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カテゴリー「「山本七平学」のすすめ」の記事

2013年5月 9日 (木)

キリスト教はなぜ戦国期の日本に受け入れられたか

「山本七平学のすすめ」(参照

 ここでは、なぜ、日本の戦国期に一神教的性格を持つ一向宗や、一神教そのものであるキリスト教が多くの信者を獲得出来たかについて考えて見ます。

 そもそも、日本の伝統的な神祭りの思想とは、古事記や日本書紀に見るように、神々による新しい生命力を生み出す「むすび」の力をたたえるもので、祭りはそれを更新・増長させる呪術としての意味を持っていました。

 ここでは「よき神」は自然の生命力を成長促進させる神であり、「あしき神」はそれを阻害する神でした。死は「けがれ」と見なされ恐れられました。また、「けがれ=罪」は人の生命力を妨げるものですが、それは「みそぎ」で祓うことができました。

 その後、6世紀半ばに、朝鮮経由で仏教が入ってきますが、それは中国の儒教や道教と習合した「儒・釈・道」三教合一論で、それが日本では「神・儒・仏」三教混合となり、聖徳太子を経て聖武天皇の時、仏教は「鎮護国家」を目的とする国家宗教となりました。

 ただし、この時、一般の貴族や有力者が仏教に求めたのは、深遠な宗教的真理ではなく、「鎮護国家」を一族にさらに個人の水準にまで下ろし、自分や自分の一族の繁栄や安全を祈念してもらうことでした。

 彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたのです。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけました。

 このため、真言も天台もしだいに密教の比重を高め、互いに呪術性を強調して競いあうようになりました。その結果生じたのが、国家仏教から貴族仏教・閥族仏教への移行でした。まず天皇家、ついで藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もこれにならいました。

 仏教の影響でもう一つ見逃せないのが末法思想です。日本で末法に入る年は、永承七年(一〇五二年)とされ、実際その頃いろいろな災害が続きました。それは「平安時代」が終わり、「闘諍時代」の来る不吉な予兆と人びとには思えました。

 こんな中で、浄土教信仰が力を得るようになりました。浄土教は奈良時代にすでに中国から渡来していましたが、空也や源信によって、あるいは踊念仏という形で、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中にしだいに浸透していきました。

 平安時代は、貴族にとっては確かに「平安時代」でしたが、裏から見れば群盗と流亡の民を生んだ暗黒の時代でした。彼らがこの「穢土」を「厭離」して「浄土」を「欣求」したとしても不思議ではありません。

 こうした平安末期の源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(1133~1211)の浄土宗です。この教えは、僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人間は救済されるという、個人主義的な宗教思想を説きました。

 そして、人は現実から逃避せず、与えられた身のまま、武士は武士、農民は農民、そのままで念仏をとなえればよい。そのため特別な行儀はなく、行往坐臥の間に行い、時間の長短や回数の多少もない。思う時に思うようにとなえて、それだけで十分としました。

 この法然の教えをさらに徹底したのが親鸞で、親鸞は、この世を穢土とは考えず、「現実」こそ「救済」の場であり、その場に生きることを念仏の目的としました。そして阿弥陀仏に救われるという「信」のみが救済を決定するのであり、念仏とは救済を求めて称えるものでなく、信じ得た喜びの感謝の声だとしました。

 まさに、人が救われるのは「信仰のみ」(この点がプロテスタントと考え方が似ている)によるのであり、その前では、老若男女貴賤一切差別はなしとしました。だが、彼の教えがすぐ広まったわけではなく、それが農民の宗教となり、一大勢力となったのは天才的伝道師蓮如が出てからです。

 しかし、この「民衆の宗教であるべき浄土宗(=真宗)」は戦国の混乱の中では新たな秩序の確立よりもこの現世を否定し諦念するという形になりました。そうした念仏による救済という信仰ゆえに強大な政治勢力となり、一大封建領主となったのが本願寺でした。

 このように既成宗教が権威を喪失する中で、一揆でまとまる惣村に浸透したのが新仏教でした。キリスト教も丁度このころ日本に伝来しました。その教えは、真宗=一向宗と同じく死後の救済を説き、信者間の差別を排し、相互扶助の「愛の精神」を説きました。これが戦国期のむき出しの生存をかけた闘擾に苦しむ民衆に受け入れられたのです。

 ただし、この時期のキリスト教は、西欧における宗教改革以前の段階にあり、他の宗教に対して排他的で、政教分離の考え方も十分でなく、政治に巻き込まれることになりました。そのため、戦国時代を全国武力統一で終わらせ、社会秩序の回復しようとする織・豊・徳政権と衝突することになりました。

 といっても、織・豊・徳政権は、真宗=一向宗やキリスト教そのものを禁止したわけではなく、ただ、それが政治に関与することを拒否しただけです。信長の比叡山や高野山の焼き討ちもその延長と捉えることが出来ます。もちろん、この時期に、政治から独立した信教の自由を確立できれば良かったのですが・・・。 

 いずれの時代であれ、「秩序」は思想的統合を前提とします。いかなる秩序であれ、警察的権力と苛酷な懲罰によって成り立つわけではありません。この原則は形は変わっても、「法治的市民社会」の時代になっても同じであって、秩序のこの種の基本が崩壊したら社会秩序が維持できなくなることは、現在でも多くの国が示しています。

 そして古い体制の崩壊から幕藩体制という新しい秩序に向かって試行と模索を重ねていた当時の日本が、さまざまな意味において、新秩序の基盤となるべき精神的統合の原則を求めていたとしても不思議ではありません。旧仏教はすでに宗教的・思想的な統合力を失い、それに代わって精神的統合力を発揮したのが、新仏教とキリスト教だったのです。

 ただし、その後、徳川幕府はキリシタンを禁止しました。そして、キリシタン排撃を目的とする寺請け制度を作って全国民を仏教徒にし、寺に一種の戸籍管理を行わせました。このため、仏教が政治・行政機関の末端業務を担うことになり、宗教としての生命力が失われました。これが明治の廃仏棄釈に繋がるのです。(以上『受容と排除の軌跡』山本七平参照)

2013年4月10日 (水)

武家社会への貨幣経済の浸透が御家人体制を解体し、一揆というを縁族を超えた契約社会を生んだ

「山本七平学のすすめ」語録コメント

 ここで説明されていることは、日本における貨幣経済の浸透が、室町時代に至って、一揆の下剋上的リーダーを生み、それが幕府の任命にかかる守護に「マグナ・カルタ」をのませ、あるいは自らがその一揆に支えられて領国経営を行うようになった、ということである。

 そもそも、経済社会において貨幣が定着するためには、「農業生産力の向上、商工業などの社会的分業の成立によって、社会的な生産力の全般的な拡大と、それを基盤にした交換生活の一般化、流通経済の発展があるかないかによってきまる」。

 日本では、八世紀の初めの和銅元年(708)に始めて貨幣を鋳造した。これが和同開珎である。以後十二種類の皇朝銭が鋳造されたが、その後政府がいかに努力しても貨幣は定着しなかった。そして准米・准布・准帛とよばれる生産物が納税および交換手段に用いられた。

 その日本で貨幣が使用されるようになるのは平清盛の時代。彼は中国の宋から貨幣(銅銭)を輸入しその流通を図った。その頃日本は、ちょうど貨幣経済に移りうる段階に達していたので、これが爆発的に流通した。すると、それによって経済はさらに発展した。

 この際使用された貨幣は、いわゆる「渡来銭」で、寛永十四年(1637)に寛永通宝が日本で鋳造されるまで、宋銭や明銭が輸入され流通したのである。

 なぜ、このように他国の貨幣を輸入したのか、という疑問が湧くが、要するに貨幣の信用度の問題で、当時の中国貨幣は東アジアの国際通貨であったということである。ただし、中国と貿易する際の日本の決済手段としては、金(砂金)を用いられた。

 当時日本は、マルコポーロが『東方見聞録』(1299)で日本を黄金の国と紹介したように砂金が豊富だった。これに比べて中国は金をあまり産出せず、金の価値が高かったので、これを使って、それより安い銅銭を輸入したらしい。その方が鋳造コストもかからず、しかも国際的に通用する、ということだったのであろう。一種の金本位制と見る事もできる。

 しかし、こうして清盛が切り拓いた貨幣経済は、所領安堵と御恩・奉公の関係で成り立つ武家社会の御家人体制を揺るがすことになった。というのは、鎌倉幕府下の平和の中で貨幣経済はさらに発展し、武士が得た「一所懸命」の土地が、武勇にも忠誠にも関係なく、金で人手に渡るようになったからである。

 こうしたことは、何れの国でも同じらしく、「貨幣経済に突入したときに、想像を絶するような勢いで、土地に密着した平面的な、いわば二次元的な経済をなぎ倒していく」というようなことになるらしい。

 そして、日本におけるこうした貨幣経済の発展は、清盛が宋銭を輸入してからわずか一世紀足らずで、原初的な銀行や貸し金業というべき「無尽」を出現させた。そうなると、金を借りるために土地を「質」に入れ、その借金返済ができず土地を手放す「無足の御家人」を発生させることになった。

 こうなると、その土地からの租税収入や、「所領安堵」という御恩・奉公関係で成り立っている幕府の統治基盤が掘り崩されることになる。そこで幕府は暦仁二年(1239)に一定範囲での貨幣の流通を禁止した。

 しかし、貨幣の浸透はやまない。鎌倉幕府の所領相続は「貞永式目」により分割相続で、分与された小所領をもとに開墾が進められ、その広大な土地を惣領が統率すことで「一族郎党」が形成されていた。だが、ここに貨幣経済が入ってくることで土地の所有関係が、個人的な売買の対象になる。これが幕府の惣領制を有名無実化した。

 こうして、惣領制に代わって、一族とは無関係な、国人同士の相互契約でまとまる「一揆集団」が出現することになった。そして、そこにおける議決方式は、「全員平等で、全員か合議して規約の案文をつくり、それに従うことを個人の決断で議決」するという、一揆方式になった。ここには、延暦寺の「大衆詮議」以来の一揆方式が反映したと考えられるという。

 その後、こうして「一揆」でまとまった国人集団が、幕府に任命された守護に代わって領国経営をするようになる。しかし、この場合の一揆におけるリーダーの資格は、一に「能力」によることになり、ここに、地縁、血縁とは無関係な、実力主義に基づく「下剋上」の世界が現出することになったのである。

 こうした日本の歴史と対照的なのが、韓国で、「李朝時代においては、王国を創建(1392)して以来、およそ二百五十年の間は」貨幣の通用が定着しなかった」という。これが、同じ儒教文化圏の中にありながら日本の歴史とは全く異なる点で、こうした観点から韓国文化を見る必要がある。

農民への一揆の浸透が、一向宗やキリシタンなど絶対他力信仰の基盤となった

 
「武士は元来、自力で墾田を切り拓いて来た人びとが主流である。従って「自力主義」ともいうべき特質をもっていた。もちろんこのことは、共同の場をもつことを否定しないが、それはあくまでも個人の自由意思で平等の立場で参加するのが原則であった。一揆は原則として全員平等で、全員か合議して規約の案文をつくり、それに従うことを個人の決断で議決してはじめて成立する。
 
 これが日本人の平等主義・集団主義の基本であり、集団主義は全員が平等でないと成り立たない。そこでちょうど円卓会議のような形で合議し、その形のまま、円周から放射状に署名する形式が生じた。これが「傘連判」である。一揆にリーダーがいても、それが必要だから全員でリーダーとしたにすぎず、その意味では「プリムス・インテル・パーレス」(同輩中の第一人者)にすぎなかったと、石井進氏は記しておられる。・・・
 
 ここにおける問題は、この「自力主義・個人主義・集団主義」がどこまで浸透したかということである。あらゆる縁族関係を断ち、一個人として、理非にのみ基づいて判断を下し、それによって賛成・反対を述べ、多数によって議決するという方式は、延暦寺や高野山のような大寺院において、「多語毘尼」に基づいて発生した。このことはすでに述べた。それが幕府の法律制定に用いられて「貞永式目」ができ、さらにそれが、国人一揆の契約という形で地方小領主に広まった。
 
 ここまで来れば、農民がそれを行なって不思議ではない。国人が一揆を形成して守護に対抗したように、農民が一揆を形成して国人領主に対抗する。この動きは相当に早くからあったらしく・・・」
 
 これは、「日本的平等主義・集団主義・・・」の項でも引用した箇所だが、重要な事は、これが武士団の「自力主義・個人主義・集団主義」に発し、それが農民層にまで浸透し、日本人の平等主義・集団主義の基本を形成したということである。
 
 武士の一揆の場合は、その一揆契約上の末尾に「上は梵天・帝釈・四天王・惣じて日本国中大小神祇冥道、別しては諏訪・八幡大菩薩、当国吉備津大明神等御罰を各身に罷り蒙るべきなり。仍って一味契約の起請文の状、件の如し」(山内一族一揆契約状)と書かれていたように、大小神祇が総動員され、一揆契状の絶対性が担保されていた。
 
 このことは、裏から見れば、既存宗教勢力の影響力が低下いていることを物語るもので、その本体はあくまで一揆契約であること。既成宗教はその絶対性を証言する証人のような位置に置かれているということである。こうした一揆組織が農民層でも構築されるようになると、そこにおける一揆契約や談合が荘園領主の支配に優先するようになる。
 
