フォト

おすすめブログ・サイト

Twitter

« 2014年3月 | トップページ | 2014年5月 »

2014年4月

2014年4月28日 (月)

「南京大虐殺」論争における現在と未来(2)

今日中国は、南京事件について「30万人以上が殺害された」とか、「日本軍国主義による侵略戦争は3500万人を超す軍人、民間人の死傷者を出した」などといっています。しかし、日中戦争は、中国共産党にとっては、日本軍と蒋介石軍を戦わせることで漁夫の利を得ようとしたものです。もちろん、そんな策略に嵌った方が愚かだったわけで、弁解の余地はなく、それ故に、侵略戦争の汚名まで着ることになっているのです。

このことは、1964年7月10日に毛沢東が当時の日本社会委員長党佐々木更三らと交わした談話に、はっきりと述べられています。

「佐々木 ― 今日、毛主席の非常に寛大なお気持のお話をうかがいました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、みなさんに多大の損害をもたらしました。われわれはみな、非常に申し訳なく思っております。

主席 ― 何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。

 この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね。(みなが笑い、会場がにぎやかになる)。

佐々木 ― ありがとうございます。

主席 ― 過去のああいうことは話さないことにしましょう。過去のああいうことは、よい事であり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に、みなさんの独占資本と軍国主義はわれわれをも助けたのです。日本人民が、何百万も、何千万も目覚めたではありませんか。中国で戦った一部の将軍をも含めて、かれらは今では、われわれの友人に変わっています。」

毛沢東のいう「過去のああいうことは、よい事であり、われわれの助けになったとも言えるのです」というのは、日本の「独占資本と軍国主義」が蒋介石を破滅寸前に追い込んでくれたおかげで、我々は権力を奪取することができたということ。つまり、日本の「独占資本と軍国主義」は愚かであり、我々はそれを利用して政権を奪取した勝利者である。だから、「何も申し訳なく思うことはありません」といっているのです。合わせて、日本に「反独占資本主義」に基づく連帯を勧めることも忘れていません。

これが、中国共産党にとっての日中戦争の率直な総括でしょう。ところが今日、中国(共産党)は、南京事件で「30万人以上が殺害された」とか、日中戦争全般を通して「日本軍国主義による侵略戦争は3500万人を超す軍人、民間人の死傷者を出した」などと日本をさかんに攻撃しています。それが本当ならまだしも、犠牲者数を10倍以上も水増しして、それをナチスのホロコーストに比定しようとしているのです。

では、こうした今日の中国共産党と、毛沢東との違いは、一体どこにあるのでしょうか。おそらくそれは、毛沢東は、共産主義に基づく中国革命に自信を持っており、抗日戦争は勝利の歴史であり「良いこと」だったと思っている。それ故に、この戦いで中国の払った犠牲の大きさをことさらあげつらう必要はなかった。これに対して、今日の中国共産党は、共産主義を信じておらず、その権力維持に不安を抱いている・・・。

そこで、こうした不安を除去し自らの権力を維持するため、ことさらに、戦前の日本軍による被害の大きさを強調しているのではないでしょうか。特に南京事件についていえば、これは前稿で述べた通り、中国軍の意図的な退却の失敗?が招いたものです。従って、その被害の大きさを強調すればするほど、「日本軍の南京占領を高価なものにするため」あえて部下将兵を見殺しにした、中国軍指揮官の非情さが顕在化します。

実は、かって中国共産党は、このような事情をよく承知していました。これについては、2013年12月19日 の「RECORD CHINA」に、「『南京大虐殺』、中国の教科書に登場したのは80年代に入ってから、それまでは授業でも教えられず―中国紙」と題する、次のような興味深い記事が紹介されました。

「18日、中国が日本の戦争犯罪として主張する「南京大虐殺」は、建国後の中国では長い間、教科書や書籍に取り上げられることもなく、学校の授業でも教えられることはなかった。

2013年12月18日、南方都市報によると、中国が日本の戦争犯罪として主張する「南京大虐殺」は、建国後の中国では長い間、教科書や書籍に取り上げられることもなく、学校の授業でも教えられることはなかったという。

南京師範大学で中国史を教える経盛鴻(ジン・ションホン)教授は、「ここ南京でずっと学んでいるが、私が学生の頃は南京大虐殺を教える教師などおらず、教科書にも中国近現代史の本にも南京大虐殺に関する記述はなかった」と話す。

南京大虐殺の翌年、1938年1月に創刊された新華日報は、南京大虐殺に関する記事をたびたび掲載した。1948年11月に光華書店が発行した「中国抗戦史講話」も南京大虐殺を紹介しているが、旧日本軍の行為よりも国民党の軍が何も抵抗せずに南京から逃げ出した事実を重点的に取り上げている。だが、その後に出版された歴史書はいずれも南京大虐殺に触れていないという。

この事実について経教授は「文革時代に提唱された『3つの世界論』では、日本は第二世界に属し、中国にとって団結できる相手とみなされていた。当時は米国の中国侵略を非難することはあっても、旧日本軍の侵略や南京大虐殺の罪悪について深く追求することはなかった」と説明する。

転機は1982年7月に訪れた。日本の旧文部省が教科書検定で「華北へ侵略」を「華北に進出」に、「南京大虐殺」を「南京占領」に変えさせたとの報道(訳者注:後に日本政府がこれを誤報だと認めている)があったことだ。中国政府は激しく抗議し、中国の各メディアもこの問題を大きく報道した。

1983年、中国は南京大虐殺に関する資料の編纂、記念館の設立などを決定。翌1984年2月から6月までの期間中、中国政府初となる大規模な調査を実施し、生存者や目撃者、被害者1756人からの証言を集めた。抗日戦争勝利40周年記念の1985年8月15日、正式名称「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」がオープンしている。(翻訳・編集/本郷)」

これによって、中国共産党が事件発生当時から1982年頃まで「南京大虐殺」をどのように見ていたか分かりますね。事件当初から戦後にかけて、それは「旧日本軍の行為よりも国民党の軍が何も抵抗せずに南京から逃げ出した事実を重点的に取り上げて」いたということ。「その後に出版された歴史書はいずれも南京大虐殺に触れていな」いということ。つまり、この事件は、あくまで国民党軍の問題であって、共産党にとっては対岸の火事にすぎなかったのです。

