フォト

おすすめブログ・サイト

twitter

無料ブログはココログ

カテゴリー「時事問題」の記事

2022年11月25日 (金)

日本の政治は宗教団体との関係をどう整理すべきか

近代民主(デモクラシー)国家にとってもっとも大切なものは信教の自由、進んで良心の自由である。


 信教で最も大切なものは「教義」であるが、良心となると、その良心を支えるものが何であるかはっきりしない。日本仏教では、人間は生まれながらに「仏心」が備わっていると教えるから、日本人の良心はそうした宗教的伝統に支えられているのかもしれないが、それを「教義」として自覚している者は少ない。


 問題は、こうした信教における「教義」や、良心に基づく「規範意識」は、法に基づく社会規範と完全に一致することはないから、必然的に矛盾を来し社会的混乱を引き起こす。民主制度はその混乱によってもたらされる犠牲を、より少なくするために発明された政治システムであるといえる。


 では、民主制度はこうした問題をどうやって処理しているかというと、人間の「内面」と「外面」を分け、前者は個々人の「内心の自由」にまかせ、後者は「法の支配」に服させるという形で、両者を緊張関係に置き、「法の支配」のルールづくりに国民を主体的に参加させているのである。


 そこで問題となるのが、人々の「内面」に働きかける宗教団体と「外面」を規制する政治との関係であるが、民主制度は選挙を通じて政権を選ぶから、選挙で票を獲得することが政党の重要な課題となる。その場合、人々の「内面」に影響力を及ぼす宗教団体ほど「票のとりまとめ」ができる。


 しかし、宗教団体が、信者の「投票の自由」を信仰心に置き換えようとすればするほど、宗教の「教義」の普遍性が損なわれ、宗教団体としての組織の拡大が困難になってくる。従って、多くの宗教団体では、政治活動は行っても信者の「投票の自由」は原則として認めるのが一般的だと思う。


 よく宗教団体と政治との関係において、政教分離と言うことがいわれるが、それは「政治と宗教の分離」ではなく、「国家と宗教の分離」ということである。「日本国憲法の精神が求める政教分離は、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているわけではない。」(竹内重年)


 では、創価学会を母体とする公明党の場合はどうなるか。公明党は選挙になると信者を選挙活動に動員し、その集票力をもって与党の一角を占めている。これは憲法に定める「政教分離の原則」に反するのではないかとの指摘がなされるが、日本政府の見解は次のようなものである。


 「政教分離に関する政府の立場は、〈国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、又は関与することを排除する趣旨〉であり、〈宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない〉というものであり、当該宗教団体が支援する政党に所属する者が公職に就任して国政を担当するに至ったとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないから〉、憲法にはまったく違反していない」。


 では、「宗教団体が支援する政党が政権をとった場合」どうなるかであるが、この場合も宗教団体と公明党は法律的に別個の存在という説明がなされるだろう。しかし、政党は政策によって評価されるので、創価学会が信者の「投票の自由」を侵害する状態が続けば、入信をためらう者も出てくる。


 この点、統一教会の場合はどうだろうか。統一教会の信者は「投票の自由」を全くをもたず、教会の指示する政党の選挙活動支援が義務付けられているという。その目的は、教義を政治に反映させること以上に、かって問題となった高額寄付や霊感商法への批判を政治的に押さえ込むためのようである。


 こうした教団の有り様が、宗教団体としての本来の姿を逸脱するものであることはいうまでもない。それが家庭崩壊などの悲劇を招き、その積年の怨みが子供たちの世代にまで持ち越され、この度の安倍元首相暗殺事件にまで発展したのである。教団の政治利用が如何なるものであったかを示すものだろう。


 問題は、こうした安倍元首相暗殺事件にまで発展した統一教会の活動を、なぜ自民党が今日まで黙認してきたかということである。はじめは勝共連合との共闘であったようだが、ソ連崩壊後は、統一教会は団体の名称を家庭や世界平和などの理念に掛け替えることで、政党との関係を維持してきた。


 統一教会の教義では、日本を、アダム国である朝鮮民族に対して永遠に奉仕すべきエバ国家と位置づけているそうである。また、戦前における日本の朝鮮併合を植民地支配と位置づけ、その「民族的恨みを解くため、日本で資金を調達してそれを韓国に持ってきて世界的な活動に使」っているという。


 不思議なのは、なぜ自民党がこうした統一教会との関係を断ち切れなかったかであるが、一つには、自民党がイデオロギー政党ではなく、利害関係団体に支えられていることがあげられる。小選挙区制は僅かの票差で当落が決まるので、無償の選挙協力をする統一教会との関係を断ち切れなかったのだろう。


 では、今後どうすべきか。安倍元首相暗殺後の保守論客の主張は、安倍元首相暗殺を統一教会問題と結びつけるべきでないとする意見が多いが、自民党が統一教会との関係を清算できなかったことが結果的に今回の悲劇に招いたわけで、暗殺者の断罪とは別に、統一教会への対応を誤ったことを率直に反省すべきである。


 憲法第20条には、
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
2. いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。3.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
4.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
 とある。


 第1項は当然のこととして、第2項は、宗教団体は法人税免除などの特権を受けているわけで、その宗教団体が、宗教団体の目的にかなった活動を行っているか、もっと厳格に審査すべきである。


 第3項は、宗教の多様性を前提にしたものであるが、宗教団体からの脱退の自由の保証に止まらず、高額寄付の届け出の義務づけや、家庭崩壊を招くような高額寄付は禁止すべきである。第4項は、国及び地方公共団体による日本人の宗教リテラシーの向上を図るべきである。


 曾野彩子氏は、本物の宗教団体を見分ける方法について、次のようにいっている。

「教団の指導者が神や仏の生まれ変わりだと言わず、質素な生活をし、信仰の名のもとに金銭を要求せず、教団の組織を政治や他の権力に利用しようとしない限り、別に用心する必要はありません。」


