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2020年12月

2020年12月 2日 (水)

日向への天孫降臨の目的地を薩摩隼人の地とすることの矛盾

以上、津田左右吉の提出した日向神話の疑問点とそれに対する私の考えを述べてきたが、学問的には未だ納得できる解答は出されていない。それは、アカデミズムの世界では、日向神話をフィクションと見る見方が大勢であり、その創作の動機を詮索しても、その謎を史実との関連で解き明かそうとするインセンティブが働かないからである。

そんなわけで、私自身も日向神話に大して関心を持たなかったが、宮崎照雄氏の論考を読んで、日向神話には日本古代史の謎を解き明かすヒントが隠されていると思うようになった。宮崎氏は、日本古代史を解明するのに考古資料に加えて、理系学者としての科学的知見を総動員して、独創的な「記紀」の合理的解釈に努めている。

宮崎氏の論考については今までも何度か説明しているので、今回は、もう一人の「邪馬台国東遷説」を唱える日本古代史研究家の日向神話についての考え方を見ておきたい。「邪馬台国東遷説」に立てば自ずと「神武東征」に触れることになるからである。まず、氏の「邪馬台国東遷説」の論拠を紹介する。(web解説「邪馬台国東遷説の根拠」安本美典より)

(おもに文献上の根拠)

○年代的にみて、『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神の活躍の時期は、卑弥呼の活躍の時期に重なりあう。また、『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神をめぐる物語は、魏志倭人伝における卑弥呼をめぐる記述や当時の政治状況・風俗習慣が良く似ている。

○『古事記』『日本書紀』の神話は、九州に関係する多くの記述がなされており、神武東征伝承は、『古事記』『日本書紀』共通である。「国家を統一する力が、九州から来た」という物語の中核は、作者の作為にもとづくものではないであろう。神話を、まったく架空の物語としてみる立場からは、その必然性が説明できない。

○その他、「邪馬台」と「大和」の名称が共通していること。その国号は「倭国」で一貫していること。中国文献では、魏代から隋代まで倭国は連続したものとしてとらえられていること。「記紀」には、南九州の熊襲や東国の蝦夷征討の物語はあっても北九州征討の物語だけはないこと等。

(主に考古学上の根拠)

○皇室の象徴である玉、鏡、剣は北九州の甕棺のおもな副葬品である。4世紀初頭に、畿内を中心にはじまる古墳時代に入っても、はじめの一世紀ほどは、三つの宝器を副葬する風習がみられる。弥生時代の畿内には方形周溝墓という墳丘墓が実在するが、副葬品をもつものは皆無といってよい。次の時代の前方後円墳からは、豊富な副葬品が発見される。

○『古事記』『日本書紀』の神話では、鉾と剣(さらに、鏡と玉)とがしばしば語られている。これは、筑紫中心の銅鉾銅剣の文化と照応している。『古事記』『日本書紀』の神話は、銅鐸についての記憶を残さない。畿内の銅鐸は、二、三世紀の弥生式文化の後期に、もっとも盛大となりしかも突然その伝統を絶つ。

○銅鐸文化は、畿内を中心に紀元前後数世紀にわたって栄えた文化であり、大和朝廷が初めから畿内にあったとすると、両者の間になんの結びつきもないのは不可解である。銅鐸文化は、銅鏡、銅剣によって代表される大和朝廷によって滅ぼされたのであろう。銅鐸文化の消滅と古墳文化の発生は、その背後に支配層の交代のあったことを思わせる。

○森浩一氏によれば、古式古墳発生の母胎は、大和を中心とする畿内の弥生式文化には、ほとんど求められないのにたいし、北九州の弥生式文化からは数多く求められるという。
おそらくは、古墳は、鏡、 剣、鉾などを墓にうずめる習俗とともに、九州に発生し畿内で発達をとげたのであろう。

