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2014年10月

2014年10月13日 (月)

石原莞爾の「最終戦争論」と華北分離工作

前稿で、「こうした(当時流行した国家社会主義思想に基づく)長期戦略の元に、満州占領や華北分離が行われた」といいましたが、このシナリオを書いた人物は誰か、というと、言うまでもなく石原完爾です。では、この石原莞爾の書いた長期戦略とはどういうものだったかというと、彼が昭和15年に京都で行った講演をまとめた本『最終戦争論』には、彼が目指した「昭和維新」について、次のような説明がなされています。

「第四章 昭 和 維 新
 フランス革命は持久戦争から決戦戦争、横隊戦術から散兵戦術に変わる大きな変革でありました。日本では、ちょうど明治維新時代がそれであります。第一次欧州大戦によって決戦戦争から持久戦争、散兵戦術から戦闘群の戦術に変化し、今日はフランス革命以後最大の革新時代に入り、現に革新が進行中であります。即ち昭和維新であります。第二次欧州大戦で新しい時代が来たように考える人が多いのですが、私は第一次欧州大戦によって展開された自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展と見るのであります。

 昭和維新は日本だけの問題ではありません。本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備を完了するのであります。明治維新の眼目が王政復古にあったが如く、廃藩置県にあった如く、昭和維新の政治的眼目は東亜連盟の結成にある。満州事変によってその原則は発見され、今日ようやく国家の方針となろうとしています。

 東亜連盟の結成を中心問題とする昭和維新のためには二つのことが大事であります(三九頁の図参照―略)。第一は東洋民族の新しい道徳の創造であります。ちょうど、われわれが明治維新で藩侯に対する忠誠から天皇に対する忠誠に立ち返った如く、東亜連盟を結成するためには民族の闘争、東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行かなければならないのであります。その中核の問題は満州建国の精神である民族協和の実現にあります。この精神、この気持が最も大切であります。

 第二に、われわれの相手になるものに劣らぬ物質力を作り上げなければならないのです。この立ち後れた東亜がヨーロッパまたは米州の生産力以上の生産力を持たなければならない。以上の見地からすれば、現代の国策は東亜連盟の結成と生産力大拡充という二つが重要な問題をなしております。科学文明の後進者であるわれわれが、この偉大な生産力の大拡充を強行するためには普通の通り一辺の方式ではダメです。何とかして西洋人の及ばぬ大きな産業能力を発揮しなければならないのであります。」

 つまりここでは、時代が「自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展」へと流れていること。その「昭和維新は日本だけの問題」ではなく、「本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備」をしなければならないこと。この原則は「満州事変によって発見」され、「今日ようやく国家の方針となろうとしている」こと。そしてこれを実現していくためには、「東亜連盟を結成」して「民族の闘争、東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行かなければならない」ということが述べられています。

 ここでは、満州事変が日中戦争の第一原因となったことについての自覚はまるでなくて、逆に、「本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備」をするためには「東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行く」ことの必要性が、満州事変によって発見された、といっています。

 つまり、満州事変も、そして華北分離も、こうした理論というか思い込みによって正当化されているわけで、従って、そうした思い込みで事を進めたことが必然的に日中戦争を招いたとは少しも考えていないのです。それどころか、「西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備」をするためには、「東亜がヨーロッパまたは米州の生産力以上の生産力を持たなければならない」。そのためには「東亜連盟」を結成し「東亜の諸国家の本当の結合」を実現しなければならないとの持論を繰り返しています。

 しかし、現実には満州事変の延長として華北分離工作がなされるようになると、日中関係は全面戦争に向けて一触触発の緊張をはらむようになりました。この危険性にようやく気づいた石原完爾は、あわてて華北分離工作をやめ、満州経営に専念するよう軍の方針を転換し、外務省も船津工作によって、華北分離工作以来積み上げてきた日本の権益を全て放棄することで事態を収拾しようとしました。しかし、時すでに遅く、日中全面戦争の火ぶたが切って落とされたのです。