ではなぜ、中国共産党は、この事件を、旧日本軍によるナチスのホロコーストに匹敵する残虐事件に祭り上げようとしているのでしょうか。それは、「南京大虐殺記念館」設置の経緯が示す通り(参照「南京大虐殺記念館」)、日本の国内世論分断に有効と考えられたためです。また、それが次第にエスカレートしているのは、今日の中国共産党の延命策として海洋膨張策が採られていることに対し、日本の復活が障壁となることを恐れているためだと思います。

悲しいことには、そのために採られている唯一の方策が、自らも信じていない「南京大虐殺」というウソ宣伝であり、それで日本人の道徳性を貶め、その国際的信用を損なわせようとしていることです。しかし、その内、ウソ宣伝は自国民にもばれます。また、日本人の道徳性は、いろんなメディアを通して世界的に高く評価されています。国内世論的にも、こうした中国の見え透いたプロパガンダに、いつまでも日本人が騙されるはずがない。

こう考えると、上述した「南京大虐殺」に関する中国のウソ宣伝は、日本の問題というより中国の問題だということが判ります。では、ここに日本の問題はないかというと、こうした中国の問題とは別に、日本人がしっかり認識しておくべき問題が、この「南京事件」に関してあるのです。次回は、この点について私見を申し述べたいと思います。

2014年4月23日 (水)

「南京大虐殺」論争における現在と未来(1)

南京大虐殺があったかなかったかを論ずるとき、中国がいうような虐殺数30万がプロパガンダにすぎないことは誰にでも判ります。実際には、便衣兵あるいは投降兵などの処断が約1万人程あったということで、これを今日の価値観で見れば、1万人であっても立派な虐殺ということになります。

もちろん、それが一般市民の殺害であったら間違いなく大虐殺ですし、その場合は、例え100人以下であっても虐殺とされるでしょう。しかし、南京事件の場合、処断されたのは便衣兵や、投降後暴動等を起こした中国軍兵士であって、これらは、当時の国際法に照らしたとき、不法殺害とは見なされなかったのです。

また、このように、便衣兵や投降兵が大量に出たのは、中国軍が防衛不可能な南京城の防衛をあえてやろうとしたこと。にもかかわらず、南京城陥落直前、指揮官らが、降伏をしないまま、部下将兵に日本軍の囲みを破って脱出し、一定の場所に集結することを命じて、自らは南京城を脱出(敵前逃亡?)したためです。

そのため、部下将兵がパニック状態に陥り、南京城から脱出しようとするもの、督戦隊に射殺されるもの、城壁から墜死する者、揚子江で溺死するもの、城外で日本軍と抗戦するもの、軍服を脱いで安全区に逃げ込むもの、後方攪乱を目的に安全区に潜入するもの、大量投降するもの、投降後に暴動を起こすもの等、無秩序な大混乱状態が発生したのです。

さらに言えば、こうした混乱状態が生じることは、事前に、中国軍の指揮官にも当然予測されていたわけで、にもかかわらず、蒋介石は、むしろ、こうした混乱状況を「日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにすることを意図」(ダーディン)して、あえてそれを選択したのです。

こうした事実が、当時の人々にはよく分かっていたのですね。だから、中国は、当時この事件を宣伝すればする程、自らの失態をさらすことになりかねないので、戦時中はこの問題に触れなかった。おそらく、戦後、国共内戦が熾烈に立っていく中で、共産軍がこれを国民党批判に利用しようとしたのではないでしょうか。それに対する防衛策として、南京大虐殺が、アメリカの思惑とも重なって、東京裁判で取り上げられたのではないでしょうか。

もちろん、この頃には、先に述べたような、南京事件が発生した当時の事情はほとんど忘れ去られていました。というより南京事件自体が忘れ去られていました。そのため、日本軍が、以上のような状況下で発生した便衣兵や投降兵を処断したことが、あたかも不法殺害であり大虐殺であったかのように見なされるようになったのです。

しかし、東京裁判におけるこうした南京大虐殺の告発は、もともと事実に基づいたものではありませんし、中国国内における覇権争いにおいて、国民党が敗れ共産党が政権を握ったことで一応収束しました。中共はこの事件が蒋介石の責任に帰すものであることをよく知っていましたから。

ところが、この問題が、日中国交回復期を迎えて、中国側の外交カードの一つとして利用されるようになったのですね。中国が文化大革命の混乱を経て経済復興するためには日本の援助を必要としていました。しかし、これを中国側の要請ではなく日本側の贖罪とするためには、日中戦争における日本軍の残虐行為をハイライトする必要があったのです。

当時の日本人には、東京裁判によって植え付けられた贖罪意識や「一部の軍国主義者論」(悪かったのは一部軍人で一般の日本人には罪はないとする考え方)がありましたから、こうした中国の宣伝にまんまと嵌ってしまったのです。さらに、戦後の平和が続く中で国際政治のリアリズムが見失われ、南京事件をその時代の状況の中で理解するのではなく、今日の価値観でしか見れなくなってしまった。

ここには、歴史的事件を今日の価値観で裁くことの間違いがあります。こうした考え方がいかに間違っていたかは、東中野氏や冨沢氏ら多くの南京事件研究者が、当時の国際社がこれを「虐殺事件」として全く取り上げなかったという事実を発見したことによって、ようやく明らかになりました。

ここに、南京事件では”通常の戦争犯罪はあったが、「南京大虐殺」はなかった”とする主張の根拠があります。しかし、今日の平和な時代に生きる人々が、戦争中のリアリズムを理解することは極めて難しい。また、これに加えて、中国や韓国のように、歴史的事件を今日の政権に都合の良いように書き換えることを当然とする国があり、自国に都合の良い歴史認識を日本に強要し、また世界に宣伝しようとするため、この両者が結びついてしまう。

