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2021年8月

2021年8月19日 (木)

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(おわり)

十三 「少々、苦情を!」に少々苦情を(原題 少々、苦情を!傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ)
○また「目なら目・・・」の原文の意味が、「傷つけたのが目なら目でつぐなえ、歯なら歯でつぐなえ」であるなら、そのすぐ前で、折角あなたが説明してくださった「目には目で賠償しなくてもよいからすぐ釈放しなければならない」という、あなたには珍しく正しい説明と、もう矛盾するではありませんか」

 

*「目には目で賠償しなくてもよいからすぐ釈放しなければならない」は、本文では、「また奴隷なら」という条件が付いていて、「偽証によって罪亡き人(奴隷)の目を奪おうとした場合は、目は目で賠償しなくてもいいからすぐ(奴隷の身分から)釈放しなければならない」ということを言ったのである。
 浅見氏は随所に、こうした文脈を無視した決めつけを行い、山本七平をベンダサンと決めつけ、嘲笑愚弄を繰り返している。
 注意しなければならないのは、この『日本人とユダヤ人』の著作は、山本七平と二人のユダヤ人学者・研究者の共作であって、確かに、山本がエディター兼コンポーザーの役割を果たしたことは間違いないが、記事本文の随所に、ローラー博士やミンシャ・ホーレンスキーにより提供された資料あるいは見解が含まれているということである。

 

十四 プールサイダー――または「ソロバン」式にことばを覚えるユダヤ人の話(原題 プールサイダー――ソロバンの民と数式の民)
 「本章は、外被が、プールサイダーのような日本の評論家批判で、中身が「ソロバン的思考と数式的思考」の説明だが、中身が腐っていては外皮ももう汚染されているので、食べない方が安全である。」

 

*近年のワイドショーでは、このプールサイダーのような評論家が大活躍していて、「宇宙の真理・人類の平和から人間の在り方まで、また国際問題から横町のドブ板の形態まで、森羅万象ことごとく的確に批判し、常に正しいことをのみ主張して来て、誠に真理の体現者のごとく振る舞う、まさに無敵のような人びと」によって占められている。
 一方、浅見氏のような、自分の専門知識を悪用し、自分の気にくわない議論を封殺し、筆者を愚弄し、できの悪い学生を惑わす学者もいたわけである。こうした己を絶対化する学者の存在を見るにつけ、ベンダサンのいう「人間には真の義すなわち絶対的無謬はあり得ない」という言葉の重要性を思わざるを得ない。             おわり

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(7)

十二 無理もない、「しのびよる日本人への迫害」(原題 しのびよる日本人への迫害―  ―ディプロストーンと東京と名誉白人)
○「それにしても、初版から十年以上もたった今、ベンダサン氏のこの御忠告ばかりは何と忠実に「日本人」に受けいれられて来たことであろう。
 日本人はたしかに、アメリカのうしろだてで、アジアにアフリカに、だいぶ恨みの種をまきつづけて来た。だが今やアメリカの世界支配にもかげりが見えて来た。となれば、日本の進む道はただひとつ、悪かった点を改めるよりは軍事的に武装することだ。・・・危い。日本の経済的「侵略」に対する反撥がこれだけ高まっているとき、核武装もしないで、日本人はアジア、アフリカ人の「迫害」から身を守れると思っているのか・・・
 何と正直な忠告であろうか。これで最近の日米防衛肩代り論もよく分かる。1000カイリ「シーレーン」のこともよく分かる。またそのことでフィリピンやインドネシアの大統領たちが『ニッポン、コワイ』とアメリカの大統領へ直訴しに行った気持も分かる。韓国や、さらに軍事大国の中国までが、ただ過去についての教科書問題だけでなく、これからの日本の軍事的強大化を恐れると言っている気持も分かる。みな、実によく分かるではないか。」

 

*これが、浅見氏の38年前の日本の戦後史に対する見方だが、今日、こうした見立てがはずれ完全に逆転したことは明らかである。氏にとって戦後の日本の歩みは「アジアにアフリカに対する経済侵略であり、だいぶ恨みの種をまきつづけて来た」となり、「悪かった点を改めるより軍事的に武装する」と非難する。
 そして、「韓国や、さらに軍事大国の中国までが、ただ過去についての教科書問題だけでなく、これからの日本の軍事的強大化を恐れると言っている気持も分かる。」「フィリピンやインドネシアの大統領たちが『ニッポン、コワイ』とアメリカの大統領へ直訴しに行った気持も分かる」というのである。
 それから38年を経て世界の情勢を見れば、むしろベンダサンの忠告の方が、今日、はるかに現実味を持って迫ってくると言わざるをえない。中国や韓国における日本を悪魔化する歴史教育が、将来、一体いかなる現実を招来するか。
 中国では、今、日本への核攻撃を正当化する動画が拡散している。中国政府はそれについて沈黙を守っている。この現実を見れば、かって浅見氏らの唱えた非武装中立の平和思想がいかに空想的なものであったか、この本はその愚かさを示す墓標となるであろう。

 

(迫害の類型的パターン)
○「異民族が、寄留地で頼りにしていた権力が崩壊する時発生する」
 よくわかった。もしこれがほんとうなら、ユダヤ人が二千年間迫害されて来たのは自業自得である。本物のユダヤ人のみなさん、何か言うことはありませんか。あなた方は全員、みな、そんな寄生虫的搾取階級でしたか。
 
*経済機構の末端に位置していて住民と接する職業はみな寄生虫的搾取階級ですか?

 

○非常に原始的な動物的本能に由来する異民族に対する”におい”と表現される差別感情の存在についてのエピソード。
 クラスの旅行で宿泊したホテルの主人が、同じクラスのユダヤ人に泊めてやらないと言った。外観では区別が付かないので不思議に思い、その主人にたずねたら「いや、においでわかる」といった、という話。
 これに対する浅見氏の感想「それにしても不思議なのは、K氏に対するホテルの主人の反応である。教養あるユダヤ人学生の「におい」までかぎ当てたこの主人がどうして、自分の膚の色の黄色も悪臭も忘れて厚かましい質問を仕掛けてきたこのいやらしい「ジャップ」K氏の匂いを我慢できたのだろうか」

 

*このいやらしい「ジャップ」という表現、日本人に対する人種的偏見を越えた「非常に偏ったイデオロギーに基づく憎悪」を感じさせる。

 

○「これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。この言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。・・・たとえこれが事実であっても・・・これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない」
浅見氏「この本は、英訳されるより先に朝鮮語・韓国語に訳されるべきであった。」

 