 この時に近衛首相が行った 1937年8月15日「暴支膺懲」の声明は次のようなものでした。

「帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。

近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。

更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。

而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。」

要するに、「日本は、東亜の永遠の平和を祈念し、日支両国の親善提携に力を尽くしてきたが、南京政府は赤化勢力と手を結んで排日侮日をこととし、それが我が居留民の声明財産を危殆に陥るに至っては、我が国の隠忍自重も限度に達した。よって支那軍の暴戻を懲らしめるため断固たる措置を取らざるを得ない」といっているのです。

このような軍の「独りよがり」の声明を、なぜ近衛首相が発したかということですが、実は、この原稿は軍が近衛首相に提出したもので、近衛首相はそれをそのまま読んだそうです。これは、近衛首相が軍の方針に先手を打つことでリーダーシップを発揮しようとしていたためといいますが、この声明の意味するところは、先の石原莞爾の「最終戦争論」の理屈をあてはめることで理解できます。

そこで問題は、こうした石原の「最終戦総論」の理屈と、石原が盧溝橋事件に始まる日支紛争の不拡大に努めた事実と、こうした石原(参謀本部第一部長)の意向に反して紛争を拡大した、いわゆる「一撃派」との関係はどうなっていたのか、ということです。

石原が満州事変を引き起こした当時の氏の考え方は、「満蒙問題の解決は、日本が東洋文明の代表としての国防的地位を確立することと、日本の人口・食糧・資源問題等を解決するために必須であり、日本が実力を持ってその決意を示すことが、支那に日本の指導的地位を認めさせるためにも、また、東洋平和のためにも必要である」というものでした。

なぜなら、「支那人が近代国家を作り得るかすこぶる疑問で、むしろ我が国の治安維持の下に漢民族の自然的発展を期した方が彼らの取って幸福」だからで、そのためには、満蒙を「我が領土とする以外は絶対に途なし」であり、具体的には、日本が満州の軍閥官僚を打破して満蒙を統治すれば、支那本土の統一にも資することになるからである。

しかし、これに対しては「嫉妬心の強い米英の反対が予測されるので、これを撃破する覚悟なくして満蒙問題を解決することはできない」。経済上より戦争を悲観するものもいるが、「この戦争は戦費を戦場に求め得るので財政的には心配ない」。必要があれば、本国及び占領地に計画経済を断行し苦境を打開して初めて日本は先進工業国の水準に達する。

では、何時事を起こすかというと、もし国家がこうした満蒙問題の解決を決断しない場合は、軍部が団結し戦争計画の大綱を樹立し「謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず、もしまた好機来たるにおいては関東軍の主導的行動により回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し」としていました。(『満蒙問題私見』s6.5)

こうして満州事変が引き起こされたのですが、しかし、こうした満蒙領有計画は「中央の顧みるところとならず」到底これを行うことはできないと知ったので、将来の領土化を期しつつも、やむなく「我が国の支持を受け東北四省及び蒙古を領域とせる宣統帝を党首とする支那政権を樹立し在満蒙各民族の楽土たらしむ」こととしたのです。

ところが、その後石原は、「中国人自身による中国の革新政治は可能である」との見方に変わったとして、「満州人の衷心からの要望である新国家の建設によって、まず満州の地に日本人、中国人の提携の見本、民族協和による本当の王道楽土の建設の可能性を信じ、従来の占領論を放擲して新国家の独立を主張」するようになりました。

さらに、『満蒙経略に関する私見』(s7.8.23)では、こうした日本人、中国人の提携の見本、民族協和による本当の王道楽土を建設するため、満州における漢民族と日本人との公正な競争の下における、職務や処遇の平等取り扱いを説きました。さらに、満州における日本の政治機関を縮小するため、満鉄付属地の行政権の返還や関東州の贈与による関東長官の廃止、治外法権の撤廃を主張しました。

また、世界文化統一のため日米間の最後的決戦に備えるとともに、露国の極東攻勢を断念させるためには、満蒙の確保とその富源の開発は、我が国現下の行き詰まりを打開するために相当効果があるが、さらに対米決戦に備えるためには、山西の石炭、河北の鉄、河南山東以南の棉を必要とするのみならず、東亜諸国民を率いてこの大事業に参加せしむる必要がある」としました。

