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2020年10月

2020年10月31日 (土)

津田左右吉の「神武東征」架空説は「霧島高千穂説」批判だった

(R2.11.13に大幅修正)

 日本で、律令制の導入が本格化したのは、660年に百済が新羅に攻められて滅亡し、さらに百済復活戦争とも言うべき「白村江の戦い」で日本と百済遺族軍が唐・新羅連合軍に敗れ、日本が大陸への足がかりを完全に失ったことに端を発する。日本はこの敗北により、深刻な国際政治的・軍事的脅威に直面することになった。

 そこで、日本は、まず国防力の増強を迫られ、従来の氏族制によって支えられてきた分権的な支配体制(=「骨の代」)から、唐の律令制度を模したより中央集権的な支配体制(=「職の代」)に切り替えようとした。崇峻天皇暗殺に象徴される蘇我氏の専横など、有力氏族による政権の私物化が問題となっていたのである。(『日本人とは何か(上)』山本七平参照)

 日本への律令制度の導入は、天智天皇による近江令(668年)に始まり、飛鳥浄御原令(689年)を経て、大宝律令(701年)により本格的にスタートする。それと同時並行的に進められたのが、そうした中央集権的な体制変革を主導的に進める皇室の、日本統治の正統性を内外に示すための史書の編纂であった。

 それが、712年の『古事記』、720年の『日本書紀』の編纂となるのであるが、前者は天皇家の日本統治の正統性を創世の神々に遡って示そうとするもの。後者は、内外の史料を参照し、特に、神代については本文の外に異伝も加え「正史」として編纂された。こちらは、当時の水準における客観性と道徳性の追求を垣間見ることができる。

 そのため、前者は「天地初めて発けし時」高天原に成った神之御中主神から伊弉諾・伊弉冉まで十二神の名が語られ、その後、伊弉諾・伊弉冉による日本の国生みが始まる。後者は、「天地未だ剖(わか)れず、陰陽分かれざりしとき」にはじまる天地創造が語られる。これは、中国の前漢の書「淮南子」の宇宙観を反映しているといわれる。

 このように、両者はその編さん目的を異にしており、前者は国内向け、後者は外国向けとされるが、そのため、前者の伝承の扱いは、当時の日本の思想を反映してより素朴である。後者は、中国の儒教・仏教思想を反映した伝承の再構成や、本文とは別に「一書に曰く」として紹介したりしている。「稲羽の菟」に始まる大国主の試練の物語は省かれている。

 この「古事記」と「日本書紀」に、最初に文献批判のメスを入れたのが津田左右吉である。津田は、「仲哀以前の物語は神代の物語と同様,皇室が日本を統治する由来を整然と説いた政治的述作」とし、邪馬台国は筑後の山門?とする一方、大和朝廷は大和を中心に発達したもので、出雲を帰属させた後九州に進出し邪馬台国を征服したとする。

 従って、神武東征の物語は歴史的事実ではなく「大和朝廷の起源譚」であるとする。日本民族が皇室のもとに統一された後、それを権威づけるため皇室の由来を説く神代の物語が作られた。それは、その始祖を高天原のアマテラス=日の神としたため、その皇都が地上のヒムカに移され、それを人代に繋ぐため神武東征神話が作られたためだと。

 こうした津田の文献批判に基づく古代史研究は、戦前は「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴(昭和15年)された。しかし戦後は、その弾圧の経験から、津田史学は「日本史学界の政治的主流」となった。しかし、津田自身は「記紀神話」が語る日本の平和的な国作りに皇室が果たした祭祀的役割を積極的に評価した。

 つまり、津田は、「記紀」神話の「人物の言動などは事実ではないが、それが作られたことは事実であると共に、物語によって表現せられている思想もまた事実として存在した」として、史料と歴史を区別することと、その史料から、それが作られた時代の思想を読み解くことの重要性を説いた。

 津田にとっては、先ず史料批判が先で、その結果、「記紀」神話は歴史的事件の記録ではないが、そこには「日本の皇室を中心とした平和的な国作り」が思想的に描かれているとして、これを積極的に評価した。これに対して戦後は、「記紀」神話の史料評価において、史料批判より天皇制批判を先行させたように見える。

 問題は、こうした津田の「記紀」神話理解であるが、津田自身は「日本の真の上代史はどんなものかというと、それはまだでき上がっていない。・・・上に言った史料批判が歴史家によって一定でなく、従って歴史の史料が一定していない」からで、次に述べることは「私案に過ぎない」と言っている。(『建国の事情と万世一系の思想』津田左右吉)