そこで、この両者の論理の克服が求められるわけですが、この点、偕行社の『南京戦史』が、この事件の基本的な事実関係を明らかにしたことは、この問題を解決に導く上で極めて大きな意義があったと思います。さらに、便衣兵や投降兵等の処断について、その「当・不当」の判断を留保したことも誠に賢明な判断でした。

ともあれ、中国(共)の主張はすでにウソであることが証明されましたから、ひと山越えたと思います。また、前者の、”歴史的事件を現代の価値観で裁く傾向の克服”については、日本人自身が、歴史的思考法を身につけていくことで克服するしかないと思います。

その意味で、日本人の「歴史認識」を巡る議論は、こうした日本人の課題を解決していく上で、大変良い演習問題になると思います。中国や韓国の主張がエキセントリックであればある程、かえって、日本人の眠気を覚まさせる上で効果的だと思います。合わせて、領国の人々の目も覚めると一層よろしいのですが・・・。

2014年4月12日 (土)

「南京大虐殺」は東京裁判の「作り話」。「南京事件」が相当。その主因は国民党軍の退却の失敗(3)

前回、中国が”被害者は30万人以上”という「南京大虐殺」は、実は、ベイツのいう「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びと」が示す規模であったこと。また、ここでいう「非武装の人間」というのは兵士であり、「かって兵隊になったことのない人々」は、安全区に軍服を脱いで逃げ込み摘出処断された便衣兵や、投降後暴動を起こして処断された兵士その他だった、ということを申しました。

ここで問題になるのは、「安全区に軍服を脱いで逃げ込んだ便衣兵や、投降後暴動を起こした兵士の処断が合法的であったかどうかということで、この議論は1980年代以降日本でも盛んになりました。今日の平和な時代から見れば、彼らは無抵抗の捕虜なのだから殺せば虐殺と同じだ、ということになりますが、肝心なことは、南京が陥落したといっても戦争状態は継続していたということで、事実、安全区では便衣兵による後方攪乱行為が盛んに行われていたのです。

戦争が継続している限り、敵の兵力を削減するするため殲滅が行われるのは当然です。従って、不法戦闘員と見なされた便衣兵が処断されても、また、捕虜が暴動を起こして処断されても、戦争法規上は問題とはならなかった。もちろん、「その他」に含まれる投降兵の不法殺害もあったと思いますが、少なくとも、一般市民を対象とした日本軍による組織的な殺戮が行われた証拠はありません。それらしく見えたのは、あくまでも、こうした便衣兵の処断だったのです。

本稿(1)でも言及しましたが、「南京大虐殺」についてその被害者数を問題にすると、たとえ”被害者30万人以上”ではなく1万人程度であったとしても大虐殺ではないか、ということがいわれます。これは当然で、もし、南京で、一般市民が1万人どころか、その十分の一千人以下であったとしても、日本軍による一般市民の組織的虐殺があれば、当時の状況下で、それが国際問題にならないはずがありません。

ところが、1938年2月2日の国際連盟の「極東問題の紛争についての決議案」には、その事件への言及はありませんし、「権威ある年鑑『チャイナ・イヤーブック』(1938年版)」の1937年12月の主な出来事にも南京虐殺に関する記述はありません。なお、「南京暴虐事件」はありますが、それは1927年3月24日の南京戦の10年前に起こった事件のことで、1937年12月の「南京事件」はないそうです。(『南京「事件」研究の最前線』平成20年版p78)

では、1937年の「南京事件」がどのようにして知られることになったかというと、それは、国民党中央宣伝部顧問だったティンパーリの名前で出版された『戦争とはなにか』が1937年7月に出版されて以降のことです。その本の中で「虐殺」のルーツとなった記述が、冒頭に紹介した、ベイツによる「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びと」でした。

では、なぜ彼らは、この中華民国政府の「対敵宣伝本」である『戦争とはなにか』の出版に協力したのでしょうか。一つは、国民党宣伝部が「外国人を動かして行う宣伝活動」を行ったこと。もう一つは、南京の宣教師らの目には便衣兵らの処刑は極めて残虐に見えたこと。また、当時は「親日的な外人記者は一人もいない」という状況だった、ということが指摘されます。(『南京「事件」研究の最前線』平成 年版p)

この件に関して、『戦争とはなにか』の末尾には次のようなことが書かれています。

「国の経済生活を支配している大財閥と結託した軍国主義者が日本を支配している」「中国が(日本に)屈服することは許されない。もし屈服することにでもなれば、人類は今後、何世代にもわたって善悪のけじめをつける権利を放棄することになろうし、現在、中国が体験している言語に絶する参加を自ら繰り返す危険をおかすことになろう」(『日中戦争史資料9』p101~102)

つまり、日本軍の「人類に及ぼす危険性」を国際社会に知らしめるために、その最も効果的な宣伝方法として、日本軍の残虐性・暴虐性を告発することが有効と考えられた。そしてこれを国際社会に宣伝するためにこの本が書かれた。しかし、さすがに、先のベイツの記述は、繰り返しになりますが、当時の南京戦の実態を知るものにはウソであることが明白だった。そこで、この本の信用性を維持するために、その漢訳本からはその記述が削除された。

さらに、国民党「国際宣伝処が1937年12月1日から1938年10月24日まで、南京戦を挟む約1年間の間に300回の記者会見を外国人記者を集めて開いた」そうですが、その中で「ただの一度も南京で『日本軍が市民虐殺をした』だとか『捕虜の不法殺害をした』だとかを言っていない」そうです。「またそうした質問が記者から出されたという記録もない」ということです。(『南京「事件」研究の最前線』平成20年版p79~80)

といっても、確かに、このベイツの記述のうち「非武装の人間」や、「兵隊になったことのない人びと」というのは虚偽ですが、4万人近くの中国軍兵士が「南京城内または城門の付近」で殺されたことは、ほぼ事実だと思います。また、その内約30%1万2千人は、軍服を脱ぎ捨て平服をまとって安全区に逃げ込んだ後摘出処断された便衣兵や、投降後暴動を起こして処断された中国軍兵士その他のことだと思います。

