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2014年6月

2014年6月12日 (木)

日中戦争は誰が始めたか(2)

そこで、盧溝橋事件の発砲を誰がやったかということが問題になるわけですが、秦氏はかってそれを「発砲者不明」「偶発的事件」といっていました。しかし、2006年2月号の『諸君』の特集「もし中国にああ言われたらこう言い返せ」では、それは「苑平県城を守備していた第219団第三営長で河南省在住の金振中の回顧談から、発砲者は第29軍兵士であった」ことが判明した。その確度は95%以上で「ほぼ定説化したといって良い」といっています。

また、上海事変が中国側のイニシアティブで始まったことは、前稿で紹介した、事変当時「上海に駐在していた各国の政府職員のコメント」に見る通り、当時から分かっていたことでした。秦氏は、日本が華北での戦線拡大をしなければ上海事変はおこらなかった、などといっていますが、不拡大派の急先鋒であった石原莞爾でさえ、国民党軍4個師団の北上により、華北に駐留する日本軍約5,000の全滅を恐れて、政府の派兵に同意したのです。

次いで起こった廊坊事件、広安門事件、さらに通州事件を見ても、中国側の日中全面戦争に向けた戦意ははっきりしていました。従って、「日本に本当に戦意がないことを示したかったら、北京を占領した後で撤兵すればいい」というような状況ではなかったのではないでしょうか。

このあたりの事情については、『マオ』には次のように書かれています。

①盧溝橋事件が発生した時、蒋介石は「少なくとも当面は、全面戦争を望まなかった」「日本側も全面戦争を望んではいなかった。この時点で、日本には華北以遠に戦場を広げる考えはなかった。②にもかかわらず、それから数週間の内に、1000キロ南方の上海で全面戦争が勃発した。蒋介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった。」

「七月、日本が瞬く間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも華北に転じて何千キロにも及ぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。・・・事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍の中枢で長期に渡って冬眠させておいた共産党スパイを目覚めさせ、上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の中心部に引きずり込む――すなわちソ連から遠ざける――手を打ったものと思われる。」

「『冬眠』から目覚めたスパイは張自忠という名の将軍で、③当時京滬警備司令官という要職にあった張自忠は、日本に対する『先制攻撃』に踏み切るよう蒋介石に進言した。・・・張自忠はこの進言を繰り返したが、蒋介石は耳を貸さなかった。」「④しかし、八月九日、張自忠は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。(「大山事件」)」「日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張自忠は攻撃許可を求めて蒋介石を責め立てた。蒋介石はこれを却下した」

⑤「十三日朝、蒋介石は張自忠に対して、『一時の衝動に駆られて』戦争の口火を切ってはならない、今一度あらゆる局面を『検討』したうえで計画を提出するように、命じた。翌日、張自忠は『本軍は本日午後5時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り・・・』と蒋介石に迫った。⑥14日、中国軍機が日本の旗艦『出雲』を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊及び地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。張自忠は総攻撃を命じた。しかし、蒋介石は『今夜攻撃を行ってはならない。命令を待て』と、張を制した」

⑦「待てども命令が来ないのを見た張自忠は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と虚偽の記者発表をおこなった。反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられた。翌八月十六日、蒋介石はようやく『翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう』と命令した。一日戦闘をおこなったところで、蒋介石は十八日に攻撃中止を命じた。しかし張自忠は命令を無視して攻撃を拡大した。八月二十二日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった」

こうした『マオ』の記述に対する、日本のアカデミズムの見解を次に対比的に見てみます。(『蒋介石の外交戦略と日中戦争』家近亮子著を主に参照)

(1)盧溝橋事件発生時点での蒋介石及び日本の態度
日本は不拡大政策をとり、停戦交渉をおこない、11日午後8時第29軍との間に停戦協定が成立した。しかし、この日近衛は派兵を発表した。派兵を決定すれば「中国軍は折れて出るはず」と期待したためである(その後、現地情勢の変化に伴い動員の決定と中止が幾度も繰り返された)。

