フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月22日 (水)

第二回 昭和史の評価は戦後どのように変遷したか

第二回 昭和史の評価は戦後どのように変遷したか

「昭和史を再検証し、『日本人とは何か』を考える」第二回学習会を行いましたので、その内容を紹介しておきます。

まず、東京裁判判決について、
東京裁判(東京国際軍事裁判)は、「文明の裁き」という大義名分(日本をナチスと同様に扱った)の下に、日本が「世界支配のための侵略戦争」を行ったとして、
 1、平和に対する罪
 2、通例の戦争犯罪(戦争法規違反)
 3、人道に対する罪
 の三つの罪状で日本の戦争指導者を告発した。これに対して、日本人弁護士は戦勝国が敗戦国を「侵略戦争」を行ったとして、裁くことはできないと主張した。アメリカ人弁護士もこれを支持し、次のように論じた。(ビデオ―略)

 しかし、東京裁判は、昭和の戦争(s3.1.1~s20.9.2)の「犯罪構造」を、次のように認定した。
「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」
 その結果、
1,東京裁判では、
A級戦犯(侵略戦争計画)
28名訴追、25名有罪、内7名死刑、
2、世界49か所の
軍事法廷では、
BC級(捕虜虐待などの戦争犯罪)
約1,000名が死刑となった。

この判決を当時の日本人はどのように受け止めたか
 東京裁判で明らかにされた「事実」に衝撃を受けた
 GHQのNHKラジオ放送を使った放送番組「真相はこうだ」「真相箱」「質問箱」(と名称を変え ながら20年12月以降3年にわたって日本軍の犯罪を告発)を聞かされた。
 東京裁判におけるアメリカ人弁護士の公正な態度に感銘した。
 マッカーサーの占領統治が巧みで、マッカーサーを神格化する者も現れた。
 アメリカの豊かさや「正義」をテレビドラマなどで知った。
 サンフランシスコ平和条約で、政府は東京裁判の判決を受け入れた。

  また、国民一般には、“負けたんだから、仕方がない”というあきらめもあった。その結果、日本人は、戦前の日本の歴史をマイナスイメージで見るようになった。また、戦争の反省とは、判決に言う「犯罪的軍閥」を糾弾すること、と考えるようになった。
そして、アメリカをモデルに「新しい民主国家」を建設しようとした

しかし、こうした考え方に異議を唱える者も現れた
その一人が司馬遼太郎。氏は、マイナスイメージで語られるようになった日本の歴史を、幕末や明治時代をたくましく生きた日本人像(『竜馬がゆく』(S37~S41)、『坂の上の雲』(S43~S4 7))を描くことで、その誇りを取り戻そうとした。

 しかし、昭和については、
  日露戦争以降、日本人は“調子狂い”してしまった、と言い、 “あんな時代は日本ではない、日本史のいかなる時代とも違う。まさに“異胎の時代”灰皿を叩き付けたい気分になるとまで言った。ノモンハンを書こうとしたがついに書けなかった。精神衛生上悪いと言って・・・

また、江藤淳は、
 昭和44年から53年にかけて、文芸評論家として、雑誌に発表される文芸作品を読む中で、憲法では言論表現の自由が保障されているはずなのに、「言語空間が奇妙に閉ざされ、拘束されているというもどかしさ」を感じていた。
 そこで、その原因を調べるため、占領軍が行った検閲の実態を調べた。そこで発見したのが、その時代に「SCAP」(連合国最高司令官)が行った言論統制だった。
これによって、日本の敗戦からサンフランシスコ平和条約締結までの間、日本の言論空間がい かに「統制され歪められていたか」を知った。アメリカはこの言論統制によって、日本人に、昭和の戦争に ついての罪悪感を植え付け、原爆も日本が犯した罪の報いとすることに成功した、と言う。
では、こうした“言論統制”による拘束を解いた時に見える、昭和史の“本当の姿”とはどうい うものか?

実は、東京裁判のインド代表パール判事は、自由な視点から、次のように東京裁判の判決を批判していた。

 戦勝国が敗戦国を「侵略戦争」をやったとして裁くことはできない。
「侵略戦争」というが、国際法では「侵略戦争」は定義されておらず、一方「自衛権」は認められている。従って、勝ったほうが負けたほうを一方的に「侵略戦争をした」と決めつけ、裁くことはできない。

  また、 「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」
 というが、ナチスの場合にはその証拠が数多く発見されたが、日本の場合は、それを示す証拠 は絶無である。あるとすれば、アメリカの原爆投下と、日ソ中立条約を一方的に破って参戦し、 シベリア抑留をしたソ連だ。

