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2019年8月

2019年8月29日 (木)

『日本国記』の「古代史」及び「現代史」を検証する(2)(2019-04-22 13:05:14掲載)

『日本国記』の「現代史」に対する私の疑問

 次に『日本国記』の「現代史」に関して私見を申し述べたい。私が、特に違和感を感じたのは、百田氏の外交官幣原喜重郎に対する評価である。

百田氏は、中村粲氏の『大東亜戦争への道』と同様、日英同盟の破棄や、第一次南京事件等に対する幣原の宥和的・国際協調外交を繰り返し批判している。

 確かに、日英同盟の廃棄は、もう少し慎重であるべきだったと私も思う。これは、集団的自衛権いわゆる同盟と集団安全保障の違いを十分見極められなかったこともあるが、この時期、いわゆる「21箇条要求」で傷ついた日中関係の修復と同時に、アメリカとの外交関係を再構築する必要があったことも事実である。

 それを不可能にしたのが、第一次南京事件を幣原外交批判に結びつけ、第一次若槻内閣を倒して田中義一内閣に代え、済南事件さらには張作霖爆殺事件を引き起こして、日中の外交的基盤を破壊した、当時の軍や一部の政治家の責任を不問に付すわけにはいかない。幣原外交を破綻させたのは彼らの責任は大きい。

 百田氏は、張学良支配下の満州における排日運動に対する幣原の宥和的態度も批判している。しかし、田中内閣の大陸政策の惨憺たる失敗を受けた後の、浜口雄幸内閣下における佐分利公使を介した外交による日中関係の修復は、軍の露骨な政治介入のため、ほとんど不可能な状態に陥った。

 外相幣原に代わり日中の外交関係修復にあたった佐分利公使怪死事件、ロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐって発生した「統帥権干犯事件」、浜口雄幸首相狙撃事件、3月事件というクーデター未遂事件、そして、張作霖爆殺事件の「やり直し」としての柳条湖列車爆破事件を口実とする満州事変等々。

 百田氏は、こうした軍の政治介入の責任を幣原に求めることに急なあまり、張作霖爆殺事件にソビエトの関与が疑われることをもって河本大作を不問の伏すなど、いささかバランスを欠く論述が多いように思った。欺されたのは「欲張った」からであって、強欲に対する批判を免れるものではない。

 また、満州事変をもって、その後の日中戦争を不可避なものとしているが、これも満州に踏みとどまり満州経営に専念すべしとの当初の基本方針を堅持すれば、日中全面戦争は避けられたのである。これも華北の資源欲しさに華北分離工作などやったからで、蒋介石が掃共作戦から国共合作に転じたのはそのためである。

 さらに、戦後の日本国憲法制定過程における幣原の役割について、その戦力放棄条項の発案が幣原であるとの説を否定し、これをあくまでマッカーサーの日本弱体化策としていること。そうすることで、現憲法がそうした策略下に生まれたことを強調することで、自主憲法制定の必要を説こうとしている。

 しかし、「平野文書」にある通り、現憲法の武力放棄条項が幣原の発案であることは明白である。それは、天皇制を日本軍国主義と結びつける国際世論に対して、憲法に武力放棄を書き込むことで天皇制と軍国主義の結びつきを絶ち天皇制を守ろうとした、これが幣原の第一の狙いだった。

 では、裸同然の日本は誰が守るか、当時はアメリカが核を独占し国際秩序はアメリカによって守られていた。当然、日本の安全はアメリカが守る。さらに、そこに平和国家日本を守るという理念を挿入することで、アメリカに主体性を持たせる。それによって予想される戦後の東西イデオロギー対立の中で、日本の安全を確保しようとしたのである。

 そうした外交的狡知が幣原にあったことは事実であると私は思う。マッカーサーは、軍人であると同時に、千年王国的な素朴なキリスト教信者であった。それを見抜いた幣原はマッカーサーを「負けて勝つ」外交戦略の操り人形とした。軍人であるマッカーサーが「永久平和」を夢見た原因は、その他には考えられない。

 もちろん、幣原の目には、戦後の東西イデオロギー対立の中で、日本軍がアメリカ軍の先兵とされることを避ける狙いもあったと思う。同時に、その流れの中で日本軍国主義が復活する危険を未然に防止する狙いもあったと思う。ただし、それはアメリカの核独占による国際秩序維持が可能な限りにおいてだが。

 「平野文書」には、核時代を迎えて戦争を回避する唯一の手段として、軍事力を国際機関に一元化し、各国は警察力のみを持つことで世界平和を維持するとの理想が語られている。ただ、そうした軍縮は各国の疑心暗鬼の中では不可能であり、狂人にしかできないが、たまたま日本がその狂人を演じる立場にあるので、思い切って憲法に戦力放棄をマッカーサーに書き込ませたと幣原は言っている。

 それは、当時の状況の中で、幣原が独断的に行った外交奇策だが、当時の内閣もそれを追認したのであって、結果的には、核のアメリカ独占が壊れ東西冷戦が深刻化する中で、日本は、この憲法条項を盾に、朝鮮戦争やベトナム戦争への参戦を免れ、経済発展に国力を集中することに成功したのである。

 ただ、こうしたことが、いわば密教的になし崩しで行われたために、それが一国平和主義的な空想を国民に蔓延させることになった。それが、戦後のGHQによる言論統制の影響もあり、日本の歴史や国民性を自虐的に捉え、日本が何もしなければ世界の平和が守られるという倒錯した心理に日本人を陥らせることになった。

 百田氏は、そうした風潮に反発しているわけだが、その原因を、日本を「欺した」中国やソ連あるいはマッカーサーだけに求めることはできない。欺された戦前の日本にも「欺されるだけの原因」があり、戦後については、「欺したことにも気づかない」日本人の偽善も、同時に指摘すべきである。

おわりに
 以上、『日本国記』の「古代史」と「現代史」を検証した。「古代史」については、私が宮崎照雄説を支持していることもあり、また、八幡和郎氏の日本史から世界史にわたる通史や、日中及び日韓・日朝関係についての著作に多くのことを学んでいる関係で、これらの視点を併せて『日本国記』を検証することになった。問題は、卑弥呼、神武、欠史八代、崇神の関係及び応神までの時代設定をどう考えるかが、今後の研究課題だと思った。

 『日本国記』の「現代史」については、私はその弱点は幣原評にあると思った。私は、昭和史において軍が政治外交の主導権を握ることがなければ、昭和の悲劇は避けられたと思っている。その意味で、幣原外交に象徴される外交がなぜ挫折したのか、その罪を幣原だけに負わせるのではなく、当時の政治家や軍及びマスコミの責任を、バランスよく問う必要があると思う。

 日本は、当時の国際政治の情報戦に負けて、思いがけず「するはずのなかった」日中全面戦争に巻き込まれた。これは事実である。また、同じく、「してはならない」日米戦争に突入することになった。そこに謀略があったことも事実である、というより当然であって、「欺された」と言って免罪されるものではない。

 以上、『日本国記』の「はじめ」と「おわり」を見てきた。もちろん、この本に教えられたこともたくさんあるし、特に戦後の日本国民が、WGIPと称される情報戦に翻弄され続けているとの指摘は正しい。WGIPなどなかったと強弁するのは、戦前の日本を破滅に追いやった国際情報戦の敗北を認めないに等しく、うらんかなのマスコミや衒学趣味に陥る学者の通弊であると思う。 おわり
 

『日本国記』の「古代史」及び「現代史」を検証する(1)(2019-04-22 13:05:14掲載) )

はじめに
 百田尚樹氏の『日本国記』が、ベストセラーとなったということもあり賛否両論の議論が交わされている。私も、遅ればせながら同書に目を通してみた。全体的な感想としては、通史といいながら、著者の視点は、主に近現代史の従来の解釈の見直しに置かれていて、特に、「古代史」は、いろんな説を紹介しているものの、全体的に主張に一貫性がないように思われた。

 この本に対する具体的な批評は、八幡和郎氏が『日本国記は世紀の名著かトンデモ本か』でかなり綿密に行っている。これに百田氏は感情的な反発を示しているようだが、この本の表題は確かに揶揄的だが、内容は真摯なもので、他に通史的な著作を多くものしている八幡氏には当然の批評かと思われた。

 そこで、まず、『日本国記』の「古代史」を検証する。それから、これに対する八幡和郎氏の批判を項目毎に紹介する。その上で、これらを、私が現在、最も興味深いと思っている宮崎照雄氏の説に照らすとどうなるかを述べる。これによって、現代日本の「日本古代史研究」の現在位置がわかるし、宮崎説の妥当性を検証することにもなるからである。

『日本国記』の論点

 百田氏は、日本古代史について、弥生時代の日本について書かれた最も重要な歴史書は、いわゆる『魏志倭人伝』であると言っている。ただし、「3世紀から6世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情である」と言い、その時代の出来事を物語る『記紀』の記述に対しては、かなり懐疑的な見方を示し、次のような自説を展開している。

1.邪馬台国は九州にあったのではないか。
2.卑弥呼は「日の巫女」であるなら大いに納得できる。
3.井沢元彦氏は、卑弥呼は天変地異(日食)の責任を取らされて殺された可能性があると言う説を唱えているが大いに納得できる説である。
4.古事記の天照大神の「天の岩戸隠れ」は日食の暗喩だという人もいるが、「卑弥呼=天照大神」と言う説には賛同しない。
5.邪馬台国が大和朝廷になったのではない。なぜなら記紀には卑弥呼のことも邪馬台国のことも書かれていないから。大和朝廷は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないか。いわゆる「神武東征」は真実であったのではないか。つまり、邪馬台国と戦った狗奴国が邪馬台国を滅ぼし東征したのではないか。
6.天照大神が大国主命から「葦原の中つ国」を譲られる話は、大和朝廷が出雲地方を征服した話ではないか。
7.神武天皇と崇神天皇は実は同一人物ではないかという説も根強い。
8.日本は369年に新羅と戦い、百済を服属させた。そして弁韓を任那と名付けた。391年から404年にかけては、百済と新羅の連合軍を破り、さらには高句麗とも戦い、つまり日本の国力が相当大きかったと考えられ、当時の日本にとって朝鮮半島の一部が非常に重要な地位であったと考えられる。日本書紀には、神宮皇后の時代に大和朝廷が朝鮮半島に進出し、新羅を屈服させて百済を直轄地としたという記述があるが、はたしてこれが広開土王碑に記されている391年の出来事であったかどうかは不明である。
9.歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかと言う説を唱える人が少なくないが、仲哀天皇は熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという「王朝交代説」は説得力がある。
10.仲哀天皇が死んだのが平時ではなく、九州での戦の途中であったことからも、戦死であった可能性が窺える。
11.古事記によると、応神天皇は父の仲哀天皇の死後十五ヶ月後、日本書紀では十月十日後に出産したことになっており、実子であるかどうか疑わしい。
12.いわゆる「倭の五王」について、讃、珍、済、興、武を履中天皇から雄略天皇に充てる説が定説になっているが、『記紀』にはこれらの天皇が朝貢したという記述はなく、古田武彦氏は、倭の五王は九州王朝の王とする説を述べている。
13.4~6世紀は「大和朝廷時代」と呼ばれてきたが、近年の研究でこの時代は大和朝廷が日本を統一したわけではないという見解が一般的で、「古墳時代」と呼ぶようになり、その王朝は「ヤマト王権」と呼ばれる事が多い。
14.仁徳天皇陵などの巨大な古墳は、その王朝がかなりの国力を持っていたことの証であり、同時にその王の権力の強大さがうかがえる。同じような前方後円墳が日本各地に作られていることから、大和王権の権力はほぼ全国にわたっていたと考えられる。
15.6世紀後半になると大規模古墳は作られなくなった。それは「朝鮮半島を支配した騎馬民族が海を渡ってやってきて新たな王朝を立てたため」とする、いわゆる「騎馬民族説」は、今日では荒唐無稽な説として否定されている。
16.継体天皇は謎の多い人物で、第25代武烈天皇が崩御したとき皇位継承者がおらず、応神天皇の五世孫の継体天皇が58歳で即位した。武烈天皇が残虐であったとの記述もあり、この時、皇位簒奪があったとする説は、私も十中八九そうであろうと思う。

『日本国記』に対する八幡和郎氏の批判と意見

 こうした百田氏の見解に対して、八幡和郎氏は、項目毎の論点に対し、次のような批判ないし自説を述べている。

 まず、『記紀』の内容は、古代の王者たちの長過ぎる寿命を別にすれば、系図も事績もさほど不自然なところはなく信頼性は高く、中国や韓国の史書や「好太王碑」とも符合し、考古学的見地からも特に矛盾はないと考える」と言う。その上で、

1~4についてはほぼ同じ見解
5→私は、「万世一系」を肯定している。日向からやってきた武人が大和南西部に作ったクニが発展して日本国家となり、その王者は男系男子で現在の皇室まで継続しているということは荒唐無稽でないと思うからだ。

 神武東征とか大和国の畝傍山麓での建国というのは、記紀にも書いておらず、中世以降成立した伝説である。神武天皇は多人数の軍隊と一緒に東征したわけでもないし、大和で建てたクニは日本国家ではなく、せいぜい現在の橿原市と御所市あたりだけを領域とするだけだったというのが『記紀』に書かれている出来事であって、リアリティも高いと思う。

  後に神武天皇と呼ばれる男は、何らかの事情で家族を残して出奔した可能性が強い。一行は、安芸などを経て吉備に三年留まっているが、こうした武装集団が見知らぬ土地で居場所を見つけられるのは、用心棒か傭兵として雇われるとか、特殊な技術でも持っているときで、おそらく彼らは、そこの土着勢力に雇われて定着し、少しばかりの手下を得たのではないか。

  神武天皇と呼ばれることになる人物は、並外れた武芸の達人かよほどカリスマ的魅力もあったに違いない。長髄彦の妹婿だった物部氏の祖先である𩜙速日もこの侵入者と手を組み、長髄彦に勝って畝傍山の麓に小さな王国を建国した。

  神武天皇は大国主の命の孫娘を皇后とし、綏靖天皇の皇后も母親の姉妹を皇后としたとあるから、天皇家がやってくる前の大和の支配者たちが出雲と縁のある人々だった可能性が高い。(百田氏の狗奴国東征説には反対。一方、百田氏は神武東征は認めるが日向からとは言わない。大和では、旧勢力の征服ではなく縁組みによる融和である。)

6→十代目の崇神天皇が大和国を統一し、さらに吉備や出雲を服属させ、その曾孫のヤマトタケルらが関東や九州の一部に勢力を広げた。
  出雲では天照大神の子孫でも皇室とは別系統の者が支配者となっていたが、崇神天皇のときに服属したというのが、大和と出雲の関係だというわけだ。

7→『日本国記』は神武天皇と崇神天皇同一人物説に理解を示しているが、そうなると、九州出身の崇神天皇は九州から吉備などを通過して大和を征服し、その後、かって通過してきた吉備や、そこから近い出雲の制圧に乗り出したことになり、なんとも不自然なのである。
  日本書紀に書いている景行天皇やヤマトタケルの活躍は、細部はともかくとして、ストーリーとしては無理がない。崇神天皇が吉備や出雲まで支配下に置いたのを、九州まで勢力を広げ、東国でも関東地方をほぼ制圧したと言うことだ。
  また、倭の五王の一人雄略天皇だとされる「武」は「自分の先祖は畿内から出発して、西日本と東日本にそれぞれほぼ均等に勢力を伸ばしたと中国の南朝への上表文で語ってをり、この「先祖」が崇神天皇なら判るが、九州からやってきた神武天皇とするとおかしくなる。
 (欠史八代と言われる諸天皇は実在したと考える。従って神武=崇神はない)

8→仲哀天皇の死後、神宮皇后は大陸から半島に渡り、戦わずして新羅を降伏させ、高麗や百済も自然と従うことになった。これ以降、これらの国は朝貢するようになってその後三世紀にわたって継続した。
  皇太后は、仲哀天皇の死後になって生まれた子(後の応神天皇)をつれて畿内に凱旋した。現在の皇統譜では仲哀天皇の後は応神天皇になっているが、これは大正十五年になってそう定められたのであって、『日本書紀』もその後の朝廷の公式見解でも、神宮皇太后が女帝であったとしていた。(日本書紀の記述を信用すべし)

9→百田氏は、万世一系を世界に誇るべき事としながら、応神天皇は熊襲だとか継体天皇は簒奪者だとかいう可能性を、さほどの根拠なく主張して一貫性がない。
  仲哀天皇が熊襲の反乱を聞いて筑紫に入った。筑紫との間に戦争がなかったのは、北九州にあった邪馬台国が滅亡した後小国に分裂していたらしい九州が、熊襲の圧力からの防衛や大陸で勢力を広げるために、軍事大国だった大和の宗主権を認め後ろ盾にしたと考えてよい。(応神天皇を熊襲の王というなら、熊襲が大和を征服したことをもって建国史とすればよいではないか)

10→熊襲を攻めるより大陸の新羅を討つべしとの神功皇后に現れた「お告げ」に反対した仲哀天皇の死は、暗殺の可能性が強く感じられる。

11→継体天皇の継承の時にむしろ第一候補だったのが、仲哀天皇の子孫だった倭彦命だったことを見れば、仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈に合わない。

12→仁徳天皇の後の履中天皇から雄略天皇までは、中国の南北朝時代の南朝と宋王朝と交流したと中国の正史に詳細に記載されている。日本人の任那領有を認めながら、その主体は大和朝廷でなく九州王朝かも知れなどと書いて曖昧にしてしまっている。

13→第十代崇神天皇に至って、纏向遺跡などがあって大和で最も栄えた三輪地方を支配下に収めて大和を統一した。さらに、畿内全域、そして出雲や吉備当たりまで支配下に置いたというのが日本書紀に書いてあることだ。

14,15は同様の見解

16→五世紀後半に武烈天皇に近い血縁の男子がなく、応神天皇の子孫で越前にいた継体天皇を招聘したが、その経緯に不自然なところはない。
  継体天皇は、遠縁と言ってもかなりメジャーな皇族だった。なにしろ、父の従姉妹姉が允恭天皇の皇后であり、雄略天皇の母なのである。また歴史の編纂は推古天皇のときに始まっており、推古天皇の父は継体天皇の末っ子である欽明天皇であり、いい加減 なことは書けないはずである。

八幡説の推定する「日本古代史」の実年代

 八幡氏は、以上の自説について、「もちろん『日本書紀』の記述はそのままでは史実としてはあり得ないが、同書の系図と事跡は、①少なくとも荒唐無稽ではないし、②ウソを書いたという動機も説明できておらず、③ほぼそのまま信頼できると結論づけた」と言い、その上で、古代天皇の実年代について次のような見解を述べる。

ア倭王武と雄略天皇が同一人物であることはほぼ間違いなく、『日本書紀』の実年代を推定する上で、基準点の一つになると考えている(宋への朝貢478年)。
  いずれにせよ、大事なことは、『日本書紀』に書かれている系図とか歴代天皇の事跡が真実だとしたら、中国や韓国の史書や、好太王碑の内容、さらには、考古学的知見とひどく矛盾するようなことはないということが大切なのだ。

イ倭の五王以前の出来事の実年代については、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは四世紀初頭であり、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀の中頃にあたる。卑弥呼の宋女である壹與と同年代だろう。

ウそこから大和朝廷の統一過程を推定すれば、大和統一が240年、吉備や出雲を支配下に置いたのが260年、ヤマトタケルの活躍が310年前後、仲哀天皇の筑紫進出と列島統一と応神天皇の誕生が340年あたりだ。

エ卑弥呼が九州で活躍(二世後半の倭国大乱の後に邪馬台国の女王に共立)していたとすれば、同じ時期の大和では統一王権は成立しておらず、壹與の時代になって崇神天皇による大和統一と中国地方などへの進出が始まったということだ。

オ邪馬台国の位置は、私は九州中部とみるのが最も自然で、具体的には筑後、次いで宇佐などが有力だと思う。

カまた『記紀』には、畿内の大和朝廷が九州を征服したと書いているし、倭王武の上表文も同じだ。九州国家が畿内を征服したなどと言うのは、何の根拠もない奇説なのである。『日本国記』では、卑弥呼の死とか天の岩戸伝説が日食に触発されたものと言いつつ、そこから天照大神と卑弥呼が同一人物とかいう無理な推論をしていないのはいいことだ。

キ『日本国記』は、邪馬台国と対立していた狗奴国の誰かが東征したものではないかとしているが、それなら、卑弥呼より後の時代の人物ということになる。それが、大和を征服して大和朝廷を建国した後、逆コースで西に戻って、吉備や出雲に勢力を伸ばし、仲哀天皇のときに九州に再び登場して邪馬台国や狗奴国の故知にやってきたことになるのが不自然だ。

『日本国記』の論点に対する宮崎照雄氏の見解

 それでは最後に、以上のような『日本国記』とそれに対する八幡氏の批判ないし見解に対して、宮崎照雄氏説ではどうであるか見てみる。

 宮崎氏は、魚の病理学を専門とする学者である。もちろんフィールドワークを多くこなしてきた。そして、そこで得られた研究手法や理系科学知識を総動員して、「記紀神話の古史書だけでなく、考古遺物や華夏の史書をとり上げて総合的に論考し、今一度古代の神々の事績を正しく理解」しようと努めたと言う。

 氏は『記紀』の位置づけについて「記紀は一部改竄を含む。しかしながら、高名な文系の歴史学者が主張するような「歴史の捏造」があったとは、私は思わない。日本人は日本の歴史を正当に伝えているのである」と言う。

 その上で、「天鈿女以来、長い日本の歴史を誦と舞で伝承してきた猿女君が伝えてきた歴史の記憶」である『記紀』を、より正確に理解するためには、「客観性の保証が難しい」が、あえて、その時代を生きた「人の息吹が感じられる合理的なストーリー」の構築に努めた、と言う。以下、『日本国記』の論点に即して宮崎説を述べる。

1.邪馬台国の位置については、魏志倭人伝の里程のついての宮崎氏独自の見解から、北九州の福岡糸島付近にあったとされる「伊都国の南、徒歩一日(倭人伝の「一月」は「一日」の誤植とする)の距離に位置」していたとする。
2.卑弥呼は、180年頃の「倭国大乱」を収めるために共立された邪馬台国の女王である。弥生時代の農耕を左右したのは天候及び人口であり、「日の順行」と「長宜子孫」を祈ることが王としての勤めであった。「卑弥呼」は言うまでもなく中華による卑称であり、倭では「日の巫女」であったと考えられる。(「長宜子孫」は魏より贈られた卑弥呼の鏡の銘文で子孫繁栄という意味)
3.邪馬台国の卑弥呼は、卑弥呼が魏と同盟したことで始まった狗奴国との戦争で敗戦の責任を問われ殺されたと見る。丁度この時(247年3月24日日没前)「皆既日食」が起こった。それが、卑弥呼の「日の順行」「長宜子孫」を祈る霊力の衰えの示すものとされ、殺害に至ったと見る。
4.八幡氏も、百田氏が「卑弥呼=天照大神」説を否定したことに同意し、これを「奇説」とするが、宮崎氏は、天照大神は卑弥呼と登與の二人を神格化したものと見る。
5.「狗奴国が東征し大和王国(朝廷)を作った」という百田氏の見解は、宮崎氏と同じ。ただし、宮崎氏は、邪馬台国は滅ぼされたわけではなく、宇佐に遷都した後、「神武東征」前に、台与の子の𩜙速日らを東征させ、𩜙速日は土公の長髄彦と縁を結び大和に一定の勢力を得ていたとする。
6.「出雲の国譲り」は、台与(=天照)の時代の邪馬台国の事跡とする(訂正:素戔嗚の事跡としたのは私の間違い)。出雲に続いて、出雲の影響下にあった「葦原中つ国」も、𩜙速日と長髄彦の縁組みにより、畿内における国づくりが進んでいた。そこに神武が東征し、𩜙速日が長髄彦を見限り神武に帰順することで、神武の大和王権が成立した。
7.幼名を狭野命とする神武が、大和を征服し拠点を築くまでを神武天皇の事跡とし、それ以降大和朝廷の樹立までを崇神天皇の事跡とする(つまり神武=崇神)。八幡氏は「欠史八代」を否定し八代の天皇を置くので神武=崇神とせず、神武を1~2世紀の人物と見る。従って、3世紀半ばの卑弥呼とは無関係となり、卑弥呼を、神武の五世祖である天照大神とする見方を「奇説」として否定する。
8.神宮皇后の「三韓征伐」は、「広開土王碑」に記された通り。「当時の日本にとって朝鮮半島の一部が非常に重要な地位であった」(百田氏は「植民地」とするが、八幡氏は「植民地」ではなく「日本の領土」とすべきと言う。
9.宮崎氏は、日本古代史のダイナミズムを「狗奴国王統」と「邪馬台国王統」の争いと見ており、この場合は、万世一系の断絶を意味する「王朝交代」ではなく「狗奴国王統」の仲哀天皇が暗殺され「邪馬台国王統」である神宮皇后の子応神天皇が即位した「王統交代」と見る。神功皇后とその参謀竹内宿禰は、共に𩜙速日につながる「邪馬台国王統」であった。
10.前項に見た通り、仲哀天皇は百田氏がいうような「戦死」ではなく、「邪馬台国王統」の復活を望む竹内宿禰に殺されたと見る。八幡氏は「暗殺の可能性が強く感じられる」としている。
11.宮崎氏は、応神天皇は神功皇后と仲哀天皇の子ではなく、神功皇后と武内宿禰の子と見る。出産が遅れたように見せかけたのはそのため。八幡氏は「仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈に合わない」というが、「父子関係」にあるかのような偽装工作が行われたと見た方が妥当である。
12.宮崎氏は「讃」は応神天皇、「珍」は仁徳天皇、「済」は二人の天皇に充てられているようであり、履中天皇と允恭天皇とする。間の反正天皇は事跡がないので「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇とする。もちろん、百田氏のような「倭の五王」九州王朝説はとらない。また、百田氏のいう「記紀にもこれらの天皇が朝貢したという記述がない」については、記紀編纂を命じた天武天皇が、狗奴国の伝統的外交政策である「中国への朝貢」をよしとしなかったため、あえて省いたとしている。八幡氏は、倭の五王は、当然大和朝廷の王であるといい、「讃」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇、「済」を允恭天皇、「興」を安康天皇、「武」は雄略天皇に充てる。
13.八幡氏は「第十代崇神天皇にいたって、纏向遺跡などがあって大和で最も栄えた三輪地方を支配下に収めて大和を統一した。さらに、畿内全域、そして出雲や吉備当りまで支配下に置いたというのが日本書紀に書いてあること」であり、「大和王権」ではなく「大和朝廷」と呼ぶべきという。
  百田氏の見解は、3世紀から始まる古墳時代には倭国の首長は「王」や「大王」と呼称されていたことをもって、「この時代を「大和」「朝廷」と言う語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではない」(wiki「大和王権」)とする1970年代以降の見解を反映したものと思われる。宮崎氏は、先に述べたように、この時代を「王権交代」ではなく「王統交代」と見ており、天皇家による統治は継続しているから、その時代を「大和王権」と呼ぶか「大和朝廷」と呼ぶかには特にこだわりを見せていない。
14.仁徳天皇の事跡としては、河内平野の大規模農地開発のための土木工事、水害防止のための堤防の増築、田地開拓のための灌漑用水を引くなどが行われた。この時代の天皇陵の巨大さは、生産力の増大と共に、それを指揮する政権の巨大さ、強固さを物語るものであることはいうまでもない。
15.騎馬民族説とは、「日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満州の松花江流域にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立された」とする説で、天孫降臨説話や神武東征説話を朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表すとする。この説は、昭和23年(1948)に江上波夫が提唱した説で、敗戦直後の日本の自虐的な歴史解釈風潮を反映したものと言える。これは、騎馬に関する考古学的所見に基づくものとされるが、『記紀』の記述にはその痕跡はなく、現在は「奇説」として否定される。
16.継体天皇となる男大迹(おほどのおおきみ)は、応神天皇が13歳の時、武内宿禰に連れられて敦賀に巡幸した時に息長氏の媛のもとに残された落胤の若沼毛二俣王(わかぬけふたまたおう)の四代孫である。息長氏は中央に進出することなく地方豪族として琵琶湖水運と敦賀を拠点とする日本海貿易を支配して栄えた。それ故雄略天皇の粛清の嵐に巻き込まれることはなかったが、詳細な系図は中央には伝わっておらず、それ故に継体天皇の行為の正当性が後々まで疑われることになった。