 そこで、津田が「神武東征の物語は歴史的事実ではなくそれは大和朝廷の起源譚」としたその主な論拠を紹介する。基本的には「古事記」と「日本書紀」の記述の矛盾あるいは不審から事実関係を推断し、それは「歴史的事実」ではないとしているようである。(『神武天皇東征の物語』津田左右吉参照)

 ①浪速から白肩津に上陸しナガスネヒコと戦い、五瀬命が傷を負ったので南にまわり紀国から熊野に到ったとする「迂回戦術」の話は、地理的・戦術的に「はなはだむずかしい話」。これは「日の神の御子として日に向かって戦うことは良くない」、つまり「日の神の加護を背に受けて戦った」とするためであろう。

 ②記紀に共通な点では「ヤマトの平定がナガスネヒコの防御で始まり、その敗北で終わっている」が、大和の勢力はナガスネヒコの勢力と見なすべきなのに、「所々のタケルや土蜘蛛が彼に服属していたものらしく記してなく、物語の上ではヤマトに何ら統一がないようになったいる」のは、歴史的事実として疑わしい。

 ③「記」に「ニニギが筑紫の日向の高千穂に降りカササに到った」ことについて、津田は、「書紀」には「ヒムカのソ」とありソは霧島山に擬せられているとし、カササの美人カミアタツヒメのアタは薩摩の阿多(野間崎)、ニニギの御陵は「ヒムカのエ(薩摩の川内)」、ウガヤフキアエズの御陵はアヒラ(大隅の吾平)とするなど、いわゆる高千穂霧島説を前提にその矛盾を指摘している。

 ④まず、「カササの崎は比定すべきところが分からぬが、アタ(薩摩)もしくはその付近らしい。・・・なお、「古事記」に見えるアタのオバシの君の妹アヒラヒメは『書紀』にはアヒラツヒメとあるから、アヒラは地名らしいが、アヒラとして普通知られているのは今の大隅にあるから、それとアタとの間には近からぬ距離がある。これもどういうものであろうか」。

 ⑤「特にカササの宮の物語のごときは、上に述べた如く他の話と不調和」であり、また、「ホデリ(ホノスソリ)の命の後裔とせられ、宮門を護って狗吠をするという、隼人の部落のアタの君が皇室の外戚たる地位に置かれたことも、その物語自身に矛盾した思想を含んでいるように見える」。

 ⑥「単にわが皇室の発祥地がヒムカであるということに対しても・・・後世までクマソとして知られ、逆賊の占拠地として見られた今日の日向・大隅・薩摩の地方、またこういう未開地、物資に供給も不十分で文化の発達もひどく遅れていた僻陬の地、いわゆるソシシの空国がどうして皇室の発祥地であり得たか、という疑問がある」。これらの「神武東征の物語は、日本民族が皇室のもとに統一された後、それを権威づけるため皇室の由来を説く神代の物語が作られた。その始祖を高天原のアマテラス=日の神としたため、その皇都が地上のヒムカに移され、それを人代に繋ぐため神武東征神話が作られた」。

 では、これらの論拠に対する反論は今日どのようになされているかというと、

 ①は、「『記紀』の熊野を「くまの」と読むから熊野灘に面する新宮市あたりと比定されるが、「いや」あるいは「ゆや」と音読みすれば、紀伊半島西部が「熊野(いや)」の比定地域になるのだ。紀ノ川河口の竈山に五瀬の遺体を葬った後、神武軍は舟に乗っていない。また、そこから紀ノ川を遡れば吉野河(吉野川)に到ることができる。『記』の記述はこれを示しているのだ。往時、熊野(いや)村は紀ノ川の河口に広がる平野にあったと判断される。そのなかに名草山がある。おそらく、熊野山とは名草山のことであろう。」という宮崎照雄氏の論考が参考になる。(『狗奴国私考』神武東征(3)「紀伊国の熊野村」参照)

 ②は、津田氏の説「三世紀の頃、北九州の邪馬台国と併行して近畿地方のヤマトを中心に一つの中心が形づくられ、そしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治的勢力は、諸種の方面から考察して皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られる」をもとにした議論である。津田は、先述した通り、邪馬台国はヤマト発祥の大和朝廷に滅ぼされたと見ていた。今日議論されている「大和朝廷畿内説」は、邪馬台国が畿内にあって成長しそれが「大和朝廷」になったとするものである。

