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2015年11月

2015年11月 3日 (火)

「南京大虐殺」が創作された歴史的経緯

前稿(「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」)で、いわゆる「南京大虐殺」について、「南京防衛軍司令官の”敵前逃亡”でパニックに陥り撃滅処断された兵士が相当数いた(その中には不当なものもあった)ことは事実だが、一般市民に対する計画的な不法殺害はなかった」と記した。

しかし、実際は唐生智は”敵前逃亡”ではなかった。当時はそのように受け取られ、「軍事裁判の結果死刑」との情報が流れたが、実際には唐は生きていて、戦後も共産党政権下で湖南省副所長などを歴任したことが判っている。さらに、唐の脱出は蒋介石の命令であったことも判っている。それは軍主力をいち早く撤退させ戦力を温存するためだったが、蒋が降伏を認めなかったため、逃げ遅れて日本軍に殲滅処断された兵士も多かった。


また、この時「安全区」に「埋兵」を置き、略奪・放火・強姦などの攪乱工作をさせた。これを日本軍の暴虐宣伝に利用したのが、南京安全区国際委員会の主要メンバー(スマイス、ベーツなど)であった。これが意図的であったかどうか不明だが、ベイツは中華民国政府顧問であり「蒋介石から二度勲章をもらった」人物(東中野)。スマイスも国民党中央宣伝部国際宣伝処の工作を受けていたことが判明している(北村稔)。

彼らは、日本軍の南京占領後「南京安全区国際委員会」(委員15名)を組織し、南京城内に残された中国難民約20万人の保護・救済を名目に、日本軍に対して難民の食料・住居の配分、警察権などの行政権を主張した。日本軍は「安全区」の存在を正式には承認しなかったが、パネー号事件で英米に気を遣っていたためか「承認したものの如く」扱った。ここに、「安全区」の管理をめぐる国際委員会と日本軍との確執が生じた。

この確執の記録が、南京安全区国際委員会が南京の日本大使館等に提出した『南京安全地帯の記録』(s12.12.16~翌2月上旬間の安全地帯における日本兵の不法行為の事例)である。ここには、第一部189件、第二部255件の事例が列挙されており、第一部は日本側に提出された公式文書であるが、第二部は単なる「覚書」であり公式文書ではない。いずれにしろ、ここに列挙された事件が、彼らが訴えた南京城内で発生した事件の全てである。

では、この記録の中に殺人事件は何件あるかというと、驚くなかかれ22件で被害者は53名である。その他の強姦、略奪、放火、拉致、傷害、侵入、その他は、冨澤繁義氏の「データーベース南京事件の全て」によると、これらの中から、文責のないものを除き、さらに被害者不明な人的事件を除き、人的事件以外では被害場所不明なものを除いた「事件らしい事件」は97件となる。

この97件は南京城内における2ヶ月間の事件数であるから、1日あたり1.6件、20万都市の犯罪件数としては極めて少ない。では、なぜこれが南京の「terror=暴虐」となったか。それは、事実関係の確認されていない訴え=伝聞をそのまま日本軍兵士の犯行としたため。確かに日本軍の責めに帰すべき事件や日本軍兵士の引き起こした事件も多かったようだが、国際委員会は、事実確認より日本軍の暴虐を訴えることを優先したのである。

こうした彼らの作為は、彼らがティンパーリー(国民党中央宣伝部顧問)に協力し出版した『戦争とはなにか――中国における日本の暴虐(The Japanese Terror in China)』1938.7)に明白である。この本は、先の『南京安全地帯の記録』に多く依拠しているので、いわゆる大虐殺(massacre)とは題されていない。しかし、ここでは暴虐から大虐殺にするための重大な事実の改変が行われている。それは、『南京安全地帯の記録』では公式に訴えることができなかった安全区からの敗残兵の摘出処断を、不法殺害ないし市民虐殺としたことである。

この本の第四章「悪夢は続く」には、「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました・・・これらの者は追い詰められた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されたりしましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」と書かれている。(この記述者は次の第三章の記述と同じくベイツ)