八幡氏の説に対する私の疑問

 八幡氏は、『日本国記』の古代史に関する記述に疑問を呈し自説を開陳した後、古代天皇の実年代について先に紹介したような見解を述べている。八幡氏は、雄略天皇の「宋への朝貢478年」を起点に、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは四世紀初頭であり、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀の中頃にあたるとする。

 これに対して宮崎氏は、『記』が記す崇神天皇の没年は戊寅318年とし、治世は約20年で崇神朝の始まりを301年としている。また、神武が45歳で東征のため日向祖出発した申寅年を294年とすれば、神武は即位前「45歳で東征のため日向に向かって出発してから6年」と述懐しているので、辛酉年301年が橿原宮に即位した年とすることができるという。*この「神武=崇神」説については、私は疑問に思っている。

 八幡氏は、崇神天皇全盛期を3世紀中頃としているので、宮崎氏の説より60年(六十干支)遡ることになる。それ故に、「台与の時代になって崇神天皇による大和統一と中国地方などへの進出が始まった」とするのである。

 問題は、崇神天皇の前に欠史八代を置き、一代20年×8=160年遡らせて、神武天皇を1~2世紀の人物とするため、神武の五世祖である天照大神と卑弥呼を同一視する見方を奇説として排除していることである。そこで「『日本国記』が「天照大神と卑弥呼が同一人物とかいう無理な推論をしていないのはいいことだ」と褒める。

 また、八幡氏は、邪馬台国が「東征」あるいは「東遷」したとする説を、「記紀には、畿内の大和朝廷が九州を征服したと書いているし、倭王武の上表文も同じだ。九州国家が畿内を征服したなどと言うのは、何の根拠もない奇説なのである」と言う。

 また、「『日本国記』が、「邪馬台国と対立していた狗奴国の誰かが東征したものではないか」としているのに対し、「それなら、卑弥呼より後の時代の人物ということになる。それが、大和を征服して大和朝廷を建国した後、逆コースで西に戻って、吉備や出雲に勢力を伸ばし、仲哀天皇のときに九州に再び登場して邪馬台国や狗奴国の故知にやってきたことになるのが不自然だ」と言っている。

 これが八幡氏の、邪馬台国東征説否定、併せて狗奴国東征説否定の論拠になっているわけだが、邪馬台国が「葦原中つ国」に何度も東征・東遷を繰り返していることは『記紀』に明らかだし、宮崎氏が狗奴国末裔という景行天皇やヤマトタケル、さらには仲哀天皇が故知日向や北九州にやってきて熊襲を討ったことについても、これが大規模な征討でなかったことは、カワカミタケルの謀殺の話を見ても明らかである。

 なぜ隼人が、大和朝廷に反攻したかは、狗奴国の王族である瓊瓊杵尊一行が日向に天下りした後、海幸と山幸の後継争いがあり、長男である海幸が負けて南方に逃げ隼人と縁を結んだことで説明できる。東征した神武は、海幸との後継争いに勝利した山幸の子孫だったからである。

 それにしても、「神武は日向から何やら地元に居れなくなるようなことをしでかして少人数で出奔し、途中、安芸や備中で用心棒に雇われるなどして勢力を増やし、ついには大和を征服し「大和朝廷」を建てた」とする八幡氏の説は、いささか無理筋と言えないか。「天孫が『葦原中つ国』に天下りし全国を支配する」という「使命感」なしに、大和朝廷の樹立が可能であったとは思われない。

 また、神武の出自について八幡氏は何も言っていない。辺境に英雄的人物が生まれることがあり、神武にはそうしたカリスマ的資質が備わっていたとするだけである。これに対して宮崎氏は、神武の祖先は、中国の三国志の時代、邪馬台国が魏と同盟したことに抗して戦った狗奴国の王族であって、魏と対立する呉が有明海から狗奴国に侵攻することを怖れ、一族の後継を高千穂越えで日向に避難させたとしている。

 もちろん、北九州を中心に発展した倭の国々の人々が、日向や球磨・薩摩・大隅に広がり始めたのは、邪馬台国以前の「漢委奴国王」(「親魏倭王」は誤記2019.8.29)の時代からであろう。しかし、それが「葦原の中つ国」ではなく、日向への「天孫降臨」として語り継がれたのは、それが否定しようのない事実であり、それが辺境の地であるが故に、それを「天孫の天下り」として権威づける必要があったのではないだろうか。私が宮崎照雄説に賛同する所以である。

日本古代史研究のアポリアを紐解く理系学者宮崎照雄氏の視点(2019-04-06 15:38:11 掲載)

 はじめに
 日本人の頭を悩ませ続けてきた記紀神話の世界、とりわけ「日向神話」。その謎を、理系学者の視点で見事に解明し、日本古代史の全体像を蘇らせたのが、宮崎照雄氏の『日向神話の神々の聖跡巡礼』及び『狗奴国私考』(webβ版)である。
 驚くべきは、氏の語る「日向神話の主要舞台が延岡であり、ここを起点に、神話の舞台が日向一円さらには薩摩隼人の地へと展開したとしていることである。延岡は、西臼杵の高千穂が天孫降臨の聖地とされる一方、笠沙の岬、可愛の山稜他多くの史跡を持ちながら、日向神話街道ルートからも外されている。
 こうした迷妄を一擲し、中国との外交関係をめぐる邪馬台国と狗奴国のせめぎ合いを軸に、日向神話の史実性を一挙に高めたのが、宮崎照雄氏の研究の魅力といえる。それが従来の説とどう異なり、また、謎とされてきた数々の疑問点をどう解明しているかを、日本古代史研究の歴史を概観する中でその解説を試みたのが本稿である。

1『宮崎県史』の「日向神話」理解
  『宮崎県史』通史編古代2(p105~106)には、次のような「日向神話」の起源についての解説がなされている。
 「日向神話は高天原の神々の営みを受けて、以下に展開される天皇統治の時代を導き、両者を連続的に結ぶよう置かれている。日向神話の持つ二つの重要な意義としては」、第一、天皇権力基盤を打ち立てること。第二、隼人の服属の起源を説くことと考えられている。
 「日向神話」は、高天原が「葦原中国」に加えて海原を手中におさめると言う話の展開になっているが、そこで物語られた説話は「日向地方の伝承や信仰とは全く関係なく、神話の構成上の舞台として地名を借りたに過ぎないとする見解は妥当であると考えられる」(シンポジウム『日本の神話』(吉井・岡田・大林)の一節を引用したもの)。
 では、なぜ「日向神話」の舞台が日向の地でなければならなかったのか。その最大の理由は上述した意義の第二であり、ニニギの降臨の地が、政府の支配地と隼人の地の境界の峰(日向襲高千穂=霧島)とすることに意味があったとている。
 要するに、「日向神話」の舞台を日向の地としたのは、”まつろわぬ”隼人を服属させるために、大和朝廷が、天皇家の祖先は隼人の祖先と同じとする神話――天孫が日向高千穂(=霧島)に天下りした――を創作したといっているのである。(そんなバナナ!)

2宮崎県『史跡調査報告』の結論
 明治以後の近代史学では、「歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、他の史料を史料批判なしに使ってはならない」という原則が、広く受け入れられつつあった。
 ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた(wiki「津田左右吉」)。こうした時代背景の中で、『記紀」』神話をもとに、いわゆる「高千穂論争」が盛んに行われた。宮崎県「史跡調査報告」(大正13年)もその一つで、天孫瓊瓊杵尊の高千穂への天下りを所与として、その地が西臼杵か霧島かを論じた。
 『調査報告』の結論としては、「源平盛衰記」が書かれた当時、霧島には未だ高千穂の呼称はなく、西臼杵の高千穂のみで、その経路は、遺跡や遺物の発見とも相関連して、阿蘇→高千穂→吾田の長屋の笠狭崎(愛宕山)であること疑いなし、とした。

3津田左右吉の『記紀』神話理解
 こうした中で、明治以降の近代実証主義を日本古代史にも当てはめ、記紀の成立過程について合理的な説明を行ったのが津田左右吉である。
 津田は、記紀の神代は観念上の所産であり、歴史的事実を記したものではないとして、次のような主張を行った。
一、「神武東征」否定
  大和朝廷は大和で発生した。それを日向からの東征としたのは、神代観念)と歴史時  代をつなぐ「かけ橋」を必要としたからである。
二、「日向神話」否定
  なぜ、日向のような僻陬(へきすう)の地が皇室発祥の地となったか。それは政治的  統治者としての皇室の由来を「日の神」につなぎ神性を持たせるためである。
三、「現人神」否定
  高天原の神々の能力や行動は、神的であるより童話的であり、宗教的性質はない。死  もある。つまり人間である。(「神武天皇東遷の物語」及び「神代氏の性質およびそ  の精神」津田左右吉参照)

4戦後、幻と消えた「高千穂論争」
 こうした津田の主張は、s15年に関連著書の発禁、早稲田大学教授辞職に追い込まれただけでなく、「皇室の尊厳を冒涜した」として起訴され有罪判決を受けるに至った(s19年時効により免訴)。しかし、津田の所説は、第二次大戦後の懐疑的な風潮の中でよみがえり、わが国史学会で圧倒的な勢力を占めるようになった。ただし、津田自身は、マルクス主義の立場からの天皇制否定には批判的で、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」とする立場を堅持した。
 戦後は、天孫降臨を前提とした「高千穂論争」はほとんど行われなくなり、代わって「邪馬台国論争」が盛んに論じられるようになった。そこでは、津田左右吉流の文献批判が主流となり、「端的に言えば、神代や古代天皇の話は、いわば机上で作られた虚構であり、事実を記した歴史ではない、ただ、それを伝えた古代人の精神や思想をうかがうものとしては重要な意味を持つ」とされた。(安本美典『邪馬台国はその後どうなったか』(p17)

5安本美典氏の「記紀」神話解釈
 こうした戦後の歴史学会の論調に対して、安本美典氏は次のような所説を展開している。(以下「前掲書」)
 「戦前のわが国の歴史学のすべてが皇国史観によっておおわれていたわけではない。津田史学の盛行は、皇国史観を否定するとともに、津田史学と相いれない面を持つ、多くの理性的・科学的成果をも顧みない傾向をもたらした。私は、「天孫降臨伝承」や「高千穂伝承」は、かってこの地上で起きた史的事実を伝えている部分があると考える。
 私は、北九州の甘木市付近にあった邪馬台国の一部、または主要な勢力が、卑弥呼(天照大神)の死後、三世紀後半に、南九州へ移動した事実があったであろうと考える。これが「天孫降臨」という形で伝承化したと考える。南九州の邪馬台国勢力は、さらに東にうつり、大和朝廷をうちたてたと考える。それは三世紀末のこととみられる。すなわち私は、邪馬台国東遷の史実が「神武東遷」という形で伝えられたと考える。」

6大和朝廷の力の源泉はどこから?
 では、そうした日本古代史を推進した天皇家の力の源泉は何であったかというと、氏は、主に二つあったという。(「前掲書」要約)
 一つは、伝統からくる力である。中国の魏によって承認された、日本を代表する邪馬台国の後継勢力であり、宗教的・政治的な伝統を持つことからくる力。もう一つは、「魏志倭人伝」に倭人は「租賦を納む」とあるが、租税をとることによって国家ははじめて部族国家の域を脱する。兵士を雇い、最新式の武器を持ち、組織的訓練を受けた兵士に一般の人は勝てない。
 なお、日本書紀でさえ「膂宍の空国」(荒れてやせた不毛の地)と記されている南九州から、大和朝廷の起源となる勢力が勃興することがあるであろうかとする疑問については、「私は、歴史を考えるばあいに、「歴史の必然性」や「可能性」以外に「英雄性」なども考慮しなければならないと考えている。元の勃興がジンギス汗という個人の「英雄性」に負うところが大きい」のと同様である。(*辺境から英雄が出る!)

7邪馬台国が降臨した高千穂は何処
 安本氏は、こうした議論を経て、天孫降臨の高千穂の地が西臼杵であるか霧島であるかについて、次のように言う。(「前掲書」要約)
 私は、邪馬台国を伝承的に伝えた「高天原」は北九州の甘木市付近と考える。北九州と都城付近と大和の地名の類似は、天孫降臨や神武東征の伝承と関係するであろうと考える。
魏志倭人伝に「水行十日、陸行一月」とあるのは、邪馬台国の勢力が北九州から南九州に移ったという伝承(「天孫降臨」)が混乱し、(それが)邪馬台国までとなったのではないか。
 いずれにしても、瓊瓊杵尊らが北九州から南九州に至ったことは確かであり、経路としては、私は、西臼杵の高千穂を通り、霧島の高千穂に至ったとする本居宣長の折衷説を支持する。ただし、神代三山稜の比定地から見ても、日向三代の都(高千穂の宮=宮崎神宮)の伝承地から見ても、高千穂の峰は霧島山とする説の方が、西臼杵説より有利と考える。

8安本美典氏の説に対する私の疑問
 こうした安本氏の議論の中で、特に問題となるのは、高千穂論争の考察において、延岡方面には、可愛(え)の山稜があるだけで、「瓊瓊杵尊が至ったとされる笠沙に当たる地は求めにくい」としている点である。(「前掲書」p244)
延岡には、このほか、祝子川とホオリ、五ヶ瀬川とイツセという名称の一致や、西階地区が古来高天原と言われていたこと。吉野や三輪など大和と一致する地名が残されていること。さらには、近隣の門川や日向に、伊勢地方の地名と一致する五十鈴川や伊勢が浜があることなどの事実が無視されている。
また、論理的な問題としては、「魏によって承認された伝統的な力を持ち、租税をとる脱部族国家」であるはずの邪馬台国が、なにゆえに、生産性の低い九州南部に降臨しなければならなかったか、についての説明が不十分であように思われる(辺境から英雄が出るはよしとしても)。いずれにしても、こうした論理的な疑問は、津田左右吉が提出したものでもあり、安本説はこうした疑問に十分答えているとは言えない。

9石川恒太郎『延岡市史』の日向神話
 ここで、昭和25年に、個人で『延岡市史』を書きあげた石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 - 1990年10月30日)の、日向神話についての所説を見ておきたい。氏の経歴は次の通り。
 「宮崎県日向市生まれ。宮崎県立延岡中学校、専修大学卒業。「日州新聞」「大阪毎日新聞」などの記者を経て1940年、宮崎県立上代日向研究所特別委員となる。戦後は宮崎県文化財専門委員として考古学や地方史研究に携わる。歴史研究のかたわらラジオ番組で郷土史の講義を行う。1960年宮崎県文化賞を受賞」(wiki「石川恒太郎」)
 この『延岡市史』は、昭和14年に延岡市の紀元二千六百年記念事業として計画され、石川氏がその編纂を委嘱され、昭和19年に原稿が出来上がったが、戦災で焼失。戦後は、市や市議会の制度が変わったため、石川氏の個人出版として出版を続け、昭和25年までに三巻を出版したものである。

(1)日向神話の史実性は考古学が決する
 この『延岡市史』では、日向神話は、第二章(付録一)「高千穂の伝説について」として、約20ページが充てられている。
 ここで石川氏は、戦後の風潮も反映したのだろうが、「伝承上の「筑紫の日向」は必ずしも現実の日向国とは限らない。それはあくまで説話上の日向であったと思う」と言いつつ、「ただ然し、日本民族の古い伝承が、全然事実を伝えるものではなく、空想的なものであると断言することもできないであろう。何故ならば、『古事記』や『日本書紀』が大和朝廷の淵源を説明するために編纂されたのに、尚ほその朝廷の初源地を大和国と言わずして、日向国と書いていることは、日本民族の古い伝承の上では、日向国として伝えられていたためであると考えられる。」「従って、この皇祖の日向降臨の伝説が事実を伝えるものであるか否かは、今後に於ける考古学の研究の進歩によって、決する以外に方法はないのである」(「上掲書」p312)と但し書きしている。

(2)石川恒太郎の『邪馬台国と日向』
 石川氏には、この他に、昭和47年発行の『邪馬台国と日向』という著書がある。石川氏はここで、「古代日本の国家形成との関係においては、邪馬台国と対立していた狗奴国の研究が最も重要である」として、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、狗奴国と、日向の位置関係を確定することの重要性を説いている。
 氏は、冒頭「今から152年前の文政元年に、現在の宮崎県串間市今町で、中国の前漢の時代のものと思われる「穀璧」(こくへき)が発掘されたこと、同じ穀璧が福岡県の怡土郡(奴国)でも出たことを述べ、これは串間市に「漢と交わりを結んでいた国があったことを証明するもの」としている。その上で、魏志倭人伝の帯方郡から倭国への道程について、榎和夫氏の説を採り、邪馬台国を筑紫国の山門郡にとり、他の国は九州の県郡を充てるべきとしている。この中に「奴国」が二つあるが、後の「奴国」を日向の那珂郡に比定し、その南に、邪馬台国と対立した狗奴国=隼人があったとしている。

(3)狗奴国が東遷し大和朝廷を建てた
 その説を要約すると、その奴国の南にあった狗奴国の領域=宮崎郡は、日向のほぼ南半分の海岸を占める地域で、海洋による生活によって、大隅や薩摩をむすぶ男王卑弥弓呼を中心とする大連合をつくり、邪馬台国の卑弥呼と対立していた。
 瓊瓊杵尊の妃木花開耶姫は、神吾田(阿多)津姫であり、神武天皇は「阿多之小橋君」の妹「阿比(姶)良津姫」を娶っていることから、大和朝廷を開いた皇室の御祖先である氏族と隼人とは兄弟関係にあったと知れる。
 卑弥呼は魏に朝貢(239年)、243年にふたたび朝貢、魏王は使者の難升米に黄幢(こうどう=軍旗)を授けた。これは、女王国が、かねて仲の良くなかった男王の狗奴国と戦争始めたことを意味する。戦争中の248年に卑弥呼は死んだ。
 女王国では、卑弥呼に代わって男王を立てたが大乱となり、卑弥呼の長女壱与という13歳の少女を立ててようやく国が収まった。魏は265年に倒れ西晋の時代となった。翌266年、倭人が朝貢しているがこの倭人は女王国とは記されていない。
 これは倭国に異変が起こったということで、女王国は狗奴国に滅ぼされたのであろう。戦争の原因は、その当時は、弥生時代の後期で水田耕作が盛んになった時代であるから、邪馬台国の穀倉地帯をめぐる戦いであったと推測される。
 狗奴国すなわち隼人は、女王壱与の邪馬台国を滅ぼし、第二邪馬台国と称し、都を肥後の菊池郡に移したが、熊襲に叛かれて短時日にして滅んだ。その後、その後裔が日向に入り、3世紀末に東遷し大和朝廷を立てた。

10戦いに敗れた狗奴国の東遷は無理
 これが、石川恒太郎氏の狗奴国東遷説だが、あえてここで氏の説を紹介したのは、これが、先に提出した「なにゆえに、邪馬台国が、生産性の低い九州南部に移住したか」という疑問に答えており、これから紹介する宮崎照雄氏の「狗奴国が大和朝廷をたてた」とする説に似ているからである。
 ただ、石川氏の説で問題となるのは、邪馬台国=熊襲、狗奴国=隼人としていること。狗奴国が邪馬台国を滅ぼして菊池郡に移り第二邪馬台国と称したが、熊襲に叛かれて短命に終わり、その後日向に移った後、一転して、後裔が大和に東遷し大和朝廷を建てた、とする筋立てに無理があることである。
 この無理は、「女王国と狗奴国が不仲だった」「魏の滅亡と同時に女王国が消えた」「大和朝廷を開いた皇室の御祖先である氏族と隼人とは兄弟関係にあった」とする認識と、天照大神の孫である瓊瓊杵尊一行が西臼杵の高千穂に天下りし、その後東征したとする伝承との整合性をはかるため生じたものだろう。

11天孫降臨の史実性の鍵は日向神話
 ここで、『記紀』神話で史実性が問われている「天岩戸隠れ」「天孫降臨」「神武東征」について、今までに交わされてきた議論を整理しておく。
一、天岩戸隠れ
 天照大神を卑弥呼とすれば、魏志倭人伝の倭国に関する記述と大筋で一致する。247年と248年の日食と関連付けることができればなおさらである。
二、天孫降臨
 なぜ、天孫は日向のような僻陬(へきすう)の地に降臨したか、については、先に紹介した『宮崎県史』や石川氏の解釈には無理があると思う。また、安本氏の「英雄説」もいまいち。
三、神武東征
 今日、邪馬台国が九州にあったとする説が有力であり、出発地が日向であるかどうかを別にすれば、九州勢力が大和に東遷した可能性が高い。従って、一の天照大神=卑弥呼とすれば三の可能性も高いわけで、従って、もし、二の史実性を説得的に説明できるなら、三の出発地の問題も解決でき、『記紀』神話の「史実性」が一挙に高まるわけである。

12日向神話の史実性を毀損する疑問
 つまり、日向神話が『記紀』神話の史実性を疑わせる根本原因となっているわけである。それは、①なぜ、天孫が僻陬の地日向に天下ったか?に始まり、②三種の神器をもって天下りしたのに、その後、このことが全く言及されていないこと。③日向まで猿田彦が瓊瓊杵尊一行を先導したり、吾田(延岡)で大山津見神や事勝国勝長狭が瓊瓊杵尊を迎えているのはなぜか?④高千穂が二か所あるのはなぜか?⑤海神宮は何処にあったか?海新宮訪問の目的はなにか?⑥ 海幸彦はどうして隼人の祖となったか?⑦東征した勢力はどれ程?⑧なぜ、直接瀬戸内海に入らず福岡の岡田に立ち寄ったか?等々、疑問が尽きないのである。

13宮崎照雄氏の大胆な記紀神話解釈
 こうした疑問の数々を、独創的な視点で包括的に解いたのが、理系学者である宮崎照雄氏である。以下、その大胆な仮説の概要を紹介する。
 氏は、魚の病理学を専門とする学者である。もちろんフィールドワークを多くこなしてきた。そして、そこで得られた研究手法や理科学知見を総動員して、「記紀神話の古史書だけでなく、考古遺物や華夏の史書をとり上げて総合的に論考し、今一度古代の神々の事績を正しく理解」しようと努めた。
 氏の最初の著作は『三角縁神獣鏡が映す大和王権』であるが、氏は、倭人の権力者が欲した「鏡」の研究を通して、鏡の原点ともいえる天照大神を作り出し伝承したのはだれか?なぜ天照大神(鏡)は、崇神天皇により改鋳されねばならなかったか?なぜ天照大神(鏡)は宮中から出され、伊勢神宮に祭られねばならなかったのか?だれが三角縁神獣鏡を作ったか?なぜ三角縁神獣鏡は古墳に埋納されたか、等々の疑問をどう解くか悩んだ。

(1)「人の情念」を主体に歴史を考察
 そして、これらの疑問を解くためには、客観性の保証が難しいが、あえて、その時代を生きた「人々の情念」を主体において歴史を考察する必要があると考えた。そこで見えてきたのが、先学と全く異なる新たな歴史観だった。その概要は次の通り。(『日本国の神々の聖跡巡礼』『狗奴国私考』「神武は鯨を見たか」等参照)
 一、邪馬台国(連合)は九州北部にあり、邪馬台国の卑弥呼は、魏の明帝から下賜された「長宜子孫」連弧文鏡を「卑弥呼の鏡」として祭っていた。
 二、卑弥呼は248年の日食の日に、狗奴国との戦争の敗北の責任を責められ、邪馬台国の人々の手で殺害された。その卑弥呼の跡を襲ったのが壹與( 「臺與=登与」)で、壹與の時代に邪馬台国(連合)の豪族たちは東遷して近畿、中国、山陰地方に移住し、そこを領有して開発した。
 三、邪馬台国(連合)と交戦後、いったん南九州に移住した狗奴国後継が、その地で武力を蓄え、崇神=神武の時代に「うまし土地」を求めて東征し、先住の邪馬台国後継氏族を降して、その開発した三輪の地を占領した。
 四、東征において、崇神=神邪馬台国後継が持っていた王統の象徴の「卑弥呼の鏡」を譲り受け(簒奪?)し、大和王権を創造した。
 五、その後、邪馬台国後継は百済など漢半島からの帰化人の助力を受けて勢力を盛り返し、応神天皇を即位させて、邪馬台国王統を再興した。

 このように「時空を超えた邪馬台国(連合)と狗奴国の対立関係を軸に歴史を見ると、古代の歴史的事象が矛盾なく理解できることが分かった」(『三角縁神獣鏡が映す大和王権』)というのである。そこで捉えられた、日本古代史の全体像は以下の通り
 伊弉諾尊とは、紀元57年に後漢王朝に朝貢し金印を得た委奴(伊那)国王を神格化した神で、その子孫が瓊瓊杵尊の天下りの前に日向の国の吾田邑にいた。その後、伊那国の倭国王叙任に反発した伊都国の首長との間で権力闘争が起こり、奴国と伊都国に分裂、戦いに敗れた伊那国王は、金印を志賀島に秘匿して遠所(日向?)に逃れ済んだ。

(2)狗奴国と伊都国の戦いと卑弥呼共立
 この分裂を記紀神話に当てはめて考えると、伊弉諾の禊から生まれた天照大神は伊都国を象徴し、月夜見尊は伊都国の後塵を拝する奴国に見える。その後、奴国の王となった伊都国は、107年に後漢に朝貢して叙任を求めた。この時160人の生口(技術者)を献上したことに奴国の民は激怒し、多くの不満分子が熊本県の菊池川流域に移住し狗奴国を起こした。その後国力をつけた狗奴国は倭国の覇権をかけて伊都国と戦った。これが倭国大乱で、この乱を終わらせるため、卑弥呼が邪馬台国の女王として共立された。
 この情景を記紀神話は、天照大神(卑弥呼)と素戔嗚尊(卑弥弓呼)の誓約と素戔嗚尊の乱暴狼藉として著している。時は魏蜀呉三国鼎立時代。呉の孫権は230年徴兵のため夷州(台湾?)の住民数千人、山越(ベトナム?)から6万人を拉致、倭が呉の属領にされれば、何万人の倭人が軍役に駆り出される恐れがあった。狗奴国の卑弥弓呼は卑弥呼が魏の柵封体制に入ったことに反発したのである。