また、新国家たる満州のあるべき政治体制については、日本が補佐する溥儀の専制による王道政治はダメ、議会専制による自由主義政治も満州に適さざるは論なしとし、結局、「満州国内に堅実なる唯一政治団体(=満州国協和会)を結成して民衆の支持を獲得し、これにより国家の根本政策を決定せしむるをもっとも適切なりと信ず」としました。

しかし、こうした石原の最終戦総論に基づく満州独立構想に対して、当時、参謀本部第二部長であった永田鉄山は反対しました。永田は対ソ軍備ということを重視していて、満州問題というものはもっぱら主として対ソ戦略体制を整備する考えから起こったもので、満州を整備することがソ連との戦争を抑止するという考えでした。(『永田鉄山』「鈴木貞一の証言」)

また支那に対する考え方については、永田や鈴木貞一は、日本の軍備は、前述した通り対ソ作戦に向けてのもので、中国に対しては絶対に使ってはいけないという考えでした。従って、支那本土に手を出すことには絶対反対でした。これに対して石原は、兵を使うことには反対だが、北支那の資源、鉄鋼と石炭は、先述した理由から必要なので軍事的圧力は必要との考えでした。

ここに石原の思想の危険性が潜んでいるのであって、満州事変の場合は、満州を日本が領有することが「正義」であって、手段を選ぶ必要はなく、国家がそれをやらなければ謀略によってでも国家を強引する、という考えでした。また、満州国における漢民族と日本人の攻勢かつ平等取り扱いを主張しつつも、「それが期待すべき政治的効果を収め得ざるときは日本は断固として満蒙を我が領土とし総督府を置く」(『為小畑少将』s7.4.22)としていました。

同様に、華北分離工作についても、石原は、「満蒙経略に続いて来たるべき情勢に対する国策の決定及び準備に全力を傾注せざるべからず」として、「2支那本部特に先つ北支那の開発を実現する方策」や「3対米戦争計画」をあげていました。そして、もしこうした計画が「日満協和の理想」によって達成できないときは、「満蒙を併合する」か「威力に依り支那大衆を搾取する欧州風の植民政策を強行し物質的利益を追求するに満足す」(『満蒙経略に関する私見』s7.8.23)と述べていました。

こうした自説を「正義」とする独りよがりな考え方が、「満州事変」が結果オーライで認められ、その実行者達が破額の報償を受けたことで、関東軍さらには軍全体に蔓延することになったのです。先に紹介した鈴木貞一は、石原完爾のことを「奇道の人」と呼んでいますが、まさにこうした「奇道」が、満州問題の処理を誤らせただけでなく、「華北分離工作」というあからさまな「侵略」を結果せしめたのです。

そこで、この華北分離工作を実際に主導したのは誰かということですが、一般的には関東軍や支那駐屯軍の暴走が指摘されますが、石原理論の信奉者であった支那駐屯軍司令官の多田駿が発した昭和10年9月24日に多田声明(国民党及び蒋政権の北支よりの除外、北支経済圏の独立、北支五省軍事協力による赤化防止、北支五省連合自治体結成)に見るように、石原派もそれを躊躇なく推進しました。

しかし、石原自身は、昭和11年末頃、華北分離工作の危険性を察知しそれを抑制する一方、盧溝橋事件発生以降は参謀本部第一部長として、事件不拡大に奔走しました。秦郁彦氏によると、陸軍中央では、陸軍省軍事課長の田中真一と参謀本部第一部(部長石原完爾)第三課(作戦編成動員)長の武藤章ラインが拡大派の中心だったと指摘されています。一方、石原自身の7月11日の派兵容認が事変拡大の転機となったとも指摘されています。(『盧溝橋事件の研究』秦郁彦)

このことは、すでにこの段階では、不拡大派の石原が派兵を決意しなければならないほど事態は悪化していたということで、実は、この時戦争を欲していたのは、日本側ではなく中国側だったのです。盧溝橋事件発生以降の北支における郎坊事件、公安門事件、通州事件、上海における大山事件、上海事変はそのいずれも、中国側のイニシアチブによるものであり、日本はそれに応戦せざるを得なかった、というのがより真実に近いのです。

