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2020年9月12日 (土)

日本の歴史の「弁証法的発展」をとらえた伊達千広の歴史区分

 今日、日本の歴史研究においては、古代・中世・近世・近代とする時代区分法が用いられる。古代については古代国家の形成、中世については、荘園公領制の形成、近世は、幕藩体制の形成、近代は、明治維新以降の近代社会形成をそれぞれの時代区分の指標としている。

 だが、この「古代・中世・近世・近代」という歴史区分は、もともとヨーロッパの歴史を分析するために考え出されたもので、「この区分法の起源は、ルネサンスの人文主義者たちが、古代ギリシア・ローマ時代を理想とし、ルネサンスはその古代文明の再生であり、その間の中世を古代の文明が中断された暗黒時代と捉えたのがそもそもの始まりである」とされる。 

 従って、あえてこうした時代区分法を日本の歴史に適用するなら、日本におけるルネサンス(文芸復興)に相当する文明開化は、幕末から明治維新に至る尊皇思想運動に比すことができる。この場合、理想とさるべき「古代」は、平安時代以前の「天皇親政」の時代になり、中間の武家政治の時代が「暗黒の時代」となる。 

 しかし、日本における「古代・中世・近世・近代」という歴史区分は、こうした指標に基づくものではなく、「発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘」(wiki「日本の歴史」)されている。従って、あえてこの区分法を用いるなら、前述したように、尊皇思想を指標とする時代区分を採用した方がはるかに面白いと私は思う。 

 また、飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(安土町・京都市伏見区)・江戸時代(東京都)という時代区分は、あくまで政治の中心地の所在地を基準に区分したものであり、日本歴史全体の弁証法的な流れをつかむことは出来ない。 

 この点、伊達千広が嘉永元年(一八四八年)に執筆した『大勢三転考』による時代区分は、「骨の代」「職の代」「名の代」となっていて、日本が、中華文明の辺境にあってその影響を受けつつ、どのように独自の文化を形成したを、弁証法的に生き生きと捉える時代区分となっている。

 まず「骨の代」であるが、骨は姓(かばね)であって、「すなわち各氏族の住んでいる場所と職業の内容から生まれた姓が世を治めた時代のことである。神武天皇が国造、県主を設けたのが姓の始まりである。姓と領地を世襲する氏族の統率者によって、国の政治が分担されていた時代が「骨の代」である。

 次に「聖徳太子と天智天皇、天武天皇らの一大政治変革によって、「職」の時代へと移り変わった。すなわち、十七条憲法から大宝律令制定への古代の一大変革が、天皇から官職を授けられたものによって治められた時代、すなわち「職の代」を切り開いた。いうまでもなく、律令的官僚政治の時期を指しているのであり、摂関政治、院政、平家の台頭の時代までも含んで考えられる。 

 そして第三番目の「名の代」は、名前を持っている人が世を治めた時代である。源頼朝の鎌倉開幕に始まり、徳川幕府の成立に至って全盛期を迎えたのが「名」の時代である。「骨の代」においては、軍事に際しては天皇自らが兵を率い賊軍を平定した。ところが「職の代」では、文官と武官に身分が別れ、文官優位の官僚体制となり、次に「名の代」となって武官が文官に権力によって取って代わるという逆転の時代を迎えたと見なされている。」(『国民の歴史』西尾幹二p49~50) 

 この時代区分によって次のようなことが分かってくる。

 まず、「神武東征」によって大和を中心に統一国家作りが始まり、功臣や在地豪族に「かばね」と称する「国造や県主」などの地位・職掌が与えられ世襲された。その後、大陸より仏教・儒教の教えや律令制度が伝えられると、旧来の「かばね」が桎梏とされるようになり、大化の改新を経て「大宝律令」(701年)で「かばね」が廃され、以後、律令制度に基づく世襲ではない任命制の「職」が置かれた。

 こうして「職の代」となったが、皇国の「自然神代のことわり消失ず」、摂関の職が藤原氏に独占され、道長の「この世をばわが代とぞ思う」となった。これに対して「藤原氏の勢をくじき賜へる」動きが始まり、白河法皇の院政となり藤原氏が排除され、その「御楯御矛」として「猛き物部(もののふ)」=「北面の武士」が置かれた。

 これが保元平治の乱を経て「平氏にあらざれば人に非ず」となって、「院政の御政も摂関の威勢もこれがために打けたれ」たが、「この入道相国は、すべての状、摂関の意見をうつせるふるまい」となり、源氏により滅ぼされた。その後、頼朝が六十余州総追捕使となり、国衙に守護、荘園に地頭を置いて行政権を掌握し、「職の代」から「名の代」へと移っていった。

 ここで「名(みょう)」とは、「公田」に対する「名田」の意味で、「いわば所有権を主張する何らかの「名を付した田」を所有すること。その所有者が名主、それを最終的に統合したのが「大名」である。この間、承久の変や建武の中興など、天皇家による「往古に立ち返るべき」動きがあったが、「時代の流れ」でやむをえないとしている。是によって天皇家は「将軍より王位を賜ふ勢い」となった。 

 大名は、当初は、あくまで室町幕府の任命する守護大名であったが、次第に、自らの領国を私有するようになり、「かれ大名小名も、あるは和順、あるはそむくこと、時雨の空の定なきが如く、大けきは小さきを呑み、小さきは大けきを奪ひ、あるはおのが君たる人を逐らひて、其国を奪う」という戦国の世となった。

 その後、織田右大臣による天下統一は「はかなき夢となり」、豊臣関白は「他の国まで軍を出して、闘い止む日なければ、治国の化(おもむけ)はあらざるけり。故薨(ゆえにかくれ)賜ふと、やがて、また乱れしかど、遂に徳川の御稜威に靡きて・・・太平無事の御代となり、名の代・・・ここにして盛大なり」で『大勢三転考』は終わっている。

 この歴史区分を延長すると、明治は「君の代」(立憲君主制)、戦後は「民の代」(民主制)に区分できるように思う。幕末に考案された『大勢三転考』の歴史区分が、今の時代の歴史区分よりはるかに判りやすく客観的であるとは、一体どうしたことだろうか。 

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