(3)卑弥呼の死と狗奴国の日向移住
 卑弥呼は239年再び魏に朝貢し、「親魏倭王」の金印を得、魏と同盟関係に入った。このことに反発した狗奴国は、卑弥呼の邪馬台国と248年頃まで、倭国の覇権をかけて戦争を続けた。この戦争で、邪馬台国と狗奴国はともに人的に消耗し、狗奴国の卑弥弓呼は有明海からの呉の侵攻を恐れ、一族を高千穂を経て日向国に移住させた。
 この時、稲穂を持って高千穂に入った卑弥弓呼の子狗古智彦一行の様子が、瓊瓊杵尊の天下りとして記紀に物語られた。これが何時かというと、『日向風土記』逸文に「天暗冥く、夜昼別かず・・・天開晴り、日月照り光きき」と、日食を思わせる文があり、これは248年9月5日朝の日食と思われる。一方、248年には、邪馬台国の卑弥呼が死に(殺された?)、宗女の台与が新女王に推戴された。これが天照大神の岩戸隠れと天照大神の再臨の物語となった。

(4)瓊瓊杵尊は天照大神の孫ではない
 ここで問題となるのが、瓊瓊杵尊は天照大神の孫ということになっているが、天照の宗女台与はこの時13才であり「結婚をして子をなし、その子が青年になっていたとはあり得ない。それ故、瓊瓊杵尊は天照大神の孫(天孫)ではありえない。」
 また、天孫降臨した一族が後に東征し大和王権を立てたが、『後漢書』倭伝(范曄432年上梓)に「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る、皆倭種といえども女王に属さず」とある。魏志倭人伝では狗奴国の位置は邪馬台国の南となっていたのに、この時は「東、海を渡ること千余里」となっているのは、狗奴国が河内・大和国に東遷したと読み取れるのではないか。
 瓊瓊杵尊一行を先導したのは猿田彦(始原奴国の一族)で、阿蘇→高千穂を経て五ヶ瀬川を下り吾田邑の天下に至った。問題は、天孫が葦原中国、つまり日本全土を統べるべく天下りしたはずなのに、瓊瓊杵尊が天下りした地は筑紫の日向国だった。ではなぜこの矛盾が放置されたか。天武天皇が狗奴国系だったからではないか。

(5)吾田邑には伊那国の一族が先に
 ところで、「大国主が国譲りした葦原の中国、すなわち河内・大和に天下りした天照大神(卑弥呼)の孫は実在した。」それが饒速日尊(天日明命)で、臺(台)与の子だが、『記紀』ではこの天下り説話は葬られた。狗奴国系の天武天皇には不都合だったからである。
 高千穂に天下りした瓊瓊杵尊は吾田長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に至った。この地の国主、事勝国勝長狭(遠所に逃れた伊那国の一族)が「ここは住む人の少ない土地(空国)である。「請はくは任意に遊せ」といった。
 瓊瓊杵尊は、ここに高千穂の宮を建て、大山祇神の子で美人の木花咲耶姫と出逢って結婚し、ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)を生んだ。大山祇神とは、五ヶ瀬川支流の山間部で金や銀を採取する山の民で、移住してきた伊那国一族と縁を結んでいたと考えられる。
 このように、伊那国または狗奴国の移住者が次第に南の方に居住域を拡大したことで、宮崎の伊弉諾から神武に至る様々な伝承が生まれることになったと考えられる。

(6)海幸彦の出自は隼人族ではない
 瓊瓊杵尊が天下りに随伴した天鈿女命は猿女君となり、猿田彦に請われて「伊勢の狭長田の五十鈴川の上」に同行した。「上」とは南であり、五十鈴川は門川、その南に日向市の伊勢ケ浜、その間の「あまり広くない湿地帯」が狭長田であった。
 ここで猿女君とは、巫女ではなく、文字がない時代に「誦と舞」で、それぞれの国の歴史を伝承する職能集団だった。そして、「誦」によって伝えられた伝承を『記紀』に集大成した人物こそ天鈿女を祖とする猿女君の稗田阿礼だった。
 木花咲耶姫の子ホデリ(海幸彦)について『記紀』は、「是隼人の始祖なり」としている。これを根拠に、木花咲耶姫を隼人族の女神とし、神武天皇を高祖とする皇族を隼人族の血統とする通説が生まれ、さらに拡大されて、瓊瓊杵尊の天下り先が霧島連山の高千穂峯とする通説が生まれた。これは山幸彦との後継者争いに負けた海幸彦が、宮崎の南方に逃れ、隼人族と結婚し魁師となったことから生まれたものである。

(7)山幸が訪問した海神宮は福岡の奴国
 海幸彦と山幸彦の後継者争いで問題となるのが、山幸彦の海神之宮訪問だが、塩土老翁(=事勝国勝長狭)は弓矢と人柄で山幸を後継者に選び、自分の出身地である「橘の小戸」(福岡市那珂川流域にあった奴国の領域)の海神之宮に行くことを勧めた。
 山幸彦は奴国の海人安曇氏の王の館に遊学し、海人の知識(田の作り方、天候の見分け方、津波の知識など)を学ぶとともに諸々の情報を入手した。饒速日の大和国への東遷の情報もそこでつかみ、それが後に磐余彦尊の東征の契機になったと思われる。
 海神宮で三年過ごした山幸彦は帰国し、兄の海幸との後継争いに勝利する。そこに臨月の豊玉姫が妹の玉依姫に付き添われてやってくるが、豊玉姫は生まれた我が子を残して海神宮に帰ってしまった。そこで、妹の玉依姫が生まれた鵜葺草葺不合を養育した。
 ところで、この鵜葺草葺不合は事績を全く持たない。その子供とされる磐余彦は山幸彦の本名彦火火出見を持つので、鵜葺草葺不合は長じて五瀬となったと見た方が合理的である。

(8)天武天皇が小橋君を優遇したわけ
 また、『紀』は海幸彦を「吾田君小橋等之本祖」としている。『記』では「阿多」となっているが吾田が正しい。つまり、海幸彦は吾田村で吾平出身の女(小橋君)と結婚し、磐余彦はその妹吾平津姫と結婚した。小橋氏は神武東征後、海幸彦のいる南那珂郡に移ったと見ることができる。日南には吾田村があり、吾田神社もあり、この神社の位置は小橋とされている。日南の油津に吾平津神社があるのもそのためであろう。
 磐余彦は小橋君の妹吾平津姫と結婚し、手研耳命と岐須美美命を生んだが、手研耳は、神武東征後の神武の後妻(事代主の娘媛蹈鞴五十鈴媛)の子神八井耳命と神渟名川耳との皇位争いで殺され、岐須美美が小橋氏の裔となったことから、磐余彦(神武)の流れをくむ天武天皇が隼人族の魁師を優遇したものと思われる。
 45歳になった磐余彦は吾田邑の高千穂宮で、五瀬命らと、日向は西の辺境なので、葦原中国を治めるためには、塩土老翁から聞いた「東の美き地」に行って都を作ろうと提案し賛同を得た。

(9)神武東征と残留組の宮崎方面進出
 中国(中つ国)を目指して東征に出るには船軍が必要である。そこで造船所を築き木材を得るに適した美々津(奴国出身や地元の海人がいた)を選んだ。『記紀』にはその場所を記さないが、地元では神立山から楠材を切り出し匠河原で造船したと伝わる。
 「磐余彦尊の東征の船軍には、吾田邑、伊勢ケ浜や美々津の海人が多数参加した。日向の地に残留した狗奴国や奴国の民は、さらに南の沖積平野部に進出して大いに人口を増やして栄えた。一ツ瀬川から大淀川流域には、奴国ゆかりの地名が移植され、それにちなむ住吉神社、江田神社、小戸神社が建てられた。
 西都原古墳には男狭穂塚と女狭穂塚があり、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫と伝わるが、これらは狗奴国系の崇神、景行天皇陵と類似する前方後円墳(5世紀)であり、景行天皇、応神、仁徳天皇などの妃となった御刀姫、髪長姫、その父牛諸井らの墓と見た方がよいのではないか。

(10)磐余彦はなぜ筑紫岡田宮に寄港した
 磐余彦の船軍は、美々津の民を乗せ美々津を出港した。船軍は細島(鉾島)に立ち寄り、イワレヒコが鯨退治を行ったと伝わる。その後、五ヶ瀬川河口の吾田津に入り、磐余彦の母の玉依姫を乗船させた。また、東征に用いる鉄製武器も船に積み込んだ。磐余彦の兄の御毛沼命は参軍せず、高千穂に残ったのではないか。(鬼八退治の伝説)
 磐余彦の船軍は、吾田津を出港した後、宇佐に寄港し、なぜか関門海峡を通って古遠賀潟に入り筑紫国の岡田宮で1年滞在している。この旅程の目的を『記紀』は記さないが、五瀬が母の豊玉姫に別れを告げ、磐余彦は母玉依姫を奴国に送り届けるためと、奴国の技術者を用いて多くの軍船を建造するとともに、日向の吾田村からの軍衆の到着を待つためだったと考える。大和で戦った久米兵士は黥利目(入れ墨目)をしており、奴国の安曇目をした安曇氏の一族であったとしたい。
 東征軍はそこから、安岐国の多祁理宮に立ち寄り(『紀』では1月) 、吉備国の高島宮で船の修理と兵糧を獲得し(『紀』では3年)、難波の岬を通って河内国の草香邑の白肩津に着いた。そこから、奈良盆地侵入を試みた。

(11)奈良侵入ルートは『記』が正しい
 最初は信貴山南麓の竜田越えを試みたが道が険しくて断念、次に胆駒山の北を超えて侵攻しようとするが地元の豪族長髄彦に阻まれ敗退した。この戦いで五瀬命は矢傷を負い、紀伊国の男之水門で亡くなり、紀ノ川の河口竈山に遺体を葬った。
 東征軍は熊野(『紀』では、この熊野を三重県の熊野とし上陸し紀伊山脈(1500~1900m)を越えて宇陀に入ったとするが無理)に至った後、八咫烏(カラスではない)の案内で紀ノ川から吉野川に沿って進軍した。途中、多くの荒ぶる神を避け、また、地元の豪族を味方につけつつ、吉野を経て奈良盆地の東の宇陀(後に吾田邑の海人が入植してつけた名?)に至った。吉野川の流域には吾田邑の入植の跡が色濃く残っている。(熊野はイヤと読み紀伊半島西北部を指した)
 この奈良盆地で、長髄彦と最後の決戦をし長髄彦を討って兄五瀬の敵をとった。その後、磯城の豪族兄師木と弟師木を討った。その後、磐余彦より早く大和に天下った饒速日命が磐余彦に天璽(あまつしるし)を献上して帰順し、磐余彦が橿原の地に大和王権を築き初代神武天皇となった。

14見たことも聞いたこともない日本古代史
 以上、瓊瓊杵尊が日向に降臨するに至った前段の事情の解明から、東征し大和に王権を打ち立てるまでの、宮崎照雄氏の独創的見解を見てきた。まさに、氏自身の言う通り「これまで見たことも聞いたこともない日本の古代史に遭遇した」という思いに打たれたのは私だけであろうか。
 この論文について氏は、「先行論文は読むが引用せず、オリジナルの史料のみを参照し、日本古代史の謎を解く、全体的な「合理的ストーリー」を展開した」と言っている。冒頭紹介した通り、戦後の日本古代史研究におけるアカデミズムは、日本神話の史実性を全く認めていない。そんな中で、宮崎氏は、それは「日本に文字がない時代に猿女の君によって誦習され伝えられた歴史の記録」であるとして、そこから「人の情念で作られる」史実を解き明かそうとしたという。
 氏の論文「神武は鯨を見たか」は、平成27年度「邪馬台国全国大会in福岡」の論文募集において最優秀賞を獲得しているが、アカデミズムは今なお無視しているかに見える。

15宮崎氏の卑弥呼の鏡についての疑問に対する宮崎氏の答え(1)
 なお、NO13で紹介した、宮崎氏の卑弥呼の鏡ついての疑問に対する、氏自身の答を見ておく。(『三角縁神獣鏡が映す大和政権』)
一、鏡の原点ともいえる天照大神を作り出し伝承したのはだれか?
 卑弥呼を殺した邪馬台国後継が卑弥呼を日の神とする天照神話を創った。神武が邪馬台国王統の饒速日を倒し卑弥呼の鏡(天照神話)を簒奪し大和政権の守り神とした。邪馬台国末裔を慰撫する必要もあった。これを正当化するため、瓊瓊杵尊の天下りの際に天照大神が鏡・玉・剣の神器を授けたとする神話を創作した。
二、なぜ天照大神の鏡は、崇神天皇により改鋳されねばならなかったか?
 最初は卑弥呼の鏡である長宜子孫銘のある内行花文神獣鏡を模した大型の「八葉紐座内行花文鏡」(=八咫鏡)が宮中に置かれたが、崇神=神武の時、疫病がはやるなど、鏡の祟りを恐れるようになった。そのため本物は他に移し、宮中には改鋳した鏡を置いた。
三、なぜ天照大神(八咫鏡)は宮中から出され、伊勢神宮に祭られねばならなかったのか?
 鏡は宮中から笠縫邑の神籠に移され、その後、宇陀、近江、美濃をめぐり最終的に紀伊半島東端の伊勢神宮に移された。この鏡の移動は大和政権が「長宜子孫」を断念させられた鏡の怨念を恐れていた証左。(式年遷宮?)
四、だれが三角縁神獣鏡を作ったか?
 大和政権は饒速日氏族が行ってきた出雲との妥協の産物である銅鐸の製造と祭祀をやめさせた替わりに、三角縁神獣鏡を作らせた。
五、なぜ三角縁神獣鏡は古墳に埋納されたか?
 物部氏は饒速日を遠祖とし、宮中の鎮魂祭や大嘗祭にかかわった。三角縁神獣鏡を葬具として陵墓に埋納し死者を供養するアイデアも彼らのものと推測される。

おわりに──“日本人とはなにか” 
 実を言うと、私も、宮崎説に出会う前は、日向神話について、津田左右吉や吉田敦彦氏が言うように、宗教的というよりむしろ童話的な、今日と変わらない家族の愛憎劇をみるだけで、そこに歴史性というものはあまり感じなかった。
 宮崎氏のおかげで、2世紀から5世紀にかけての日本が、近年の「集団的自衛権」をめぐる政争と同様、中国との同盟関係をめぐり激しく対立していたこと。それが日向という僻陬の地への天孫降臨、あるいは邪馬台国の東遷、そして、統一王朝の樹立へと進んでいったことが理解できた。
 私は、山本七平の教えを受け、昭和史の研究を通して“日本人とはなにか”を考えてきた。宮崎氏の若いころからの興味も“日本人とは?”だったそうで、それが日本古代史研究に発展したとのことである。
 氏の著書を読むと、随所に、「日本人のオリジナリティー」を問う言葉が出てくる。その古代史研究の舞台が延岡というのも、私にとっては、日本古代史を理解する上でまさに僥倖だった。氏の独創的研究によって、日本古代史学会の迷妄が啓かれる日が来ることを願ってやまない。 おわり (延岡史談会第四回講演2018.11.4)

籠池長男の「反省告白」で決着した森友問題は日本人に何を教えているか?(2018-08-09 09:57:10掲載)

 『月刊HANADA』9月号に「籠池長男が反省告白 両親は安倍総理夫妻に謝れ!」という記事が載ったので、読んでみた。*印斜体字は筆者のコメント2018/8/12校正

 私は、本ブログ2017年4月 2日 (日)に「瑞穂の国を『恩の国』から『怨の国』に変える左右翼連合の脅威」という一文を書いている。1年4ヶ月以上前の記事だが、これは、日本人の人間関係は恩の貸借関係が基本で、その行為規範が「受恩の義務を拒否しない」「施恩の権利を主張しない」であるため、その評価をめぐって法的な権利義務関係と混淆し、政治的混乱を招きやすいことを指摘したものである。

 森友問題では、籠池氏の昭恵夫人や安倍総理に対する「恩を仇で返すような行為」が批判される一方、安倍総理が籠池氏を「しつこい」と言ったことが保身のための切り捨てと批判された。また、官僚の安倍総理への「忖度」が問題となった。これは、安倍一強態勢が無言の「施恩の権利の主張」となっていることを批判したもののようであるが。

 こうした批判を、一部マスコミや野党が執拗に繰り返し、籠池氏を被害者の如く扱ったのは、あくまでそれが政治プロパガンダとして有効だったからで、籠池氏はその操り人形として利用されたのである。また、そうしたプロットを仕組んだのが菅野完氏であったことは自明で、それが功を奏したのは、日本人に上記のような「恩の哲学」があるからである。

当時のブログで私は次のように書いた。

 「私は、この問題が起こった時、籠池氏はなぜ正々堂々と正面突破を計らなかったか疑問に思ったが、「しばき隊」に属していたこともある極左の菅野氏と連携する姿を見て、刑事訴追されかねない何らかの不正を自覚していたのだろうと思った。それが3月10日の補助金申請取り下げになったのだろう。

 おそらく菅野氏はそうした追い詰められた籠池氏を見て、次のような「策略」を計ったのだろう。

 国有地払い下げには、必ず安倍首相以下維新の不正な働きかけがある。従って、この不正を突けば、彼らは必ず逃げ出し籠池氏を見捨てる。籠池氏は保身に走る政治家を見て失望、怒りの矛先を彼らに向ける。彼らは戸惑い籠池氏を批判する。その結果、籠池氏は自己防衛上、彼らこそがこの国をダメにしている元凶だとの心的転回に至る。

 こうして籠池氏は、一転して安倍首相や松井知事を攻撃するようになり、「私こそ、信念なき自己保身の政治家らにおだてられ、木に登らされたあげく、はしごを外されたかわいそうな民間人」とのイメージを打ち出す。それをマスコミが宣伝することで、籠池氏に対する世論の同情が高まる。その結果、その後の籠池氏をめぐる状況は籠池氏に有利に展開する」であろう。

 このことについて、2018年9月号の『月刊Hanada』に、「籠池長男が反省告白 両親は安倍総理夫妻に謝れ」と題する次のような対談記事が掲載された。

 籠池:「2017年3月10日に森友学園記者会見の質疑応答で菅野完氏と籠池泰典理事長のやりとりがあった翌日、菅野氏から籠池佳茂に電話があった。「私に会いたい」と、「なぜ会う必要があるか」というと、「右も左も騒動を利用する奴がいる」と言う。その内容が当時の自分の心情に合っていたため、会うことになりました。

 *週刊新潮の菅野氏の話では「なぜか、長男の佳茂さんはニコニコしながら“後で時間取るから”と言うてくれはって。だから、佳茂さんにライン送って、翌日、会うことになった」と言っている。話の流れからすると佳茂の話が本当であろう。

 私は、「菅野氏が幼稚園の教育内容を批判していた急先鋒であることを知らなかった。とにかく当時は、一生懸命やってきた父や母が、一方的にたたかれていて全くいいところがない状態。私自身も両親も、家の前を取り囲んでいるメディアスクラムから逃れたい一心でした。菅野氏はそんな私の意見に同調し、学園の方針を批判するようなことは言っていなかったと思います。」

 ここで、佳茂氏がなぜ菅野氏を両親に会わせたかが判りるであろう。菅野氏は、この前に、攻撃の矛先を「幼稚園の教育内容批判」から、それを主導した大阪府を初めとする政府機関の攻撃に転換しており、そのため佳茂氏には「学園の方針を批判するようなことは言わず」、両親に近づき味方に取り込む作戦を採った。

 翌日も会った。菅野氏は、”ご両親は悪くない。悪いのは大阪府であり財務省だ。自分は役人を刺したい”と話していた。「それなら父に会って話を聞いてくれ」といって自宅へ連れて行ったのです。3月12日籠池の自宅前はメディアに囲まれていた。そこに佳茂氏に連れられ菅野氏が入ってきた。その際は押し問答になり、前理事長は「あんたやりすぎや。恨んでるで」諄子氏は「あんたに苦しめられて」と言っていた。

 しかし、そこから3時間以上の話し合いの中で、菅野氏は籠池夫妻に「理事長に後ろ足で砂をかけた奴が何人もいる。誰かを刺したくはないか」 としきりに持ちかけた。安倍総理批判をさせようとしていた場面もありましたが、それは前理事長が頑なに断った。

*菅野氏は、大阪府攻撃からさらに安倍総理攻撃へと両親を向かわせようとしたが失敗。

 しかし、諄子氏はもともと知り合いだったにもかかわらず「疎遠だ」と国会答弁していた稲田防衛大臣に対する怒りを言ったところ菅野氏が「では夫の龍示氏だけでなく稲田朋美も森友学園の顧問弁護士だったことを告発しよう」と持ちかけた。「稲田を刺せば、明日から家の前のマスコミはいなくなる。矛先が稲田に向かう」「この森友問題は麻生太郎が倒閣のために画策したことなので、麻生と稲田を刺せば官邸も喜ぶ」などと説得。籠池夫妻もその話に乗った。

 *この時菅野氏は、稲田防衛大臣の告発と共に、「森友問題は麻生太郎が倒閣のために画策したことなので、麻生と稲田を刺せば官邸も喜ぶ」などと虚言をを言い、マスコミ対策を絡め、籠池夫妻を政府批判に向かわせようとしている。それが功を奏し「僕が籠池理事長にメディア対策などを伝授していくと、妻の諄子さんからは“あんた、ホンマ悪知恵が働く男やなあ”とからかわれたりして、だんだんと心を開いてくれるようになった」

 13日午前9時、この事実を告発する動画が公開される。早速、当日9時半から始まった国会質疑で、民進党小川敏夫議員が稲田大臣にこの件を質問。稲田大臣は否定したが翌14日この事実を認めた。

 小川:これが内閣への攻撃になり、この時点ではまだ「土地問題についてはわからないが。塚本幼稚園の教育内容は悪くない」と言う態度だった保守派が硬化し籠池家は孤立した。

 3月15日、籠池氏は東京の記者クラブで記者会見の予定。東京に着くと大阪とは比べものにならない程のマスコミが殺到、どうにもならなくなって菅野氏に電話したところ、大阪にいた彼から「自分が東京に戻るまでの間、自由党の小沢一郎」と共産党の小池晃の予定をおさえたから会ってくれ」と言われた。とてもいけるような状態ではないというと「とにかく自分の自宅へ向かえ」と指示を受けた。

 この間、境弁護士から、財務省から「雲隠れ、口裏合わせ」の電話が会ったことについて、なかったことにしてくれ、との電話があった。早速この件が国会で質問され、財務省の佐川氏は15日午前中の答弁で「電話していない」と答弁した。これが籠池家から見ると政権ぐるみの隠蔽、安倍総理も了解の上で自分を葬る動きに見えた。

 この結果、籠池氏は「菅野氏だけをメディアの窓口にする」と決め、菅野氏はメディアに「ある政治家との金銭授受を含むやりとりを聞いた」「籠池氏は野党が共同で調査チームを組み、大阪に来てくれれば、知っていることを物証を添えて話すと語っている」などと公表。これを受け16日午後、野党4党が籠池家を訪れ面会、金銭の話と昭恵夫人とのメールのやりとりについて聞いた。

 この日の夕方、諄子氏と昭恵氏とのメールのやりとりがあった。諄子:「安倍首相はどうして園長を地検に言われたんですか。国は大事な民衆を切り捨てるのは許せないと思います」昭恵夫人:「それは嘘です。私には祈ることしかできません。」

 籠池佳茂:3月23日の「証人喚問で父が読み上げた文章は菅野氏が書いたものです」

3月31日には大阪市の合同監査、6月家宅捜査、7月31日両親逮捕。

 この間、いつの間にか(籠池は)完全に野党支持者、つまり反政権グループに囲まれていた。ある活動家などは、ある時期、両親と一緒に自宅に住んでいたほど。こういう人たちと付き合っていると、自分がこれまで持っていた保守の立場や、安倍総理支持という意見についても信じられなくなってくるのです。

 *このあたりの籠池氏の心理転回は、次のような当時の佳茂氏はツイッターにも現れている。
 「父の周囲には父を利用し、私腹や売名に走ろうとする輩が集っていたのである。そしてその奥の院にはその人がいたのである。ヒントは大阪府にある。2017年Mar29日 17:10

 森友学園を広告塔として利用した輩達が父を窮地に陥れたのである。そしてそのお陰で父は目覚めたのである。利用されていた事に気が付いたのである。日本会議や似非保守主義者には金輪際この麗しき学舎には足を踏み入れさせないのである。偽物は滅びる。本物は如何なる事態においても不滅なのである。2017年Mar29日 17:41

 政権与党よ、今回はあなた達の完敗であるのである。理由は明瞭である。政権を守る為には手段を選ばないその言動にある。その言動は最も権力者が使ってはならない行為なのである。政治家よ。眼を覚ませ。愚かな行為をそれ以上続けるべきではない。一言忠告する。国が滅びるぞ。2017年Mar29日 18:03

 記者:そういった状況からどうやって脱却したのか?

