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2017年1月

2017年1月16日 (月)

加藤陽子『戦争まで』を読んだ私の批判的感想

 以下、「かって日本は、世界から『どちらを選ぶか』と三度、問われた。良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線」とキャッチコピーされた本書を読んで考えたことを記しておきます。
 
 本書は、日本近現代史の学者である著者が、中学生や高校生を相手に、2015年に出された「内閣総理大臣談話」を批判する形で、満州事変、日独伊三国同盟、1941年4月から真珠湾攻撃に至るまでの日米交渉について、「従来の解釈を否定する新解釈」を示しながら、それを、現在安倍内閣が進めている憲法改正論議に「正しく反映させよう」として書かれたものです。
 
 結論から先に言えば、この本は、最新の研究成果がいろいろ紹介されていることは素人としては大変有り難いのですが、上記のような政治的意図が根っこにあるせいか、「従来の解釈を否定する新解釈」に、いささか一方に偏するものがあるように思われましたので、具体的にその部分を指摘しておきたいと思います。
 
 まず、リットン報告書が示した満州事変後の満州問題の解決策についてですが、「リットン報告書の内容は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざまに工夫したものだった。リットン報告書には、交渉が始まった後、日本が有利に展開できる条件が、実のところいっぱい書かれていた」「タフな交渉になると予想されましたが、日本と中国が二国間で話し合える前提を、リットンは用意していました」というのは、その通りだと思います。
 
 ただ、この問題は、結局、日本が華北の既得権益を全面放棄した上での「満州国承認問題」に収斂しており、中国側は「棚上げ」まで譲歩、日本側はその「黙認」を求めました。しかし、中国国内の抗日運動が激化する間、中国側の交渉態度が次第に硬化し、実質的な和平交渉に入ろうとした矢先、盧溝橋事件が勃発、ついで上海事変が勃発し、日中全面戦争に突入した、というのが事実に即した事態の推移です。
 
 つまり、リットン報告書の提出以降、日本側は「軍部の主導する満州侵略の道はだめなのだ」「実際に様々の選択肢がある」ということに全く気づかなかったわけではないのです。それに気づいたからこそ、日本は華北の既得権全面放棄による日中和平を提案したのです。しかし、中国側が、国内の抗日運動に引きずられる形で、日本の不拡大方針を無視し、日中全面戦争に持ち込んだのです。
 
 もちろん、こうした流れを必然ならしめた原因が、満州問題を武力で解決しようとした関東軍一部将校の暴走にあったことは紛れもない事実です。ただ、そうした行動は即中国の植民地化を目指していたわけではなく、問題は、日本中国に対する「排日停止・経済提携・共同防共」の要求が、アジア主義的なパターナリズムに根ざしていたため、中国の主権を無視する行動となって現れたのです。
 
 石原自身はこうしたアジア主義的主張を政治的・軍事的にコントロールする力はあったようですが、そのエピゴーネン達は、それを表面的に模倣することしか出来ず、中国が抗日戦争に訴えたことを、一撃でもって膺懲出来ると考え戦争を受けて立ったのです。しかし、戦争は予想に反し泥沼化しました。そこで、この戦争の名分を再構築する必要に迫られ、これが近衛の「東亜新秩序」声明となったのです。
 
 次に、日独伊三国同盟締結について。加藤氏は、なぜヒトラーは日本との同盟を選択したかについて、「イギリス側の、不屈の抗戦意識を支えているのは、ソ連の存在とアメリカの存在への希望である」「ソ連が脱落すれば、日本を北から軍事的に牽制する国家がなくなり、日本は自由に東アジアの根拠地である香港・シンガポールや、アメリカの軍事基地があるフィリピンを脅かすことが出来る」。従って、アメリカはソ連を脱落させないため対英援助を諦める、と考えたからとしています。
 
 さらに、こうしたヒトラーの思惑がさらに発展して、イギリスへの圧迫強化のための「対ソ攻撃」に結びついたとしています。しかし、この対ソ攻撃は、結果的にソ連を連合国側に追いやることになったわけで、4カ国連携でアメリカに圧力を加えようとしていた日本にとっては背信行為となります。この結果、独ソ開戦以降のアメリカの日米交渉に臨む態度は、一転して冷ややかなものになりました。
 
