親を愛せずして他人を愛し、父母にそむきて不孝を行うがごとし、不孝の子はその身を天地のうちに立てがたし。いわんや、天地の子として、天地にそむき不孝なるをや。幸いにしてわざわいなしといえども、天地にそむけるとがおそるべし。」

* 天地と人との関係を親子関係に同定することで、両者の関係を「恩」で説明しようとしています。この「恩」は、平家物語に見られる倫理概念で、「受恩の義務は拒否しない」「施恩の権利を主張しない」という対概念で構成される、日本に最も伝統的な倫理概念です。ここでは、朱子学の「性即理」を担保する「良知」が「恩」に代わっています。

 「人となる者、人倫の道は天性に生れつきたれども、その道に志なくして、食にあき、衣をあたたかに着、居所をやすくしたるまでにて、聖人の教えを学ばざれば、人の道なくして鳥けだものにちかし。かくの如くなれば、人と生れたるかいなし。万物の霊とすべからず。」

* その「人倫の道」は、天性のものではあるが、聖人の教え(四書五経など)を志を持って学ぶことで得られるもので、学ばなければ禽獣に近いという。この部分は『孟子』の教えと同じですね。

 「学んでも道を知らざれば学ばざると同じ。道を知りても行わざれば、知らざるに同じ。もし学びようあしくして道を知らずんば、学ばざると同じきなり。また道をしるは行わんがためなり。」

* このあたりは、陽明学の「知行合一」の影響が見られます。

 「人と生まるるは、きわめてかたきことなれば、わくらわに得がたき人の身を得たることをたのしみて、わするべからず。また、人と生まれて、人に道を知らで、むなしくこの世を過ぎなんことうれうべし」「人の心の内にもとよりこの楽あり。私欲行われざれば、時となく、所として楽しからずと言う事なし」

* 「人の心の内にある」「人の道」を知る事が「人の身」を楽しむ事であり、そのためには「私欲」を抑える事が必要だといっています。

 ここで、朱子学の考え方がどのように日本的に変容しているかをまとめると、
①天地と人間の関係を親子関係に同定していること。
②天地の自然秩序を支配している不変の自然法則(=「理」)と、人間の人倫関係を支配している道徳原理(=「性」)を一致させる媒介項である「良知」が「恩」になっていること。それによって、「性即理」という形而上的概念が、「恩」で媒介される人間関係になっていること。
③「恩」で媒介される「人の道」を知る事が人生を楽しむ事であり、そのためには私欲を抑える必要があるとしていること、などです。

 実は、こうした朱子学思想の日本的変容の過程で、神仏に対する畏れの観念を媒介とした宗教的観念が次第に脱宗教化して、「恩」の授受関係という二人称の人間関係論になっているところに、日本の思想の一大特徴があるのです。

 こうした日本における宗教的観念の脱宗教化は、日本における「市民思想」の始まりとされる石田梅岩によって、宗教的悟達(悟り)の状態とは、次のような「個人の内心における心理作用」として解釈されるようになります。それは、浄土教の西方極楽浄土は一体どこにあるのか、という議論から出発します。

 「仏氏ニテ云トキハ迷イガ故ニ三界城(=欲界・色界・無色界)、悟が故ニ十方空(宇宙万物は皆空であるという考え方)、本来無東西、何処南北アランヤ。如此ナレバ、彼国ト云ハ、唯心ノ浄土ト云コトニ決定セリ。浄土ト云モ我心ノコトナリ。・・・

 コレニ因テ見レバ、一切衆生二心ノ濁乱(にごりみだ)ルゝ者多ク、正念ノ者ハ少キユヘニ、衆生ノ心ヲ一筋二向ハシメン為ニ、西方ヲ極楽ト指テ教ユトノ玉フコト明白ナリ。然レバ極楽ヲ西方ト教玉フハ、愚痴ノ者二説玉フ法ニテ、上知ノ教ハ十方仏土(=現実の世界が仏土)ナルコト明ナリ。・・・

 サテ如来ノ説法ト云ハ、直二南無阿弥陀仏ト知ルベシ。如何トナレバ口ニ唱ル、南無阿弥陀仏ガ耳ニ入リ、一遍念仏ニテハ一念ノ悪ヲ消シ、二遍ノ念仏ニテハ二念ノ悪ヲ消ス。悪念死シテ善心生ルルナレバ、コレ即往生ナリ。・・・自心ヨリ生ルルヲ以テ、故ニ不往生を名(づけ)テ往生トナスナリ。・・・

 終ニハ余念他念ナク、後ニハ南無阿弥陀仏計(ばかり)ニナレバ不往(ゆかず)シテ、南無阿弥陀仏ニ生ルゝナリ。南無阿弥陀仏ニナレバ我ト云ウモノアルベキヤ。我ナケレバ虚空ノ如シ。虚空ニ南無阿弥陀仏ノ声有テ、唱レバ此レ即チ阿弥陀仏ナリ。(こうなれば)苦楽二ツヲ離レ終ルナリ。離レ終テ無心無念ノ不可思議トナル。是ヲ名(づけ)テ自然悟道トモ云」う。

