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2014年3月

2014年3月20日 (木)

「百人斬り競争」裁判はこの事件の「ヤラセ」の基本構造を見えなくした(3)

これまでの説明で、「百人斬り競争」裁判がこの事件の「ヤラセ」の基本構造が見えなくした、その事情がおわかりいただけたと思います。しかし、このために、冒頭に紹介したような、「百人斬り競争」についての理解が生まれているとしたら問題です。

いうまでもなく、この「百人斬り競争」の新聞記事は、前稿で説明した通り、記者による戦意高揚のための「ヤラセ」記事だったわけで、それが現実にはあり得ない荒唐無稽な武勇記事であったために、それが戦闘行為ではなく非戦闘員殺害と見なされ、両少尉は戦争犯罪人として裁かれ、死刑に処せられたのです。

つまり、両少尉に「ヤラセ」をさせて、彼らを死刑に追い込んだ新聞記者や、その記事を掲載した新聞社の責任は全く問われず、記者の甘言に載せられた二少尉だけが、南京大虐殺の非戦闘員殺害の汚名を着せられ、あまつさえ、その虚報記事作成の責任まで、一身に負わされている、ということです。

裁判では、この記者が所属した東京日日新聞の親会社=毎日新聞は、”取材は適切だった”と主張しました。つまり、記者は「両少尉の話したまま」を記事にした、といっているのです。しかし、こんな荒唐無稽な講談調の記事が「事実」であるはずがなく、それが見抜けなければ「事実」を報道する記者とも新聞社ともいえません。

もともと、その「事実」を追求する姿勢が新聞社にあれば、南京裁判の審理過程においても、何らかの「事実確認」作業をしたはずです。だが、それをした形跡は一切ありません。それに止まらず、現在も、”取材は適切だった”というのですから、開いた口がふさがりません。

それよりももっと不可解なのは、本多記者や朝日新聞です。本多記者が中国で聞いたという「殺人ゲーム」の話は、東日の「百人斬り競争」の新聞記事がそのもとネタです。かつ、その記事は、戦意高揚のための「ヤラセ」記事だったことが明らかになったのです。つまり、「殺人ゲーム」は、戦時中の日本の新聞社の戦意高揚の虚報記事が生んだもので、それが日本軍の残虐宣伝に利用されているのです。

ところが、本多記者及び朝日新聞はこれを反省するどころか逆の行動に出ました。裁判では、東日の新聞記事は、「両少尉が昭和12年当時話したことを記事にしたもの」であり、「主要な事実としての『百人斬り競争』及び『捕虜や非武装者の殺害』については真実であることが明らか」としました。そして、その証拠として、東日、大毎の記事の他、当時の鹿児島新聞の関連の記事、志々目証言及び望月証言などを提出しました。

東日及び大毎の記事の分析は、前稿で行った通りですが、新たに提出された鹿児島新聞等の記事も、志々目証言も東日の「百人斬り競争」記事が生んだもの、特に後者は、郷土で英雄視された野田少尉の小学生相手の「お話」の「追憶」で、むしろ「百人斬り競争」など戦場ではあり得ないことを述べたものです。望月本の記述については後述しますが、これは、昭和52年の本多氏の『ペンの陰謀』(「百人斬り競争」=「捕虜や非武装者の殺害」説を主張したもの)が出版された8年後の、昭和60年に刊行された私家本です。

もっとも、望月証言を裏付ける一次資料があれば別ですが、この「百人斬り競争」=「捕虜や非武装者の殺害」説を裏付ける一次資料は他に全くありません。むしろ本多氏の所説に沿った作話が疑われます。また、本多氏は鵜野晋太郎という人物の捕虜殺害体験談を持ち出していますが、異常な人物はどの社会にもどの時代にもいるもので、こんな人物が日本軍にいたからといって、両少尉が殺人鬼だったことを証明する証拠にはなりません。

では、本多氏及び朝日新聞は、こうした主張をすることで、一体何をしようとしているのでしょうか。実は、本多氏とイザヤ・ベンダサンの間で「殺人ゲーム」を巡る論争が始まった時、ベンダサンは、氏の所説=「日本人は、『語られた事実』と『事実』を区別できない」を立証するため、本多氏に「殺人ゲーム」を使ったある誘導をしました。つまり、本多氏に”「殺人ゲーム」はフィクションである”と言えば、もし本多氏に中国に対する迎合があれば、必ず、「殺人ゲーム」を「事実」とする証拠を出してくるはずだと・・・。