 今年の1月、菅野氏と裁判費用について打ち合わせをしたときです。菅野氏は「民団幹部の会社経営者から工面する」と言われたのです。4000万円程度。さすがに「民団」と言う名前が出たところで、私も「これ以上は無理だ」と判断し、その時を最後に菅野氏とは一度も会っていません。

 その後、弁護士が「どうも長男がおかしい」と気づいたらしく私を両親から遠ざけた。100万円の話や、籠池泰典氏が「昭恵氏との写真を出してから話がすーっと進むようになった」というようなことを言ったことについては、籠池佳茂:「誰の振り付けであれ、やってしまったことは事実なので・・・」

 籠池佳茂:「父は私利私欲のために小学校を開校しようと思ったのではない。むしろ苦しい財政状況を何とかやりくりして日本人のための教育ができる小学校を作りたかった。」

 小川:「事の本質は、安倍政権潰しと愛国幼稚園、保守系小学校潰し、そして左翼活動家が、マスコミと野党、民団、左派。弁護士らとくんで内側から保守を解体しようとする驚くべき組織戦です。こんな些細な事件で国会と政権を氷漬けにし、籠池氏を籠絡し、洗脳的な上方組織戦に利用していたことになる。籠池が全部悪かったんだ、保守派はこうした単純な籠池悪玉論に乗ってこの事件を片付けては決してなりません。」

 以上の記事を読んで、私は、ほぼ見通した通りだったなと納得する一方、菅野完氏のような「素性の知れた」無頼の極左政治活動家が、これだけ堂々とマスコミや政治家を相手に策略をめぐらし日本の政治を1年半に渡って思う存分引っかき回せる状況に、唖然とせざるを得なかった。おそらく、菅野氏の目には、籠池氏はもちろん、日本のマスコミや政治家の思想性のなさは、ほとんど痴呆の如く見えたであろう。

 それにしても、日本の保守を自認する人々の「思想性のなさ」はどうしたものだろうか。籠池佳茂氏は次のように言う。

 父は「何とかやりくりして日本人のための教育ができる小学校を作りたかった」のに、「父の周囲には父を利用し、私腹や売名に走ろうとする輩や、森友学園を広告塔として利用した輩達」がいて父を窮地に陥れたのである。そしてそのお陰で父は目覚めたのである。利用されていた事に気が付いたのである。日本会議や似非保守主義者には金輪際この麗しき学舎には足を踏み入れさせないのである。偽物は滅びる。本物は如何なる事態においても不滅なのである。」

 では、どちらが保守の本物なのか、と言えば、私は、籠池氏には、応援してくれていた保守系の人々を非難する資格はないと思う。私が当初予想した通り、氏には「刑事訴追されかねない何らかの不正」があって、それから逃れるために極左の菅野氏や野党と手を組んだのである。また、氏には「正々堂々と正面突破を図る」ほどの信念はなく、自己保身のためには、『教育勅語』どころか「恩を仇で返すようなことも平気で行った」のである。

 また、安倍首相夫妻は籠池氏を利用しようとしたか。マスコミの森友学園批判が強くなると籠池氏を裏切ったかについて。安倍首相夫人が塚本幼稚園の教育に共感して応援していたことは事実であり、安倍首相本人も妻から素晴らしい学校と聞かされ好感を持っていた。しかし、「安倍晋三小学校」等の申し出を何度も受け断ったときに「しつこい」と言う印象を持ったのも事実であろう。権力を利用しようとする籠池氏の行動は執拗かつ虚偽も多く、首相のみならず他の保守主義者の信用を失ったのも当然である。

 とはいえ、この問題の処理における財務省の行動は、菅野氏が「森友問題は麻生氏の倒閣運動」と見る程変で、また、迫田前理財局長の「雲がくれ指示」や、佐川理財局長の国会での虚偽答弁、財務省の決裁文書改竄問題、さらには柳瀬元首相秘書官などの対応も稚拙を極めるものであった。また、安倍首相夫人の行動が軽率と批判されたのは当然で、首相本人も含め、籠池氏本人の見識や人格を見極め得なかった事も問題であろう。

 しかし、それより一層変なのは、一部マスコミや野党のこの問題に対する対処の仕方である。倒閣のためには、「極右の小学校を建設しようとした」籠池氏をヒーロー扱いすることも辞さない。私は、昭和の失敗の第一原因は、山本七平先生が指摘した通り、明治以降の近代化の流れの中で、伝統思想の再把握とその再建に失敗したことにあると思っているが、一部マスコミや野党の、この「思想の危うさ」は、まさに戦前以下だと思った。

小池都知事の犯した過ちの徹底検証及び籠池、前川という人物について(2017-06-29 19:21:07掲載)

小池都知事については、私が2016年12月 5日 (月)「小池都知事、『根回しなし』は結構だが事実認識を誤っては元も子もない」
で論じたように、「第一次自己検証報告書」までは、地下水のモニタリング検査の意味や地下空間設置に至る事実関係をかなり正確に捉えていました。

小池知事「知事の部屋」/記者会見(平成28年9月30日)
「 記者】ジャーナリストの池上と申します。お疲れさまです。豊洲で基準値を超える汚染が出たことについてなのですけれども、今後、この土壌汚染対策法上の汚染区域の指定解除を行うのであれば、汚染が残っているかどうかの周辺調査をした上で対策が必要になると思うのですけれども、そういう、今後も指定解除を行うことを目指すのかどうかということ、これは都の方針として、知事としてはどうお考えなのかというのをちょっとお聞きしたいのですけれど。

【知事】土壌汚染対策法の観点からいたしますと、2年間のモニタリングをしてきたわけです。それで、形状変更時の届出区域の指定解除、そのために2年間続けるというものでございました。豊洲の市場用地というのは、これは土壌汚染対策法上でありますけれども、土壌汚染の摂取経路というのがそもそも土壌とか地下水の飲用利用というものはそもそもない。そして、健康被害が生じるおそれがない区域というものでございます。

ただ、自然由来ということがございますので、これらについては自然由来のものが含まれるということですから、そもそも解除ということにはならないのではないでしょうか、対象として。その土地そのものが。ということで、台帳からは消えないということになろうかと思います、その点については。

【記者】汚染区域の指定解除というのは、これは市場の人たちが求めている安全宣言の前提になるものではないかなと思うのですけれども、その辺についてはどう思いますか。

【知事】それについては、土壌汚染の対策法上とすれば、この土地がそうであるということ、今申し述べたとおりなのですけれども、それについては土対法という観点と、それから全体的な観点と、いつも私は総合的と言うのですけれども、農林水産大臣の方に、この土地は市場に適していますから、そして、指定をお願いをいたしますということをお願いする、そういうポイントがあるわけですから、そこのときは、総合的な判断ということになろうかと思います。そのことが、市場が求めておられることではないかと、このように考えております。」

「【記者】読売新聞の波多江と申します。築地の関係なのですけれども、延期の表明から間もなくちょうど1か月たつかと思うのですけれども、今新たな問題が次々と発覚していて、移転時期の決断の時期ですとか、あと、新たに市場関係者への補償、今どのようなことを考えているのか、そのあたりを教えてください。

【知事】時期につきましては、先ほども申し上げましたように、地下水のモニタリングについては、引き続き行うということでございまして、その結果は年明けになります。それから、今プロジェクトチームで、その他の安全性、例えば建物です。それから、空間があったわけでございますが、それによって耐震性などはどうかという新たな調査といいましょうか、新たな検証も必要でございます。そういったことを含めて、安心・安全、これらが科学的に、そしてまたちゃんと皆様方が感覚的にも分かっていただけるような、そういった、これは努力をしなければ、説明の努力、ヒ素とか聞くと、それだけでも、え?とびっくりされるわけですけれども、水の中には、環境基準以下で入っているケースというのは非常に、要はゼロリスク、ゼロはないということなのですが、そこら辺がなかなか見て国民の皆様方からすれば非常に敏感に感じ取られる部分がございます。そこはきっちりと説明していかなければなりません。それらのことを踏まえてどのような判断であれ、ファイナルな結論というのはそれらをベースにして進めていきたいと思っております。」

 ここでは、小池都知事は、地下水のモニタリング検査の意義とその扱いについて、ゼロリスクの罠に陥らないよう注意しつつ、あくまで科学的見地をベースとして、豊洲市場の安全性を総合的に判断するという慎重な姿勢を示していました。

 また、地下空間の設置については、土対法改正を想定し、建物下も地下水モニタリング検査ができるように検討したものであること。その出来映えについては「担当部局の中央卸売市場の職員が『日本で誰もやったことのない土壌汚染対策を短期間で仕上げた』と胸を張り、NHKの人気番組になぞらえて『プロジェクトX』だと思って取り組んだ」(産経ニュース2016.12.29)と言うような認識も持っていました。(記者会見で小池氏がこの件に言及していたように私は記憶します)

 つまり、このあたりまでは、真相解明に向けた常識的な対応だったわけですが、その後、事実解明と称して3代前の石原都知事に詳細な質問状を送りつけ(H28.10.7)それに対する石原氏の回答が「ゼロ回答」だったとマスコミに不満をぶちまけ(H28.10.14)たあたりから様相が変わって来ました。その後、その質問状や石原氏の回答書をマスコミに公開し、そのため石原氏はマスコミの嘲笑と攻撃に晒されるようになりました。

 そして、第二次自己検証報告書(H28.11.1)では、地下空間は都が示した整備方針に反すると決めつけ、関係部局の責任者を退職者も含めて処分すると共に、小池都知事は、市民団体が起こした「豊洲市場の用地購入を巡る住民訴訟に関し、購入当時の責任者だった石原慎太郎元知事に賠償責任はないとしていた従来の都の方針を見直すと表明し」「責任をあいまいにしてはいけない。いま1度、立ち止まって考える」とし、都側の弁護団の総入れ替えと、訴訟対応特別チームの設置」を決めました。

 私は、こうした小池都知事のやり方に疑問を感じ、2017年2月 5日 (日)「小池都知事は、なぜ石原慎太郎元都知事を「さらし者」にしようとするのか(1)」
と、2017年2月 5日 (日)「小池都知事は、なぜ石原慎太郎元都知事を「さらし者」にしようとするのか(2)」
で私見を表明しました。

 ただ、この第二次自己検証報告書発表の段階でも、小池都知事は次のようなことを言っています。

「振り返ってみれば、ちょうどこの平成20年というか、当時の状況を考えますと、都議会の方も、民主党が多数を占めているような状況でもございました。そういった中で、いろいろと都の職員も、いろいろな苦労もあったことかと思います。それとはまた、盛土がない、盛土を決めたのに地下空間にしたということと話は違いますけれども、全体を取り巻く環境というのは、かなり、これまでにないような状況にあったということも一つ思い出しておいた方がいいのかなと思います。」小池知事「知事の部屋」/記者会見(平成28年11月1日)

 これを見れば、地下空間設置の事実が、なぜ都庁内で共有されなかったかの政治的事情について、小池都知事は一定の理解を持っていたことになります。これに対して、当時民主党だった民進党が抗議めいた動きを見せたように、私は記憶しています。

 その後、約半年が経過しましたが、事態は、この時私が予測した通りに展開しました。小池都知事は石原元都知事を断罪することに失敗したあげく、豊洲への移転延期に伴う経費や補償金は日を追って累積し、移転賛成派と反対派の抗争は再燃し、また、市場問題プロジェクトチームは執拗に築地再整備を提言しました。結局、市場のあり方戦略本部での協議を経て、小池都知事は「市場を豊洲(江東区)に移す一方で、築地跡地を再開発して市場機能を持たせる基本方針を表明しました。(H29.6.22)

 これに対して、一体豊洲移転に重点があるのか、豊洲はあくまで種地として利用し、5年後には築地を再整備して市場を戻す事に重点があるのか、その解釈をめぐって混乱しました。私の解釈では、重点は前者に置かれていると思いました。こうなったのは、オリンピックに間に合うよう築地は更地にし環状2号線を通すと共に、空き地を駐車場として整備する必要に迫られたためだと思います。

 その一方で、小池都知事は、オリンピック終了後は、5年後を目処に築地を再整備し、豊洲に移した市場機能の一部を築地に戻し「食のテーマパーク」として再開発するとしています。また、「以前の計画では豊洲移転に伴い、築地市場を更地にして4386億円で売却。豊洲市場の総事業費5884億円の償還に充てる予定だったが、小池氏のプランでは都が管理し、民間に長期賃貸させたい」としています。

 しかし、5年後築地をどうするかという問題は、今後5年かけて検討すべき課題であって、5年後、今の移転反対派がどうなっているかも分かりません。また、築地の再開発をどうするかということも、築地を売るか売らないかという問題も、小池都知事が勝手に決められることではありません。それをあえて構想としてぶち上げるのは、豊洲移転の事実を曖昧にし、移転反対派の攻撃を逸らし、目前の選挙を有利に戦うための情報操作と言えるでしょう。

 なお、ここに至るまでの小池都知事のやり方をどう評価するかということですが、結局、当初の豊洲移転に戻ったわけで、一体、今までの石原たたきを始めとする豊洲汚染騒動は何だったのかということです。小池氏が取るべきだった最善の策は、言うまでもなく、第一次自己検証報告書の線で今回のような結論に持って行く事だったと思います。

 ところが、その後、小池都知事は、あたかも豊洲市場は汚染されていて使いものにならないかのごとき風評をまき散らし、その豊洲への市場移転を決定した石原元都知事の責任をマスコミを総動員して追及し、さらし者にし、自らは「リボンの騎士」を気取り人気を集めました。

 こうした石原攻撃が功を奏して、今回の都議選では小池氏が代表を務める都民ファーストの会が第一党を伺うほどの勢いを示しています。しかし、結局、豊洲に移転したということは豊洲の安全性に問題はなかったと言うことです。では、この間の騒ぎは何だったか、石原たたきは何だったか、それは一種の冤罪事件ではないか。都議会の100条委員会設置も時間と金の無駄、移転中止に伴う経費の発生や諸会議の設置もほとんど無駄だったと言うことになります。

 本来なら、小池都知事は、豊洲移転を決断した段階で、率直に自分の判断の誤りを認め、石原氏を始め関係者に対する謝罪などを行うべきです。しかし、小池氏はそうしたことのできる人物ではなく、行き着くところまで行くことになると思います。猪瀬氏は、自分の怨み晴らしを小池氏に託しているようですが、以上のような小池氏のやり方を見る限り、裏切られることは必定です。(参考:小池都知事における人望の研究)

 なお、蛇足ですが、森友学園の籠池氏が今後どうなるかについて私見を述べておきます。氏は、教育勅語を幼稚園児に暗唱させたことで、左右両派の攻守のドラマを生みました。それにしても守る側もなぜあんな愚劣な人物を信じたか、また、攻撃する方も、なぜ彼を正当な告発者扱いをしたか、不思議と言うほかありません。

 確かなことは、ああいう人物がこの世に存在すると言うことで、基本的人権が保障された民主主義社会においては、彼のような人物でも、今日の日本においては、情報をうまく操作することで政権を揺るがし得ると言うことです。

 さしずめ、この事件における安倍昭恵夫人の位置付けは、国際社会における「お花畑」の日本のようなもので、世界には籠池氏以上の悪巧みをする人物や国が、日本に対して情報戦を仕掛けていると見るべきでしょう。同じ範疇に落ちる必要はありませんが、耐性だけはしっかり身につけなければならないと思います。

 同様のことは前川氏についても言えます。こちらはエリート官僚の反乱ですが、官僚トップとして政府に言いたいことがあれば、正々堂々と現職中に行政ルールに従って行動を起こすべきです。ああいう形でマスコミや世論を巻き込んで政府攻撃をするのは、まさに池田氏の言う「たった一人の満州事変」と言うほかありません。

 満州事変が起こる前の当時の軍中央の満州問題処理の考え方は、仮に武力を使うことがあるとしても、あくまで国際社会が日本の行動をやむなしと認めるようなタイミングを選ぶべきだと言うものでした。それを謀略で満州事変を引き起こし、それを政府が追認したことが、軍の政治介入を既成事実化し、その後の悲劇を招くことになりました。

 まさか、これで政権が倒れるようなことはないと思いますが、これを許せば「たった一人の満州事変」で軍の政治支配が決定したように、官僚の政治支配復活を招くことになるでしょう。

 満州事変が起こる直前のロンドン軍縮会議における統帥権干犯事件では、当時野党だった政友会が、政府を”軍の統帥権”を犯したと攻撃し墓穴を掘りました。近年の野党の振る舞いはこれに似てるというか、さらに一層愚劣で、政党政治に対する国民の信頼を揺るがしかねないと私は思っています。

 そんなことにならないためにも、籠池氏や前川氏の行為について、その真実性や違法性について、中途半端に終わらせることなく、徹底した事実検証行う必要があると思います。合わせて、野党の責任も徹底して追求すべきですね。

「恩の国」から「怨の国」に変える左右翼連合の脅威(2017-04-02 12:13:26掲載)

(大幅に加筆校正しました。2017.4.5 9:55)

森友学園問題の発端について

この事件は、まず、木村真豊中市議が「まあ(極右の学校を)つぶしたかっただけなんですけどね」に始まり、「さらに安倍政権にダメージが与えられれば御の字という点で、木村市議と朝日新聞の利害が一致し」、これに野党4党が乗ったものだが、問題は、こうした動きに、攻撃を受けていたはずの籠池氏が一転して同調し、安倍政権攻撃を始めたことである。

この原因について、アゴラでは、梶井氏が、次のような安倍首相の籠池氏に対する「人格否定発言」を問題視する論を展開している。

「証人喚問(参院)で「なぜ今になって、献金の話をしようと思ったのか」と聞かれた籠池氏は「安倍総理から『しつこい人』と言われ……」と述べている。「え、それだけ?」と思うかもしれないが、偉人、敬愛するとまで讃えていた人物からの人格否定ともとれる発言は本人にとっては重かったのだろう。」(安倍首相の「しつこい」発言は2月24日で、籠池氏はこの言葉で安倍首相批判を始めたわけではない)

私は、この見方は、本末転倒した見方だと思う。なにより、なぜ安倍首相がなぜ「しつこい人」と言ったかの事実認識が間違っている。従って、それが籠池氏の人格否定となったという理解の仕方も間違っている。そこで、この問題をよりクリアーに理解するため、次に、日本人の伝統的な「恩に基づく倫理基準」について説明したい。

日本人の伝統的な倫理基準とは?

イザヤ・ベンダサンは、著書『日本教徒』の中で、不干斎ハビアンの『キリシタン版平家物語』を紹介しつつ、今の日本人にも通用する倫理基準としての「恩論」を展開している。
これは、戦国時代から江戸時代への転換期、仏僧からキリスト教徒に改宗した不干斎ハビアンが、日本に来た宣教師(パードレ)に日本理解のための教材として「平家物語」を抄出し「日本人のものの見方・考え方」を解説したものである。

この中でハビアンは、日本人の倫理基準を次のように説明している。
「この世には四恩がある。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩」、人間はこの「恩の貸借関係の世界」に生きている。この「恩」の世界では、人は「恩」を受けた債務を感じなければいけない。一方、「恩を施した」権利を主張することも許されない。つまり、忘恩や「施恩の主張」は「科=罪」であり、「受恩の義務」を忘れず、「施恩の権利」を主張しない生き方こそ「人間らしい生き方」である。

従って、「施恩の権利」は権利として主張するのでなく、あくまで、相手の「受恩の義務」として説くことになる。こうしたプロセスを踏むことを日本人は「相手の自主性を尊ぶ」という。こうしたプロセスを踏まず、いきなり「受恩の義務」を「施恩の権利」として主張された場合に、受け手が感じる感情が「恥」である。

つまり、この世界では、もし「施恩の権利」を主張し、「受恩の義務」を否定する者が出現した場合、これに対抗する手段がなく、そのため「怨」が生まれる。そして、この「怨」はつもりつもって、「受恩の義務」を拒否し、「施恩の権利」を主張した、いわゆる「人を人とも思わぬ」「世を世とも思わぬ」人を滅ぼす・・・。

では、こうしたハビアン版「平家物語」に見られる倫理観は、もはや日本人にとって時代離れしたものだろうか。そこで、籠池氏の行動・言動をこの倫理観に照らして見たい。

それは、森友学園の教育方針に賛同し、瑞穂の国記念小学校の建設のために講演、寄付?までしてくれた首相夫人に対する「受恩の義務」を拒否し、幼稚園児に”安倍首相がんばれ”と言わせるなどの「非常識かつはた迷惑な行動」を「施恩の権利」として主張し、校名や寄付振込用紙に「安倍晋三名義」を冠することを「しつこく」迫って断られたことを、逆に”しつこい”と言われた、”はしごを外された”と逆怨みし、その腹いせに、首相夫人より寄付を受けた?ことを野党・マスコミに暴露し、これに乗じて安倍内閣を潰そうとする野党と連携して安倍首相を攻撃する・・・まさに「人を人と思わぬ」「世を世と思わぬ」大罪ということになる。

菅野完氏の「仕込み]と奸計

不思議なのは、こうした「常識的な見方」が、戦後の日本のマスコミ界にほとんど見られなくなったことである。籠池氏の場合も、証人喚問に呼ばれて堂々としていた、立派だったと褒めそやす人がいるが、本当に、彼は、自己保身に走る権力者に「はしごを外された」か弱き民間人被害者なのだろうか?小川栄太郎氏は次のような証言をしている。

「その後、(平成29年3月)10日夕方から、籠池理事長と電話のやり取りをし、メディア対応に限定した助言を数回やり取りした。ところが、3月15日夜、理事長の電話に出た夫人から「昭恵さんに裏切られた。許しません」と突然言はれ、一方的に電話を切られた。朝までの理事長とのやり取りは丁重なものだつたので驚いた私は昭恵夫人に即座に電話し、何かあつたのか尋ねたが、この数日連絡をとつてをらず何もしてゐないとの事だつた。」

ではこの間何があったか。
15日午後2時、日本外国特派員協会による記者会見をキャンセルした「籠池夫妻は菅野完氏に会つてゐる。そこで籠池氏の態度が180度変つたのである。メールから確実に推定されるのは、菅野氏が籠池氏に「安倍総理が地検に云々など」と荒唐無稽な話をそこで吹き込んだのだらうといふ事だ。 又、安倍総理からの寄付金100万円を「振込用紙」と共に主張しだしたのも16日で、これも菅野氏の仕込みであらう。この「振込用紙」は馬鹿げてゐる為、検証対象になつてゐないが、実は精査する必要がある。」

「実際菅野氏の仕込みの直後、籠池氏に野党4党が面会した。面会内容は非公開の約束となつてゐるといふが、証人喚問前に証人と召喚する側の非公表の面会などが許されるのか。籠池氏はなぜ証人喚問に応じたのか。議事録を精査すると、証人喚問で野党4党と証人の間で平仄のあひ過ぎるやり取りが多見されるが、なぜか。」(小川栄太郎)

この件について当の菅野氏は、週刊新潮のインタビューで次のように答えている。
「その本(『日本会議の研究』―筆者)の取材で、塚本幼稚園の問題は知っていたのにあまり書かへんかった。だから、国有地問題が火を噴いたのを機に、僕は園児に軍歌を歌わせるようなその異常性をもう一度掘り下げていこうと思った。ところが、他のメディアも役所の責任追及より右翼的教育を主に取り上げた。だから、僕が矛先を変えようかと。国、大阪VS幼稚園という構図で見ると、籠池理事長は弱者の立場なので、そちら側に付くことにしたのです」

「3月10日に記者会見が開かれたとき、僕が質問すると“あんたが菅野さんか!”と、籠池理事長はご立腹だった。でも、なぜか、長男の佳茂さんはニコニコしながら“後で時間取るから”と言うてくれはって。だから、佳茂さんにライン送って、翌日、会うことになった。そして、話しているうちに意気投合し、理事長の自宅に行こかとなったのです」(この話し合いで菅野氏は10時間位かけて佳茂さんに”ある事”を説得したという)

(3月12日籠池宅訪問)「とはいえ、過去の取材活動のなかで、塚本幼稚園の園児虐待疑惑などを度々取り上げてきたため、籠池理事長には“天敵”とも言える人物だった。だから、僕の顔を見るなり、“君のせいで、ウチがどないなっとると思うとるんや!”と怒鳴られ、僕も“あんたが悪いんやろ!”と怒鳴り返しました。その場は佳茂さんが仲立ちし、なんとか収まった。それから、僕が籠池理事長にメディア対策などを伝授していくと、妻の諄子さんからは“あんた、ホンマ悪知恵が働く男やなあ”とからかわれたりして、だんだんと心を開いてくれるようになったのです」

こうした経過は、自ずと「窮地に立たされた籠池氏は『藁をも掴む』心境で本来水と油の関係の左系議員や著述家?と手を組んだのではないでしょうか。」という小川氏の推測を可能にする。

また、当の菅野氏が籠池氏のスポークスマンとなった狙いは、「極右人脈と政治家が接近し、その蜜月から森友学園疑惑は起こった」という構図の下でこの疑惑を事件化することだった。それによって、財務省の国有地売買における不正や、大阪の松井知事の私学審審査への介入を暴き、さらに昭恵夫人からの100万円寄付を梃子に、安倍首相の不当な政治的働きかけをあぶり出そうとした。

私は、この問題が起こった時、籠池氏はなぜ正々堂々と正面突破を計らなかったか疑問に思ったが、「しばき隊」に属していたこともある極左の菅野氏と連携する姿を見て、刑事訴追されかねない何らかの不正を自覚していたのだろうと思った。それが3月10日の補助金申請取り下げになったのだろう。

籠池氏の「逆恨み」と「恩」の関係

おそらく菅野氏はそうした追い詰められた籠池氏を見て、次のような「策略」を計ったのだろう。

国有地払い下げには、必ず安倍首相以下維新の不正な働きかけがある。従って、この不正を突けば、彼らは必ず逃げ出し籠池氏を見捨てる。籠池氏は保身に走る政治家を見て失望、怒りの矛先を彼らに向ける。彼らは戸惑い籠池氏を批判する。その結果、籠池氏は自己防衛上、彼らこそがこの国をダメにしている元凶だとの心的転回に至る。

こうして籠池氏は、一転して安倍首相や松井知事を攻撃するようになり、「私こそ、信念なき自己保身の政治家らにおだてられ、木に登らされたあげく、はしごを外されたかわいそうな民間人」とのイメージを打ち出す。それをマスコミが宣伝することで、籠池氏に対する世論の同情が高まる。その結果、その後の籠池氏をめぐる状況は籠池氏に有利に展開する。

私は、結局、話はこのようには展開せず、籠池氏は孤立せざるを得ないことになるのではないかと思うが、こうした極端の心的転回がいわゆる伝統的を価値を重んずる人々になぜ起こるかと言うことについては一考する必要があると思う。

それは、端的に言えば、先に述べた日本人の「恩」を媒介とする相互債務の人間関係の中においては、法的な権利義務関係を厳格に設定することが忌避されるからである。この結果、今回の事件で問題となった「忖度」という現象が生まれる。松井知事は政治家は「忖度」には「良い忖度」と「悪い忖度」があるといい、安倍首相や野田元首相は「忖度はない」という。

では、この両者の関係はどう整理すべきか。私は、「恩」を媒介とする相互債務の人間関係こそ日本人のモラルの源泉だと思う。そうしたモラルをベースに、社会関係においては法的な権利義務関係が形成されているわけである。従って「忖度」はモラル面から見れば「良い忖度」となり、法的な権利義務関係から見れば「悪い忖度」となる。

そこで今回の森友学園事件をこうした観点から整理すると、まず、教育勅語の問題はあくまで教育問題であり、学校認可の問題や国有地払い下げの問題とは区別して論じるべきである。昭恵夫人の森友学園に対する100万円寄付が問題となっているが、これ自体は何ら問題ではない。また、そうした肩入れが後者の問題にどう関わったかは、今のところ一般的な行政問い合わせの域を出ていないようである。

また、こうした昭恵夫人の行動に関わって、安倍首相が後者の問題にどう関わったかが問題とされる。しかし、安倍首相自身は籠池理事長の「しつこい」働きかけに困惑しており、その土地取得に不当な働きかけをしたという動機も証拠も挙がっていない。そこで「忖度」と言うことが言われるが、行政手続きがしっかりなされておれば問題とはならない。

今回の場合は、近畿財務局に手続き上の”チョンボ”があったとされる。あわせて、松井知事の、私学審議会に対する学校開設認可の働きかけにおいて、森友学園の財務状況の把握が十分でなかった点が指摘される。この点については、籠池理事長自身も自覚しているらしく、学校建設に伴う補助金申請を取り下げている。

では、何が問題を大きくしたかというと、籠池氏が、元来天敵であったはずの菅野完氏らと連携して、学校認可の問題や国有地払い下げに、安倍首相や松井知事の不当な働きかけがあったと告発に転じたことである。それは、まさに冒頭述べた「極右の森友学園潰し、安倍政権潰し、維新大阪府市政治潰しを画策する勢力の思惑にはまることだが、ではなぜ籠池氏はこんな奇策に打って出たか。

端的に言えば、「逆恨み」であろう。問題の根本は、籠池氏が教育者に求められる人格を欠いていたこと。また、小学校建設のための資金力もなく、そのため、その認可・土地取得に伴う政治家への働きかけに無理があったこと。そこに左翼の活動家がつけ込み、その中に菅野完という「しばき隊」上がりの極左活動家がいて、窮状に陥った籠池氏の「逆恨み」を安倍内閣、維新大阪政治攻撃へと導いたのである。

では、今後どうなるか。籠池氏は破産から免れるか、何らかの不正を摘発され「豚箱入り」となるか。今回の国有地払い下げについては、近畿財務局の”チョンボ”も指摘されるし、大阪府より一度は学校設置認可が下りたわけだから、両者の責任も免れないだろう。今後の成り行きを見守るしかないが、残る問題は、今回の籠池氏の行動・言動が日本人にどう受け止められるかである。

なんと言っても、籠池夫妻の奇矯な言動、自分の責任を棚に上げ、自分の学校の教育方針に賛同し支援してくれた首相夫人が100万円の寄付?をしたと暴露し、それを、自分の学校建設のための土地取得に安倍首相が不正を働いた証拠として告発する。その、まさに「恩を仇で返す」行動は、私は日本人には決して受け入れられないと思う。日本人の「恩」と菅野氏の「怨」の闘いである。

昭恵夫人は100万円を寄付したか

ともあれ、昭恵婦人は、100万円寄付をしたか、しなかったか。この疑問を解くための最も良い資料は、私は、昭恵夫人と籠池夫人とのメールのやりとりだと思う。このメールでは10万円の講演謝礼について次のような会話が交わされている。

平成29年2月28日
安倍昭恵:私は講演の謝礼を頂いた記憶がなく、いただいていたのなら教えて頂けますでしょうか。 申し訳ありません。

籠池諄子:『私は講演の謝礼を頂いた記憶がなく、いただいていたのなら教えて頂けますでしょうか。 申し訳ありません』 あまりにひどい なぜその情報はどなたからですか 全国の方々から励ましのメールがどっさり届き励まされます 絶対おかしい!