蒋介石は8日、「日本の駐豊台部隊が夜間演習をおこない、我が方に向かって射撃し、蘆溝橋城(苑平県城)を占拠しようと企図し、城を包囲攻撃した」との報告を受けた。そこで蒋介石は「苑平県城を固守し、退くなかれ、事態拡大に備えて、四個師団の兵力増援を決定する」と返電した。しかし、その後迷いを見せ、22日には「和平が最上の策」との見解を示し、日中の同時撤兵を企図する考えを示した。

このように、日中双方とも本音では戦局の不拡大を望んでいたが、25,26日と連続して軍事衝突(廊坊と北広安門)が起きたため、27日、日本の閣議はやむなく3戸師団の増派を決定した。28日、華北駐屯軍は全面攻撃を開始。29日、日本軍は営定河以北の北平・天津地区をほぼ制圧した。

29日、宋哲元軍の北平撤退を知った蒋介石は「今最後の関頭に至った」と国民に対し「」国家のための犠牲と最後の勝利」を呼びかけた。また、蒋介石は7月中は日本の国民政府に対する3箇条の和平案(共同防ソ、満州国の承認、華北の特殊化)交渉に応ずる姿勢を見せながら、一方で、「中ソ不可侵条約」の締結を急いだ。

事態が急迫するなかで、日本では7月30日頃から外務省東亜局と海軍のイニシアティブによる、いわゆる「船津工作」と呼ばれる寛大な条件による全面的国交調整案が試みられた。

(2)上海での戦争についての両者の態度
8月に入ると、蒋介石は「応戦」から「決戦」準備へと転換し、上海の空爆計画を立てた。理由は、華北では軍事的基盤が弱いが、上海戦にはドイツ軍の支援もあり勝算がある。また、上海には外国の共同租界があり、そこで日本が軍事行動を起こせば、国際的制裁が日本に下り、中国に有利な和平交渉が行えると判断したたためである。

8月5日、蒋は川越中華大使の停戦交渉を拒絶する方針を決定。すなわち、この時点で蒋介石に和平交渉に本気で応ずる意志はなく、先制攻撃の機会を狙っていたのである。一方、この時期、日本は中国側の抗戦が上海を舞台に準備されていることを想像していなかった。

広田外相は川越に、先の「全面的国交調整案」に基づく停戦・和平交渉を進めさせようとしたが、9日、中国保安隊による大山勇夫他の射殺事件が発生。しかし、日本は、11日、上海市長との間に停戦協定を成立させた。

12日、日本の海軍省は、支那軍隊が続々上海付近に集中を開始し、呉淞付近に戦備を開始と発表、一触触発の状況となった。13日、中国「便衣隊」による機関銃射撃を機に日本海軍陸戦隊との間で軍事衝突が発生、午後6時頃にも衝突が発生した。

14日、中国空軍は日本海軍艦艇を先制空爆。誤ってフランス租界の「大世界」と「キャセイ・ホテル」に爆弾を投下し、死傷者は2,400名に達した(しかし蒋介石にはこの誤爆は伝えられず「中国空軍の大勝」という「うそ」の報告がなされた)。

同日、国民政府は「自衛抗戦声明」発表。日本はこれを事実上の宣戦布告と受け止めたが、不拡大方針を堅持、上海出兵の目的は「上海在留法人保護」とした。蒋介石は20日頃から上海戦の実態をつかむようになり、「和平」をも視野に入れるようになった。

以上、この両者の見解をつきあわせてみると、日本側は一貫して不拡大であったことがわかる。「一撃論」を強行に唱えるものもいたが、先の外務省東亜局と海軍のイニシアティブによる「全面的国交調整案」は、陸・海・外省首脳協議を経て8月4日の四相会談で成立している。