*「たとえこれが事実であっても」について、これは朝鮮特需があったことを言っているのだが、戦後の東西冷戦の矢面に立ったのが朝鮮であり、北朝鮮の韓国侵攻により朝鮮戦争が始まったことは歴史的事実である。
 日本は、日本国憲法第9条により参戦を免れ、アメリカの後方支援基地としての役割を果たし、経済発展のきっかけをつかんだわけだが、これは「日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない」のは明かである。
 「第一次世界大戦後のユダヤ人も、同じようなことを言われ、戦争に際して、ユダヤ人だけが何か不当なことをしたように言われ、それが次第に拡大され、ついには、もうけるためにユダヤ人が戦争を起こしたように非難され、それがアウシュヴィッツにつづくのである」とベンダサンは言う。
 「かっては民衆の暴動であったものが、今や、一国の政府の行動として起こされる時代にもなっている。すなわち政府が先頭に立って、ある人種の全財産を没収し、その人種の全員を国外に追放しても、大してニュースにもならない時代になってきた。従って、全地球的な企模において、日本人が、今、どういう位置にあるのか、いろいろと考えさせられるのは、私だけではあるまい。」
 こうしたベンダサンの指摘が、中国の南沙諸島の軍事基地化や、チベットやウイグルの併合、その後の弾圧を見れば、また、中国や韓国の政府主導の執拗な反日プロパガンダを見れば、こうした危惧が決して妄想ではなかったことが判るだろう。『日本人とユダヤ人』は今こそ読み返されるべき本ではないかと思う。

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(6)

七 「日本教徒・ユダヤ教徒」の無知と詭弁(原題 日本教徒・ユダヤ教徒――ユーダイ オスはユーダイオス)
○シュラクター氏はこの本の書評で「独創的でよく考えられたアイデアによって日本人の性格の側面を理解しやすいものにしている」と評するが、「日本人は何宗に改宗しようと所詮『日本教徒』にすぎない」というこの章の主旨はまちがいである。日本人はあくまで日本人であって日本教徒にはならない。

 

*浅見氏は、この主張をギリシャ語の語学力を駆使して論証しようとするが、ベンダサンの「日本教徒」は語学的に導き出された概念ではない。「日本人が無宗教などと言うのはウソで、日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間を基準とする宗教であるが故に人間学はあるが神学がない一つの宗教である」というアイデアは、私は、日本人の精神構造を考える上で、極めて貴重な示唆を与えるものだと思う。

 

○「日本人はいつの時代も憲法を改正したことはない」この人、正気なのだろうか。(現行憲法の冒頭にさえ、「朕は・・・帝国憲法の改正を裁可し」と明記してある。今にして思えば、天皇の裁可による改正などではなく、新規の「人民議会」による「制定だったらもっとよかった」)
 
*浅見氏は、日本国憲法に改正規定があること自体が許せないのだろうか?

 

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を批判する6

 

八 再び「日本教」の無知と詭弁(原題 再び「日本教徒」について――日本教の体現者の生き方)
*記述なし

 

九 さらに「日本教」の無知と詭弁(原題 さらに「日本教徒」について――是非なき関係と水くさい関係)
○浅見氏は、大学3年生向けの一般教養の講義で『日本人とユダヤ人』の一部を論評した後、講義で触れなかった部分を批評するようレポートを課した。一人の学生は、「この本に求められている読み方があるとしたら、本の批判の仕方だけだと思いました。そのように読むべき本もあると思います。しかし、批判の方法を学ぶべき本のほかに、私達は多くの読むべき本があると思います。にもかかわらず、先生が何故、イザヤ・ベンダサンの本を取りあげたのか、その批評の価値が判らず、今に到っております(後略)」

 

 この素朴な健全さ!実はこの学生は、前年度のどこかで単位を落としてやむを得ず私の教室にやってきた四年生で、決していわゆる「優秀」なタイプの学生ではない。しかし私は彼に卒業後「詫び状」を出した。「貴兄の”初歩的な疑問”には、春の講義の初めの時に答えておいたつもり(ベンダサン氏の意図はファシズムと再軍備のすすめということ)でしたが、それが徹底していなかったとすれば、私の不明を恥じるのみです。しかしあの講義の目的は、山本ベンダサンの書く全てのことについて、読者がみな貴兄のような感想を抱いてくれることにあったともいえるのですから、その点に免じて、貴兄に与えた精神的苦痛をお許しください」。この学生には、日頃点が辛いをいう伝説に悩まされている私も、安心して良い点をつけた。・・・もちろんめでたく単位を取得した。

 

*こんな先生には教わりたくない!

 

十 すばらしき正訳「蒼ざめた馬」(原題 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」――目次的世界とムード的世界)
○ベンダサンは「聖書の句や黙示文学的表現が縦横かつ無意識に使われている外国文学を正しく日本語に移すことは、はっきり言って不可能である」というが、そんなことは全然ない。よい解説書を選び、自分自身で聖書を読めば、誰でも聖書の句や表現に強くなれる。

 

*「よい解説書を選び、自分自身で聖書を読めば、誰でも聖書の句や表現に強くなれる」ことを否定しているのではなく、「聖書の句や目次文学的表現が縦横かつ無意識に使われている外国文学を正しく日本語に移すことは、はっきり言って不可能である」といっているのである。

 

○日本人にとって「狭き門」とは、「誰にでも知られ、みなが入りたがるが、多くの人が入れないで門外に残るという意味」(例えば有名大学の門)で使うが、新約聖書の「狭き門」は「人一人がかろうじて通れる、全く目に付かない入り口だから・・・」その道を見つける人はわずかだ」という意味であるというが、「日本的意味」で使ってもかまわない。

 

*ベンダサンは「日本的意味」で使ってはいけないと言っているわけではない。

 

○ユダヤ人は、常に非常に具体的な民族であったので、抽象的な言葉を連ねる表現に満足できない」。これに対して「日本の表現法はこの逆で抽象的な言葉を次々に重ねていく」というが、どの民族、どの言語でも、時代が変わり生活が変わり必要があれば、必ず抽象でも具象でも表現できるようになる。

 

*前者は、表現しようとする対象を正確に描写しようとする「黙示文学的表現」が生まれた背景の説明であり、後者は、短歌や俳句のように、短い言葉で端的に情景描写する抽象度の高い表現が多いということを言っているのである。あえてこれを否定することもなかろう。

 

○「暁の明星」について、ヨハネ黙示録の第二章の「暁の明星」の意味は、実は専門家の間でさえ定説がないほどむずかしいのである。イザヤ書の方の「暁の明星」について、七平さんは「黎明の子」をヘブル的用法、「暁の明星」をギリシャ的用法にあてたいのだそうだが、この二つともヘブル的用法に対する訳語で、同じバビロン王を当てこすった表現に過ぎない。「両方の意味は全く違う」というなら、それ以外の何をさすか具体的に言ってご覧なさい。

 