○畿内における古墳の発生は、三世紀末から四世紀のはじめとみられる。これは、平均在位年数にもとづく年代論によるとき、神武天皇の時代に対応する。弥生時代後期において、鉄製品は北九州から多く発見され近畿からはごくわずかしか発見されないが、次の古墳時代に莫大な量の鉄器が出土している。また、鉄刀、巴形銅器、朱丹を使用する風習なども、北九州の弥生式墳墓、畿内の古式古墳の双方から発見されている。

○『魏志倭人伝』には、倭人が、養蚕を行なっていたことを記している。また、邪馬台国女王から魏帝へ献上した絹製品の名が、『魏志倭人伝』にいくつか記されている。弥生絹は、いずれも、北九州のみから出土している。古墳時代以後には、畿内から絹が出土する。絹の出土において、弥生時代の北九州と古墳時代の畿内とが連続している。

こうした「邪馬台国東遷説」に対して、津田左右吉が唱えたのは「大和朝廷畿内発祥説」であり、邪馬台国は九州にあって後に大和朝廷に滅ぼされたとするものである。これに対して、戦後の邪馬台国論争における「邪馬台国畿内説」は、邪馬台国は畿内にあり、それが発展して大和朝廷となったとするものである。

現在は、邪馬台国が北九州にあったか畿内にあったかが主に争われているが、いずれにしろ、中国から稲作や鉄器を使用する人々が日本にやってきて、日本各地の縄文人と混血し弥生文化が生まれクニが形成されたに違いない。「記紀」には、高天原に天孫族、出雲に大国主、畿内には長髄彦の支配するクニがあったことが記されている。

この弥生文化を担う人々がどのようなルートで日本にやってきたかを考えると、やはり朝鮮に近い北九州や、対馬海流の流れる因幡、伯耆、出雲が有利であったと思われる。ここを起点に、放射状に、中国地方や畿内へと広がり、最終的には、肥沃で広大な耕地を持つ畿内に、全国統一政権が誕生したと考えられるのである。

「記紀」には、高天原に住む天孫が先ず出雲に国譲りを迫ったこと。出雲は、その国作りの過程で畿内にも勢力を伸ばしたこと。その畿内には、邇芸速日が天降り、在地豪族の長髄彦と縁を結んだことが記されている。問題は、その後、日向に天下った天孫族の末裔が畿内に東征し、先に天下った天孫族を支配して大和に統一政権を樹立したということである。

ここに謎がある。本来なら出雲や畿内に直接天降りした天孫族が畿内の統一政権を樹立したと考えられる。しかし、国家統一という観点からは疎外されたはずの日向に降った天孫族の末裔が、なぜ、本流の天降りに対抗する形で東征を開始し、寄留地で勢力を増やし、長い年月をかけて畿内の制圧に成功したかということである。

この疑問について安本氏は、「天孫族は南九州にも勢力をのばした。しかし、この地は「膂宍の空国」(痩せた地。『日本書紀』に見える語)であり、租税を取り立てることによって国力を強化しうるという国家経営の在り方に適していなかった。そのため、冒険的な性格を持つ英雄に率いられ新たな天地を求めて東に向かうことになった」と説明している。(『邪馬台国はその後どうなったか』安本美典p398)

ここで、日向の高千穂に天下ったとされるその高千穂は、西臼杵の高千穂かそれとも霧島の高千穂かという、いわゆる「高千穂論争」になるわけであるが、安本氏は、日向神話に関する史跡が、霧島を起点として多く残されていること。鹿児島だけでなく宮崎の諸方、宮崎、西都、都農、美々津の史跡もそれに含まれるとして霧島説を有利としている。

「私は、邪馬台国東遷説の立場に立つ。卑弥呼の死後、北九州の甘木付近に中心のあった邪馬台国の一部、または主要な勢力が、三世紀後半に、南九州の都城などを中心とする地域へ移動した事実があったのであろうと考える。これが天孫降臨という形で、伝承化したのであろうと考える。