 しかし、こうした農民層の一揆は、必然的に国人層の警戒心を生む。このような緊迫した状況の中で、この組織に、一向宗やキリシタンのような、絶対他力、救い主の慈悲や信者間の平等・相互扶助を重視する宗教が結びつくと、強固な団結を誇るようになる。これが、戦国時代の覇者の政治的意志と衝突した結果、一向宗やキリシタンの弾圧となった。         
 ここで問題となるのが、日本における「政教分離」だが、信長や秀吉それに家康が問題にしたのは、その信仰内容ではなかった、彼らは庶民の信仰については無関心で、ただ、これら宗教勢力が、その宗教的権威を盾に政治的勢力化することを許さなかったのである。
 
 欧米において宗教戦争が一段落するのが1648年のウエストファリア条約である。日本ではそれよりも半世紀前に、政教分離が問題になり、宗教の脱政治化が計られた。その後は、江戸時代の仏教の檀家制度のもとで、脱宗教化が進行する。この隙間を埋めたのが、朱子学の正統思想であった。

2011年12月14日 (水)

山本七平の天皇制理解について8――「近代の超克」をめざした尊皇思想はなぜ独善的・排他的になったか

 前回は、「日本人を大量『転向』させた尊皇思想に基づく国体思想とはどんな思想だったか?」ということを、昭和12年に文部省が出した『国体の本義』に見てみました。これは次の三つの主張から構成されていました。第一の「大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳について。第二の「国史に於ける国体の顕現」は、この思想がどのように生まれてきたか、また、そのあるべき政治・経済・軍事のあり方について。第三の「結語」は、そうした日本の「国体」を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化する大切さに言及したものでした。

 この三つの主張の内、第一、第二は、いわゆる尊皇思想を江戸時代に形成された皇国史観に基づいて述べたものです。これは、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容していく過程で生まれたものです。しかし皮肉なことに、それが逆に、幕府を倒して天皇中心の中央集権国家を作る明治維新の革命のエトスに転化しました。また、こうして明治維新が成功し新政府が樹立されると、この思想が掲げていた攘夷は実行されず、さらに、それが理想としていた天皇親政は採用されず、実質的に明治憲法下の立憲君主制として運用されることになりました。

 また、三番目の「結語」では、こうして西欧の個人主義・自由主義が日本に流入することとなり、資本主義経済や政党政治が導入されたこと。そのため、個人の価値が偏重され、伝統的な奉仕の精神や和の精神が損なわれて利己主義が蔓延し、貧富の差が拡大し、党派や階級間の争いが常態化するようになったこと。そして、これらの弊害を除去するためには、かっての尊皇思想が主張し結果的に挫折した天皇親政が回復されなければならないことが述べられています。といっても、それがいたずらに排外主義的になることを戒めてはいますが・・・。

 ここで注意すべき事は、そうした西欧化の弊害を除去する方策として、天皇親政の回復が主張されてはいますが、それは多分に、統帥権の独立を主張する軍の思惑を反映するものだったということです。といっても、明治以降の近代化の流れの中で、日本人の自己抑制的な規範意識が低下した事は事実です。また、第一次世界大戦後の戦後不況やそれに引き続く世界恐慌、さらに冷害による農村疲弊等が重なって発生した難問に、普通選挙(昭和3年に第一回選挙が行われた)実施後の日本の政党政治が、適切に対応できなかったことも事実です。

 これが、満州事変以降、日本国民が政治家よりも軍人を支持するようになった理由ですが、国体明徴運動以降、こうした難問を思想的に解決するとして復活したのが、この尊皇思想だったわけです。というのは、この思想は、万世一系の天皇を宗主とし一君万民平等を基本理念とする家族主義的国家観を持っていて、この伝統思想こそが、先に述べたような日本の近代化に伴う難問を解消する上で有効であると考えられたのです。この思想は、昭和7年以降、平泉澄を通して次第に軍部に浸透し、盧溝橋事変以降日本が戦時体制に突入する中で、次第に国民の間に浸透していきました。

 以上述べたように、尊皇思想は、国家社会を家族関係に同定し、君臣関係を親子関係になぞらえることで、いわゆる「忠孝一致」を説いていました。また、こうした日本「国体」の有り様は、日本神話における神々の「国生み」以来、万世一系の皇統によって支えられてきたもので、万邦無比であるとされ、ついには、これを世界的に拡張して天皇を中心とする「八紘一宇」の家族的世界観を唱えるに至りました。その結果、国民には「忠孝一致」から「殉忠報国」さらには「滅私奉公」が求められるようになったのです。

 また、そうした家族的国家観に基づく統治観念は、天皇親政という言葉に象徴されるように、天皇の「大御心」による一君万民平等の直接統治を理想としていました。そのため、幕府政治はその正統から逸脱した「変態」であるとされました。そこで、天皇親政の復活を企図した建武の中興の後醍醐天皇が理想化され、その後醍醐天皇を助けた河内の土豪楠木正成が忠臣とされ、後に、後後醍醐天皇の親政に反対して反旗を翻し、南朝に対する北朝を樹立した足利尊氏が「大逆無道」の逆臣とされたのです。

 もちろん、こうした歴史観は、徳川幕府が「体制の学」として導入した朱子学が日本的に変容する過程で生まれたもので、日本の歴史を正しく反映するものではありません。いうまでもなく日本の歴史の独自性は、武家が樹立した幕府政治によって形造られたもので、天皇制のあり方もそれに伴って変容したものです。それは、建武の中興が失敗して以降、幕府権力から分立して非政治的・文化的象徴天皇制へと変化しました。それが先に述べたような事情で、徳川幕府政権下、天皇による直接統治が正統とされるようになったのです。

 しかし、こうした天皇による直接統治の正統性の主張は、当初は朱子学の正統論によっていましたが、これに対する反発が生じるようになると、その正統性の根拠を、記紀神話に由来する万世一系の天皇制に求めるようになりました。これを文献学的に裏付けたものが国学でした。といっても、国学は、天皇による祭政一致の政治を称揚しつつも、幕府を天皇の征夷大将軍任命下に位置づけることで認めました。一方、朱子学の正統論を引き継ぐ崎門学からは、天皇への絶対忠誠をエトス化する思想が生み出されました。

 その結果、国学の天皇を中心とする祭政一致の政治観と、崎門学系統の浅見絅斎らによる天皇への絶対忠誠を求める思想とが結びつくことで、朱子学の正統論から出発した水戸学が後期水戸学へと変容していったのです。この後期水戸学が生んだ国家観が、先に述べた万世一系の天皇を宗主とする家族的国家観だったのです。それが、幕末の攘夷思想と結びついて尊王攘夷論となり、さらに幕府が開国策をとったことを契機として、水戸学の範疇を超えた尊皇倒幕論へと発展していったのです。

 つまり、以上のような歴史的経緯を経て生まれた日本の「国体」観と、そこにおける天皇による直接統治の正統性を歴史的に証明しようとしたのが、先に述べたような尊皇思想の歴史観だったのです。こうした歴史観はまず水戸学で説かれ、それが後期水戸学において家族的国家論となり、さらに平田篤胤の「復古神道」によって、国学の「祖先神」的神概念が「絶対神」化された結果、「天皇は絶対神の直系、従って日本は絶対」という超国家主義への危険性を孕むことになりました。

 「元来神道には、体系的・普遍的要素がなく、従って外来の宗教混交思想の受容が可能であったわけだが、これが絶対神という概念と結合して絶対化すると、普遍主義的思想ではないため、極端な拝外思想になって不思議ではない。そのためこれ以降の『日本神国論』は、この平田神学の発想を基に、廃仏・廃儒・廃キリスト教・廃西欧、日本絶対という形に進んでも不思議ではないのである。」(『受容と排除の軌跡』P167)いわば日本の伝統思想が状況倫理に陥りやすいことが、一方で、全体主義的への傾斜を強めることにもなっているわけですね。昭和の「現人神天皇制」もその現れです。

 その点、『国体の本義』では、この「現人神」の定義について、それは西欧の絶対神という意味ではないとして、次のような注釈を施しています。

 「かくて天皇は皇祖皇宗の御心のまにまにわが国を統治し給う現御神(あきつかみ)」であらせられる。この現御神(明神)あるいは現人神と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか全知全能とかいうが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。」

 また、この尊皇思想がいたずらに排外主義的な性格を持つことを警戒して、『国体の本義』の「総括」では、

 「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。」

 「現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。」「世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。」
 と、述べられています。

 この「総括」を見ると、この時期の日本が、なんとかして明治以来の「西洋崇拝」の弊害を克服し、独自の思想的・文化的基盤を確立しようともがいていたことが分かります。そして、これを達成するための思想的・文化的淵源となるものとして支持されるようになったものが、平田篤胤流の復古神道(神道と基督教を習合させたような日本神話の創造神的解釈)をベースとする、絶対的・排外主義的尊皇思想であったわけです。

 そのため、こうした「総括」の抑制的書きぶりにも拘わらず、第一の「大日本国体」や第二の「国史に於ける国体の顕現」で説かれた国体思想は、次第に排他的・独善的性格を強めることになりました。さらに、その統治主体とされた天皇は神格化され、その「国体」は万邦無比となり、世界はこの天皇の下に「八紘一宇」の世界家族共同体を形成すべき、とされるようになったのです。

 また、こうして神格化された天皇や万邦無比の「国体」に対して、国民の忠君愛国・滅私奉公・生死一如の忠誠が求められるようになりました。また、政治制度としては天皇親政が当然とされるようになり、明治憲法に基づく立憲君主制下の政党政治が否定され、全政党が自主的に解散することになりました。さらに、三権分立の権力の相互牽制機関である議会や裁判所も、天皇親政を補翼する機関とされるようになりました。

 あるいは、こうした全体主義的な政治体制の編成は、総力戦下の国家総動員体制の有り様としては有効に機能した部分もあったかも知れません。しかし、以上のような「独善的・排外主義的」尊皇思想に基づくこうした政治体制の編成は、結局、意味不明な日中戦争を防止することも、また中止することもできず、それどころか、加えて英米との全面戦争に突入するという無謀を、あえて選択したのです。

 ここでは明らかに、日本の国益をリアル・ポリティクスに基づいて冷静に追求すべき政治家の責任が閑却されていました。それは、「支那事変は自己の利害を超越したる道義戦」などといった空疎な言葉によって”粉飾”され、その実態を見る事ができなくなっていたのです。この事実を指摘したのが衆議院議員斉藤隆夫で、彼が大東亜戦争開始直前に書いた『日本はどうなるか』には、次のようなことが記されています。

 「望むところは領土や償金や資金にはあらずして、東亜の新秩序である。而してその新秩序の内容は何んであるかと思えば、共同防共と善隣友好と経済提携と、この三原則の外には出でないというのである。ここに於て国民の頭に浮び出づる最初の疑は、それならば何も戦争をやらなくとも、戦争以外の方法に依りて彼我共に此の目的を達する手段があるではないか。」(『評伝 斉藤隆夫』松本健一p354)

 これは政治家として当然の指摘です。こうした見方は、もし当時の政治家が軍におもねるようなことがなければ、当然にできたはずなのですが・・・。斉藤は続けて次のように言っています。
 
 「仮に、支那事変なくして今回ヨーロッパ戦争(第二次大戦)が始まったとするならば、我が国は如何なる立場に在るであろうか。

 国力を内に貯え、倣然として世界に臨めば、英と言わず米と言わずソ連と言わず其の他世界各国は、競って我が国の脚下に膝まづきて我が国の歓心を求むべく、我が国に於ける富の増進は第一次ヨーロッパ戦争(第一次大戦)に比して十倍に上るは無論のこと、之に依りて国力の強化は言うに及ばず、世界の指導権を獲得して東亜新秩序の建設や共栄圏確立の如きは労せずして手に握ることを得るは、鏡の懸けて見るが如きものである。

 然るに、誤って支那事変を惹起しえに向って国力を傾倒せねばならぬのみならず、事変の前途は暗浩として全く見透しが付かない。其の上、是が原因となりて我が国の周囲に敵性国家が現われ、経済封鎖を断行し、対日包囲陣を形成して、じりヽと我が国を圧迫せんとするのが、今日の現状である。」(上掲書p355)

 これも上記の指摘と同様、政治家としては当然の指摘です。ところが、こうした斉藤の、観念論を排してリアル・ポリティクスに徹すべしとするの主張は、当時もそうでしたが、今日においても、一般的にはなかなか理解されないのが実情です。

 そのため、斉藤が二・二六事件直後の2月28日になした「粛軍演説」については、これを高く評価するものは多いのですが、昭和15年2月2日に行った米内光政内閣に対する「支那事変処理に関する質問演説」については、この中で斉藤が、国家間の競争を「道理の競争でも正邪曲直の競争」ではなく、あくまでも「優勝劣敗、適者生存」であると主張したことについて、この事実を無視するものが多いとのことです。
 
 しかし、私は、こうした「リアル・ポリティクスを徹底すべし」とする斉藤の主張は、昭和12年の「粛軍演説」とセットで理解すべきものであり、それはあくまで、国家競争が戦争に発展した段階における理論として理解すべきものであると思います。こう考えれば、「昭和の悲劇」をもたらしたその最大要因は、斉藤が指摘した通り、国家競争及び戦争の論理をリアルに認識できず、これを道義的・空想的言辞で説明した尊皇思想のリアリズムの欠如にあった、ということがいえると思います。

 この点、昭和における超国家主義イデオローグの巨頭とされた北一輝や大川周明の場合は、こうしたリアリズムの欠如した尊皇思想には全く囚われておらず、それぞれ独自のよりリアルな日本歴史認識をもっていて、「総括」に述べられたような難問の解決にあたっていました。それ故に、両者共、日中間の戦争はもちろん対米英戦争を(北一輝は理論上、大川周明は外交上)なんとしてでも阻止しようとしたのです。なお石原完爾の場合は、彼が信じた田中智学の「神道・日蓮宗」習合的な国体観が、平田篤胤の「神道・基督教」習合的な国体観と極めて似ていたために、自ずとその外交政策は、独善的・排他的(排欧的)なものになりました。

 従って、このような彼等の日本歴史観を点検するのも大切になってくるのですが、それは後日を期すこととして、次は、このように軍人だけでなく全日本人を巻き込むことになった尊皇思想がどのような思想史的系譜の中で生まれてきたのかを、より詳しく見てみたいと思います。その目的は、現代の私たちをも無意識的に呪縛しているように見える「尊皇思想」から自由になること。そして、歴史的事実に根ざしたよりリアルな後期天皇制についての理解を、より一層深めるためです。

2011年12月 9日 (金)

山本七平の天皇制理解について7――日本人を大量「転向」させた尊皇思想に基づく国体思想とはどんな思想だったか?