*ベンダサンの言う、ギリシャ的用法の「暁の明星」とヘブル的用法の「黎明の子」の意味の違いについて、前者は、新約聖書ヨハネ黙示録2章28節の「わたしイエスは、使いを使わして、諸協会のために、これらのことをあなたがたにあかした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く「明けの明星」である」という、いい意味で使われる「暁の明星」なのではないか。後者は、堕天使・悪魔=バビロン王のことで、前者とは意味が違うので、両者の訳語を分けた方がいいのではないかという提案だと思う。

 

十一 処女降誕のある民族(原題 処女降誕なき民――血縁の国と召名の国)
○「萬世一系の日本には処女降誕はない(牧畜経験がないことにもよる)。一方、ユダヤ人は生まれる時は平凡だが召名により偉大になるので処女降誕はない」について、日本には三輪山伝説など処女降誕伝説はいくらでもある。ユダヤの方は、いちおう「旧約聖書」のユダヤ人には処女降誕の考えはなかったことにしよう。

 

*三輪山伝説は「大物主」という夫が想定されていて処女降誕とはいえない。むしろ貴種との血族関係を強調していると見るべきである。全くの処女が精霊により妊娠して生まれたがゆえにその人間は偉大である、というような考え方は「私の知る範囲では」日本にはないと思うとベンダサンは言っているのである。 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(5)

五 差別の天才と評論の「低脳」(原題 政治天才と政治低脳――ゼカリヤの夢と恩田木 工)
○日本人の九割九分読んだこともない本を持ち出して「日本人」一般を論じる方法論上の愚かしさ 

 

*かって地方の名家には必ずといっていいほど『修養全集』があり、その中に「日暮硯」があったと渡部昇一はいう(『民族とは何か』山本七平p187)。本文では、戦前、米軍が日本研究のため使ったとなっており、当時は、日本人の基本教養図書だったのではないか。

 

六 全員一致は有効(原題 全員一致の審決は無効――サンヘドリンの規定と「法外の法」)
○「旧約聖書のミカという預言者は、神に絶対服従すること自体が罪であるといった」とベンダサンはいうが、ミカはそれと反対のことをいった預言者で、「神の戒名(律法)に絶対的に従うことこそ神に従うこと」といった。「神の戒名に絶対的に従うこと自体が神を信じないこと」などと言う戯言をいったのではない。

 

*この文の前段の本文には、
(一)富者(地主・資本家)が貧者(労働者者農民)を搾取するのは罪である。
(二)故に、この搾取した富によって築かれたエルサレムの神殿は罪の成果であるから、ヤハウェ(神)自身がこれを打ち壊すであろう、とある。
 この文を受けて、「神殿を増築し、美しく飾るということは、言うまでもなく一心に神を拝し、神を賛美する」ことではあるが、それが「搾取した富」により築かれたものであれば神の意志に反する、と言ったのである。
 浅見氏は「神に絶対的に従えばこそ、・・・厳しい孤立にも耐えた」という。一神教の強さはそこにあると思うが、ミカ書の6・6-8は、旧約聖書中最も宗教の本質を要記した偉大な言葉とされ、「その神の求められるところ、その神に捧げるべきよきものがなんであるかを問い、それは形ばかりの犠牲を捧げることではなく、「ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」としている。(『旧約聖書略解』)
 ベンダサンは「ミカのこうした考え方の奥底にあるものは、人間には真の義すなわち絶対的無謬はあり得ない、これはただ神にのみあるのであって、人間はたとえ一心不乱に神を賛え、神の戒名を守り、神に従っていても、そうする行為自体の中に誤りを含む」という考え方だと説明する。浅見氏はこれは七平さん個人の”下司のかんぐり”だというが、私は専門的なことはわからないが、素晴らしい考え方だと思う。

 

○サンヘドリンの規定に「全員一致は無効とする」とあるというのはまちがいである。
タルムード原典には、「死刑判決は(いやしくも一人の人間を地上から抹殺してしまうのであるから)全一致であろうとなかろうとすべて、「翌日まで繰り越す」である。」「全員一致」など何処にもない。

 

*ところが、浅見氏は、タルムード原典から次の規定を紹介している。
 「死刑罪でない裁判では、全員が(被告の)有罪を主張しても無罪を主張してもよい。しかし死刑罪の裁判では、無罪の主張は全員がしてもよいが、有罪の主張は全員でしてはならない」。
 これは「死刑罪で有罪の主張は全員一致でしてはならない」ということではないか。また、ベンダサンの「全員一致は無効」は、イエスの死刑判決におけるサンヘドリンの議決(もしくは判決)について言っているのであって、その場合の処置は二説あって、一つは「全員一致」は偏見に基づくのだから免訴、もう一つは、興奮によるのだから一昼夜おいてから再審すべし、であったとしている。
 これに対して浅見氏は何を言っているかというと、「全員一致は無効」というサンヘドリンの規定は、あくまで死刑判決についてあって、ユダヤ人はそれ以外のあらゆる生活の場面において「全員一致」をやっている、つまり「全員一致は無効」を、死刑判決以外の生活の場に一般化するのは間違いだと言っているのである。
 これも、専門的なことは私はわからないが、先に示した「人間には真の義すなわち絶対的無謬はあり得ない、これはただ神にのみある」という考え方は、「自分を絶対視してはいけない」という戒めであって、極めて重要な考え方であると思う。キリスト教では「神に対する愛と、隣人愛」を十戒の中でも最も重要な戒律と説くが、「隣人」は「汝の敵」をも含むのである。この点、浅見氏の恐るべき敵意は、一体何処から生まれているのだろうか。

 

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(4)

三 ユダヤ人がクロノスの牙に追われ、日本人がその首に乗る話(原題 クローノスの牙 と首――天の時・地の利・人の和)
○ここで浅見氏が指摘していることは、日本人と遊牧民の時間観念が違うというベンダサンの説明が矛盾しているということである。
(一)遊牧民の生き方は日本的勤勉さは皆無と言いながら、パレスチナの遊牧民=ユダヤ人は「働かざる者は食うべからず」で勤勉・細心・計画性・環境の変化への素早い対応といっている。矛盾している。

 

*パレスチナの遊牧民=ユダヤ人というのが変?