 さらに、次のような個別の見解を示した。
 日本が昭和の初めに直面していたことは、「増加の一途をたどる人口を賄うために、国際貿易 の総取引高のより多い分け前の獲得に努力することだった」(人口、資源、貿易問題)(私見1)
 「満州事変は、ある興奮した一団の者を軽率な行為に追い込み、その後その行為を利用して 国際機関から救済を求めるために企てられた、という説に一致する点が多い」(国民党の革命 外交、張学良の日本排斥運動)(私見2)
 それが「日中戦争」へと発展した原因は「国共合作」ではないか?(私見3)
 「日本が登場した時には、すでに英米の経済的世界秩序が存在していて、彼らは生易しいこ とではその分譲に同意しようとしなかった」。日本の南仏進駐を契機に日米交渉が行われた。 日本が提出した最終案は「乙案」、これに対してアメリカは「ハル・ノート」で答えた。(私見4)
 この「ハル・ノート」は、それまでの8か月に及ぶ日米交渉の経過を全く無視するもので、こんな 回答を突き付けられれば、「モナコ王国やルクセンブルグ大公国でも、矛をとって立ち上がった だろう」。
 日露戦争、シベリア出兵、日独防共協定、張鼓峰事件、ノモンハン事件、関特演などが、日本 のソ連に対する侵略であったとは言えない。(ソ連参戦を正当化するものではないか)

 こうしたパール判事の見解については、今日では、(私見1~4)で述べたような補足あるいは修正が必要になるが、東京裁判の政治性を批判し、法曹としての自由な立場から、客観的かつ公正に事実関係の認定に努めたことは称賛に値すると思う。そこで、これらを踏まえて私たち日本人が克服すべき課題とは、

 まず、福沢諭吉が指摘したような、日本人の「ものの考え方」の三つの弱点を克服すること。
 次に、国際社会の厳しさを知ること。日本人は“本能的に”「人間性」を信じ、自己主張を抑えることで「和を保とう」とする。しかし、世界の現実はそうではない。自己主張の戦いである。
 もちろん、事実に基づかない自己主張はダメ。今日、幾多の研究者のおかげで昭和史の事実 関係は相当に明らかになってきた。ここで、昭和史を改めて検証し、日本人自らの手で、その 失敗の原因を見極めなければならない。
 「右」や「左」とレッテルを貼り、言論の自己規制をしてはならない。自由闊達に、事実に基づく 議論を積み重ねなければならない。
 人間は“自分は正しい”と思うから意見を言う。だが、それが“絶対正しい”とは言えない。人間 の言論は必ず“間違い”を含む。
 その“間違い”を含む言論をもって「事実」に接近する唯一の方法は、「自分が正しいと思う意 見を率直に交換し、間違いを正すこと」である。
 このことの大切さを述べたものが、憲法に言う「思想信条の自由」「言論・集会・出版の自由」と いうことである。

*福沢諭吉が「丁丑公論」「痩せ我慢の説」で指摘した日本人の三つの弱点(筆者要約)
1,抵抗の精神の大切さ=時の権力者を絶対視したり、迎合したりしないこと
2,空気に支配されないこと=冷静な「事実認識力」を持つこと
3,痩せ我慢の精神の大切なこと=自分の思想・言動に責任を持つこと

*パール判事の見解について
(私見1)
まず、東京裁判判決「日本の犯罪的軍閥が、世界支配のための侵略戦争を、共同謀議し、実行した」について。確かに、それに相当する「軍閥」が存在したとは言えるが、それが「世界支配のための侵略戦争を共同謀議した」とは到底言えない。

「田中上奏文」が偽書であることは証明されている。もし、そうした計画があったとすれば、それに最も近いのは石原莞爾の「最終戦争論」だが、それは一種の文明論であって、直接政府の外交方針を規制したわけではないし、「最終戦争論」が「世界支配のための侵略戦争」を目指したものとも言えない。

その思想の根幹は、アジアに広大な植民地を有する英米を中心とする西洋文明に対抗し、日本を盟主とする東洋文明(日・中を中心とする)の団結を訴えるもので、まるで根拠のない主張というわけではなかった。これを言い換えたものが、近衛文麿の「持てる国、持たざる国」論である。

また、石原は、昭和11年頃、支那駐屯軍や関東軍の華北分離工が日中戦争を誘発する危険性があることに気付いて、それを制止しようとしたし、日中戦争勃発後はその収拾のためのトラウトマン和平工作を手掛けている。

また、盧溝橋事件の勃発に際して、軍は一撃派と不拡大派に分かれたが、一撃破も日中戦争を欲しない点では不拡大派と同じであり、その収拾方法が違っていただけだった。この点、日中戦争を欲したのは中国側で、もちろん国民党より共産党が主導的だったが、いずれにしろ、中国側がイニシアティブを採ったものであることは間違いない。

この間の事実関係をより正確に表現するなら、
 日本の「軍閥」の抱懐した「西洋文明VS東洋文明」という対立図式がいささか単純素朴で、第一次世界大戦を経て、西洋諸国が、帝国主義→国際協調→軍縮→不戦条約の流れにあったことを疑い、それを英米の既得権の擁護と捉えたということ。

実際、当時の世界経済が、昭和5年の恐慌を機にブロック化を進めたこともあって、日本も東亜の経済ブロック化を進めざるを得なくなり、そこで最初に採った手段が満州問題の武力解決すなわち満州占領だったということ。