安倍昭恵;報道をされたようなので、確認です。

籠池諄子:えーひどい ひどすぎます 応援メールをみていただきたいぐらいです。

これをみれば、籠池夫人は明確に10万円の講演謝礼を否定している。(森友学園の決算書には寄付支出40万の説明に昭恵夫人の名があるというが、これについては後述)。また、100万円の寄付については、3月16日の昭恵夫人の籠池夫人に対する「100万円の記憶がないのですが」の問いかけに対し、籠池夫人は何も答えていない。

一方、籠池氏は、3月23日の衆参両院の予算委員会、森友学園理事長籠池泰典氏の証人喚問で、「私とふたりきりの状態で『一人にさせてすみません。どうぞ安倍晋三からです」とおっしゃって、寄付金として封筒に入った100万円を下さいました。」と証言した。
また、10万円の講演料については、3月23日の証人喚問における民進党福山議員の質問に答えて次のように答えている。

福山。10万円を講演料として渡したというのは?
籠池:先に用意していた。講演が終わった後に渡しました。お菓子の袋に感謝と入れて、お持ち帰りいただいた。
福山:昭恵夫人に直接渡したでしょうか?
籠池:記憶がはっきりとしていませんので、申し訳ありません。
福山:100万円も10万円も、安倍総理側は否定されています。なぜ今となって公にしたのか?
籠池:当初から安倍首相に敬愛を持っていました。2月10日に事件が勃発して、国の方向性も見ていたが、2月23日にテレビ中継で、安倍首相が籠池氏はしつこい人だと言っていました。重要なのは我々はこの学園を作り上げようとしている時に、途中、手のひらを返すように、潰すようになってきたので、私自身も、何が動いているのかという気持ちになって、解明しないと国民の皆様に申し訳ないと思いました。(The Huffington Post執筆者:ハフィントンポスト編集部 投稿日2017年03月23日)

つまり、籠池婦人は、2月28日のメールでは10万円の講演料を昭恵夫人に渡したことを否定する一方、3月16日に籠池氏が四野党調査団に安倍首相から100万円の寄付をいただいたと証言したことが影響したのか、昭恵夫人からの3月16日の「100万円の記憶がないのですが」との問い合わせには何も答えていない。

しかし、例の100万円の郵便振込用紙の「受領証欄」の安倍晋三の文字は、その筆跡鑑定で9割方籠池夫人のものと言われている。よって、もし籠池夫人が100万円を昭恵夫人からもらっていたのなら、100万円いただきましたと返信するはずである。それをしなかったと言うことは、その100万円は、昭恵夫人からの寄付ではなかった・・・。

また、その籠池夫人が否定している10万円の講演料について、籠池氏が昭恵夫人にあげたと国会で証言したのは、この100万円の出所について、当時、籠池氏が昭恵夫人に差し出した講演料100万円を昭恵夫人が受け取らなかったので、それを寄付として処理したのではないかとの見方があったことを、否定するためのものと推察される。

では一体真相は?私は、10万円の講演料については、昭恵夫人は差し出されたが受け取らなかった。そして100万円は、実は籠池氏が用意したもので、それを「安倍首相の寄付」として処理し、その記録を残すため郵便振り込みの受領証「ご依頼人欄」に安倍晋三名を記入した。しかし郵便局が受け付けなかったので、やむなく森友学園に訂正した、と言うことではないかと思う。

小池都知事における「人望の研究」(2017-02-12 03:33:26 掲載)

(前稿と重複する前段の文章を削除、次パラグラフ挿入2017.2.14.0:33)

最近の小池都知事の言動を見聞きしていると、正直言って気分が悪くなります。中には、小池氏の恣意的な権力行使や礼節をわきまえぬ言動に喝采を送る人もいますが、私は、これは、「平等社会になればなるほど、リーダーに求められる共通の能力」としての「人望」の欠如を示す以外の何物でもないと思います。

まず、小池都知事の石原元都知事の責任を追及する最近の物言いを見てみます。

(小池都知事の2月3日の定例記者会見)
小池都知事は、石原元都知事が移転決定の経緯を詳しく説明していないとして、「逃げてしまっているという印象」「石原さんらしくない」と批判

(2月8日 BSプライムニュースインタビューでの発言)
都議会特別委員会が石原元都知事や浜渦氏を参考人を決めたことについて、石原元都知事が「喜んで応じる」と語ったことについて、小池都知事は「いろいろ環境も変わってきましたので、そういったところで何か動かなければと思ったのでは。その時、知事でいらしたわけですから、侍とかの精神とか、日本男児たるものはとずっと言ってこられたわけですから、人に責任を転嫁することなく、自らのことをしっかり語られたらいいと思います」

浜渦元副知事が、石原元都知事は「国の大きなことをやっていたので、チマチマしたことは私がやってました」(浜渦のテレビでの発言)と言ったことに対し「都知事として選ばれていたわけでしょ。国のことは頼んでないでしょ。それを聞いてショックでしたね」

また石原都知事が行った尖閣諸島問題の取り組みについて「むやみに問題にされて結局14億円を宙に浮いている」「この始末はどうしましょうか」「国と都がやるべきこととをもう少し明確にしてやられた方が良かったのではないか」

(2月10日記者会見)
参考人招致等に出席に意欲を示す慎太郎氏に対し「急にここにきて動きだされた。何があったのかよく存じません」「急に元気になったり、弱気になられたり。この後もどんな波になるか分からない」、「『記憶にありません』という姿勢をみせるなら、国民が見ている」

プライムニュースでの発言にもありますが、自分は石原元都知事の「後始末をやらされている」と、尖閣問題まで持ち出して責任転嫁しようとしているのです。言うまでもなく尖閣問題は、尖閣が個人所有になっており、中国へ売却という怖れもあったことから都が購入を決めたもので、購入資金の寄付募集のアイデア自体は、当時副知事だった猪瀬氏の発案だったといいます。

いずれにしても、こうした高飛車な挑発的言辞は、すべて目的があって発していることで、小池都知事は、豊洲移転が当初の予定より大幅に遅れることを予測し、この間に生じる膨大な無駄金=築地、豊洲の維持管理費、業者への保証金等に対する責任追求を、石原氏に責任転嫁しようとしているのでしょう。

では、その結果、どういう事態が発生するか。まず、豊洲への市場移転は困難になります。その理由は、豊洲の地下水が環境基準を満たしていないということですので、では築地は満たしているか、他の市場はどうかという話になります。最悪の場合、築地の汚染状態や危険性が暴露され”にっちもさっちもいかなくなる”こと請け合いです。

小池都知事が本物の政治家であるならば、まず、モニタリング検査結果を市場の安全をオーサライズするものと判断したことの誤りを詫び、地下空間の設置についても、公報と実際の工法が違っていたことの都の不手際の謝罪と共に、それを「盛り土」なし=土壌汚染対策工事の手抜きと判断した自分の誤りを訂正すべきです。

残念ながら、小池都知事はこのいずれもやっていない。そのために、モニタリング検査結果に異常値が出たことへの正しい対応もできなくなり、豊洲は危険との風評を既定事実化してしまいました。さあ大変、ということで、石原元都知事をこうした混乱の元凶とすべく、先に見たような挑発的言辞を弄するようになったのだと思います。

こうした見方に対して、小池都知事の石原元都知事に対する批判は確かに厳しいが、豊洲移転の決定を石原元都知事がしたことは間違いないし責任は免れないと考える人も多いようです。先日のプライムニュースに中田氏と猪瀬氏が出ていましたが、中田氏は、もう豊洲移転は無理との前提で、石原元都知事の責任を追及していました。

猪瀬氏は小池氏を内田攻撃の先兵として使ってきた関係上、小池氏の石原たたきを非難することは避けていましたが、『東京の闇』を見る限り、豊洲への市場移転は長い議論の結果決まったことであり、石原氏が独断で決めたことではない。土壌汚染対策は徹底して行われており、移転の時期はあくまで科学的に判断すべきだ、との見解です。

問題は、中田氏が移転は無理と判断しているのと同様に、小池氏も、豊洲への移転は困難と見ているのではないか。それ故に、石原氏への攻撃が常軌を逸したものになっているのではないでしょうか。あるいは、豊洲移転となる場合も想定し、石原元都知事の豊洲移転定過程における無責任さを印象づけようとしているのかも知れません。

いずれにしても、こうした小池都知事のやり方を続けていけば、私は、石原元都知事が悪人であるかどうかは、世間の常識に任せるとしても、肝心の都政は、豊洲移転が遅延することによって引き起こされる混乱に止まらず、彼女の言う「東京大改革」そのものも、「大改革」ならぬ「大混乱」に陥る可能性が極めて大きいと思います。

それは、政策の問題と言うより、おそらく、小池都知事の「人望」に、以下述べるような、九徳ならぬ「一八不徳」があるためでは?かって菅首相の時「東日本大震災」が発生し、その時首相であった菅首相の「人望」のなさがどれほど大きな混乱をもたらしたか、この際、このことを思い出して見る必要があると思います。(参考:「普通の人の常識で見た東電「全員撤退」問題の真相」)

その時、私は、菅首相の言動を見ていて、次のような一文を私ブログにアップしました。小池氏の言動に、菅氏と同じような危うさを感じましたので、以下再掲しておきます。

人望の研究――菅首相の場合
 原子炉への海水注入をめぐるドタバタ騒ぎで、「いら菅」と評されてきた感情激発型人間菅首相の「人望のなさ」がいよいよ明らかとなり、早晩、辞任を余儀なくされることになるのではないか、と予測されます。

 山本七平の『人望の研究』には、この「人望」とは何か、ということが大変興味深く論じられていて、この人望を身につけるためには、まず、「克・伐・怨・欲」を抑え、「己に克ちて礼に復る」こと。つまり、他人を押しのけ、オレがオレがと自己主張し、それが叶わないと人を恨み、私欲をたくましくする、そんな自己中心的な心を抑えて、礼節をもって人に接する事ができるようになること、これを、その第一条件としています。

 次に、そうした自己中心的な心を抑えたとしても、人間には「感情」がある。つまり、喜・怒(いかり)・哀(悲しみ)・懼(おそれ)・愛(執着)・悪(にくしみ)・欲の「七情」がある。そこで、これらの感情を抑制しないで野放しにすると、自分の本来持っている人間性が損なわれるだけでなく、周囲の者も、その感情に振り回されどうしたらいいのか判らなくなる(そのため、首相の意向を忖度し「海水の注水を止める」といった今回のような行動が生まれる)。従って、この「七情」の激発を抑えることが極めて大切だ、というのです。

 つまり、このような努力を積み重ねることによって、人は少しずつ「人望」を身につけていくわけですが、実は、この「人望」というのは、その人の職業や思想信条、あるいは時代や国の違いを超えて、リーダーに対して共通に求められる普遍的な「能力」となっている。

 さらに、こうした「人望」は、平等社会になればなるほど、リーダーに求められる共通の能力となってきていて、従って、リーダーたるべき人は、学問知識を身につけることと同時に、こうした「人望」を身につける努力=「自己修養」を怠らないようにしなければいけない、というのです。

 では、その「人望」というのは、具体的には、どのような「徳」を身につけることをいうのか、というと、『近思録』では、これを「九徳」と言い、次のような九つの徳目を身につけることを、その具体的な到達目標としている。

(一)寬にして栗(寛大だがしまりがある)
(二)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
(三)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
(四)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
(五)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
(六)直にして温(正直・率直だが、温和)
(七)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
(八)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
(九)彊にして義(強勇だが、義しい)
 
 何となく、判ったような判らないような感じで、まあ、なんと細かな人間観察をしたものか、と感心しますが、いずれにしろ、こうした「九徳」を身につけることが、リーダーたるべき条件であると、儒教は教えてきたわけです。

 現代の日本人は、儒教といえば、封建的な人間道徳を教えるもので、個人の自由を基本とする現代社会には合わないと考える人も多いと思いますが、こうした儒教におけるリーダー条件を見れば、その人間観察が決して半端なものではないことが判ります。

 といっても、これらの徳目には、それぞれ相反する要素が含まれていて、どちらが欠けても不徳になる、全部がそうなれば「九不徳」となり、両方が欠ければ「十八不徳」になる。では、その理想的な状態とはどういう状態を指すのかというと、これらの徳の相反する要素をバランスさせることであり、つまり、これが「中庸を得る」ということなのではないかと思われます。

 そこで、この「九徳」をよりわかりやすくするために、あえて、その逆の「十八不徳」になるとどうなるか書き出してみると、

(一)こせこせうるさいくせに、しまりがない。
(二)とげとげしいくせに、事が処理できない。
(三)不まじめなくせに、尊大で、つっけんどんである。
(四)事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である。
(五)粗暴なくせに、気が弱い。
(六)率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である。
(七)何もかも干渉するくせに、全体がつかめない。
(八)見たところ弱々しくて、内もからっぽ。
(九)気が小さいくせに、こそこそ悪事を働く。
 となります。

 以上、山本七平による「人望」の条件について記して来ましたが、「克・伐・怨・欲」を抑えられず、「七情」をところ構わず発散し、と言ったところで、なんだか”オレは聞いてない!と怒鳴り散らす・・・らしい菅首相の姿が自然と脳裏に浮かんできました。

 さらに、これを前記の「十八不徳」に照らしてみると、不思議にピタッと当てはまる項目が、菅首相の場合にはいくつもあるように思われ、ああ、これでは、この危機的状況の中で、日本のリーダーを務めることはできないだろうな、と思われました。

 なにしろ、リーダーにこうした「人望」を欠いた場合は、旧日本軍においてすら、部下が面従腹背となり、組織が全く動かなくなったと言いますから。

 平等社会になればなるほど、リーダーには、こうした「人望」を身につけることが求められる・・・。日本の政治家の皆さんも、以上の「九徳」を自らを写し出す鏡として、真に「人望」あるリーダーを目指していただきたいと思います。」

「十八不徳」・・・どれを見ても都知事就任後の小池都知事にぴったりのような気がします。

小池都知事は、なぜ石原慎太郎元都知事を「さらし者」にしようとするのか(2)(2017-02-05 04:52:59 掲載)

 この件について、小池都知事は「第一次自己検証報告書」の発表時は、地下空間の設置について、都の技術者らには「プロジェクトX」との思いがあったとか、この事実を都の幹部が周知しなかったことについて技術者は愕然としたとか、この事実が公表できなかったのは都議会の民主党などが豊洲移転に反対していたからだとか、注釈的な説明をしていたように記憶します。確か、民進党がこれに対して抗議したような話も・・・。

 ところが、「第二次自己検証報告書」では、一転して、「全面盛り土」をせず建物下に地下空間を設けたのは、都の「整備方針」違反であったと決めつけ、その責任者を厳しく追及するようになりました。私は、その「整備方針」に石原氏の決済印があるのなら、石原氏は「全面盛り土」を指示したことになるから、ここで「整備方針」に違反して地下空間を設置した責任を問われるべきは技術者らではないかと思いましたので、ここで石原氏を批判するのは筋違いだと思いました。

 もちろん、石原氏は、当時、土壌汚染対策はしっかりやれと指示していたらしく、猪瀬氏の証言では、その意を受けて、30メートルメッシュ(900㎡ごとに、検査するポイントを1カ所選ぶ)の土壌汚染調査を、10メートルメッシュに精密化して行ったそうです。従って、当然のことながら土壌汚染対策に金がかかることについては石原氏も承知していたと思います。しかし、その具体的な工法については専門家集団を信頼して任せていたのだと思います。

 こう見てくると、小池都知事の質問状に対する石原氏の回答は、小池氏が「ゼロ回答」だと怒るようなものではなく、私にはむしろ、極めて真摯な対応がなされていると思いました。

「市場関係者の皆さんを含め東京都民の皆さんや国民の皆さんに対しては、私が就任中のことに端を発して結果としてこのような事態に立ち至っていることについてまことに申し訳なく思っております」と率直に謝罪の言葉も述べていますし・・・。

 さらに「今となっては、小池都知事の責任と権限をもって、私が就任する以前の段階から今日に至るまでの各都知事のすべての時代の本件に関する資料をいわゆる「のり弁」的な細工をすることなくすべて公開していただき、ぜひ皆さんの目で何が行われたのかをご覧いただくしかないと思っております。無責任に聞こえるかもしれませんが、その専門的内容に鑑み、記憶の問題ではなく、資料がすべてを物語ってくれるものと思っています。」
と提言しているのです。

 だから、小池知事は、都知事の持つ強大な権限と膨大な東京都の職員組織を使って、疑問と感じる点を、関係者や資料に当たって徹底して調べればいいのです。石原氏もそれを望んでいます。そうした石原氏の、いわば「恭順」と感じられる程の姿勢を無視して、石原氏の賠償責任を問う市民裁判に便乗し、今までの弁護方針を一転し。担当弁護士を総入れ替えしててまで、石原氏の豊洲移転決定の責任を追求しようとしているのです。

 私は、徹底してやればいいと思っています。そもそも「豊洲移転」については、2月2日のゴゴスマでの浜渦氏の証言では、石原都知事以前の青島都知事の時に決まっていて、豊洲以外の土地の可能性について、浜渦氏が都に聞いたところ、築地の業者の意向もあり豊洲以外にはないとのことで、当時の行政課題としては、いかに早く築地から豊洲に移転するかだった、と言っています。

 また、猪瀬氏の前掲書でも、「都議会でも2009年に、民主党が議会で最大勢力となった際に、現地建て替え案が検討されましたが、民主党は結局、その案を引っ込めました。現地改築は無理との結論に達したからです。営業しながら立て替えるのは不可能だし、やるとしても結局移転して立て替えないといけません。都議会や共産党や一部コメンテーターは『反対だから反対』と言う原理主義に陥っているように見えます。」と言っています。

 小池都知事は、こうした豊洲移転が決定されるまでの経緯を無視し、「衛生面では築地の方がよっぽど問題がある」ことも無視し、移転を先延ばしすればするほど豊洲、築地の維持費用や業者への保障金などの費用がかさんでくる現実も無視して、豊洲移転を推進した石原元知事に対する賠償責任を、市民団体の訴訟に相乗りする形で強引に進めようとしているのです。こんな事態を招いたのは”おまえの責任だ”と言いたいのでしょう。

 これは、豊洲のモニタリング検査結果に異常数値が出たことが契機になっているようですが、こうした小池氏の判断について、郷原信郎氏は次のように批判しています。

 「小池氏が、「盛り土」問題を大々的に取り上げる際、「安全性の確保のオーソライズを行う機関」として位置づけた専門家会議の平田座長も、「地上と地下は明確に分けて評価をしていただきたい。」「地上に関しては大きな問題はない。」と繰り返し述べて、豊洲市場の地上の安全性について、地下水の数値と環境基準との関係を過大視すべきではないことを強調している」(「『小池劇場』の暴走が招く地方自治の危機」郷原信郎)

 また、宇佐見典也氏は、「豊洲市場は現状においても土壌汚染対策は完璧で食の安全は確保されている」として、次のような説明をしています。

 「環境基準」という言葉の意味について、「土壌溶出基準」と「土壌含有量基準」の二つがあり、前者は「これは地下水等を通じた人間の直接的な摂取を想定したもので、「70年間人が1日2ℓその土地の地下水を摂取し続けること」を前提に設定されています。」後者は、地下水等の直接的な摂取がない場合を想定した基準で「70年間その土地の上に人が住み続けること」を前提に「土が舞って口に入る」ことを想定したもので、この二つの基準を総称して「環境基準」と呼んでいます。

 豊洲の場合は「地下水の摂取や利用」が”全くない”わけですから、本来重視すべき(環境)基準は「土壌含有量基準」です。ただこの土壌含有量基準の観点で見たとしても、豊洲では(2005年から東京ガスによる土壌汚染対策が行われた)が、2007年の調査の段階で(環境)基準を超過する(地下水の)汚染が判明したので、「健康被害が生じるおそれはないが汚染は確認される「形質変更時要届出区域」に指定された。()内は筆者
 
 この「形質変更時要届出区域」では、土地の形状を大きく変えない限りは”健康被害を生じるおそれがない”わけですから、そのまま豊洲の工事を強行することもできたわけですが、「汚染が残ったままでは生鮮食品を扱う市場にふさわしくない」という理由で総合的な汚染対策が進められることになりました。その代表的なものがいわゆる「盛り土」の措置で、実際に一部安全上の措置で地下ピットが設置された場所以外は盛り土がなされました。

 こうした汚染対策が総合的に実施された結果、平成26年(2014年)6月の時点で豊洲は土壌含有量基準を99%以上の地点で満たすこととなりました。(中略)もちろん汚染が確認された1%以下の地点でも汚染処理がなされています。そしてこの上にさらにコンクリが敷かれることになるわけですので、もはや「汚染土が舞って、口に入り健康被害が生じるおそれ」は、全くなくなったと言っても良いでしょう。」

 つまり、土壌汚染対策法上の安全基準はすでに満たされているのです。(「豊洲は安全だけど安心じゃない」というレッテル貼りに屈してはいけない」宇佐見典也)。

 では「なぜ東京都は食の安全に関係のない地下水のモニタリングをしているのか?」というと、東京都若林基盤整備担当部長は次のように言っているそうです。

 「豊洲新市場用地における二年間モニタリングは、形質変更時要届け出区域台帳から操業由来の汚染物質を削除するといった、記載事項を変更するための手続に必要な措置として実施するものと認識しております。」

 つまり、土壌汚染対策法上「安全」は確保されているが、さらに「安心」のため地下水を環境基準以下に抑えることで、形質変更時要届出区域の指定を全部又は一部を解除すべくモニタリング検査を行っているということ。この場合、「安心」と「安全」を混同しないことが大切で、小池都知事は、モニタリング検査結果を「安全」をオーサライズする基準と誤解したために、今回のような大騒ぎを引き起こすことになっているのです。

 ここで、今なすべきことは、第9回目のモニタリング検査結果が急に悪化した原因を特定すること。また、汚染された地下水は、くみ上げて浄化した上で外海に排出するようになっているのですから、いずれピークアウトして、「安心」レベルで安定すると思われるので、少しも慌てる必要はないのです。

 厳密に言えば、法的根拠なく強権的に豊洲移転を延期した小池都知事の責任こそ問われるべきでしょう。第二次報告書では、都の「整備方針」には「全面盛り土」は建物下は省かれているにもかかわらず、都は「全面盛り土」を決定したと歪曲し、地下空間設置は土壌汚染対策上問題がないことが明らかなのに、関係者8名を厳重処分、あまつさえ、3期前の石原元都知事の豊洲移転推進の責任を問おうとしているのです。

 浜渦氏は、ゴゴスマで、”石原は巨竜だが残念ながら年老いている。これは誰もが通る道で、小池氏も老いるときが来る。それを先輩政治家であり前任都知事でもある石原を、足で蹴りつけるようなことはすべきでない、と言っています。もちろん、政治の世界ですから問題があれば徹底的に批判されます。しかし、豊洲移転問題に関して、小池氏が石原氏を「さらし首」にしようとするのは、一体何のためか、不可解と言わざるを得ません。

 確かに、近年の石原氏は、老いの故か、繰り返しや失言が多くなりました。政治家ですからそれを批判されても仕方ありません。また、氏は、都知事を4期務めましたが、元々国政政治家であって、戦後の日本社会を「宦官国家」と言い、戦後日本のアメリカ依存体質を批判してきました。また、アメリカに対してだけでなく中国に対しても言いたいことを言ってきました。それだけにマスコミの反発も強く、毀誉褒貶は今も相半ばしています。

 といっても、都知事としての実績がないわけではなく、都財政の黒字化(五輪費用4000億はここから捻出)、日本で初めて公会計制度導入、風俗店の一斉撤去、排ガス規制、東京オリンピック誘致計画、災害対策費の備蓄、羽田沖の拡張・第四滑走路の建設、東京の治安回復、東京マラソンの実施、認証保育所の待機児童対策、三環状整備、横田空域一部返還、羽田国際化、学区撤廃、建物の耐震化促進、尖閣諸島購入計画、新銀行東京等があります。

 中には失敗とされた事業もありますが、4期にわたって都民に支持されたことも事実です。小池都知事は、そうした元知事の仕事を同じ保守政治家として引き継いだわけですから、それなりの敬意を払うべきではないでしょうか。ましてや、小池氏の都知事選勝利は、猪瀬氏のバックアップあってのことであり、その猪瀬氏を都知事に推薦したのは石原氏です。そして、その当の石原氏は、小池知事の質問書に、戸惑いつつも誠意を持って答えようとしたのです。

 それは、石原氏が、年来、官僚批判を繰り返してきたことからも判るように、氏自身、開かれた「都民ファースト」の都運営のためには、都知事のリーダーシップが不可欠だと考えてきたからではないでしょうか。また、都議会の「ドン支配」とか「ブラックボックス」とか言われるような非民主的で閉鎖的な議会運営についても、改善すべきとの問題意識も持っていたに違いないのです。それ故に、石原氏の回答が「誠意を感じさせる」ものになったのです。

 小池氏は、ゴゴスマでの浜渦氏の証言について「まあ、非常に自由にお話をされていたと聞いている。私から言わせれば、ご自分に都合のいいように解釈されているようだと、言えるのではないか」「キーマンでいらっしゃるので、どんどん発言されればいいのではないか。これから百条(の設置)や、(住民訴訟で)司法の動きにもなってくる。(テレビではなく)そういった所で、お述べいただければと思う」と言っています。

 さて、このように、日を追って挑発的な言辞を吐くようになった小池氏に、世論はどのような反応を示すでしょうか。私自身、石原氏に対する小池氏の質問書を見て以降、次第に不審をおぼえるようになり、私ブログ「竹林の国から」にも、ツイッターのコメントにも小池批判を書くようになりました。こうした疑念と不信は小池氏のその後の言動でますます強くなりました。すばらしい女性リーダーが登場したと喜び、誇りにさえ思ったのに、誠に残念と言うほかありません。