 冒頭にも言及したが、今回の問題は、日本人の宗教意識の曖昧さにその根本的な原因があるように思う。そこにデタラメな「教義」をもつ宗教がつけ込む隙が生まれているのである。日本人はとかく宗教的な議論を忌避しがちであるが、これを生き方に関わる問題として徹底的に議論すべきであると私は思う。 

2022年7月14日 (木)

安倍元首相暗殺の隠された真相と日本人の弱点

なぜ安倍元首相が件の団体のビデオメッセージの依頼に応じたか。森友学園事件で籠池に逆恨みされ痛い目にあったのになぜ「統一教会」というさらに危険な似非宗教団体との関係を断ち切らなかったか。それが私の疑問でしたが、宗教学者の島田裕巳氏の解説はそれに応えるヒントを与えてくれました。
「まず大切なのは、旧統一教会には宗教的側面と政治的側面があるということです。目的の一つに、朝鮮半島の統一があります。創設者の文鮮明氏は、北朝鮮と太いパイプがあった。朝鮮問題にかかわる政治家が旧統一教会に近づくのは、ある意味不思議ではないでしょう。ただ岸氏や安倍氏に旧統一教会と政治的なつながりはあっても、宗教的な関係はなかったと思います。」
岸氏の場合は戦後の日本社会を風靡したソ連、北朝鮮、中共礼賛の空気に対抗する一手段として統一教会の利用でした。では安倍氏の場合は?拉致問題の解決にこのチャンネルを生かそうとした、それ以外にトランプと顔をそろえて統一教会にビデオメッセージを送る政治的理由はないように私は思いました。

 

山上容疑者が恨み…安倍元総理が旧統一教会に理解の「意外な理由」(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

 

次は、よく整理された討論番組です。日本人は無宗教とよく言われます。しかし人間は死を意識する動物で必然的にそれに区切られた生の意味について考えるようになります。それに応えるのが宗教で、そこでそうした人間の限界につけ込んだ反社会的な宗教団体も現れるのです。従って日本人は無宗教というのは間違いでこうした問題に答える伝統的な考え方に無自覚なだけで、そのため自分の宗教的信念と他の宗教との比較もできないし教義の当不当の判断もできない人が出てくるのです。驚くべきことに統一教会の高額献金や霊感商法の被害は世界の統一教会組織の中で日本だけの現象だそうです。今回の事件が日本人に教えていること、それは日本人も宗教的耐性を身につける必要があるということです。世界の宗教、何よりも日本の宗教について学ぶ必要があります。この点私は日本の仏教界の怠慢を指摘せざるを得ません。なんと言ってるか皆目わからんお経を上げて高額なお布施を取ってる。なぜ日本語で仏教の教えを語れないのか。また学校もなぜ宗教について教えないのか。実はこうした問題をおろそかにしていることが今日の日本の思想的混迷を招いている、私はそう思っています。
【旧統一教会】「日本は韓国にお金を捧げるのがミッション」なぜ歪な関係に?保守政治家との関わり YOUTUBE.COM

 

それから、安倍元首相の政治家としての業績の評価について、元京大准教授の物理学者小出裕章氏は「アベさんがやったことは特定秘密保護法制定、集団的自衛権を認めた戦争法制定、共謀罪創設、フクシマ事故を忘れさせるための東京オリンピック誘致、そしてさらに憲法改悪まで進めようとしていた。 彼のしたこと、しようとしてきたことはただただカネ儲け、戦争ができる国への道づくりだった。」アベさんに対する銃撃について思うこと

 

つまり、安倍さんがやった「特定秘密保護法制定、集団的自衛権を認めた戦争法制定、共謀罪創設」は憲法を改正し、「戦争ができる国への道づくりだった」といい、「アベさんにはこれ以上の悪行を積む前に死んでほしいとは思ったが、殺していいとは思っていなかった。悪行についての責任を取らせることができないまま彼が殺されてしまったことをむしろ残念に思う。」とまでいっているのである。

 

ではなぜ安倍元首相が小出裕章氏のいう「悪行」をやったのか。もちろん「ただただカネ儲け、戦争ができる国への道づくりだった」というのは間違いで、その目的は、「戦争ができる国への道づくり」とは逆の「戦争を起こさせない国への道づくり」だったのである。彼は、習近平の「中国の夢」(中華帝国の復活)実現を目指す「大国外交」の向こうをはるように、「地球儀外交」という名の外交理念を打ち出し、自由・民主主義・基本的人権・法の支配といった普遍的価値に立脚した世界秩序形成の必要性を世界の国々に説いて回り、そのための基本戦略の一つとして「自由で開かれたインド・太平洋」の構想実現を目指した。その結果、日米豪印の「QUAD」という枠組みの形成、もう一つの米・英・豪三カ国による「AUKUS」という枠組みの形成、そしてNATOにおける「中国の野望と行動はルールに基づく我々の同盟国にとって体制上の挑戦」という共同声明にまで到達したのである。

 

こうした枠組み形成に取り組む前提としてまず整備しなければならない日本国の条件が「特定秘密保護法制定、集団的自衛権を認めた戦争法制定、共謀罪創設」であって、これらの法整備”を行うことで”自らの国は自ら守る”という意思を明確にしない限り、「自由・民主主義・基本的人権・法の支配といった普遍的価値に立脚した世界秩序の形成」を世界に訴えることはできなかったのである。

 

モリカケサクラという犯罪立証困難な話題にすがって安倍元首相を執拗に攻撃し続けた人々の目には、こうした安倍外交が見えるはずもなかった。というより、そんな外交努力は必要ない。ただ「戦力不保持、交戦権は認めない」と定めた日本国憲法第九条を守ることが、日本の安全ひいては世界の平和を維持する絶対条件だと考えたのである。従って、こうした安倍外交がマスコミにおいて好意的に評価されたことはほとんどなく、国民は氏の暗殺後、安倍外交の国際的評価に触れて初めて、この事実を知ることになったのである。
安倍晋三死すとも中国包囲網は死せず―習近平中国、泥沼の外交的閉塞

 