こう見てくると、昭和の悲劇は、「偽預言者」たる石原完爾の「最終戦総論」という一種のハルマゲドン思想に振り回された結果と見ることができます。それを「奇道」とし、それを排除する力が軍内に全く働かなかったわけではありません。昭和7年8月の石原完爾の満州からの転出や、昭和12年9月の参謀本部第一部長解任はその現れではないかと思います。

しかし、それらはいずれも中途半端なものであって、石原完爾の「奇道」の危険性をしっかり認識した上で取られた処置ではありませんでした。満州事変の首謀者を報償したのがその典型であって、天皇大権を犯しても謀略でもなんでも結果オーライでそれを認める、そうした目的のためには手段を選ばないやり方が、客観的条件を無視して執拗に結果を求める、その後の軍の態度を決定づけたのです。

昭和戦争は「意味不明な戦争だった」ということがいわれますが、石原完爾の千年王国説と、その前段のハルマゲドン思想=最終戦争論が及ぼした危険性にもう少し注意を払うべきではないでしょうか。今なお氏を英雄視する人もいるわけですが、その五族協和論がアメリカ流の「モザイク」統合ならまだしも、石原の場合は協和思想に基づく「合金」統合を夢見ていました。それが、「意味不明な戦争」の根本原因であったことを、私たちは知る必要があると思います。

2014年10月11日 (土)

軍による満州の領国化が招いた華北分離工作(3)

大変重要なことなので、まるきよさんとの対話を本文掲載とします。

まるきよさんへ

(まるきよさん引用)「梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等、これらの一連の行為を日本の華北侵略と言う人もいます。
が、そうせざるを得ない様に仕向けたのは中国です。
別に日本は侵略したくてそうしたわけではありません。
中国が執拗に満州を再侵略し、テロで北支の治安を乱し、意図的に日本が困るようなことを企むものだから日本が自衛策をとっただけです。
中国が最初から友好的な態度をとっていれば起こらなかった事です。」

要するに中国が日本の満州領有権を素直に認めて満州を執拗に再侵略しようとせず、友好的な態度を取っていれば、日本は華北侵略をせずに済んだ、といっているのですね。

ここで問題は、本文で指摘した通り、満州国は主権を持った独立国ではなく、日本の「領国」とされていることです。つまり日本の「領国」たる満州の主権が侵されたから、逆に中国の主権を侵した(蒋介石政権とは別の親日政権樹立による華北分離)、悪いのは中国だといっているのです。

さらにここでの問題は、主権が侵されたら逆に相手国の主権を侵しても良いとする考え方で、相互の主権を尊重するという考え方がないことです。

これら二つの問題点をさらに考えて見ると、前者の問題点は、日本は国際連盟に対して、満州国は、満州の人々の自治運動の結果成立したと主張していたが、ほんとにそうなら、中国との関係は日本が決めることではなく満州国が決めるべきことである。なのに日本が決めているということは、実は、満州は主権を持つ独立国ではなく日本の傀儡政権だということで、ここに一つのうそがあります。

また後者の問題点は、日本は満州事変を日本の条約上の正当な権益が侵されたことに対する自衛と主張していた(ほんとは日本の謀略による満州占領)が、これと同様、華北分離を日本の「領国」たる満州の安全が犯されたことに対する自衛と主張し、華北に中国の中央政府から切り離された親日政権を樹立しようとした(これも華北の自治運動の結果と宣伝した)ということです。ここに二つ目のウソがあります。

どうしてこんなウソをついて満州占領や華北分離を正当化しようとしたのかというと、その根本的な動機は、軍は、大正末期以来の軍縮に伴う処遇低下に対する不満を、当時流行の国家社会主義思潮と結びつけ、軍主導の国家改造を行い政治権力を掌握し、それによって、当時日本が直面していた安全保障・人口・資源・貿易問題と抱き合わせて問題解決しようとしていたということです。

つまり、こうした長期戦略の元に、満州占領や華北分離が行われたのです。その長期戦略を支えた思想が国家社会主義思想であって、その内実を埋めたのが、明治維新をもたらした「尊皇思想」であり、それ故に、昭和の青年将校らの国家改造のためのスローガンが「昭和維新」となったのです。