 この日米交渉でアメリカは、日本に対して日独伊三国同盟の空文化を求めました。これに対して日本は、アメリカが対ドイツ戦に参戦した場合でも、自動的な参戦義務はないと説明しました。日本がドイツと同盟条約を結べば、日本は、ドイツの引き起こした第二次世界大戦に対して中立的な立場から、米英に敵対する立場に立つことになるわけで、大きなリスクを背負い込むことになりました。
 
 この点について加藤氏は、なぜ日本がこうしたリスクを犯してまでもドイツと同盟したかについて、その動機として、ドイツが欧州戦争で勝利することを確信し、戦後の東南アジアにおける、フランス、イギリス、オランダの旧植民地の支配権=勢力圏の再分配をめぐって有利な立場を確保しようとしたため、としています。つまり、従来定説とされてきた”バスに乗り遅れるな”ではないと。
 
 しかし、”バスに乗り遅れるな”は、単なる覇者ドイツへの迎合を示すだけではなく、その背後に実利的な思惑があったことは当然です。それが、ドイツに降伏したフランス、オランダ、イギリスの旧植民地の戦略資源であったことは、日本が、これらの資源を外国に依存しており、、かつ、それが日本に対する経済制裁の手段になっていたのですから、そうした桎梏から逃れようとしたのでしょう。
 
 そこで、アメリカは、日本軍が昭和16年7月28日に南部仏印に進駐すると、それは、東南アジアからイギリスへの資源供給ルートを遮断することになるから、イギリスを支援したいアメリカは、それを阻止しようと、在米日本資産の凍結や石油の対日全面禁輸を断行しまのです。日本軍は、南仏進駐は平和裏になされたのだし、まさかアメリカがそこまでやるとは思っていなかったと言います。
 
 では、なぜアメリカは、こうした強硬措置を執ったか?加藤氏は、アメリカがこうした措置をとったことをルーズベルト大統領もハル国務長官も一月ほど知らなかったと言っています。それは対日強硬派のモーゲンソーらのとった措置だと言うのですが、モーゲンソーらは、日本は資源のない「粘土足の大国」だから、アメリカが経済圧迫を掛ければ屈服するほかないと考えていたそうです。
 
 ここで、昭和16年4月に始まった日米交渉で、アメリカ側から提出された「日米諒解案」の具体的内容について見てみたいと思います。加藤氏は、日米諒解案に関して「アメリカの日米交渉にかける熱意を考える際、最も大きな影響を及ぼしたのは、日本の南部仏印進駐だった」と言っています。では、日米諒解案には何が書かれていたかというと、
 
一、日米両国の基本秩序の尊重
二、三国同盟は防衛的なものであること。また、米国の欧州戦争に対する態度は自国の福祉と安全とを防衛するためにのみ決せられること。
三、支那の独立・非併合、門戸開放、日支間の協定に基づく日本国軍隊の支那領土撤退、蒋政権と汪政権の合流等の条件の範囲内で、善隣友好、防共共同防衛、経済提携の原則に基づき、日本が具体的和平条件を支那側に提示する。
四、日米両国は太平洋において相互に他方を脅威する海軍兵力及び航空兵力を配備しない。
五、日米間の新通商条約の締結及び金融提携、今次の了解成立後日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障する。
六、南西太平洋方面に於ける資源例えば石油、ゴム、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国は日本に協力する。
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針、東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等をしない。フィリピン独立保障、米国及南西太平洋に対する日本移民の無差別待遇が与えられる。
 日米両国代表者間の会談の提唱、本会談では今次了解の各項を再議せず、両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとする。
 
 この案は、41年2月以降、日米の民間人や政府・軍関係者によって周到に準備されたものでした。従って、この案が日本側に示されたとき、東条も、「米の提案も支那事変処理が根本的第一義であり、従ってこの機会を逃してはならぬ。断じて捉えねばならぬ」と近衛に言いました。武藤も「これで支那事変が解決されるからイイナ」と言ったといいます。そして、この提案は、陸・海軍省部・局部長会議で「独を刺激せざるよう一部の修文を行う」等の趣旨で陸海軍間で合意されました。(『太平洋戦争への道7』p168)
 
 こうしたアメリカ側の譲歩に対して、これを謀略ではないかと疑う者もいましたが、この提案を、日本側が軍部を含めて、当初”ほっと胸をなで下ろす”形で受け入れたことは事実です。近衛は直ちに「主義上同意」と返電しようとしました。これに反対したのが松岡で、松岡は日ソ中立条約を締結して帰国したばかりで、対米外交を三国同盟+ソ連の4カ国連携でアメリカを脅威圧迫すべきと考えており、次の三つの条件を付けました。
 