一方、蒋介石も不拡大を望んでいた。これは上記の『マオ』の記述①と一致している。蒋介石は、盧溝橋事件について日本軍による攻撃との報告を受け、4個師団の北上を命じた。それが日本の華北への派兵声明となった。さらに、蒋介石は、廊防、広安門における武力衝突も日本軍による攻撃との報告を受け、「和平が最上」しつつも、「応戦」から「決戦」へと徐々に方針転換していった。

蒋介石が、「決戦」の場所を上海としたことについて、
②は、この時点では蒋介石は上海決戦は望んではいなかったが、こうした戦略構想は持っていたこと。
③は、蒋介石は、張自忠に上海での日本軍に対する先制攻撃を迫られたこと。
④は、張自忠が謀略により大山事件を起こし、蒋介石にはこれを日本軍による攻撃と報告し、日本軍に対する攻撃を求めたが、蒋介石は許可しなかったこと。
⑤は、13日朝の中国軍「便衣隊」の射撃に始まる軍事衝突及び午後6時頃に発生した衝突のことか?
⑥は、14日、ついに中国空軍による上海の日本海軍艦船に対する先制空爆が行われたが、これは蒋介石が許可したものと思われる。この際、中国空軍による共同租界への誤爆があったが、これも、蒋介石には日本軍によるものであり、攻撃は「中国空軍の大勝」と報告されたこと。
⑦は、張自忠は、この空爆を機に総攻撃をしようとしたが、蒋介石が許可しなかったので、「日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた」と虚偽の記者発表を行ったこと。
16日、蒋介石は、反日感情が高まりを受けて総攻撃を命じた。しかし、18日には攻撃停止を命じた?しかし、20日頃上海戦の実態を知るようになり「和平」をも視野に入れるようになった・・・。

これは、『マオ』記述と家近氏の記述を比較検証したものですが、ここにおける最も大きな違いは、張自忠の存在及びその果たした役割についてです。しかし、総合すると、両者は必ずしも矛盾してはおらず、『マオ』の記述は家近氏の記述の空白部分を埋めているようにも見えます。というのは、家近氏の記述では、蒋介石の決心の変化――不拡大や和平を最上としつつ、「応戦」から「決戦」へと方針転換していったこと――がなぜ起こったかを十分説明していないからです。

なにより、盧溝橋事件の発生以降、中国軍によって引き起こされた事件の全てが、蒋介石には、日本軍による攻撃と報告されていることで、これらの全てが、張自忠によるものとは思いませんが、その他の「日本との戦争を望む勢力」による意図的な情報操作があったことは間違いないと思います。

また、日本側が、盧溝橋事件発生以降、それが日中戦争に発展することを防ぐために、中国側に提案した3項目の和平提案に対して、”蒋介石が本気で応ずるつもりはなかった”という家近氏の見解も、私には少々不思議に思えます。

というのは、この提案は、日本が華北分離工作以降積み上げた既得権の大半を放棄するもので、中国軍の参謀長白崇禧にいわせれば、”こんな条件なら一体何のために戦争しているのか”というほど「寛大な」ものだったからです。

家近氏は、この和平提案をより過酷に加重した南京陥落後の和平条件について、「蒋介石は和平の可能性を真剣に模索」していた。近衛が”蒋介石を対手とせず”声明を出したことは「蒋に深い衝撃を与えた」といっています。しかし、加重前の和平条件もすぐに受けなかったのですから、加重後の条件を受け入れるはずがない、と私は思います。

このように見てくると、冒頭に紹介した、日中戦争の開戦責任を巡る「秦vs林の論争」の評価は、私は、林氏の主張の方が説得力があるように思いました。もちろん、これは、日本側「一撃派」の責任を看過するものではありませんが、「日中戦争を望んだのは中国であり、日本は戦争を望まなかった」ということは、はっきりいえると思います。

ということは、「あの戦争は日本の侵略だったか」という問いについても、少なくとも南京事件以前の戦争については、発しうるということです。といっても、「中国に日本との戦争を望ませた」、そのおおもとの原因を作ったのは日本ですから、今後の日本の日中戦争に関する研究は、この「原因」を見極めることに焦点を合わせるべきだと思います。