 ③④は、これが書かれたのは、津田の著書『古事記及び日本書紀の研究』「神武天皇東征の物語」(1924年)であり、当時は「西臼杵高千穂説」ではなく「霧島高千穂説」が通説化していたということであろう。しかし、この説の「いささか強引すぎる神跡地の比定」が「記紀全体の記述と矛盾する」(『天皇家のふるさと日向を行く』梅原猛)ことは、これを史実として論ずる限り大きな問題となる。

 ⑤は、「ホノニニギの命がタカチホに降りられ、ホホデミの命以後タカチホの宮にいられたとあるのに、その中間においてカササの宮を建てられたという話が、すこぶる奇異に感ぜられる」ということ。今日「高千穂の宮」は、地名と関係なく日向三代の宮居の場所として比定されている。また「隼人の部落のアタの君が皇室の外戚たる地位に置かれた」ことについての今日のアカデミズムの解釈は、「大和朝廷が隼人の懐柔策として創作した」とする。

 ⑥は、いわゆる日向神話の最大の問題とされるもので、今日のアカデミズムの解釈は「その最大の理由は、隼人の服属の起源を神話の時代に遡(さかのぼ)って示すことにあったと考えられる」。そして「隼人の服属の起源を神話時代にさかのぼって示す」ためには、その降臨の地を、「政府の支配に服属している地である日向と隼人の地との境界に位置する峰」の霧島に降臨させる必要があった」(『宮崎県史』107)とする。

 私見では、①は「古事記」のルートを正しいとする宮崎照雄氏の『狗奴国私考』の説が説得的であると思う。②は未だ邪馬台国論争が続いているが、私は、その後の研究成果を踏まえて九州の政治勢力(邪馬台国を含む)東遷説が有力であると思う。もちろん大和に一定の政治勢力が存在し、それが九州から畿内に天降りした邇芸速日と縁を結んでいたが、結果的に、邇芸速日が神武に帰順することで勝敗が決したと見る。

 ③④は、「高千穂論争」に関するもので、この問題は、高千穂に天降りした天孫族の出自と合わせて考えることが重要であると思う。⑤は、「カササの崎」の比定がポイントと思う。また、『日本書紀』には「ホスソリの命これ隼人の始祖」とあるが、これは海幸彦が山幸彦との後継争いに敗れて南下し、隼人と縁を結び魁帥となったということで、「隼人」はホスソリ=海幸彦の係累にあるもののことであろう。⑥は、今日のアカデミズムの一般的解釈で「日向神話」をフィクションとするものである。私は、皇室がその発祥の地をあえて「ソシシの空国」=僻陬の地「日向」としたのは、それが何らかの事実を反映していたからではないかと思う。

 

2020年10月 3日 (土)

「記紀」が描く日本古代史空白の時代

 山本七平は、弥生時代末期のクニの共同祭祀の中心にいたのは、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼のようなシャーマン的存在ではないかと言っている。古事記・日本書紀には、この卑弥呼に相当する人物について神宮皇后であるかのような注記がなされているが、「記紀」編集者には、卑弥呼の活躍した年代は魏志倭人伝で分かっていたから、それを紀元前660年以前に活躍する天照大神に比定することは出来なかったであろう。

 では、「記紀」神代の大和朝廷の祖先神とされた天照大神神話は、一体何を物語っているのだろうか。この問題をめぐっては、白鳥庫吉、和辻哲郎以来の多くの議論があるが、山本の所説にある通り、それは、縄文時代から弥生時代にかけて発展した村落共同体の生活の中から生まれた共同祭祀におけるシャーマン的存在であったと見るべきだろう。

 京都大学東南アジア研究センター教授の高谷好一教授は、縄文時代の照葉樹林帯での日本人の生活を「半栽培屋敷園地」と名付けている。それは、「照葉樹林は食物が豊富で、一度破壊しても二次林として再生する。照葉樹林の森林面積は日本が世界一であり、この点では昔も今も「森の国」である」と。

 「半栽培屋敷園地」とは、例えば小川に臨んだ丘陵の端に小部落を作る。集落のまわりだけは照葉樹林が伐り払われていて、そこにクリやドングリそれにイチゴなどが比較的多く生えている。・・・照葉樹林帯でのこの種の生活は一旦確立してしまうとかなり安定したものになる。」