おそらく、ここしばらくは安倍元首相と統一教会との関係をめぐって様々な議論が交わされることだろう。安倍氏を支持する側も、統一教会にビデオメッセージを送ったことは結果的に失敗とし、氏の「付き合いの良さ」「脇の甘さ」を指摘することになるだろう。私も一時そう考えたが、しかし、そうした危険性を犯してまで、氏があえてこうした政治的選択をしたのは、冒頭に述べたような深謀遠慮があったからではないだろうか。もちろん、これは安倍元首相がビデオメッセージを送った動機の推測であって、教団幹部の殺害計画を安倍元首相暗殺に転化させた犯人の異常心理を正当化するものではない。ここにはこの飛躍を可能にした別の要因が働いていたはずであり、その究明も合わせて徹底的に議論する必要があると思う。

 

2022年5月 3日 (火)

核戦争の脅威の中で世界はどこに向かうのか、日本は何をすべきか

 幣原は、1945年(昭和20年)10月9日、第44代内閣総理大臣に任命され、1946年(昭和21年)5月22日まで、通算約7ヶ月あまり在職しました。この間、昭和21年1月24日にマッカーサーとの間で、「武力放棄」を憲法に盛り込む話が行われたのです。


 この時は、幣原は首相であり政治家でしたから、この時の判断は政治的判断ということになるでしょう。そもそも政治とは、理想のみを語るものではなく、理想をしっかり見定めると同時に、リアルに現状を認識し、その現状から理想とする状態へ、いかに早く犠牲少なく到達するか、その具体的方策を政策を通して実現するのが仕事です。


 その意味で幣原は、敗戦直後の日本の現状をリアルに認識すると同時に、核兵器開発後の世界平和は、世界政府を樹立しそこに軍事力を一元化することによってしか実現できないと考え、その現実を未来へとつなぐ一段階として、日本の非武装化を世界の軍縮の道しるべにしようとしたということができます。


 しかし、この方策は、日本の平和は実現したけれども、軍縮による世界平和の実現には結びつかなかった。この間、世界の警察を自認してきたアメリカは、その負担をアメリカだけが背負うことに不満を感じるようになってきた。それがトランプのアメリカファーストという言葉になっているわけです。


 そんな状況の中で、常任理事国ロシアによる核の恫喝を含んだウクライナ侵略が公然と行われた。これを許せば、国連の現在の”なけなし”の安全保障機構も完全に崩壊し、各国が生き残るためには核武装するしかない、という結論になります。それ故に、プーチンの戦争を勝利に終わらせるわけには行かない、それが現状だと思います。


 では、こうした状況の中で日本はどう行動すべきでしょうか。いうまでもなく、日本は、国際機関による軍事力の共同管理のための、国連の安全保障体制の強化さらには再構築へと進まなければなりません。常任理事国で拒否権を持つロシアが、虚偽のプロパガンダによって正当化し、世界がロシアの核の脅かしに負けてこれを容認すれば、日本の核武装も必至となります。


 であれば、ロシアのウクライナ侵略をロシアの勝利という形で終わらせるわけにはいきません。世界は一致団結して、ロシアの、つまりプーチンという独裁者の野望の実現を阻まなくてはなりません。そのためには、ウクライナ東南部の完全占領を目指すプーチンの攻撃を撃退しなければなりません。日本はこのために何ができるか、憲法の許す範囲内でギリギリの努力をすべきです。


 その意味で、私は、現在岸田内閣がとっている対ロシア政策、ウクライナ支援策に賛成です。しかし、この紛争を短期間で片付けることは困難で、核戦争を抑止しつつ、プーチンが自らの判断の過ちに気付き、外交による問題解決に転換するまで、辛抱強く戦い続けなくてはなりません。その戦線の矢面に誰が立つか。


 どうやら、世界の警察を辞めたいアメリカ、そしてドイツをはじめ、従来ロシアとの経済関係の緊密化によって緊張緩和を図ろうとしてきた国々は、そうした政策が、独裁者には通用しないことに気づきはじめたようですね。日本のお隣には中国の習近平独裁体制が世界制覇を目指しており、北朝鮮の金独裁王朝は核攻撃を辞さない構えです。さて、日本は、如何なる方法で、幣原の唱えた「世界史的役割」を果たすべきでしょうか。

「戦争に負けて外交で勝つ」幣原の本当の”ねらい”

 では、幣原はこのことを予見できなかったのでしょうか。それとも、それは武力を放棄した日本の問題ではなく、その後に続かなかった世界の問題なのでしょうか。私はここに、幣原の老練な外交としての狡智が隠されているように思います。


 というのは、幣原は、マッカーサーに対して「日本をして自主的に行動させることが世界を救い・・・アメリカをも救う唯一つの道ではないか」と説き、日本の非武装を憲法に明記させました。それによって戦後の東西対立の冷戦構想の中で、日本軍がアメリカ軍の先兵として使われる危険性を無くし、この間の世界秩序維持のための「犠牲」をアメリカに負わせようとしました。しかし、これは絶対に口外できないことなので、それ故に、あくまで核の時代における非武装の理想論を説き続けたのです。


 だが、だからといって、幣原の理想とした世界政府の樹立、そこに軍事力を一元化する構想が、空想あるいは虚偽であったというわけではありません。本稿の初めに論じた通り、それは国連憲章にも謳われていることであって、何時のことになるのか分かりませんが、世界平和のために、軍事力を国際管理する組織が必要になることは間違いないと思います。


 つまり、幣原が考えたことは、核の時代において世界平和を実現するためには、軍事力を国際管理するしかない。そうした組織を樹立しない限り、人類は生き残れない。そのためには、各国が軍縮に努め、将来的には軍事力をその国際機関に一元化する必要がある。日本は率先してその模範を示す。それは狂人の仕業であるが、人類が生き残るための歴史的使命でもある、これが幣原の身命を賭した外交メッセージだったのです。