 それは、 一、米国に中国から手を引かせる、二、三国条約に抵触しない、三、米の欧州参戦を阻止する、でした。このため、日米諒解案の、米国をして支那事変終結を仲介させる、そのため三国同盟の趣旨を極力防衛的な性格のものとする、という趣旨が吹っ飛んでしまいました。問題は、こうした松岡の四国連携の構想に、当初、諒解案を歓迎した誰も正面から抗し得なかったと言うことです。
 
 これに対してアメリカは、すでに1月末から独ソ開戦を予想しており、それが勃発すれば松岡・軍部の錯覚的な枢軸政策は粉砕されると見ていました。実際6月に独ソ開戦したわけですが、先に述べた通り、これによって松岡の4国連携によるアメリカ圧迫構想は瓦解し、ソ連が英米側につくことになりました。この結果として、アメリカの日米交渉における対日妥協姿勢が強硬に転じることになったのです。
 
 合わせて重要なことは、4国連携が中国を含めた大陸連携構想に発展する可能性もあったということで、昭和16年段階でアメリカが日米両改案の線まで下りてきた背景には、こうした枢軸体制の誕生を阻止するねらいがあったのです。つまり、こうしたアメリカの妥協姿勢が三国同盟から生まれている以上、日米諒解案の肝である三国同盟の実質的空文化はそれと矛盾せざるを得なかったのです。
 
 日米交渉がこうしたジレンマに直面する中で、松岡は枢軸体制強化を計りました。しかし、独ソ開戦によってこの構想は瓦解。では、その後、日本はどういう選択すべきだったか。最良の策は、ドイツの背信を理由に三国同盟から離脱し、欧州大戦に対して中立の立場を取り、日米諒解案の線で日米間、日支間の関係調整に図ることでした。しかし、松岡や陸軍はソ連侵攻を主張、これを牽制するため海軍は南進を主張、結果的にこれが南部仏印進駐となりました。
 
 では、なぜ日本は枢軸同盟に止まったまま南部仏印に進駐したか。その理由としては、欧州戦争におけるドイツの勝利を盲信していたこと。アメリカを中心とする経済封鎖から自由になりたかったこと。そのためには東南アジアに進出し戦略資源を確保する必要があったことなどが考えられます。実際、こうした構想が魅力的であったからこそ、尾崎秀実の謀略も成功したのです。(この尾崎の、加藤氏の扱いもおかしい!)
 
 南部仏印進駐後は、ルーズベルトの仏印中立化案や、日本側からは最終的に乙案が提示されました。では、これと日米諒解案との違いは何だったかとというと、この段階では、日本側が最も期待したアメリカの仲介による日支事変解決の可能性がなくなっていたと言うこと。言うまでもなく、日本の南仏進駐は中国を完全に封鎖することになりますから、中国としては日米戦争だけが救いでした。
 
 こうしてアメリカの対日要求は、ハル四原則(すべての国の領土と主権尊重、他国への内政不干渉を原則とすること、通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること、平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持)に立ち返ることになりました。アメリカは、「日本が『日中和平基礎条件』で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求め」ました。
 
 ここで日本軍の支那からの撤兵問題が浮上します。東条は撤兵に反対、その結果近衛は内閣を投げだし、東条内閣が生まれました。東条は昭和天皇の「白紙還元の御諚」(「外交交渉により日本の要求を貫徹出来る目途がない場合は、直ちに開戦を決意する」という九月六日の御前会議決定を一旦白紙に戻すこと)を受け、その後、対米交渉を継続し、最終的には乙案を提出し、南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしましたが、アメリカ側のハルノートの提出でついに日米開戦となりました。
 
 このような事態になったのは、加藤氏の言う通り、日本軍がドイツの勝利を盲信し、枢軸同盟を背景に武力で南方の資源獲得をしようとしたためでした。この時取るべき唯一の道は、先ほど述べた通り、三国同盟離脱、欧州戦争からの中立維持、日米諒解案の趣旨に沿った、アメリカ仲介による日支事変解決、通商条約再締結による資源確保であったことは言うまでもありません。
 