 つまり、極楽浄土と云っても、これは各人の「内心の実在」であって「外的な実在」ではない。いわば、この現実の世界が仏土であって、それを仏土とするもしないも「本心」の一念であって、ここに、「仏」という概念はすでに外から働きかける「人格神」ではなく、本人の内なる心の状態になっています。

 また、念仏とは、それを唱える事によって悪念を消すためのものであって、それによって悪念が死んで善心となれば、これが即ち往生である。こうなると念仏は一種の心理作用となり、それによって無我の境地を招来し、我の意識も消え、虚空に波阿弥陀仏の声だけがあって、これが即ち波阿弥陀仏となる。こうして無我の境地に達する事を、梅岩は「聖人の状態」と規定し、これを人間の「本性」と考え、その本性は宇宙の本性と一致すると考えて、これを「絶対善」としています。

 このような、仏教や儒教・朱子学思想の日本的変容の仕方を見ると、それは、結局、仏教思想や儒教思想等の諸概念を用いて、日本の伝統的な「自然生成的」な思想(=古事記・日本書紀以来の日本の伝統思想=神道思想)を再編集しているように見えます。おそらくこれが「保守の思想」という事なのかも知れませんが・・・。

 そんなわけで、石田梅岩による日本思想の再編集作業は、その後、国学者によって説かれた「自然生成的」な神道思想との親近性を次第に露わにしていきます。

 「或問日、神儒仏三ツノ中ニテハ何レヲ至極恭シト尊バレ候ヤ。銘々信心スル所ガラ少シヅゝハ倚ル所アルペシ。互二心得ノ為二相尋申候。心内ヲ払テ御聞セ候へ。

 答。神儒仏三道ノ中ニテハ何レヲ至極ニ恭シト思ヒ尊ブヤ、信心スル所ニ依テ倚(よ)ル所アラハ申ベシト存、腸(はらわた)ヲサグッテ見申候へ共、少シモ倚ル所コレナク候。然レ共礼拝シ尊ブ所ニハ前後アリ。子細ハ儒者ユヘ学ブ所ガ礼ナリ。且ツ神モ正礼ヲ受、非礼ハ忽チ受玉ハズ。然レバ儒者モ正礼ヲ以尊べバ神明受サセ玉フコト明白ナリ。是レヲ以テ見レバ一日トシテ礼ナクソバ有ベカラズ。

 依テ神儒仏共ニ尊ブニ礼ヲ以テスルニ次第アリ。先第一(に)天照皇大神宮ト拝スル中ニ八百万神、天子、将軍モ寵リ玉フ。第二番ニハ文宣王ヲ拝スル中(に)、曽子、子思、孟子、宋儒等マデ龍り玉フ。第三番ニハ釈迦如来ヲ拝スル中ニ開山方マデ寵り玉フ。又仏者ナラバ第二番目ニ仏ヲ拝シ申ベシ。コレ礼ナクンバアルベカラズト云所ナリ。

 世ニスム者ハ此礼ヲ尽スベキ所ナリ。儒仏共ニ太神宮ハ第一番ナルベシ。細(こまかく)ハコレヲ推シヒロメテ万事万端ニワタルベシ。士農工商共ニ太神宮ニ次いで拝スベシ。太神宮ニ次デ父母ヲ拝スベシ。君アル者ハ士農工商共君ヲ先トシ、父母ヲ第二(に)拝スベシ。君ト親トヲ尊ビ拝スベシ。或ル時ハ正直ヲ胸ニツケテ高間(たかま)が原ヨリ天下ヲ照ラスベシ。」

 ここで、神儒仏のどれが最も尊いかと問えば、それは基本的にはそれぞれの信仰によるが、いずれも「礼」を尽くことが大切なので、まず、天照皇大神宮を拝す事を第一とし、是を押し広めて万事万端に及ぶべきである。次いで第二は、それぞれの信仰によるべきで、次いで第三は、君あるものは君を親と思い拝すべきであり、君なければ父母を拝すべきである、といっています。

 なお、この神授仏という宝をどう選びどのように用いるかと言う事については、これを金銀銭に例えて次のように云っています。

 「此三種ノ御宝ヲ何レヲ取テ勝レリトセン。何レヲ撰ラミ捨テヲトレリトセン。譬ヘテ云ハバ金銀銭ヲ遣フガ如シ。金ガ勝手ニ能コトアルベシ。銀ハ又悪キ事アルベシ。銭又コマカニ用ヒラレテヨキコトアルベシ。銀又ヨク、金又悪ク、銭又少シガヨク、大分ハ悪キコトアルベシ。財宝モ是ノ如シ。神儒仏ノ三道ヲ倚ラズシテ尊ビ用ユルモ是ノ如シ。
 金銀や銭なきむかしすミけれど けふはなければすまぬ世の中」