 これ、間違っていますか?いや、誰もどの国も反対できないと思います。しかし現実は、世界の軍縮は実現できませんでした。「核拡散防止条約」(NPT)やICBM等戦力兵器削減交渉、近年では「包括的核実験禁止条約」(CTBT)の発効などがありますが、ロシアが核をウクライナ侵略の正当化に使おうとしている現状、それを中国やインドがそれを支持している状況では、端的に言えば、人類が”愚かだ”ということです。


 従って、世界は幣原を責めることはできないと思います。幣原に言わせれば、「ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和を維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。」それができない責任は日本にはなく世界にある・・・ということになるでしょう。


 さて、そこで幣原はこうした状況をどこまで予測していたかと言うことですが、私は、彼の第一次世界大戦後の加藤高明内閣、第一次、第二次高槻礼次郎内閣の外務大臣として国際協調外交を推し進めた実績に照らして、当然、こうした事態が起こりうることを予測していたと思います。この点、マッカーサーの方が空想的だったのです。つまり、マッカ-サーは幣原にはめられたのです。


 マッカーサーは、北朝鮮の韓国侵略を端緒に朝鮮戦争が始まり、ダレスに日本軍の再軍備を迫られた時、幣原に対して”軍備放棄は100年早かったね”といい、幣原は苦笑いしていたといいます。しかし、時すでに遅しで、日本国憲法にそれが明記してある以上、日本の「再軍備」(自衛隊は「軍隊」ではない)は困難で、その結果、その後のベトナム戦争をはじめとする、東西のイデオロギー対決に起因する戦争に日本が巻き込まれることはなかったのです。

 

戦後77年、世界は日本にならって軍縮を実行したか?

 以上、「平野文書」の一部を紹介しましたが、私は、幣原のこの段階での判断は正しかったと思っています。吉田茂もこれを承知しており、昭和天皇には幣原が報告し了承を得ています。ただし、手続き炊きには大問題で、それ故にマッカーサーの意向=命令と説明したのです。


 だが、平野文書における幣原の説明にはいくつかの矛盾があります。一つは、「若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、・・・その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ」の部分です。

 
 まさに、現在が「ロシアがウクライナを侵略し、そのことが世界の秩序を破壊する恐れがある」状態です。これに対して第三国がウクライナのために必要な支援をしていることは事実ですが、それは、ウクライナが戦う意思を持ち、必要な武器や核シェルタを準備し、食糧備蓄をし戦っているからです。


 ”市民に犠牲が出る前に降伏すべし”との意見もありますが、それが「世界の秩序を破壊する」ものであれば、誰かが戦わなくてはなりません。本来なら、国連の安全保障理事会が対応すべきですが、常任理事国である国が、核を恫喝に使って侵略行為そするような状態は、幣原も想定していなかったと思います。


 幣原は、世界政府が樹立された場合、「世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ」と言っていますが、残念ながら、世界はその段階に達していません。科学技術の発達で武器の殺傷能力は飛躍的に高まっており、現状では、国連の「警察力」は各国の軍事力に依存している状態です。


 国連憲章第42条は「第41条に定める措置(兵力を伴わない措置)では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる」となっています。


 つまり、現在は世界政府ができる段階にはなく、それどころか、冒頭に紹介した国連憲章の「国際紛争の武力解決禁止条項」を無視した、むき出しの帝国主義に時代に逆戻りしかねない状態なのです。幣原は、こうした逆転現象が起こることを想定していなかったのでしょうか。本当に、日本が武力を放棄することで、世界が軍縮から世界政府樹立へ進んでいくと思っていたのでしょうか。


 この疑問を解く鍵は、私は、幣原の「僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく・・・そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。」という言葉にあるように思います。


 つまり、これが、幣原の主張に論理的一貫性を持たせる条件であって、この条件が満たされなければ、世界政府の下での平和は訪れないと言うことです。実際、戦後77年、今日まで、日本国憲法第九条2項のように「戦力放棄」した国は、バチカンやリヒテンシュタインなど小国を除いて外になく、特に独裁国では軍事力の増強がつづいています。

原爆の脅威の中、日本は世界の軍縮に向け武力放棄で模範を示す

 幣原は、平野に語る際「念のためだが、君も知っている通り、去年金森君からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え」と言いました。その後、昭和三十九年二月の憲法調査会事務局にて、平野は次のように証言しました。(一部のみ抜粋)。


問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、・・・実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。


答 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。


 何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。


 二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。


 すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。


 そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和を維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。


 要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋がきたと僕は信じた訳だ。


問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。


答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。」日本が狂人となり歴史的使命を果たすのだ。

日本国憲法第九条2項は幣原喜重郎の発案

 この問題を考えるためには、この日本国憲法第九条がどうして生まれたか知る必要があります。よく、この憲法はアメリカ軍の占領下に日本に押しつけられたものだという解釈がありますが、第九条2項に関する限り事実ではありません。本当は、戦後二番目に首相の座にあった幣原喜重郎が発案したものです。


 幣原は肺炎になり、アメリカにペニシリンを処方してもらい、そのお礼に、昭和21年1が24日マッカーサーを訪問し、その際、憲法に武力放棄を書き込むことを提案し、マッカーサーがそれを受け入れたのです。


 では幣原はどういう気持ちでそうした提案をマッカーサーにしたのかというと、
一、連合国内に天皇断罪論が高まる中で、日本が武力を放棄すれば、天皇制は本来「象徴天皇制」だから、それに対する連合国の警戒心を弱めることができる。
二、戦前の日本軍国主義の復活を抑える。
三、戦後の東西冷戦構造を予期し、日本がそれに巻き込まれることを回避する。
四、原爆の発明により、戦争は世界の破滅になるので、世界に軍縮を呼びかける。そのために日本が率先して武力を放棄し模範を示す。


 これらの理由の内、幣原が公に表明したのは、一を天皇の「人間宣言」という形でおこなったことと、最後の原爆の発明云々と言うことだけでした。


 一については、マッカーサーは、昭和二十年九月二十七日、昭和天皇がマッカーサーを訪問した際、天皇が「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない・・・」旨の発言をしたことに感動し、日本の占領統治をうまく進めるためには、天皇の存在が不可欠と考えました。