 

(二)遊牧民の時間感覚について「最も温和なスローガンでも『追いつけ、追いこせ』」と言っているが、それは「ノロマには生きて行けない」日本人と同じではないか。

 

*ここでの「追いつけ、追いこせ」は「アラブの砂は固く手で握らねばバラバラになる」遊牧民を、一定の方向に向かって統一行動をとらせるためには、打ち勝たねばならぬ強大な敵か、競争相手が必要という意味の説明である。文脈を無視した批判である。

 

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を批判する。
(三)日本人にとって「時は住む場所によって各人各様である」と言い、他では「時間が各人各様で後言っても日本人にはわからない」という。矛盾してる。

 

*「時は住む場所によって各人各様である」という言葉は、「天の時の春夏秋冬は・・・おのおのひとしからず・・・」という『百姓嚢』の文をまとめたものである。「春夏秋冬」が抜けていることと「おのおのひとしからず」を「各人各様」とするのもおかしい。

 

(四)日本人にとって時はすべて「天(≒)神の時」であると言い、他ではユダヤ人にとって「千年も一瞬も」すべて「天(≒)神の時」であるという。矛盾している。

 

*「天(≒)神の時」は「天の時を敬み、地の利にしたがふは、人間の常理也・・・」とい『百姓嚢』の文からとったものである。それをユダヤ人の「千年も一瞬も共に神の時」と同じだと言っているが、牽強付会といわざるを得ない。
 浅見氏は「文庫本でわずか十二頁の中にこれだけ相反することを書きつらねるというのは、常人のできるわざではない」と山本七平を愚弄するが、このような文脈無視、牽強付会を行って人を貶めるのも「常人のわざ」とは思えない。

 

四 物騒な「別荘」日本と「ハイウェイ」から姿を消したユダヤ人(原題 別荘の民・ハ イウェイの民――じゃがたら文と祝砲と西暦)
○「日本人は戦争を知らない、いや少なくとも自国が戦場になった経験はない」は、あまりにも無知であり「明治維新からだけでも戊辰、西南、日清、日露、満州、支那、大東亜」・・・全部戦争である」と非難している。

 

*「日本人は戦場を知らない・・・」については、その後に「世間知らずのお坊ちゃんが、日清・日露の勝利で頭にきてしまった」という文があるから、江戸時代以前の日本について言った言葉である。だが、「そして太平洋戦争の敗北となったわけだが、この時も国土が戦場になることは免れた」は間違い。おそらく、この「国土」は「本土」を念頭に置いた言葉だったのだろうが。
 なお、朝日新聞の投書欄に載ったという1964年のオリンピックにおける自衛隊の祝砲の是非については、IOCとどんな議論があったか知らないが、実際には撃っている。また、元号問題については、「西暦を活用するのは大変結構だが、それで元号を廃止するということにはならない」という山本七平の主張。「革新陣営」の非武装中立論については、政策論争としてはすでに消滅したと思う。

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(3)

二、実在しない「ユダヤ人」の話(原題 安全と自由と水のコスト――隠れ切支丹と隠 れユダヤ人)   
○「日本人」といえば、みな軍備不要論を唱える民族だと考えるのがおかしい。大勢  はむしろ逆ではないか。
○日本が「少なくとも過去においては」安全も自由も水も「常に絶対に」豊富だったとは、この人、果たして正気だろうか。日本人、とくに庶民は、過去においてこそ、安全も自由も水も乏しかったのだ。

 

*ベンダサンがここで言っていることは、日本人にとって危険なものは「地震・雷・火事・おやじ」であって、この中には、戦争も、伝染病も、ジェノサイドも、差別も、迫害もない。また、これらは「いずれも無差別で一過性である」こと。つまり、日本人にとっては恐いのは自然災害であって、そのために、人災から身を守るという意味での「安全にはコストがかかる」という考え方がないことを指摘したのである。
 これに対してユダヤ人は、キリスト教社会の中で生きていくためには「内なるゲットー」を必要としたように、差別・迫害から身を守るためには「たとえ他の支出を削れるだけ削っても当然」という「安全に対する考え方」が生まれた、というのである。
 水についても同様で、日本の気候は稲作に適した温冷帯湿潤気候であって、年間を通して雨が降る。また「周囲に海という天然の浄化槽があり、しかも流れの速い短い河という天然の清掃装置があった」ので、ユーラシア大陸の城壁都市のような地下水道や下水道を必要としなかった。
 こうした比較論が成立することは、多くの読者の認めるところである。浅見氏は、ベンダサンの”日本人は安全と水はタダだと思っている”をもって、山本を「軍備必要論者」と決めつけて批判する。しかし、日本の軍備をどうするかは、国際情勢に対応して考えるべきことであって、こうした考えを危険思想視すること自体がおかしいのである。
 
○(安全)第二次大戦後間もないころのニューヨークのアストリア・ホテルで暮らしているユダヤ人の話について、戦前からニューヨークはジューヨークと言われ、ユダヤ人人口も増えて安全だった。高級ホテル住まいをして安全を確保するユダヤ人の話は、全部ウソで、英訳本には「アストリア・ホテル」は出てこなくて「料金の高い中部マンハッタンのホテル」になっている。ニューヨークには確かにアストリア・ホテルは実在するらしいが、常時こんな物々しい警備に囲まれているといえばホテル側から営業妨害で訴えられるだろう。

 

*『怒りを抑えし者』の著者稲垣猛氏は、この件について「安全のために高級ホテルに住んでいるユダヤ人に出会った日本人貿易商K氏の話は、貿易関係者の姉弟が少なくなかった青山学院の級友からか、或いは教師から学生時代に聞いた話ではないかと推測される。とすれば、このエピソードは、戦後ではなく戦前、アメリカでも反ユダヤ主義がまだ強かった時代のそれではなかろうか。当時、ナチス・ドイツの迫害から命からがら逃げてきたユダヤ人なら、その体験が生々しいだけに、高い料金を払っても「安全」な高級ホテルに住もうとした人間もいただろうと納得できよう」と書いている。
 英語の翻訳本では「1930年代に反セム主義がはびこっていた」頃の話にされているから、そういうことなのかも知れない。いずれにしろ、そういう「安全感」をこのユダヤ人が持っていたという話で、ウソと決めつける必要はないと思う。あくまで伝聞として紹介されていることなのだから。

 

三、お米はお米・羊は羊(原題 お米が羊・神が四つ足――祭司の務めが非人の仕事)
○家畜に対する態度が、日本人と欧米人とでは何か根本的に違うというが、ユダヤ人が遊牧民との接触を続けたのは135年(バルコクバの乱)までの話で、それ以後、ユダヤ人は世界に離散し「牧畜民」的意識を持っていない。

 

*これはユダヤ人云々の話ではなく、遊牧民との比較の話で、「日本人は、過去において遊牧民と全く接触せず、牧畜を営んだ経験の全くない民族」であり、動物に対する考え方が、牧畜を生業としてきた民族と違っている、ということを指摘したまでである。

 

○日本人は米に対して特別な感情を持っていると言うが、今の日本人、米を大切にしているか。米よりハンバーガーやスパゲティーやラーメンがいいと言う現代っ子たちは日本人ではないのか。

 

*弥生時代以来、稲作で生きてきた日本人が米を大切にしてきたというあたりまえの話で、現代の飽食時代の日本人がハンバーガーを食べるからといって「米を大切にしていない」とはならないのでは?