加藤陽子『戦争まで』を読んだ私の批判的感想(2017-01-16 20:11:21掲載)

 以下、「かって日本は、世界から『どちらを選ぶか』と三度、問われた。良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線」とキャッチコピーの付された本書を読んで考えたことを記しておきます。

 本書は、日本近現代史の学者である著者が、中学生や高校生を相手に、2015年に出された「内閣総理大臣談話」を批判する形で、満州事変、日独伊三国同盟、1941年4月から真珠湾攻撃に至るまでの日米交渉について、「従来の解釈を否定する新解釈」を示しながら、それを、現在安倍内閣が進めている憲法改正論議に「正しく反映させよう」として書かれたものです。

 結論から先に言えば、この本は、最新の研究成果がいろいろ紹介されていることは素人としては大変有り難いのですが、上記のような政治的意図が根っこにあるせいか、「従来の解釈を否定する新解釈」に、いささか一方に偏するものがあるように思われましたので、具体的にその部分を指摘しておきたいと思います。

 まず、リットン報告書が示した満州事変後の満州問題の解決策についてですが、「リットン報告書の内容は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざまに工夫したものだった。リットン報告書には、交渉が始まった後、日本が有利に展開できる条件が、実のところいっぱい書かれていた」「タフな交渉になると予想されましたが、日本と中国が二国間で話し合える前提を、リットンは用意していました」というのは、その通りだと思います。

 ただ、この問題は、結局、日本が華北の既得権益を全面放棄した上での「満州国承認問題」に収斂しており、中国側は「棚上げ」まで譲歩、日本側はその「黙認」を求めました。しかし、中国国内の抗日運動が激化する間、中国側の交渉態度が次第に硬化し、実質的な和平交渉に入ろうとする矢先、盧溝橋事件が勃発、ついで上海事変が勃発し、日中全面戦争に突入した、というのが事実に即した事態の推移です。

 つまり、リットン報告書の提出以降、日本側は「軍部の主導する満州侵略の道はだめなのだ」「実際に様々の選択肢がある」ということに全く気づかなかったわけではないのです。それに気づいたからこそ、日本は華北の既得権全面放棄による日中和平を提案したのです。しかし、中国側が、国内の抗日運動に引きずられる形で、日本の不拡大方針を無視し、日中全面戦争に持ち込んだのです。

 もちろん、こうした流れを必然ならしめた原因が、満州問題を武力で解決しようとした関東軍一部将校の暴走にあったことは紛れもない事実です。ただ、そうした行動は即中国の植民地化を目指していたわけではなく、問題は、日本側の中国側に対する「排日停止・経済提携・共同防共」の要求が、アジア主義的なパターナリズムに根ざしていたこと。それが中国の主権侵害になることに気づかなかったのです。

 石原自身はこうしたアジア主義的主張を政治的・軍事的にコントロールする力はあったようですが、そのエピゴーネン達は、それを表面的に模倣することしか出来ず、中国が抗日戦争に訴えたことを、一撃でもって膺懲出来るとして戦争を受けて立ったのです。しかし、戦争は予想に反し泥沼化しました。そこで、この戦争の名分を再構築する必要に迫られ、これが近衛の東亜新秩序=東亜ブロックの主張となったのです。
 
 次に、日独伊三国同盟締結について。加藤氏は、なぜヒトラーは日本との同盟を選択したかについて、「イギリス側の、不屈の抗戦意識を支えているのは、ソ連の存在とアメリカの存在への希望である」「ソ連が脱落すれば、日本を北から軍事的に牽制する国家がなくなり、日本は自由に東アジアの根拠地である香港・シンガポールや、アメリカの軍事基地があるフィリピンを脅かすことが出来る」。従って、アメリカはソ連を脱落させないため対英援助を諦める、と考えたからだとしています。 

 さらに、こうしたヒトラーの思惑がさらに発展して、イギリスへの圧迫強化のための「対ソ攻撃」に結びついたとしています。しかし、この対ソ攻撃は、結果的にソ連を連合国側に追いやることになったわけで、日本にしてみれば、4カ国連携でアメリカに圧力を加えることができなくなった。この結果、独ソ開戦以降、アメリカの日米交渉に臨む態度が一転して冷ややかになりました。

 この日米交渉でアメリカは、日本に対して日独伊三国同盟の空文化を求めました。これに対して日本は、アメリカが対ドイツ戦に参戦した場合でも、自動的な参戦義務はないと説明しました。日本がドイツと同盟を結べば、日本は、ドイツの惹起した第二次世界大戦に対する中立的な立場から、米英に敵対する立場に立つことになるわけで、大きなリスクを背負い込むことになります。

 この点について加藤氏は、なぜ日本がこうしたリスクを犯してまでもドイツと同盟したかについて、その動機として、ドイツが欧州戦争で勝利することを確信し、戦後の東南アジアにおける、フランス、イギリス、オランダの旧植民地の支配権=勢力圏をめぐって有利な地位を確保しようとしたため、としています。つまり、従来定説とされてきた”バスに乗り遅れるな”ではないと。

 しかし、”バスに乗り遅れるな”は、単にドイツへの迎合を示すだけではなく、その背後に実利的な思惑があったことは当然です。それが、ドイツにすでに降伏したフランス、オランダ、イギリスの旧植民地の戦略資源であったことは、日本が、これらの資源の輸入を外国に依存しており、、かつ、それが日本に対する経済制裁の手段になっていたのですから、その桎梏から逃れようとしたのです。

 そこで、アメリカは、日本軍が昭和16年7月28日に南部仏印に進駐すると、それは、東南アジアからイギリスへの資源供給ルートを遮断することになるから、イギリスを支援するアメリカは、それを阻止するため在米日本資産の凍結や石油の対日全面禁輸を断行しました。日本軍は、南仏進駐は平和裏になされたわけだし、まさかアメリカがそこまでやるとは思っていなかったと言います。

 では、なぜアメリカは、こうした強硬措置を執ったかについて、加藤氏は、こうした措置を執ったことをルーズベルト大統領もハル国務長官も一月ほど知らなかったと言っています。それは対日強硬派のモーゲンソーらが執った措置だと言うことですが、モーゲンソーらは、日本は資源のない「粘土足の大国」だから、アメリカが経済圧迫を掛ければ屈服するほかないと考えていたそうです。

 ここで、昭和16年4月に始まった日米交渉で、アメリカ側から提出された「日米諒解案」の具体的内容について見てみたいと思います。加藤氏は、日米諒解案に関して「アメリカの日米交渉にかける熱意を考える際、最も大きな影響を及ぼしたのは、日本の南部仏印進駐だった」と言っています。では、日米両改案には何が書かれていたかというと、

一、日米両国の基本秩序の尊重
二、三国同盟は防衛的なものであること。また、米国の欧州戦争に対する態度は自国の福祉と安全とを防衛するためにのみ決せられること。
三、支那の独立・非併合、門戸開放、日支間の協定に基づく日本国軍隊の支那領土撤退、蒋政権と汪政権の合流等の条件の範囲内で、善隣友好、防共共同防衛、経済提携の原則に基づき、日本が具体的和平条件を支那側に提示する。
四、日米両国は太平洋において相互に他方を脅威する海軍兵力及び航空兵力を配備しない。五、日米間の新通商条約の締結及び金融提携、今次の了解成立後日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障する。
六、南西太平洋方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国は日本に協力する。
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針、東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等をしない。フィリピン独立保障、米国及南西太平洋に対する日本移民の無差別待遇が与えられる。
日米両国代表者間の会談の提唱、本会談では今次了解の各項を再議せず、両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとする。

 この案は、41年2月以降日米の民間人や政府・軍関係者によって周到に準備されたものでした。従って、この案が日本側に示されたとき、東条も、「米の提案も支那事変処理が根本的第一義であり、従ってこの機会を逃してはならぬ。断じて捉えねばならぬ」と近衛に言いました。武藤も「これで支那事変が解決されるからイイナ」と言ったといいます。そして、この提案は、陸・海軍省部・局部長会議で「独を刺激せざるよう一部の修文を行う」等の条件で陸海軍間で合意されました。(『太平洋戦争への道7』p168)

 こうしたアメリカの譲歩に対して、これを謀略ではないかと疑う者もいましたが、この提案を、日本側が軍部を含めて、当初”ほっと胸をなで下ろす”形で受け入れたことは事実です。近衛は直ちに「主義上同意」と返電しようとしました。これに反対したのが松岡で、松岡は日ソ中立条約を締結して帰国したばかりで、対米外交を三国同盟+ソ連の4カ国連携でアメリカを脅威圧迫すべきと考えており、次の三つの条件を付けました。

 それは、 一、米国に中国から手を引かせる、二、三国条約に抵触しない、三、米の欧州参戦を阻止する、でした。このため、日米諒解案の、米国をして支那事変終結を仲介させる、そのため三国同盟の趣旨を極力防衛的な性格のものする、という趣旨が飛んでしまいました。問題は、こうした松岡の四国連携の構想に、当初、諒解案を歓迎した誰も正面から抗し得なかったと言うことです。

 これに対してアメリカは、すでに1月末から独ソ開戦を予想しており、それが勃発すれば松岡・軍部の錯覚的な枢軸政策は粉砕されると見ていました。実際6月に独ソ開戦したわけですが、これによって松岡の4国連携によるアメリカ圧迫構想は瓦解し、ソ連が英米側につくことになりました。この結果として、アメリカの日米交渉における対日妥協姿勢が強硬に転じることになったのです。

 合わせて重要なことは、4国連携が中国を含めた大陸連携構想に発展する可能性もあったということで、昭和16年段階でアメリカが日米両改案の線まで下りてきた背景には、こうした枢軸体制の誕生を阻止する意図があったのです。つまり、こうしたアメリカの妥協姿勢が三国同盟から生まれている以上、日米諒解案の肝である三国同盟の実質的空文化はそれと矛盾する関係にあったのです。

 日米交渉がこうしたジレンマに直面する中で、松岡は枢軸体制強化を主張しました。しかし、独ソ開戦によってこの構想は崩壊しました。では、その後、日本はそういう選択すべきだったか。最良の策は、ドイツの背信を理由に三国同盟から離脱し、欧州大戦に対して中立の立場を取ることで、日米諒解案の線で日米間、日支間の関係調整を図ることでした。しかし、松岡や陸軍はソ連侵攻を主張、これを牽制するため海軍は南進を主張、結果的にこれが南部仏印進駐となりました。

 では、なぜ日本は枢軸同盟に止まったまま南部仏印に進駐する道を選んだか。その理由としては、欧州戦争におけるドイツの勝利を盲信していたこと。アメリカを中心とする経済封鎖から自由になりたかったこと。そのためには東南アジアに進出し戦略資源を確保する必要があったこと。実際、こうした構想が魅力的であったからこそ、コミンテルンのスパイ尾崎秀実の謀略も成功したのです。(この尾崎の、加藤氏の扱いもおかしい!)

 南部仏印進駐後は、ルーズベルトの仏印中立化案や、日本側からは最終的に乙案が示されることになりますが、この提案と日米諒解案との違いは、この段階では、日本側が最も期待したアメリカの仲介による日支事変解決の可能性がなくなっていたと言うことです。言うまでもなく、南部仏印進駐は日本が中国を完全に封鎖することになりますから、中国としては日米戦争だけが救いでした。

 こうしてアメリカの対日要求は、ハル四原則(すべての国の領土と主権尊重、他国への内政不干渉を原則とすること、通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること、平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持)に立ち返ることになりました。アメリカは、「日本が『日中和平基礎条件』で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求め」ました。

 ここで日本軍の支那からの撤兵問題が浮上しました。東条は撤兵に反対、その結果近衛は内閣を投げだし、東条内閣の誕生となりました。東条は昭和天皇の「白紙還元の御諚」(「外交交渉により日本の要求を貫徹出来る目途がない場合は、直ちに開戦を決意する」という九月六日の御前会議決定を一旦白紙に戻すこと)を受け、その後、対米交渉を継続し、最終的には乙案を提出し、南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしましたが、アメリカ側のハルノートの提出でついに日米開戦となりました。

 このような事態になったのは、加藤氏の言う通り、日本軍がドイツの勝利を盲信し、枢軸同盟を背景に武力で南方の資源獲得をしようとしたためでした。この時取るべき唯一の道は、先ほど述べたように、三国同盟離脱、欧州戦争からの中立維持、日米諒解案の趣旨に沿った、アメリカ仲介による日支事変解決、通商条約再締結による資源確保だったことは言うまでもありません。

 ただ、日本が乙案を提出し南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしたにも関われず、なぜアメリカはそれを無視しハルノートを提出したかが問題になります。これについては、アメリカに「絶望から戦争をする国はない」という甘い見通しがあったため、ともいいますが、アメリカの対独参戦を可能にするための日本挑発という意図があったことも間違いないと思います。

 ただ、こうした挑発を受けても、これに冷静に対処し、アメリカがそれまでの日米交渉を無視し、日本を挑発して欧州戦争参戦への口実を得ようとしたことを世界に宣伝することで、しばらく戦争を回避することはできたでしょう。しかし、問題の根本はやはり、当時の日本が、ドイツ流の国家社会主義を信じ、英米流の自由民主主義をよしとしなかったことにあったのではないかと思います。

 戦後の反省はこの点に重点を置くべきではないでしょうか。こう見てくれば、戦後こうした一種の全体主義的考え方が払拭されたとは到底言えないと思います。ソ連が戦後理想の国のように喧伝されたのも、毛沢東の文化大革命が賞賛されたのもそのためです。つまり、戦後も、今日まで一貫して、国家社会主義や共産主義に通底する考え方が伏在し続けていると見るべきだと思います。

 そこで、最後に、こうした戦後体制の基軸となった日本国憲法の平和主義、憲法第9条の戦争放棄、戦力放棄の意義について考えたいと思います。加藤氏は、以上述べたような歴史解釈に立って、幣原の次の言葉を引用しています。

 「今日我々は、戦争放棄の宣言を掲げる大旗を翳して、国際政局の広漠なる野原を単独に進みゆくのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ旗を翳して、遥か後方についてくる時代が現れるでありましょう。」

 どうやら加藤氏は、幣原のこの言葉を引用することで、憲法第9条改正に反対する立場を暗に表明しているようです。しかし、戦後70年、日本国憲法第9条と言う旗の後方についてくる国はなかったのでは?というのも、実は、この旗が示した理想は戦争放棄(=戦力放棄)ではなく、武力の国際機関への一元化だったからです。つまり、軍事力は国際機関に一元化し各国は警察力だけを持つ・・・。

 こうすることが、国際社会に戦争をなくす唯一の方法であると、幣原は「平野文書」の中ではっきり述べています。そして、この理想に近づくための手段として、敗戦後の日本が「戦力放棄」という奇策を採ることによって、各国の軍縮を促そうとしたのです。そうすることで、天皇制を軍国主義から切り離し、象徴天皇制という本来の姿に立ち返らせようとしたのです。

 従って、日本国憲法第9条の改正問題を論ずるに際しては、もちろん、その第一項の平和主義と戦争放棄を謳った条項は残すべきだと思いますが、第二項の戦力放棄条項をどうするかについては、戦後70年の平和が第9条だけで守られたわけではなく、日米安保による戦力補完によった、という冷厳な事実を踏まえて、これを憲法と矛盾しないようどう規定するか考えるべきだと思います。 以上 

 

 
 
 
一、日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念
 両国政府は相互に両国固有の伝統に基く国家観念及社会的秩序並に国家生活の基礎たる道義的原則を保持すべく之に反する外来思想(=共産主義)の跳梁を許容せざるの鞏固なる決意を有す
二、欧州戦争に対する両国政府の態度
 日本国政府は枢軸同盟の目的は防御的にして現に欧州戦争に参入し居らざる国家に軍事的連衡関係の拡大することを防止するに在るものなることを闡明す
 ・・・枢軸同盟に基く軍事上の義務は該同盟締約国独逸か現に欧州戦争に参入し居らざる国に依り積極的に攻撃せられたる場合に於てのみ発動するものなることを声明す
・・・米国政府は戦争を嫌悪することに於て牢固たるものあり従って其の欧州戦争に対する態度は現在及将来に亙り専ら自国の福祉と安全とを防衛するの考慮に依りてのみ決せらるべきものなることを声明す
三,支那事変に対する両国政府の関係
 米国大統領か左記条件を容認し且日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すべし
 A、支那の独立
 B、日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
 C、支那領土の非併合
 D、非賠償
 E、門戸開放方針の復活但し之が解釈及適用に関しては将来適当の時期に日米両国間に於て協議されるべきものとす
 F、蒋政権と汪政権との合流
 G、支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
 H、満洲国の承認
 蒋政権に於て米国大統領の勧告に応じたるときは日本国政府は新たに統一樹立せらるべき支那政府又は該政府を構成すべき分子をして直に直接に和平交渉を開始するものとす
日本国政府は前記条件の範囲内に於て且善隣友好防共共同防衛及び経済提携の原則に基き具体的和平条件を直接支那側に掲示すべし
四、太平洋に於ける海軍兵力及航空兵力並に海運関係
 A、日米両国は太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及航空兵力の配備は之を採らざるものとす右に関する具体的な細目は之を日米間の協議に譲るものとす
 B、日米会談妥結に当りては領国は相互に艦隊を派遣し儀礼的に他方を訪問せしめ以て太平洋に平和の到来したることを寿ぐものとす
 C、支那事変解決の緒に着きたるときは日本国政府は米国政府の希望に応じ現に就役中の自国船舶にして解役し得るものを速かに米国との契約に依り主として太平洋に於て就役せしむる様斡旋することを承諾す但し其の屯数等は日米会談に於て之を決定するものとす
五、両国間の通商及金融提携
 今次の了解成立し両国政府之を承認したるときは日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障せらるるものとす
 又両国政府は嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き正常の通商関係への復帰の為適当なる方法を講ずるものとす尚両国政府は新通商条約の締結を欲するときは日米会談に於て之を考究し通常の慣例に従い之を締結するものとす
 両国間の経済提携促進の為米国は日本に対し東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及日米経済提携を実現するに足る金クレジットを供給するものとす
六、南西太平洋方面に於ける両国政府の経済的活動
 日本の南西太平洋方面に於ける発展は武力に訴うることなく平和的手段に依るものなることの保障せられたるに鑑み日本の欲する同方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国側の協力及支持を得るものとす
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針
 A、日米両国政府は欧州諸国が将来東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等を為すことを容認せざるべし
 B、日米両国政府は比島の独立を共同に保障し之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法に付考慮するものとす
 C、米国及南西太平洋に対する日本移民は友好的に考慮せられ他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

日米会談
 (A)日米両国代表者間の会談はホノルルに於て開催せらるべく合衆国を代表してルーズヴェルト大統領日本国を代表して近衛首相に依り開会せらるべし代表者数は各国五名以内とす尤も専門家書記などは之に含まず
 (B)本会談には第三国オブザーバーを入れざるものとす
 (C)本会談は両国間に今次了解成立後成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
 (D)本会談に於ては今次了解の各項を再議せず両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとす
付則
本了解事項は両国政府間の秘密覚書とす本了解事項発表の範囲性質及時期は両国政府間に於て決定するものとす

朝日新聞論説「憲法70年の年明けに『立憲』の理念をより深く」に潜在する、お気楽な「天秤の論理」(2017-01-03 14:08:31掲載)

以下、表記の記事の論述に沿って私見を述べます。(私見は斜体字)

 世界は、日本は、どこへ向かうのか。トランプ氏の米国をはじめ、幾多の波乱が予感され、大いなる心もとなさとともに年が明けた。
 保守主義者として知られる20世紀英国の政治哲学者、マイケル・オークショットは、政治という営みを人々の航海に見立てている。
 海原は底知れず、果てしない。停泊できる港もなければ、出航地も目的地もない。その企ては、ただ船を水平に保って浮かび続けることである――。
 今年の世界情勢の寄る辺なさを、予見したかのような言葉として読むこともできるだろう。
 と同時にそれは本来、政治にできることはその程度なのだという、きわめて控えめな思想の表現でもある。

 保守主義とは固定した観念に囚われず、歴史的経験の積み重ねの中で得られてきた知恵をたよりに、一歩一歩、試行錯誤しながら、手探りで次の時代を形成していく、そうした歴史観をベースにしている。朝日新聞がこうした保守主義に立つと、新年早々宣言したことは、単なる便宜的借用でなければ大変良いことである。

 昨今、各国を席巻するポピュリズムは、人々をあおり、社会に分断や亀裂をもたらしている。民主主義における獅子身中の虫というべきか。
 オークショットのように抑制的で人気取りとは縁遠い政治観は、熱狂や激情に傾きがちな風潮に対する防波堤の役割を果たす。

 ポピュリズム批判を保守主義の観点からすることは正しいが、ポピュリズムの「熱狂や激情」は「本音」からだけ生まれるものではなく、むしろ「建前」から生まれることが多いと知るべきである。

 ■人々の暮らしの中で
 不穏な世界にあって、日本は今年5月、憲法施行70年を迎える。
 憲法もまた、政治の失調に対する防波堤として、大切な役割を担ってきた。その貢献の重みを改めて銘記したい。

 「憲法を政治の失調に対する防波堤とする」と言うこの主張は、前段の保守主義の主張と必ずしも一致しない。憲法の基本的性格を権力の暴走に対する歯止めとするのは正しいが、保守主義は固定した観念に囚われないので、憲法を絶対視するようなことはせず、時代に合わせて憲法改正することを躊躇しない。問題は、今日の政治を「政治の失調」とする「政治的見方」が正しいか否かであって、憲法を守るか守らないの話ではない。

 「立憲主義」という言葉の数年来の広がりぶりはめざましい。政治の世界で憲法が論じられる際の最大のキーワードだ。
 中学の公民の教科書でも近年、この言葉を取り上げるのが普通のことになった。
 公の権力を制限し、その乱用を防ぎ、国民の自由や基本的人権を守るという考え方――。教科書は、おおむねこのように立憲主義を説明する。

公権力の制限、権力の乱用から国民の自由や基本的人権を守るのが「立憲主義」というが、前項で述べた通り、それは憲法絶対を意味しない。問題は、「政治の失調」と見る判断が正しいか否かであって、ここでは、「政治が失調している」ことを前提に、それを憲法を絶対視する観点から阻止しようとしているわけで、これは一つの政治的主張にすぎない。

 それは人々の暮らしの中で具体的にどう働くのか。

 例えば、政党機関紙を配った国家公務員が政治的な中立を損なったとして起訴されたが、裁判で無罪になった例がある。判断の背景には、表現の自由を保障した憲法の存在があった。

 憲法が「表現の自由」を保障していることの重要性を説いているが、現在の政治が「表現の自由」を圧迫していれば問題だが、それは未だ証拠立てられていない。確かに、世論が保守化し、いわゆるリベラル左翼に厳しくなっていることは事実だが、それこそ「表現の自由」の結果と言うほかはない。

 ■民主主義をも疑う
 立憲主義は、時に民主主義ともぶつかる。
 民主主義は人類の生んだ知恵だが、危うさもある。独裁者が民主的に選ばれた例は、歴史上数多い。立憲主義は、その疑い深さによって民主主義の暴走への歯止めとなる。

 立憲主義は民主主義の暴走への歯止めになる、というが、民主主義は憲法を変えることが出来るので、憲法は民主主義の暴走への歯止めにはならないと見た方が良い。民主主義の暴走を防ぐためには、「建前」の議論ばかりでなく「本音」の議論にも十分注意を払い、言論における事実論と価値論を混同しないようにすること。その上で、事実論を合理的、論理的、実証的に行うことで現実を客観的に把握することに努める。次に、社会的に合意形成できる理想像を見定める。その上で、現実から理想像に近づくための実現可能な方策を案出する。政治家に求められているのはこうした政治的リーダーシップなのである。

 根っこにあるのは個人の尊重だ。公権力は、人々の「私」の領域、思想や良心に踏み込んではならないとする。それにより、多様な価値観、世界観を持つ人々の共存をはかる。

 立憲主義の根本にあるのは「個人の尊重」であり、それは思想信条の自由を守ること、との主張だが、現実に起こっていることは、その「思想信条の自由」が保障されているために、自分たちの主張が少数派に転落しかかっているということである。

 ただ、こうした理念が、日本の政界にあまねく浸透しているとは到底いえない。
 自民党は立憲主義を否定しないとしつつ、その改憲草案で「天賦人権」の全面的な見直しを試みている。
 例えば、人権が永久不可侵であることを宣言し、憲法が最高法規であることの実質的な根拠を示すとされる現行の97条を、草案は丸ごと削った。
 立憲主義に対する真意を疑われても仕方あるまい。

 自民党憲法草案が97条(人権が永久不可侵であることを宣言)を削ったことは、「天賦人権」を否定したこと、というが、「天賦人権」とは「神の下の平等という観念を下敷きにした人権論」であって、いわば国家を超えた神の下の平等という宗教的観念に基づくものであり、そうした観念を日本国憲法見直し論議に持ち出すのは滑稽である。憲法の人権規定は、あくまでそれぞれの国家内に適用されるもので、他国に強制できるものではない。

 また、自民党の憲法改正草案が日本国憲法97条を削除したことを「人権が永久不可侵であること」を否定するものであるかのように言っているが、自民党の改正草案では、第11条(基本的人権の享有)に「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことの出来ない永久の権利である」とあり、第97条の削除はそれと重複するから削ったと説明されている。これは事実に反する記述である。

 衆参両院の憲法審査会は昨年、立憲主義などをテーマに討議を再開したが、議論の土台の共有には遠い。
 どんな立場を取るにせよ、憲法を論じるのなら、立憲主義についての真っ当な理解をより一層深めることが前提でなければならない。

 「立憲主義についてのまっとうな理解」という意味が、以上述べたような「政治的主張」に基づくものであれば、それは「おれの政治的主張に対する理解を深めることを前提に憲法を論じよ」と言っているわけで、自己中心的な主張と言うほかはない。

 ■主要国共通の課題
 立憲主義にかかわる議論は、欧米諸国でも続く。
 一昨年のパリ同時多発テロを経験したフランスでは、非常事態宣言の規定を憲法に書き込むことが論じられたが、結果的に頓挫した。治安当局の権限拡大に対する懸念が強かった。
 同じくフランスの自治体が、イスラム教徒の女性向けの水着「ブルキニ」を禁止したことに対し、行政裁判の最高裁に当たる国務院は「信教と個人の自由を明確に侵害する」という判断を示した。
 個人、とりわけ少数者の権利を守るために、立憲主義を使いこなす。それは今、主要国共通の課題といっていい。

 西洋諸国は、今日、同時多発テロの脅威に晒されるようになって、「非常事態宣言」が出された場合は、公共の秩序維持のため、一部「人権」の制限が出来るようにしようという議論だとと思うが、日本でも同じことが頻発すれば同様の議論が起こるだろう。だから、そうした状況を生まないよう、あらかじめ手を打っておくことが肝要だということ。

 環境は厳しい。反移民感情や排外主義が各地で吹き荒れ、本音むき出しの言説がまかり通る。建前が冷笑されがちな空気の中で、人権や自由といった普遍的な理念が揺らぐことはないか、懸念が募る。

