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2013年7月

2013年7月 9日 (火)

石原莞爾が「酒田臨時法廷」で”自分を「戦犯」として認めた”というのはほんとうか?

 2013年6月22日の読売新聞の特集記事「昭和時代第3部戦前・戦中期1926~44)」を見て疑問に思いました。それは、「満州事変」についての概説で「関東軍が満鉄戦を爆破し、これを中国軍の仕業と見せかけて軍事行動に踏みきった。中国側は抵抗せず、日本政府も現地軍に引きずられ、謀略は成功した。事変の背後には中堅将校らの連携があり、昭和陸軍の暴走がここに始まった」とし、その謀略事件の首謀者を「石原・板垣」とする一方、石原莞爾の「人物抄」において、「戦後、東京裁判の酒田臨時法廷に証人出廷し、『満州事変の中心はすべて自分である。戦犯として連行しないのは腑に落ちない』と裁判を皮肉った」と紹介していることです。

 問題は、この証言をもって、石原自身「戦犯」であることを認めていたのに、マッカーサー司令部及び極東裁判」は、石原から”東京裁判をひっくり返される”のを恐れてあえて「戦犯」にしなかった、との解釈を生んでいることです。そこで私は、読売新聞社の西部本社(福岡)「読者相談室」に電話して、この証言はどの資料に基づいているのか尋ねました。答えは、酒田臨時法廷の証言記録だということでしたので、その最も詳細な記録と思われる『石原莞爾選集』(第7巻)の「酒田法廷記録」を見てみました。しかし、そこには上記のような証言はなく、また、石原が軍事法廷に提出した「宣誓供述書」には、事件の発生を「暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、守備兵を襲い、我が守備隊と衝突せり」としていました。

 そこで、再度電話して、この石原の証言は、「戦史研究」サイト」によると、その出所は1954年発行の『東亜の父 石原莞爾』高木清寿著ではないかということ。これに該当する証言は酒田法廷記録にはなく、これは、高木が石原から聞いたという伝聞証言に過ぎないのではないかと質しました。その後、この読売新聞の担当者は、東京本社に連絡を取り確認したこととして、この証言は、昭和46年発行『秘録 石原莞爾』横山臣平によっていること。また、これ以上の見解については、直接本社に問い合わせて欲しいとのことでした。

 私は、この石原の、満州事変の戦犯であることを自ら認めていたとの証言が、満州事変の正確な理解を歪めていること。また、これによって読売新聞の同特集記事における満州事変の解説全体の整合性が損なわれていることを指摘したかったのです。しかし、いずれにしても正確を期す必要がありますので、読売新聞本社に問い合わせする前に、自分で関連資料に当たってみることにしました。

 その結果、まず第一に判ったことは、上記の証言の初出は上述の通り昭和29年発行『東亜の父 石原莞爾』だということで、ここには次のように記されていました。

「裁判の冒頭、尋問の前に何かいうことはないか」
『ある。満州事変の中心はすべて石原である。事変終末は錦州爆撃である。この爆撃は石原の命令で行ったもので、責任は石原にある。しかるに石原が戦犯とされぬことは腑に落ちない。だから話は少々長くなるかも知れない。』
 と切り出した。ところが裁判長も検事も非常に狼狽して、裁判長は、『ジェネラルは戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ。』といい、検事は『証人はそんなことをいってはいけない。証人はこちらで尋ねることを、然り、然らずだけで答えるだけでよい』と言ってあわてて石原の発言を封じた。さては逃げたなと直感した。」

 これが、『秘録 石原莞爾』では、「満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦繍爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」となっていました。

 この両者を比べると、前者の「戦犯」とされるべき対象についての認識は、錦州爆撃に重点が置かれているように見えます。というのも、この時の証言では柳条湖における鉄道爆破は支那軍隊の仕業としていますから、これを自分の責任とするはずがない。また、満州事変についても、武力による解決は希望しておらず、やむを得ず自衛的に武力発動したが、それも奉天占領までで、それ以上の占領計画はなかった、と証言しているからです。また、錦州爆撃は石原が命令を下し自ら実行したものですが、これについてもあくまで偵察飛行であり、爆弾を落としたのは応射を受けたからだと抗弁しています。

 これに対して後者は、錦繍爆撃や満州建国立案を含めて、満州事変の中心はすべて自分であるから、「戦犯」として裁判にかけるべきだ、と主張しているかのような意味にとれます。しかし、柳条湖事件は前述した通り支那軍隊の仕業といい、錦州爆撃は偵察飛行で応射を受けたからだといい、満州国建国についても、それは「東北新政治革命の所産」であり、我が国の軍事行動はその契機となっただけと言っているのですから、これは石原の友人相手のホラ話と見るほかありません。

