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2019年8月29日 (木)

加藤陽子『戦争まで』を読んだ私の批判的感想(2017-01-16 20:11:21掲載)

 以下、「かって日本は、世界から『どちらを選ぶか』と三度、問われた。良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線」とキャッチコピーの付された本書を読んで考えたことを記しておきます。

 本書は、日本近現代史の学者である著者が、中学生や高校生を相手に、2015年に出された「内閣総理大臣談話」を批判する形で、満州事変、日独伊三国同盟、1941年4月から真珠湾攻撃に至るまでの日米交渉について、「従来の解釈を否定する新解釈」を示しながら、それを、現在安倍内閣が進めている憲法改正論議に「正しく反映させよう」として書かれたものです。

 結論から先に言えば、この本は、最新の研究成果がいろいろ紹介されていることは素人としては大変有り難いのですが、上記のような政治的意図が根っこにあるせいか、「従来の解釈を否定する新解釈」に、いささか一方に偏するものがあるように思われましたので、具体的にその部分を指摘しておきたいと思います。

 まず、リットン報告書が示した満州事変後の満州問題の解決策についてですが、「リットン報告書の内容は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざまに工夫したものだった。リットン報告書には、交渉が始まった後、日本が有利に展開できる条件が、実のところいっぱい書かれていた」「タフな交渉になると予想されましたが、日本と中国が二国間で話し合える前提を、リットンは用意していました」というのは、その通りだと思います。

 ただ、この問題は、結局、日本が華北の既得権益を全面放棄した上での「満州国承認問題」に収斂しており、中国側は「棚上げ」まで譲歩、日本側はその「黙認」を求めました。しかし、中国国内の抗日運動が激化する間、中国側の交渉態度が次第に硬化し、実質的な和平交渉に入ろうとする矢先、盧溝橋事件が勃発、ついで上海事変が勃発し、日中全面戦争に突入した、というのが事実に即した事態の推移です。

 つまり、リットン報告書の提出以降、日本側は「軍部の主導する満州侵略の道はだめなのだ」「実際に様々の選択肢がある」ということに全く気づかなかったわけではないのです。それに気づいたからこそ、日本は華北の既得権全面放棄による日中和平を提案したのです。しかし、中国側が、国内の抗日運動に引きずられる形で、日本の不拡大方針を無視し、日中全面戦争に持ち込んだのです。

 もちろん、こうした流れを必然ならしめた原因が、満州問題を武力で解決しようとした関東軍一部将校の暴走にあったことは紛れもない事実です。ただ、そうした行動は即中国の植民地化を目指していたわけではなく、問題は、日本側の中国側に対する「排日停止・経済提携・共同防共」の要求が、アジア主義的なパターナリズムに根ざしていたこと。それが中国の主権侵害になることに気づかなかったのです。

 石原自身はこうしたアジア主義的主張を政治的・軍事的にコントロールする力はあったようですが、そのエピゴーネン達は、それを表面的に模倣することしか出来ず、中国が抗日戦争に訴えたことを、一撃でもって膺懲出来るとして戦争を受けて立ったのです。しかし、戦争は予想に反し泥沼化しました。そこで、この戦争の名分を再構築する必要に迫られ、これが近衛の東亜新秩序=東亜ブロックの主張となったのです。
 
 次に、日独伊三国同盟締結について。加藤氏は、なぜヒトラーは日本との同盟を選択したかについて、「イギリス側の、不屈の抗戦意識を支えているのは、ソ連の存在とアメリカの存在への希望である」「ソ連が脱落すれば、日本を北から軍事的に牽制する国家がなくなり、日本は自由に東アジアの根拠地である香港・シンガポールや、アメリカの軍事基地があるフィリピンを脅かすことが出来る」。従って、アメリカはソ連を脱落させないため対英援助を諦める、と考えたからだとしています。 