このことは、偕行社の『南京戦史』による中国軍兵士の戦死者数や撃滅処断数ともほぼ一致していることで確認できます。もちろん、これらの撃滅処断された兵士の中に、不法殺害された者もいたと思いますが、先ほど述べた通り、少なくとも、一般市民の組織的・集団的虐殺が殺害がなされたという証拠はありません。

このことは、「南京事件」の事例が全部集まっているとベイツの言う『南京安全地帯の記録』からも知ることができます。この記録に記載された事件のの中から、文責のない事件を除き、さらにその中から被害者名不明の人的事件、及び、被害場所不明のその他の事件を除いて「事件らしい事件」を抽出した結果、次のようなことが冨沢繁信氏の研究で明らかになりました。

それは、この記録に記載された犯罪事例517件のうち、上記のスクリーニング作業によって抽出された「事件らしい事件」といえるものは、合計95件であり、その内殺人2件、強姦5件、拉致7件、略奪51件、放火1件、傷害2件、侵入13件その他14件に過ぎないということ。つまり、その他の事件は「伝聞」の域を出ないものだということです。

これらのことを総合的することで「南京事件」の実相はほぼつかめます。これまでの議論をまとめていえば、この事件による中国軍兵士の犠牲者数はベイツのあげた数字がその実態を反映しているということ。さらに、その数が約4万人に達したのは、南京城防衛司令官であった唐生智が、南京城陥落直前の12月12日午後8時、部下将兵に敵中突破を命じ、あるいは安全区に潜り込んで後方攪乱するよう命じ、自らは船で南京城を脱出したためであること。

もちろん、日本軍にこうした事態に備えるための準備があらかじめできており、また、南京城凱旋入場式が12月17日に強行されるようなことがなければ、便衣兵や大量投降兵の扱いも、もっと落ち着いた方法でやれたと思います。しかし、日本軍の南京城攻撃事態が、現地軍、特に第十軍に引きずられる形で、補給も無視した状態で強引に行われたために、そうした余裕がありませんでした。

この点が、従来、厳しい批判にさらされてきたわけですが、しかし、これは”「南京事件」の実相を問う議論とは別個に議論すべき問題です。とはいえ、この点を押さえないと、”するつもりも、する必要もなかった日中戦争”がなぜ起こったかという疑問に答えることができません。そこで、以下、この点について私見を申し述べたいと思います。

そもそも、なぜ、日本軍は中国と戦争を始めたか。その目的は何だったのか、ということですが、それまでの日本と中国の外交交渉の経過から見れば、その目的は、中国に「満州国を承認させる」こと。当時の欧米人の目にはそのように見えたそうです。従って、その目的が達せられたなら、この戦争は終わるはずだと。(『日本人と中国人』イザヤ・ベンダサン)

もちろん、中国が満州国を承認することは、日本の満州支配を中国が認めることになるから、これは、当時、国家統一期にあってナショナリズムの沸騰する中国には政治的にできない。しかし、日本軍は、それを華北分離(その非武装化から親日政権の樹立まで)で達成しようとした。これが華北の満州化を恐れる中国人の反発を招き、蘆溝橋事件の勃発を見ることになった。

では、日本人はこの事態にどう対応したか。事変の勃発に驚いて、華北分離工作後の日本の権益を全て放棄することにより事変の拡大を防ごうとした(「船津工作」)。しかし、時すでに遅く、事変は上海に拡大し日中全面戦争となった。戦況が膠着状態を迎えた11月はじめ、日本は「トラウトマン和平工作」による事態の収拾を図った。その条件は「船津工作」と同様のものだった。

この日本の提案に、当時中国軍の幕僚長代理であった白崇禧は「こんな条件ならなぜ戦争するのか」と述べたという。というのは、その提案は、満州国の正式承認ではなく実質的承認を求めていたから。しかし、蒋介石は日本軍不信から回答を引き延ばした。しかし、上海の戦線が崩壊し日本軍による南京城攻撃が間近となる中で、蒋介石はこの提案に基づく和平交渉に同意した。

しかし、日本は蒋介石の回答が約1ヶ月遅延し、この間、戦況が変化したことを理由に、先に示した和平条件を加重した。そのため、この「トラウトマン和平工作」は暗礁に乗り上げた。この間、日本軍による南京城総攻撃が行われた。日本軍はその直前に南京城を防衛する中国軍に対して投降勧告をしたが、南京防衛軍総司令官の唐生智はこれを無視した。

こうして「南京事件」が発生することになったわけですが、この時、欧米人の感じた疑問は、この戦争は「中国による満州国承認」を巡って争われたはず。日本はこの戦争終結の条件として、ドイツのトラウトマン大使を介し、その正式承認でなく実質承認を求めたはず。そして蒋介石はその提案を受諾したはずだ。なのに、なぜ日本は南京城を攻撃した?

これが、「南京事件」を巡って、日本の味方をする欧米人が一人もいなくなった理由だとベンダサンはいうのです。つまり、この戦争は「中国の満州国承認」を巡って起きたのだから、蒋介石がそれを認めた段階で終わりになるはずだ。なのに、日本は戦争を止めないで南京城を攻撃占領し、暴虐の限りを尽くした。日本人は好戦民族・残虐民族なのかと。

これは、イザヤ・ベンダサンの見方で、こうした見方に異論を唱える人も多いわけですが、上海事変に始まる日中戦争が中国のイニシアティブで始まったにもかかわらず、なぜ、「南京事件」に関して日本の見方をする欧米人が一人もいないような状態になったか、という疑問を解く上では、肯首せざるを得ない見方ではないかと思います。

つまり、問題は、日本は「目的不明の戦争をだらだら続けた」ということ。その結果、南京戦に限っても、日本軍の戦死者約1万を含め、合計約5万の人命が失われたということ。日本が日中戦争において、その戦争目的「中国による満州国の承認」を自覚していさえすれば、蒋介石がそれを認めた段階で、戦争は終結させ得たはずだ、ということです。

考えてみれば、このように、既成事実の積み上げをしているうちに、もともとの「目的」が分からなくなってしまう傾向、これが昭和史において顕著になったのは、謀略による満州事変を結果オーライで日本政府が認めて以降のことです。こうした傾向が、本稿の主題である「南京事件」に止まらず、泥沼の日中戦争ひいては日米戦争を招いたのではないか。