ではなぜ明治維新期の「尊皇思想」が国家社会主義思想の内実を埋めるものとなったのか、ということですが、この「尊皇思想」は、徳川幕府の体制の学となった朱子学の影響を受けて、それまでの朝幕併存の二元的国家体制から、天皇中心の一君万民平等の一元的(家族主義的)国家体制に変革し、西洋諸国の侵略に備えようとしたものでした。

この思想の故に、尊皇倒幕が可能となり明治新政府の樹立となったのですが、明治新政府は結局、この「尊皇思想」による体制変革をなし崩し的にあきらめ、明治憲法下の「立憲君主制」としたのです。

これは、朱子学の影響を受ける以前の、鎌倉時代以降の、政治権力を持たない一種の象徴天皇制の伝統を継承するものでしたが、その伝統的な天皇制と明治維新期の一元的天皇制との思想史的な整理ができなかったために、昭和期になって、前述した通り、当時流行した国家社会主義思想の内実を埋める一元的天皇制として復活利用されることになったのです。

そこで問題は、軍は、この一元的天皇制とその入れ物となった国家社会主義思想のどちらの方を信奉していたかということですが、言うまでもなく後者で、現実の天皇については、国民には絶対忠誠を説きながら、自らはあくまで天皇を象徴としてしか扱わなかったのです。

そうでなければ、関東軍の一部参謀が統帥権を総覧する天皇を無視して、独断で満州事変を計画実行するわけがありませんし、満州の治安確保のために長城付近で兵を動かすことがあっても、”決して関内に兵を進めてはならぬ”という天皇の厳命に反して、華北分離工作をすることもなかったのです。

では、なぜ天皇の意思に反してそうしたことをやったかといえば、それは自らの思想と計画に基づき、対ソ防衛さらには英米に対抗しうる、国家社会主義思想に基づく軍主導の国家改造を目指していたからで、満州の領国化・華北の傀儡化は、そうした体制確立のための資源供給・経済圏確立のため必須とされたのです。

もちろん、こうしたことを平和裏に外交交渉を通してやればまだ問題はなかったのですが、実際はこれを軍事力にものをいわせて、あるいはそれを背景に強引にことを推し進めたわけで、そしてその背後には、前述したような軍の思惑があったわけで、つまり、それ故にこそ外交交渉によらず軍事力による既成事実作りを先行させたのです。

従って、ご案内のサイトの主張は、こうした隠された軍の思惑を看過しているというより、当時の軍と同様にこれを隠して、その責任を中国に転嫁しているということになります。

では、もし満州問題の解決に、こうした軍の思惑がなかったとしたら事態はどのように展開していたか、ということですが、満州における日本の権益擁護は、それまでの山東出兵以来の経過からすれば、いずれ何らかの軍事力行使に至ったでしょう。結果的には、こうした事態に至る前に、関東軍の一部参謀による謀略による満州占領そして満州国の樹立となりました。

しかし、その目的があくまで満州における日本の正当な権益擁護であったとすれば、たとえ満州国が成立したとしても、その主権をできるだけ尊重するような形で、また、満州に対する中国の宗主権を強引に否定するようなことはせずに、中国との互恵平等の経済関係を樹立することができたでしょう。蒋介石も「敵か友か」でそれを望んでいましたから。

では、なぜそれができずに、さらに自衛と称して華北分離工作を強引に押し進め、その第二の満州化をはかろうとし、結果的に日中戦争を招くことになったのか。はっきり言えば、そうしない限り、自分たちの隠された思惑に基づく国家改造はできないし、それまでついてきたウソを隠し通すこともできないと考えたからでしょう。なにしろ彼らのやっていることは憲法遵守を唱える昭和天皇の意思を無視した国家改造だったわけですから。

実はこうした問題は日米交渉にも色濃く反映していて、結局、満州事変及び華北分離でついた二つのウソが足かせとなって、満州問題の合理的な解決ができず、ついに日米戦争に突入することになったのです。