さらに第三章「約束と現実」には、「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三0パーセントはかって兵隊になったことのない人々である」と書かれている。つまり、安全区に逃げ込み摘出された一万人以上の兵士を、不法殺害された兵士の如くいい、また、一般市民も殺されたといい、さらに、その総数を4万人とし、その30%1万2千人を一般市民としたのである。

なお、前稿で紹介したスマイス調査についてであるが、その調査書第四表とは別に、本文2「戦争行為による死傷」において、拉致された4,200の数の付記として、「市内及び城壁付近の地域における埋葬者を入念な集計によれば、12,000の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器を持たないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない」という記述がある。(ベイツに付き合った?)

スマイスは、この数字の根拠を「紅卍会の埋葬者の入念な集計」としているが、紅卍会の埋葬記録では、男41,183、女75、子ども20(訂正:この数字は城外区の集計、城内区は男1,759、女8、子供26(56?))となっている。また、この数字も、「当時、特務機関兵として南京に駐在し埋葬問題を取り扱った」丸山進氏によれば、「民生を潤すために大幅な水増しをみとめた」という(実数3万人前後)。一般市民が大量虐殺されたのなら女83、子ども46(76?)という数字には止まらないだろう。

それにしても、日本軍による相当数の「捕虜や敗残兵、便衣兵」の処断が行われた(『南京戦史』では1.6万、ただし、この数字は南京城攻防戦全体での犠牲者数であって南京陥落後の数字ではない)ことは事実である。私は、これは松井大将が入場式を12月17日に強行したためではないかと考えたが、松井大将としては、一刻も早く戦闘状態を終わらせたかったのかもしれない。氏の日記にはこのことの反省はない。

しかし、問題は、中国軍が投降せず、安全区で後方攪乱を行い、かつ国際委員会は国民党宣伝部と結託して日本軍残虐宣伝を行っていたと言うこと。つまり、「戦闘」は継続していたのである。これが日本軍の掃討作戦を過酷にした主たる原因なのではないか。「戦闘」が最終的に終息したのは、昭和13年2月14日、国際委員会委員長ラーベ宅から二人の中国軍将校が姿を消した時。ラーベは翌日の日記に「我々の友情にひびが入った」と書いている。

おそらく、こうした「南京事件」をめぐる「実相」は、当時の人々には自明だったのではないか。国民党も顧維鈞が一度言及しただけで、国際連盟も問題にしていない。ところが、この『戦争とはなにか』の記述が、戦後にわかに復活した。昭和20年12月9日より、GHQがNHKラジオで毎日放送させた「真相はかうだ」では、「陥落前の南京」と題して「この南京大虐殺こそ、近代史上希に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります」となった。(『真相箱』)。

その後、「南京大虐殺」は東京裁判を経て”正式に”復活した。それは国民党の戦時プロパガンダ(日本軍残虐宣伝)として始まり、アメリカ人宣教師らがそれに協力して虐殺事件に改変し(人種的優越感と共に日本軍国主義に対する嫌悪感がその根底にあった)、戦後、アメリカがそれを原爆等の非人道性相殺のために利用し、さらに国共内戦におけるヘゲモニー争いで国民党が日本軍国主義との戦いのシンボルと化した。今は、中共がそれを日米離間に利用している。

『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相

田原総一朗氏は、「記憶遺産登録の『南京大虐殺』を日本は完全否定できるのか」〈週刊朝日〉と題する記事の中で、南京事件の被害者数について次のような見解を示している。「日本人の研究者が示すように、4万人にせよ6万人にせよ大勢の中国市民が旧日本軍に殺されたのは事実なのである。」
はたして、これは事実だろうか。おそらく、こうした見解は、中間派とされる秦郁彦氏の不法殺害4万人説(兵士3万、民間人1万―2007年改訂版『南京事件』)の影響が大きいと思う。秦氏は、この本で、軍人捕虜の不法殺害3.0万人、民間人の不法殺害1.0万人、合計4.0万としつつ、この4万の概数はあくまで最高限であり「実数はそれをかなり下回るであろう」としている。