そして、このことの理解は、虚構の「南京大虐殺」に振り回されて、日本人の残虐性を告発する態度からは決して生まれない。それは、果てしない自己正当化を生むだけで、日本人が抱える以上指摘したような思考上の弱点を克服することには繋がらない。「南京事件」の真相の解明はそのためにこそなされなければならない。私はそう考えます。

2014年4月 5日 (土)

「南京大虐殺」は東京裁判の「作り話」。「南京事件」が相当。その主因は国民党軍の退却の失敗(2)

「2014年4月1日、南京大虐殺記念館の朱成山(ジュー・チョンシャン)館長は、事件の被害者数について菅義偉官房長官が「人数については様々な意見がある」と述べたことについて「すでに歴史的に結論が出ている。否定し、覆そうとするいかなる試みも幼稚なものだ」と非難しました。

合わせて「朱氏は「“南京大虐殺の被害者は30万人以上”という数字は、東京裁判の“南京占領から6週間の間に大量の死体が川に投げ込まれたり焼かれるなどし、虐殺された一般人と捕虜は20万人以上に上る”とする判決書から間接的に出たものだ。“大量”がどのくらいかについては、日本軍第二碇泊場司令部の太田寿男少佐が15万人と供述している。これに東京裁判で確認された20万人以上という殺害数を加えると、東京裁判で30万人以上が虐殺されたという判決が出たことは容易に見出すことができる」と述べました。(2014年4月2日RECORD CHINA)

ここには、太田寿夫の証言15万人が出てきますが、その供述書は撫順戦犯管理所で作成されたもので、これが虚偽であることは「梶谷日記」により証明済みです。(『本当はこうだった「南京事件」』P423)。朱成山(ジュー・チョンシャン)館長はこれを知らないだけでなく、これに東京裁判の”20万以上”を加えて”30万以上”としているわけですが、この東京裁判の”20万以上”が虚偽であることは、前稿で述べた通りです。

さて、前回、東京裁判が「南京大虐殺」の証拠としたものは、主にベイツの証言であり、そのオリジナルテキストは、ベイツが『戦争とはなにか』(1937.7出版)に記載した次の記述であると申しました。
「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」
しかし、この記述は、その本と同時に出版されたその漢訳本や、国民党の国際問題研究所が主催して制作した『日本軍の戦争行為』や『南京安全地帯の記録』など4冊の英語版からは削除されていたのです(『南京「事件」研究の最前線平成20年版』p39)。

その理由は、前回述べた通り、この記述は紅卍字会の埋葬記録と矛盾しており、また、当時の人々の目には虚偽あることが明白だったので、中国側も、この記述は削除した方がよいと判断したのではないかと思います。といっても、この記述を次のように修正すれば、より、「南京事件」の実相に近いものになります。
「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの『中国兵』が南京城内または城門の付近で戦闘により或いは不法戦闘員その他により殺され、その内の約30パーセントは『軍服を脱ぎ平服を纏って安全区に逃げ込み、あるいは潜入した便衣兵」であった」

これは、資料的に最も信頼できる『南京戦史』が見積もった数字とほぼ同じです。『南京戦史』は南京防衛軍の総兵力約7万6千人、戦死(戦傷病死を含む)約3万人、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万人、捕虜・敗残兵・便衣兵の撃滅処断約1万6千人としています。問題は処断数1万6千人の当、不当ということですが、『南京戦史』は、その「状況判断、決心の経緯」が分からないのでその考察は避けた、としています。

この、日本軍に処断された1万6千人のうち、安全区から摘出された中国軍の兵士約7千人は「便衣兵」です。この便衣兵の処断について、秦郁彦氏は「便衣兵は捕虜と異なり、陸戦法規の保護を適用されず、状況によっては即時処刑されてもやむをえない存在だが、だからといって一般市民と区別する手続きを経ないで処刑してしまっては言いわけができない」といっています。つまり「捕虜の中に便衣隊、つまり平服のゲリラ」がいたため、それを区別するための裁判が必要だった」といっています。

この点について東中野修道氏は、秦氏のこの見解は「便衣隊」と「便衣兵」を混同している。秦氏のいう裁判は、軍律に基づいて行われるもので、それは占領地の軍司令官が占領地における軍の安全と秩序維持のために発令する「住民取締の命令」(信夫『戦時国際法提要』上巻810項)ものである。つまり、交戦者たる資格を有しない常人(市民)が「凶器を深くこれをポケット内の蔵し、・・・機を狙って主として敵兵を狙撃する」ような場合(これを便意隊という)に適用されるものである。しかし、南京の安全区に軍服を脱いで私服をまとい市民になりすました正規兵(これを便衣兵という)は、「不法戦闘員」であって、そうした裁判の手続きは必要とされない、といっています。

もちろん、日本軍は、この便衣兵の摘出に際して、これが市民であるか中国兵であるかを区別するための手続きを、厳密とはいえませんがとっています。また、中国兵には、正規兵の外に、地元で徴兵された軍夫のような補充兵も多くいましたから、市民が間違って摘出するようなことがあったかもしれません。しかし、その中で処刑の対象となった者は、抵抗心の強い正規兵が中心で、抵抗しない者は捕虜として収容され労役に使用されたり、後には維新政府の軍隊に編入された者も多くいました。

この他、南京城内の安全区で摘出された中国兵約7千人を除いた残りの9千人(安全区外および南京城外の周辺で処断された者)については、その処断に至った状況は様々で、幕府山付近での大量投降後の捕虜暴動で射殺された例など、不測の事故というべきものもあります。問題は、南京防衛軍司令官であった唐生智が、城内に取り残されることになった部下将兵に投降を許さず、敵の包囲を突破して所定の地域に集結するよう命令したということです。