 まず、なぜ戦前昭和期において「現人神天皇制」下の天皇親政イメージが、軍人のみでなく多くの日本人の心を捕らえるに至ったか、について考えてみたいと思います。もしこれが、軍人のみに都合の良い考え方であって、戦時体制下、国民精神を総動員するための方便に過ぎないものであったのなら、国民は強制されたか”騙された”ということで済みます。しかし、実際はそうではなくて、多くの国民が「現人神天皇制」下の天皇親政イメージや、そこで説かれた国民精神の有り様を支持したことは間違いないのです。

 そこで、「現人神天皇制」下の天皇親政イメージ(所謂国体観念)とは具体的にどのようなものであったかということですが、前回申しましたように、こうした思想が一般国民の間に浸透するようになったのは、天皇機関説排撃に引き続く体明徴運動以降のことです。もちろん、それ以前に不敬罪(1880)や大逆罪(1882)の制定もあります。また、教育勅語制定(1890)以降の教育の場における御真影の奉拝(1891)という問題もあります。しかし、これらはまだ刑法や教育の問題に止まっていました。

 これが、政治上の問題となってくるのは、明治44年の南北朝正閏問題(1911)以降のことで、直接的には、共産主義に対する警戒心から、日本人の思想及び「国体観念」のあり方が問われるようになったのです。大正14年(1925)には治安維持法が制定され、昭和3年には共産党の大量検挙者を出した三・一五事件が起こりました。さらに、これが大学教授の学説に及ぶようになったのが昭和8年の滝川事件で、昭和9年には右翼蓑田胸喜らが美濃部達吉の著書『憲法撮要』を国体破壊にあたるとして不敬罪で告発しました。

 しかし、当時の学界や官界では美濃部の学説が定説とされていてこれは不起訴となりました。そこで蓑田は貴族院の菊池武夫に美濃部の天皇機関説を攻撃させ、これを政治問題化しようとしました。結果は、国会論戦で美濃部が菊池を圧倒しましたが、政治的には「機関説」という言葉が天皇の「神聖性」を犯すとして忌避され、貴族院と衆議院で機関説排撃「国体明徴」決議案が可決(s10.3)、続いて政府による二度にわたる「国体明徴」声明、翌年5月には、文部省より『国体の本義』が刊行されるに至りました。

 つまり、この天皇機関説排撃を契機に、それまで三十年来唱導され、学界、官界、政界に定着していた明治憲法における天皇の国家法人説に基づく機関説的理解が、あくまで心情の問題として根底から覆えされるに至ったのです。その結果、それまでの日本の思想・政治・教育・宗教などのあり方が、皇国史観に基づく尊皇思想の観点から根本的に見直されることになりました。その後、肇国の精神、万邦無比の国体、祭政一致、現人神、天皇親政などの意味不明の言葉が国民の間に徘徊するようになりました。

 一体、この時日本人の思想に何が起こったのかということですが、不思議なことに、一種の国民的「転向(=「回心)」が起こったのです。では、その時の思想はどのようなものだったか、ということが問題になりますが、実はこれがよく判らない。その唯一の解説が、文部省が出した『国体の本義』ではないかと思われますので、次に、それを紹介します。本文はかなりの長文ですので、そのエッセンスを書き抜きます。( )内の小見出しは筆者です。(参照「国体の本義」)

「第一 大日本国体
一、肇国
(肇国の精神)
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

二、聖徳
(皇祖の御徳)
 伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の修理固成は、その大御心を承け給うた天照大神の神勅によつて肇国となり、更に神武天皇の御創業となり、歴代天皇の大御業となつて栄えゆくのである。・・・天照大神の御徳を日本書紀には「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」と申し上げてゐる。天皇はこの六合の内を普く照り徹らせ給ふ皇祖の御徳を具現し、皇祖皇宗の御遺訓を継承せられて、無窮に我が国を統治し給ふ。而して臣民は、天皇の大御心を奉体して惟神の天業を翼賛し奉る。こゝに皇国の確立とその限りなき隆昌とがある。

三、臣節
(臣民の道)
 我等は既に宏大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

(忠孝一致)
 我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。

四、和と「まこと」
(和の精神)
 我が肇国の事実及び歴史の発展の跡を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。和の精神は、万物融合の上に域り立つ。人々が飽くまで自己を主とし、私を主張する場合には、矛盾対立のみあつて和は生じない。個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。

(家族の和)
 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

(社会生活の和)
 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

(国の和)
 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

第二 国史に於ける国体の顕現
一、国史を一貫する精神
(万邦無比の国体)
 ・・・我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては歴史は理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、
 大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。
と神皇正統記の冒頭に述べてゐる。

(政治の変態)
 源頼朝が、平家討減後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。それ故、明治天皇は、陸海軍軍人に下し賜へる勅諭に於て、幕府政治について「且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」と仰せられ、更に「再中世以降の如き失体なからんことを望むなり」と御誡めになつてゐる。

(北条氏の不遜)
 源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。

(建武の中興)
 併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた。当時皇室に於かせられて、延喜・天暦の聖代に倣つて世を古に復さんと志し給うたことは、種々の文献に於てうかゞふことが出来る。実に建武の中興は、遡つては大化の改新と相応じ、降つては明治維新を喚び起すところの聖業であつて、これには天皇を始め奉り諸親王の御尽瘁と共に、幾多の忠臣の輔佐があつた。

(忠臣)
 即ち忠臣には、北畠親房・日野資朝・日野俊基等を始め、新田義貞、楠木正成等があつて、回天の偉業が成就せられた。わけても楠木正戌の功業は、永く後人の亀鑑となつてゐる。太平記には「主上御簾を高く捲かせて、正成を近く召され、大義早速の功、偏に汝が忠戦にありと感じ仰せられければ」、正成畏まつて「是君の聖文神武の徳に依らずんば、微臣争か尺寸の謀を以て強敵の囲を出づべく候乎」と奉答したと見えてゐる。

(足利氏の大逆無道)
 以上の如き建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。

(朱子学の採用)
 徳川幕府は朱子学を採用し、この学統より大日本史の編纂を中心として水戸学が生じ、又それが神道思想、愛国の赤心と結んでは、山崎闇斎の所謂崎門学派を生じたのである。闇斎の門人浅見絅斎の靖献遺言、山鹿素行の中朝事実等は、いづれも尊皇の大義を強調したものであつて、太平記、頼山陽の日本外史、会沢正志斎の新論、藤田東湖の弘道館記述義、その他国学者の論著等と共に、幕末の勤皇の志士に多大の影響を与へた書である。

(国学の成立)
 儒学方面に於ける大義名分論と並んで重視すべきものは、国学の成立とその発展とである。国学は、文献による古史古文の研究に出発し、復古主義に立つて古道・惟神の大道を力説して、国民精神の作興に寄与するところ大であつた。本居宣長の古事記伝の如きはその第一に挙ぐべきものであるが、平田篤胤等も惟神の大道を説き、国学に於ける研究の成果を実践に移してゐる。徳川末期に於ては、神道家・儒学者・国学者等の学銃は志士の間に交錯し、尊皇思想は攘夷の説と相結んで勤皇の志士を奮起せしめた。実に国学は、我が国体を明徴にし、これを宣揚することに努め、明治維新の原動力となつたのである。

二、国土と国民生活
(国土愛)
 我が国土は、語事によれば伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の生み給うたものであつて、我等と同胞の関係にある。我等が国土・草木を愛するのは、かゝる同胞的親和の念からである。即ち我が国民の国土愛は、神代よりの一体の関係に基づくものであつて、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益豊かに万物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである。

三、国民性
(わが国の風土)
 我が国の風土は、温和なる気候、秀麗なる山川に恵まれ、春花秋葉、四季折々の景色は変化に富み、大八洲国は当初より日本人にとつて快い生活地帯であり、「浦安の国」と呼ばれてゐた。併しながら時々起る自然の災禍は、国民生活を脅すが如き猛威をふるふこともあるが、それによつて国民が自然を恐れ、自然の前に威圧せられるが如きことはない。災禍は却つて不撓不屈の心を鍛錬する機会となり、更生の力を喚起し、一層国土との親しみを増し、それと一体の念を弥々強くする。

(没我・無私の精神)
 わが国民性には、この没我・無私の精神と共に、包容・同化の精神とその働とが力強く現れてゐる。大陸文化の輸入に当つても、己を空しうして支那古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ら我が精神がこれを統一し同化してゐる。この異質の文化を輸入しながら、よく我が国特殊のものを生むに至つたことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。

四、祭祀と道徳
(現人神天皇)
 我が国は現御神にまします天皇の統治し給ふ神国である。天皇は、神をまつり給ふことによつて天ッ神と御一体となり、弥々現御神としての御徳を明らかにし給ふのである。されば天皇は特に祭祀を重んぜられ、賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿の御祭祀は、天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。

(武士道の精神)
 我が国民道徳の上に顕著なる特色を示すものとして、武士道を挙げることが出来る。武士の社会には、古の氏族に於ける我が国特有の全体的な組織及び精神がよく継承せられてゐた。故に主として儒教や仏教に学びながら、遂によくそれを超えるに至つた。即ち主従の間は恩義を出て結ばれながら、それが恩義を超えた没我の精神となり、死を視ること帰するが如きに至つた。

(生死一如)
 そこでは死を軽んじたといふよりは、深く死に徹して真の意味に於てこれを重んじた。即ち死によつて真の生命を全うせんとした。個に執し個を立てて全を失ふよりも、全を全うし全を生かすために個を殺さんとするのである。生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する。生もこれにより、死も亦これによる。然るに生死を対立せしめ、死を厭うて生を求むることは、私に執著することであつて武士の恥とするところである。生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である。

五、国民文化
(革命思想)
 我が国の文化は、肇国以来の大精神の顕現である。これを豊富にし発展せしめるために外来文化を摂取醇化して来た。支那の明時代に著された五難爼に、経書のうち孟子を携へて日本へ往く者があれば、その船は必ず覆溺するといふ伝説を掲げてゐる如きは、凡そ革命思想が我が国体と根本的に相容れないことを物語るものであり、我が不動の精神とこれに基づく厳正な批判との存することを意味してゐる。

(知行合一)
 教育は知識と実行とを一にするものでなければならぬ。知識のみの偏重に陥り、国民としての実践に欠くる教育は、我が国教育の本旨に悖る。即ち知行合一してよく肇国の道を行ずるところに、我が国教育の本旨の存することを知るべきである。諸々の知識の体系は実践によつて初めて具体的のものとなり、その処を得るのであつて、理論的知識の根柢には、常に国体に連なる深い信念とこれによる実践とがなければならぬ。

六、政治・経済・軍事
(祭政一致)
 我が国は万世一系の天皇御統治の下、祭祀・政治はその根本を一にする。・・・即ち祭祀の精神は挙国以来政事の本となつたのであつて、宮中に於かせられては、畏くも三殿の御祭祀をいとも厳粛に執り行はせられる。これ皇祖肇国の御精神を体し、神ながら御世しろしめし給ふ大御心より出づるものと拝察し奉るのである。実に敬神と愛民とは歴代の天皇の有難き大御心である。

(天皇親政)
 尚、帝国憲法・・・その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは、肇国以来万世一系の天皇の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

(臣民の権利義務)
 帝国憲法の政体法の一切は、この御親政の原則の拡充紹述に外ならぬ。例へば臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫慈養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大和心より打出づるのである。

(三権分立)
政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は統治権の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を弥々確実ならしめんとするものである。

(議会)
議会の如きも、所謂民主国に於ては、名義上の主権者たる人民の代表機関であり、又君民共治の所謂君主国に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関である。我が帝国議会は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、国民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。

結語

(西欧の個人主義批判)
 個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。

 今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的の国家を観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。