その本多氏の出してくる証拠が、”日本人は「語られた事実」と「事実」を区別できない”を立証するものであれば、ジャーナリストではない他の日本人も同じということになる。結果は、本多氏は、「殺人ゲーム」を事実とする証拠として、東日の「百人斬り競争」記事を出してきたのです。しかし、この記事と「殺人ゲーム」は、場所も時間も情景描写もまるで違う。本来なら、この両者の矛盾から「事実」に迫るべきだが、本多氏には中国に対する迎合があるため、新聞記事は「殺人ゲーム」の証拠になると強弁した。

これに対して、この「殺人ゲーム」と新聞記事の矛盾から、この事件の「事実」に迫ったのが、鈴木明や山本七平氏らであって、その成果が、前稿で紹介したような「百人斬り競争」の、その「ヤラセ」構造の解明に繋がったのです。しかし、本多氏らは、「百人斬り競争」裁判でも、ベンダサンによる指摘を無視して同じことを繰り返しました。つまり、この記事は記者による創作ではなく、記者は両少尉の話をそのまま記事にしただけで、これは日本軍兵士の残虐性を示す証拠であるとしたのです。

これは、ベンダサンが指摘した通り、「語られた事実」と「事実」を峻別できない、ということが日本の大新聞にもできないことを示すものです。また、本多氏や朝日新聞には、「日本人の残虐性を宣伝したい」中国に対する迎合があります。そのため、この中国の主張と一致する「語られた事実」のみを「事実」とし、それと矛盾する「語られた事実」は排除する。さらに、自らの主張と一致する「語られた事実」を量的に積み上げることで、その証明を完璧にすることができると考える(鹿児島新聞記事などはその類のもの)。

その結果、戦前の日本のマスコミが生み出した戦意高揚のための虚報記事が、戦後のマスコミによって、日本軍の残虐性を証明する証拠とされるという、誠に倒錯した自虐的現象が生まれたのです。ここで問題は、その自虐の対象とされた日本人が、告発する側と告発される側に二分されることで、これは占領政策の反映ですが、朝日は前者の先頭に立ったのです。さらに恐るべきは、こうした論法に裁判所も嵌っていることです。こうなると人ごとでは済まされません。(以上下線部挿入3/24)

以下、前前稿で言及した「雲の下論」について説明しておきます。

これは、「雲表上に現れた峰にすぎない」ものの信憑性が、仮に自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても、「雲の下が立証されている限り・・・立証方法としては十分である」とする考え方です。これを「百人斬り競争」に当てはめると、百人斬りの「実行行為という事実」(つまり「雲の下」)が否定されない限り、「殺人ゲーム」と「百人斬り競争」の新聞記事の間の矛盾を指摘して、「殺人ゲーム」がなかったということはできない、となります。

「百人斬り競争」裁判では、百人斬りの「実行行為という事実」が「全くの虚偽」であることの証明が求められたわけですが、これが「事実」の解明と無縁であることはいうまでもありません。つまり、その「実行行為という事実」は実は誰も知らない。分かっているのは「百人斬り」という犯罪の「語られた事実」だけ。その「語られた」だけの「犯罪行為という事実」を「事実」としてしまっては、複数の「語られた事実」の相互の矛盾から「事実に迫る」ことができなくなる。」(『日本教について』イザヤ・ベンダサンより)

本多記者や朝日新聞は、この「犯罪行為という事実」の証明が、「百人斬り競争」の新聞記事及び同類の新聞記事、志々目証言、中帰連の中心メンバーであった鵜野晋太郎の捕虜殺害体験談、望月五三郎の私家本『私の支那事変』などで可能としました。しかし、この中で一次資料として評価できるものは一つもありません。裁判では、朝日新聞側の弁護人は、特に、望月の『私の支那事変』の下記の一節を”鬼の首を取ったように”読み上げたといいます。

では次に、その望月本の記述の信憑性をチェックして見たいと思います。

実は、そのチェック方法は、先ほどの「雲の下論」を展開したベンダサンが、松川事件裁判における弘津和郎の弁論から抽出したもので、次の四原則からなっています。①情景の描写または記述が明瞭に脳裏に再現できること。②それが出来ないのに部分的な記述が異常に細かいものはさらに信憑性がない。③これらによって極めて信憑性が疑わしいのに供述が整然としているのはさらに信憑性が薄い。④現地で実際に供述通りに行動する。出来なければ信憑性ゼロ。

