日本の政治は宗教団体との関係をどう整理すべきか
近代民主(デモクラシー)国家にとってもっとも大切なものは信教の自由、進んで良心の自由である。
信教で最も大切なものは「教義」であるが、良心となると、その良心を支えるものが何であるかはっきりしない。日本仏教では、人間は生まれながらに「仏心」が備わっていると教えるから、日本人の良心はそうした宗教的伝統に支えられているのかもしれないが、それを「教義」として自覚している者は少ない。
問題は、こうした信教における「教義」や、良心に基づく「規範意識」は、法に基づく社会規範と完全に一致することはないから、必然的に矛盾を来し社会的混乱を引き起こす。民主制度はその混乱によってもたらされる犠牲を、より少なくするために発明された政治システムであるといえる。
では、民主制度はこうした問題をどうやって処理しているかというと、人間の「内面」と「外面」を分け、前者は個々人の「内心の自由」にまかせ、後者は「法の支配」に服させるという形で、両者を緊張関係に置き、「法の支配」のルールづくりに国民を主体的に参加させているのである。
そこで問題となるのが、人々の「内面」に働きかける宗教団体と「外面」を規制する政治との関係であるが、民主制度は選挙を通じて政権を選ぶから、選挙で票を獲得することが政党の重要な課題となる。その場合、人々の「内面」に影響力を及ぼす宗教団体ほど「票のとりまとめ」ができる。
しかし、宗教団体が、信者の「投票の自由」を信仰心に置き換えようとすればするほど、宗教の「教義」の普遍性が損なわれ、宗教団体としての組織の拡大が困難になってくる。従って、多くの宗教団体では、政治活動は行っても信者の「投票の自由」は原則として認めるのが一般的だと思う。
よく宗教団体と政治との関係において、政教分離と言うことがいわれるが、それは「政治と宗教の分離」ではなく、「国家と宗教の分離」ということである。「日本国憲法の精神が求める政教分離は、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているわけではない。」(竹内重年)
では、創価学会を母体とする公明党の場合はどうなるか。公明党は選挙になると信者を選挙活動に動員し、その集票力をもって与党の一角を占めている。これは憲法に定める「政教分離の原則」に反するのではないかとの指摘がなされるが、日本政府の見解は次のようなものである。
「政教分離に関する政府の立場は、〈国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、又は関与することを排除する趣旨〉であり、〈宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない〉というものであり、当該宗教団体が支援する政党に所属する者が公職に就任して国政を担当するに至ったとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないから〉、憲法にはまったく違反していない」。
では、「宗教団体が支援する政党が政権をとった場合」どうなるかであるが、この場合も宗教団体と公明党は法律的に別個の存在という説明がなされるだろう。しかし、政党は政策によって評価されるので、創価学会が信者の「投票の自由」を侵害する状態が続けば、入信をためらう者も出てくる。
この点、統一教会の場合はどうだろうか。統一教会の信者は「投票の自由」を全くをもたず、教会の指示する政党の選挙活動支援が義務付けられているという。その目的は、教義を政治に反映させること以上に、かって問題となった高額寄付や霊感商法への批判を政治的に押さえ込むためのようである。
こうした教団の有り様が、宗教団体としての本来の姿を逸脱するものであることはいうまでもない。それが家庭崩壊などの悲劇を招き、その積年の怨みが子供たちの世代にまで持ち越され、この度の安倍元首相暗殺事件にまで発展したのである。教団の政治利用が如何なるものであったかを示すものだろう。
問題は、こうした安倍元首相暗殺事件にまで発展した統一教会の活動を、なぜ自民党が今日まで黙認してきたかということである。はじめは勝共連合との共闘であったようだが、ソ連崩壊後は、統一教会は団体の名称を家庭や世界平和などの理念に掛け替えることで、政党との関係を維持してきた。
統一教会の教義では、日本を、アダム国である朝鮮民族に対して永遠に奉仕すべきエバ国家と位置づけているそうである。また、戦前における日本の朝鮮併合を植民地支配と位置づけ、その「民族的恨みを解くため、日本で資金を調達してそれを韓国に持ってきて世界的な活動に使」っているという。
不思議なのは、なぜ自民党がこうした統一教会との関係を断ち切れなかったかであるが、一つには、自民党がイデオロギー政党ではなく、利害関係団体に支えられていることがあげられる。小選挙区制は僅かの票差で当落が決まるので、無償の選挙協力をする統一教会との関係を断ち切れなかったのだろう。
では、今後どうすべきか。安倍元首相暗殺後の保守論客の主張は、安倍元首相暗殺を統一教会問題と結びつけるべきでないとする意見が多いが、自民党が統一教会との関係を清算できなかったことが結果的に今回の悲劇に招いたわけで、暗殺者の断罪とは別に、統一教会への対応を誤ったことを率直に反省すべきである。
憲法第20条には、
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
2. いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。3.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
4.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
とある。
第1項は当然のこととして、第2項は、宗教団体は法人税免除などの特権を受けているわけで、その宗教団体が、宗教団体の目的にかなった活動を行っているか、もっと厳格に審査すべきである。
第3項は、宗教の多様性を前提にしたものであるが、宗教団体からの脱退の自由の保証に止まらず、高額寄付の届け出の義務づけや、家庭崩壊を招くような高額寄付は禁止すべきである。第4項は、国及び地方公共団体による日本人の宗教リテラシーの向上を図るべきである。
曾野彩子氏は、本物の宗教団体を見分ける方法について、次のようにいっている。
「教団の指導者が神や仏の生まれ変わりだと言わず、質素な生活をし、信仰の名のもとに金銭を要求せず、教団の組織を政治や他の権力に利用しようとしない限り、別に用心する必要はありません。」
冒頭にも言及したが、今回の問題は、日本人の宗教意識の曖昧さにその根本的な原因があるように思う。そこにデタラメな「教義」をもつ宗教がつけ込む隙が生まれているのである。日本人はとかく宗教的な議論を忌避しがちであるが、これを生き方に関わる問題として徹底的に議論すべきであると私は思う。
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