 

○「動物虐待」について、牧畜民から見れば日本人の動物の飼い方が虐待に見えるという指摘について、犬の虐待なら「カラマーゾフの兄弟」にも「シートン動物記」にも出てくる。中世ヨーロッパにも野良犬はいた。ユダヤ人は羊を神聖視すると言うが、ウソである。羊が神聖となるのは、神への供物となった時だけ。「命の糧」といった特別な意味」も存在しない。

 

*遊牧民にとって家畜が「命の糧」であるが故に、広い意味の家畜に対する態度が、牧畜を営んできた欧米人と、牧畜の経験のなかった日本人とで違うということを指摘したまでである。欧米にも犬を虐待する人がいるからといって、この指摘が間違っているとはいえないだろう。「神聖」の定義は私は知らない。

 

○ユダヤ人の間では「家畜自体は絶対に『畜生』とは考えられなかった」というのも愚かなウソである。聖書では家畜は皆「けだもの=畜生」であった。

 

*日本人は、イエスがで生まれたことに特別の意味づけをするが、牧畜民にとっては特別の意味はない、家畜小屋はどの家にもあり、家畜は日本人が考えるような「畜生」ではなかったということを言っているのである。浅見氏はイエスは「けだもの=畜生」の馬小屋(家畜小屋)で生まれたとあえて言いたいのだろうか?

 

○ユダヤ人が現代はもちろん古代でも「家は大きな一間で、半分が一段高くなっていて、人はそこに寝る。低い方は家畜が寝る――庶民の普通の風景であった、などというのも、聖書本文や考古学の知識ゼロの人間の言うことである。

 

*浅見氏は、「ユダヤ人が現代はもちろん古代でも」としているが、原著では「ユダヤ人(のみならず他の多くの民族でも)では、一般人が家畜小屋で生まれることは、普通のことであった」となっている。人と家畜が一つの屋根の下に住むというのは衛生上問題なので、この点は浅見氏の指摘が正しいのかも知れない。

 

○イスラエル軍隊、豚用食器と他の食器区別しているというがこれもウソ。豚は「汚れた」動物なのでユダヤ人は食べるか食べないかの二者択一があるだけ。要するに、「今日いわゆる伝統的ユダヤ教の教えを守っているユダヤ人は多くない」

 

*この本の著作には、山本の他に二人のユダヤ人が参加していることに注意すべきである。一人は米軍の教育に関係した学者であり、イスラエル軍のことも知っていたとも考えられる。「今日いわゆる伝統的ユダヤ教の教えを守っているユダヤ人は多くない」のであれば、そういうことがあったのかもしれない。

 

○日本には「奴隷制と宦官がなかった」「実質的に奴隷がいなかったのはイスラエルだけ」等という愚かさにも恐れ入る。

 

*日本の奴隷制に関する山本七平の論考は、「語録:秀吉のキリシタン禁止令の真意」参照。「奴婢」を「奴隷」とするかどうかは定義の問題。「イスラエル実質的に奴隷制があったかなかったか」も同様ではないか。

 

○アウシュビッツの描写について、「ユダヤ人が書いたものとは思えないほど不快な表現」

 

*そういうことが実際に組織的・計画的に行われたということで、日本人には考えられないことだが、それが牧畜と関係しているかどうか、専門的なことは私には判らない。

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(2)

一、イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』のまちがい
はじめに
○要するにこれは、「ユダヤ人」にことよせた、新手の国粋主義・軍国主義へのすすめ以外の何ものでもない。

 

*これが浅見氏の『日本人とユダヤ人』の総評であるが、氏は、この強引な「決めつけ」を証明するため、語学的な間違いの指摘や「ユダヤ学」の専門知識によって、ベンダサンの見解を捻じ伏せようとするのである。しかし、それは結局、専門知識のひけらかしに終わり、「新手の国粋主義・軍国主義」の証明になるどころか、氏の極端なイデオロギー偏向を暴露する結果となっている。

 

○「ベンダサン=山本七平である証拠 英訳本の「原著」がないこと、ものの考え方や詭弁の操り方まで酷似している。」

 

*まず、『日本人とユダヤ人』はイザヤ・ベンダサン著となっていて、山本七平訳となっているわけではない。つまり、この本は日本語で書かれていて英語の原著はないのである。従って英語の原著がないことをもって、ベンダサン=山本とすることはできない。
 山本は『実業之日本「山本七平の智恵」』の「ベンダサン氏と山本七平」で、”ベンダサンはあなたではないか”と問われ、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない。ただ私は著作権を持っていない」といっている。
 では、ペンネームかというと、ペンネームとは著作権を本名の人が持っている場合にしかいえないことで、私が著作権を持っていないのに、そうであると私が言ったらウソになる」とも言っている。
 最も新しい本人の証言としては、昭和62年10月24日に行われた「世界を考える京都坐会『新しい人間観の研究』第45回会議録」で、山本七平は、この間の事情を次のように説明している。
 「帝国ホテルの傾斜した部屋を借りて校正の仕事をしていた時、同ホテルに宿泊しているメリーランド大学教授で日本に駐留しているアメリカ兵の教育で来日していたジョン・ジョセフ・ローラー(ユダヤ人)と、その友達でウイーン系ユダヤ人ミンシャ・ホーレンスキー(両者とも帝国ホテルを設計した建築家ライトのマニアだったという)に会い、いろいろなことをしゃべっていた。
 そのホーレンスキーの奥さんが日本人で、この方が、国際弁理士で非常に語学のできる人で、その人の(三者の会話内容の)口述筆記のような形で書いていったというのが、あの本ができた真相である」。そのため「文章の書き方から見て、最初に口述したのは女のはずだ」という文芸評論家の手紙が来たが、女性捜しが始まると大変だから返事出さずに知らんぷりしていた」という。
 なお、ベンダサン名義の本は4冊あるが、ホーレンスキー(実はノンフィクション賞の授賞式に参加していたという)は日本にずっといたが、ドクターローラーは任地があるのであまり関与しなくなって、あとはホーレンスキーとの合作みたいになった」といっている。日本教という概念も、彼らと話している内に、日本人はジャパニーズイズムというのが一番いいんじゃないか、という発想になった。それを日本教というとやけに新鮮になる」と。
 確かに、イザヤ・ベンダサン名義の『日本人とユダヤ人』『日本教について』『日本教徒』『イザヤ・ベンダサンの日本の歴史』で論じられたことを見てみると、山本七平のものとは思われない経験・知識・主張が含まれているように思われる。もちろん、「エディターでありコンポーザー」であった山本七平の主張が中心になっていることはいうまでもないが。
 とはいえ、山本七平の著作は実名で書かれたものが大半であって、では、なぜ山本がベンダサン名でこの4冊の本を出したかというと、それは、大逆事件で処刑された大石誠之助を縁戚に持つ三代目クリスチャンであった山本が、自らのキリスト教信仰と、戦前は現人神とされた天皇制の相剋に苦しんだ経験から、両者の謎の解明について、誰にも妨げられることなく自由に論じたいと思ったからである。
 では、こうした山本七平の著作に対して、浅見氏はなぜ激しい敵意を示し、これを抹殺しようとしたか。「山本七平の言論はファシズムに通じる」と氏はいうが、その「思い込み」は一体何処から生まれているたのか。氏の信仰によるものかイデオロギー的帰結か?