このような立場に立つとき、高千穂論争について、私は江戸時代の国学者、本居宣長(1730~1801)が『古事記伝』の中で述べている「折衷説」に賛成する。すなわち、本居宣長は、天孫瓊瓊杵の命は、はじめ、西臼杵の高千穂野山に降り、そのあとで霧島山に行ったのであるとする。」(『邪馬台国はその後どうなったか』安本美典p139)

しかし、安本氏のこの本は1992年の発刊であり、1993年の発刊である『日本誕生記2』には次のようなことが書かれている。

「私は、直入、大野、大分など豊後の諸郡も邪馬台国の領域に入っていた可能性を述べた。・・・鉄鏃の多量に出土する熊本県と大分県の諸郡は、女王国の、南の防衛戦であったことが考えられる。・・・この大野川を河口方面から、順次さかのぼり、直入郡の萩町まで到れば、天孫が降臨したと伝えられる宮崎県西臼杵郡の高千穂町のすぐ近くとなる。・・・天孫は、すでに屯田兵の置かれていた大野川流域を、兵を挑発しながらさかのぼったのではないか。そして、それまで狗奴国の影響のあった南九州を支配下の収めようとしたのではないか」(上掲書p374)

つまり、安本氏にも、天孫が日向に降臨するに到った事情やそのルートは良くよく分かっていないのである。それというのも、天孫である瓊瓊杵尊は稲束を持って日向に入ったのであって、なぜ火山灰に覆われ稲作に不適な隼人の地を目指したのか分からないのである。また、なぜ、霧島から遠く離れた薩摩半島南西端の阿多の野間崎(笠沙?)に移動する必要があったのかも皆目分からない。

こうした疑問は、津田左右吉も指摘したものであるが、近年、梅原猛氏も次のような指摘をしている。

「記紀」の記述によれば、ニニギノミコトは稲作農業の適地を求めて日向の高千穂に到り、さらに東に出て「朝日の直さす国、夕陽の日照る国」笠沙に到った。そこで「ニニギノミコトはオオヤマツミの娘のコノハナサクヤヒメとの結婚によって日向の東部、肥沃な日向平野に対する支配権を得たはずである。・・・このニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの結婚によって生まれた子どもが海幸彦、山幸彦」である。「こう考えると、オオヤマツミの神の支配地を薩摩国の南西のこの地(野間崎)に置くことは困難である。」(『天皇家の”ふるさと”日向を行く』梅原猛p255)

つまり、日向への天孫降臨の目的地を薩摩隼人の地とすると、日向神話の史跡の比定に無理が生ずるだけでなく、そもそも天孫降臨の動機が分からなくなってしまうのである。そこで、この話は、「大和朝廷がその支配に抵抗し続ける隼人を懐柔するために創作したもの」とする解釈が生まれる。では、この話を創作ではなく史実が含まれるとした場合どういう解釈が可能となるか。

安本氏は近刊の『日本の建国』で次のように述べている。
「大国主の命の勢力の主な根拠地と見られる出雲と大和には、天照大神の子孫が二人天降りしているのである。・・・南九州に天下った邇邇芸の命(天の忍穂耳の命の子)の子孫が神武天皇であった。」つまり、出雲と畿内にはすでに他の天孫が天降りしているから、瓊瓊杵尊は南九州に天下ったというのである。

これについては、私は、あまり説得力が無いように思う。というのは、天孫の天降り先はあくまで畿内方面が本筋であって南九州は逆方向であり、かつ、隼人の地は、日佐 ( おさ=通訳 )が必要とされた天孫とは異族の住む稲作に不適な地であり、あえてそこに天降ったというなら、出雲と同じような「国譲り交渉」があったはずである。

この点、瓊瓊杵尊の降臨先を梅原氏がいうように「西臼杵高千穂から日向の東部」と考えた方がはるかに説明しやすいように思う。こうした観点から、より説得力のある独創的な見解を発表しているのが宮崎照雄氏である。氏の説については今までも縷々説明してきたが、次に、氏の説の全体構造に踏み込んでこの謎解きをしてみよう。

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