(支那思想批判)
 我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。

 
(インド仏教批判)
 印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かつたのである。

(わが国の国体)
 「我が国は、従来支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを摂取醇化して皇道の羽翼とし、国体に基づく独自の文化を建設し得たのである。明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。

(西欧の政治経済思想)
 西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。

 かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は、多くは、国家を以て、個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・独立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。従つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が発生した。(また)個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴がある。

(西欧の政治経済思想が日本に及ぼした影響)
 西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。

 この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。

 利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競ひ励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。

(個人主義の功績と欠陥)
 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。

 併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

(個人主義の是正)                                  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。

(我が国民の使命)                                 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。

(国体明徴)                                       現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

(世界文化への貢献)                                 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。」

 以上、引用が長くなりましたが、「第一 大日本国体」は、尊皇思想に基ずく国体観念と臣民の道徳、「第二 国史に於ける国体の顕現」は、それらの精神がどういう歴史的変遷を経て生まれてきたかを皇国史観に基づいて説明しています。その上で、あるべき政治・経済・軍事のあり方を示しています。そして「結語」では、そうした「国体」精神の有り様を、西欧や支那やインドのそれと比較する中で、その優位性を主張すると共に、これらの文化を摂取醇化することの大切さを説いています。

 言うまでもなく、こうした日本人の思想的大量転向は、当時日本が直面していた政治、経済、外交問題をより適切に処理するためのものであったはずです。ところが実際には、親善・友好・互恵の関係を結ぶべき中国との泥沼の持久戦争に突入することになり、挙げ句の果ては英米との戦争を余儀なくされるに至りました。ということはこうした思想改造自体に問題があった、ということになりますが、次回はそのあたりを、もう少し詳しく見てみたいと思います。

 

2011年11月29日 (火)

山本七平の天皇制理解について6――後期天皇制の要諦は、武家=帝権が公家=教権を分立させそれを支えることにあった

 前回のエントリー、「日本を破滅から救ったのは『国民と共にある』ことを基本とする伝統的天皇制だった」について、少し補足説明をしておきます。本当は、前回のエントリーは「昭和の悲劇は、明治維新の尊皇攘夷思想が『王道文明vs覇道文明』となった結果起こった」とすべきだったかもしれません。しかし、昭和の悲劇が、日本民族の破滅に至らなかったのは、尊皇思想以前の「伝統的天皇制」のおかげではないか、と強く思われましたので、この「伝統的天皇制」のあり方をあらためて想起する意味で、このような表題にしました。

 こうした日本の「伝統的天皇制」の明治以降のあり方については、本稿3「津田左右吉の天皇制論は、なぜ戦後思想界に受け入れられなかったか」で紹介しました。また、本稿4「軍内の派閥争いが国体明徴運動を経て平泉尊皇思想に行き着いたワケ」で紹介した美濃部達吉も、戦後、この「伝統的天皇制」の意味について、次のように語っています。

 「・・・すべて国家には国民の国家的団結心を構成する中心(国民統合の象徴)がなければならず、しかして我が国においては、有史以来、常に万世一系の天皇が国民団結の中心に御在しまし、それに依って始めて国家の統一が保たれているからである。

 それは久しい間の武家政治の時代にあってもかつて動揺しなかったもので、明治維新の如き国政の根本的な大改革が流血の惨を見ず平和の裡に断行せられたのも、この国家中心の御在しますがためであり、近く無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨が有ったればこそであることは、さらに疑いをいれないところである。

 もし万一にもこの中心が失われたとすれば、そこにはただ動乱あるのみで、その動乱を制圧して再び国家の統一を得るためには、前に挙げたナポレオンの帝政や、ヒトラーの指導者政治や、またはレーニン・スターリン・蒋介石などの例に依っても知られ得る如く、民主政治の名の下に、その実は専制的な独裁政治を現出することが、必至の趨勢と見るべきであろう」
(『民主主義と我が議会制度』)」

 美濃部達吉はここで、「無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられたのも、一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨が有ったればこそ」と言っています。山本七平は、この美濃部達吉や津田左右吉の天皇制の存続に関する言葉を、昭和の受難者であった彼等の「激動の昭和からの『平成への遺訓』」だと言っています。(『裕仁天皇の昭和史』p355)

 では、その「一に衆心の饗(むか)うべき所を指示したもう聖旨」とはいかなるものであったか、ここに、日本民族の生き残りをかけた昭和天皇の日本国の国家統合の象徴としての比類なき覚悟が示されているわけです。これを軍人のそれと比較して見ると、両者の違いが分かります。次は、終戦に向けて発せられた昭和天皇の二回目の聖断の内容です。

八月一四日 御前会議 《機関銃下の首相官邸二九二~二九三頁》
 ○反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。

 陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。

 わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持を偲び、堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。わたしも国民とともに努力する。

 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい。(『昭和天皇発言記録集成(下)』)

 こうして、「無条件降伏、陸海軍の解消というような古来未曾有の屈辱的な変動が、さしたる混乱もなく遂行せられた」のです。この時の昭和天皇の「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。・・・もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が全くなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」ということ言葉にこそ、後期天皇制の真髄は示されていると思います。それ故に、ご詔勅への全閣僚の副署も得られたのです。

 といっても、8月9日の御前会議における終戦の決定を聞いた陸軍軍人の衝撃と動揺は大きく、終戦当時の陸軍参謀次長であった河邊虎四郎中将は、米国戦略爆撃調査団による調査に対して次のような証言をしています。

 「參謀次長として、私は最後まで戦ひ抜くといふ意見を堅持していました。今でもなほ、われわれは最後まで戦ふべきであったといふ信念に変わりはありません。・・・私は、たとへわれわれが上陸軍に痛撃を与えたりすることができないにしても、いな戦局がもっと悪化して重要地点を上陸軍に占領されても、第二のドイツになる犠牲を彿はうとも、とにかく戦争を績けるべきであると考へていました。

 問――最後まで、とにかく抗戦するといふことが、陸軍全般としての態度なり意見だったと言はれるのですか。それとも、それは上級指導部の考へ方だったのですか。     答 ――それは大体全陸軍を通じての考へ方であったといへると思ひます。・・・私はあの時やめたのが正しかったのか徹底的に抗戦した方が正しかったのかは分りません。しがし、私自身に関する限りは、あくまで最後まで戦ったでせう。――」

 この点、この終戦の聖断が下された日が8月10日であるということには重要な意味があります。それは、広島(8月6日)と長崎(8月9日)への原爆投下、さらにソ連参戦(8月9日)という報を受けた直後のタイミングでなされたものだということです。これは、「陸軍が自信を喪失するまでは終戦をはかることはできない。うっかりそれをくわだてれば逆効果となって、平和のくわだてそのものが一掃されてしまう」(米内海相の言)との判断があって選ばれたタイミングだった、ということです。

 戦後になって、このように終戦の聖断ができたのなら、なぜ開戦阻止の聖断は出せなかったのかとか、原爆が落とされる前に終戦の聖断は出せなかったのか、とかの疑問が提出されました。しかし、開戦時は、政府及び陸・海軍が開戦で一致しており天皇としてはそれを裁可するほかありませんでした。これに対して終戦時は、米内海相が終戦論を堅持し、最高戦争指導会議では賛否同数(3対3)となり、鈴木首相が天皇に聖断を仰いだ結果、終戦となったのです。それも、前述したように陸軍の敗北感が決定的となるまでは不可能だったのです。
      
 この点について竹山道雄は、次のように評しています。

 「戦争がはじまった後に、戦闘の場面で軍人が最後まで死力をつくす決心をもってたたかったことは当然であ」る。「戦争を否定するからとてその誉れまで認めないといふことはない。また、敗戦の最後の段階にいたっても、降服をいさぎよしとしなかった人々の気持も、それだけをとりあげるなら分ることである。しかし、軍人の中にはその最上層(すなはち国全体の運命が観点の中にあるべき地位の人)にすら、軍人精紳の激情から眼中に軍事的観点のみあって国の存立を忘れた人々がすくなくはなかった」

 「このやうな熱情を抱きながらも、この将軍(先に紹介した河邊虎四郎のこと)は国策の終戦決定には従ってそれ以上の妄動はしなかったのだから、武人としての進退に非難されるところはないと思ふ。しかし、軍人が団体としては、その狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずったことは否定できなかった。もし軍人がはじめから、このやうな武人精紳はいだきながらも、しかもなほそれが守るべき限界を守っていたらどんなによかったらうに、と残念である。」(『昭和の精神史』p100)

 そして、このように軍がその「狭い職業的激情によって終始して国をあやまった方向に引きずった」ために引き起こされた戦争を、一億玉砕へと向かうその寸前で止めたものが、「わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う」という昭和天皇の言葉だったのです。つまり、こうした局面において「国民のために身を捨てる」覚悟をなされた昭和天皇のとられた行動ににこそ、後期天皇制における天皇の真の姿が示されていたのです。

 では、このような後期天皇制が生まれたのは何時のことかというと、山本七平は、それは、建武の中興がその契機となっていて、それは武家より政権を奪取しようとした後醍醐天皇の前の天皇、花園天皇の北朝イデオロギーとでもいうべき考え方に現れている、といっています。つまり、花園天皇は後醍醐天皇による建武の中興を批判しているわけで、そうした時代の変化の中で、新たな「天皇の位置と役割と任務と将来のあり方を求めたのであり、それを記したのが『太子を誡むるの書』である。

 というのも、彼には朝廷が武力によって政権を保持すべきであるという後醍醐天皇のような考え方は全くなく、乱国に立つためにこそ学問が必要で「これ朕が強いて学を勧むる所以なり」と考えた。すなわち、南北朝の争乱を前にしてこれにいかに対処すべきか。「恩賞で武士団を味方に付けるか、乱世に備えて公家の武家化を計るか、否、そうではない。そういう方法では、何も解決しない。それは目前の政争の処理に過ぎず、むしろ『一日屈を受くるも、百年の栄を保たば猶忍ずべし』の道を選ぶべきである。」として次のようにいっています。

 「私自身は、生来、拙であって智も浅いが、それでもほぼ典籍を学び、徳義を成して、王道を興そうとしたのは何故であったか。これはただ宗廟の祀を絶たないがためであった。宗廟の祀を絶たないのは、ただに太子の徳にあるのである。他にない。徳を廃して修めなければ、学の所の道もまた用いることができない。これでは「胸を撃て哭泣し、天を呼んで大息する所」となる。最大の不幸は、その代に祀を絶つことである。
                                         なぜそうなってはならないか、「学功立ち徳義成らば、ただに帝業の当年を盈(みた)すのみならず、亦即ち美名を来葉に貽(のこ)し、上は大孝を累祖に致し、下は厚徳を百姓(万民)に加えん」となるからである。それは人民のためである。従って、常に「慎まざるべけんや、懼れざるべけんや」である。そしてそうなれば「高うして而して危からず、満て而して溢れず」である。

 そしてまた世に、これほど楽しいことがあろうか。すなわち書中で聖賢とまじわり、一窓を出でずして千里を見、寸陰を過ぎずして万古を経」。楽の最大なるもの、これ以上のものがあるはずがない。「道を楽むと乱に遇うと」はまさに憂と喜の大きな差である。これは自らの決断において選択すべきことであるから、「よろしく、審に思うべき而已」である。

 山本七平は、これが北朝の基本的な考え方、いわば憲法であり、「一言にしていえば『天皇=日本教の大祭司職』と宣言し、それに天皇の正当性をおいた文書と言える。これは頼朝の三原則(注1)、泰時の明恵上人への告白(注2)と共に、日本の形成にあたって、最も影響を与えた重要な文書の一つであると私は考える」

 「従って、後期天皇制(注3)の祖は彼であると言えるかも知れない。そして高氏はこの皇太子すなわち光厳上皇を奉じて京都に入り、次いで光明天皇が即位し・・・後醍醐天皇はこの天皇に神器を渡し、高氏は幕府を開いて建武式目を定め、十二月に後醍醐天皇が密かに吉野に移り、ここに北朝すなわち後期天皇制はほぼ確立したわけである」といっています。(『山本七平の日本の歴史(上)』p243~245)

 もちろん、この後期天皇制のあとに、徳川幕府が体制の学として導入した朱子学の正統論に触発された尊皇思想が生まれることになります。そして、これが幕末の攘夷論と結びついて尊皇攘夷論となり、さらには尊皇倒幕論となって、ここに天皇を中心とする中央集権国家体制が樹立されることになったのです。しかし、この時明治新政府を作った元勲らの構想した天皇制は、必ずしも尊皇思想にいう天皇親政ではなく、後期天皇制の伝統を引き継くものだったのです。それ故にこそ、明治憲法において立憲君主制が採用されたのです。

  こうした明治憲法下の立憲君主制下の政治体制が、どのような事情で否定され天皇親政が理想とされるに至ったかについては、いままでも縷々説明してきました。ただ、なぜそのような非合理的な「現人神天皇制」下の天皇親政イメージが、軍人のみでなく多くの日本人の心を捕らえるに至ったかについては、上述した後期天皇制との絡み合いも含めてより詳細に検討する必要があります。次回は、後期天皇制の天皇がなぜ「現人神」とされるに至ったか、その思想的系譜を説明したいと思います。