秦氏の『南京事件』の初版は1986年で、ここには「最高限云々」の記述はなかった。しかし、1989年に偕行社より『南京戦史』が刊行され、「南京事件」の実相が明らかにされたことで、2007年の改訂版ではこのような「但し書き」が加えられた。また、『南京戦史』による「不法殺害の規模」について「単行本はすべて不法殺害とは言えぬがとの条件付きで『捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅若しくは処断』した兵士を約一万六千、民間人の死者を一万五七六0人と推定した」と紹介している。

だが、この紹介だけでは秦説と『南京戦史』説の違いは分からない。そこで、以下『南京戦史』の見解を紹介する。これによって、”南京事件では、なぜ軍人捕虜等の殺害の当・不当の判定が困難か”。また”意図的な一般市民の殺害があったかどうか”が明らかになるからである。

『南京戦史』は、南京戦における中国軍兵力7.6千人、その内訳は、戦死約3万、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万、撃滅処断約1.6万としている。この1.6万という数字は、「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅処断した実数を推定したもので、戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない。これらの撃滅、処断は概して攻撃、掃討、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたものである。しかし、これらを発令した指揮官の状況判断、決心の経緯は戦闘詳報、日記等にも記述がないので、これらの当、不当に対する考察は避けた」としている。

いうまでもなく、この1.6万というのは、兵士の処断数であって、民間人の虐殺を含まない。では、いわゆる「南京大虐殺」における一般市民の殺害に関する記録はあるかというと、「日本側にも中国側にもなく、第三国人の作った資料として『南京地区における戦争被害』(スマイス調査)が唯一のものであり、学術的かつ比較的公正なものと判断される」と言う。

では、このスマイス調査にはどのような数字が書き込まれているか。「本調査」第四表によると、南京市部における、12月13日~翌1月13日の間の兵士の暴行(日付不明150を加える)による死者2,400、拉致され消息不明のもの4,200、合計6,600となっている。この数字は、その大部分が日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもので、かつ、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。

ここで注意すべきは、この6,600人は、一般市民ではなくこの期間に掃討された兵士の数である可能性が大であること。また、この掃討について『南京戦史』は、「ことに城内安全区掃討(12月14日~24日)や兵民分離(12月24日~13年1月5日頃)の際、我が軍としては一応選別手段は講じたけれども、便衣兵と誤ったケースもあったようであるが、その最大の原因は安全区の中立性が犯され、便衣の敗残兵と一般市民が混淆してその選別が極めて困難になったことがある」としている。

また、スマイス調査における江寧県での死者9,160人という数字は、あくまで城外の(調査した100日間)の死者数であり、かつ「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。また、「我が軍の中国一般市民に対する基本的態度は、これを敵視しないことであった。市民の被害は我が軍が中国軍を攻撃し或は掃討などの戦闘行為をとったさい、その巻き添えによってやむなく殺害された場合を除いて、すべて個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」としている。

そして結論として、スマイス調査の6,600人+9,160=15,760人という数字について「この中には前述したように、戦闘員としての戦闘死、戦闘行為の巻き添えによる不可避なもの、中国軍による不法行為や、また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ、さらにスマイス調査実施の際の手違いや作為も絶無とは言えない。また、第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても生命を完うした者もあるかもしれない」ので、「一般市民の被害者数はスマイス調査の15.760よりもさらに少ないものと考える」としている。

ここで、一般的に南京大虐殺という場合、日本軍が12月13日に南京を占領して後、翌1月までの間に発生した中国軍民の不法殺害を問題にする。従って、上述した城外の江寧県の死者を「個別的な偶発や誤認の結果生じたもの」と見なして除くと、市部調査の6,600人のみとなり、これは先に述べた通り、城内安全区の掃討等において便衣兵と見なされ摘出された人数と重複していると思われるので、結局、「南京事件」においては、南京防衛軍司令官の”敵前逃亡”によりパニックに陥り撃滅処断された兵士が相当数いた(その中には不当なものもあった)ことは事実だが、一般市民に対する計画的な不法殺害はなかった、ということになる。

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