昭和14年1月21日の湯浅内大臣の話として、昭和天皇が次のように話されたことが『西園寺公と政局7272~273』に次のように記されています。

「陛下も先日自分に『どうも今の陸軍にも困ったものだ。要するに各国から日本が強いられ、満州、朝鮮をもともとにしてしまはれるまでは、到底目が覚めまい』という風に仰せられて、非常に悲観しておられた。」

満州事変以降の軍と昭和天皇のやりとりから見て、陸軍が日独伊防共協定強化(三国同盟)を主張し始め、近衛がやめ、平沼内閣が成立したこの時期に、昭和天皇はすでに日本の行く末を見ていたのですね。

2014年10月 7日 (火)

軍による満州の領国化が招いた華北分離工作(2)

まるきよさんへ
 田中上奏文は田中義一内閣の山東出兵以降威勢の良くなった少壮軍人の無責任な大言壮語を、満蒙支配から中国侵略・世界征服を目指す計画書のように編集し、それを田中首相から昭和天皇への上奏文であるかのように偽装したものです。実は、実際の田中首相の外交感覚はそれ程おかしいなものではなく、山東出兵や済南事件は、多分に森恪(外務次官)や酒井隆(済南駐在武官)らに引きずられた可能性が濃厚です。

 満州事変については、日本が満州の宗主権を長い目で認めることができれば、満州国承認問題も解決できたと思います。リットン調査団報告書も満州の開発に果たした日本の役割や、満州における日本の条約上の権益も認めていました。また、満州に中国の主権下に自治政府を作り、その自治政府を日本人顧問が中心となって指導することも認めていました。

 それがなぜできなかったか、それは本文で述べた通り、当時の軍人が満州を領国化しようとし、ここに日本本国の政治体制(立憲君主制、政党政治)とは違った軍主導の国家体制(憲法も議会も政党もなく軍が内面指導する権限を持つ)を敷こうとしていたからです。つまり、満州は軍にとって一種の革命根拠地であり、ここを拠点に本国の政治体制の変革を目指していたのです。

 だから、満州に対する中国の宗主権を認めるわけにはいかなかった。だから、中国に宗主権を認めて満州問題を解決しようとした犬養毅は殺されたのです。また、蒋介石は、満州国の承認問題を「棚上げ」にするところまでは譲歩しました。それは宗主権さへ残っていれば、後の問題は外交交渉で解決できると考えたからです。しかし、それは軍にとっては「領国化」の否定だから、蒋介石は倒すべきと考えた。蒋介石が軍を信用しなかったのはこのことに気がついたためです。

 これが、華北分離工作の目的とされる「満州国の接壌地帯の安全確保、華北の戦略資源の確保・経済圏の確立」のさらにその下に隠されていた軍の究極の狙いでした。しかし、これは決して口に出せないことでした。なぜか、それが明らかになれば、彼らの統帥権の主張や天皇親政の主張も、実は、自らの権力掌握のための手段に過ぎないことがばれるからです。

 昭和5年のロンドン海軍軍縮批准問題で軍の統帥権に手が出せなくなったのは、政府が、この条約が国防を危うくしないのは、これがすでに陛下の批准を得ているから、と答弁したことに対し、野党が、それを内閣の輔弼責任の放棄、つまり陛下に責任を負わせることだと批判したためです。つまり、政治家の党利党略のための天皇の政治利用が、天皇のアンタッチャブルを軍のアンタッチャブルに転換する露払いになったのです。

 この軍の統帥権、つまり軍は天皇の統帥下にあるという考え方を最大限に利用して独断専行、満州を占領したのが満州事変で、まあ、これこそ究極の天皇の統帥権違反であったわけです。しかし、軍が満州を占領し続けると自らの主張する天皇制と矛盾を来すことになる。そこで満州国を誕生させ溥儀を連れてきて王政とし、日本の天皇制との親和性を確保したのです。つまり、満州国の独立主権を認めたわけではなくて、「内面指導」という形で実質的に領国化しようとしたのです。

 また、なぜ日本国民がそれを支持したかということですが、まあ、この時代の日本人の国益追求ということもあったでしょうが、最大の問題は、満州国の本当の狙いが、実は軍の満州領国化であるということを知らなかったためです。(それを夢想した国民もいたと思いますが・・・)つまり、このウソが分かっていなかったために、中国や国際社会の満州事変批判を満州における日本の権益否定と捉え反発したのです。