注1 頼朝は、当時の朝廷の中から「政治」といいうる要素だけを、非常に巧みに抽出してきて、それだけを把握してしまった。そして朝廷の非政治的要素はそのまま朝廷に残して、これを巧みに、文字通り「敬遠」した。・・・その結果は彼は、当時の世界では全く創造できない「純政治的政府」を作り上げてしまった。すなわち最も簡素で、最も能率的、最も安価な政府である。

 そして、その時彼が朝廷に対して示した「三か条」には、まさに「政治」というものの基本的要素が要約されている。彼はいわば「公家権=朝廷権」「寺社権」「武家権」といういうべき権利を承認している。いわば既存の権利の承認である。同時にその権利者の諸権利、特にその権利の基本である所有権は、政権の交代により侵害されることはないという保障である。そして彼自身が持つ権限は、この権利への保護権と監督権、および権利者間の争いへの裁定権である。この「三か条」は幕府政権の「マグナ・カルタ」というべきものであろう。

注2 こうした幕府政治の基本的性格をさらに徹底させ、日本人の政治哲学の根本を作り上げたのが北条泰時であった。彼は、後鳥羽上皇が正当な理由なく摂津の長江と倉橋二庄の地頭職を停止した上何らかの処置をするよう幕府に命じたことに対して、これを拒否した。それは頼朝の定めた三原則に違反するものであったからである。しかし、朝廷側にしてみれば大化以来、原則として所有権というものを認めない。「一朝の万物はことごとく国王の物に非ずということなし」である。

 そこで後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を発することとなって、ここに承久の変が引き起こされた。この時泰時は、「王難」という言葉で、「天皇が、民生の安定という彼の義務の遂行を阻害したから、これを排除せざるを得ない」といい、三上皇を遠島にし、後堀河院を立てた。ただし、出発に際し八幡大菩薩と三島明神に誓約し、もし自分の京都進撃が道理に背いているなら、直ちにいま自分の命を絶ってほしい。

 もしこれが天下の人々を助け、人民を安んじ、仏神を興すことになるならば愛隣を垂れてほしい。そしてこれが成功したら、その後は政治に全く私心をはさまず、万民を安らかにすべく、いわば「即民去私」の生涯を送ると誓った。これが幕府政治ひいては日本の政治思想の基本を形成することになり、この幕府思想が今度は逆に、花園院に見られるような学功と徳義を統治の基本におく「後期天皇制」のあり方を規定していった。

注3 天皇制をいわば前期と後期に分けた最初の人は新井白石である。彼によれば、前期天皇制は神話時代から後亀山院さらに高福院までであって、その最後の天皇は後醍醐天皇である。後期天皇制とは北条高時の擁立した光厳院に始まり、白石に時代までで、この前期・後期に併存期間がほぼ南北朝時代でこの期間を彼は120年とする。彼の考え方に従えば、難聴の終わりで前期天皇制は終わり、光厳院に遡りうる北朝の創設で別の天皇制が始まっているのである。

 そしてこの後期天皇制は、武家のために武家が立てたものであるから、武家はこれを大切にしなければならない――天皇家が栄えることは武家が栄えることなのだから、天皇家を大切にするのは当然の義務だ、という考え方が基になっているのである。と同時に彼は、公家と武家は、はっきり別の物と考え、この二つを一種の「教権」と「帝権(政権)」の分立というような形で捕え、両者は相互に干渉してはならないものと考えている。

2011年11月25日 (金)

池田信夫氏の丸山真男及び山本七平理解について――日本文化の「古層」より「武士のエトス」を重視すべき

 池田信夫氏が、「アゴラ(言論プラットフォーム)」及び「池田信夫blog」における所論で、たびたび、丸山真男の「古層」論や山本七平の「空気」論に言及しています。現在のホットイーシューである原発問題やTPP問題をめぐる議論において、事実論と価値論が混同されたり、「是・非」論に終始して「可能・不可能」が論じられなかったりして議論が混乱していますが、これらの原因を見極め問題点を解決するのに、このお二人の日本思想史研究が極めて有効となっているからです。

 そこで、これらの問題点を一層明確にするため、私なりに池田氏の丸山真男及び山本七平理解について敷衍的な説明をさせていただきたいと思います。また、氏の丸山真男及び山本七平理解は、私のそれと少し違う部分もありますので、その辺りも指摘させていただいて、両者(丸山及び山本)の論の理解をさらに深めるとともに、上述したような日本人の思考法を改善する上での参考としていただきたいと思います。

2011年10月01日 18:53  「池田信夫blog」(メディア)
朝日新聞の「第二の敗戦」

 この記事は、3.11以降の朝日新聞の脱原発に関する議論が〈「1945年8月14日の(朝日新聞の)社説と、気味が悪いほど似ている。共通しているのは、可能か不可能かを考えず、理想を掲げて強硬な方針を唱える姿勢だ。戦時中は大本営に迎合し、敗戦すると一転してGHQに迎合する。高度成長期には電力会社に迎合して原発推進キャンペーンを張り、事故が起こると一転して「原発ゼロ」に転向する。福島事故は、朝日新聞にとっての「第二の敗戦」なのだ。〉と言うものです。

 このように「空気」を読んで大衆に迎合する傾向は朝日新聞に限らない。これは大学の先生と生徒の関係においても、会社の上司と社員の関係においても見られる。そうすることが良い点数をもらったり出世の条件となるからだ。そして、こうした迎合的態度によって「支配的になった空気は、破局的な事態に直面するまで変わらない。そして最終的に破綻すると、空気は一挙に変わる。」

 〈これを「日本的ジグザグ型進化」と呼んだのは山本七平だった。彼は70年代の反公害運動を冷静に分析し、そこに日本軍と同じ行動を見出した。〉

tiku この日本人の迎合的態度は、その「二人称的世界」における「和を以て貴しと為す」伝統から来ているのです。そのため、この世界は三人称の世界を意識しない、それ故に一人称の発達も抑えられてきたのです。これが日本人における論理を独特のものにした。ベンダサンはそれを「てんびんの論理」と名付けました。

 その論理を簡単に説明すると、「てんびん」の一方に「実体語」(=本音)を置き、他方に「空体語」(=建前)を置く。そして、そのてんびんの支点には日本人独特の「人間的」観念が置かれていて、それは、日本人独特の「自然観」の上に立っている、というものです。問題は、この「実体語」が言葉で定義されないこと(つまり本音を口にしない)こと。一方「空体語」は声高に主張されるが、「実態」から遊離した建前論=空論となること。ただし、両者が支点である「人間的」観念でバランスされている限り、組織の秩序は維持される。

 ただし、「現実」が極めて重くなると、それとバランスさせるための「空体語」はますます現実から遊離して「空気」が醸成されることになる。そして、人々がその「空気」に支配されるようになると、支点としての「人間的」観念が非現実的な「空体語」に引き寄せられ、てんびんのバランスが壊れひっくり返る。その時、天秤皿の上の言葉は失われて自然状態(国破れて山河あり)に帰り、心機一転、現実とのバランスを求めて新たな「空体語」が積み上げられていく。この繰り返しが、朝日新聞の上記のような社説の変遷にも典型的に見られるのです。

 では、こうした「てんびんの論理」のもつ欠点をどう克服するか、ということですが、簡単にいえば、「実体語」を言葉でしっかり定義すること。「空体語=未来像」を先に言葉で定義した「実体語」から遊離させないようにすること。支点となるべき「人間的」観念を自らの思想として明確に把握すること。その上で、自らの思想を、実態と未来の時間軸に選択的に位置づけることです。この際大切なことは、自分の言葉の時間軸における責任を明確にするということです。

2011年10月01日 21:00 「池田信夫blog」( 科学/文化)
放射能という迷信

〈さっきの記事の続き。山本七平の日本人論は彼の宗教論とからんでおり、学問的には疑問もあるが、最近の反原発ヒステリーを分析するには適している。〉

tiku ここで、宗教と学問は別に矛盾しないのでは?なお、「最近の反原発ヒステリー」の原因として、山本七平の指摘した、日本人における「対象を物神化し臨在観的把握する伝統」の存在を紹介しておられるのはその通りだと思います。これが日本人が容易に「空気支配」に陥る第一の原因なのです。

 では、こうした日本人の事実認識上の問題点(=自己と認識対象を一体化すること)をどう克服するか、ということですが、山本七平は、対象の「対立概念」による把握ということを言っています。これは異なった視点からの対象把握を複数重ねることで、はじめてより真に近い対象把握が可能になる、というものです。もちろん、その視点相互の関係が把握されていなければどうにもなりませんが。

〈「山本は、こうした傾向を日本特有の「アニミズム」だとしているが、これはおかしい。物体に付随する「空気」が感情を呼び起こす現象は「スーパーセンス」と呼ばれ、世界各地で迷信の生まれる共通のメカニズムである。〉

tiku こうした「臨在観的対象把握法」を「アニミズム」と規定してしまってはそれ以上の分析はできません。それは山本よりむしろ丸山の認識に近いような気がします。山本の「空気の研究」はそこに止まらなかったことからこそ可能になったのだと思います。

 山本はこの「空気の研究」によって「空気支配」からの脱却を説いたのです。では、その「空気支配」はどこから生まれてくるのか。その論理構造を図式化したのが、冒頭に説明したベンダサンの「てんびんの論理」でした。では、そこから生まれる「空気支配」をどう克服するか。

 より具体的にいうと、まず実体(or過去)を事実論として多角的な視点から検証しそれを言葉で確定(=定義)すること。次にその問題点をどのように克服すべきか、その仮説モデルを言葉で定義すること。さらに、両者を実現可能な方法論(=言葉)で繋ぐということ。こうした言葉による創造的な問題解決法を身につける、ということです。

 なお、日本では、「実体」や「仮説モデル」をあえて言葉で定義しなくても、両者のバランスをとることで秩序を維持してきました。しかし、これができたのは、「実体」が感覚的に共有され、先進国「モデル」があり、かつ「人間的」観念がメンバー間で共有されていたからです。それは、日本が大陸から適当な距離離れた島国であったためであり、武力侵略を受けず、大陸文化をモデルとして、それを選択的に学ぶことができたからです。日本文化は、そうした地政学的•歴史的産物なのですね。

 つまり、〈日本で非論理的な「空気」や迷信が根強く残っているのは、「極東の海に隔てられた別荘」で長い平和を享受してきたせいだとすれば、その呪縛を解くのは容易なことではない〉ということになります。ただし、これはあくまで「地政学的・歴史的産物」であって、日本は明治以降、鎖国政策をやめて主体的に開国し西洋近代文化を受け入れてきた国ですから、こうした思考上の問題点を克服できないはずはありません。

 ただ、ここで注意すべきことは、戦後はアメリカに安全保障を依存したために、明治期の独立自尊の精神が失われ、幕末的な「攘夷思想」が醸成され鎖国マインドが復活してきたことです。では、明治期の開国では、いかなるマインドがこれを可能としたかということですが、実は、これは江戸時代以前、鎌倉時代以降発達してきた武士的実力主義的・合理主義マインドであった、ということができます。

2011年10月02日 14:43  「池田信夫blog」(本)
日本人とユダヤ人

〈ユダヤ教やキリスト教というのは、日本人にとってわかりにくい世界である。2人の社会学者がそれを論じた『ふしぎなキリスト教』は、日本人のキリスト教理解のレベルの低さをよく示している。アマゾンの書評欄で多くのキリスト教徒が怒りのレビューを書いているが、こういうでたらめな本が売れるのもよくないので、ちょうど40年前に出版された本書を紹介しておこう。

tiku 日本人のキリスト教理解の根本的な間違いについて、私が一定の理解を得ることができたのは山本七平のおかげでした。『不思議なキリスト教』は私はまだ読んでいませんが、かっては一神教であるキリスト教に根ざす近代文明を覇道文明と決めつけ、それに対して東洋文明を王道文明と自己規定して結果的に中国を侵略することになった、その同じ間違いを、多くの日本人が繰り返している様な気がします。この点、日本人にとってキリスト教的な一神教的発想を理解することがいかに大切か、ということを痛感します。

〈本書はイザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いたことになっているが、今ではよく知られているように著者は山本七平(と何人かの外国人)である。これは一時的なお遊びだった(ペンネームも品のよくない駄洒落)と思われるが、300万部を超えるベストセラーになって引っ込みがつかなくなったのか、その後も山本はベンダサン名義を使いわけた。本多勝一との「百人斬り」論争は、内容的には戦地を知っている山本の勝ちだったが、匿名で批判を続けたのはフェアではない。〉

tiku 山本自身はこの本について編集者であることもコンポーザーであることも否定していませんが、著作権は持っていないと言っていました。この本は山本を含めた三人(後二人)の合作で、それにベンダサンという一つの人格を設定し著者としたのだと思います。本多勝一との「百人斬り」論争は、諸君紙上でベンダサン名で行われた(後『日本教について』所収)ものだけで、その後は、山本自身の著作(山本の「日本軍隊論四部作」など)で行われています。この『日本教について』は、滝沢克己が『日本人の精神構造』で詳細に論じており、日本人としては大いに学ぶべき点あることを繰り返し指摘しています。

〈本書については多くの批判があり、そのキリスト教理解には怪しい部分もあるようだが、数十年ぶりに読み返してみて、以前とは違う部分が印象に残った。〉

tiku この本については、旧約聖書研究者の関根正男氏や神学者北森嘉蔵氏をはじめ、この本を日本のキリスト教理解の盲点をついたものと高く評価した人は沢山います。wikiでは浅見定雄氏による酷評が紹介されていますが、小室直樹氏はこの浅見氏の『にせユダヤ人と日本人』について、次のように批判しています。