しかし、南京城は北と西が揚子江に囲まれ、日本軍は東と南から南京城を包囲するように攻め上りましたので、中国軍は南京城に「袋のネズミ」となりパニック状態に陥りました。そのため、城門から脱出しようとして墜死する者、督戦隊に射殺される者、揚子江を渡ろうとして溺死する者、陸上を攻め上る日本軍の包囲を突破して脱出しようとする者、日本軍と衝突して殲滅される者、あきらめて投降する者等々悲惨な状態に陥りました。日本軍はこうした状況に部隊毎の対応を迫られ、その結果、南京城外近郊における約9千人の中国軍将兵の処断を生むことになったのです。しかし、この場合の当、不当の判定は『南京戦史』がいうように極めて困難です。

しかし、こうした状況は、当時の人々にはよく分かっていて、彼らは「これらの日本軍の処断を批難しませんでした。南京の欧米人も、南京に事情調査に来た東京のアメリカ大使館付き武官も、漢江の国民党宣伝部も、日本軍による「便衣兵処刑」を「戦時捕虜(POW)処刑」とは非難しませんでした。戦争という状況のもとでは、戦争のルール、戦時国際法に則って判断するよりほかなかったからで.そのときの状況を、身をもって肌で感じながら判断していたのが、あの時代の人々」だったのです。(『南京事件研究の最前線』H20年P58)。

では、唐生智は、なぜ、中国軍将兵がこうした状況に陥らないような適切な措置を講じなかったのでしょうか。南京城が防衛上極めて不利な地理的環境にあることは当時の中国軍指導者にはよく分かっていました。従って、南京城放棄も検討されたのです。それに反対して南京城防衛を買って出たのが唐生智で、彼は12月9日の日本軍の降伏勧告を拒否しました。ところが、12月12日になって、三日間の休戦協定(この間に中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す)を日本軍と結びたいので、国際委員会に仲介して欲しいと申し出ました。しかし、蒋介石の承認は得られなかったらしく、そこで唐は、責任逃れのため「休戦願いは我々国際委員会の一存だと見せかけ」ようとした、と「ラーベの日記」に記されています。

また、例のアイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』には、唐生智が「敵前逃亡」するに至った経緯について、次のように記されています。 

 「しかし、もっと悪いニュースが唐を待っていた。そして、今回の悪いニュースは敵の成功によるものではなく、蔣自身の側から届けられたものだった。12月11日正午、唐の本部に顧祝同将軍からの電話が入った。顧は唐配下の軍団の全面退却を命じ、これは蒋からの直接の指示であると通告した。唐自身は、川の対岸にあり、渡河船と鉄道の終点である浦口に直行すると、待機している別の将軍が彼を安全な場所に移動させるということだった。

 唐の表情に衝撃が走った。自分の軍団を見捨てるという、およそ指導者として不名誉な選択を要請されている事実はおくとして、彼は別の非常に深刻な問題を抱えていた。その時点で、彼の軍は、苛烈な戦闘の最中にいた。彼は顧に、日本軍がすでに前線に突入していて、退却命令の実行は不可能であると説明した。それは実際には潰走に転じることになる。

 顧は言った。「それについて憂慮する余裕はない。とにかく、貴殿は今夜中に退却しなければならない」。

 突然かつ性急な退却がもたらすと思われる結果について唐が再度説明すると、顧は、蒋が個人的に唐に「今夜中に渡河する」よう命令していることを思い出させた。必要ならば部下を残して状況に対処させろ。しかし「貴殿は今夜中に川を渡らなければならない」。顧は繰り返した。

 不可能だ。唐は言った。どんなに急いでも、揚子江を渡ることができるのは明日の夜になる。顧は、敵との状況が切迫した事態に発展しているので、可能な限り早く市を離れるよう警告した。

 その日の午後、唐は命令を促す蒋の電報を受け取った。「唐司令長官、戦況を維持できないのならば、将来の反攻に備えて、[軍を]保存し、再編成するために、退却の機会をつかむべきである。十一日」。その日のうちに、窮迫する唐のもとへ、蒋からの二通目の電報が届き、再び退却を迫った。

戦線を維持できず、圧力をかけられ、唐は従うことにした。それは中国の軍事史上最悪の結果のひとつをもたらすことになる決定だった。」(上掲書p92~93)

つまり、唐生智は勝手に「敵前逃亡」したわけではなくて、それは蒋介石の命令によるものだったというのです。これをまとめると次のようになります。

蒋介石は12月11日に唐生智に全面退却を命令した。しかし、時すでに遅く、それは味方将兵の潰走とならざるを得ない。そこで唐は、その「突然かつ性急な退却がもたらす結果」を蒋に説明したが、蒋は唐に退却を命令した。そんな緊迫した状況の中で、唐は、国際委員会を仲介に立て「三日間の休戦協定」を日本側に提案しようとした。しかし、これは蒋介石の承認は得られず、そこで、やむなく唐は、部下将兵に敵の包囲を突破し所定の地域に集結すること。安全区に便衣兵と潜り込ませ攪乱工作を行うことなどを指示」した後、南京城を脱出した・・・。

この結果、必然的に「南京事件」が発生することになったのですが、さて、その功罪はどう判定されるべきでしょうか。もし、唐生智が降伏していたら、もちろん「南京事件」は発生しませんでした。一方、唐が、この段階で「三日間の休戦協定」を結ぼうとしても、それは降伏同然のものにしかならなかったでしょう。だから蒋介石はこれを認めなかった。そのため唐生智は、それが軍事史上最悪の結果になることを承知の上で、南京城陥落前日の夜8時に南京城を脱出したのです。

こうして、約1万6千人の捕虜・敗残兵・便衣兵が日本軍に撃滅処断されました。この場合、もう少し早く退却を決定していれば、中国兵はパニック状態に陥ることなく退却できたでしょう。また、日本軍の包囲を突破するよう命令したり、安全区への便衣兵の潜入など戦争法規違反となるようなことを命じなければ、犠牲者数はもっと少なくて済んだでしょう。というのは、唐(というより蒋介石)がこうした措置をとったために、南京陥落後も戦闘状態が継続することになり、そのため、当初は便衣兵の逮捕監禁だった日本軍の命令が、残敵掃討となり、ついには捕捉殲滅へとエスカレートしたのです。