その際の問題点は、それが軍の統制を無視したものであっただけでなく天皇の裁可なしに、一部関東軍参謀の独断で行われたにもかかわらず、結果オーライで、処罰されるどころか褒章されたために、こうした軍の冒険的独断専行をよしとする空気が軍内に生まれたこと。

とりわけ問題は、本来、経済的にも防共政策上も日中連携を目指すはずであったものが、満州事変を機に日中対立となり、さらに華北分離工作によって「国共合作」となったことは、日本側に「世界支配のための侵略戦争」計画があったというより、むしろ、なかった(いわゆる行きあたりばったりであった)ことの証明と言わざるを得ない。

つまり、軍閥内に個々の「謀議」があったことは事実だが、そこに一貫した「世界支配のための侵略戦争」のための「共同謀議」はなかったということ。このように一貫した思想に基づく計画がなかったことがむしろ問題で、そのために英米のブロック経済に対抗する日中の経済連携もできず、逆に、世界から中国を侵略する「遅れてきた帝国主義」とのレッテルを貼られることになったのである。

そうした状況を打開するため、日本政府は、後付のような形で、「東亜新秩序」の形成、あるいはアジアの「植民地解放」を唱えるようになったが、これは必然的に、英米蘭による東南アジア植民地支配に対する挑戦と見なされることになった。

この「植民地解放」は、大義名分の立つ言葉ではあったが、日本軍の国際的評価は、満州事変以降日中戦争に至るまでの間に地に落ちていた。そのため、日本のやっていることは「植民地解放」ではなく、新たな東洋の植民地支配であり、それを第一次大戦後の国連の「国際協調」路線に反して帝国主義的に行っているとの烙印を捺されることになった。

東京裁判の判決では、さらにこれが肥大化し、日本は単に東南アジアの植民地化を狙っただけでなく、ナチスと同様に、「世界支配の侵略戦争」を計画し実行した、と認定されたのだから、実に割に合わない話で、そうした判決を今日も甘受せしめられているのだから、誠に間抜けな話と言うほかはない。

結論から言えば、国際政治における先見性のなさ、思想的一貫性のなさ、自己主張をする力の弱さが、こうした結果を招いたといえる。

(私見2)
 「満州問題」に対する当時の民政党政権の対応は、幣原喜重郎外務大臣のあくまで外交交渉による問題解決だった。しかし、満州の張学良は、張作霖爆殺事件の恨みもあって、また、国民党の外交部長汪正廷の「革命外交」(旅大回収を含む国権回復運動)もあり、満州における日本の権益排除の強硬策を採っていた。これが、「軍閥」の満州占領に口実を与える結果になったことは否めない。

とはいえ、石原莞爾らのとった柳条湖事件を発端とする満州占領は、先に述べた通り、勅命なしに行われた外国に対する軍事侵攻であって、さらに、本国政府に対する一種のクーデター的性格を持つものであり、本来なら極刑を免れないものだった。石原らは、この事件の発端となった柳条湖事件が自らの謀略であったことをその後も隠し続け、天皇にそのことを質された時も、張学良軍の仕業であるとうそを言った(本条)。不思議なことに、東京裁判では石原莞爾は訴追されなかった。

この事件の真相が当事者(花谷正)の証言で明らかになったのは昭和31年の事だった。ではなぜ、石原はこの事件が謀略であることを隠し続けたか。それは、彼自身、どんな言い訳もきかない、秦郁彦の言によれば「泥棒にも三分の理」どころか「一部の理」もない不正な行為であることを知っていたからである。

従って、パール判事がここで言っていることは、当時の日本が置かれていた客観的状況であり、実際、満州における日本の権益は国際法上正当なものだったのだから、それを無視し強引に日本を満州から追い出そうとした国民党や張学良の対応が間違っていたということである。このことについては、後に蒋介石自身失敗だったと深く反省しているが・・・。

なお、満州事変の直前、中国の広東政権の外交部長陳友仁が幣原を訪ねて来た時、満州を日本に売るという噂があることについて、幣原はお断りすると言い、もし買うなら条件がある、「満州人を全部渤海湾に投げ込む権利が欲しい」と言ったというエピソードが残っている。幣原は、民族問題の難しさがよく分かっていたのである。また、満州問題に対する軍中央の対応策も、軍事行動をとるにしてもあくまで国際社会の支持を取り付ける必要があるというものだった。

石原らの行動は、こうした軍中央の意向をも無視するもので、まさに弁解の余地のないものだった。にもかかわらず、満州占領後満州国が建国され、それを満州人の独立運動の結果と強弁するようになると、石原らの軍の統制を無視した独断行動の違法性は問われなくなり、それどころか一大勲功として表彰されたのだから、このあたりの日本人の既成事実の積み上げ、結果オーライ主義も大いに問題としなければならない。

(私見3)
 また、満州事変がなぜ日中戦争につながったか、ということについては、実は、蒋介石は日本との戦争を望んでおらず、その第一の攻撃目標は中国国内の共産党勢力であり、この点においては、日本との「防共協定」の可能性さえあったのである。「日独防共協定」の狙いはもともとそこに置かれていた。