 宗教をこのように貨幣に例えたのは「人類史上梅岩だけだと思われる・・・宗教はアヘンなり」はまだそれなりに宗教の力を評価しているわけだが、「宗教は貨幣なり」となり「神儒仏ノ三道ハ倚ラズシテ尊ビ用ユルモ是ノ如し」となると、これはまさに三教合一論を極限まで押し進めた一種の脱宗教思想と考えないわけには行かない」と山本七平は言っています。

 このように、神儒仏が人間にとって「外的な実在」から「内的な実在」となり、それを貨幣のようにそれぞれの効用に従って使い分ける。つまり、神儒仏はいずれも「心(=生来の善心)を磨く磨草(とぎぐさ)」であるから何れも捨てるべきではない。ただ、あまり一つに偏らないようにした方がよい、といった考え方になってくるのです。いわば「宗教は薬」という考え方ですね。

 また、山本は、「彼は神儒仏を金銀銅の貨幣に比べ、これを信仰の対象とは見ていないとはいえ、人間の秩序の表象として皇大神宮を見ることは、それが同時に宇宙の基本的秩序の社会秩序における表象となることは否定できない。従って、その表象自体が「教育勅語的」に、人間が生きて行くための根源という形で宗教化」されれば、後の尊皇思想のように天皇を現人神とする考え方も出てくる、と言っています。(以上『勤勉の哲学』参照)

 このことは、冒頭に紹介したような、「神聖秩序」と「世俗秩序」二元論的に並立させることで社会を維持発展させようとした西洋キリスト教社会との対比において、極めて重要な問題点を提起しています。というのは、上述したような日本における脱宗教化は、江戸時代に主流となる朱子学の名分論的秩序観と相まって、世俗秩序を維持するための絶対的表象をその頂点に据える事になったからです。つまり、「親政秩序」が「世俗秩序」に潜り込むことになったのです。

 ここで、朱子学の名分論的秩序観について説明しておきますが、これは以下のような新井白石と日本にキリスト教を布教するためにやってきたシドチとの対話に典型的に現れています。(『受容と排除の軌跡』p126)

 シドチは、彼自身すでに日本におけるキリシタン禁教史をよく知っていて、それが禁止されたのは、オランダ人が「キリスト教の布教はその国を奪うためだ」と讒訴したためだ。しかし、オランダこそ侵略国であって、私たちにそんな意志はない。宗教はそのようなものではない。私がここに来たのはそうした讒訴による無実を雪ぎ、キリスト教に対する国禁を解いてもらうためだ、といいました。これに対し、白石は次のような批評をしました。

 「按ずるに凡ソ国を論ずるに、其土の小大、其方の近遠によらずといふは、達論に似たり。又国を誤るもの、其教によらず、其人によるといふも、其言また理あるに似たり。されどまた其教とする所は、天主を以て、天を生じ地を生じ、万物を生ずる所の大君大父とす。我に父ありて愛せず。我に君ありて敬せず。猶これを不孝不忠とす。いはんや、その大君大父につかふる事、其愛敬を尽さずといふ事ながるべしといふ。

 礼に、天子は、上帝に事ふるの礼ありて、諸侯より以下、敢て天を祀る事あらず。これ尊卑の分位、みだるべがらざる所あるが故也。しかれども、臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とす。されば、君につかへて忠なる、もて天につかふる所也。父につかへて孝なる、もて天につかふる所也。夫につかへて義なる、もて天につかふる所也。三綱の常(君臣・父子・夫婦)を除くの外、また天につかふるの道はあらず。

 もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐて二尊、国におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし。たとひ其教とする所、父をなみし、君をなみするの事に至らずとも、其流弊の甚しき、必らず其君を弑し、其父を弑するに至るとも、相かへり見る所あるべからず」

 これをみると、江戸時代における朱子学の名分論に基づく社会形成の基本原理は、あくまで「治教一致」(=政治と教育は一体)でなければならず、天子は上帝を、臣は君を、子は父を、妻は夫を天としつかえて始めて義となるのであって、それぞれが個別にそれ以外の天につかえるということがあってはならない。それは二尊を生じることであって、社会秩序を乱す根本原因となるといっているのです。

 さて、こうした秩序観の上に、後に教育勅語に説かれたような、天皇を皇祖神の祭主とすると同時に国権の最高主宰者とする家族主義的国家観が説かれ、それが理想とされることになったわけですが、このことは西洋キリスト教社会における脱宗教化がもたらした反近代思想のニヒリズムにも通じていて、これが日本の昭和史を狂わせた根本原因であることを、私たち日本人は知る必要があります。

