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2021年8月19日 (木)

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(6)

七 「日本教徒・ユダヤ教徒」の無知と詭弁(原題 日本教徒・ユダヤ教徒――ユーダイ オスはユーダイオス)
○シュラクター氏はこの本の書評で「独創的でよく考えられたアイデアによって日本人の性格の側面を理解しやすいものにしている」と評するが、「日本人は何宗に改宗しようと所詮『日本教徒』にすぎない」というこの章の主旨はまちがいである。日本人はあくまで日本人であって日本教徒にはならない。

 

*浅見氏は、この主張をギリシャ語の語学力を駆使して論証しようとするが、ベンダサンの「日本教徒」は語学的に導き出された概念ではない。「日本人が無宗教などと言うのはウソで、日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間を基準とする宗教であるが故に人間学はあるが神学がない一つの宗教である」というアイデアは、私は、日本人の精神構造を考える上で、極めて貴重な示唆を与えるものだと思う。

 

○「日本人はいつの時代も憲法を改正したことはない」この人、正気なのだろうか。(現行憲法の冒頭にさえ、「朕は・・・帝国憲法の改正を裁可し」と明記してある。今にして思えば、天皇の裁可による改正などではなく、新規の「人民議会」による「制定だったらもっとよかった」)
 
*浅見氏は、日本国憲法に改正規定があること自体が許せないのだろうか?

 

 

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を批判する6

 

八 再び「日本教」の無知と詭弁(原題 再び「日本教徒」について――日本教の体現者の生き方)
*記述なし

 

九 さらに「日本教」の無知と詭弁(原題 さらに「日本教徒」について――是非なき関係と水くさい関係)
○浅見氏は、大学3年生向けの一般教養の講義で『日本人とユダヤ人』の一部を論評した後、講義で触れなかった部分を批評するようレポートを課した。一人の学生は、「この本に求められている読み方があるとしたら、本の批判の仕方だけだと思いました。そのように読むべき本もあると思います。しかし、批判の方法を学ぶべき本のほかに、私達は多くの読むべき本があると思います。にもかかわらず、先生が何故、イザヤ・ベンダサンの本を取りあげたのか、その批評の価値が判らず、今に到っております(後略)」

 

 この素朴な健全さ!実はこの学生は、前年度のどこかで単位を落としてやむを得ず私の教室にやってきた四年生で、決していわゆる「優秀」なタイプの学生ではない。しかし私は彼に卒業後「詫び状」を出した。「貴兄の”初歩的な疑問”には、春の講義の初めの時に答えておいたつもり(ベンダサン氏の意図はファシズムと再軍備のすすめということ)でしたが、それが徹底していなかったとすれば、私の不明を恥じるのみです。しかしあの講義の目的は、山本ベンダサンの書く全てのことについて、読者がみな貴兄のような感想を抱いてくれることにあったともいえるのですから、その点に免じて、貴兄に与えた精神的苦痛をお許しください」。この学生には、日頃点が辛いをいう伝説に悩まされている私も、安心して良い点をつけた。・・・もちろんめでたく単位を取得した。

 

*こんな先生には教わりたくない!

 

十 すばらしき正訳「蒼ざめた馬」(原題 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」――目次的世界とムード的世界)
○ベンダサンは「聖書の句や黙示文学的表現が縦横かつ無意識に使われている外国文学を正しく日本語に移すことは、はっきり言って不可能である」というが、そんなことは全然ない。よい解説書を選び、自分自身で聖書を読めば、誰でも聖書の句や表現に強くなれる。

 

*「よい解説書を選び、自分自身で聖書を読めば、誰でも聖書の句や表現に強くなれる」ことを否定しているのではなく、「聖書の句や目次文学的表現が縦横かつ無意識に使われている外国文学を正しく日本語に移すことは、はっきり言って不可能である」といっているのである。

 

○日本人にとって「狭き門」とは、「誰にでも知られ、みなが入りたがるが、多くの人が入れないで門外に残るという意味」(例えば有名大学の門)で使うが、新約聖書の「狭き門」は「人一人がかろうじて通れる、全く目に付かない入り口だから・・・」その道を見つける人はわずかだ」という意味であるというが、「日本的意味」で使ってもかまわない。

 

*ベンダサンは「日本的意味」で使ってはいけないと言っているわけではない。

 

○ユダヤ人は、常に非常に具体的な民族であったので、抽象的な言葉を連ねる表現に満足できない」。これに対して「日本の表現法はこの逆で抽象的な言葉を次々に重ねていく」というが、どの民族、どの言語でも、時代が変わり生活が変わり必要があれば、必ず抽象でも具象でも表現できるようになる。

 

*前者は、表現しようとする対象を正確に描写しようとする「黙示文学的表現」が生まれた背景の説明であり、後者は、短歌や俳句のように、短い言葉で端的に情景描写する抽象度の高い表現が多いということを言っているのである。あえてこれを否定することもなかろう。

 

○「暁の明星」について、ヨハネ黙示録の第二章の「暁の明星」の意味は、実は専門家の間でさえ定説がないほどむずかしいのである。イザヤ書の方の「暁の明星」について、七平さんは「黎明の子」をヘブル的用法、「暁の明星」をギリシャ的用法にあてたいのだそうだが、この二つともヘブル的用法に対する訳語で、同じバビロン王を当てこすった表現に過ぎない。「両方の意味は全く違う」というなら、それ以外の何をさすか具体的に言ってご覧なさい。

 

*ベンダサンの言う、ギリシャ的用法の「暁の明星」とヘブル的用法の「黎明の子」の意味の違いについて、前者は、新約聖書ヨハネ黙示録2章28節の「わたしイエスは、使いを使わして、諸協会のために、これらのことをあなたがたにあかした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く「明けの明星」である」という、いい意味で使われる「暁の明星」なのではないか。後者は、堕天使・悪魔=バビロン王のことで、前者とは意味が違うので、両者の訳語を分けた方がいいのではないかという提案だと思う。

 

十一 処女降誕のある民族(原題 処女降誕なき民――血縁の国と召名の国)
○「萬世一系の日本には処女降誕はない(牧畜経験がないことにもよる)。一方、ユダヤ人は生まれる時は平凡だが召名により偉大になるので処女降誕はない」について、日本には三輪山伝説など処女降誕伝説はいくらでもある。ユダヤの方は、いちおう「旧約聖書」のユダヤ人には処女降誕の考えはなかったことにしよう。

 

*三輪山伝説は「大物主」という夫が想定されていて処女降誕とはいえない。むしろ貴種との血族関係を強調していると見るべきである。全くの処女が精霊により妊娠して生まれたがゆえにその人間は偉大である、というような考え方は「私の知る範囲では」日本にはないと思うとベンダサンは言っているのである。 

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