 この錯覚に陥らなければ満州問題の解決は可能だったし、それが解決できていれば日中戦争は起こらなかったし、もちろん、アメリカとの戦争も起こりませんでした。つまり、”一体、なぜ軍は満州を領国化しようとしたのか、”という問いを発することが、昭和史の謎の解明の第一歩なのです。ジャーナリズムの役割とは、実は、事実に肉薄する中で、こうした疑問を提出することだと思うのですが・・・。

2014年10月 4日 (土)

軍による満州の領国化が招いた華北分離工作

まるきよさんへ

返事が遅くなりました。コメントをいただいた記事は、私が6年前に書いた「田母神航空幕僚長『最優秀論文』の論旨・論点及び哲学」についてのものですが、私の基本認識は今でも変わっていません。そのころの田母神さんはおそらく勉強不足で、済南事件も満州事変も華北分離工作もその真実を知らなかったのではないでしょうか。今はどうかわかりませんが。

(まるきよ)「華北分離工作について今まで私は知りませんでした。漫然と論文の主旨のような歴史認識を持っていました。自衛行為なのだと。」

華北分離工作については、従来の歴史教科書では十分な説明がなされてきませんでした。梅津・何応欽協定とか土肥原・秦徳純協定という言葉はあっても、その意味はよくわかりませんでした。そのため満州事変は知っていても華北分離工作は知らない人が多く生まれたのです。もう一つ欠落しているのが済南事件で、これ以前は中国人のナショナリズムは反英に方向に向かっていたのですが、この事件を契機に日本に向かうようになりました。日本は中国の統一を妨害したということで・・・。これ以降、中国人の日本に対する感情は一気に悪化し、これがその後の広範な抗日気運を形成して行くのです。

この華北分離工作については、確か教科書問題が起こったとき、「華北へ侵略」が「華北に進出」に書き換えられたとして、一騒動になりましたね。

実際は、この部分の教科書検定の改善意見は「記述に直さなくてもよい改善意見(B意見)」でした、つまり、「華北に進出」とする意見はついたが、必ずしも「記述を直さなくてもよい」改善意見だったのです。といっても、「華北分離工作」、つまり、満州に接する華北五省(山東、河北、山西、チャハル、綏遠)に親日政権を樹立し、国民党政府から切り離すという工作を関東軍や支那駐屯軍が執拗に繰り返したことは、到底「華北に進出」と言う言葉で言い表されるものではありません。

なぜ関東軍や支那派遣軍はこんなことをやったかというと、この時期、日中関係をなんとか政府間交渉によって改善しようとしていた広田弘毅や蒋介石らの和平への努力を妨害するためで、簡単に言えば、軍は満州国を自分の領国視していて、その独自の国家観に基づく独自の外交権を主張していたのです。こうした行為は、日本の中国に対する侵略というにとどまらず、これら出先軍の本国政府に対する「国家的反逆」ともいうべきものでした。

ではなぜ、「このような道議にもとる行いをしたのか」ということですが、根本の原因は国家思想の問題で、日本の人口・資源・貿易問題を根本的に解決し、対ソ対米英戦に備えるためには、日本も「大陸国家」にならなければならないと考えたこと。そして、こうした考え方を中国に力で押しつけようとしたこと。つまり、こうした政策課題を達成するためには、満州では不足する軍事資源を華北に求めるとともに、華北を含む日満支経済圏を確立する必要があると考えたためです。

もちろん、中国はそれまで欧米の植民地主義的侵略にさらされてきました。そうしたくびきを脱するためには、日本のアジア主義者との連携が必要だとも考えられてきました。しかし、日本が大正末期から昭和の初めにかけて、「持てる国」「持たざる国」間の資本主義的葛藤に直面し経済的苦境に陥ると、日本軍内に、上述したような「大陸国家」幻想が急速に肥大し、政治権力の奪取から軍事力による満州制圧、さらには華北分離工作へと突き進むことになったのです。