 本音(反移民感情や排外主義)と建前(人権や自由といった普遍的理念)のバランスが、建前が冷笑される空気の中で揺らいでいる、と言っているが、先に述べたように、「ポピュリズムの熱狂や激情は本音からだけ生まれるものではなく、むしろ建前から生まれることを知るべき」である。むしろ、過度な「建前」の理想の主張が、「本音」としての反移民感情や排外主義を生んだと考えるべき。

 目をさらに広げると、世界は立憲主義を奉じる国家ばかりではない。むしろ少ないだろう。
 憲法学者の長谷部恭男・早稲田大教授は「立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖(ぎょうこう)である」と書いている。
 であればこそ、立憲主義の理念を、揺らぎのままに沈めてしまうようなことがあってはならない。
 世界という巨大な船が今後も、水平を保って浮かび続けられるように。

 世界が、日本的論理とされる「天秤の論理」の平衡を保っていけるようにすべき、と言っているが、欧米諸国の思考法は、「本音」と「建前」を天秤にかけ、そのバランスを取るような考え方ではない。そうではなく、現実論も理想論も言葉でしっかり規定し、それを全体的に把握することで自らの思想を形成し、それに基づいて行動するのである。宗教的対立や思想的対立が深刻になるのはそのためである。

 それ故、「思想信条の自由の上に立つ立憲主義社会に生きる経験は僥倖」なのであって、それを「天秤の論理」で個人が「理外の理、言外の言」でバランスを取る日本人と同一視してはいけない。それが出来る日本を「政治天才」とイザヤ・ベンダサンは言ったが、自分がどういう思想に基づいて発言しているか自覚することが先ず必要である。朝日の論説委員には、ぜひ『日本教について』を読むことをお勧めしたい。

小池都知事、「根回しなし」は結構だが事実認識を誤っては元も子もない2(2016年12月 5日 掲載)

小池都知事の都知事選におけるパフォーマンスは実にスマートで、安倍首相も”きつい一本を取られた”というほどお見事なものでした。しかし、知事就任後、「東京大改革」の手始めとして氏が行った「豊洲移転延期」と、地下空洞の存在が発覚して以降の氏の問題処理については、コンプライアンスの観点からの疑問に止まらず、事実認識を誤っている、あるいは歪曲だ、との指摘がなされています。

この問題については、橋下徹氏が、小池都知事の「豊洲移転延期」の決断に対して当初から疑問を呈し、豊洲の安全性については、土壌汚染対策が十分すぎる程行われており問題ないこと。費用や利便性の問題は開場後に対応すればよいこと。また、地下空洞については、建築工法上はもちろん土壌汚染対策上も問題ない。小池都知事が「東京大改革」に本気で取り組むなら、まず来年度予算編成に全力を注ぐべきだ、と提言していました。

こうした橋下氏の見解に対して、”小池氏に嫉妬しているのでは”等揶揄する意見もありました。私自身の意見は、技術的な観点では橋本氏の言う通りだが、小池氏としては、都議会の現状から”敵を弱くし見方を増やす政治”をやらざるを得ない。そこで、豊洲の土壌汚染対策の一環としてのモニタリングが完了していない点を突き、その安全性確保に万全を期す姿勢をアピールしたのではないか、というものでした。

といっても、豊洲の安全性については、マスコミの醸成する「空気支配」に振り回されることなく、科学的な検証を経て、出来るだけ早期に開場すべきと考えていました。ところが、「地下空洞」が発覚して以降の小池都知事の対応は、「なぜ地下空洞が設置され、かつそれが隠蔽されたか」の事実解明に向かうより、「地下空洞」設置を「整備方針」違反と決めつけ、その責任者を追求する姿勢が目立つようになりました。

こうした違和感は、私は、10月7日に公表された石原都知事に対する質問状を見て感じました。マスコミでは小池都知事の追求姿勢を囃す意見が大半でしたが、私は、3代前の84歳の老知事に対する質問状としては、いささか酷すぎると思いました。質問の答えは「幹部職員や担当職員からも事情を聞いていただければ、自ずから何があったのかは明らかになる」(石原元都知事の謝罪文)のに、あえて晒す必要があるのかと・・・。

ただ、小池都知事が、「豊洲の安全性」について、都が事実と異なる答弁や説明を議会や都民に対して行ったことを問題にし、個人責任を追求するのは当然だと思います。日本の伝統的なやり方としては、”私の不徳の致すところ”などと言い個人責任を曖昧にする傾向がありますので、同じ過ちを繰り返さないためには、職務上の個人責任を明確にし、然るべき処罰を行う必要があります。

しかし、その処罰を適正ならしめるためには、「なぜ地下空洞が設置され、かつそれが隠蔽されたか」の事実解明をしっかり行わなければなりません。この点、小池都知事はこの事実解明に失敗している。『失敗の本質』などの本を紹介し、意思決定における「空気支配」の問題点を指摘しながら、自身は、この「空気」を支配しようとして逆に「空気」に支配されているように見えます。

こうした疑問は、第二次自己検証報告書で「平成21年2月6日、石原知事決定の「豊洲新市場整備方針」(以下整備方針という)が策定された。技術会議の提言内容(敷地全面A.P.+6.5mまで埋め戻し・盛土)をもって都の土壌汚染対策とすることが明記された。これにより、専門家会議、技術会議の提言は、都の方針となった。」と記述して以降の論理展開に感じるようになりました。

その論旨は次の通り。
整備方針には、「技術会議から報告を受けた土壌汚染対策の具体的内容、経費及び工期をもって、都の土壌汚染対策とする。」と明記され、「埋め戻し・盛土」の項には、「敷地全面にわたり、A.P.+2.0mの位置に厚さ50cmの砕石層を設置する。」「砕石層設置後、計画地盤高(A.P.+6.5m)まで埋め戻し・盛土を行う。」と明記されている。

従って、こうして知事方針となった「整備方針の決定以降、状況の変化等により、仮に整備方針と異なる意思決定を行うことを迫られた場合には、上司等への報告はもとより、整備方針の変更や専門家会議、技術会議への報告など必要な措置を講じるべき状況となった」。従って、その後、「整備方針に反して、建物下に盛土をせず地下にモニタリング空間を設置することを前提に基本設計の作業を進めた」市場長や市場部長級職員の責任が問われなければならない。

また、なぜ地下にモニタリング空間を設置したのか、と言う疑問については、「平成20年後半から21年はじめにかけての時期、土壌汚染対策法改正への対応を迫られた中央卸売市場管理部新市場建設課において、地下にモニタリング空間を設置することによって万が一の場合に備える必要があるとの基本的な認識が生じ、新市場建設調整担当部長の指示のもと具体的な内部検討に入っていたと推察できる。」としている。

こうした論理展開の中で私が抱いた疑問は、石原知事決定の「豊洲新市場整備方針」が「全面盛り土」であったと言うなら、追求さるべきは、その方針に反して地下空洞を設置した者達ではないか。少なくとも、その後の石原氏を地下空洞設置の元凶とするかのごとき風評が生じたが、それは小池氏の石原氏に対する居丈高な質問状や物言いに端を発しているのだから、訂正ないし謝罪をすべきではないか、というものでした。

また、「全面盛り土」による土壌汚染対策が都の方針として決定された、というが、都の「整備方針」には本当にそんなことが書かれているのか疑問に思いました。というのも、私は「全面盛り土」は専門家会議が提言し、その後技術者会議と都の建設部門の技術者が協議して地下空間の設置となった。それが議会で間違った説明をされても問題にならなかったのは、地下空間の設置は技術者間で当然視されていたからではないか、と考えたからです。

その頃、粉屋の大阪to考想」さんのブログ記事「「2016-11-04 東京都市場地下空間に関する調査特別チームの第二次自己検証報告書の検証 ~ 東京都の恣意的な犯人特定の手法と論理破綻 ~」を読みました。そこには、件の「整備方針」には、「技術会議の提言内容(敷地全面A.P.+6.5mまで埋め戻し・盛土)をもって都の土壌汚染対策とする」など書かれておらず、逆に、地下空間設置が予定されていた、との指摘がなされていました。

Seibi

この「整備方針」に記載された表を見ていただくと判りますが、「埋め戻し・盛土」については、①採石層の設置には「敷地全面にわたり」とあるのに、②埋め戻し・盛土には「敷地全面にわたり」の記述が省かれています。このことは、「整備方針」がその提言を承けることとなった「技術者会議報告書」の「埋め戻し・盛土」の記述についても同様です。

Gijyutu


では、もともとの専門家会議の記述はどうなっていたかというと次の通り。対象が「建物建設地」と「建物建設地以外」に区分され、両者とも「埋め戻し・盛土」すると記述されています。

Senmon

これが、どうして「平成21年2月6日、石原知事決定の「豊洲新市場整備方針」(以下、「整備方針」という)が策定された。技術会議の提言内容(敷地全面A.P.+6.5mまで埋め戻し・盛土)をもって都の土壌汚染対策とすることが明記された。これにより、専門家会議、技術会議の提言は、都の方針となった。」という「第二次自己検証報告書」の記述になるのでしょうか。

逆ですね。これは「埋め戻し・盛土」は建物下は行わない、と読むべきです。となると、「第二次自己検証報告書」のその後の論理展開はみな崩壊することになります。つまり、平成21年2月6日、石原知事決定の「豊洲新市場整備方針」で、「建物下は盛り土せず地下空間設置する」となったわけですから、「建物下に盛土をせず地下空間を設けた」市場長や市場部長級職員の責任を問うことなど出来なくなります。

もちろん、議会等で、土壌汚染対策として「全面盛り土」を行ったと事実と異なる答弁をしたり、都の公報等で誤った情報提供をしたことの責任は問われるべきです。しかし、それは、技術部門からの説明が十分なされなかった結果であって、確かに「職責上知りうる立場にあったからその責任は免れない」とは言えますが、少なくとも、彼らは意図的にウソをついたのではありません。

次に、なぜ地下空間を設置したのか、と言う疑問について、第二次自己検証報告書は「土壌汚染対策法改正への対応を迫られた中央卸売市場管理部新市場建設課において、地下にモニタリング空間を設置することによって万が一の場合に備える必要があったため」と推察しています。しかし、「粉屋の大阪to考想」さんは、建物下の地下空洞の設置は、建築工法の常識として当初からあり、モニタリング空間の設置は後から加えられたとしています。

私もそう思います。では、こうした第二次自己検証報告書の無理な解釈がどうして生まれたというと、その原因としては、小池都知事が豊洲移転延期の理由として「2年間のモニタリング検査が完了していないこと」や、地下空間設置の土壌汚染対策としての有効性について専門家会議の了解を得ていない(小池氏の言葉では「オーサライズ」されていない)としたためではないかと思われます。

では、東京都は、何もかも専門家会議の言うとおりにしなければいけないのかというと、専門家会議は「条例上の根拠に基づく「附属機関」ではない」から、最終的な整備方針は都が決定できる。こうした指摘は橋本氏も当初から行っていて、これをより詳細に論じたのが、郷原信郎氏の「小池都知事「豊洲市場問題対応」をコンプライアンス的に考える2016年11月9日 」でした。

こう考えを進めてくると、小池氏が、2年間のモニタリング検査が完了していないことを理由に豊洲移転を延期したことのコンプライアンス上の妥当性が疑われます。また、「整備方針」で「建物下は盛り土せず地下空間設置が決定された」と、事実の歪曲ともとれる無理な解釈をしたのは、小池都知事の”処分ありき”の姿勢を正当化するためたっだのではないかとも疑われます。

この結果、第二次自己検証報告書のこの疑問に対する答えは、都の整備方針に反し地下空洞を設置したのは職員の「ホウレンソウ」が不十分だったため、という陳腐な説明になっています。しかし、都の整備方針に反する重大な決定が「ホウレンソウ」の不十分だけで説明できるでしょうか。事実は、都の整備方針に反してはいないが、議会の説得が困難だったため、あえて「ホウレンソウ」がネグられたのでは。

この間の事情を端的に指摘しているのが、都議会議員のやながせ裕文氏の「豊洲問題。地下空間の隠蔽は、都議会が生み出した」(2016/10/11)です。

「なぜ豊洲市場の地下に、盛り土をせずに「地下空間」を設置したのか?

さまざまな議論がなされているが、「地下空間」を設置したほうが、「工期短縮」「コスト削減」「土壌汚染対策の実効性の担保」といった観点から「盛り土」するよりも優位である、といえる可能性が高い。

では、なぜ、その比較優位な「地下空間」プランを秘密裏に進めたのか?秘密にしなければならない理由は何だったのか?

東京都による内部調査では、技術系職員と事務系職員の縦割り組織のなかで、情報共有がなされずに、空気のように決定されていったと結論付けている。原因は「組織体質の問題」であるとして、責任者を特定させない、隠蔽体質丸出しの報告書となっているが、とても納得できるものではない。

理由は確実にある。地下空間設置を決定した当時の都議会の状況を紐解けば、その理由が見えてくる。

2009年、東京都議会議員選挙では都議会民主党が大躍進し、54議席(定数127名)を獲得。第一会派に躍り出た。「豊洲移転にNO!」を公約として勝利した都議会民主党は、当時の石原知事が決定していた豊洲移転を阻止すべく、議会で攻勢を強めていく。

築地再整備を検討する特別委員会を設置し、豊洲移転の対案として築地での現在地再整備プランを策定。豊洲移転案と築地再整備案を比較検討するという、都議会史上稀にみる激しい論戦が交わされた(民間では当たり前のことだが)。

委員会は怒鳴りあいとヤジの応酬で、一進一退。豊洲移転推進派の自民・公明、現在地再整備派の民主・共産等が、お互いの案の欠点を取り上げあい、激しく批判をしあった。特に、豊洲移転批判の矛先は「土壌汚染対策の実効性」であり、その批判の反論の最たるものが、法で定められている以上の対策である「盛り土をするから安全」というものであった。また、どちらのプランのほうがコストが安く工期が短く済むか、も大きな論点のひとつで、豊洲移転プランはかなり安価なコストで工期も短く設定されていた。

2011年、都議会民主党の議員が切り崩しにあい、怒号飛び交う本会議で、かろうじて1票差で「豊洲市場建設設計予算」が可決。その後、自民党議員の自殺、更なる民主党議員の切り崩しによる造反など、豊洲移転は揺れに揺れて、いつひっくり返ってもおかしくない状況だった。

2011年といえば、報告書によると、6月に地下空間の基本設計が完成し、8月新市場整備部で地下空間設置を確認、9月実施設計の起工と、盛り土をせずに地下空間プランが一気に動いた時期と一致する。

いかに、豊洲市場のコスト削減を図り、工期を短縮するか。盛り土をせずに「地下空間」を設置することは合理的な解答だ。ただし、「盛り土」は土壌汚染対策の中核をなすものとなっており(説明をしており)、これを議会に報告していたらどうなっていたか?

これ幸いと、豊洲移転反対派は息を吹き返し、専門家会議のやり直しを要請。議論は紛糾し、決着まで、さらに長い年月を要することになっただろうことは想像に難くない。場合によっては、豊洲移転がひっくり返ることになったかもしれない。

当時、市場の技術系職員も事務系職員も、議会での議論での矢面に立っていたから、「盛り土」の重要性に対する認識は十二分にあったはずだ。誰かが「これは議会に報告はしない」と決断したのかどうかはわからない。ただ、盛り土しないことを報告すれば、議会での議論が振出しに戻ることもよく理解していただろう。

当時、都庁と都議会を覆っていた張り詰めた空気が、地下空間の隠蔽を生み出した。と私は思う。」

つまり、当時、野党が多数派を形成していた都議会では、豊洲の「ゼロリスク」の土壌汚染対策を求める「空気」が蔓延していた。そのため、専門家会議の全面盛り土の提言とは異なる「地下空間設置」によるの土壌汚染対策の有効性について、都が議会の承認を取り付けることは困難だった。こうした状況の中で、なし崩し的に取られた方策が、「地下空間設置」の事実を建築関係部門に封じ込めることだった・・・。

これが事実だとすれば、真に引き受けるべき課題は何か。一言で言えば、政治的意思決定におけるこのような「空気支配」をいかに脱却するかと言うこと。小池都知事が目指す「根回しなし」フルオープンの政治姿勢は、本来こうした「空気支配」からの脱却を目指していたはずです。であれば、以上指摘したような事実認識の誤りは早急に訂正し、第二次自己検証報告書を出し直すべきと考えます。

小池都知事、「根回しなし」は結構だが事実認識を誤っては元も子もない(2016年12月 5日掲載)

小池都知事の都知事選におけるパフォーマンスは実にスマートで、安倍首相も”きつい一本を取られた”というほどお見事なものでした。しかし、知事就任後、「東京大改革」の手始めとして氏が行った「豊洲移転延期」と、地下空洞の存在が発覚して以降の氏の問題処理については、コンプライアンスの観点からの疑問に止まらず、事実認識を誤っている、あるいは歪曲だ、との指摘がなされています。

この問題については、橋下徹氏が、小池都知事の「豊洲移転延期」の決断に対して当初から疑問を呈し、豊洲の安全性については、土壌汚染対策が十分すぎる程行われており問題ないこと。費用や利便性の問題は開場後に対応すればよいこと。また、地下空洞については、建築工法上はもちろん土壌汚染対策上も問題ない。小池都知事が「東京大改革」に本気で取り組むなら、まず来年度予算編成に全力を注ぐべきだ、と提言していました。

こうした橋下氏の見解に対して、”小池氏に嫉妬しているのでは”等揶揄する意見もありました。私自身の意見は、技術的な観点では橋本氏の言う通りだが、小池氏としては、都議会の現状から”敵を弱くし見方を増やす政治”をやらざるを得ない。そこで、豊洲の土壌汚染対策の一環としてのモニタリングが完了していない点を突き、その安全性確保に万全を期す姿勢をアピールしたのではないか、というものでした。

といっても、豊洲の安全性については、マスコミの醸成する「空気支配」に振り回されることなく、科学的な検証を経て、出来るだけ早期に開場すべきと考えていました。ところが、「地下空洞」が発覚して以降の小池都知事の対応は、「なぜ地下空洞が設置され、かつそれが隠蔽されたか」の事実解明に向かうより、「地下空洞」設置を「整備方針」違反と決めつけ、その責任者を追求する姿勢が目立つようになりました。

こうした違和感は、私は、10月7日に公表された石原都知事に対する質問状を見て感じました。マスコミでは小池都知事の追求姿勢を囃す意見が大半でしたが、私は、3代前の84歳の老知事に対する質問状としては、いささか酷すぎると思いました。質問の答えは「幹部職員や担当職員からも事情を聞いていただければ、自ずから何があったのかは明らかになる」(石原元都知事の謝罪文)のに、あえて晒す必要があるのかと・・・。

ただ、小池都知事が、「豊洲の安全性」について、都が事実と異なる答弁や説明を議会や都民に対して行ったことを問題にし、個人責任を追求するのは当然だと思います。日本の伝統的なやり方としては、”私の不徳の致すところ”などと言い個人責任を曖昧にする傾向がありますので、同じ過ちを繰り返さないためには、職務上の個人責任を明確にし、然るべき処罰を行う必要があります。

しかし、その処罰を適正ならしめるためには、「なぜ地下空洞が設置され、かつそれが隠蔽されたか」の事実解明をしっかり行わなければなりません。この点、小池都知事はこの事実解明に失敗している。『失敗の本質』などの本を紹介し、意思決定における「空気支配」の問題点を指摘しながら、自身は、この「空気」を支配しようとして逆に「空気」に支配されているように見えます。

こうした疑問は、第二次自己検証報告書で「平成21年2月6日、石原知事決定の「豊洲新市場整備方針」(以下整備方針という)が策定された。技術会議の提言内容(敷地全面A.P.+6.5mまで埋め戻し・盛土)をもって都の土壌汚染対策とすることが明記された。これにより、専門家会議、技術会議の提言は、都の方針となった。」と記述して以降の論理展開に感じるようになりました。

その論旨は次の通り。
整備方針には、「技術会議から報告を受けた土壌汚染対策の具体的内容、経費及び工期をもって、都の土壌汚染対策とする。」と明記され、「埋め戻し・盛土」の項には、「敷地全面にわたり、A.P.+2.0mの位置に厚さ50cmの砕石層を設置する。」「砕石層設置後、計画地盤高(A.P.+6.5m)まで埋め戻し・盛土を行う。」と明記されている。

従って、こうして知事方針となった「整備方針の決定以降、状況の変化等により、仮に整備方針と異なる意思決定を行うことを迫られた場合には、上司等への報告はもとより、整備方針の変更や専門家会議、技術会議への報告など必要な措置を講じるべき状況となった」。従って、その後、「整備方針に反して、建物下に盛土をせず地下にモニタリング空間を設置することを前提に基本設計の作業を進めた」市場長や市場部長級職員の責任が問われなければならない。

また、なぜ地下にモニタリング空間を設置したのか、と言う疑問については、「平成20年後半から21年はじめにかけての時期、土壌汚染対策法改正への対応を迫られた中央卸売市場管理部新市場建設課において、地下にモニタリング空間を設置することによって万が一の場合に備える必要があるとの基本的な認識が生じ、新市場建設調整担当部長の指示のもと具体的な内部検討に入っていたと推察できる。」としている。

こうした論理展開の中で私が抱いた疑問は、石原知事決定の「豊洲新市場整備方針」が「全面盛り土」であったと言うなら、追求さるべきは、その方針に反して地下空洞を設置した者達ではないか。少なくとも、その後の石原氏を地下空洞設置の元凶とするかのごとき風評が生じたが、それは小池氏の石原氏に対する居丈高な質問状や物言いに端を発しているのだから、訂正ないし謝罪をすべきではないか、というものでした。

また、「全面盛り土」による土壌汚染対策が都の方針として決定された、というが、都の「整備方針」には本当にそんなことが書かれているのか疑問に思いました。というのも、私は「全面盛り土」は専門家会議が提言し、その後技術者会議と都の建設部門の技術者が協議して地下空間の設置となった。それが議会で間違った説明をされても問題にならなかったのは、地下空間の設置は技術者間で当然視されていたからではないか、と考えたからです。

その頃、粉屋の大阪to考想」さんのブログ記事「「2016-11-04 東京都市場地下空間に関する調査特別チームの第二次自己検証報告書の検証 ~ 東京都の恣意的な犯人特定の手法と論理破綻 ~」を読みました。そこには、件の「整備方針」には、「技術会議の提言内容(敷地全面A.P.+6.5mまで埋め戻し・盛土)をもって都の土壌汚染対策とする」など書かれておらず、逆に、地下空間設置が予定されていた、との指摘がなされていました。

HATENA::DAIARY様への再反論(2015-12-06 00:36:49掲載)

謹告:本稿以後のブログ記事について、千を越えるおびただしいスバムコメントが書き込まれましたので、一旦削除し、コメントを受け付けないよう設定を変更し、記事を再掲することにしました。ご了承願います。


HATENA氏が私の反論に対して再び反論してきましたので、再反論をしておきます。私の反論部分は【】内

スマイス調査をろくに読まない、あるいは都合の悪い箇所は「スマイスの推測に過ぎない」と貶める否定論者CommentsAdd Starkufuhigashi2zakincorawan60
南京事件, 歴史修正主義
以前の「スマイス調査をろくに読まない否定論者」に対して、渡邉斉己氏が反論してきました。

「「南京事件」に関する私論へのHATENA::DAIARY様の反論への反論」

反論箇所1

渡邉氏による“スマイス調査に記載された被害者について「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」”という主張が誤りであるとこちらが指摘した件に対する渡邉氏による反論です。


本調査「まえがき」(M・Sベイツ)には「われわれ自身の立場は戦争の犠牲者にたいする国境をこえた人道主義の立場である。この報告書のなかでわれわれはほとんど「中国人」とか「日本人」等の言葉を使うことなく、ただ農民・主婦・子供を念頭に置いている」と書いている。実際、第4表「日付別による死傷者数および死傷原因」の死亡原因は軍事行動、兵士の暴行という区分はあるが、その加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない。そもそも50戸に1戸の割合で抽出した数字を50倍した被害者数について加害者が誰であったかを正確に推定できるだろうか。なお、この「報告書の作成と調査結果の分析について、指揮者は金陵大学のM・Sベイツ博士の貴重な協力を得た」となっていおり、『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為がこの分析に反映したことは当然である。

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/hatenadaiary-e7.html

要点は以下の2つ。

(i).スマイス調査の表4には「加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない」し、「まえがき」にも「われわれはほとんど「中国人」とか「日本人」等の言葉を使うことなく」と書いてあるから、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」と渡邉氏は結論付けた。

(ii).「『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為が(報告書の作成と調査結果の分析)に反映」されたに違いない、と渡邉氏が考えている。

反論への反論に対する反論1

(i)は要するにスマイス調査に書かれた被害について加害者が明記されていないのだから、日本軍による加害とは言えない、ということですが、最初の指摘記事でも引用した部分に少しだけ追加して示します。


Of those killed 2,400 (74 per cent) were killed by soldiers' violence apart from military operations.(1)

There is reason to expect under-reporting of deaths and violence at the hands of the Japanese soldiers, because of the fear of retaliation from the army of occupation.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

軍事行動の巻き添えではない兵士たちの意図的な暴力による死者は2400人に上るが、占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷被害については過小評価されている可能性があると記載されています。普通に読めば、主たる加害者が日本軍であるという前提での記載としか読めないでしょう。

ベイツの記述「まえがき」として引用した部分が以下です。

For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces - whether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

調査対象期間における、全地域での略奪のほとんど(most of the looting in the entire area)、民間人に対する暴力のほぼ全て(practically all of the violence against civilians)は日本軍によって為された、とはっきり書かれています。「加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない」のではなく、虐殺・暴行のほぼ全て(practically all)について日本軍が加害者であると言っているわけです。

【まず、「スマイス報告」は「戦争とはなにか」と同様、国民党中央宣伝部国際宣伝処の工作を受けて作成されたものだということです(『中国国民党新聞製作之研究』)。(北村稔『「南京事件の探求」P39』)。一見公平を装っていますが、恣意的な解釈が随所に見られます。次に引用された文の前後の文を原文で引用します。

In order to guard against controversial misuse of the present report, we feel it necessary to make a brief factual statement as to the causation of the injuries listed.

The burning in the municipal areas immediately adjoining the walled city of Nanking, and in some of the towns and villages along the southeasterly approaches to Nanking, was done by the Chinese armies as a military measure - whether proper or improper, is not for us to determine.

A very small amount of damage to civilian life and property was done by military operations along the roads from the south-east, and in the four days of moderately severe attack upon the city.

Practically all of the burning within the city walls, and a good deal of that in rural areas, was done gradually by the Japanese forces (in Nanking, from December 19, one week after entry, to the beginning

For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces - whether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.

Beginning early in January, there gradually developed looting and robbery by Chinese civilians; and later, particularly after March, the struggle for fuel brought serious structural damage to unoccupied buildings.

Also, there has latterly grown up in the rural areas a serious banditry which currently rivals and sometimes surpasses the robbery and violence by Japanese soldiers.

In some portions of our report, these elements of causation can be distinguished.

From a humanitarian point of view, we venture merely to point out that losses to life and property from actual warfare are shown by these surveys to be one or two per cent of the total.

The rest could have been prevented if both sides had wished to give sufficient consideration to the welfare of civilians, including reasonable protection by military and civilian police.