 さらに、こうしたヒトラーの思惑がさらに発展して、イギリスへの圧迫強化のための「対ソ攻撃」に結びついたとしています。しかし、この対ソ攻撃は、結果的にソ連を連合国側に追いやることになったわけで、日本にしてみれば、4カ国連携でアメリカに圧力を加えることができなくなった。この結果、独ソ開戦以降、アメリカの日米交渉に臨む態度が一転して冷ややかになりました。

 この日米交渉でアメリカは、日本に対して日独伊三国同盟の空文化を求めました。これに対して日本は、アメリカが対ドイツ戦に参戦した場合でも、自動的な参戦義務はないと説明しました。日本がドイツと同盟を結べば、日本は、ドイツの惹起した第二次世界大戦に対する中立的な立場から、米英に敵対する立場に立つことになるわけで、大きなリスクを背負い込むことになります。

 この点について加藤氏は、なぜ日本がこうしたリスクを犯してまでもドイツと同盟したかについて、その動機として、ドイツが欧州戦争で勝利することを確信し、戦後の東南アジアにおける、フランス、イギリス、オランダの旧植民地の支配権=勢力圏をめぐって有利な地位を確保しようとしたため、としています。つまり、従来定説とされてきた”バスに乗り遅れるな”ではないと。

 しかし、”バスに乗り遅れるな”は、単にドイツへの迎合を示すだけではなく、その背後に実利的な思惑があったことは当然です。それが、ドイツにすでに降伏したフランス、オランダ、イギリスの旧植民地の戦略資源であったことは、日本が、これらの資源の輸入を外国に依存しており、、かつ、それが日本に対する経済制裁の手段になっていたのですから、その桎梏から逃れようとしたのです。

 そこで、アメリカは、日本軍が昭和16年7月28日に南部仏印に進駐すると、それは、東南アジアからイギリスへの資源供給ルートを遮断することになるから、イギリスを支援するアメリカは、それを阻止するため在米日本資産の凍結や石油の対日全面禁輸を断行しました。日本軍は、南仏進駐は平和裏になされたわけだし、まさかアメリカがそこまでやるとは思っていなかったと言います。

 では、なぜアメリカは、こうした強硬措置を執ったかについて、加藤氏は、こうした措置を執ったことをルーズベルト大統領もハル国務長官も一月ほど知らなかったと言っています。それは対日強硬派のモーゲンソーらが執った措置だと言うことですが、モーゲンソーらは、日本は資源のない「粘土足の大国」だから、アメリカが経済圧迫を掛ければ屈服するほかないと考えていたそうです。

 ここで、昭和16年4月に始まった日米交渉で、アメリカ側から提出された「日米諒解案」の具体的内容について見てみたいと思います。加藤氏は、日米諒解案に関して「アメリカの日米交渉にかける熱意を考える際、最も大きな影響を及ぼしたのは、日本の南部仏印進駐だった」と言っています。では、日米両改案には何が書かれていたかというと、

一、日米両国の基本秩序の尊重
二、三国同盟は防衛的なものであること。また、米国の欧州戦争に対する態度は自国の福祉と安全とを防衛するためにのみ決せられること。
三、支那の独立・非併合、門戸開放、日支間の協定に基づく日本国軍隊の支那領土撤退、蒋政権と汪政権の合流等の条件の範囲内で、善隣友好、防共共同防衛、経済提携の原則に基づき、日本が具体的和平条件を支那側に提示する。
四、日米両国は太平洋において相互に他方を脅威する海軍兵力及び航空兵力を配備しない。五、日米間の新通商条約の締結及び金融提携、今次の了解成立後日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障する。
六、南西太平洋方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国は日本に協力する。
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針、東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等をしない。フィリピン独立保障、米国及南西太平洋に対する日本移民の無差別待遇が与えられる。
日米両国代表者間の会談の提唱、本会談では今次了解の各項を再議せず、両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとする。