二、三は、幣原は、日本の敗戦は、外交に軍が介入したことでもたらされたと考えていましたので、戦後の東西冷戦構造の中で軍が復活し、かつ、その軍事力を、アメリカが共産勢力との戦いの先兵として使う危険性を予測し、これを回避しようとしました。だから、マッカーサーに対しては、一、二、四の理由だけ述べて、三については終生語りませんでした。


 ところで、なぜマッカーサーは原爆の発明を理由とする日本の武力放棄に賛成したかというと、彼は軍人でありながら敬虔なクリスチャンで、キリスト教の千年王国平和説を夢見ていました。同時に、当時、原爆を持っていたのはアメリカだけでしたので、自分が原爆を管理できると思ったのです。


 こうした幣原の行動を当時の内閣がどの程度承知していたかというと、実は、幣原は「武力放棄」は自分の発案だとはいわず、あくまでマッカーサーの意思によるとしました。一方、マッカーサーは、幣原の発案であることを、米国議会などで次のように証言しています。「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。提案に驚きましたが、首相にわたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」。

 
 幣原は、この間の事情について、国立国会図書館館長の金森徳次郎が30年間秘密にするから真相を語ってくれと頼まれましたが「まだ早い」といって語りませんでした。しかし、幣原が亡くなる10日ほど前、元衆議院議員平野三郎にその真相を語りました。

 

2021年8月11日 (水)

女子体操村上選手と、男子サッカー久保選手の「涙」

 オリンピックが成功裏に終了し大変良かったと思っています。暑いという問題はありましたが、台風の襲来や地震の発生もなく胸なで下ろしました。なによりオリンピックに参加したアスリートにとっては、4年に一度の世界の頂点を目指す大会ですから、無観客ではありましたが、迫真の競技が行われ、テレビ観戦する私達もそれを堪能し、改めて、トップアスリートのすごさを知ることができました。


 予想外だったのは、いわゆるデルタ株の感染力が大変強く、オリンピック開始後、東京で一日5,000人に迫る感染者が出たことです。ただ、8月9日時点の東京の実効再生産数のグラフを見てみると、7月31日以降低下に転じており、オリンピック開催がこの感染拡大の原因ではないことの表れではないかと思います。

Photo_20210811232301

1.東京都の検査陽性者数(東洋経済オンライン)

Photo_20210811232501

2.東京都の実効再生産数


 NHKニュース 2021年8月8日 19時14分によると、「東京オリンピックに関連して新型コロナウイルスに感染した選手や関係者の累計は、先月1日から8月7日までに国内と海外合わせて430人」で、その内訳は、「選手はいずれも海外から来日した人が29人で、選手団の監督やコーチ、IOC、競技団体といった大会関係者が109人。メディア関係者が25人、組織委員会の職員が10人、大会の委託業者が236人、ボランティアが21人」となっています。


 このうち東京 中央区晴海の選手村に滞在していたのは33人。「一方、大会組織委員会とIOCのまとめによりますと、東京オリンピックのために海外から来日した選手や関係者は、先月から今月6日までに4万2681人」。「このうち、空港での検査で陽性が判明したのは37人で陽性率は0.09%、選手村や競技会場など大会の管轄下で行った62万4364件の検査では138人の感染が確認され、陽性率は0.02%」だそうです。

これを見ると、オリンピック選手村での感染防止対策は、市中の感染爆発と比べと、ほぼ完璧に成功したということがいえるのではないでしょうか。 私自身は、オリンピック開催反対がコロナ感染拡大を理由に高唱される中で、ワクチン接種により死者数が最小限に抑えられ、その傾向が今後も続くことが予測されるので、なによりもオリンピアンたちのために、オリンピックを開催すべきと主張してきました。結果的には、今日、全国16,000人に及ぶ感染拡大にもかかわらず、死者は十数名程度に抑えられていますので、正しい判断だったと思っています。

Photo_20210811232502
3.全国のコロナ関連死者数


 残念なのは、やはりオリンピック開会式と閉会式の完成度で、競技の素晴らしさに比べてまとまりがなくバラバラな感じがしたこと。なんだか、今の日本人の精神的混迷を象徴しているように思いました。一方、女子体操の村上選手や男子サッカーの久保選手の「涙」は私は素晴らしいと思いました。私の今回のオリンピックでのハイライトでした。

2021年7月24日 (土)

「なぜ、東京五輪に反対するか」遠藤誉氏の見解について考える

遠藤誉氏は、7月4日のyahooニュースで次のように、◆私が東京五輪開催に反対する理由を述べている。*以下はそれに対する私の意見。

1. 一つには、開催すればコロナ感染が拡大することは十分に予測されることで、日本人の命がより多く失われることが懸念されるからだ。

*何事も現状認識において相対的な比較を行う必要がある。ワクチン接種によって死亡率の圧倒的に高い高齢者の感染率、重症化率が下がり、死亡者も人口1200万人の東京で7月22日現在1名となっている。当然、ワクチン接種が50代40代と進むので、おそらく感染力の強いデルタ株によって感染者数は増えるだろうが、現状においてわずか数名であり、今後「日本人の生命がより多く失われる」という心配はないと思う。

2. 私の友人のご親族はコロナに罹ったが高齢のために入院させてもらえず、すなわち入院患者のベッド数が足りないので命の選択をされてしまい、亡くなられた。

*その方が何波の感染拡大で亡くなられたか知らないが、日本の医療界がコロナに対応する十分な入院治療体制を採らなかったことが問題だったのではないか。
 2021.1.30週刊現代の記事「新型コロナ「医療崩壊」のウソと現実…なぜ重症病床がこんなに少ないのか」は結論として、
 「コロナ対応をしている一部の医療機関は確かに『医療崩壊』の危機に瀕しています。しかし、その背後には大きなキャパシティがあり、それを活かして病床数を増やすという努力を、政府も医師会も十分に行ってこなかった。その『医療崩壊』のツケは国民に回されてしまっているのです」と述べている。

