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2017年1月 3日 (火)

朝日新聞論説「憲法70年の年明けに『立憲』の理念をより深く」に潜在する、お気楽な「天秤の論理」

以下、表記の記事の論述に沿って私見を述べます。(私見は斜体字)
 
 世界は、日本は、どこへ向かうのか。トランプ氏の米国をはじめ、幾多の波乱が予感され、大いなる心もとなさとともに年が明けた。
 保守主義者として知られる20世紀英国の政治哲学者、マイケル・オークショットは、政治という営みを人々の航海に見立てている。
 海原は底知れず、果てしない。停泊できる港もなければ、出航地も目的地もない。その企ては、ただ船を水平に保って浮かび続けることである――。
 今年の世界情勢の寄る辺なさを、予見したかのような言葉として読むこともできるだろう。
 と同時にそれは本来、政治にできることはその程度なのだという、きわめて控えめな思想の表現でもある。
 
 保守主義とは固定した観念に囚われず、歴史的経験の積み重ねの中で得られてきた知恵をたよりに、一歩一歩、試行錯誤しながら、手探りで次の時代を形成していく、そうした歴史観をベースにしている。朝日新聞がこうした保守主義に立つと、新年早々宣言したことは、単なる便宜的借用でなければ大変良いことである。
 昨今、各国を席巻するポピュリズムは、人々をあおり、社会に分断や亀裂をもたらしている。民主主義における獅子身中の虫というべきか。
 オークショットのように抑制的で人気取りとは縁遠い政治観は、熱狂や激情に傾きがちな風潮に対する防波堤の役割を果たす。
 
 ポピュリズム批判を保守主義の観点からすることは正しいが、ポピュリズムの「熱狂や激情」は「本音」からだけ生まれるものではなく、むしろ「建前」から生まれることが多いと知るべきである。
 ■人々の暮らしの中で
 不穏な世界にあって、日本は今年5月、憲法施行70年を迎える。
 憲法もまた、政治の失調に対する防波堤として、大切な役割を担ってきた。その貢献の重みを改めて銘記したい。
 
     「憲法を政治の失調に対する防波堤とする」と言うこの主張は、前段の保守主義の主張と必ずしも一致しない。憲法の基本的性格を権力の暴走に対する歯止めとするのは正しいが、保守主義は固定した観念に囚われないので、憲法を絶対視するようなことはせず、時代に合わせて憲法改正することを躊躇しない。問題は、今日の政治を「政治の失調」とする「政治的見方」が正しいか否かであって、憲法を守るか守らないの話ではない
 
 「立憲主義」という言葉の数年来の広がりぶりはめざましい。政治の世界で憲法が論じられる際の最大のキーワードだ。
 中学の公民の教科書でも近年、この言葉を取り上げるのが普通のことになった。
 公の権力を制限し、その乱用を防ぎ、国民の自由や基本的人権を守るという考え方――。教科書は、おおむねこのように立憲主義を説明する。
 
   公権力の制限、権力の乱用から国民の自由や基本的人権を守るのが「立憲主義」というが、前項で述べた通り、それは憲法絶対を意味しない。問題は、「政治の失調」と見る判断が正しいか否かであって、ここでは、「政治が失調している」ことを前提に、それを憲法を絶対視する観点から阻止しようとしているわけで、これは一つの政治的主張にすぎない。
 それは人々の暮らしの中で具体的にどう働くのか。
 例えば、政党機関紙を配った国家公務員が政治的な中立を損なったとして起訴されたが、裁判で無罪になった例がある。判断の背景には、表現の自由を保障した憲法の存在があった。
 
 憲法が「表現の自由」を保障していることの重要性を説いているが、現在の政治が「表現の自由」を圧迫していれば問題だが、それは未だ証拠立てられていない。確かに、世論が保守化し、いわゆるリベラル左翼に厳しくなっていることは事実だが、それこそ「表現の自由」の結果と言うほかはない。
 ■民主主義をも疑う
 立憲主義は、時に民主主義ともぶつかる。
 民主主義は人類の生んだ知恵だが、危うさもある。独裁者が民主的に選ばれた例は、歴史上数多い。立憲主義は、その疑い深さによって民主主義の暴走への歯止めとなる。
 
 立憲主義は民主主義の暴走への歯止めになる、というが、民主主義は憲法を変えることが出来るので、憲法は民主主義の暴走への歯止めにはならないと見た方が良い。民主主義の暴走を防ぐためには、「建前」の議論ばかりでなく「本音」の議論にも十分注意を払い、言論における事実論と価値論を混同しないようにすること。その上で、事実論を合理的、論理的、実証的に行うことで現実を客観的に把握することに努める。次に、社会的に合意形成できる理想像を見定める。その上で、現実から理想像に近づくための実現可能な方策を案出する。政治家に求められているのはこうした政治的リーダーシップなのである。
 根っこにあるのは個人の尊重だ。公権力は、人々の「私」の領域、思想や良心に踏み込んではならないとする。それにより、多様な価値観、世界観を持つ人々の共存をはかる。
 