 山本七平は、日本における天皇制を前期天皇制と後期天皇制に区分していて、鎌倉時代以降、武家が政治の実権を握り皇室が宗教的祭祀を司るという、一種の二権分立の近代的政治体制が日本に確立した事を高く評価しています。しかし、その後江戸時代の終わりまで700年続いたこの伝統は、江戸末期の皇国史観に基づく尊皇思想の誕生によって天皇親政を理想とする国体観が理想とされる事で逆転しました。

 実際には、明治維新がなされて以降も、こうした天皇親政は行われず、イギリス型の立憲君主制をモデルとする明治憲法体制下に日本の近代化が推し進められ、天皇親政的観念は、教育勅語に基づく道徳教育の範囲内に止められていました。しかし、この両者の国家統治構造を巡る思想的決着をつけないまま、両者を併存させたことが、昭和の思想発展上の逆転現象を産むことになったのです。

 このことについての思想史的整理は、戦後も手をつけられないまま放置されていて、従って、左翼は、天皇制に基づく日本の政治的伝統文化を丸ごと否定しようとする一方、一君万民平等の「尊皇」の看板を「尊スタ・尊毛」に変えただけの思想に共鳴したり、また、右翼は、山本が指摘したような天皇制の歴史的変遷についての思想史的分析を無視して、明治維新期の尊皇思想を称揚したりしています。

 ここには、冒頭指摘したような、社会秩序形成における「神聖秩序」と「世俗秩序」の関係、及びそのそれぞれについての思想的・理論的根拠の確定という、内省的かつ持続的な知的営為が欠けているように思われます。従って、上記のような思想的営為を進めることが、今日の日本における閉塞的な政治状況を打開する上で不可欠だと思います。日本における「保守の思想」確立のネックはここにあるのではないでしょうか。

2013年1月 5日 (土)

「保守の思想」を再点検する8――日本人が独立回復後も「一部の軍国主義者」論を脱却できなかったのは何故か

 まず、本稿における「保守主義」と「保守の思想」の使い分けについてですが、前者は思想史上「自由主義」との対抗関係にある概念。後者は、その対抗関係を止揚することで両者が共有することになった、社会改革の民主的諸制度を介した斬新的改良主義(=基本的態度)のことを指しています。

 つまり、ここでいう「保守の思想」とは、自ずと「固定した理論体系を持たず、(歴史的・文化的に形成されてきた)現実の事態の尊重の上に立ってその改革のあり方を構想する。その場合何を持続し何を捨てるか、自由の限界をどこにもとめその発揮を如何なる形において定めるかは、その時々の自主的決定によって決まる、従って、その間における判断の正鵠と妥当を政党間で争うことになる」というものです。

 従って、その正鵠と妥当とは、それぞれの政党の政策を具体的に検討することによってしか判定できないということになります。そこで、まず、民主党の政策ですが、実は、彼らの政策は基本的には小泉首相と同じ「構造改革路線」でした。ところが、その基本政策の堅持より、政権奪取のための「格差批判」という小沢「策略」を採ったため、「構造改革」なしの「子ども手当」等バラマキ政策となりました。これが財政を破綻させ、その埋め合わせに消費税10%を提案することになりました。これが政権喪失に繋がったわけですが、問題は、この「構造改革」路線の妥当性如何ということですね。

 また、民主党の歴史認識も極めて曖昧なものでした。その曖昧さが日米同盟の重要性を阻却しかねないアジア共同体構想の提唱や、領土問題に対する極めてちぐはぐな対応となりました。韓国が執拗に繰り返す慰安婦問題についても、何ら有効な解決策を見いだせませんでした。その根本原因は、いうまでもなく、これらの問題構造を空間的な関係だけでなく時間的(=歴史的)関係のなかで捉えきれないためで、そのために場当たり的な対応しかできなかったのです。ここにおける問題が、いわゆる「歴史認識」の妥当性如何ということですね。

 前者の「構造改革路線」問題は、一見すると経済問題のようですが、実は、日本企業の雇用関係――終身雇用や年功序列制などの生活文化に関わる問題でもあるのです。また、後者の「歴史認識」問題は、日本の近現代史の評価に関わる問題、とりわけ昭和史の失敗から何を学ぶかという問題に繋がっています。

 言うまでもなく、これらの問題は日本人自身が解決しなければならない問題です。しかし、アメリカが、戦後の日本占領政策において日本の伝統文化を危険視しその断絶を図ったことと、それが、同じくアメリカが日本に押しつけた「平和憲法」と重なったために、日本の伝統文化やそれが生んだ歴史が、その「平和憲法」とは対極の位置にあるかのような錯覚に陥ってしまいました。