 それがなぜ出来なかったかというと、何といっても関東軍が推し進めた華北分離工作がその主因である。では、なぜ関東軍はこれをやったか。満州事変そのものは塘沽停戦協定で一応の収束ができていたのに・・・。それは、おそらく、石原の「最終戦争論」の影響を受け、対米戦略上華北の戦略資源を欲したためであろう。つまり、日中連携して英米の主導する西洋覇道文明に対抗しようというわけで、蒋介石はこれに同意しないので、そこでそれに代わる、日本の言うことを聞く親日政権を華北に打ち立てようとしたのである。

こうした「軍閥」の行動は、日本国政府の外交方針を全く無視した独断的政治行動であり、ここに満州の関東軍のクーデター政権的性格が表れており、このため日本外交が二重化し、国際社会の信用を地に落とすことになった。その後、欧米マスコミや知識人はこぞって日本を非難するようになった。

こうした関東軍の行動が、蒋介石に「華北の満州化」を恐れさせることになり、抗日戦争を決意させることになった。さらに、中国人の抗日ナショナリズムを湧き立たせることになった。もちろん、こうした状況を、蒋介石に追い詰められ崩壊寸前の中国共産党が利用しないはずがなく、これが「国共合作」を可能にした。

この点、パール判事の言う通り、確かに「国共合作」が日中戦争を誘発したと言えるが、そうした結果をもたらしたのは関東軍の上記のような行動であり、従って、日中戦争を招いたのは、より根源的には関東軍であると言わざるを得ない。


(私見4)
この日本側の乙案は実は、幣原喜重郎の進言によるものだと言われている。幣原喜重郎は満州事変のあと政界を追われ、それ以降、世間から全く忘れ去られたようになっていたのだが、日米交渉の行き詰まりを打開するため、外務省の担当者がひそかに氏の知恵を借り作成したものらしい。

一方、なぜアメリカがこれに対してハル・ノートで答えたか、ということについてはWIKIでもその理由は未だ解明されていない、としている。このノートを書いたのがハリー・ホワイトで彼はコミンテルンのスパイだった、などの説があるが…。(私自身は、アメリカはすでに日本政府は日本軍閥を制御できない状態に落ち込んでいると見て、いずれ戦争になると覚悟していたと思う)

また、日本の連合艦隊はハル・ノートが届く12月27日の前日26日、ヒトカップ湾をハワイに向けて出港している。もちろん、真珠湾攻撃までの間に外交交渉がまとまれば帰投することになっていたが、ハル・ノート以前に、日本が日米開戦を決意していたことは否めない。

問題は、この真珠湾奇襲攻撃という手法が正しかったかどうか、ということだが、結果からみれば、これが日米戦争をデスマッチにしたといえる。もともと日本海軍の伝統的対米戦略は邀撃作戦で、アメリカ海軍をアジアに引き寄せ、艦隊決戦でその勢力を漸減させるというものだった。それを、真珠湾奇襲攻撃という奇策に転換させたのは山本五十六で、この点の山本の責任は免れない。

また、たとえハル・ノートが届いても、それは無視すればよかった、もともとアメリカの東南アジア権益はわずかで、日本と戦争するほどのものではなかった。従って、ハル・ノートを、アメリカの横暴を宣伝する逆材料につかえばよかった、という意見が戦後出されたが、日本人の、正直すぎてすぐカッとなり、一か八かの行動に出る気質からすれば、そんな余裕は持てなかったと思う。

とはいえ、ハル・ノートは外交交渉と言えるものではなく、これは日本の暴発を想定したものであり、というより、本当はドイツとの戦争がねらいで、日本を暴発させることで日本と同盟関係にあるドイツとの戦争を国民に納得させようとしたのではないかとの説もある。そのために日本を挑発したのだが、それが真珠湾になるとは思っていなかった。パール判事はこのことを指摘したのだと思う。

2013年5月 9日 (木)

キリスト教はなぜ戦国期の日本に受け入れられたか

「山本七平学のすすめ」(参照

 ここでは、なぜ、日本の戦国期に一神教的性格を持つ一向宗や、一神教そのものであるキリスト教が多くの信者を獲得出来たかについて考えて見ます。

 そもそも、日本の伝統的な神祭りの思想とは、古事記や日本書紀に見るように、神々による新しい生命力を生み出す「むすび」の力をたたえるもので、祭りはそれを更新・増長させる呪術としての意味を持っていました。

 ここでは「よき神」は自然の生命力を成長促進させる神であり、「あしき神」はそれを阻害する神でした。死は「けがれ」と見なされ恐れられました。また、「けがれ=罪」は人の生命力を妨げるものですが、それは「みそぎ」で祓うことができました。

 その後、6世紀半ばに、朝鮮経由で仏教が入ってきますが、それは中国の儒教や道教と習合した「儒・釈・道」三教合一論で、それが日本では「神・儒・仏」三教混合となり、聖徳太子を経て聖武天皇の時、仏教は「鎮護国家」を目的とする国家宗教となりました。