 この案は、41年2月以降日米の民間人や政府・軍関係者によって周到に準備されたものでした。従って、この案が日本側に示されたとき、東条も、「米の提案も支那事変処理が根本的第一義であり、従ってこの機会を逃してはならぬ。断じて捉えねばならぬ」と近衛に言いました。武藤も「これで支那事変が解決されるからイイナ」と言ったといいます。そして、この提案は、陸・海軍省部・局部長会議で「独を刺激せざるよう一部の修文を行う」等の条件で陸海軍間で合意されました。(『太平洋戦争への道7』p168)

 こうしたアメリカの譲歩に対して、これを謀略ではないかと疑う者もいましたが、この提案を、日本側が軍部を含めて、当初”ほっと胸をなで下ろす”形で受け入れたことは事実です。近衛は直ちに「主義上同意」と返電しようとしました。これに反対したのが松岡で、松岡は日ソ中立条約を締結して帰国したばかりで、対米外交を三国同盟+ソ連の4カ国連携でアメリカを脅威圧迫すべきと考えており、次の三つの条件を付けました。

 それは、 一、米国に中国から手を引かせる、二、三国条約に抵触しない、三、米の欧州参戦を阻止する、でした。このため、日米諒解案の、米国をして支那事変終結を仲介させる、そのため三国同盟の趣旨を極力防衛的な性格のものする、という趣旨が飛んでしまいました。問題は、こうした松岡の四国連携の構想に、当初、諒解案を歓迎した誰も正面から抗し得なかったと言うことです。

 これに対してアメリカは、すでに1月末から独ソ開戦を予想しており、それが勃発すれば松岡・軍部の錯覚的な枢軸政策は粉砕されると見ていました。実際6月に独ソ開戦したわけですが、これによって松岡の4国連携によるアメリカ圧迫構想は瓦解し、ソ連が英米側につくことになりました。この結果として、アメリカの日米交渉における対日妥協姿勢が強硬に転じることになったのです。

 合わせて重要なことは、4国連携が中国を含めた大陸連携構想に発展する可能性もあったということで、昭和16年段階でアメリカが日米両改案の線まで下りてきた背景には、こうした枢軸体制の誕生を阻止する意図があったのです。つまり、こうしたアメリカの妥協姿勢が三国同盟から生まれている以上、日米諒解案の肝である三国同盟の実質的空文化はそれと矛盾する関係にあったのです。

 日米交渉がこうしたジレンマに直面する中で、松岡は枢軸体制強化を主張しました。しかし、独ソ開戦によってこの構想は崩壊しました。では、その後、日本はそういう選択すべきだったか。最良の策は、ドイツの背信を理由に三国同盟から離脱し、欧州大戦に対して中立の立場を取ることで、日米諒解案の線で日米間、日支間の関係調整を図ることでした。しかし、松岡や陸軍はソ連侵攻を主張、これを牽制するため海軍は南進を主張、結果的にこれが南部仏印進駐となりました。

 では、なぜ日本は枢軸同盟に止まったまま南部仏印に進駐する道を選んだか。その理由としては、欧州戦争におけるドイツの勝利を盲信していたこと。アメリカを中心とする経済封鎖から自由になりたかったこと。そのためには東南アジアに進出し戦略資源を確保する必要があったこと。実際、こうした構想が魅力的であったからこそ、コミンテルンのスパイ尾崎秀実の謀略も成功したのです。(この尾崎の、加藤氏の扱いもおかしい!)

 南部仏印進駐後は、ルーズベルトの仏印中立化案や、日本側からは最終的に乙案が示されることになりますが、この提案と日米諒解案との違いは、この段階では、日本側が最も期待したアメリカの仲介による日支事変解決の可能性がなくなっていたと言うことです。言うまでもなく、南部仏印進駐は日本が中国を完全に封鎖することになりますから、中国としては日米戦争だけが救いでした。

 こうしてアメリカの対日要求は、ハル四原則(すべての国の領土と主権尊重、他国への内政不干渉を原則とすること、通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること、平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持)に立ち返ることになりました。アメリカは、「日本が『日中和平基礎条件』で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求め」ました。