 読売新聞の石原に関する先の「人物抄」の記述は、この後者の記述によったとのことですので、『満州事変の中心はすべて自分である。戦犯として連行しないのは腑に落ちない』の意味は、満州事変全般について、石原が「戦犯」たることを認めたものとして引用されているわけです。しかし、それが、事実に基づかない石原の自慢話に過ぎないものであることは、他の証言記録との矛盾関係で明らかです。

 では、こうした石原の放言を含む証言について、私たち日本人はこれをどう評価すべきでしょうか。私は先に、この証言が「満州事変の正確な理解を歪めている」と申しました。これは、今日までに明らかになった満州事変の事実に照らして見れば、石原は、満州事変の計画性・謀略性について徹頭徹尾偽証しているということ。これを裏返してみれば、この偽証が反証されない限り「戦犯」となることはないと確信していたことになります。つまり、先の石原証言(=放言)はこうした確信に支えられていたわけです。

 では、なぜ石原がこのような偽証を繰り返したのかということですが、これは単なる東京裁判を韜晦するための偽証であったというだけでなく、日本国民に対する偽証でもあったからでしょう。同様の主張は、リットン調査団に対しても行なわれましたが、その後の日本の国際連盟からの脱退や、日本の国際社会からの孤立は、こうした偽証が招いたものであることを知れば、戦後も同じ偽証を繰り返した石原の罪深さが判ると思います。

 こうなると、この石原の『満州事変の中心はすべて自分である。戦犯として連行しないのは腑に落ちない』という放言は、称讃どころか非難さるべきの対象ということになります。読売の上記記事は、これを「東京裁判を皮肉った」ものとして好意的に紹介しているわけですが、石原は、東京裁判の事実認定をこうした偽証を繰り返す事で攪乱していたわけで、そんな人物に東京裁判の欺瞞性を指摘する資格があるとは思えません。

 なお、東京裁判の欺瞞性についての指摘は、パール判事が徹底的に行っていますが、次に、パール判事は満州事件をどのように評していたのかについて紹介したいと思います。

 「現在証拠の示すところによると、この計画は、それが誰の計画であったとしても、かなり急いで、秘密裏に遂行されたのである。この計画は、遂行された結果を見れば、或る興奮した一団のものを軽率な行為に追い込み、その後その行為を利用して国際的機関から救済を求めるために、企てられたという説に一致する点が多いように思われる。」

 こうしたパール判事の満州事変についての見立ては、リットン調査団報告書の結論(1931年9月18日以降の諸事件の発生に関しては、毫も中国側の責任問題は起こりえないとするもの)を受けてのものです。その上で、満州事変を「或る興奮した一団のものを軽率な行為に追い込み、その後その行為を利用して国際的機関から救済を求めるために、企てられたという説に一致する点が多いように思われる」と見ているわけで、これは極めて興味深い見方だと思います。

 というのは、なぜパール判事がこうした見方を紹介したのかというと、氏は、1931年9月18日以前の中国の満州問題に対する対応について、国際連盟は「中国にたいして、同国の歴然たる条約義務の無視およびその驚くべき悪政のため、日本の国家としての存在に不可欠であった満州における経済権益を破滅させつつあったその責任の大部分は、中国自身が負うべきであった」とする一消息通の見解を支持していたからです。

 それだけに、日本がこの問題を謀略に基づく計画的な武力侵攻で解決することは、「或る興奮した一団による軽率な行為」にしか見えなかったわけで、実際、軍中央も、そして政府も、やむを得ず武力行使する場合も、一定の時間をかけて国際世論の支持をとりつける必要があると考えていました。また、当時、中国の汪精衛率いる広東政府外交部長の陳友仁は、満州事変勃発後幣原に書簡を送り、「満州事変は実に残念だが、ただ一ついいことがある。いつか話したハイ・コミッショナー制度が実現できることだ。張学良を追い出せば満州は綺麗になるから、これを実現するいい機会ではないか」と述べていたのです(『幣原喜重郎』幣原平和財団)。

 以上総合すると、石原等の起こした謀略による満州事変がいかに軽率なものであり、日本の国際的信用を毀損するものであったかということが判ります。それ以上に、こうした軍の統制無視の下剋上的軍事行動が、その後の日本の政治を機能不全に陥れたことを考えると、石原の「五族協和」や「王道政治」は、自らのなした行為に対する粉飾のようにも見えてきます。

 いずれにしても、この時の石原莞爾の言動は、軍事的である以上に政治的であったわけで、当然、結果責任を問われるべきです。合わせて、その思想上の問題や、偽メシア的な宗教上の問題点もしっかり認識しておく必要があると思います。

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