 立憲主義の根本にあるのは「個人の尊重」であり、それは思想信条の自由を守ること、との主張だが、現実に起こっていることは、その「思想信条の自由」が保障されているために、自分たちの主張が少数派に転落しかかっているということである。
 ただ、こうした理念が、日本の政界にあまねく浸透しているとは到底いえない。
 自民党は立憲主義を否定しないとしつつ、その改憲草案で「天賦人権」の全面的な見直しを試みている。
 例えば、人権が永久不可侵であることを宣言し、憲法が最高法規であることの実質的な根拠を示すとされる現行の97条を、草案は丸ごと削った。
 立憲主義に対する真意を疑われても仕方あるまい。
 
 自民党憲法草案が97条(人権が永久不可侵であることを宣言)を削ったことは、「天賦人権」を否定したこと、というが、「天賦人権」とは「神の下の平等という観念を下敷きにした人権論」であって、いわば国家を超えた神の下の平等という宗教的観念に基づくものであり、そうした観念を日本国憲法見直し論議に持ち出すのは滑稽である。憲法の人権規定は、あくまでそれぞれの国家内に適用されるもので、他国に強制できるものではない。

 また、自民党の憲法改正草案が日本国憲法97条を削除したことを「人権が永久不可侵であること」を否定するものであるかのように言っているが、自民党の改正草案では、第11条(基本的人権の享有)に「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことの出来ない永久の権利である」とあり、第97条の削除はそれと重複するから削ったと説明されている。これは事実に反する記述である。
 衆参両院の憲法審査会は昨年、立憲主義などをテーマに討議を再開したが、議論の土台の共有には遠い。
 どんな立場を取るにせよ、憲法を論じるのなら、立憲主義についての真っ当な理解をより一層深めることが前提でなければならない。
 
  「立憲主義についてのまっとうな理解」という意味が、以上述べたような「政治的主張」に基づくものであれば、それは「おれの政治的主張に対する理解を深めることを前提に憲法を論じよ」と言っているわけで、自己中心的な主張と言うほかはない。
 ■主要国共通の課題
 立憲主義にかかわる議論は、欧米諸国でも続く。
 一昨年のパリ同時多発テロを経験したフランスでは、非常事態宣言の規定を憲法に書き込むことが論じられたが、結果的に頓挫した。治安当局の権限拡大に対する懸念が強かった。
 同じくフランスの自治体が、イスラム教徒の女性向けの水着「ブルキニ」を禁止したことに対し、行政裁判の最高裁に当たる国務院は「信教と個人の自由を明確に侵害する」という判断を示した。
 個人、とりわけ少数者の権利を守るために、立憲主義を使いこなす。それは今、主要国共通の課題といっていい。
 
 西洋諸国は、今日、同時多発テロの脅威に晒されるようになって、「非常事態宣言」が出された場合は、公共の秩序維持のため、一部「人権」の制限が出来るようにしようという議論だとと思うが、日本でも同じことが頻発すれば同様の議論が起こるだろう。だから、そうした状況を生まないよう、あらかじめ手を打っておくことが肝要だということ。
 環境は厳しい。反移民感情や排外主義が各地で吹き荒れ、本音むき出しの言説がまかり通る。建前が冷笑されがちな空気の中で、人権や自由といった普遍的な理念が揺らぐことはないか、懸念が募る。
 
 本音(反移民感情や排外主義)と建前(人権や自由といった普遍的理念)のバランスが、建前が冷笑される空気の中で揺らいでいる、と言っているが、先に述べたように、「ポピュリズムの熱狂や激情は本音からだけ生まれるものではなく、むしろ建前から生まれることを知るべき」である。むしろ、過度な「建前」の理想の主張が、「本音」としての反移民感情や排外主義を生んだと考えるべき。
 目をさらに広げると、世界は立憲主義を奉じる国家ばかりではない。むしろ少ないだろう。
 憲法学者の長谷部恭男・早稲田大教授は「立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖(ぎょうこう)である」と書いている。
 であればこそ、立憲主義の理念を、揺らぎのままに沈めてしまうようなことがあってはならない。
 世界という巨大な船が今後も、水平を保って浮かび続けられるように。
 
 世界が、日本的論理とされる「天秤の論理」の平衡を保っていけるようにすべき、と言っているが、欧米諸国の思考法は、「本音」と「建前」を天秤にかけ、そのバランスを取るような考え方ではない。そうではなく、現実論も理想論も言葉でしっかり規定し、それを全体的に把握することで自らの思想を形成し、それに基づいて行動するのである。宗教的対立や思想的対立が深刻になるのはそのためである。

 それ故、「思想信条の自由の上に立つ立憲主義社会に生きる経験は僥倖」なのであって、それを「天秤の論理」で個人が「理外の理、言外の言」でバランスを取る日本人と同一視してはいけない。それが出来る日本を「政治天才」とイザヤ・ベンダサンは言ったが、自分がどういう思想に基づいて発言しているか自覚することが先ず必要である。朝日の論説委員には、ぜひ『日本教について』を読むことをお勧めしたい。

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