ここには概略「城壁に接する市街部と南京の東南部郊外の町村や既払いは中国軍がやった。南京陥落後4日間の攻撃による住民の生命及び財産の損害は極めて少なかった。入場から一週間過ぎて後の焼き払いは次第に日本軍がやるようになった。調査期間内の全域の略奪の大半と、一般市民に対する暴行は、それが正当か不当かは我々の判定するところではないが、同様に日本軍がやった。1月初旬以来、中国人による略奪と強盗が徐々に広がった。特に3月以降は燃料争奪戦のために空き家に構造上の被害が出た。また、後には農村部において深刻な盗賊行為が増加し、今では日本軍の強盗と暴行に匹敵し、時にはこれを凌ほどになった」などが書かれています。中国軍も中国人もいろいろやったわけですね。なお、このスマイス報告はアメリカや中国が訴える被害者数に比べて少なすぎたために、東京裁判の証拠として採用されませんでした。残念!】

このベイツの記述は渡邉氏にとって都合が悪かったせいか、(ii)の主張に繋がります。「『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為が(報告書の作成と調査結果の分析)に反映」されたに違いない、という渡邉氏の示唆ですが、要するにベイツが作為的に捏造・改竄したとほのめかしているわけです。しかし、その根拠は一切示されません。

「『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割」なるほのめかしだけで、渡邉氏や否定論者たちにとっては十分なのでしょうが、これでは反論とは言えません。

【「戦争とはなにか」でベイツの果たした役割については、アゴラの拙稿参照。ベイツもスマイスも「南京安全地帯の記録」では不法とは言えなかった便衣兵摘出処断を、どうにかして捕虜不法殺害や市民殺害に思わせようとしました。そこで、「この本をショッキングな本にするため、学術的なバランス感覚を犠牲にして劇的な効果を上げ」(南京事件資料集アメリカ関係資料編p371)ようとして「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうち約30%はかって兵隊になったことのない人々である」という記述を三章に追加挿入したのです。しかし、この部分の記述があると本の真実性が損なわれるので、この本と同時に出版された「漢訳本」からはこの部分は削除されているそうです(『国民党極秘文書から読み解く』東中野修道)。なおこの部分の原文は次の通り。
This is not the place to discuss the dictum of international law that the lives of prisoners are to be preserved except under serious military necessity, nor the Japanese setting aside of that law for frankly stated vengeance upon persons accused of having killed in battle comrades of the troops now occupying Nanking. Other incidents involved larger numbers of men than did this one. Evidences from burials indicate that close to forty thousand unarmed persons were killed within and near the walls of Nanking, of whom some 30 per cent had never been soldiers.

この文のnor以下を洞氏は「日本軍もまた、国際法など眼中になく、今南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告発した人間に対しては復讐すると公然と言明したのである」と訳しています。しかしこれは、not ~nor構文であって、正しくは「捕虜の生命が重大な軍事的必要以外には保障されるという国際法の条文を論じる場所ではないし、・・・復讐すると公然と言明し国際法を無視した日本兵について論じる場所でもない」でしょうね。】

反論箇所2+反論への反論に対する反論2

占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷被害については過小評価されている可能性があるとの指摘に対する渡邉氏の反論が以下です。


この英文資料の邦訳は『日中戦争資料9南京事件?』(s49年刊)で読むことができる。この本をご存じないか、それとも訳文に不満か。この文章はスマイスの推測。そもそも加害者を特定しない調査であるから日本軍の報復を怖れる必要はないと思うが。

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/hatenadaiary-e7.html

前半部分の意図はよく分かりません。英語というかなり一般的な言語で書かれたWEB上で閲覧できる原文資料があるのに、わざわざ書籍の邦訳にあたる必要性はあるとも思えませんし。これがロシア語とかアラビア語とかであれば、邦訳にあたりますけど、英語ですからねぇ。

後半部分はあきれる他ありません。「加害者を特定しない調査」なら、ソ連軍占領下でもイスラム国支配下でも住民は何も恐れず被害実態について答えてくれると思ってるんでしょうか。

【だから「訳文に不満か」と聞いているのです。不満がなければ邦訳の方が読者に親切でしょう。もちろんHATENAさんのように文脈を無視したつまみ食いの翻訳をしてはいけません。なお、洞氏の訳に見るように専門家でも意図的な誤訳をする場合もありますので原文で確認する必要はありますね。なお、「加害者を特定した告発のための調査」より「加害者を特定しない調査」の方がより正確な調査ができると思いますが。】

「There is reason to expect under-reporting」という可能性の指摘ですから「スマイスの推測」なのは当然の話ですが、重要なのはその推測が妥当かどうかであって、占領軍による暴力被害について占領下の住民が訴え出る上での心理的障壁という一般的な認識があれば、「スマイスの推測」が妥当なのは誰でも分かる話です。南京事件否定論者は、加害者が日本軍の場合だけ、そういう一般的な認識を喪失する傾向が強いんですよね。

【スマイス調査は、南京における被害状況調査としては第一次資料として扱えますね。ティンパーリーの『戦争とはなにか』より良心的です。ベイツに付き合って4,200拉致の付記として「12,000人の一般市民が暴行によって死亡した」としましたが、本表の数字は改竄しませんでした。なお、農業調査の郊外4県半の死者数の統計の取り方に、被害を水増しする作為があることが北村稔氏より指摘されています。いずれにしろ、HATANAさんが主張するように信のおけるものなら東京裁判で証拠採用すべきでした。よほど都合が悪かったのでしょう。】

反論箇所3+反論への反論に対する反論3

渡邉氏は最初の記事で、「(虐殺拉致被害者)6,600人は、一般市民ではなくこの期間に掃討された兵士の数である可能性が大である」と何の根拠もなく決め付けています。要するに渡邉氏の推測に過ぎないわけですが、スマイス報告にはこう明記されています(前記事で指摘済みですけどね)。


The figures here reported are for civilians, with the very slight possibility of the inclusion of a few scattered soldiers.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

これに対する渡邉氏の反論が以下です。


これもスマイスの推測に過ぎない。6.600人の内拉致された4,200人について、スマイスは「拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた」と記している。兵士の暴行による男1,800人の死亡の47%846人が元兵士であったとすると、5,046人が元兵士の疑いをかけられたことになる。

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/hatenadaiary-e7.html

渡邉氏は自らの推測に過ぎない「6,600人は、一般市民ではな」いという主張にスマイス報告の記載をもって反論されると、「これもスマイスの推測に過ぎない」と否定するわけですが、スマイスと渡邉氏では同じ推測でも信憑性に雲泥の差があります(どちら泥の方かはあえて言いませんけど)。

さて、渡邉氏は、拉致被害者4200人を敗残兵と決め付けている根拠をスマイス報告の記述に求めていますが、「形式的に」と書かれているのが読めなかったのでしょうか。

原文は「often accused, at least in form, of being ex-soldiers」ですね。

The men taken away were often accused, at least in form, of being ex-soldiers; or were used as carriers and laborers. Hence it is not surprising to find that 55 per cent of them were between the ages of 15 and 29 years; with another 36 per cent between 30 and 44 years.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

言うまでもなく、元兵士と告発された(accused)イコール兵士ではありません。まして形式的(in form)では話になりません。どうも渡邉氏にとって、20~40歳くらいの中国人男性は全て兵士と見なして拉致して構わない存在のようですね。

【at least in form「少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた」と言っているでしょう。この場合の「形式的」は、元兵士であるかどうかの判別のための一定の調査をした、ということでしょう。もちろん、現地召集の雑兵が混じっていたため判別が難しいということはあったと思います。ただ、兵士が軍服を脱いで民間人になりすませば、まだ戦闘継続中なのですから掃討の対象となり、摘出された場合は不法戦闘員扱いされ直ちに処断されても文句が言えないことになります。だから、ベイツやスマイスは「少なくとも公式には」これを非難できなかったのです。】


この調子でずっと渡邉氏の反論と称するものが続くのですが、すべてに反論すべきかどうか悩みます。「拉致と連行とは違うのでは。」とか訳の分からぬものまでありますから。

【この調子でHATENA氏に反論すべきかどうか悩みます。拉致と連行を区別できない訳の分からぬものまでありますから。なお、拉致という項目は最初の調査書では「死傷者のうちの一項目『事情により』」に書き込まれた数字を拉致(take away=連行?)としたものだと説明されていますよ。】

Indeed, upon the original survey schedules, they were written in under the heading "Circumstances," within the topic of deaths and injuries; and were not called for or expected in the planning of the Survey.

南京事件では”一般市民の組織的虐殺はなかった”(2015-12-02 22:44:04投稿)

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(12/1アゴラ投稿論文)
去る11月12日のフジテレビプライムニュースで、南京事件をめぐって大虐殺派の山田朗氏、中間派の秦郁彦氏、まぼろし派の藤岡信勝氏の討論が行われた。山田氏は南京陥落時の人口が60万位いたとか、崇善堂の埋葬記録(11万)を根拠に加えて十数万の犠牲者が出たなどと怪しげなことを述べていた。

秦氏は『南京事件』の3万人の捕虜不法殺害、1万人の一般市民殺害を主張していたが、後者の1万は、スマイス調査の江寧県等4県半の地域での犠牲者数より算出したもので、南京陥落後の「南京城及びその周辺」の犠牲者数ではない。その他、自説の根拠をティンパーリーの『戦争とはなにか』に求めたり、厳密を欠くエピソードを連発するなど、研究の停滞を感じさせた。

藤岡氏の発言で最も重要なものは”南京戦はあったが、一般市民の組織的な殺害はなかった”だが、幕府山事件の弁明は苦しげで、山田支隊が長勇の捕虜殺害の「私物命令」を無視して捕虜を解放しようとして失敗し、捕虜暴動から鎮圧に至った状況の説明をしなかったのは不可解だった。

だが、いずれにしろ、山田氏も秦氏も、南京陥落後に”一般市民の組織的殺害があったか否か”という論点については、安全区からの便衣兵の摘出処断や、幕府山事件における捕虜殺害に一般市民が含まれていた可能性を述べるだけで、”一般市民の組織的殺害はなかった”とする藤岡氏の主張に反証できなかった。

そこで問題となるのが、安全区からの便衣兵の摘出処断や、幕府山事件のような捕虜の殺害が、当時の戦時国際法に照らして合法であったか否かということだが、当時、国民党も国際連盟も、そして南京安全区国際委員会も公式にはこれを非難しなかったわけで、この事実を無視するわけには行かない。

おそらく、国民党にしてみれば、万を超す中国軍兵士が軍服を脱いで安全区に逃げ込んだり、敵に数倍する兵士がむざむざ投降したのは、「勇敢に敵を倒す忠誠な将士」にあるまじき行為だったに違いない。まして、それは南京防衛軍司令官の「敵前逃亡」によりもたらされたわけで、下手に抗議してやぶ蛇になることを恐れたのかもしれない。

そこで、これを「人道的見地」から非難する役割は「我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言者になってもらう」(『曾虚白自伝』)ことにしたのである。そのための宣伝本がティンパーリーの『戦争とはなにか』と『スマイス報告』だった。

これらの著作に関わった宣教師らは一定の節度は示していて、「南京安全地帯の記録」に掲載された事件について「これらは、我々の雇員により書面で報告された事件である」(匿名の中国人協力者の書面報告を英文に翻訳したもの)と注記していた。また、中国兵の処刑や戦争捕虜の処刑についても、国際法上の判断を避ける記述をしていた(『「南京事件」の探求』北村稔)。この点、同書の洞氏訳には、多くの意図的誤訳があることが北村氏や冨澤繁信氏により指摘されている。

しかし、その一方で、彼らは、『戦争とはなにか』では、中国国民党中央宣伝部の意を受けて「日本軍の暴虐」を伝聞を利用し醜悪かつ誇大に記述した。また、便衣兵等の摘出処断についても、捕虜の不法殺害や一般市民の虐殺を思わせる記述をした。

さらに、その記述は、s13年3月に紅卍会の埋葬記録が4万弱と出たことで、「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三0パーセントはかって兵隊になったことのない人々である」とエスカレートした。(なお、この加筆記述は、『戦争とはなにか』とほぼ同時に刊行された、その漢訳本『外人目撃中の日軍暴行』からは削除されているという―『南京事件国民党極秘文書から読み解く』東中野修道)

では、こうした「日本軍残虐宣伝」は何を目的にしていたかというと、これは『戦争とはなにか』の「結論」に記されているが、「中国が屈服することは許されない」それを許せば「現在、中国が体験している言語に絶する惨禍を繰り返す危険を冒すことになる」。これを防ぐためには、イギリスとアメリカは日本に経済的圧力を加えるべきであり、中国に武器援助や財政援助をすべきと訴えるためだった。

こうした宣伝工作が功を奏して、アメリカによる対日経済制裁が始まり、ひいてはアメリカを中国の抗日戦争に巻き込むことに成功したのである。さらに、こうした宣伝工作は、日本敗戦後の東京裁判決にも決定的な影響を与えた。このことは『戦争とはなにか』の記述が、エドガー・スノーの『アジアの戦争』(1941)によって、日本軍の残虐宣伝から、さらに日本人及び日本文化の残虐宣伝に変容したことによってもたらされた。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明参照)

そこでは、南京における日本軍の「残虐行為」は次のように描写された。
「南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世界に聞こえている。南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会の改称)・・・の委員が私に示した算定によると、日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもその大部分は婦人子供だったのである」「いやしくも女である限り、十歳から七十歳までのものはすべて強姦された」「この世界の何処においても日本の軍隊ほど人間の堕落した姿を念入りに、そして全く組織的に暴露しているものはない」日本人は「人種的に関連のあるイゴロット人の場合と同じく医者と首狩り人が今もなお併存している」「日本軍の精神訓練は・・・封建的な武士道に立脚している・・・今日行われている武士道は、気違いじみた人殺しの承認に過ぎぬ」

こうしたスノーによる日本人の描写が、太平洋戦争における日本軍の”バンザイ突撃”や”カミカゼ自殺部隊”の目撃を経て、アメリカ知識人の日本人観を形成した。そこでGHQは、「南京大虐殺」を日本本土の無差別爆撃や原爆投下の非人道性を相殺する格好の宣伝材料として利用した。GHQは、昭和20年12月8日から「太平洋戦争史」の掲載を新聞各紙に命じ、その連載の初日「南京虐殺」は次のように描写された。

「このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。 婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された」。同様の描写は、この「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにしたNHKのラジオ放送「真相はこうだ」、さらに「真相箱 」へと引き継がれた。また、これを受けて東京裁判では、新たな南京での証拠集めがなされ、中国は「30万大虐殺」を唱えるようになり、そして今日、「南京大虐殺」はユネスコ世界記憶遺産に登録された。

虚偽の謀略宣伝を放置すれば、それがいかに事実とかけ離れた大虐殺事件に変貌するか、まさに恐るべき情報戦争の世界である。では、日本人はこれにどう対処すべきか。秦氏は、「あったことは否定せず、訂正すべき部分は直すようにする」(プライムニューステキスト)と提言している(番組での実際の発言は”不毛の論争は止めた方がいい”だったが)。

では、その「あったこと」とは何か。私見では、それは南京陥落時の捕虜等の扱いにおいて、松井司令官より解放命令が出されたにもかかわらず、上海派遣軍参謀、長勇による”皆殺し”「私物命令」があったことが、拙速な便衣兵処断や捕虜暴動鎮圧を招いたこと。日本軍の統制さえしっかりしていれば避け得た事件だったのではないか、ということである。

一方、「訂正すべき部分」とは何か。それは先に述べた如く、そうした日本軍の統制の乱れに起因する「南京事件」は確かにあったが、少なくとも”一般市民の組織的な虐殺はなかった”ということ。このことを、日本政府は明快に主張すべきだということ。もちろん、これは、日中戦争を招くに至った日本の軍部主導の「力による大陸政策」を正当化するものではないことは、言うまでもない。

「南京事件」に関する私論へのHATENA::DAIARY様の反論への反論(2015-11-08 03:08:15投稿)

謹告:本稿以後のブログ記事について、千を越えるおびただしいスバムコメントが書き込まれましたので、一旦削除し、コメントを受け付けないよう設定を変更し、記事を再掲することにしました。ご了承願います。


拙稿「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」に対して、HATENA::DIARY氏から以下のような反論がありましたので、それに対する私の反論を掲載します。斜線部分が私の反論。

スマイス調査をろくに読まない否定論者
南京事件、歴史修正主義
アゴラ「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」における渡邉斉己氏の否定論についてです。

タイトルは「南京戦史」ですが、記事中(と言うより「南京戦史」が)ではスマイス調査についても言及されています。
市部調査の加害者についての印象操作
まず、この記述。

では、このスマイス調査にはどのような数字が書き込まれているか。「本調査」第四表によると、南京市部における、12月13日~翌1月13日の間の兵士の暴行(日付不明150を加える)による死者2,400、拉致され消息不明のもの4,200、合計6,600となっている。この数字は、その大部分が日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもので、かつ、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。

「この数字は、その大部分が日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもの」なら、加害者は日本軍と考えるのが普通ですが、渡邉氏は「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」と付け加えています。

本調査「まえがき」(M・Sベイツ)には「われわれ自身の立場は戦争の犠牲者にたいする国境をこえた人道主義の立場である。この報告書のなかでわれわれはほとんど「中国人」とか「日本人」等の言葉を使うことなく、ただ農民・主婦・子供を念頭に置いている」と書いている。実際、第4表「日付別による死傷者数および死傷原因」の死亡原因は軍事行動、兵士の暴行という区分はあるが、その加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない。そもそも50戸に1戸の割合で抽出した数字を50倍した被害者数について加害者が誰であったかを正確に推定できるだろうか。なお、この「報告書の作成と調査結果の分析について、指揮者は金陵大学のM・Sベイツ博士の貴重な協力を得た」となっていおり、『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為がこの分析に反映したことは当然である。

ちなみにスマイス調査では、表4の市部調査に関連する記述で以下のようなものがあります。

There is reason to expect under-reporting of deaths and violence at the hands of the Japanese soldiers, because of the fear of retaliation from the army of occupation.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

占領している日本軍を恐れて、日本軍による虐殺・暴行が過小評価されている可能性にスマイスはわざわざ言及しているわけです。

この英文資料の邦訳は『日中戦争資料9南京事件Ⅱ』(s49年刊)で読むことができる。この本をご存じないか、それとも訳文に不満か。この文章はスマイスの推測。そもそも加害者を特定しない調査であるから日本軍の報復を怖れる必要はないと思うが。

虐殺犠牲者を便衣兵扱い

ここで注意すべきは、この6,600人は、一般市民ではなくこの期間に掃討された兵士の数である可能性が大であること。また、この掃討について『南京戦史』は、「ことに城内安全区掃討(12月14日~24日)や兵民分離(12月24日~13年1月5日頃)の際、我が軍としては一応選別手段は講じたけれども、便衣兵と誤ったケースもあったようであるが、その最大の原因は安全区の中立性が犯され、便衣の敗残兵と一般市民が混淆してその選別が極めて困難になったことがある」としている。

渡邉氏はスマイス調査で示された虐殺拉致被害者らは、中国兵だと決め付けています。しかし、スマイスは基本的にこれらを市民(civilians)と呼び、少数の敗残兵が含まれている可能性が極僅か(the very slight possibility)だと言っています。

The figures here reported are for civilians, with the very slight possibility of the inclusion of a few scattered soldiers.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

これもスマイスの推測に過ぎない。6.600人の内拉致された4,200人について、スマイスは「拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた」と記している。兵士の暴行による男1,800人の死亡の47%846人が元兵士であったとすると、5,046人が元兵士の疑いをかけられたことになる。

さらに言えば、虐殺された2400人のうち650人は女性ですし、男性も半数(53%)は14歳以下と46歳以上で敗残兵とはまず考えられません。虐殺犠牲者の性別・年齢構成を考えれば、そのほとんどは市民であったとしか言いようがなく、「便衣兵と誤ったケースもあったようである」などという言い訳は通用しません。

この650人という数字は、紅卍会の埋葬記録(『侵華日軍南京大屠殺檔案』)では、死体数男41,183人、女75となっている。そもそもこの調査は市部では50戸に1戸の割合で調査し、その数を50倍して求めたものであり、調査段階の数字は13人だったことになる。いずれにしても、虐殺犠牲者の「ほとんどが市民であったとしか言いようがない」とはとても言えない。

拉致された4200人について言えば、男性ばかりで年齢も15才~44歳ですが、スマイスは給仕や売春を強要された女性の拉致被害者が短期間で帰れたのに比べて、深刻であることを指摘しています。また、その4200人も、中国兵だったというのは考えにくく実際、3月に13000家族が連行された家族の解放を求めていたことにスマイスは言及しています(このあたりの話は以前も書いています)。

拉致と連行とは違うのでは。

農村調査での犠牲者も否定。

また、スマイス調査における江寧県での死者9,160人という数字は、あくまで城外の(調査した100日間)の死者数であり、かつ「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。また、「我が軍の中国一般市民に対する基本的態度は、これを敵視しないことであった。市民の被害は我が軍が中国軍を攻撃し或は掃討などの戦闘行為をとったさい、その巻き添えによってやむなく殺害された場合を除いて、すべて個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」としている。

ここでも加害者が日本軍(だけ)ではないように印象操作する否定論を展開していますが、実際にはスマイス調査の報告書には以下の記載がちゃんとあります(この部分はベイツによる)。

Practically all of the burning within the city walls, and a good deal of that in rural areas, was done gradually by the Japanese forces (in Nanking, from December 19, one week after entry, to the beginning of February). For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces - whether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

この文章は本調査の「まえがき」にあるが、この前段には「南京の城壁に直接接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである」とある。なお中国軍の堅壁清野作戦をご存じか。また、「調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民に対する暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた」という記述が伝聞に過ぎないことは、拙稿「『南京大虐殺』が創作された歴史的経緯」で論じた通り。さらにwhether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.
訳文「そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない」と但し書きされていることに注意されたし。

「個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」という言い訳についてもスマイス調査から否定されています。

87 per cent of the deaths were caused by violence, most of them the intentional acts of soldiers.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

このように、ほとんどは日本兵による意図的な暴力(intentional acts of soldiers)だと書かれています。

これは「調査で回答のあったこの100日中の志望者総数」についてのもので、「死亡者の87%は暴行事件による死亡で、大半は兵士の故意によるもの」とあるだけで、その加害者が日中いずれであるかは問題とされていない。

そもそも江寧県しかカウントしないこともおかしい

大体、スマイス調査では江寧県以外に、句容県(暴行死:8530人)、溧水県(暴行死:2100人)、江浦県(暴行死:4990人)、六合県(半分のみ)(暴行死:2090人)の調査が行なわれていますから*1、それらを無視しているのもおかしいんですけどね。

拙稿では「日本軍が南京占領後、翌年1月までの間に発生した中国軍民の不法殺害」を問題にしている。なぜなら、「南京大虐殺記念館」の30万という数字が、「日本軍占領後6週間、城内外都市部とその近郊でで起こった虐殺事件」における虐殺数としていることと、江寧県以外の県における犠牲者については、南京城陥落以前の戦闘中に発生したものと見るべきだから。

そして結論として、スマイス調査の6,600人+9,160=15,760人という数字について「この中には前述したように、戦闘員としての戦闘死、戦闘行為の巻き添えによる不可避なもの、中国軍による不法行為や、また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ、さらにスマイス調査実施の際の手違いや作為も絶無とは言えない。また、第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても生命を完うした者もあるかもしれない」ので、「一般市民の被害者数はスマイス調査の15.760よりもさらに少ないものと考える」としている。

スマイス調査で挙げられている暴行死者数は、基本的に「戦闘死、戦闘行為の巻き添え」を除外しています。表4は、「Military Operations 」と「Soldiers' violence」を明確に区別していますし、表25でも「Causes of Death」の内訳を「Violence」としてカウントしています。

「暴行による死亡」には「戦闘死、戦闘行為の巻き添え」が含まれているのでは。なお、ここでも、その加害者が日中いずれであるかは問題とされていない。

「中国軍による不法行為や、また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ」などというのも、調査対象の日付とベイツの記述から明らかなように改竄に等しい内容です。

繰り返しますが、「For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces」とはっきり書かれています。

これも本調査のベイツが記した「まえがき」にるもので、この期間の市民に対する暴行のほとんどを日本軍の所為にしているところに、ベイツによる明らかな作為が看取される。それは「戦争とはなにか」の記述における作為と同じ動機によるもの。

「第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても生命を完うした者もあるかもしれない」というのもひどい話で、スマイス調査報告が出る1938年6月の時点まで、半年経ってなお行方不明の者を“生きているかもしれない”といって犠牲者数を過小評価するのは異常です。

こうした判断は『南京戦史』によるものだが、必ずしも異常とは言えないのでは。捕虜として収容されていたものや「荷役と労務に使われた」例もあったであろう。

そもそも、拉致被害者4200人という数字自体が少ないという可能性をスマイスは指摘しています。

The figures for persons taken away are undoubtedly incomplete.

Indeed, upon the original survey schedules, they were written in under the heading "Circumstances," within the topic of deaths and injuries; and were not called for or expected in the planning of the Survey.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

この文章は「数字自体が少ないという可能性」について述べたものではなく、最初の調査票には「拉致」がなく死傷者の「事情により」の欄に書き込まれた数字であったので、不完全だと言うのがより正確である。

まともにスマイス調査を読めば、市部調査の暴行死2400人、拉致4200人、江寧県の暴行死9160人、句容県の暴行死8530人、溧水県の暴行死2100人、江浦県の暴行死4990人、六合県(半分のみ)の暴行死2090人を合せた33470人でさえ、市民の犠牲者数見積もりとしては控えめな数字だとわかります。

「一般市民の被害者数はスマイス調査の15.760よりもさらに少ないものと考える」のは、最初から犠牲者数の過小評価、あわよくば皆無にしようという偏向の表れに過ぎません(そもそも「南京戦史」はそういう目的で編纂されたわけですから当然ですが)。

貴方の主張には「あわよくば犠牲者数を水増ししようという偏向の表れ」が見える。拙稿では『南京戦史』の紹介をしたわけだが、これが今日までの南京事件に関する研究では最も信頼に値するものだと私は評価している。多くの研究者も同様の評価だと承知している。

それにしても、未だに南京軍事法廷や東京裁判を“結論先にありき”であるかのように批判する論者は大勢いますけど、それなら、南京事件を否定しようという“結論先にありき”で編纂された「南京戦史」を鵜呑みにするのはどうなのか、と思わざるを得ませんし、そのようなスタンスで編纂した「南京戦史」でさえ南京事件は否定できなかったことの重みを感じて欲しいものとも思います。

拙稿で私は「南京事件」はあったが一般市民を対象にした「計画的かつ意図的な南京大虐殺はなかったと言っている。もちろん『南京戦史』もそういうスタンス。「それにしても、未だに南京軍事法廷や東京裁判を“結論先にありき”であるかのように肯定する論者」がいるが、”結論先にありき”ではなく、まず事実に肉薄することが先で、その上で当時の時代条件の中でフェアーにその行為の当不当を考えるべきではないか。なお、『南京戦史』はその当不当についてはそれを判断する具体的な資料がないので避けた」と言っている。また、南京軍事法廷や東京裁判がおかしなことは”結論先にありき”でなくても少し勉強すればすぐ分かる。

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