 ただし、この時、一般の貴族や有力者が仏教に求めたのは、深遠な宗教的真理ではなく、「鎮護国家」を一族にさらに個人の水準にまで下ろし、自分や自分の一族の繁栄や安全を祈念してもらうことでした。

 彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたのです。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけました。

 このため、真言も天台もしだいに密教の比重を高め、互いに呪術性を強調して競いあうようになりました。その結果生じたのが、国家仏教から貴族仏教・閥族仏教への移行でした。まず天皇家、ついで藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もこれにならいました。

 仏教の影響でもう一つ見逃せないのが末法思想です。日本で末法に入る年は、永承七年(一〇五二年)とされ、実際その頃いろいろな災害が続きました。それは「平安時代」が終わり、「闘諍時代」の来る不吉な予兆と人びとには思えました。

 こんな中で、浄土教信仰が力を得るようになりました。浄土教は奈良時代にすでに中国から渡来していましたが、空也や源信によって、あるいは踊念仏という形で、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中にしだいに浸透していきました。

 平安時代は、貴族にとっては確かに「平安時代」でしたが、裏から見れば群盗と流亡の民を生んだ暗黒の時代でした。彼らがこの「穢土」を「厭離」して「浄土」を「欣求」したとしても不思議ではありません。

 こうした平安末期の源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(1133~1211)の浄土宗です。この教えは、僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人間は救済されるという、個人主義的な宗教思想を説きました。

 そして、人は現実から逃避せず、与えられた身のまま、武士は武士、農民は農民、そのままで念仏をとなえればよい。そのため特別な行儀はなく、行往坐臥の間に行い、時間の長短や回数の多少もない。思う時に思うようにとなえて、それだけで十分としました。

 この法然の教えをさらに徹底したのが親鸞で、親鸞は、この世を穢土とは考えず、「現実」こそ「救済」の場であり、その場に生きることを念仏の目的としました。そして阿弥陀仏に救われるという「信」のみが救済を決定するのであり、念仏とは救済を求めて称えるものでなく、信じ得た喜びの感謝の声だとしました。

 まさに、人が救われるのは「信仰のみ」(この点がプロテスタントと考え方が似ている)によるのであり、その前では、老若男女貴賤一切差別はなしとしました。だが、彼の教えがすぐ広まったわけではなく、それが農民の宗教となり、一大勢力となったのは天才的伝道師蓮如が出てからです。

 しかし、この「民衆の宗教であるべき浄土宗(=真宗)」は戦国の混乱の中では新たな秩序の確立よりもこの現世を否定し諦念するという形になりました。そうした念仏による救済という信仰ゆえに強大な政治勢力となり、一大封建領主となったのが本願寺でした。

 このように既成宗教が権威を喪失する中で、一揆でまとまる惣村に浸透したのが新仏教でした。キリスト教も丁度このころ日本に伝来しました。その教えは、真宗=一向宗と同じく死後の救済を説き、信者間の差別を排し、相互扶助の「愛の精神」を説きました。これが戦国期のむき出しの生存をかけた闘擾に苦しむ民衆に受け入れられたのです。

 ただし、この時期のキリスト教は、西欧における宗教改革以前の段階にあり、他の宗教に対して排他的で、政教分離の考え方も十分でなく、政治に巻き込まれることになりました。そのため、戦国時代を全国武力統一で終わらせ、社会秩序の回復しようとする織・豊・徳政権と衝突することになりました。

 といっても、織・豊・徳政権は、真宗=一向宗やキリスト教そのものを禁止したわけではなく、ただ、それが政治に関与することを拒否しただけです。信長の比叡山や高野山の焼き討ちもその延長と捉えることが出来ます。もちろん、この時期に、政治から独立した信教の自由を確立できれば良かったのですが・・・。 

 いずれの時代であれ、「秩序」は思想的統合を前提とします。いかなる秩序であれ、警察的権力と苛酷な懲罰によって成り立つわけではありません。この原則は形は変わっても、「法治的市民社会」の時代になっても同じであって、秩序のこの種の基本が崩壊したら社会秩序が維持できなくなることは、現在でも多くの国が示しています。

 そして古い体制の崩壊から幕藩体制という新しい秩序に向かって試行と模索を重ねていた当時の日本が、さまざまな意味において、新秩序の基盤となるべき精神的統合の原則を求めていたとしても不思議ではありません。旧仏教はすでに宗教的・思想的な統合力を失い、それに代わって精神的統合力を発揮したのが、新仏教とキリスト教だったのです。

 ただし、その後、徳川幕府はキリシタンを禁止しました。そして、キリシタン排撃を目的とする寺請け制度を作って全国民を仏教徒にし、寺に一種の戸籍管理を行わせました。このため、仏教が政治・行政機関の末端業務を担うことになり、宗教としての生命力が失われました。これが明治の廃仏棄釈に繋がるのです。(以上『受容と排除の軌跡』山本七平参照)

2013年5月 3日 (金)