(望月証言)
「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にして振り返り、憎しみ丸出しの笑いをこめて、軍刀をにらみつける。一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころ動いている。目を背けたい気持ちも、少尉の手前じっとこらえる。その行為は、支那人を見つければ、向井少尉と奪い合う程、エスカレートしてきた。」

さて、この情景を明確に自分の脳裏に再現できますか。むちゃくちゃな残虐命令を自分の部下でもない兵士に命令する少尉、聞く必要もない命令に唯々諾々と従う兵士、その兵士に易々と引っ張られてくる支那人。周りには誰もいなかったのか、支那人も日本兵も? また、こんな非道な仕打ちにすぐあきらめ、憎しみの笑いをこめて軍刀をにらみつける腹の据わった?支那人。一刀のもとに首が飛んで胴体ががっくりと前に倒れる、首から噴き出した血の勢いで石ころがころころ動く、と、やけに生々しく細かな描写。これを見てじっとこらえる小心な兵士。さらに、こんな非道が一回だけでなく、向井少尉との間で、無錫から南京まで支那人を奪い合うように繰り返された・・・。

この望月本の記述を、先の四原則に沿って、その中の一人の人物を自分で演じて見る。それが自分にも自然に演じられるなら、信憑性があることになるが、これを自然に脳裏に再現でき、その中の一人を自分が自然に演じることのできる人は、私はいないと思います。それができないのに、描写が異常に細かく生々しい、かつ残酷で、いかにも「捕虜(据えもの)百人斬り競争」説に合うような記述になっている。信憑性はこうした日本後の特性を考慮した判定法によればほとんどゼロです。

この望月証言について、東京地裁の判決書は「その真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しない」としています。しかし、他の一次資料との関連で言えば、一次資料である向井少尉の直属部下である田中金平の証言では、「向井少尉が刀を抜いたのを見たことがない」のですから、ここでも、この望月証言の信憑性はゼロということになります。

以上

「百人斬り競争」裁判はこの事件の「ヤラセ」の基本構造を見えなくした(2)

次に、「百人斬り競争」裁判以前、イザヤ・ベンダサン、鈴木明・山本七平らによって解明された、東京日々新聞「百人斬り競争」の基本構造について紹介します。(それ以後に明らかとなった見解も含む)

(無錫における三者談合)
無錫郊外で「百人斬り競争」の三者談合が行われた。これは食後の談笑で、向井少尉が浅海記者に「花嫁の世話をして欲しい」といったところ浅海記者は「あなたをあっぱれ勇士にして花嫁志願させますかね。それから家庭通信はできますかね」といった。つまり、浅海記者は、兵士の里心や手柄意識をくすぐることで、「記事材料がなく特派員として面子なし」と言いつつ、戦意高揚のための「百人斬り競争」の武勇記事の話を持ちかけた。

この三者談合については、これを受けて書かれた第一報――記事は東京日日新聞の外に、同系列の大阪毎日にも掲載され、その末尾には「記者らが『この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどっと来ますよ』と水を向けるとなんと八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤めて照れること照れること」という一文が付されている。原稿は大阪から東京に転送されたらしく、東日はこの部分を削除して記事掲載した。これにより、常州以前の三者談合の存在は明らかである。

(常州における三者談合のカムフラージュ)
浅海記者は無錫におけるこの三者談合をカムフラージュするため、常州で佐藤カメラマンに両少尉の写真を撮らせ、あたかも、氏がはじめて二少尉に会い「百人斬り競争」の取材をしているかのように見せかけた。この時、佐藤カメラマンは、二人が大隊副官と歩兵砲小隊長であることを知った。ということは、浅海記者もそれを知っていたことになる。また、佐藤カメラマンが、どのようにして「百人斬り競争」の数を数えるのかと両少尉に聞いたところ、二人は、お互いの当番兵を交換すると答えた。

(第一報における両少尉の会話は「ヤラセ」)
第一報における、常州での取材?に基づく両少尉の会話は次の通り。「向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬って刃こぼれがたった一つしかないぞ 野田少尉 僕らは二人共逃げるのは斬らないことにしています、僕は○官をやっているので成績は上がらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」。この両少尉の会話は、無錫での三者談合に基づいて「ヤラセ」た会話である。