また、日本を挑発し、蒋介石に日本との全面戦争を決断させた中国共産党の思惑、あるいは、その背後にいたソ連コミンテルンの存在ということも、今後、実証的な研究が進めるべきだと思います。当然、『マオ』の記述は、これらの資料に裏付けられたものだと思いますが・・・。

日中戦争は誰が始めたか(1)

少し古くなりますが、2009年4月号の『文藝春秋』に、「教科書が教えない昭和史――あの戦争は侵略だったか」という特集記事が組まれていました。半藤一利、福田和也、秦郁夫、別宮暖朗、北村稔、林思雲というおもしろいメンバーで、別宮氏、北林氏、林氏が参加していることで分かるように、彼らの日中戦争についての新たな解釈――「戦争を望んだ中国、望まなかった日本」――を、秦氏や半藤氏など現代史のオーソドクシーにぶつけることが、本特集のねらいでした。

議論は次のように展開しました。
「北村 これまで一般には、日中戦争と言えば『日本が一方的に侵略し、中国が侵略された戦争』として論じられてきました。しかし・・・必ずしもそうでないことが分かってきたのです。 日本の方がむしろ全面戦争を望まず、局地的な戦闘の段階で何とかくい止めたいと考えていたのに対し、中国側はドイツの軍事顧問団の力を借り、全面戦争に日本を引き込む計画を早くから練っていた。」

「林 日中間で大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年8月13日に発生した第二次上海事変です。蒋介石は、五千人あまりの日本海軍特別陸戦隊への総攻撃を命じました。中国側が仕掛けた戦争であったのは事実です」

「北村 事変当時のニューヨークタイムスには、『日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した』、『日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが中国軍によって文字通り衝突へと無理やり、追い込まれてしまったのである』との、上海に駐在していた各国の政府職員のコメントが掲載されています」

これに対して、秦氏は、
「今の意見に、私は同意できません。盧溝橋事件の四日後の7月11日、現地停戦協定が結ばれたものの、同じ日に、近衛文麿首相は官邸に政財界人や新聞記者等を招いて、鳴り物入りで『北支派兵に関する政府声明』を発表します。そして7月28日、日本軍は総攻撃を開始、北京・天津一帯を占領しました。さらに、この日、日本は内地から五個師団20万人の派兵を決定している。すでに戦争は北で始まっていて、蒋介石は相対的に有利な南の上海で決戦することを求めただけでしょう。それは当然の判断で、中国が上海を攻めたから侵略だ、というのは成り立ちません」

「北村 しかし、北京を占領した後に、日本は和平への動きを始めていますね。8月の初めに在華紡績同業界総務理事の船津辰一郎に和平工作を委任します。いわゆる船津工作です。日本側としてはむしろこれ以上戦線を拡大したくない、という気持ちが強かった」

「秦 もし、日本に本当に戦意がないことを示したかったら、北京を占領した後で撤兵すればいい。もし北京から撤退していたら、蒋介石は上海を攻めていなかったでしょう。しかし、実際には北京占領後も日本は動員と南下を続けます。和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない」

「林 日中戦争より以前から、蒋介石は全面戦争を戦うための作戦計画を構想していました。北部にはあまり軍を送らず、上海など揚子江のラインに主力を結集させる。もし日本が攻めてきたら、奥地深くに本拠地を築き、日本軍をおびき寄せて消耗戦を行う――というものです。そして、実際にその通りに戦争を進めています」