 もちろん、平和憲法の理念が全て正しいとか正しくないとか言うわけではありません。例えば、憲法第九条の第一項は、不戦条約の流れを汲むものであって日本も戦前この条約に署名していました。第二項の戦力放棄条項は、それは幣原喜重郎が戦後の米ソ対立を予測して、日本がアメリカの先兵として対ソ戦略に使役される危険性を予め封じるため挿入したものである可能性が大です。

 また、前文の「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのは、日本悪玉論を前提としているようですし、これとは逆に、戦勝国の国民は「公正と信義」に満ちているということを前提としているようです。。

 これらの戦勝国の立てた前提が手前勝手なものであることは言うまでもありませんが、日本が、その惨憺たる敗戦を通じて、「日本という国は近代持久戦争を戦える国ではない」ということを自覚したことも事実です。日本は島国であって、鉱物資源もエネルギー資源も限られ、耕地面積も少なく食料自給率も低い。さらに、これらを輸入は海上輸送に頼らざる得ず、従って、一度戦争となれば、その安定供給はほとんど不可能等々・・・。

 こうした手痛い経験をもとに選択された戦後の立国の基本方針が、「軽武装、経済立国、日米協調」路線でした。そして、この路線を選択したのが、「明治維新から大正デモクラシーに至る日本の政治文化の近代化の流れを復活しようとした」日本の自由主義者たち(幣原、吉田ラインとでも言うべき保守主義の流れ)だったのです。

 実は、彼ら保守主義者は、当然のことながら、その戦後の再出発にあたって、なぜ日本はこのような無謀な戦争をして国を滅ぼすことになったか、その原因を徹底究明しなければならないと考えました。そこで幣原内閣下で組織されたのが「戦争調査会」で、総裁幣原以下、馬場恒吾外十九名の学識経験者が委員、各省路間島十八名が臨時委員に任命されました。その第一回総会は、昭和21年3月27日に開かれています。

 その時の幣原総裁の挨拶は次の通りです。

 「今日我が国民が敗戦に依って被りたる創傷は日一日と身に徹え、食糧事情は逼迫する。物資は欠乏する。通貨は膨脹する。物価は騰貴する。戦災の焼跡は今尚大部分荒廃のままで急に復興の見込がない。電車や汽車は何時も混合って、乗ろうとする者降りようとする者の争が絶えない。斯の如く、敗戦の国民に與えたる苦痛は極めて深刻なものがありますが、その苦痛の深刻なるだけ一層大なる教訓を国民に具えておるものと考えます。

 或外国人は神の前には戦勝国もなく敗戦国もないということを私に話しましたが、我々は冷巌なる敗戦の事実を十分に認識すると共に、敗戦の苦痛の為に意気銷沈するが如きことなく、凡ゆる試錬に堪え、敢然として自力を以て立ち上り、平和的なる幸福なる、又文化の高い新日本の建設に一路邁進しなければなりませぬ。これが為には我々は如何なる理由に依って斯の如き不利なる境遇に陥ったのであるか、その原因を探究致しまして、再びこの失敗を繰返しませぬよう我々の心持を改め、教訓を後世に垂れることが我々の子々孫々に対する義務であると考えるのであります。(後略)」

 ところが、この日本人自身による「戦争の原因調査」は、GHQの占領下で認められず、同年9月末日を以て戦争調査会は廃止されました。そのため、この作業は民間事業として継続する外なくなりました。そこで、その作業は調査会事務局長官であった青木得三の外補助スタッフ二名で進められました。脱稿したのは昭和24年12月まだ占領中のことで、その標題は『太平洋戦争前史』となっています。また、その資料収集にあたっては極東軍事裁判で明らかにされた記録に多く依存していることが記されています。

 その内容は十八編にわたり、「ロンドン海軍軍縮条約に対する日本軍国主義者の反抗」に始まり「三月事件前後」、「柳條溝事件前後」、「上海事変前後」、「五、一五事件」、「満州国承認前後」、「国際連盟脱退前後」、「海軍縮小に関する日本の単独行動」、「二・二六事件」、「日独防共協定」、「日華事変」、「日華和平交渉(トラウトマン和平交渉=筆者)の失敗」、「中国新政権の樹立」、「三国同盟」、「日ソ中立条約」、「日蘭会商」、「仏印進駐」、「日米交渉」までとなっています。

 これらは、太平洋戦争に至った原因を探ろうとするもので、その嚆矢をなす事件として、昭和5年の「ロンドン海軍軍縮条約締結に対する統帥権干犯非難」を上げています。そして、それが三月事件、柳条湖鉄道爆破事件、十月事件を引き起こした。そしてこれらが、太平洋戦争発生の前駆となった、と指摘しています。では何故に統帥権干犯の非難が起こったかというと、これについては、その第一章総説で次のように述べています。

 「当時の日本は国土狭隘にして人口過剰、失業及び就職難は一般国民の間に瀰漫したるのみならず、これらの困難に遭遇せざりし者と雖も、有意の才を抱いて久しく志を得ず、空しく驥足を延ばすこと能わざるの状態にあった。茲に於て、日本民族が外に対して発展せんとする要求は翕然として起こった。これを理論的に合理化せんとする者は或は元老重臣の態度を非難し、或は当時政権を掌握せる政党の腐敗堕落を高調し、或は米英両国の亜細亜に対する政策を攻撃した。従って、我が国の軍備を縮小せらるることに対して反対するに至ったのも亦怪しむに足らない。然るに、浜口内閣が倫敦海軍軍縮条約に調印するに及んで、これに対する反感は統帥権干犯という題目を採って世間に現れるに至ったのである。しかして、その反感の根拠は軍備縮小そのものに対する反感であったことは疑いを容れない。」

 確かに、当時、こうした世間の風潮があった事は事実です。しかし、何故それが倫敦海軍軍縮条約に反対する統帥権干犯という非難になったかというと、その反感の根拠は「軍備縮小そのもの」であり、その反感の主体は軍だったということ。では、この「軍備縮小」が間違っていたのかというと、それは、第一次世界大戦の惨禍を経験した当時の世界の潮流だったわけで、もちろん日本国内も同じ潮流の中にありました(ただし、日本は対独戦に一部参加しただけ)。しかし、それが軍人軽視の風潮を生み、それが軍の「軍備縮小」に対する反感を一層募らせていました。

 また、なぜ、この当時の「軍備縮小」の潮流が、「統帥権干犯」騒動を経て三月事件や十月事件というクーデター未遂事件を引き起こし、満州事変が勃発するや、一転して日本の国民世論がこうした軍の積極的大陸政策を支持するようになったか?ここには、昭和3年以降、普通選挙法に基づく選挙が実施されるようになったということも関係しています。つまり、政治に及ぼす国民世論の影響が無視できなくなったと言うことです。そして、このことにいち早く気づき、世論を味方につけるための一大キャンペーンを繰り広げたのが陸軍でした。

 その先兵としての役割を果たしたのが、満州青年連盟でした。彼らは石原・板垣等が企図する関東軍による満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州における在留邦人の世論の統一と、さらに国内世論を喚起沸騰させるための一大遊説運動を展開しました。その主張は「満蒙は我が国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地として我が国の存立上極めて重要の地域である」という大前提のもと、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」というものでした。

 こうした満州における在留邦人の危機意識は、田中内閣の山東出兵、済南事件、張作霖爆殺事件などに起因する満州における排日運動の高まりを背景としていました。そして、こうした問題の解決を、満州の武力占領によって解決しようとしたのが陸軍だったのです(当初海軍は賛成しなかった)。では、この場合、満州の武力占領が唯一の問題の解決策だったかというと、必ずしもそうではなくて、そこには次のような陸軍のエリート幕僚青年将校等の思惑がありました。

 「軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下から分離させること、そして、対ソ戦争を遂行中に予想されるアメリカの干渉に対抗するため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する」ことでした。つまり、満蒙における「国際法や条約の守られているはずの日本の権益を、中国がないがしろにしている」という主張は、陸軍にとっては国民を納得させるための「宣伝」に過ぎなかったのです。これが、満州事変が満州の実質的な武力占領に止まらず、華北分離さらには蒋介石政権打倒へとエスカレートしていった理由です。

 ともあれ、陸軍は、こうした「宣伝」に拍車をかけ、「満州事変勃発後には、1ヶ月足らずの間に、全国の人口6,500万人のうち、165万5,410人が1,866回の講演会に参加したとの憲兵の記録」もあるそうです。こうした宣伝が功を奏して、満州事変直前(31.7)の東大生の意識調査では「満蒙に武力行使は正当なりや」との質問に対し、実に88%が「然り」と答えています。また、また、満州事変直後の同様のアンケートに対しては、約9割が「はい」と答えたそうです。(『それでも日本人は「戦争」を選んだ)』p263)

 端的に言えば、陸軍が国民を騙したということです。しかし、陸軍はこうした満蒙の武力占領を正当化する論理も周到に用意していて、その一つが、「満蒙における日本の特殊権益は国際法上正当な日中間の条約に基づくものであり、中国がそうした日本の正当な権利を蹂躙する以上、それを武力で守ってどこが悪いか」というもの。もう一つは、おそらく、満州事変後に考えられた理屈でしょうが、「張学良政権を匪賊なみの軍閥支配であると見なして、その支配に苦しむ満州の人々が圧政に耐えかねて独立を図った」というもの。また、「満州の治安は日本の利益に緊切な関係を有するから、そこでの日本の自衛権の発動は不戦条約に違反しない」という理屈です。(上掲書p251)

 結果的には、こうした後付けの理屈を日本政府も認めることになり、これが日本国の満州国承認となるのです。その後日本は、この満州国を蒋介石の国民政府に認めさせようとしました。蒋介石はこの問題について「棚上げ」までは譲歩しましたが、次第に高まる抗日世論の高まりの中で「承認」はしませんでした。そうした日中間のせめぎ合いがついに日中全面戦争に発展し、日本側にも膨大な戦死者を生むに至りました(太平洋戦争までに約20万人)。それをさらに正当化しようとして立てられた理屈が、「亜細亜が半植民地状態を脱するためには、日本、中国、満州を運命共同体として協同する「新秩序」を建設する必要がある」という大東亜共栄圏構想でした。

 こうして日本国民は、日中戦争のみならず日米戦争まで含めて、その国際法的・文明史的正統性を信じ込むことになり、破局的な太平洋戦争へと突入していったのです。先に紹介した『太平洋戦争前史』は、この破局に至る政治的・外交的経過を記しています。そこで、日本をこうした破滅に導いたその責任者は誰だったかと言うと、言うまでもなく、上述したような誤った考えのもとに国民を強引した「一部軍国主義者」ということになります。しかし、当時の国民の支持なしにはそれも不可能だったわけで、単にそれを「騙された」というだけでは済まされなものがあります。

 というのも、もしこれを「騙された」で済ましてしまえば、この時代と同じような困難に直面した場合、日本人は再び「騙される」ことになるからです。この点、こうした軍人の暴走を許した制度的要因もあったわけで、戦後の日本国憲法下においてはその問題点は除去されています。しかし、それ以上に重要な事は、こうした困難に直面したときの日本国の進路の選択において、かってエリート青年将校等が抱懐したような大国主義的妄想に陥らないようにすることです。

 そのためには、日本の国情をリアルかつ歴史的に認識する力、世界の思想的・政治的潮流を見抜く先見性、それを可能にする思想・信条・言論・集会・出版の自由の保障、日本の組織の下剋上的無統制や法的秩序を無視する談合体質の克服、皇国史観に基づく一君万民平等の徳治主義国家観からの脱却などが求められます。そして、これらの課題を克服するために身につけなければならない基本的な歴史の進歩に関する「考え方あるいは態度」が、本稿の主題である「保守の思想」の確立と言うことなのです。

 ところが、こうした日本人の内面的反省は、戦後のアメリカ軍の占領統治下の軍政によって、「一部の軍国主義者の暴走」という範囲に封じ込められてしまいました。そのため、一般の日本人はその被害者とされ、戦前の歴史に対する反省は、挙げてその「一部の軍国主義者」の所為とされました。そして、彼らの権力絶対化のために利用された皇国史観に基づく天皇制が、日本の伝統的天皇制であるかのように見なされ断罪されました。一方、その裏返し思想であるマッカーサーあるいはスターリン・毛沢東を理想化する一君万民平等の徳治主義的国家観がモデルとされました。

 言うまでもなく、こうした倒錯した論理展開にアメリカが気付かなかったはずはないのですが、アメリカの占領政策は、太平洋戦争で目撃した日本人の狂信的な戦いぶりを根拠に、それを生んだ日本の伝統文化の抹殺に向かいました。そこで、GHQは、私信の開封までやるという徹底した検閲によって、占領下の思想統制を行ったのです。その結果、日本の歴史伝統文化のうち優れたものは生かし弱点は克服する、という先述した「保守の思想」の観点に立って戦前の昭和史を総括するという視点が、全く失われてしまったのです。

 そのGHQによる検閲の実態については、その検閲のための蔭の組織CCD(民間検閲支隊)より出された次のような検閲指針が江藤淳によって紹介されています。この事実は、この検閲自体によって厳重に秘匿され、日本の独立回復後も明らかにされることはありませんでした。最初にこの事実を指摘したのは山本七平で、昭和48年に『ある異常体験者の偏見』「マックの戦争観」「洗脳された日本原住民」で、その恐るべき実態を暴露しました。その検閲指針は次の通りです。