(記者は野田少尉の「副官」を○官に修正)
この会話における主役は向井少尉、野田少尉はその引き立て役。そのため、野田の会話は半ば向井をからかう言い方になっている。野田の会話の内○官は、実際は副官だが、前後の文脈から野田がこれを○官と言うはずがない。野田も自らが副官であることを隠していない。しかし、記者は、この事実を隠し、両少尉があたかも同一指揮系統下の歩兵小隊長であるかのように描いている。そのため記者は野田の会話の「副官」を○官に修正した。これだけでも記事の創作性は明らか。

(第一報の会話以外の記述は記者の創作)
また、この第一報の会話以外の記述は、両少尉が、上官の命令なしに、私的盟約に基づく「百人斬り競争」を行ったとするものである。野田の場合は単独だが、向井の場合は、「敵陣に部下と共に躍り込み・・・名を斬り伏せた」となっている。これは「私兵を動かした」ことであり、軍隊では絶対に許さない行為で、軍法会議で処刑を宣告されてもおかしくない。従って、両少尉がこうしたことを記者に言うはずがない。向井は”冗談がエライなことになった”といい、この記事に触れらられるのをいやがったという。

(第二報の向井の会話に見られる矛盾)
第二報には、向井少尉が丹陽中正門の一番乗りを決行とある。もちろん、砲兵が攻撃で「一番乗り」をすることはない。その他、野田が右手(実際は左手?)に怪我をしたのに大戦果を挙げたり、向井の刀の「刃こぼれ」が第一報と同じく一カ所というのもおかしい。また、佐藤証言では、人数は両少尉の当番兵を交換して行うとなっているのに、ここでは東日大毎の記者に審判になって貰うとなっている。向井少尉本人の会話とは到底思えない矛盾した記述である。

(記者は句容での戦果を誰に確認したか?)
第三報には、両少尉は「句容入場にも最前線に立って奮戦」と書いてある。繰り返しになるが、副官と砲兵が戦闘の最前線に立つことはない。なお、ここには両少尉の会話はない。一体、記者は誰にその戦果を確認したのか。向井は負傷のため句容の戦闘には参加していないと主張。向井の負傷は直属部下の田中金平の記録にはないが、負傷を証言した部下兵士もいた。また、野田も丹陽東方で北方に迂回し丹陽の戦闘には参加していないと主張。句容での会見はなかったとするのが至当。

(10日紫金山での両少尉の会見は記者の創作)
第四報には、まず10日の紫金山山麓での両少尉の次の会話が出てくる。
「野田 おいおれは百五だが貴様は?」向井 おれは百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢゃドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうぢゃ」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった」

これは百人斬りが百五十人斬りになった経緯を説明したものだが、野田少尉が麒麟門東方で記者と会った時の記者の会話には、「今までも幾回か打電しましたが、百人斬競争は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに」(「新聞記事の真相」)とある。ということは、浅海記者は、この「ドロンゲームの顛末」を、紫金山以前の麒麟門東方ですでに知っていたことになる。第二報の大毎の記事にもこの延長戦に関する言及がある。ということは「延長戦」も記者の創作?

にもかかわらず、第四報では、11日の紫金山での会見の冒頭、向井少尉が、前日10日の、野田少尉との話し合いで決まった「ドロンゲームの顛末」を両記者(浅海記者と「取材」をカムフラージュのため呼ばれた鈴木記者)に語ったことになっている。あくまで、「ドロンゲーム」の責任を、両少尉に負わせようとするためか?しかし、この「延長戦」については、上述した通り、浅海記者は第二報ですでに念頭に置いていたのであり、あえてこのような細工をした意図は何か。

(10日の会見は「百人斬り競争」のルール変更のための創作)
その意図とは・・・10日の会見での両少尉の会話は、「野田 おいおれは百五だが貴様は?」向井 おれは百六だ!」となっている。これは、この競技が、あたかも一定区間(時間)で数を争う競争であったかのような聞き方である。しかし、この競争の当初のルールは、「100人をどちらが先に斬るか」だったはずである。従って、実際に競争をしていれば、当然、最初に、競争相手が「百人斬り」を達成したその時間を聞くはずである。しかし、ここでは人数を聞いている。