こうした事情が判っていたためか、こうした日本軍の処置は当時はほとんど問題とされず、従って、「南京事件」とは、『戦争とはなにか』の副題である通り「外国人の見た日本軍の暴行」でした。つまり、日本軍が南京占領後、日本軍兵士によると思われる強姦、略奪、殺人、放火、拉致、傷害、侵入などが相次いだことから、安全区国際委員会の欧米人が、それを日本軍の暴虐の告発宣伝材料としたのです。しかし、その暴行事例の多くは、難民区の中国人によるものや、安全区に潜入した便衣兵のよる攪乱行為であったことが、その後の冨沢繁信氏らの研究で明らかとなりました。

なのになぜ、中国は「南京大虐殺の被害者は30万人以上」という荒唐無稽な主張を、東京裁判判決を根拠に世界に向かって宣伝しようとするのでしょうか。東京裁判判決が主に依拠した資料は、先に見た通り、ベイツの証言です。その真相は「4万人近くの『中国兵』が南京城内または城門の付近で戦闘により或いは不法戦闘員その他により殺され、その内の約30パーセントは『軍服から平服に着替えて安全区に逃げ込み、あるいは潜入した便衣兵だった」です。それをあえて、東京裁判の”20万以上”という虚偽の数字に、、すでに虚偽であることが証明済みの太田寿夫の供述15万を加えて30万としているのです。

しかし、虚偽の宣伝はいつかはバレる。日本としては、辛抱強く事実を解明し、その事実をもって、そうした宣伝の愚かしさを、世界に訴えていく必要があると思います。

*下線部分の表現は最終的に「戦闘により或いは不法戦闘員その他により」としました。「その他」には、交戦法規違反や日本軍による不要な害敵行為も含まれます。
(最終校正2014.4.6 20:21)

2014年4月 3日 (木)

「南京大虐殺」は東京裁判の「作り話」。「南京事件」が相当。その主因は国民党軍の退却の失敗(1)

菅義偉官房長官は3月30日、フジテレビ「新報道2001」に出演。中国の習近平国家主席が、ドイツ・ベルリンでの講演で、旧日本軍は、中国・南京に侵略し、「30万人以上もの中国人を虐殺した」と語ったことについて、「第三国で、日本の歴史を取り出して、このような発言をすることは極めて遺憾」と述べ、29日に中国側に抗議をしていたことを明かした。(FNNニュース)

さらに、菅官房長官は「戦後69年間の中で、世界は日本を平和国家と認めている」と強調した。菅氏は番組出演後に記者団の取材に応じ、「日本政府は、南京での旧日本軍による殺傷や略奪を否定していないが、人数については様々な意見がある」と述べたという。(MSN産経ニュース)

日本政府がこのように、不当な反日宣伝に対して、間髪入れず抗議するようになったことは大変良いことで、菅長官のこのような反論の仕方に対して、国内には次のような意見があります。

「旧日本軍が南京で中国人を虐殺したことは日本政府も認めている歴史的残虐行為である。その人数が30万人というのが誤りだと言うなら、日本政府は何人の中国人を殺したというのか。その数字を日本政府は特定できないままだ。仮に数万人であっても虐殺に変わりない。どうやって世界の前で習近平主席に反論できるというのか。」(天木直人)

これは、南京事件を論ずる時に必ず出てくる意見で、30万人でなく数万人いや数十人であったとしても「虐殺」に違いはないとなります。問題は、ここでは「虐殺」の定義というかその発生状況が曖昧なことで、数字をこの「虐殺」の発生状況と併せて考えると、30万人と数万人の意味の違いが分かるようになります。そこで、以下、南京事件における「虐殺」数を、その発生状況とも照らし合わせつつ、その信憑性を検討してみたいと思います。

東京裁判の判決文に記された虐殺者数は次のようになっています。
①日本側が占領した最初の二、三日の間に少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。多くの強姦事件があった。・・・幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。・・・占領後の最初の1ヶ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。

②男子の一般人に対する組織だった大量殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混じり込んでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、後ろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団毎に殺害された。兵役年齢にあった中国人男子2万人はこうして死んだことが分かっている。

③南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生き残った者のうちの多くは機関銃と銃剣で殺された。

④中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから72時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、彼らは集団的に殺された。このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

⑤後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。俺らの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。

⑥この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占拠された時に始まり、1938年2月のはじめまでやまなかった。この六、七週間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

①の数字は、安全区国際委員会メンバーであり金陵大学教授であったベイツが『戦争とはなにか――中国における日本軍の恐怖』(国民党中央宣伝部が南京陥落から7ヶ月後に制作し出版した「対敵宣伝本」)に書いた次の記事によるものと思われます

(ア)「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」(『日中戦争資料集9』「戦争とは何か」p47)

(イ)「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼のできる私の友人の多くは、もっと多くの数を上げることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」(上掲書p48)

*(ア)は事件の全体像についての説明で、紅卍字会の埋葬がほぼ終わった段階(s13.4中旬)で記されたもの。(イ)はその「初期の見積もり」とされるもので、s13.1.10付けでベイツが友人に宛てた手紙の中に記されたもの。つまり、(イ)がベイツが初期に見積もった被害者数とその内容の説明であって、(ア)は、埋葬数が判った段階で、その数字に合わせて被害者数とその内容を誇張して記したものとわかる。(2014.4.13追記)

紅卍字会の記録では、埋葬した遺体は約43,071体となっています。しかし、当時この埋葬作業を自治委員会を通して支援したという南京特務機関員の丸山進氏によると、この数字は水増しされており、総計は29,000体以内とのことです。なお、この水増しを考慮しなければ、城内の死体は2,830体、城外では39,861体、その内女子48体、子供29体で、残りは全部成年男子であり、しかもそのほとんどが軍衣をまとっていたことを、氏は確認したといっています。いずれにしても、4万の埋葬者が非武装で、そのうち30%の12,000人がかって兵隊になったことのない人々(=非戦闘員)で、少なからず婦女子が含まれていた、というベイツの証言は、この埋葬記録によって否定されています。