3.このように医療資源が逼迫している中、五輪選手やその関係者のために多くの医者や看護師が動員され、そうでなくとも足りなくなっている日本の医療資源を奪っていく。

*五輪を開催することは、日本が国際社会に約束したことであり、可能な限りその義務を果たすよう努めることは当然だと思う。それを可能にするため、オリンピック村をバブル方式にするなどの対策が採られているわけで、2.で指摘した問題点を改善し、「日本の医療資源」に余裕を持たせる努力をすべきである。

4.ワクチンに関しても日本では他国に比べて出足が遅かったために、今も行きわたっておらず、自治体などの接種体制は準備されてもワクチンがないために接種ができない状態が続いている。その数少ないワクチンを、五輪関係者には優先的に配分していくというのは、やはりある種の命の格差化で非人道的である。だから反対している。

*五倫関係者に優先的に接種するのは、オリンピック開催に伴う感染拡大を抑えるためであり、「命の差別化」ではなく、逆に「日本の医療体制」を守るためである。

5.これは反日とか親日といった政治的感情とは全く別の問題だ。

*五輪開催を決定したのは東京都及び日本政府であり、五輪開催に反対する勢力は従来より反政府運動に終始してきた勢力とほぼ一致していることは紛れもない事実である。その反対の理由が政策をめぐるものであれば問題はないが、「モリカケ問題」に見る通り、政局の混乱を目的とした「虚報宣伝」に終始しており、「五輪反対」も同様の宣伝と見られても仕方がないだろう。

6.次に反対している理由は、政治的判断に属するかもしれないが、それは「反日とは真逆」の判断であり、「中国に有利になるので、日本の国益を優先すべきだ」という考えに基づく。
 なぜなら中国が東京五輪開催を支援する裏を知っているからだ。
 そのため、たとえば5月28日にはコラム<バッハとテドロスは習近平と同じ船に:漕ぎ手は「玉砕」日本>を書き、また5月26日にはコラム<バッハ会長らの日本侮辱発言の裏に習近平との緊密さ>などを書いて、コロナ禍における東京五輪開催に反対してきた。
 もし東京大会が開催されないことになれば、それはコロナのせい以外の何ものでもないので、当然のこととして、最初に武漢のコロナ感染の外流を防げなかった習近平に責任追及の矛先がいく。
 

その理由に関しては2020年1月31日のコラム<習近平とWHO事務局長の「仲」が人類に危機をもたらす>や2020年1月24日のコラム<新型コロナウイルス肺炎、習近平の指示はなぜ遅れたのか?>で書いた事実があるからだ。
 もし日本が東京五輪を開催すれば、習近平は非難を免れ、おまけに北京冬季五輪のボイコットを日本が叫べなくなるので、習近平としては何としても東京五輪を開催してほしいのである。

*以上の指摘はその通りだと思う。確かに、コロナ下でのオリンピック開催という「貧乏くじ」をひいたのは不運である。できれば、この「貧乏クジ」を破り捨て、習近平にひかせることができればいいわけだが、はたして、そういう芸当が日本にできるか。
 日本は世界の先進国に比べてコロナ感染を低く抑えることに成功している国である。それ故に、特に、アスリートのために、オリンピックという夢の舞台を、感染を最小限に抑えることで実現しようとしたのは当然であると思う。
 そして、その目標達成に向けて日本国民が一致協力し、成功に導くことができれば、その責任感の強さが国際社会に評価され、危機に対する日本国民の対応力の高さが見直されることになるだろう。
 私もそれを期待した。しかし、残念ながら、この正攻法による危機対処能力が、日本に失われていることを世界に証明することになってしまった。残念だがこれが現実であり。この経験を今後どう生かすかを考えなければならない。

続いて、遠藤氏は「安倍氏こそ親中により日本国民の利益を損ねている」として次のように安倍氏を批判している。

 「私はもともと安倍首相の支援者だった。どちらかと言うと心から支援していた。
 しかし2018年以降、自分を国賓として中国に招聘してもらうために二階幹事長に親書を持たせて習近平に会わせ、一帯一路協力を交換条件として国賓としての訪中を成し遂げたあたりから支援できなくなっていた。特にその見返りに習近平を国賓として日本に招聘するという約束を習近平と交わしてからは、「絶対に反対である」という考え方を揺ぎないものとして貫いてきた。」

 「これがあるから現在の菅政権がG7とともに「対中包囲網」を形成しようとしても内実は非常に緩く、実際にやっている政治は「親中的」なので、中国に有利な状況をもたらしていると多くのコラムに書き続けている。」

 さらに追記し、(なお、本論とは外れるが、ウイグル問題に関して制裁できる根拠となるマグニツキー法を今国会で審議さえさせなかったのは、自民党の二階幹事長周辺や公明党という与党であることを付言しておく。これが親中でなくて、何であろう!これこそが「反日」ではないのか?)という。

*こうした遠藤氏の批判は、大変参考になるものであり、私も、中共中国に対する警戒は決して緩めてはならないと思っている。ところが、日本国内には異常なほどに「正義」や「平等」を主張し、政策におけるゼロリスクを求める政治勢力が存在する。
 しかし彼らは、こうして日本政府に求める基準を、中国や韓国、北朝鮮にどれだけ厳しく求めているだろうか。彼らの、この二重基準によるまやかしの言説が、日本の言論空間の合理性をどれだけ歪めているか、このことの是正なくして、中共中国の脅威に日本人が的確に対抗することは到底できないと思う。

 また、遠藤氏は「結論から言えば開催を反対している者の中には反日的な人もいるかもしれないが、開催に反対している人が「反日」とは限らないということである。しかも「反日」という表現も適切でなく、「反政府」ではないのだろうか。
 自民党の今のやり方に反対したら「反日」だというのでは、まるで香港で「国安法」により多くの「反香港政府者」を逮捕させている習近平のようで、これは民主主義社会の考え方ではないということになる。」と指摘している。

*この指摘について私も賛成する。ただし、「反政府」を唱える勢力のその異常なまでの「安倍憎し」を見ると、おそらくその心理的背景には、「平和憲法の理念」を素朴に信じてきた「年来の夢」を壊された怨みがこもっているように思われる。その「夢」は、結局、日本の安全保障に関する憲法論議に帰結せざるを得ないのであり、日本をとりまく安全保障環境が「日本に対する原爆使用」が公然とビジュアル化される現状においては、早晩、それが「白昼夢」であったことを思い知らされることになるだろう。

2021年7月12日 (月)

オリンピック「無観客」は世界からどう評価されるだろうか?