 ただ、日本が乙案を提出し南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしたにも関われず、なぜアメリカはそれを無視してハルノートを提出したかが問題になります。これについては、アメリカに「絶望から戦争をする国はない」という甘い見通しがあったため、とかいいますが、アメリカの対独参戦を可能にするための日本挑発という意図があったことも明白だと思います。
 
 ただ、こうした挑発を受けても、これに冷静に対処し、アメリカがそれまでの日米交渉を無視し日本を挑発したのは、アメリカが欧州戦争に参戦する口実を得るためだったと世界に宣伝することで、しばらく戦争を回避することはできたでしょう。しかし、問題の根本はやはり、当時の日本が、ドイツ流の国家社会主義を信じ、英米流の自由民主主義を排除しようとしたことにあったのではないかと思います。
 
 戦後の反省はこの点に重点を置くべきではないでしょうか。こう見てくれば、戦後、こうした一種の全体主義的考え方が払拭されたとは到底言えないと思います。ソ連が戦後の一時期理想の国のように喧伝されたのも、毛沢東の文化大革命が賞賛されたのもそのためです。つまり、戦後も、今日まで一貫して、国家社会主義や共産主義に通底する考え方が伏在しているように思います。
 
 そこで、最後に、こうした戦後体制の基軸となった日本国憲法の平和主義、憲法第9条の戦争放棄、戦力放棄の意義について私見を申し述べたいと思います。加藤氏は、以上述べたような歴史解釈に立って、幣原の次の言葉を引用しています。
 
 「今日我々は、戦争放棄の宣言を掲げる大旗を翳して、国際政局の広漠なる野原を単独に進みゆくのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ旗を翳して、遥か後方についてくる時代が現れるでありましょう。」
 
 どうやら加藤氏は、幣原のこの言葉を引用することで、憲法第9条改正に反対する立場を暗に表明しているようです。しかし、戦後70年、日本国憲法第9条と言う旗の後方についてくる国はなかったのでは?というのも、実は、この旗が示した理想は戦争放棄(=戦力放棄)ではなく、武力の国際機関への一元化だったからです。つまり、軍事力は国際機関に一元化し各国は警察力だけを持つ・・・。
 
 こうすることが、国際社会に戦争をなくす唯一の方法であると、幣原は「平野文書」の中ではっきり述べています。そして、この理想に近づくための手段として、敗戦後の日本が「戦力放棄」という奇策を採ることによって、各国の軍縮を促そうとしたのです。そうすることで、天皇制を軍国主義から切り離し、天皇制を象徴天皇制という本来の姿に立ち返らせようとしたのです。
 
 従って、日本国憲法第9条の改正問題を論ずるに際しては、その第一項の平和主義と戦争放棄を謳った条項は残すべきだと思いますが、第二項の戦力放棄の規定をどうするか、については、戦後70年の平和が第9条だけで守られたわけではなく、日米安保による戦力補完によった、という冷厳な事実を踏まえて、これを憲法と矛盾しない形でどう規定するかを考えるべきだと思います。 以上 

2017年1月 3日 (火)

朝日新聞論説「憲法70年の年明けに『立憲』の理念をより深く」に潜在する、お気楽な「天秤の論理」

以下、表記の記事の論述に沿って私見を述べます。(私見は斜体字)
 
 世界は、日本は、どこへ向かうのか。トランプ氏の米国をはじめ、幾多の波乱が予感され、大いなる心もとなさとともに年が明けた。
 保守主義者として知られる20世紀英国の政治哲学者、マイケル・オークショットは、政治という営みを人々の航海に見立てている。
 海原は底知れず、果てしない。停泊できる港もなければ、出航地も目的地もない。その企ては、ただ船を水平に保って浮かび続けることである――。
 今年の世界情勢の寄る辺なさを、予見したかのような言葉として読むこともできるだろう。
 と同時にそれは本来、政治にできることはその程度なのだという、きわめて控えめな思想の表現でもある。
 
 保守主義とは固定した観念に囚われず、歴史的経験の積み重ねの中で得られてきた知恵をたよりに、一歩一歩、試行錯誤しながら、手探りで次の時代を形成していく、そうした歴史観をベースにしている。朝日新聞がこうした保守主義に立つと、新年早々宣言したことは、単なる便宜的借用でなければ大変良いことである。
 昨今、各国を席巻するポピュリズムは、人々をあおり、社会に分断や亀裂をもたらしている。民主主義における獅子身中の虫というべきか。
 オークショットのように抑制的で人気取りとは縁遠い政治観は、熱狂や激情に傾きがちな風潮に対する防波堤の役割を果たす。
 