この部分のベイツの記述は、英語版の『戦争とは何か』に記載されたものですが、それと同時に国民党が出版した漢訳本や、国民党の国際問題研究所が主催して制作した『日本軍の戦争行為』や『南京安全地帯の記録』など4冊の英語版では、なんと「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」という記述が削除されているそうです(『南京事件研究最前線平成20年版』p39)。これは、埋葬記録とも矛盾しており、中国側も信憑性が疑われると判断したのでしょう。

②の2万人という数字は、1931.1のエスピー報告に「城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる」(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P241-P242)とありますので、これを受けたものと思われますが、ベイツの①の記述に含まれるものと見てよいでしょう。(2014.4.14追記)

③の数字は、魯甦という中国人が、砲弾で足を負傷し、幕府山に近い上元門で「将ニ退却セントスル国軍及難民男女老幼、合計57,418人」が、餓死し、凍死し、機銃で掃射し、最後には石油をかけてこれを焼いたのを見た」という証言に基づくものと思われます。これは、幕府山付近で発生した1万4千人に及ぶ支那軍民の大量投降後に発生した、捕虜暴動鎮圧について述べたものと思われます。この事件については、第十三師団山田支隊麾下六十五連隊両角大尉他の証言がありますが、その犠牲者数は、偕行社の『南京戦史』では3,000人となっています。

④の数字は、城外で捕虜となった後、揚子江岸で裁判なしに処刑された兵士の数が3万というものです。これについては、東京裁判におけるベイツの証言(「ラーべの証言」としていましたが間違い)に「中国兵隊の大きな一群は城外のすぐ外で降伏し、武装を解除され72時間後、機銃掃射のよって射殺されたのであります。これは揚子江の畔であります。国際委員会は3万人の兵士の亡骸を葬るため労働者を雇ったのであります。揚子江に葬られた屍体及び他の方法に依って葬られた屍体の数は数えることができませぬ」とありますので、これによったものと思われます。

また、『ラーベの日記』(2月15日)には「紅卍字会が埋葬していない死体があと3万もあるということだ。いままで毎日2百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている」とあります。これによると、ラーベのいう3万というのは、退却し損なって全滅した中国人部隊を含んだ数字であって、判決にいう、裁判なしに処刑された捕虜が3万ということではありません。

⑤の数字は、紅卍字会と崇善堂による埋葬記録15万5千に、③や④の数字を加え20万以上としたものと思われますが、今日、崇善堂は埋葬作業を行う団体ではなかったことが明らかになっています。従って、その埋葬数11万はねつ造された数字ということになります。

⑥の数字は、南京陥落の日から6,7週間に中国人10万以上が殺害されたというものですが、⑤の20万以上という数字との矛盾はどうなっているのでしょうか。

こうした東京裁判の判決に表れた数字とは別に、中国側が東京裁判に提出した数字は次のようになっています。

被殺害確数34万人、焼却または破壊された家屋4,000余戸、被姦及拒姦の後殺害されたる者20人~30人、被逮捕生死不明者184人、被屠殺者たる我同胞279,588名、新河鎮地区、2,873名、兵工廠及南門外花神廟一帯7,000余名、草鞋峡57,418名、漢中門2,000名、霊谷寺3,000名、その他崇善堂及紅卍字会の手により埋葬セル屍体合計155,300余、合計227,591名となります。被屠殺者たる我同胞279,586名及び被殺害確数34万人との関係は不明です。

では、これらの数字は何を根拠としているかということですが、特に注目すべきは「被姦及拒姦の後殺害されたる者20人~30人」となっていることで、この数字は、東京裁判の判決「約2万の強姦事件が市内で発生」の1000分の1です。なお、新河鎮地区の犠牲者は、逃げ遅れこの地域を敗走中の敗残兵が、南京城西側を北上中の第六師団第四十五連隊と衝突したもの。花神廟一帯の犠牲者は南京陥落前の雨花台付近の激戦によるもの。草鞋峡の犠牲者は、上述した幕府山付近で捕らえた捕虜の暴動鎮圧によるもの。漢中門の犠牲者は、その付近に敗残兵が隠れる地下室があったらしく、陥落後3日目に約1,000名が発見され、都城23連隊が処刑したとされるもの(「折田護日記」)。霊谷寺というのは、紫金山における掃討戦での犠牲者でしょうか?『南京戦史』にはその記録はありません。

こうした各戦闘地域における捕虜や敗残兵の処断数を積み上げたものが『南京戦史』にありますが、それは、南京防衛軍の総兵力約7万6千人、戦死(戦傷病死を含む)約3万人、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万人、撃滅処断約1万6千人となっています。

この1万6千という数字については、『南京戦史』は、「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅もしくは処断した実数を推定したもの」で、「これら撃滅、処断は、概して攻撃、掃討、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたもの」であり、「戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない」としています。従って、その当、不当を判断するためには、「これらを発令した指揮官の状況判断、決心の経緯」を知る必要があるが、「これらは戦闘詳報、日記等にも記述がないので、その「考察は避けた」としています。

以上、東京裁判や中国側が単純に虐殺数としてあげた数字がどのようなものかを、『南京戦史』や、その後の日本側の研究で明らかとなった事実と照らし合わせてみました。これから分かることは、実は、上記の東京裁判の判決①②④はベイツの証言によるもの。③は魯甦という中国人の証言によるもので、幕府山付近で投降した捕虜暴動鎮圧が事実のコア。⑤は紅卍字会の埋葬記録のことであって、これはベイツのいう「埋葬による証拠の示すところ」にほかならず、⑥は多分、①の1万2千人②2万人③5万7千人(中の3万8千)④の3万人を加えた程度の数字ではないかと思われます。

こう見てくると、この東京裁判の判決は、主としてベイツの証言に依拠したものであることが分かります。しかし、このベイツの証言の核心部分のオリジナルテキストは、昭和13年7月に出版された英語版の『戦争とはなにか』に記載された「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30パーセントはかって兵隊になったことのない人びとである」です。しかし、この記述は、先に紹介した通り、その漢訳版を出版した国民党自身の手によって削除されていたのですから、この東京裁判の判決は全くの空中楼閣であったことになります。

« 2014年3月 | トップページ | 2014年5月 »

twitter

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

最近のトラックバック