 今回の菅首相の「オリンピック無観客」の判断が正しかったかどうかの判定は、今後、日本におけるコロナウイルスによる死亡率がどれほど高まるかによって決まるだろう。

Photo_20210714003201

日本全国のコロナによる死亡者数の推移
Photo_20210714003202

東京のコロナによる死亡者数の推移(40代、50代の死亡者が増えてると言うが?)

新型コロナウイルス感染症対策分科会長である尾身会長は、2021年7月7日、“五輪無観客望ましい”と次のように述べた。

 「その上で「大会関係者を入れる必要が一部あると思うが、なるべく最小限にすることが、矛盾したメッセージを出さないために非常に重要だ」さらに「多くの人に感染をこれ以上拡大しないようにお願いしているところに、観客が入った映像が写ることで、矛盾したメッセージになる」(gooニュース)

 要するに、「無観客にしろ、入場している関係者の姿は自分たちの提言と矛盾するからテレビで見せるな!」という要求である。医療専門家として感染を抑える方策を提言するならまだしも、その政治的効果まで考え提言をするなど明らかに行き過ぎである。彼らの専門家としての判断が妥当であったか否かは、いずれわかることであって、その判定を待てばいいだけの話である。言うまでもなく、政治責任は政治家がとる。

 菅首相は、こうした提言を受けて「無観客」を選択したわけだが、この判断が政治家として妥当なものであったかどうかは、今後、厳しく問われることになるだろう。なにしろ、国内外の他の大規模イベントで「無観客」のものはほとんどなくなっているので、東京オリンピックの「無観客」が異常に見えてくるのは避けられないからである。

 とはいえ、この「無観客」を強硬に主張したのは、尾見会長以下医療専門家集団をはじめ、東京都の小池都知事、都民ファースト、共産党を中心とする野党、公明党、そしてそれに付和雷同するマスコミであったことを忘れてはならない。

 この間の経緯については高橋洋一氏は、yafoo news 7/12(月) 配信で次のように指摘している。

 「緊急事態宣言正式決定の前日の7日夜、小池都知事は「政府が4回目になる緊急事態宣言ということで、あすにもいろいろ手続きをすると伺っている。ここのところ感染者数の上昇が続いているので、これらの措置も必要な段階なのかなと思う」と、あたかも外部者のように答えていた(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210707/k10013125451000.html)。

 ところが、今回の緊急事態宣言を仕組んだ張本人は、小池都知事だ。

 小池都知事は、都議選の翌日の5日、自民党の二階俊博幹事長、公明党の山口那津男代表とそれぞれ面会し、五輪無観客の流れを作った。さらに、7日、小池都知事は政府分科会の尾身会長とも2時間近く会談している。(あるいは天皇陛下への工作も彼女?=筆者)

 都議選では都民ファーストへの応援演説こそしなかったものの、都民ファの大健闘を引き出したが、その都民ファは五輪無観客を公約に掲げていた。その都民ファが第一党こそ逃したが、大健闘で民意を得たといえるので、都議選の結果を引き下げて、自公幹部に五輪無観客へ訴えたのは効果的だった。

 そして、政府内での重要人物である尾身はかねてより五輪無観客を言っていたので、同氏も仲間にすれば、菅政権は五輪無観客にせざるを得ないとみたのだろう。この作戦はまんまと成功した。

 官邸の行動力が鈍っている時に、本来は、政府首脳が行うべき与党幹部等との面談を小池都知事がやってのけた。都議選敗戦のショックで官邸の行動力が鈍っているときに、小池都知事は精力的に行動した。

 しかも、五輪無観客や緊急事態宣言について、東京都は当事者であるので小池都知事が表に出てもいいはずがあえて水面下で行い、決して過度に露出していない。この政治的老獪さは驚くばかりだ。」

 これを「老獪」と言うべきか、「卑怯」というべきか迷うが、問題は、そうした政治的術策の目的は何かと言うことで、それが「いかなるもの」であるかということは、彼女の豊洲問題の処理過程を見れば明らかである。あの石原元都知事でさえ血祭りに上げられた。今度は菅首相が、彼女の「権力獲得の調略」の「生け贄」にされたわけである。他の勢力は、共産党を除き彼女の「おもちゃ」に過ぎない。

 問題は、なぜ。このような政治的操作が、小池にやすやすと出来るかと言うことだが、おそらく彼女は、日本人の「空気」支配と、それを生み出すベンダサンの「天秤の論理」に習熟しているということだろう。その操作の要諦は、「実体語」と「空体語」のどちらにも偏せず、その支点を跨ぐ位置に自分を置き、微妙にバランスをコントロールしながら、自分に有利な空気を醸成し、その空気に押される形で権力を握るというやり方である。

 この点、従来、政府のコロナ対策批判の急先鋒であった慶応大学の金子勝教授の方がはるかに正直である。氏は「ワクチン接種の効果か、65歳以上の感染者数は少ない。・・・重症化リスクの高い人からワクチンを優先せよ」(7/10(土) 20:00配信)と題して次のような投稿をしている。

 Q:テレビでは、「新型コロナ40代50代男性の重症化が目立つ」ことが強調されているが、コロナ重症患者を治療している東京医科歯科大学病院でのやりとりでは
――患者の傾向は?