 ポピュリズム批判を保守主義の観点からすることは正しいが、ポピュリズムの「熱狂や激情」は「本音」からだけ生まれるものではなく、むしろ「建前」から生まれることが多いと知るべきである。
 ■人々の暮らしの中で
 不穏な世界にあって、日本は今年5月、憲法施行70年を迎える。
 憲法もまた、政治の失調に対する防波堤として、大切な役割を担ってきた。その貢献の重みを改めて銘記したい。
 
     「憲法を政治の失調に対する防波堤とする」と言うこの主張は、前段の保守主義の主張と必ずしも一致しない。憲法の基本的性格を権力の暴走に対する歯止めとするのは正しいが、保守主義は固定した観念に囚われないので、憲法を絶対視するようなことはせず、時代に合わせて憲法改正することを躊躇しない。問題は、今日の政治を「政治の失調」とする「政治的見方」が正しいか否かであって、憲法を守るか守らないの話ではない
 
 「立憲主義」という言葉の数年来の広がりぶりはめざましい。政治の世界で憲法が論じられる際の最大のキーワードだ。
 中学の公民の教科書でも近年、この言葉を取り上げるのが普通のことになった。
 公の権力を制限し、その乱用を防ぎ、国民の自由や基本的人権を守るという考え方――。教科書は、おおむねこのように立憲主義を説明する。
 
   公権力の制限、権力の乱用から国民の自由や基本的人権を守るのが「立憲主義」というが、前項で述べた通り、それは憲法絶対を意味しない。問題は、「政治の失調」と見る判断が正しいか否かであって、ここでは、「政治が失調している」ことを前提に、それを憲法を絶対視する観点から阻止しようとしているわけで、これは一つの政治的主張にすぎない。
 それは人々の暮らしの中で具体的にどう働くのか。
 例えば、政党機関紙を配った国家公務員が政治的な中立を損なったとして起訴されたが、裁判で無罪になった例がある。判断の背景には、表現の自由を保障した憲法の存在があった。
 
 憲法が「表現の自由」を保障していることの重要性を説いているが、現在の政治が「表現の自由」を圧迫していれば問題だが、それは未だ証拠立てられていない。確かに、世論が保守化し、いわゆるリベラル左翼に厳しくなっていることは事実だが、それこそ「表現の自由」の結果と言うほかはない。
 ■民主主義をも疑う
 立憲主義は、時に民主主義ともぶつかる。
 民主主義は人類の生んだ知恵だが、危うさもある。独裁者が民主的に選ばれた例は、歴史上数多い。立憲主義は、その疑い深さによって民主主義の暴走への歯止めとなる。
 
 立憲主義は民主主義の暴走への歯止めになる、というが、民主主義は憲法を変えることが出来るので、憲法は民主主義の暴走への歯止めにはならないと見た方が良い。民主主義の暴走を防ぐためには、「建前」の議論ばかりでなく「本音」の議論にも十分注意を払い、言論における事実論と価値論を混同しないようにすること。その上で、事実論を合理的、論理的、実証的に行うことで現実を客観的に把握することに努める。次に、社会的に合意形成できる理想像を見定める。その上で、現実から理想像に近づくための実現可能な方策を案出する。政治家に求められているのはこうした政治的リーダーシップなのである。
 根っこにあるのは個人の尊重だ。公権力は、人々の「私」の領域、思想や良心に踏み込んではならないとする。それにより、多様な価値観、世界観を持つ人々の共存をはかる。
 
 立憲主義の根本にあるのは「個人の尊重」であり、それは思想信条の自由を守ること、との主張だが、現実に起こっていることは、その「思想信条の自由」が保障されているために、自分たちの主張が少数派に転落しかかっているということである。
 ただ、こうした理念が、日本の政界にあまねく浸透しているとは到底いえない。
 自民党は立憲主義を否定しないとしつつ、その改憲草案で「天賦人権」の全面的な見直しを試みている。
 例えば、人権が永久不可侵であることを宣言し、憲法が最高法規であることの実質的な根拠を示すとされる現行の97条を、草案は丸ごと削った。
 立憲主義に対する真意を疑われても仕方あるまい。
 