第一回 今、私たちに必要な事は、自らの視点で昭和史を検証すること

第一回学習会報告

4月27日(土)に、「昭和史を再検証し『日本人とは何か』を考える」の第一回学習会「今、私たちに必要な事は、自らの視点で昭和史を検証すること」を実施しました。

会の趣旨  
 「戦前の昭和史は、日本史上未曾有の惨禍をもたらしました。そのため、この時代を率直に語ることは、戦後68年経った今でも決して容易ではありません。しかし、事実関係はかなり明らかになってきました。このあたりで、昭和史を私たち自身の目で再検証し、納得のいく歴史観をもつ必要があると考えました。明治を切り拓いた福沢諭吉の「独立自尊」の精神は、そうした努力なしに決して蘇ることはないと思います。」 

 ここにおけるポイントは、「昭和史を見る日本人自身の視点を確立すること」と、福沢諭吉の「独立自尊」の精神がどう関わっているのか、ということです。そこでまず、福沢の「独立自尊」の精神が、氏の江戸時代についての歴史認識とどう関わっていたのかについて見てみたいと思います。

 福沢は、徳川幕藩体制を支えた儒教に対しては、それが、実学(=実用科学)を重視する洋学に比べて道学的=「虚学的」であるとしてこれを強く批判しました。とりわけ、それが名分論的身分制度と結びついていたことに対して、”親の敵(かたき)”と言うほどの激しい敵意を燃やしていました。

 このため、福沢といえば、儒教の封建的道徳観を否定し、近代的・個人主義的人間観を打ち立てた人物ということになり、それを象徴する言葉が、『学問のすすめ』冒頭の「天は人の上に人を造らず・・・」であり、「独立自尊」の精神ということになったのです。

 ところが、そうした福沢についての理解を疑わせる二つの「事件」が起こりました。その一つが、『丁丑公論』(ていちゅうこうろん)です。ここで福沢は、西南戦争という反政府武力闘争を引き起こした西郷隆盛を弁護しました。この文章は、1877年(明治10年)の西南戦争直後に脱稿したもので、その後未発表のまま秘蔵され、福沢が亡くなる年の1901年に「時事新報」誌上に掲載されたものです。

その主張は、おおよそ次のようなものです。

「凡そ人は自分の思うところを実現したいと思う。いわゆる専制の精神である。人にして然りとすれば政府がそうなるのもやむをえない。しかし、政府の専制はこれを放置すれば際限がなく、これを防ぐ方法は唯一抵抗の精神しかない。

西郷の場合は、その抵抗を武をもってなしたることには自分は賛成できないが、今日のように時流に阿り阿諛追従する人間ばかりの時は、なお抵抗の精神が必要である。つまり、政府の専制に対するにこの抵抗の気脈を保つことこそ、一国の公平を保つ道である。

また、西南の騒動が起こり西郷が官位をはく奪されて以降、手のひらを返したようにマスコミは西郷に罵詈讒謗を加えているが、これは政府に媚を売らんとするものか。およそ具眼の士であれば、西郷が無二の尊王家であり、その一身の品行定まりたることは周知のところである。

 確かに、氏が、氏族に加担し封建世禄を守ろうとして反乱を起こしたのならそれは文明の賊と言われても仕方がない。しかし、氏が参議の時、廃藩置県という難事に力を尽くしたことは世人のあまねく知るところである。これは西郷の一諾なしには到底できないことだった

そもそも、維新後一切の権と禄を失った氏族が不平心を持つのは必然である。ましてや、かっての同志が新政府の高官となり、質朴率直の旨を忘れ、金衣玉食、奢侈を極めるものが多くなっている現状を見れば、悲憤慷慨したくなるのも当然だろう。

 (思うに)おそらく西郷は、私学校生徒らのそうした活発屈強の反発心に理解を示しつつも、彼らを諭して、新しい文明開化の時代に、彼らに真の権利のあるところを指し示し、誘導しようとしたのであろう。しかし政府は、彼らを賊扱いし、法や武をもって弾圧するだけだった

 かかる形勢に至って、彼らの暴発を制御する道は西郷が彼らとともに立つしかない。あるいは政府は、直接に氏族の暴発を防ぐ道が外にないとして、間接に西郷に暴発を促し、それを機に一挙に彼ら不平の士を葬ろうとしたのではないか。故に曰く、西郷憐れむべしと」

 ここで福沢は、西郷の政府専制に対する「抵抗の精神」の重要性を指摘しています。こうした「抵抗の精神」の気脈を保つことこそが、「一国の公平を保つ道」だと言っているのです。

 次いで、この事件当時の、マスコミの権力迎合体質を厳しく批判しています。実は、福沢は明治維新の「尊皇攘夷」運動に対しては極めて批判的で、つまり、氏の「尊皇論」は、その後の氏の著作『帝室論』に見ればわかりますが、一種の「象徴天皇制論」で、維新の志士等の夢想した「天皇親政」とは無関係でした。また、「攘夷論」に対しても、氏は1870年には咸臨丸でアメリカに4ヶ月間、1872年にはヨーロッパに1年間、1867年大政奉還の年には同じくヨーロッパに半年間、幕府の命で欧米諸国を訪問していたことからも判るように、極めて批判的でした。言い替えれば、氏は尊皇攘夷論者ではなく、「象徴天皇制・開国論者」だったのです。