 ここで日本軍の支那からの撤兵問題が浮上しました。東条は撤兵に反対、その結果近衛は内閣を投げだし、東条内閣の誕生となりました。東条は昭和天皇の「白紙還元の御諚」(「外交交渉により日本の要求を貫徹出来る目途がない場合は、直ちに開戦を決意する」という九月六日の御前会議決定を一旦白紙に戻すこと)を受け、その後、対米交渉を継続し、最終的には乙案を提出し、南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしましたが、アメリカ側のハルノートの提出でついに日米開戦となりました。

 このような事態になったのは、加藤氏の言う通り、日本軍がドイツの勝利を盲信し、枢軸同盟を背景に武力で南方の資源獲得をしようとしたためでした。この時取るべき唯一の道は、先ほど述べたように、三国同盟離脱、欧州戦争からの中立維持、日米諒解案の趣旨に沿った、アメリカ仲介による日支事変解決、通商条約再締結による資源確保だったことは言うまでもありません。

 ただ、日本が乙案を提出し南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしたにも関われず、なぜアメリカはそれを無視しハルノートを提出したかが問題になります。これについては、アメリカに「絶望から戦争をする国はない」という甘い見通しがあったため、ともいいますが、アメリカの対独参戦を可能にするための日本挑発という意図があったことも間違いないと思います。

 ただ、こうした挑発を受けても、これに冷静に対処し、アメリカがそれまでの日米交渉を無視し、日本を挑発して欧州戦争参戦への口実を得ようとしたことを世界に宣伝することで、しばらく戦争を回避することはできたでしょう。しかし、問題の根本はやはり、当時の日本が、ドイツ流の国家社会主義を信じ、英米流の自由民主主義をよしとしなかったことにあったのではないかと思います。

 戦後の反省はこの点に重点を置くべきではないでしょうか。こう見てくれば、戦後こうした一種の全体主義的考え方が払拭されたとは到底言えないと思います。ソ連が戦後理想の国のように喧伝されたのも、毛沢東の文化大革命が賞賛されたのもそのためです。つまり、戦後も、今日まで一貫して、国家社会主義や共産主義に通底する考え方が伏在し続けていると見るべきだと思います。

 そこで、最後に、こうした戦後体制の基軸となった日本国憲法の平和主義、憲法第9条の戦争放棄、戦力放棄の意義について考えたいと思います。加藤氏は、以上述べたような歴史解釈に立って、幣原の次の言葉を引用しています。

 「今日我々は、戦争放棄の宣言を掲げる大旗を翳して、国際政局の広漠なる野原を単独に進みゆくのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ旗を翳して、遥か後方についてくる時代が現れるでありましょう。」

 どうやら加藤氏は、幣原のこの言葉を引用することで、憲法第9条改正に反対する立場を暗に表明しているようです。しかし、戦後70年、日本国憲法第9条と言う旗の後方についてくる国はなかったのでは?というのも、実は、この旗が示した理想は戦争放棄(=戦力放棄)ではなく、武力の国際機関への一元化だったからです。つまり、軍事力は国際機関に一元化し各国は警察力だけを持つ・・・。

 こうすることが、国際社会に戦争をなくす唯一の方法であると、幣原は「平野文書」の中ではっきり述べています。そして、この理想に近づくための手段として、敗戦後の日本が「戦力放棄」という奇策を採ることによって、各国の軍縮を促そうとしたのです。そうすることで、天皇制を軍国主義から切り離し、象徴天皇制という本来の姿に立ち返らせようとしたのです。

 従って、日本国憲法第9条の改正問題を論ずるに際しては、もちろん、その第一項の平和主義と戦争放棄を謳った条項は残すべきだと思いますが、第二項の戦力放棄条項をどうするかについては、戦後70年の平和が第9条だけで守られたわけではなく、日米安保による戦力補完によった、という冷厳な事実を踏まえて、これを憲法と矛盾しないようどう規定するか考えるべきだと思います。 以上 

 

 
 