 「アマチュアではあるけれども才能もあって、一生懸命努力している人には、プロは、いろいろ助言して励ますべきもの」であって「細かいことで難癖を付けてつぶしてやろうなどということは、一切しないのが常識である」「山本七平先生はただの一度も自分は聖書学者だとは言ってはいないのである。・・本人が署名する場合は、山本書店主と書くし、自分では自分は編集者だと言っているのである」「山本七平先生は学問的には全くの素人であるが、天才的な素人なのである。あの人の直感やフィーリングは、専門家としては最高に尊重すべきものだ。確かに山本さんの理論には、学問的に厳密に言えば、いろいろな点で欠点があるだろう。しかし、そういう批判は、相手が学者の場合にすべきなのであって、相手がそうでない場合は、目をつぶるのが当たり前ではないか」

 浅見氏は学者の立場ではなく自分のイデオロギー的立場から、山本を「細かいことで難癖を付けてつぶしてやろう」としたように思われます。そのため、山本七平の提示した、日本教及びキリスト教に関する日本人が学ぶべき貴重な知見の多くが、その価値を減殺されることになりました。この件は、関根氏や北森氏の態度と比較してみれば、その問題点は明らかですね。

〈日本が非西洋で唯一、自力で近代化をとげた最大の原因が、海に隔てられて平和だったからだ、というのは、梅棹忠夫なども論じた古典的な日本人論で、今日ではほぼ通説といってもいいだろう。山本の独自性は、これを彼が経験した軍の非人間性と結びつけ、戦争を知らない日本人が慣れない戦争をやるといかに残虐で間抜けな戦いをするかを明らかにしたことだ。〉

tiku このことについては先に言及しましたが、要するに日本文化は近代戦争に向いていないということですね。ただし、「それは恥ではない」と、山本七平は言っていました。

〈山本も指摘するように、「同じ人間だから」という信仰にもとづく「日本教」は、平時にはきわめて効率がよい。不利な気候条件で稲作をやるために厳密にスケジュールを組んで全員一致で農作業を行なう「キャンペーン型稲作」は、勤勉革命と呼ばれる労働集約的な農業を生み出し、これが近代以降の工業化の基礎になった。〉

tiku 人間には遍く「仏性」が備わっているとした法華経の教えが、「仏心」→「本心」となり、脱宗教的な日本教の「人間性」信仰となった。さらに、そうした人間信仰に支えられて、仏行=修行=労働となり、日本人の「勤労のエトス」が形成されることとなり、それが日本資本主義精神となった、というのが、山本七平の説いた『日本資本主義の精神』でした。

〈しかし長期的関係に依存する日本教は、戦時のように社会のフレームが大きく変わるときは、弱点を露呈する。敵に勝つことを至上目的にしなければならない軍隊の中で、勝敗よりも組織内の人間関係が重視され、面子や前例主義がはびこり、組織が組織の存続のために「自転」するのだ(『一下級将校の見た帝国陸軍』)。〉

tiku こうした「人間性」信仰に支えられた日本の組織は、例えそれが軍隊のような機能集団であっても、否応なく共同体に転化する、いや共同体に転化しなければ機能しない、というジレンマを抱えている。従って、この集団が機能性をフルに発揮するためには、この機能性と共同体性を両立させなければならないが、そのためにはその組織が常に倒産の危機にさらされていることが必要となる。この点、日本の組織は経営体に適している。従って、この倒産の危険のない公務員組織は必然的に共同体化し、機能しなくなり、〈面子や前例主義がはびこり、組織が組織の存続のために「自転」する〉ようになる。

 戦前は、日本軍が共同体化し、絶望的な情況の中で「空気支配」に陥り「玉砕」を繰り返すことになりましたが、では、なぜ、この最も冷静かつ合理的な判断が求められる軍隊が、こうした「空気支配」に陥ったか。

 その第一の原因は、リーダー達が、独りよがりの王道文明論や現人神思想に陥り戦争のリアリズムを見失ったためです。明治期のリーダー達は、脱藩や、戦争・政争も経験した人たちで、人間のリアリズムを骨身に徹して知っていました。しかし、昭和のリーダー達は、幼年学校出のエリート軍人たちであって、彼等が陸大を卒業し現役となった時は日露戦争が終わっており、また第一次世界大戦の大量殺戮も経験しなかった。さらに社会主義的理想主義が風靡した時代だった。つまり彼等はプライドだけは異常に高い観念的軍人たちだったのです。それらが彼等が「空気支配」に陥りやすい条件となっていたのです。

〈こういうとき大きな発言力をもつのが、客観情勢を無視して「空気」に依拠して強硬な方針主張する将校だ。辻政信はノモンハン事件や「バターン死の行進」をもたらし、ガダルカナルでも補給を無視した作戦で2万人以上を餓死させた。牟田口廉也も、無謀なインパール作戦で3万人余りを餓死させた。「数十兆円のコストをかけてもすべて除染しろ」と主張する児玉龍彦氏や朝日新聞は、さしずめ現代の辻政信というところだろうか。〉

tiku その辻正信は、戦後、戦犯を逃れて逃亡し、追放解除後、衆議院議員4期、参議院議員1期を務めています。山本七平はそれを許した日本のマスコミを厳しく批判していました。

〈こういう歴史をかえりみると、財政危機という「戦争」に直面している日本人に、まともな意思決定ができるとは思えない。「増税しないで日銀引き受けしろ」という辻政信のような強硬論が出てくるのも相変わらずだ。破綻がどういう形でやってくるかはわからないが、日本人はそういう「ジグザグ型進化」には慣れているので、どうせ破綻するなら早いほうがいいと思う。あと10年もたつと、高齢化して立ち直れなくなる。〉

tiku 池田先生には「増税しないで日銀引き受けしろ」という論者とガチンコで論争してもらいたいですね。手遅れにならないうちに論争らしい論争で決着を付けてもらいたいものです。

2011年11月04日 01:32  「池田信夫blog」科学/文化
開国と攘夷

〈TPPをめぐる政治家の動きは、尊王攘夷で騒いだ幕末を思い起こさせる。丸山眞男の有名な論文「開国」(『忠誠と反逆』所収)は、この前後の日本の動きを精密に読み解いている。当初は開国を決めた徳川幕府に対する反乱だった尊王攘夷が、いつの間にか開国に変わった経緯については、いろいろな説があるが、丸山が重視するのは、身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギーを内包していたということだ。〉

tiku 「身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギーを内包していた」というのは先に言及しましたが、全くその通りだと思います。ただし、それは必ずしも「古層」によるものではなく、武士的合理主義・実力主義の伝統によるものだと考えます。「古層」からこの武士的「作為」が生まれていることを、丸山真男は知ってはいたが十分説明できなかったのでは?

〈日本のように短期間に排外主義が対外開放に変わった国はほとんどない。清は西洋諸国を「夷狄」と見下して真剣に対応しなかったため、侵略されて没落した。これに対して日本の天皇は中国の皇帝のような絶対的権力をもっていないため、相手のほうが強いと見れば妥協し、「富国強兵」のためには西洋の技術を導入する使い分けが容易だった。〉

tiku つまり、日本の鎌倉時代以降の天皇制は「武士が立てたる天皇」(=後期天皇制)で、政治権力からは実質的に切り離され「やわらかに」存在する象徴天皇制となっていたということです。明治の政治家は、この天皇を統一日本国の統合の中心とすると共に、後期天皇制の伝統を生かして、それを立憲君主として明治憲法上に位置づけたのです。それによって、日本の近代化は可能となりました。

〈西洋文明の本質的な影響を受けないで、その技術だけを取り入れることができたのは、このような「日本的機会主義」のおかげである。それが可能だったのは、日本人の「古層」の安定性が強かったためだ。伝統的な社会の規範が弱いと、西洋の技術と一緒に入ってくるキリスト教などの文化に影響されて社会秩序が動揺するが、日本ではそういう混乱がほとんど起こらなかった。〉

tiku 「古層」の安定性が強かったから、和魂洋才が可能となったとは、必ずしも言えない。むしろそれは、先ほど述べたように「身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギーを内包していた」ことによるもので、こうした伝統は、江戸時代以前の武士的実力主義・合理主義の伝統の中から生まれたものであり、そうした実力主義とその安定装置としての二権分立的象徴天皇制を組み合わせたところに、明治の創見があったと見るべきではないでしょうか。

 従って、変えるべきは「古層」ではなく、明治維新において倒幕イデオロギーとなった尊皇思想が持っていた観念的「王道思想」や「一君万民平等思想」からの脱却(明治維新の元勲にはそれができた)ということではないでしょうか。つまり、これはイデオロギーなのであるから、その思想史的系譜を知ることができれば、比較的容易にそれを対象化できる。その上で、明治維新に「身分制度に対する反抗そのものが開国のエネルギー」を供給した日本の武士的実力主義的・合理主義的精神を再評価すべきではないか。

〈TPPには、かつての開国のような大きなインパクトはないが、それに反対する政治家の行動は、幕末に下級士族を藩に縛りつけようとした藩主に似ている。彼らは、開国によって社会が流動化すると、農業利権のアンシャンレジームが崩壊することを知っているのだ。彼らがグローバル競争を恐れる気分はわかるが、競争を否定してもそれをなくすことはできない。

tiku 彼等は、すでに武士ではなく官僚化していた、と見るべきでは。

〈特に今後、中国のプレゼンスが高まる中で、日本が米中の「G2」に埋没しないためには、積極的にアジアの経済統合のリーダーシップを取る必要がある。〉

tiku その際注意すべきは、アメリカとの同盟を維持すること、中国との関係については、かっての「東洋王道文明論」に陥らないようにすること。

アメリカという父親「アゴラ」(2011.11.10)

tiku TPPに関する議論について、なぜ、この件で日本人に、アメリカに対する「被害者意識」が露呈するのかと言うことについて、池田氏は、再び丸山の「古層」論を持ち出して次のように説明しています。

〈彼等は、父親を拒否して回帰すべきモデルをもっていない。丸山も指摘したように、「古層」は本質的には古代的な閉じた社会の意識であり、それを近代の開かれた社会で維持することは不可能だからです。それでも人々の中に1000年以上かかって刻み込まれた閉じた社会のモラルは、容易に消えない。この葛藤を、われわれはこれからも長く背負っていかなければならないでしょう。〉

tiku これについても、丸山真男の「古層論」(=成る、生む、いきおい)だけでは中華文明という普遍文化の周辺文化としての発展してきた日本文化の特質を捉える事は困難だと思います。「父親を拒否して回帰すべきモデルをもっていない」というのは、中国、次いでヨーロッパの周辺文化として、戦後はアメリカの被占領文化として「モデル」を他に依存してきた日本文化の一面を表すものではありますが、その一方で、先に述べたようなオリジナルの思想的営為も見られるのであって、そうした伝統を生かして次の開国に備えることが、今日、求められているのではないかと思います。

最終校正11/26 10:30 

2011年11月18日 (金)

山本七平の天皇制理解について5――日本を破滅から救ったのは「国民と共にある」ことを基本とする伝統的天皇制だった

 前回、学理的には誠にばかげた天皇機関説問題が政治問題化し国体明徴運動に発展した結果、「現人神天皇制」が現出することになった、ということを申しました。そもそも、この天皇機関説の主唱者であった美濃部達吉が軍部や右翼に付け狙われるようになったのは、統帥権干犯問題で、美濃部が「東京朝日新聞」に「海軍条約の成立と統帥権の限界」と題する論説を書き、海軍の見解を批判し政府見解を支持したためです。原理日本社の蓑田胸喜が昭和8年に美濃部の天皇機関説を問題にしはじめたのもその延長でした。

 一方、この問題は、昭和9年2月、蓑田と手を組んだ貴族院議員菊池武夫らが第66議会で天皇機関説は反国体学説であるとして批判したことから政治問題化しました。一説には、この背後には平沼騏一郎(枢密院副議長)がいて、その狙いは「美濃部の追落しを、天皇機関説遵奉者と目されている一木喜徳郎枢府議長と金森徳次郎法制局長官の失脚に及ぼし、これによって平沼自身が枢府議長に昇格し、その勢力を宮廷、重臣間に伸ばそうというにあった。狙いの二は、法制局長官辞職の責任により岡田内閣を倒すにあった」とされます。( 松本清張 「昭和史発掘7」p180)

 平沼については、その前年(昭和8年)に「帝人事件」をでっち上げ斉藤内閣を潰したことから「司法ファッショ」というレッテルが貼られるに至っており、そのため後継首相は平沼ではなく岡田啓介が奏請されました。そこで、平沼は、首相を天皇に奏請する重臣会議の構成メンバー(西園寺、牧野、一木、斉藤でいずれも平沼の右翼的体質を嫌い首相に推さなかった)の一人一木喜徳郎(美濃部の天皇機関説の師)を追い落とすために、美濃部の機関説を攻撃対象とした、つまり、機関説問題は、平沼によるいわば「敵本主義」の現れだったともいいます。