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(1)

 本書は山本七平批判の本としては最も厳しいもので、その後の山本七平批判の「よりどころ」となったものである。「ユダヤ」学の専門学者による批判であり、学術的なまちがいの指摘がなされているが、イデオロギー的偏見が強烈で、およそキリスト者が書いたとは思えない、悪意に満ちた本といわざるを得ない。
 1983年12月15日の出版で、今(令和3年)から38年前のものであるが、このように一定の歴史をおいてその記述内容を検証してみることで、その問題点をより鮮明に浮かび上がらせることができる。
 私自身は、市井の一読者であって専門家ではないが、その記述内容の論理的整合性、客観性・公平性、現実妥当性を自分なりに検証することはできる。以下、浅見氏の『日本人とユダヤ人』批判の全編にわたって、私なりの感想を述べておきたい。
○は浅見氏の批判 *はそれに対する私の見解
 
(まえがき)
○1982年教科書問題について
氏(山本七平)はこの「教科書問題」について、日本のアジア「進出」肯定論も中国や韓国の抗議に対する反論も、ついにいわずじまいだった。ただ苦しそうな作り笑いを浮かべながら「何しろ日本人は忘れっぽいところがありますから・・・」どこまで卑怯な人なのだろう。

 

*いわゆる教科書問題(1982年6月)については、『万犬虚に吠える』(渡部昇一著)で明らかになった通り、「一人の記者が勘違いした内容を取材に参加していた各メディアが一斉に報道したため」で、「報道どおりの中国華北地域については文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせた例は無かった」というのが真相である。
 にもかかわらず「文部省においては、教科用図書検定基準の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という近隣諸国条項の追加が談話と連動して行われ、文部省内は中国と韓国に関する教科書会社の記述は全て認め訂正は無しにせざるを得ないという雰囲気に陥った」(wiki「歴史教科書問題」)という。

 

 なぜこのような事件が起こったか。これは、日本のマスコミの中国や韓国への迎合体質が生んだ「虚報事件」であり、日本の教科書検定に中国や韓国が政治介入する契機となったものである。
 山本は、日本のマスコミの、こうした迎合体質(戦前は軍への)が生み出す「虚報」の恐ろしさについて度々論じており(「語録」百人斬り競争」参照)、戦後のこの事件も、それと同様の「時の勝者」への迎合が生んだものであるとして、それを「日本人は忘れっぽいところがある」と言ったのである。
 浅見氏は、こうした山本の指摘した問題点は全く無視し(山本がこれを論じた『私の中の日本軍』は1975年に出版されている)、一方的に、山本をファシズムへの道を開くものと決めつけ嘲笑しているのである。日本のマスコミの垂れ流す「虚報」を利用して、日本の世論を操作し、対日外交を有利に展開しようとする中国や韓国の思惑にはまるで気づいていない。 

 

○山本氏やその仲間だけが、あの南京大虐殺さえ決して「大」虐殺ではなかったと強弁し続けてこられた。

 

*いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で中国が持ち出し、その後中国も触れることはなかったが、日中国交回復時に、朝日新聞の本多勝一記者が「中国の旅」を朝日新聞に連載し、南京大虐殺のハイライトと言うべき「百人斬り競争」(原題「競う二人の少尉」)を取りあげたことから大論争に発展した。
 山本は、イザヤ・ベンダサンの「百人斬り競争」フィクション説(『日本教について』「朝日新聞のゴメンナサイ」『諸君』掲載)を、自身の戦場での体験をもとに検証する形で『私の中の日本軍』の執筆をはじめ、この「百人斬り競争」の虚構性を次々にあばいていった。(この『日本教について』の論述には、山本の他にミンシャ・ホーレンスキーの見解が反映していると思われる)
 山本はその延長上で「南京大虐殺」にも触れ、それが蒋介石の南京城陥落寸前(1937.12.11)の計画的撤退によって、日本軍の南京城突入は実質的に「無血入城」(1937.12.13)となり、17日に入場式が行われたこと。また、この方面の中国軍の兵力が約5万人であったことから、東京裁判で認定された「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上」というような「南京大虐殺」は起こりえないと言ったのである。
 いわゆる幕府山事件――昭和12年12月14日、第13師団・第103旅団長の山田栴二少将が率いる山田支隊が、南京城北方の幕府山で約8,000の投降兵(民間人は解放)を収容、暴動の後残った「数千人の捕虜を連れて数百人の日本軍」が夜陰に紛れて護送し、揚子江北岸に解放しようとしたが、再び暴動が起こり、日本兵を含む多数の死者が出た事件――については、自分の戦場体験を踏まえて、その原因が「飢え」「暗闇」「水の恐怖」が重なる中での「少人数で多数の捕虜を護送する恐怖」にあったと推定している。(『ある異常体験者の偏見』「アパリの地獄船」)

 

 いずれにしても、東京裁判で突如持ち出された「南京大虐殺」の真相を明らかにすることは、日本にとっては極めて重要で、本多勝一記者の「中国の旅」を契機に本格的な研究が始まり、その全貌が次第に明らかになったことは、誠に幸いなことであった。
 1989年に偕行社が刊行した『南京戦史』では「撃滅、処断約一万六千人」とし、「これら撃滅、処断は概して攻撃、掃蕩、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたものである。しかし、これらを発令した指揮官の状況判断、決心も経緯は戦闘詳報、日記等にも記述がないので、これらの当・不当に対する考察は避けた」としている。
 また、wiki「南京事件論争史」では、この不法殺害に「民間人死者15,760人」を加えているが、『南京戦史』は、この数字はスマイス報告によるもので、南京入場以前の「南京市部及び江寧県の被害者数」を合計したものとしている。(なお、スマイスも参照した紅卍会の埋葬記録では、城内区は男1,759、女8、子供26(56?))となっている。)
 この「民間人死者」の数字について『南京戦史』は、「我が軍の中国一般市民に対する基本的態度は、これを敵視しないことであった。市民の被害は我が軍が中国軍を攻撃し、或は掃蕩などの戦闘行為をとったさい、その巻き添えによってやむなく殺傷された場合を除いて、すべて個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」としている。
 この「南京大虐殺」のハイライトとされた事件が、いわゆる「百人斬り競争」であって、それが、毎日新聞の浅海記者による戦意高揚のための「やらせ記事」であったことは、鈴木明や、山本七平のその後の粘り強い調査研究によってはじめて明らになったのである。 しかし、この新聞記事の虚構性が明らかになると、朝日新聞はこれを「捕虜据えもの斬り」等非戦闘員殺害の話に作りかえ、毎日新聞は、今なお「正当な取材だった」と言い続けている。