 自民党憲法草案が97条(人権が永久不可侵であることを宣言)を削ったことは、「天賦人権」を否定したこと、というが、「天賦人権」とは「神の下の平等という観念を下敷きにした人権論」であって、いわば国家を超えた神の下の平等という宗教的観念に基づくものであり、そうした観念を日本国憲法見直し論議に持ち出すのは滑稽である。憲法の人権規定は、あくまでそれぞれの国家内に適用されるもので、他国に強制できるものではない。

 また、自民党の憲法改正草案が日本国憲法97条を削除したことを「人権が永久不可侵であること」を否定するものであるかのように言っているが、自民党の改正草案では、第11条(基本的人権の享有)に「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことの出来ない永久の権利である」とあり、第97条の削除はそれと重複するから削ったと説明されている。これは事実に反する記述である。
 衆参両院の憲法審査会は昨年、立憲主義などをテーマに討議を再開したが、議論の土台の共有には遠い。
 どんな立場を取るにせよ、憲法を論じるのなら、立憲主義についての真っ当な理解をより一層深めることが前提でなければならない。
 
  「立憲主義についてのまっとうな理解」という意味が、以上述べたような「政治的主張」に基づくものであれば、それは「おれの政治的主張に対する理解を深めることを前提に憲法を論じよ」と言っているわけで、自己中心的な主張と言うほかはない。
 ■主要国共通の課題
 立憲主義にかかわる議論は、欧米諸国でも続く。
 一昨年のパリ同時多発テロを経験したフランスでは、非常事態宣言の規定を憲法に書き込むことが論じられたが、結果的に頓挫した。治安当局の権限拡大に対する懸念が強かった。
 同じくフランスの自治体が、イスラム教徒の女性向けの水着「ブルキニ」を禁止したことに対し、行政裁判の最高裁に当たる国務院は「信教と個人の自由を明確に侵害する」という判断を示した。
 個人、とりわけ少数者の権利を守るために、立憲主義を使いこなす。それは今、主要国共通の課題といっていい。
 
 西洋諸国は、今日、同時多発テロの脅威に晒されるようになって、「非常事態宣言」が出された場合は、公共の秩序維持のため、一部「人権」の制限が出来るようにしようという議論だとと思うが、日本でも同じことが頻発すれば同様の議論が起こるだろう。だから、そうした状況を生まないよう、あらかじめ手を打っておくことが肝要だということ。
 環境は厳しい。反移民感情や排外主義が各地で吹き荒れ、本音むき出しの言説がまかり通る。建前が冷笑されがちな空気の中で、人権や自由といった普遍的な理念が揺らぐことはないか、懸念が募る。
 
 本音(反移民感情や排外主義)と建前(人権や自由といった普遍的理念)のバランスが、建前が冷笑される空気の中で揺らいでいる、と言っているが、先に述べたように、「ポピュリズムの熱狂や激情は本音からだけ生まれるものではなく、むしろ建前から生まれることを知るべき」である。むしろ、過度な「建前」の理想の主張が、「本音」としての反移民感情や排外主義を生んだと考えるべき。
 目をさらに広げると、世界は立憲主義を奉じる国家ばかりではない。むしろ少ないだろう。
 憲法学者の長谷部恭男・早稲田大教授は「立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖(ぎょうこう)である」と書いている。
 であればこそ、立憲主義の理念を、揺らぎのままに沈めてしまうようなことがあってはならない。
 世界という巨大な船が今後も、水平を保って浮かび続けられるように。
 
 世界が、日本的論理とされる「天秤の論理」の平衡を保っていけるようにすべき、と言っているが、欧米諸国の思考法は、「本音」と「建前」を天秤にかけ、そのバランスを取るような考え方ではない。そうではなく、現実論も理想論も言葉でしっかり規定し、それを全体的に把握することで自らの思想を形成し、それに基づいて行動するのである。宗教的対立や思想的対立が深刻になるのはそのためである。

 それ故、「思想信条の自由の上に立つ立憲主義社会に生きる経験は僥倖」なのであって、それを「天秤の論理」で個人が「理外の理、言外の言」でバランスを取る日本人と同一視してはいけない。それが出来る日本を「政治天才」とイザヤ・ベンダサンは言ったが、自分がどういう思想に基づいて発言しているか自覚することが先ず必要である。朝日の論説委員には、ぜひ『日本教について』を読むことをお勧めしたい。

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