  
 もっとも、この機関説問題が何を意味しているのか、当時の一般庶民にはとんと見当がつかず、しかし、先に述べた帝人事件の記憶もあって、これは平沼の「王手(一木)飛車(美濃部)取り」だろうという世評を生んだというのです(『昭和東京物語(Ⅱ)』山本七平)。ところが、政友会が岡田内閣をゆさぶろうとしてこの「天皇機関説排撃」に便乗し、これに民政党・国民同盟が加わって「国体明澄決議案」が三党共同で出されることになりました。政府はそれに押される形で「国体明徴に関する声明」を出すことになったのです。

 この辺りの事情について、当時、岡田首相は次のような話をしていたとのことです。

 ――先刻林陸軍大臣が来て、「もうとても自分は続かない。今こうやってこのままでうっちゃっていると、何が起こるか判らない。現にもう若い将校が千人ぐらい団結して、なにかやろうとしているらしい。それで天皇機関説について、もう少しなんとかして政府は処置がとれないかしら」ということであった。・・・「川島にも内々自分に代わってくれるように話したところ、川島は、もう時すでに遅い、何が起こるか判らない、というような話をしていた」

 ・・・閣議の前に大隅海軍大臣が来て、やはりしきりに「声明を出してくれ。声明をしてくれないと何が起こるかわからん。・・・霞ヶ浦の航空隊の奴なんか、いつ何時何をするか判らん。」・・・「陸軍大臣から『どうしても所謂国体明徴の声明をしてくれ』というので、この際、陸軍大臣が部内の統制に腐心している時であるから、これもまたやむをえないということで」ついに政府は国体明徴に関する声明を発表した。

 ここに革新派軍人(皇道派=筆者)は「国体の本義」を手中におさめることによって、権威を確立した。旧体制(明治憲法に規定された立憲君主制)は悪の烙印を押された。機関説的天皇はますます影がうすくなり、代わって統帥権的天皇(というより天皇親政的天皇と言うべき=筆者)が君臨する緒がひらけた。美濃部博士に同情していた司法当局も、その著書を絶版にした。――(『昭和の精神史』p68~69)

 つまり、ここでは、軍首脳は天皇機関説の扱いについて「団結した若い将校ら」の暴発を恐れていて、政府に「国体明徴声明」を出してくれるよう頼み、政府はやむなく国体明徴声明を出した、ということが語られているのです。では、なぜ、軍首脳は「団結した若い将校ら」をそれほど怖れたかというと、当時、軍の若手将校らの間では「国体明徴」にいう「国体論」(=尊皇思想に基づく天皇親政的国家論)が主流となっていて、天皇機関説問題を契機に、これが皇道派青年将校による統制派に対する攻撃へと転化しつつあった、ということなのです。

 その具体的な現れが、その皇道派青年将校の一人である相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺事件であり、その公判中に起こったのが、二・二六事件でした。しかし、後者のクーデターは、直接統制派の幕僚将校を狙わず、先ず重臣らを血祭りに上げた上で軍首脳に昭和維新を迫るという形で行われたために、天皇の怒りを買うことになり、彼等は叛乱軍として鎮圧され、その首謀者らは処刑されました。

 これによって、軍内の皇道派勢力は一掃されることになったのですが、問題は、この「国体明徴」運動で主唱された「国体論」そのものは、軍のみならず国民に対しても、その教化が図られるようになったということです。ではなぜそのようなことになったかというと、「国体明徴」運動は、もともと皇道派青年将校による統制派の幕僚攻撃という性格を持っていて、それが二・二六事件で皇道派が一掃されたことにより、その危険性がなくなったということ。また、丁度、日中戦争が勃発して戦時体制に入ったこともあって、「国体論」の説く「天皇への絶対的忠誠」が全国民に求められるようになった、ということです。

 もちろん、この前提としては、こうした「国体論」を説く平泉澄の尊皇思想が、昭和7年以降軍内で人気を博していたことがあります。昭和9年には、平泉は、当時士官学校の幹事をしていた東条英機少将に招かれ、海軍大学校や陸軍士官学校で講義を重ねています。また、士官学校の国史教程を平泉が編纂し、その弟子が士官学校の教官となるなど、平泉の精神で陸軍士官学校は全部立て直された、というほどになっていました。(『天皇と東大(下)』p221、p270)

 こうして、「昭和13年頃に国論は完全に一致した。裏の世論(機関説的天皇制=筆者)はすっかり終熄してしまい、表には聖戦完遂と国家体制革新(天皇親政的天皇制=筆者)と新しいモラルが声高く華やかに高唱された。(といってもなお、これは一般国民の心からの確信にはならなかった。国民の気持ちに内的生命がふきこまれたのは、真珠湾のあとしばらくだった)

 そして、遠くではあいつづくナチスの光栄・・・。

 ひさしい混乱をつづけ、客観的な判断の材料を与えられず、異常な緊迫にあがいて、ついに日本人の頭脳は、ある架空の領域の中で奇怪な回転をはじめた。浮ついた空理空論が揺るぎない現実の力となった。誰も彼もがつよい酒に酔ったように、『矢でも鉄砲でももってきやがれ』というふうだった。」(『昭和の精神史』p125)

 このように「現人神天皇制」のもとにおける「国体論」が風靡する中で、天皇に対する滅私奉公、東亜新秩序の建設、八紘一宇などの言葉が国民の間に踊るようになったのですが、それは、たかだか昭和13年以降のことなのです。

 「私がおぼえているところでは、元来日本人はファッショが嫌いだった・・・満州事変に対しても、インテリは疚しい沈黙を守るか無関心だった。一般人は感激していた(対外抗争が起こった時の自然現象、また純潔な軍に対する期待のため=筆者)。やがて、相つづくテロや軍の無理押しやあてのない戦争になって人びとは倦んで・・・戦争そのものを否定する声はほとんどな(かったが)、陰では多くの人が軍人の悪口を言っていた。盧溝橋事件が起こると、インテリといえども国民感情からこれを支持する気持ちになった人が多かった。」(前掲書p124)

 また、この間の学校教育の様子については、山本七平が、氏が通った青山師範附属小学校の授業を紹介しつつ、次のように語っています。

 「大正末から昭和初期にかけてはアメリカの教育法(ダルトン・プラン)が新しく導入されていたのである。そして生徒にとって先ず最も大きな変化は、「甲・乙・丙・丁」と記した「通信簿」なるものがなくなったことであった。これは・・・大正12年に始まり、・・・満州事変後の昭和七年か八年までつづき、そこでまた通信簿が復活したように思う。」ではこういう全くアメリカ流の教育をして周囲の圧迫といったものはなかったかというと、学校は自由に研究し報告する義務があっただけだった。

 こうした教育がいつごろから変わり出したかというと、昭和8年頃、『愛国美談』という本が配られた。その内容は満州事変と上海事件の子供向けの戦記もので、柳条溝の鉄道爆破や爆弾三勇士が載っていた。ただそれをそのまま『軍国主義教育』というのは正しくなく、むしろ「時局教育」といった段階で、やがてこの「時局」に即応する形で教育の内容が変わっていった。その「時局」はやがて「非常時」になった。こうして大正自由主義の痕跡が消されていったのだが、それは昭和13年頃からで、所謂軍国主義教育の期間は、わずか7年ぐらいと思っている。(『昭和東京物語(Ⅰ)』p292)

 私の周囲の戦中派に属する人たちの中には、戦前の日本は明治以来ずっと皇国史観に基づく軍国主義教育がなされてきたと思い込んでいる人が多いのですが、実際は、それは昭和13年から敗戦までの約7年間の出来事だったのです。もちろん、この時代は急に来たわけではなくて、それは第一次世界大戦後に組織された猶存社(大川周明や満川亀太郎、北一輝らが組織した右翼団体)の日本国家改造運動に端を発しています。そこで彼等の唱えた日本主義が軍に浸透した結果、3月事件、満州事変、10月事件が引き起こされることになったのです。

 しかし、これらは幕僚青年将校に軍首脳も関与したクーデター事件であったため、隊付き青年将校らの反発を招くことになりました。その結果、軍内の「日本主義」運動は「天皇への絶対忠誠」を求める、より純化された、一君万民平等の天皇親政を理想とする尊皇思想へと発展していきました。この皇国史観に基づく尊皇思想の主唱者が平泉澄で、昭和7年以降この思想が次第に軍内に浸透していきました。これが二・二六事件を経て、その思想から皇道派による軍の統制破壊的要素が除かれた結果、また、日支事変那が勃発したこともあって、この思想が国民の間に浸透していくことになったのです。

 では、この異常な時代を、当時の知識人たちはどのように見ていたのでしょうか。この間の事情を最も赤裸々に表白しているのが、戦後『近代の超克』という優れた論文を書いた竹内好です。氏は、対米英戦争が開始された時の感激を次のように語っています。

 「不敏を恥ず、われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。
 わが日本は、強者を怖れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。我らの疑惑は霧消した。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。」

 つまり、竹内は、日本はそれまで、東亜建設という美名に隠れて、中国を相手とする弱い者いじめの戦争をしてきたのではないかという疑念を持っていた。しかし、日本が米英という強者に対して戦いを挑んだことによって、そうした疑念は雲散霧消した。また、これによって、それまでの中国との戦争が、西洋の覇権主義的な近代社会を超克する上で世界史的な意義を持っていることに気がつき感動した、といっているのです。中国との戦争は、そうした大義に捧げられるべき、一つの犠牲にすぎないのではないかと・・・。

 こうした感想は当時の知識人に一般的に見られたものでしたが、しかし、その結果は惨憺たる日本の敗戦でした。そこで戦後、彼等は、このように自分たちが昭和の日本の戦争を正当化したことについて、深刻な反省をすることになりました。その反省の弁の中で最も興味深いものが、亀井勝一郎によって提出されています。

 「いまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年経っているにも拘わらず『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない、例えばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」(『近代の超克』p304)

 「当時の私は、満州事変――日華事変が、日本のいのちとりになるとはどうしても考えられなかった。・・・当時の気持ちに即して言えば、中国に対しては、高をくくっていたと云える。・・・同時に『民族主義』の復活を背景として、私の日本古典や古寺の研究はすすんでいたが、それまでの『西洋一辺倒』への反撃とも結びついていた。私たちが受け入れた『ヨーロッパ近代』と称するものへの疑惑と、その超克の意思である。」(同上)

 「昭和17年私たちは『近代の超克』という座談会を催した・・・唯ひとつ、今ふりかえって自分でも驚くことは、『中国』がいかなる意味でも問題にされていないということである。」(上掲書p305)

 この座談会には、当時の日本の知識人を代表する人たち(小林秀雄、三好達治、亀井勝一郎、川上哲太郎林房雄、中村光夫他)が参加していたわけですが、不思議なことに、その会話の中では”『中国』がいかなる意味でも問題にされていなかった”というのです。それは、亀井がいうように日清日露戦争以来の日本民族の「優越感」の現れであったかもしれません。しかし、それだけでは十分な説明とはならない。実は、その背後には「西欧一辺倒」への反動としての「日本思想」の想起という問題があったのです。

 そして、その時想起された「日本思想」は、実は、明治維新期の尊皇攘夷思想と深く結びついていたということ。そしてこの時(昭和)は、その「尊皇」思想の適用範囲が日本だけでなく中国さらにはアジアへと拡大されていたということ。また、その「攘夷」の対象は「ヨーロッパ近代」に向けられ、それと戦い「ヨーロッパ近代」を超克することが、日本が盟主となって主導すべき王道文明の使命と考えられていた、ということです。つまり、無意識のうちに中国をその王道文明の「身内」と見なしていたために、「中国」がいかなる意味でも問題にならなかったのです。

 このように、中国を「身内」と見る見方や、「ヨーロッパ近代」との戦いに日本の「世界史的意義」を認める考え方は、実は、日本固有の「尊皇思想」の反映であって、現実の中国やヨーロッパとは何の関係もなかったのです。早い話が、日本は自分たちの勝手な「思い込み」を中国に押しつけようとしていたわけです。それだけでなく、「ヨーロッパ近代」を覇道文明と勝手に決めつけ、それとの最終戦争に勝利することを自らの歴史的使命と考え、そうした戦争観を中国やアジア諸国に押しつけようとしていたのです。

 このあたりのことについて、竹内好は戦後次のような総括を行っています。

 「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)であった。復古と維新、尊皇と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争(昭和になってずっと戦争がつづいていること=筆者)の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。だから問題の提出はこの時点では正しかった・・・しかし、これらのアポリアがアポリアとして認識の対象にされなかったために、せっかくのアポリアは雲散霧消して、公の戦争思想の解説に止まった、と。

 つまり、大東亜戦争の意義について、確かに「近代の超克」という看板は掲げられ、上記のようなアポリアの提示はなされた。しかし、それは看板を掛けただけで、実際の思想闘争は行われなかった。そこから思想の創造作用は起こるはずがない。従って、もし、そうしたアポリアを解き新しい思想を創造しようとするなら、もう一度これらのアポリアを課題として据え直さなければならない、というのです。このことを前回指摘した大川周明の思想に即していうならば、「東西文明対立史観」をいかに克服するかということ。明治維新以来日本人を無意識のうちに呪縛してきた「尊皇思想」について、その思想的系譜を明らかにし対象化することでその呪縛を解く必要があるということです。