 

○イザヤ・ベンダサンこと山本七平氏のユダヤ学、聖書学がいかに非常識なものか、このような人が気のきいた「知識人」として歓迎されている間に、日本の国が取り返しのつかない方へ持って行かれてしまうことを怖れる・・・ファシズムは、似而非学者・文化人の言論の横行に支えられてやってくる――これは歴史の教訓である。

 

*浅見氏の「ユダヤ学・聖書学」による山本七平批判が一体いかなるものか、日本のファシズム化の危険性は一体どちらにあるのか、順次検討していきたい。

2021年8月11日 (水)

女子体操村上選手と、男子サッカー久保選手の「涙」

 オリンピックが成功裏に終了し大変良かったと思っています。暑いという問題はありましたが、台風の襲来や地震の発生もなく胸なで下ろしました。なによりオリンピックに参加したアスリートにとっては、4年に一度の世界の頂点を目指す大会ですから、無観客ではありましたが、迫真の競技が行われ、テレビ観戦する私達もそれを堪能し、改めて、トップアスリートのすごさを知ることができました。


 予想外だったのは、いわゆるデルタ株の感染力が大変強く、オリンピック開始後、東京で一日5,000人に迫る感染者が出たことです。ただ、8月9日時点の東京の実効再生産数のグラフを見てみると、7月31日以降低下に転じており、オリンピック開催がこの感染拡大の原因ではないことの表れではないかと思います。

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1.東京都の検査陽性者数(東洋経済オンライン)

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2.東京都の実効再生産数


 NHKニュース 2021年8月8日 19時14分によると、「東京オリンピックに関連して新型コロナウイルスに感染した選手や関係者の累計は、先月1日から8月7日までに国内と海外合わせて430人」で、その内訳は、「選手はいずれも海外から来日した人が29人で、選手団の監督やコーチ、IOC、競技団体といった大会関係者が109人。メディア関係者が25人、組織委員会の職員が10人、大会の委託業者が236人、ボランティアが21人」となっています。


 このうち東京 中央区晴海の選手村に滞在していたのは33人。「一方、大会組織委員会とIOCのまとめによりますと、東京オリンピックのために海外から来日した選手や関係者は、先月から今月6日までに4万2681人」。「このうち、空港での検査で陽性が判明したのは37人で陽性率は0.09%、選手村や競技会場など大会の管轄下で行った62万4364件の検査では138人の感染が確認され、陽性率は0.02%」だそうです。

これを見ると、オリンピック選手村での感染防止対策は、市中の感染爆発と比べと、ほぼ完璧に成功したということがいえるのではないでしょうか。 私自身は、オリンピック開催反対がコロナ感染拡大を理由に高唱される中で、ワクチン接種により死者数が最小限に抑えられ、その傾向が今後も続くことが予測されるので、なによりもオリンピアンたちのために、オリンピックを開催すべきと主張してきました。結果的には、今日、全国16,000人に及ぶ感染拡大にもかかわらず、死者は十数名程度に抑えられていますので、正しい判断だったと思っています。

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3.全国のコロナ関連死者数


 残念なのは、やはりオリンピック開会式と閉会式の完成度で、競技の素晴らしさに比べてまとまりがなくバラバラな感じがしたこと。なんだか、今の日本人の精神的混迷を象徴しているように思いました。一方、女子体操の村上選手や男子サッカーの久保選手の「涙」は私は素晴らしいと思いました。私の今回のオリンピックでのハイライトでした。

2021年8月 1日 (日)

「みのミュージック」の開会式批評と誹謗中傷に対する村上茉愛選手の反撃

 

 私は今回の東京オリンピック開催については、日本が開催を希望して引き受けた国際大会である以上、コロナパンデミックの最中ではあるが、開催の可能性を粘り強く追求すべきであると思った。日本の感染状況は世界的に見ればかなり低く抑えられており、さらにワクチンの奇跡的開発と接種の加速化によって、死者数を劇的に減らすことに成功しつつある。こうした状況を総合的に考えれば、東京がパンデミック下のオリンピック開催にチャレンジすることは決して不可能ではなく、これを成功させることが、アスリート及び世界に対する日本の責任であると思った。

 

 それにしても、開会寸前に到るまでのゴタゴタは一体何だったのだろう。

 

 「開会式・閉会式の全体コンセプト」の冒頭には次の二つの理念が掲げられている。
【平和】和を尊ぶ考え方が、分断や対立を超えた世界につながることを示す。
【共生】多様な違いを認め合い、支え合い、活かし合うことで、新しい価値を生み出す共生社会を目指すことを示す。

 

 率直に言って、このコンセプトは日本文化の基本的スタイルであると思う。欧米の一神教文化とっては、目指すべき新しい理念であるかも知れないが、日本人にとっては、こうしたライフスタイルは普段のことであって、であるならば、開会式では、もう少し自信を持って、和を尊び多様性を認める日本文化の歴史的使命を、自信をもって表明すべきであったと思う。

 

 コロナパンデミックという異常事態の発生によって、オリンピック開催が一年延期となり、2020年の12月、野村萬斎氏を統括責任者とする開会式の演出チームが解散、新たに電通の佐々木宏氏を総合統括とするチームが、五輪の開会式まで残り7カ月となるなかで開会式の企画案を作り直すことになった。ところが、3月18日、佐々木氏辞任、7月19日、開会式作曲担当の小山田圭吾氏辞任、7月22日、小林賢太郎氏解任と続いた。

 

 佐々木氏の辞任は「開会式に出演予定の渡辺直美にブタの仮装をさせ、「オリンピッグ」として登場させるアイデアを披露した」というもの。小山田啓吾氏は「27年前の同級生のいじめ記事」、小林賢太郎氏は20年前のお笑い時代コントで「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という言葉を使用した」ことがSNS上で問題視されたのである。だが、このいずれも、オリンピック開会式の演出でなければ、また、SNSがなければ、問題とされることはなかったであろう。

 

 SNSの発達により、誰でも何処でも何時でも、そして誰に対しても、自分の意見や感情をぶつけられる時代になったきた。ウイズコロナだけでなくウイズSNSで生きざるを得ない時代になったわけである。私は、作品は作品として干渉すべきであると思うし、自ずと、オフレコの会話もあるべきと思う。従って、今回の辞任・解任騒動はいささかやりすぎだと思う。思想信条の自由は何処に行った?という感じ。