 
一、日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念
 両国政府は相互に両国固有の伝統に基く国家観念及社会的秩序並に国家生活の基礎たる道義的原則を保持すべく之に反する外来思想(=共産主義)の跳梁を許容せざるの鞏固なる決意を有す
二、欧州戦争に対する両国政府の態度
 日本国政府は枢軸同盟の目的は防御的にして現に欧州戦争に参入し居らざる国家に軍事的連衡関係の拡大することを防止するに在るものなることを闡明す
 ・・・枢軸同盟に基く軍事上の義務は該同盟締約国独逸か現に欧州戦争に参入し居らざる国に依り積極的に攻撃せられたる場合に於てのみ発動するものなることを声明す
・・・米国政府は戦争を嫌悪することに於て牢固たるものあり従って其の欧州戦争に対する態度は現在及将来に亙り専ら自国の福祉と安全とを防衛するの考慮に依りてのみ決せらるべきものなることを声明す
三,支那事変に対する両国政府の関係
 米国大統領か左記条件を容認し且日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すべし
 A、支那の独立
 B、日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
 C、支那領土の非併合
 D、非賠償
 E、門戸開放方針の復活但し之が解釈及適用に関しては将来適当の時期に日米両国間に於て協議されるべきものとす
 F、蒋政権と汪政権との合流
 G、支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
 H、満洲国の承認
 蒋政権に於て米国大統領の勧告に応じたるときは日本国政府は新たに統一樹立せらるべき支那政府又は該政府を構成すべき分子をして直に直接に和平交渉を開始するものとす
日本国政府は前記条件の範囲内に於て且善隣友好防共共同防衛及び経済提携の原則に基き具体的和平条件を直接支那側に掲示すべし
四、太平洋に於ける海軍兵力及航空兵力並に海運関係
 A、日米両国は太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及航空兵力の配備は之を採らざるものとす右に関する具体的な細目は之を日米間の協議に譲るものとす
 B、日米会談妥結に当りては領国は相互に艦隊を派遣し儀礼的に他方を訪問せしめ以て太平洋に平和の到来したることを寿ぐものとす
 C、支那事変解決の緒に着きたるときは日本国政府は米国政府の希望に応じ現に就役中の自国船舶にして解役し得るものを速かに米国との契約に依り主として太平洋に於て就役せしむる様斡旋することを承諾す但し其の屯数等は日米会談に於て之を決定するものとす
五、両国間の通商及金融提携
 今次の了解成立し両国政府之を承認したるときは日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障せらるるものとす
 又両国政府は嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き正常の通商関係への復帰の為適当なる方法を講ずるものとす尚両国政府は新通商条約の締結を欲するときは日米会談に於て之を考究し通常の慣例に従い之を締結するものとす
 両国間の経済提携促進の為米国は日本に対し東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及日米経済提携を実現するに足る金クレジットを供給するものとす
六、南西太平洋方面に於ける両国政府の経済的活動
 日本の南西太平洋方面に於ける発展は武力に訴うることなく平和的手段に依るものなることの保障せられたるに鑑み日本の欲する同方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国側の協力及支持を得るものとす
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針
 A、日米両国政府は欧州諸国が将来東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等を為すことを容認せざるべし
 B、日米両国政府は比島の独立を共同に保障し之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法に付考慮するものとす
 C、米国及南西太平洋に対する日本移民は友好的に考慮せられ他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

日米会談
 (A)日米両国代表者間の会談はホノルルに於て開催せらるべく合衆国を代表してルーズヴェルト大統領日本国を代表して近衛首相に依り開会せらるべし代表者数は各国五名以内とす尤も専門家書記などは之に含まず
 (B)本会談には第三国オブザーバーを入れざるものとす
 (C)本会談は両国間に今次了解成立後成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
 (D)本会談に於ては今次了解の各項を再議せず両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとす
付則
本了解事項は両国政府間の秘密覚書とす本了解事項発表の範囲性質及時期は両国政府間に於て決定するものとす

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