 その氏が、「征韓論」が容れられないとして参議を辞し、不平氏族に担がれて西南戦争を引き起こした西郷を弁護するとは一体どういうことか。まあ、この『丁丑公論』をよく読めば、氏が、その結語において「西郷哀れむべし」といった意味も分かりますが、おそらく、そこには、島津久光という主君に仕えながらも「廃藩置県」に賛成した西郷の「先見性と勇気」と、勝海舟が「高士」と評したその孤高な人格を惜しむ気持ちがあったのでしょう。また、このような西郷に対して、西南戦争後、まるで手のひらを返したようにその人格に対する罵詈讒謗を加え始めたマスコミの、その「権力迎合体質」に対して嫌悪の情を押さえきれなかったということでしょう。

 もう一つが、いわゆる「痩せ我慢の説」で、これは、福沢が1891年に脱稿し、1901年2月に勝海舟と榎本武揚に送った書簡に現れた考え方で、いわば福沢の本音の思想というべきものです。その結論部分では次のような主張がなされています。(この書簡も、その後世間に公表されることなく福沢の手元に置かれていたが、はからずも、上述の『丁丑公論』と同時に発表され、世間に知るところとなった)

 「勝海舟氏が穏やかにかつての幕府を解散し、そのことによって人が死んだり財産が失われる災いを回避し、そのために尽力したことの功績は稀有で偉大である。

しかし、違う観点から観察するならば、敵と味方と対立しているのにかつて戦うこともせず、早い段階で勝つ見込みがないと気付いて自ら謹慎するようなことは、表面的には官軍に対しては云々という口実があったとしても、その内実は徳川幕府がその家来であった二、三の強い藩に敵対する勇気がなく、勝負を試みることもなく降参したということだ。

これは、三河武士の精神に背くだけでなく、日本の国民に本来備わっている瘠我慢の偉大な精神や気概を破壊し、そのことによって国を成り立たせる根本である気概をたるませてしまった罪は逃れることはできない。

 だから、勝海舟新のために考えるならば、たとえ今日の文明の流儀に従って明治維新の後に幸運にも無事に生きることができるようになったとしても、自分で反省して国家を成り立たせるためには、最も重要で大切な社会の指導的な人物達の精神や気風を損ねたという罪を引き受け

「明治維新の前後の自分の立ち居振る舞いは一時的な臨時措置だった。臨時措置によって講和を結び円滑に事態を収拾したことは、ただその時点での戦乱を恐れて人々を塗炭の苦しみから救いたかっただけだ。
しかし、本来は国家を成り立たせる重要なものとして瘠我慢の精神ということがある。ましてや、これからは外国からの脅威による思ってもいない事態がありうるので、瘠我慢の精神が大切なことは言うまでもない。

(この観点からすれば)世の中で言う「武士の風上にもおけない」というのは私のことである。」(誠に申し訳なかった)

という心を示して、断固として政府の厚遇を辞退し、官職や爵位を捨てて給与を捨て、単身世の中を去って身を隠すようであったならば、世の中の人もはじめて誠心があったことを知ってその清らかな節操に心服し、かつての幕府の解散の処置も、本当に勝海舟氏の功績とするだろう。と同時に、別の観点から言っても、その振る舞いは、世の中の道徳や気風を万分の一でも維持していくことになるだろう。

これが、私が勝海舟氏に希望することです。」

 近代社会における個人主義的思想に立脚し「独立自尊」の精神の重要性を説いた福沢が、徳川家康を想起させる「三河武士の痩せ我慢」を、勝海舟の去就について説くということは、一体どういうことか、こうした疑問を当代の識者の多くが持ったのも、けだし当然でしょう。

 私は、この間の事情を次のように理解しています。実は、福沢は江戸時代の儒教を厳しく批判したけれども、それは、家族倫理・個人倫理としての儒教の教えを否定したのではない。その批判の主眼は、先に指摘した通り、その学問が道学中心で実学(=実用科学)を欠いていたということ。とりわけ、それが家族倫理を社会関係にまで拡大し、政治組織を家族主義的な「忠孝一致」論で統合しようとすること対して向けられていたのではないか、ということです。

 ところで、福沢が、その両親から受けた道徳教育はどういうものであったかということは、氏の『福翁自伝』を見れば判ります。

 幼少の頃「誠心誠意屋漏に恥じず」(=人が見ていないところでも恥ずかしいことをするな)といった儒教精神をたたき込まれたこと。母子むつまじく兄弟喧嘩などただの一度もしなかったこと。俗な芝居など見に行かなかったこと。父が封建的身分制度に対して批判的で、なんとかして出世させようとして諭吉を坊主にしようとしたこと。門閥制は親の敵(かたき)としたこと。十四、五から漢書を読み、学者の前座を勤めるほどになったこと。衣服住居に頓着せず、母は乞食などにも親切で、諭吉は”シラミ狩り”の手伝いをさせられたこと。占い、まじないは信じない、お稲荷さんの神体を暴いて中に石を入れたこと。「喜怒色に顕さず」を金言としたこと。朋輩同士で決して喧嘩をしなかったこと。大阪遊学を母が「ウムよろしい」と認めたこと。人間の空威張りほど見苦しいものはないと思っていたこと。功名心もなく、拝領の紋服をその日に売って辞書を買ったこと等々・・・。