「秦 その通りです。結果的に日本は中国の思う壺にはまってしまった。しかし、それも「もし日本が攻めてきたら」という防衛的なものですよ」

そうしたやりとりの後、ドイツが中国に軍事顧問団を派遣し、中国軍の軍事訓練をしたり、上海周辺に防御陣地を構築したり、武器を供与したりしていたこと。その一方で、ドイツがトラウトマン和平工作に乗り出したことについて、それをどう解釈するかの議論がなされています。別宮氏は前者を重視し、ドイツの将校団が蒋介石に日中戦争を進言し、蒋介石はそれを受け入れたことを、日中戦争の計画が中国側にあった証拠としています。秦氏は、後者について「ドイツは本気で「日中和平をまとめる気があったんですかね。私はどうも本気じゃなかったような気がしてなりません」などといっています。

しかし、日中が戦うことは、日本のソ連に対する牽制力を弱めることになるわけで、ドイツにとっては決して歓迎すべきことではなかったはずです。ただ、ドイツは、第一次大戦で敗者となったために、戦後軍事力を厳しく制限されていた。その抜け穴として、中国からの軍事物資の輸入し、その見返りとして、軍事顧問団の派遣や武器や軍事技術の供与を行っていました。つまり、ドイツはこの両立を必要としていたのです。

秦氏がいうように、ドイツがトラウトマン和平工作にどれだけ本気だったかが疑われますが、南京陥落後の日中の軍事力は日本が圧倒していましたから、あるいはドイツは日本の対ソ牽制力をそれほど心配していなかったのかも知れません。とはいえ、日中戦争が持久戦になるとそれも危ぶまれますから、最終的には、ヒトラーは中国に対する軍事援助を停止しました。

まあ、当時のドイツの対日感情という点では、第一次世界大戦では日本は連合国に属しドイツ敵だったわけですから、そうした敵対感情が中国に対する軍事援助の心理的動機になっていたのかもしれません。これに対して、ヒトラーの場合は、そうした心理的動機はありませんから、あくまで軍事的な観点から中国に対する軍事援助を停止した、つまり、ドイツが「日中戦争を望んだ」というようなことはないと思います。

では、だれがこの戦争を「最も強く望んだか」ということですが、林氏は、中国にも和平派と主戦派があり、和平派は領土の一部を与えてでも日本との戦争を避け全力で近代化を果たすべきだという立場で、そうした立場を支持する人は、少数派ではあるが国の中枢にある人やインテリが多かった、といっています。

これに対して、主戦派は三つのグループに分かれ、第一は過激な学生や市民、第二に共産党、第三が地方軍閥だった。その中で蒋介石は和平派に属していて初めは「安内攘外」戦略をとっていたが、西安事件でこの路線は挫折、盧溝橋事件以降、わき上がる抗日の声に抗しきれなくなった。その背後には、「強硬な反日抗日を売り物にして、隙あらば政敵を「日本に対して弱腰だ」と攻撃する共産党、地方軍閥といったライバル」がいて彼らと戦う必要があった、といっています。

私見では、蒋介石は日本の政治が軍支配に陥っていることから、戦争を覚悟していたと思います。ただ、その時期は中国軍の訓練や装備の充実、上海周辺の防衛陣地の構築が完成するまで、あと2年は必要だと考えていた。あるいは、そのように中国の軍事力が強化されれば、上海戦で日本を打ち負かすこともできるし、あるいは、そうした軍事力を日本に示すことで戦争を避けることもできると考えていたかも知れません。しかし、これで困るのが中国共産党であったことはいうまでもありません。

一方、日本側にも、いわゆる不拡大派と一撃派がいました。では、この一撃派が中国との戦争を望んでいたかというと、必ずしもそうではなく、日本の軍事力を誇示することで、中国に日本に対する親日政策(満州国承認、共同防共、経済提携、排日停止等)をとらせようとしたのでした。従って、それが満たされれば、あえて中国と戦争をする必要はなかったわけで、また、仮に戦争になったとしても、短期決戦で片がつくと思っていて、長期持久戦になるとは夢にも思っていなかったのです。