 

 そこで、今回の東京オリンピックにおける開会式の評価であるが、私は個々のアーティストの表現力や、ドローン制御技術による空中パフォーマンスの素晴らしさには感激したが、先に述べたように、ショー全体の統一感のなさ、西洋文化に「おんぶに抱っこ」の感は否めなかった。賛否いろいろあるようだが、私が特に面白いと思ったのは、「みのミュージック」氏のYouTube動画での批評だった。

 

・五輪開会式、がっかり、打ちのめされた、悔しくてたまらない。
・日本の芸術文化、伝統・モダン芸術・ポップを融合したものになるかと思ったが、自国 の芸術文化へのほこりを二束三文で売り払った。
・困難な状況の中で一応開会式の成立まで持ってきたことには敬意を払うが、椎名林檎や 野村萬斎の演出、アキラのバイクを見たかった。
・12月に萬斎チームが解散するなど狂気のさた、組織力ちぐはぐ、参加した才能あるク リエーターが参加したくなくなり、日本のソフトパワーが引き上げるなど、あらゆる方 向からのマイナスの作用があったと思うが、自国文化への認識、ほこりの部分に疑問を おぼえた。
・タップダンスには絶望した。なんでアメリカ文化で始まるのか。
・音楽も、なんでイマジン?共作小野洋子との関係はあるが、外国のセリブリティーに歌 わせてアジア人入っていない。冒頭子供たちに歌わせ、入れ替わり立ち替わり海外の歌 手が歌う。世界各国のナショナルプライドの発露する場で冷や水をかける感じ。曲のメ ッセージは素敵だけど、二週間、国の威信をかけてがんばるわけなのに、このちぐはぐ 感はなに!
・平和というキーワードの言葉の選曲をしとけば場が収まるという浅はかさ、軽薄さを感 じた。クイーンもわけわからん。自国文化への敬意の薄さにがっかり。
・長島が出てなんでボレロ、最悪!ここまでは頑張って見たが・・・。文脈的必然性がわ けわかんない、小林氏のバッハへのサービス?
・ここで、三島の日本の未来への予言を紹介(1970年11月25日に自裁する約4カ月前、「果たし得ていない約束」と題する文章を新聞に寄せた。その一節)
 「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュー トラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろ う」云々。
・日本には才能のある人はいくらでもいるのに、今回の開会式は日本文化の西洋文化への 敗北宣言でありくやしさをおぼえた。

 

 この三島由紀夫の言葉の紹介にはびっくりしたが、このみのさんという方は、父親アメリカ人で母親が日本人らしいが、ミュージシャンの氏がどういうことで三島由紀夫に興味を持ったのか。私自身、近年の日本の言論界について、SNSのおかげでこれだけ容易に情報アクセスができるようになったのに、どうして、政治的思惑がらみの見え透いた宣伝ばかりが横行するのか不思議に思っている。

 

 その点、この人の批評は、実に率直で判りやすかった。私は、音楽界のことは何も知らないが、イマジンについては、西洋における一神教文化の排他性との緊張がある中で歌うから意味があるのではないか。日本文化はもともと他宗教宗派への寛容を自明としている。それは、自然の脅威と恵みの中で生をつないできた民族の歴史の然らしめたものであって、その文化を素直に歌えば良かったと思う。

 

 仏教には「十重禁戒」という戒律があり、日本仏教でもこれを重視している。その戒律の中で特徴的なのは、第四不妄語戒(ふもうごかい)嘘を言わない、第六不説過戒(ふせっかかい)排他的な言葉を発しない、第七不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)自分を誉めて他人をそしらない、第八不慳法財戒(ふけんほうざいかい)人に与えることを惜しまない、第九不瞋恚戒(ふしんにかい)怒りをまき散らさない、など、人間関係を重視する戒律が大変多いことである。

 

 こうした戒律は日本人にとっては当たり前のことであり、あえて「平和」や「共生」を強調する必要もないことであるが、今度の開会式で、西洋の掲げるこれらの理念に日本人がひれ伏した感がするのは、言うまでもなく、日本人が自らの伝統文化が何であるか分からなくなってしまっているからである。三島由紀夫が怖れたのはこういうことであって、それが今回の東京オリンピック開催を巡る国論の分裂と、SNS上の誹謗中傷に表れていると思う。

 

 この象徴的な例が、日本女子体操個人総合で歴代最高五位となった村上茉愛選手をめぐる誹謗中傷である。海外メディアから「SNSでの誹謗中傷」「メンタルヘルス」について質問が飛ぶと、突如、表情が一変し次のように応答したという。

 

 「なかなか日本のメディアからは出ない質問ですね、言っていいのかな、自分もありました・・・」と言うと、堰(せき)を切ったように涙があふれた。 (中略)

 

 また、反五輪の意見がアスリートに向けられる状況にも思うところがあった。

 

「そういう人がいるのはすごく残念だなってすごく思います。反対している人も知っているし、もちろん分かるし。だけど、(誹謗中傷は)見たくなくても見てしまう、勝手に入ってきてしまう、すごく残念だなって、悲しかったなって」

 

 ここまで吐き出すと冷静さを取り戻し、「そういう人を見返したいと思ってこの1年頑張ってきた。思い知ったかって」と言って、最後は村上らしく笑った。

 

 この「思い知ったか」という言葉に反発する声も出ているが、そもそも、オリンピック開催反対の怒りをオリンピアンに向けるのは筋違いもはなはだしい。こうした感情が何に由来するか、それは「怨望」(うらやみそねみ)から出ているのであって、村上選手はそんな感情とは無縁であり、自分のそうした感情をコントロールし得たからこそ五位入賞を果たした、この事実をもって「思い知ったか」といったのである。

 

 人生は一面激しい競争社会である。オリンピックは世界の頂点を目指す最も過酷なスポーツ競技大会である。それは他者との戦いである以前に、自己との戦いでもある。それは「怨望」という救いようのない感情とは最も遠いものであって、この戦いに勝ってはじめて、勝利の栄冠を手にすることができるのである。村上選手はこの事実をもって、誹謗中傷者の卑劣に反撃したのである。

 

 先の「みのミュージック」氏の批評のことばと、この村上茉愛選手のことばは、三島由紀夫の危惧した日本の未来を転換する二筋の燭光のように私には思えた。コロナの感染状況は東京を中心に拡大し不安が広がっているが、これは自然の脅威との戦いである。客観的な事実認識をもとに、冷静に、勇気を持って対処する必要がある。その戦いのモデルをオリンピアン達は示している、私はそう思う。

 

 

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