40代50代の重症化が目立ってきています。都全体としても、ことしの2月、3月は、入院患者の3割ぐらいが65歳以上だったんですけど、今は5%程度に減っています。おそらく65歳以上の方のワクチン接種が進んだというバックグラウンドがあるんじゃないかと思います。

――重症化の40代50代とは?
男性の方が多くて、なおかつ、肥満傾向のある方です。体重が100キロ以上ある方ですとか。そういう方がやっぱりハイリスクなんだと思います。

 となっている。要するにワクチン打ってる世代の重症化が減り、打っていない40,50代の肥満傾向(100キロ以上?)の人の重症化が相対的に目立ってきたと当たり前のことを正直に言っているに過ぎないのである。

 こうした感染状況の推移について、評論家の門田隆将氏は、7月9日のツイートで次のように言っている。

 「全国の重症者は441(都は62)人で18日連続減。都の新規感染は822人だが90代1人80代4人に過ぎず死者激減。第5波の特徴は鼻水と頭痛。味覚障害もないとの報告も。若者に陽性者が増えれば高齢者ワクチンが進んだ今、集団免疫が近づく事も意味し、問題はない。誰か緊急事態宣言&無観客の意味を教えて欲しい。」

Photo_20210714002901

 

 さて、これらの事実に照らして、先の尾見会長の提言ははたして妥当といえるか。

 7月11日には、毎日新聞の5人の記者による「異例続きの東京オリンピック 取材記者の覚悟」と題する記事が配信された。「五輪が映し出すのは資本の論理で暴走を続ける、いびつな世界そのもの」という内容だが、それは今回の「無観客」決定とは別個の問題であって、毎日新聞の「無観客」主張を正当化する根拠とはなり得ない。

 私自身は、オリンピックの内情のことは何も知らない。ただ、折角、古代ギリシャの「オリンピア祭典競技」に由来する、国際社会における国家間の緊張を和らげるための「平和の祭典」なのだから、また、アスリートの人生をかけた最高の晴れの舞台でもあるのだから、その趣旨に沿った運営がなされることを望みたいという、それだけである。

 そのような国際的一大イベントを、自らの熱意でもって東京に招致しておきながら、8年間という長い時間、労力と金をかけて準備してきたのに、また、アメリカの奇跡的ワクチン開発によってようやくパンデミックの終熄を見つつあるこの時期に、さらに、日本における感染状況がほぼ見通せるようになったこの時期に、なぜ、オリンピック批判をして「無観客」を正当化しなけらばならないのか。

 オリンピックに参加するアスリート達の気持ちを考えれば、これが、どれほど非情の仕打ちであるか判らないのだろうか。彼らにしてみれば、自分たちの頑張りが、日本人に勇気や感動を与えてこそ、日本でオリンピック開催する意味があるのに、喜んでもらうどころか、コロナをまき散らす元凶と迷惑視される。そんなことなら、東京でのオリンピックは中止にして欲しいと思うだろう。

 実は、これが、オリンピック反対派の狙いであって、その目的は、何のことはない、国内の「反政府運動を盛り上げる」ことであって、それが国際的にどのようなリアクションをもたらすかまるで考えていないのである。この視野狭窄は、戦前にも数多くの悲劇を生んできた。毎日新聞の百人斬り競争戦意高揚記事が、中国によって非戦闘員虐殺記事に「作り替え」られたのはその典型である。

 毎日新聞はこの記事について、いまだに「正当な取材だった」と強弁し、その罪を「やらせをさせられた」二少尉に転嫁したままである。朝日新聞に到っては、その中国の「作り替え」記事を事実と報道し、その虚構性が明らかとなるや、一転して、二少尉がやったのは「戦闘行為」ではなく「非戦闘員百人斬り競争」だったと、さらなる捏造記事をまき散らしている。

 慰安婦記事の捏造がばれるのに30年近くかかったが、この毎日、朝日の虚偽がばれるのに、どれだけの時間を要するだろうか。いずれにしても、こうした巨大マスコミに見られる報道における不誠実さと「まぬけさ」は、今回の東京オリンピック反対運動にも典型的に現れ、日本を窮地に陥れているのである。

 一方、菅政権は、こうした東京オリンピック反対派の「シナリオ」が読めなかった、その無能さが明らかとなるにつれ、今後、七転八倒することになるだろう。他方、こうした日本の危機管理能力の「ひ弱さ」の露呈によって失われた、日本の国際社会における信用崩壊をどう回復していくか、この問題は、日本の安全保障問題と絡んで、今後一大論争へと発展していくだろう。

 それにしても、この間に交わされたSNS上の意見を見ていると、これが日本人なのだろうかと、思わず絶句するほど、まさに小林秀雄の言う「怨望」丸出しの、救いようのない言説にあふれている。他国の開発したワクチンのおかげで、しかも、それをタダで政府から接種してもらい、命の危険から脱しながら、また、各種支援金で救われることも少なからずあったはずなのに、感謝のかけらもない。

 自国が、百年に一度というべき国難に直面しているのに、皆で知恵を出し合い、一致協力して国難を乗り切ろうという前向きの姿勢がまるで感じられない。まさに、今、SNS上で話題を集めているKK問題さながらの、餓鬼畜生の地獄絵がそこに展開されているのである。やはり、三島由紀夫の預言は正しかったかと、思うこの頃である。

 ところが、これだけ重要な「決定」がなされた直後なのに、マスコミ界には「気の抜けたような」雰囲気が漂っている。要求が実現したのだから歓声を上げて祝杯を上げてもいいのに、不思議な沈黙がそこにある。この沈黙は、空っぽのオリンピック会場と、国内外の盛り上がりを見せる他のイベント会場のコントラストの中で、行き場のない非難中傷合戦へと発展していくだろう。

 そんなことにならず、尾見会長が予測した通り「無観客」で良かったね、といえる日がやってくればその方がいいと思うが、客観的なデータに見る限り、私は、そうはならないのではないかと危惧するのである。もし、私の予測が間違っていたら、その時は謝るほかないが、日本のためにはその方がいいわけで、一個人がつべこべ言い訳することではないと思っている。 以上

 

より以前の記事一覧

Twitter

2022年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック