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2013年4月10日 (水)

武家社会への貨幣経済の浸透が御家人体制を解体し、一揆というを縁族を超えた契約社会を生んだ

「山本七平学のすすめ」語録コメント

 ここで説明されていることは、日本における貨幣経済の浸透が、室町時代に至って、一揆の下剋上的リーダーを生み、それが幕府の任命にかかる守護に「マグナ・カルタ」をのませ、あるいは自らがその一揆に支えられて領国経営を行うようになった、ということである。

 そもそも、経済社会において貨幣が定着するためには、「農業生産力の向上、商工業などの社会的分業の成立によって、社会的な生産力の全般的な拡大と、それを基盤にした交換生活の一般化、流通経済の発展があるかないかによってきまる」。

 日本では、八世紀の初めの和銅元年(708)に始めて貨幣を鋳造した。これが和同開珎である。以後十二種類の皇朝銭が鋳造されたが、その後政府がいかに努力しても貨幣は定着しなかった。そして准米・准布・准帛とよばれる生産物が納税および交換手段に用いられた。

 その日本で貨幣が使用されるようになるのは平清盛の時代。彼は中国の宋から貨幣(銅銭)を輸入しその流通を図った。その頃日本は、ちょうど貨幣経済に移りうる段階に達していたので、これが爆発的に流通した。すると、それによって経済はさらに発展した。

 この際使用された貨幣は、いわゆる「渡来銭」で、寛永十四年(1637)に寛永通宝が日本で鋳造されるまで、宋銭や明銭が輸入され流通したのである。

 なぜ、このように他国の貨幣を輸入したのか、という疑問が湧くが、要するに貨幣の信用度の問題で、当時の中国貨幣は東アジアの国際通貨であったということである。ただし、中国と貿易する際の日本の決済手段としては、金(砂金)を用いられた。

 当時日本は、マルコポーロが『東方見聞録』(1299)で日本を黄金の国と紹介したように砂金が豊富だった。これに比べて中国は金をあまり産出せず、金の価値が高かったので、これを使って、それより安い銅銭を輸入したらしい。その方が鋳造コストもかからず、しかも国際的に通用する、ということだったのであろう。一種の金本位制と見る事もできる。

 しかし、こうして清盛が切り拓いた貨幣経済は、所領安堵と御恩・奉公の関係で成り立つ武家社会の御家人体制を揺るがすことになった。というのは、鎌倉幕府下の平和の中で貨幣経済はさらに発展し、武士が得た「一所懸命」の土地が、武勇にも忠誠にも関係なく、金で人手に渡るようになったからである。

 こうしたことは、何れの国でも同じらしく、「貨幣経済に突入したときに、想像を絶するような勢いで、土地に密着した平面的な、いわば二次元的な経済をなぎ倒していく」というようなことになるらしい。

 そして、日本におけるこうした貨幣経済の発展は、清盛が宋銭を輸入してからわずか一世紀足らずで、原初的な銀行や貸し金業というべき「無尽」を出現させた。そうなると、金を借りるために土地を「質」に入れ、その借金返済ができず土地を手放す「無足の御家人」を発生させることになった。

 こうなると、その土地からの租税収入や、「所領安堵」という御恩・奉公関係で成り立っている幕府の統治基盤が掘り崩されることになる。そこで幕府は暦仁二年(1239)に一定範囲での貨幣の流通を禁止した。

 しかし、貨幣の浸透はやまない。鎌倉幕府の所領相続は「貞永式目」により分割相続で、分与された小所領をもとに開墾が進められ、その広大な土地を惣領が統率すことで「一族郎党」が形成されていた。だが、ここに貨幣経済が入ってくることで土地の所有関係が、個人的な売買の対象になる。これが幕府の惣領制を有名無実化した。

 こうして、惣領制に代わって、一族とは無関係な、国人同士の相互契約でまとまる「一揆集団」が出現することになった。そして、そこにおける議決方式は、「全員平等で、全員か合議して規約の案文をつくり、それに従うことを個人の決断で議決」するという、一揆方式になった。ここには、延暦寺の「大衆詮議」以来の一揆方式が反映したと考えられるという。

 その後、こうして「一揆」でまとまった国人集団が、幕府に任命された守護に代わって領国経営をするようになる。しかし、この場合の一揆におけるリーダーの資格は、一に「能力」によることになり、ここに、地縁、血縁とは無関係な、実力主義に基づく「下剋上」の世界が現出することになったのである。

 こうした日本の歴史と対照的なのが、韓国で、「李朝時代においては、王国を創建(1392)して以来、およそ二百五十年の間は」貨幣の通用が定着しなかった」という。これが、同じ儒教文化圏の中にありながら日本の歴史とは全く異なる点で、こうした観点から韓国文化を見る必要がある。

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