なぜこういう聞き方をしたか――この部分の論理的解明はイザヤ・ベンダサンの指摘によるものだが――おそらく、記者は、第一報を送った後、「百人をどちらが先に斬るか」という、数を決めてその到達時間を争う競技は、戦場では不可能なことに気づいた。そこで、これを、一定区間で数を争う競争であったかのように見せかけるため、10日の両少尉の会話を創作した。これによって、このルール変更の責任を両少尉に負わせると共に、記事の信憑性を維持しようとした・・・。

(11日の会見に野田少尉が出てこない理由)
この10日の会見の後に、翌11日の中山陵を眼下に見下ろす紫金山での「敗残兵狩り真最中」の向井少尉の次の会話が出てくる。

「知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢゃ、おれの関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢゃ、戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ」

冒頭の「両方で百を超えていたのは愉快ぢゃ」は、記者のレクチャーによるものか。しかし、向井少尉には「ルール変更」の自覚はない。問題は、この11日の会見には、鈴木記者の証言によると向井少尉、野田少尉、浅海記者、鈴木記者の4人がいたことになるが、記事中には野田少尉は見えないことである。これは、紫金山での戦闘中に、職務の異なる二少尉が、10日と11日の二日続けて、自らの職務を放擲して会見する不自然さを回避しようとしたものと思われる。

(11日の向井少尉の会話は本人のもの)
11日の向井少尉の、「友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を『えいまゝよ』と刀をかついで棒立ちになっていた」という会話は、山本によると、催涙ガスを吸った兵士の心理が現れており、これは向井本人のものという。いささか向井の会話が興奮状態なのは、本人の怪我からの復帰と、直前の戦闘で部下に負傷者がいなかった等によるのではないかと推測している。なお、この会見の場所は、「敗残兵狩り真っ最中」の戦場ではなく、戦闘が終わった後の、紫金山付近の安全地帯(おそらく幽谷寺付近)とした。

以上のように、山本は、「百人斬り競争」の記事中に出てくる両少尉の会話は、”全て記者による創作”ではなく、記者が両少尉に「ヤラセ」をさせた会話が含まれるとしたのです。そして、それを第三者の前で演じさせ、浅海記者はそれを取材しているかのように見せかけ、こうして得られた?記事素材を、「百人斬り競争」のシナリオに沿って編集・創作し、戦意高揚の武勇記事に仕立てた、と見たのです。

これが、「百人斬り競争」裁判以前の、「百人斬り競争」についての一般的イメージでした。

ところが、「百人斬り競争裁判」では、前回述べたように、原告側弁護人は、こうした論争の経過を無視し、”新聞記事の全てを記者の創作”とし、両少尉は常州以外その記事に示された会見場所には行っていないという「事実の摘示」を行ったのです。これが実証的検証に耐えないのは当然で、このため、この事件の、以上説明したような「ヤラセ」の基本構造が見えなくなってしまったのです。

2014年3月14日 (金)

「百人斬り競争」裁判は事実の究明には役立つどころかむしろその真相を隠蔽した

最近気づいたのですが、「百人斬り競争」は「非戦闘員殺害」だったと思い込んでいる人が意外と多いようですね。また、こういう人たちは、論争によってそれが事実でないことが分かっても、その話(=自白)をしたのは両少尉であり、記者はそれを記事にしただけ。従って、それが「非戦闘員殺害」の証拠となり処刑されても、それは、自業自得、と考えるようです。

おそらく、これは「百人斬り競争裁判」の結果がもたらした印象なのではないでしょうか。私自身のこの裁判についての感想は、裁判所が相変わらず「雲の下論」(*注1)的な事実認定をしていることの驚き。もう一つは、この裁判では、この事件の事実関係について、それまでの論争で積み上げられた論証が、ほとんど生かされなかったということです。

というのは、それまでの「百人斬り競争」論争における議論の焦点は、記者が両少尉から「百人斬り競争」の話を聞いたことは明らかだが、では、記者はその話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか、ということでした。そして、この点については、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、山本七平らの研究によって、記者が両少尉の戦場心理を利用して武勇伝の”ヤラセ”をさせ、それを取材したように見せかけて戦意高揚記事を書いた、ということでほぼ決着していました。