 どうも、こうした福沢の生き方の背後には、「君子」たることを目標とする儒教の個人修養の教えがあっただけでなく、母親の持っていた仏教的慈悲の精神や、おそらく日本の武家社会が育てた「器量絶対」の実力主義の精神があったように思われます。福沢は、それを「三河武士の痩せ我慢の精神」と言ったわけですが、これが、福沢の「独立自尊」の精神を支えていたわけで、こうした氏の精神が、日本の歴史的文化的伝統の延長上に育まれたものであることを、私たちはここでしっかり認識する必要があると思います。

 さて、こうした倫理観(=痩せ我慢)に立って福沢は、徳川幕藩体制の欠陥を鋭く突きました。それが先述した「家族倫理を社会関係にまで拡大し、政治組織を家族主義的な「忠孝一致」で統合しようとする考え方に対する批判でした。つまり、福沢は、個人倫理としての儒教の教えを否定したわけではなく、あくまで、儒教の「治教一致」――政治倫理と道徳教育を連続したものとして捉える考え方――を否定し、それを、社会契約論的な考え方に転換しようとしたのです。

 その上で、福沢は、立憲主義的政体の下における「批判精神」の大切なこと、マスコミが権力迎合にも、空気支配にも陥らず、冷静かつ客観的な報道をすべきことを、『丁丑公論』で説いたのです。さらに、「痩せ我慢の説」では、『丁丑公論』で指摘したような権力迎合に陥らないためには、個人倫理(=痩せ我慢の精神)の確立が必須であること。それなしに、一国の独立は得られない、ということを説いたのです。

 こうした福沢の批判に対する勝の返信が、また、絶妙ですね。

「從古當路者、古今一世之人物にあらざれば、衆賢之批評に當る者あらず。不計も拙老先年之行爲に於て、御議論數百言御指摘、實に慙愧に不堪ず、御深志忝存候。行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候」

 砕いて言えば、「社会的に重要な仕事をして、それが世間の批評にさらされるということは、それはその人物が一流であるということで、大変名誉なことで有り難い。ただし、自分の生き方は自分が決める。世間のそれに対する毀誉褒貶はあくまでも他人の主張であって自分とは関係がない、どうぞご自由に」ということです。

 福沢が、この手紙を死ぬ直前まで公表しなかったのは、おそらく、この返事の意味するところを了解したからではないでしょうか。そこには、決して空気に支配されない「独立自尊」の精神が見事に表白されていましたから。

 勝は、福沢のこうした批判を学者流のものとし、自分の生き方を政治家流としました。ここに、日本人のものの「考え方」の長所と短所が現れていて、勝の場合は、日本人のものの考え方の長所、すなわちベンダサンの言う「てんびんの論理」の「政治天才」的部分。福沢の指摘した部分は、その短所、すなわち「てんびんの論理」の「思想的一貫性の欠如」の部分、と見る事ができます。

 この二つの事例を踏まえて、日本人がその長所を生かし短所を克服するためには、第一に、その短所である「事実認識力(=言葉)」を高めること。第二に、将来についての「構想力(言葉)」を高めること。そしてこの両者を、実現可能な方法論(=言葉)で繋ぐという、論理的な「言語操作能力」を身につける必要があることを図式を用いて説明しました。さらに、「事実認識力」を高めるための要点は、「事実論」と「価値論」を区別すること。「事実論」から「価値論」へと向かう政策論を論じる際には、その「是非論」と「可能・不可能論」を区別する必要があることを説明しました。といってもこれらは簡単に判ることではありませんから、今後、折にふれて説明を加えていきたいと思っています。

 以上のような論を前置きに、一体、昭和の戦争の特異性とはどのようなものであったかについて、一つは明治以降の戦争による領土の拡大に、もう一つは、犠牲者の数の増加等に見てみました。

 3_4

32


 以上のことを確認した上で、次に、なぜこのようなことになったかについて、その昭和をリードした軍人等の持っていた世界観や国家観を、山本七平の提示した国家運営の四つの基本原則=「先見性」「外交関係」「国内体制」「軍備」に照らして見てみました。

33


 これについての細かな説明は省きますが、要は、第一番目の「先見性」において誤ったということ。それが必然的に「外交関係」においてドイツのナチズムと手を結ぶことになったこと。次いで、国内体制を立憲君主制から軍主導の国家社会主義体制に転換しようとしたこと。こうなれば、いかに英米に対抗して軍事力を増強しようともムダであったことなどを説明しました。

 ということで、次回は、第二回「昭和史の歴史的評価は戦後どのように変遷したか」について、説明します。
(最終校正5/4 1:00)


« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

twitter

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

最近のトラックバック