こうした日本軍の動きは、中国にとっては甚だしい主権侵害であり、日本帝国主義による侵略と見えたのは当然です。これが、安内嬢外で剿共戦を優先して戦っていた蒋介石の日本不信を一挙に高めることになりました。こうした日本軍の愚行はこれに止まりません。それは、壊滅寸前だった共産党に格好の抗日宣伝材料を提供することになり、その復活を助けることになりました。

こうした軍の動きに「政府や軍部で強硬に反対する政治家や軍人はいなかったのか」ということですが、戦後はそのような主張したと弁明する政治家や軍人はたくさんいます。皇道派がそうであったとか、北一輝や大川周明も日中戦争に反対したとか、鈴木貞二は、自分や永田鉄山は満州の外つまり関内には絶対に兵を出さないと決めていたとか弁明しています。しかし、結局は、総力戦思想のもとで「大陸国家」を目指したという点では共通していました。

外交官の中には、こうした軍の思想や行動を阻止しようとした人物がいました。幣原喜重郎をはじめ重光葵、佐藤尚武、石射猪太郎などがそうです。広田弘毅もその一人ですが、次第に軍に対する抵抗力をなくしていきました。政治家では、犬養毅もそうですが5.15で、高橋是清は2.26で殺されました。軍人では同じく2.26で殺された渡辺錠太郞などがそうです。だが、彼らもこの時代の尊皇思想に支えられた国家社会主義的思潮に抗することができませんでした。

「北支分離工作が引き金なら、盧溝橋事件から廊坊事件・広安門事件、通州事件、大山中尉・斉藤一等水兵殺害事件まで日本側に責任があるのでしょうか?」との問いですが、これらの事件を引き起こしたのが中国であることは間違いありません。ではその責任はどちらにあるのかといえば、当時中国には、こうした事件を引き起こすことを恐れない程に抗日気運が高まっていたということ。また、あえてこうした事件を引き起こすことで日中戦争へと導こうとする勢力がいたという事実を指摘するだけです。要は、それに引きずられてはいけないのに、引きずられたということです。

なぜそうなったかといえば、応戦すれば必ず勝つので、かえって好都合だと思った日本の軍人が多かったということで、その答えが出たのが8年後の1945年8月の日本の無条件降伏でした。ですから、政治の結果責任という点から言えば、まさに弁解無用であって、だまされたとか戦争に引きずり込まれたとか言う弁明は、満州事変から華北分離工作に至る嘘っぱちかつ傲慢無礼なやり口が招いた結果であると知れば、到底言えた義理ではありません。

ただ、日本が中国との戦争を望んでいたわけではなく、この時代を生き残るためには、中国と協力して欧米資本主義国に対抗する必要があると考えていました。これに対して、中国は、日本に協力するどころか日本を満州や中国から排除しようとしました。そのため、そうした中国の反抗的態度を懲らしめるため応戦した、と言うのが、当時の日本の大方の言い分でした。結論から言えば、そうした日本の言い分の背後にあった国家社会主義的思想(=尊皇思想)が間違っていたのです。

問題は、この時代の国家社会主義的思想の内実が「尊皇思想」に裏打ちされていたということで、その「尊皇思想」の思想的系譜を知らなかったために、これがヒトラーの国家社会主義思想と癒着することになったのです。ここに日本の伝統的な象徴天皇制と、明治維新期における「中国皇帝型絶対天皇制」、さらには明治憲法下の立憲君主制の三つどもえの矛盾関係があり、これを思想史的に解明できなかったことが、昭和の、以上述べたような宿命的悲劇をもたらしたのです。

戦前昭和の本当の反省とは、その意味で、日本の天皇制の思想的位置づけをどうするかと言うこととつながってきます。私は象徴天皇制に賛成です。その近代的表現が立憲君主制であるわけですが、左翼思想家の多くは実は「中国皇帝型絶対天皇制」指向ではないかと思っています。中国共産党に対する親和性はそこから出ているのではないかと。だが、中国や韓国のウソ宣伝はそのうち必ずそのツケが巡ってくる。日本は淡々とその虚妄を指摘しつつ、一方で上述したような思想的課題の解決に取り組む必要がある、私はそう思っています。

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