 縄文時代は一般的に狩猟採集生活というが、その実際の生活はこのようなもので、こうした共同体が、弥生時代の稲作を受け入れる中で、次第にクニとして組織化されるようになった。そして、その組織力を強化するリーダーシップの一つの形態として、卑弥呼のようなシャーマンによる共同祭祀が行われたと考えられる。

 おそらく大和朝廷を切り拓いた天皇家は、そのルーツにこうした共同祭祀の司祭の伝統を持っており、その記憶と伝承が天照大神神話として編集されたのではないか。ここで注意すべきは、神話といっても、天照大神をめぐる物語は、稲作をはじめとする農耕や、狩猟漁猟を営む人間たちの自然の中での生活が描かれているということである。

 つまり、「記紀」に描かれた天照大神を中心とする神々の物語は、「高天原」と称する地域から、地上世界である「葦原中国」の出雲や日向、そして大和へと勢力を拡大していき、最終的には、日向から東征した神武天皇によって大和王権が開かれ、第十代の崇神天皇の時に、天照大神を象徴する「鏡」が宮中で祀られ、皇室の祖先神となる由縁を描いているのである。

 では、この「鏡」によって象徴される天照大神とは誰であったかというと、日本の伝統的な神観念からいえば、大和朝廷を開いた天孫族の祖先神であると同時に、何らかの悲劇的様相を持った人物が考えられる。そこで、これに相当する人物を日本の古代史に求めるとすれば、自ずと、魏志倭人伝に記された卑弥呼に行き着く。

 「記紀」神話の、天照大神の「天の岩戸隠れ」や「天の岩戸開き」の物語は、邪馬台国と狗奴国の戦争、卑弥呼の死、その後男王が立ったがクニが治まらず、卑弥呼の宋女台与を女王に再臨することで治まったとする魏志倭人伝の記述に照応する。「出雲国譲り」や神武東征は、北九州の弥生勢力の畿内への勢力拡大と見ることができる。

 問題は、この勢力拡大がなぜ、北九州から三つのルート(出雲ルート、大和ルート、日向ルート)に分かれたかであり、特に、日向ルートの解明が課題となる。現在の定説では、「日向神話」は、大和朝廷の支配に服さなない隼人の懐柔策であり、そのために「隼人の祖先を皇室の祖先とする物語を創作した」とするが、これは「記紀」の記述と一致しない。

 そもそも、天孫降臨は日向だけでなく、出雲そして大和へも行われたのである。それを、日向という僻遠の地に降りた一派が、先に大和に入り先住民と血縁関係を結んだ一派を打倒して大和朝廷を開いたとする話は、出自や血縁をとりわけ重視する古代人にとって、それが何らかの事実に基づかない限り、「記紀」に採録されることはなかったであろう。

 なお、この天孫族の出自についてだが、AD239年に卑弥呼が魏に遣使した時、『魏略』には「其の旧語(昔話)を聞くに、自らを太伯の後(胤)と謂く」と記されている。ということは、邪馬台国の王族は、その出自を中国江南の「呉」としていたということで、これは、魏志倭人伝に記す倭人の黥面文身の風俗が、呉の海人の風俗と一致することでも了解される。

 この呉の海人とは、「中国長江下流の水郷地帯に住み、漁業と水稲耕作を営んでいた海人族であり・・・呉が隣国の越に滅ぼされたBC473以降、中国江南の地から直接海を越え、あるいは朝鮮半島を経由して縄文時代の日本列島に渡来してきた人々」で、彼等が、中国の先進文化を縄文人に伝えたことで、日本に弥生文化が花開き、クニが生まれ、全国統一へと発展したと考えられる。

 いずれにしろ、「記紀」神代の物語が、どの程度史実を反映するものであるかは、あらゆる角度からの実証研究が必要であるが、1世紀から4世紀の間の日本古代史は、今なお、まさに「藪の中」と言うべき状態である。この主たる原因が、「記紀」神話の資料的価値を全く認めない戦後古代史学会の一般的空気にあることは言うまでもない。

 こうした空気が日本の敗戦によりもたらされたことはいうまでもないが、「記紀」は確固たる文献資料であって、それを素直に読めば、先に述べたような、日本の縄文文化から大陸の先進文化を受容し弥生文化へと発展していったプロセスを大筋つかむことが出来るのである。また、そこに日本人の感情や思想の源流を見ることができる。(R2.10.4修正) 

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