《削除または掲載発行禁止の対象となるもの》
(一)SCAP―― ―連合国最高司令官(司令部)に対する批判
  連合国最高司令官(司令部)に対するいかなる一般的批判、および以下に特定されて  いない連合国最高司令官(司令部)指揮下のいかなる部署に対する批判もこの範躊に  属する。
(二)極東軍事裁判批判
  極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは  事項に関する特定の批判がこれに相当する。
(三)SCAPが憲法を起草したことに対する批判
  日本の新憲法起草に当ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲  法起草に当ってSCAPが果した役割に対する一切の批判。
(四)検閲制度への言及
  出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに  相当する。
(五)合衆国に対する批判
  合衆国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(六)ロシアに対する批判
  ソ連邦に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(七)英国に対する批判
  英国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(八)朝鮮人に対する批判
  朝鮮人に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(九)中国に対する批判
  中国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(十)他の連合国に対する批判
  他の連合国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(十一)連合国一般に対する批判
  国を特定せず、連合国一般に対して行われた批判がこれに相当する。
(十二)満州における日本人取扱についての批判
  満州における日本人取扱について特に言及したものがこれに相当する。これらはソ連  および中国に対する批判の項には含めない。
(十三)連合国の戦前の政策に対する批判
  一国あるいは複数の連合国の戦前の政策に対して行われた一切の批判がこれに相当す  る。これに相当する批判は、特定の国に対する批判の項目には含まれない。
(十四)第三次世界大戦への言及
  第三次世界大戦の問題に関する文章について行われた削除は、特定の国に対する批判  の項目ではなく、この項目で扱う。
(十五)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
  西側諸国とソ連との間に存在する状況についての論評がこれに相当する。ソ連および  特定の西側の国に対する批判の項目には含めない。
(十六)戦争擁護の宣伝
  日本の戦争遂行および戦争中における行為を擁護する直接間接の一切の宣伝がこれに  相当する。
(十七)清国日本の宣伝
  日本国を神聖視し、天皇の神格性を主張する直接間接の宣伝がこれに相当する。
(十八)軍国主義の宣伝
  「戦争擁護」の宣伝に含まれない、厳密な意味での軍国主義の一切の宣伝をいう。
(十九)ナショナリズムの宣伝
  厳密な意味での国家主義の一切の宣伝がこれに相当する。(後略)
(二十)大東亜共栄圈の宣伝
  大東亜共栄圈に関する宣伝のみこれに相当(後略)
(二十一)その他の宣伝
  以上特記した以外のあらゆる宣伝がこれに相当する。
(二十二)戦争犯罪人の正当化および擁護
  戦争犯罪人の一切の正当化および擁護がこれに相当する。(後略)
(二十三)占領軍兵士と日本女性との交渉
  厳密な意味で日本女性との交渉を取扱うストーリーがこれに相当する。(後略)
(二十四)闇市の状況
  闇市の状況についての言及がこれに相当する。
(二十五)占領軍軍隊に対する批判
  占領軍軍隊に対する批判がこれに相当する。(後略)
(二十六)飢餓の誇張
  日本における飢餓を誇張した記事がこれに相当する。
(二十七)暴力と不穏の行動の煽動
  この種の記事がこれに相当する。
(二十八)虚偽の報道
  明白な虚偽の報道がこれに相当する。
(二十九)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(三十)解禁されていない報道の公表

 以上の三十項目の検閲指針によって、日本の言論空間がどのように歪められたかについて、江藤淳は次のように総括しています。

 「一見して明らかなように、ここで意図されているのが、古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的な価値の体系の、徹底的な組み替えであることはいうまでもない。
 こうして日本人の周囲に張りめぐらされた新しいタブーの網の目のうちで、被検閲者と検閲者が接触する場所はただ一箇所、第四項に定められた検閲とその秘匿を通じてである。検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させてきた伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。
 この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。」(上掲書P242)

 また、CIE(民間情報局)は、こうしたCCDが検閲を通して提供する情報に基づいて「ウォー・ギルト・インオーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)」を数次にわたって展開しました。その基本的なねらいは何であったかについて、江藤は次のように指摘しています。

 「そこにはまず、『日本の軍国主義者』と『国民』とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国との間の戦いであった大戦を、現実には存在しなかった『軍国主義者』と『国民』との間の戦いにすり替えようとする底意が秘められている。

 これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。『軍国主義者』と『国民』の対立という架空の図式を導入することによって、『国民』に対する『罪』を犯したのも、『現在及び将来の日本の苦難と窮乏』も、すべて『軍国主義者』の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島。長崎への原爆投下も、『軍国主義者』が悪かったから起こった厄災であって、実際に爆弾を落とした米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。」(上掲書P270)

 この前段の指摘は、軍政というものの基本的性格だと山本七平は指摘しています。つまり、本当は「軍国主義者」と「国民」は一体だったと言うことで、この時「軍国主義者」が持っていた問題点は多かれ少なかれ「国民」も共有していたのです。このことを自覚することが大切で、それによって始めて「なぜ、あのような悲惨な結果を招いたか」ということについての反省も出来るし、その長所を生かし弱点を克服するということも可能となるのです。

 このことは、後段についても言えます。確かに検閲がここに述べられたような効果を持ったことは事実だと思いますが、問題は、日本人自身が、その独立回復後もこうして作為された言論空間を破れなかったということ。それは何故かということです。その基本的原因は、日本人は自らの置かれた状況をリアルかつ歴史的に認識する力が弱いということ、そのための思想的鍛錬が不足していると言うこと、繰り返しになりますが、そのためにこそ、日本人は「保守の思想」を身につける必要があると思います。 

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