林氏は次のようにいっています。
「一方、日本にはたして北京占領後の戦争計画があったのかどうかは疑問ですね。全面戦争の意欲があったようには見えません。」また、福田氏は「上海を攻められたとき、大蔵大臣の賀屋興宣は、日本の経済状態ではとても大戦争には耐えられないから、軍隊は出せない」といったことを指摘しています。また、別宮氏は「石原が不拡大方針を唱え続けたのも、ここで中国と消耗戦を始めたら、本来の仮想的であるソ連に備えることができなくなる」と考えていたからだといっています。

さらに、上海事変が始まっても、不拡大方針は堅持され、日本の派兵の目的はあくまで現地居留民保護であったこと。多田参謀次長は、日本軍の前進統制線とか攻撃限界戦などを設定して、それ以上の戦争拡大を防ごうとしたことが指摘されています。もちろん、日本が中国との戦争を望んでいなかったことの決定的証拠は、トラウトマン和平工作で提示された和平条件が、上海事変勃発以前に中国側に提示された「船津工作」の和平条件と同じものだったということでしょう。

秦氏は、これは「和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない」などといっています。しかし、船津工作の和平条件は、日本の華北分離工作の間違いを全面的に認め、それによって得られた権益のほとんどを放棄するものでしたから、もし、蒋介石が、トラウトマン和平工作を、これが提示された段階ですぐ受け入れていれば、南京攻略もなく、停戦次いで和平交渉へと移行したに違いありません。

これがこうならなかったのは、日本の政治が軍に支配されその外交が軍事力による既成事実主義に陥っていることに対する不信感が極めて強かったためです。また、そうした日本軍の行動を掣肘する上での国際連盟の力を過信したためです。といっても、基本的には、日中戦争は蒋介石が始めたものですから、戦争が始まり双方が膨大な数の戦死傷者が出ている以上、この戦争は短期では終わらず長期持久戦になることを蒋介石は覚悟していたと思います。

つまり、この戦争は中国が望んだものであって、必然的に長期持久戦にならざるを得なかった、というより、それは初めから予測されていたことだった、ということです。よくトラウトマン和平工作で、参謀本部がその交渉継続を訴えたにもかかわらず、近衛首相が「蒋介石を対手とせず」声明を出したために、和平交渉が頓挫してしまった、それが日中戦争を長期化し泥沼化した根本原因だということがいわれます。しかしそれは、この戦争は「中国が望んだ」という事実を無視しています。

また、参謀本部が和平交渉継続を望んだといっても、陸軍省は政府に同調した、つまり、軍内の意見は割れていたのです。なにしろ上海事変以降南京陥落までに、日本側は6万の死傷者、中国側は約30万の死傷者を出しているわけで、その戦争の和平条件が、戦争前に提示された和平条件で同じということでは、到底世論が納得しなかったでしょう。従って、条件が加重されたわけですが、蒋介石は加重以前の条件でさえ呑まなかったのですから、荷重条件での和平交渉が成功したとは思われません。

こうした議論の締めくくりとして、林氏が次のような指摘を行っています。
「実は、1930年代の初めに、中国の主戦派のなかで、こういう議論がありました。――日本が中国で自分の権益を拡大していくと、いずれかならず他の列強とぶつかる。列強が満州事変を黙認したのは、もともと満州が日本の勢力範囲であり、他国の権益を直接侵害しなかったからだ。だから、中国としては、戦果を中国全土に広げる必要がある。そうすれば、列強は自らの権益を守るために日本に干渉する可能性が高い、と」

私も、この通りだと思いますね。しかし、蒋介石がこの計画性を初めから持っていたかというとそうではなく、蒋介石自身は、もし日本が中国の主権を尊重し、外交交渉による関係調整を図るようになるなら、日本側の要求「満州国の承認」にも実質的に対応することができると考えていたのです。一方、それで困るのは中国共産党であって、日本と蒋介石を戦わせ共倒れさせるためには、なんとしても、満州問題を満州問題に終わらせず、それを日中戦争に発展させる必要があると考えていた・・・。

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