この論争で本多勝一記者は、この論争の開始当初、氏が中国で聞いてきた「殺人ゲーム」が事実であることの証拠として、この新聞記事を掲げていました。従って、論争の結果、この新聞記事が上述したような”ヤラセ”記事であったことが明らかになったのですから、この段階で、その新聞記事を「元ネタ」にした「殺人ゲーム」は、いわゆる虚報が生み出した悲劇とすべきでした。

ところが、本多記者及びこれを支援する朝日新聞は、その後の論評でも「百人斬り競争」裁判でも、いわゆる志々目証言の他、中帰連メンバーであった鵜野晋太郎の捕虜殺害体験談、それに新たに発見された望月五三郎の私家本『私の支那事変』の記述などを証拠として、「百人斬り競争」は「捕虜(据えもの)百人斬り競争」であったと主張しました。

そもそも、小学生の頃に野田少尉の話を聞いたという伝聞証言や、両少尉とは無関係な残虐兵士の証言、それに「据えもの百人斬り競争」説登場後に書かれた私家本の記述などが、人権尊重第一、「疑わしきは罰せず」を基本原則とすべき今日の裁判において、証拠として採用されるとは全く驚きです。

この裁判における最終判決は次のようなものです。

「南京攻略戦闘時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、1本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある『百人斬り競争』の実態及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の『百人斬り』の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である。

しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」

前段は、新聞記事に記された戦闘行為としての「百人斬り競争」について、「その内容を真実ことができず」「はなはだ疑わしいと考えるのが合理的」というのですから、それでよろしいと思います。しかし、後段の、両少尉が「『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体は否定できない」というのは、一体どういうことでしょうか。

これは、この「百人斬り競争」の新聞記事中で、両少尉が「百人斬り競争」を肯定する会話をしている、ということでしょう。つまり、「この記事の全てが記者の創作」とは言えない、といっているのです。実は、ここに、原告側の”新聞記事は全て記者の創作”とする「事実の摘示」の誤りがありました。事実は、先に述べた通り、これは「ヤラセ」記事だったのですから。

つまり、記者は、両少尉に武勇伝としての「百人斬り競争」の「ヤラセ」をさせ、その会話を巧みに記事に織り込んで戦意高揚記事を書いたのです。ところが、原告側が、この記事の全てを記者の創作とし、両少尉は常州以外では記者と会っていないとしたため、次のような問題が起こりました。

第一に、両少尉のいう無錫郊外での記者との三者談合(そこで”ヤラセ”談合が成立した)の存在が不明確になったこと。次に、第四報の舞台となった紫金山に、両少尉が行っていないことを証明しなければならなくなったことです。(もっとも、これは記事中の紫金山の戦闘地域には行かなかったという意味かも知れませんが・・・)

そして、こうした両少尉のアリバイ主張が、それぞれの属した部隊の作戦地域の検証でくずれた結果、記事中の両少尉の会話の「ヤラセ」部分と、記者による創作部分の腑分けができなくなったのです。そのため、全体的な印象として、両少尉が「百人斬り競争」を「自白したのは事実」→自業自得との印象を持たれることになったのです。

また、それと同時に、そうした両少尉の会話以外の部分の記述についても、同様に、それが両少尉の話をもとにしたものか、それとも、記者が記事に整合性をもたせるために創作したものか、その判別ができなくなってしまったのです。そのため、記者の”両少尉から聞いたままを記事にした”という言葉への反証が困難になりました。

先に紹介した裁判所の最終判断は、こうした議論の流れを受けたものと思われますが、では、原告側はなぜ、このような、それまでの研究成果を無視した「事実の摘示」を行ったのでしょうか。あるいは、記事中に両少尉の「自白」部分を認めることは、裁判では不利との判断があったのかもしれません。

また、こうした主張は、両少尉が南京裁判の過程でもしていましたから、その証言の信用性を維持しようとしたのかもしれません。といっても、両少尉の場合は、その主張の根幹が、新聞記事は記者が構想したものであり、従って、「ヤラセ」でしゃべらされた自分たちの会話も、記者の「創作」とする意識が働いた者と思われます。

そこで、次に、この新聞記事の内、どの部分が両少尉が「ヤラセ」でしゃべらされたものか、あるいは記者の創作によるものかを、それまでの鈴木明や山本七平が行った論証に見てみたいと思います。

*以下の論述についてはアゴラ用に書き直しましたが、掲載できませんでしたので、別項とします。

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