 それができなかったために、戦前の日本の知識人は、大正時代中期以降、次第に東西文明対立史観に捕らわれるようになった。そこでは、東洋文明は王道文明、西洋文明は覇道文明と規定され、両文明の最終的な衝突が予測された。そこで、その最終闘争に備えるためには、同じ王道文明国である中国と連携し資源を共有する必要がある。しかし、中国はこうした日本の世界史的役割を認識せず、日本に協力しないばかりか日本を中国から追い出そうとした。そこでやむなく、日本は満州国という王道国家を作り範を示したが、中国はそれを認めようとしないので、目を覚まさせるため膺懲した・・・。

 これが、多くの日本人にとっての満州事変及び支那事変の意味の解釈でした。そのどこが間違っていたかというと、先ず第一に、東洋を王道文明、西洋を覇道文明と決めつけ、前者が後者より優れているとした文明論。第二に、中国と日本を同じ王道文明の国と規定し、中国は日本と協同して西洋の覇権文明に対抗すべきとした最終戦争論。これらは、実は、日本人の尊皇思想に基づく国家観や世界観に基づくものであって、中国人にとっては、それは日本人の勝手な思想の押しつけ以外の何物でもなかった、ということです。

 日本人は、戦前、このように自己中心的な思想を中国人に押しつけようとしていたことに気づかなかったのです。その結果、中国の主権国家としてのリアルな姿が見えなくなり、またワシントン体制下の世界秩序が見えなくなっていたのです。それが結果的に、中国に抗日持久戦争を決意させることになった。さらに意外なことに、その中国を覇権国家であるはずの英米が軍事的に中国を支援することになった。そこで、これに対抗するためにヒトラーと同盟したが、それは日本をファシズム陣営に追い込むことになり、英米との全面戦争を余儀なくされた・・・。

 こうした絶望的な戦争の推移の中で、昭和13年以降、日本の「国体」思想は政治的なリアリズムを完全に見失って「神がかり」となり、天皇に対する絶対忠誠、尽忠報国が説かれ、八紘一宇という誇大妄想的なスローガンのもと、中国との戦争に加え英米を相手とする大東亜戦争をはじめることになったのです。その結果、一億玉砕の集団自殺さえ厭わない聖戦思想に支配されることになったのです。

 ではなぜ、日本人は、このように政治のリアリズムを見失ない、虚構の聖戦思想に身を委ねることになったか。その根本原因は、先ほど述べた「尊皇思想」にあったわけですが、もし、これから脱却するすべがあったとしたら・・・。一つは、こうした思想運動の担い手となった軍人の軍縮下の不満をしっかり認識できていれば・・・。マスコミがセンセーショナリズムに陥らず、より正確な事実に基づく報道ができていれば・・・。政治家が党利党略に走らず、軍人を政治に巻き込むようなバカなまねはしなければ・・・等々が考えられます。

 だが、実際には、このいずれも当時の日本人にはできませんでした。そのため、ワシントン会議以降の国際政治の変化を読み切れず、いたずらに対支強攻策をとった結果、中国に抗日持久戦争を決意させることになったのです。こうした意図せぬ結果を日本にもたらした思想が、実は明治維新の志士たちに革命的エトスを注入した尊皇攘夷思想であり、これが昭和期に復活したために、「昭和の悲劇」がもたらされることになったのです。しかし、その破滅を究極において救ったのが、「国民と共にある」ことをその存在の基本様態とする伝統的天皇制の姿でした。

 そこで、この日本の伝統的な天皇制の姿と、昭和13年以降、日本の精神世界を支配した「現人神天皇制」とは、どのような関係にあるのか、後者の天皇制はどのようにして生まれてきたのかを、山本七平の日本思想史研究に見てみたいと思います。

 以上、前置きが随分長くなりましたが、なぜ山本七平がこうした思想史的研究に取り組むことになったのかを理解してもらうためには、こうした前段の説明が不可欠だと思ったのです。ご了解いただきたいと思います。

最終校正 11/19 14:30

 

2011年11月11日 (金)

TPP問題に関連して――日本人の陥りやすい「東西文明対立史観」その系としての「陰謀史観」がもたらすもの

健介さんへ

「山本七平の天皇制理解について4――軍内の派閥争いが国体明徴運動を経て平泉尊皇思想に行き着いたワケ」へのコメントに対する私見です。)

tiku 戦前昭和史の悲劇を理解する上において最も重要なポイントは、対支那外交及び満州問題をこじらせたのも、軍の統帥権問題さらには天皇機関説問題を政治問題化したのも、基本的には政治家の責任だったということです。もちろん。この時代を主導したのが軍部だったことは間違いありませんが、政治家が党利党略に走らず、軍におもねらず、国家利益を代表する政治家としての自覚と先見性を持って行動していたら、これらの問題はよりスマートに解決できたはずです。

 対支那外交及び満州問題については、幣原の方針の方が正しかったと私は思っています。それは、安易な東西文明対立史観に陥ることなく、アメリカとの関係調整をする方向で進められていたからです。できたら、日英同盟の破棄ではなく、それを日英米同盟に進化させる方向で拡大できていればベストだったわけですが・・・。また、統帥権問題は、政友会の森格等が党略上海軍をたきつけて引き起こしたものであること。天皇機関説問題は貴族院が無責任にも右翼に迎合し、また、政友会がこれを倒閣に利用しようとしたことから政治問題化したものでした。

 ところで、天皇機関説問題がなぜ政治問題化したか、ということですが、それは要するに、天皇の位置づけについて、それが法の枠内に止まるものか、それともそれを超えるものかという認識が曖昧だった、ということです。前者は、いうまでもなく明治憲法の規定するところ、後者は教育勅語によるものです。美濃部達吉も検察の取り調べでこのことに気づき、後者は「法を超えたもの」であることを、”汗をふきふき”弁明したといいます(『天皇と東大』参照)。つまり、天皇という存在の「精神的・象徴的」性格と、「法的」性格の違いを、美濃部も思想的・論理的に整理できていなかったのです。

 伝統的な天皇制では、前者は政治的独裁者の規定ではなく、日本国民の一種の「無私の精神」を象徴するもの。それ故に国民の尊崇を集めうる(=即民去私)となっていた。後者は、名目は天皇としながら実質的な政治的責任は全て補弼者が負うとするもの。これが伝統的天皇制の日本的二権分立のエッセンスだったわけです。これを、10月事件以降、皇道派が統制派の行動を「天皇大権を私する」ものと非難するようになった。確かにこれはまっとうな批判だったわけです。それと同時に、彼等は軍内の「身分」的人事に強い不満を持っていた。(それが彼等の尊皇思想における「一君万民平等」の意味だった)

 そうした主張を実現するのに、彼等は、二・二六事件で、それを「君側の奸」を取り除くということを名目に、政府重臣を暗殺するというクーデター行動に出た。これが理解しにくいところで、つまり、統制派に対する攻撃ということなら、重臣ではなく統制派幕僚を襲うべきだったのに、彼等はリストに上げただけで、ただ片倉衷を偶発的に拳銃で撃っただけだった。そこを石原完爾に乗ぜられ、カウンタークーデターを食らうことになったのです。

 また、天皇がどうして皇道派青年将校に同情を寄せなかったか、ということが問題とされますが、天皇にしてみれば、当然のことながら、皇道派が軍の統制を破壊するような行動をエスカレートさせることは認められない。もちろん、それまでの軍の独断行動も苦々しく思っていた。それは統帥権の総覧者としての立場からも当然のことで、また国務の総覧者としての立場からも当然だった。まして、天皇の国務総覧の補弼責任を負う重臣らを暗殺するなどという行為を認めるはずがない。

 明治維新の場合は、尊皇派は天皇を”自由”にできたからなんとかなったが、明治憲法下の天皇は統治権を総覧しているのだし、統帥については天皇は彼等の最高指揮官だから、その意思を無視するわけには行かない。このあたりの時代の変化を、皇道派の青年将校たちは全く読めていなかった。北一輝の場合は当然判っていたはずですが、皇道派下級将校の「革命的エネルギー」をバックとしていましたから、彼等を理論通りに動かせなかったのでしょう。その負い目が、彼をして皇道派青年将校に殉じさせる結果になったのだと思います。

 つまり、皇道派VS統制派という問題は、まず軍内部の問題としては、実力主義に基づく人材登用ができなかったということにあります。また、幕僚将校らの行動が、特に張作霖爆殺事件、三月事件、満州事変、10月事件において、「天皇大権を私する」ものであったことは事実ですから、これを皇道派が非難するのは決して間違いではありませんでした。統制派はこれを持ち出す皇道派の動きを「利敵行為」であるとして苦々しく思っていましたが、「弱み」でもあったので何とか彼等を懐柔しようとしたのです。

 で、なぜ彼等は二・二六事件において、皇道派は統制派を直接の攻撃対象とせず重臣らを襲ったかということですが、その根本的な理由は、その時代認識において統制派と共有するものがあったからです。つまり、政党政治や議会政治否定、「神格化」した天皇の下における、軍主導の一元的国家体制の樹立、資本主義から社会主義的統制経済への移行、自由主義・個人主義の排撃ということでは一致していたということです。だから、資本主義自由主義の現状維持勢力である重臣らを暗殺することで、軍首脳に「取り入ろう」としたのです。

 そうした「思惑」のもとで重臣らを暗殺することを、「君側の奸を除く」という思想にもとづいて正当化し、それでも天皇を味方に付けられると思ったところに、彼等の錯誤があったわけです。要するにそういった思想的幻想による自己絶対化に陥ったところに、客観的にものを見る事ができなくなった原因があったのです。

 もし、彼等が本当にこうした軍の抱える問題点を解決したかったなら、繰り返しになりますが、重臣暗殺というクーデターに出るべきではなかった。そんな行動にさえ出なければ、彼等の言い分はそれなりの正当性を確保することができたでしょう。あるいは、天皇の同情を買うこともできたかも知れません。といっても、これはいわば「ないもの」ねだりで、先に紹介したような軍内の時代認識を彼等も共有していたことが、彼等の言い分の正当性を全てぶち壊しにしてしまったのです。

>> その結果、4月には、真崎教育総監が、機関説が国体に違背する旨の訓示を発し、内務省は同博士の『逐条憲法精義』他3冊を発禁処分とするなどしました。さらに、本問題は革新(右翼)団体だけでなく、反政府立場にあった政友会が「国体明徴のための徹底運動」を起こすに至り、ついに政府は、8月3日、国体明徴に関する次のような声明書を出すに至りました。こうして、美濃部博士は起訴猶予処分を受け参議院議員を辞することになりました。また、10月15日には、政府は重ねて「国体明徴声明」を出しました。

健 この展開はまるで南朝鮮が従軍慰安婦について、能書きを言い出した経緯とよくにています。

tiku 従軍慰安婦問題と河野洋平氏の関係については、秦郁彦氏が『慰安婦と戦場の性』で次のような指摘を行っています。

 河野談話では、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧等による等、本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等がこれに加担したこともあったことが明らかになった」と「当時の朝鮮半島はわが国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」とが重複する記述になっており、募集段階で官憲が強制連行したかのような印象を与えるものとなっている。

 河野談話の問題は、政府の調査報告書では募集の主体を「業者」と明示しているのに、河野談話では消えている――つまり主語が落ちている点だと、秦氏は指摘しています。

 当時官房副長官だった石原信夫氏は、「第一次調査では募集の強制性は見つからず、韓国政府も当初はそれほどこの問題に積極的ではなかったため、これで納まると思った」が、「慰安婦の証言」(真偽不明)があり、「関与を認めただけでは決着しないと思った」「彼女たちの名誉が回復されるということで強制性を認めた」「”総じて”というのは河野さんのご意向が文章になった」「事実よりも外交的判断を優先させた」と語っています。

 当時の日本政府は「これでおさまる」と考えたわけですが、やがて日本国内の反体制派と呼応して日本に国家賠償を要求する運動になっていったわけで、そうした政治判断が甘かったわけです。その後「女性のためのアジア平和国民基金」が設けられましたが、「韓国では、見舞金を受け取ることに批判的な世論のため、ほとんどの元慰安婦は見舞金を受け取らず、韓国政府が認定した元慰安婦200人中、受け取ったのは7人に止まったまま」(wiki「アジア平和国民基金」)だそうです。

 外交問題では、日本的な「相互懺悔告解方式」は通用しないということです。事実論はあくまで事実論として、論理を貫徹させておかなければならない、ということですね。韓国も日本と儒教的伝統において似たところがあると思いますが、その過剰な「大義名分論」からする攻撃精神は、日本人とは相当に違っているようですね。といっても日本にもそれに似た人たちが随分増えているようですが・・・。

>皇道派、統制派といった見方とは別のものが必要だと見ていますが、気力がありません。
元に何か別なものがあります。

tiku 先に申しました通り、皇道派、統制派というのは実は思想的な対立だったのではなく、士官学校卒業後、陸大に進学し幕僚将校になった者に対する、隊付き将校(陸大を出ない限り出世の道が閉ざされていた)の人事上の不満に端を発する、明治維新の脱藩志士をモデルとした倒「幕僚」運動だったのです。本来なら、軍も学歴に関係なく実力主義に基づく人材登用をすべきだったのです。米国がそれをやったように・・・。当時の軍は極端な学歴主義でその弊害が大きかったのですね。

 つまり、先に言及したように、思想的には両者の違いはそれほどなくて、そのことは尊皇思想の理論的指導者であった平泉澄が二・二六事件を全く容認しなかったことでも明白です。平泉はおそらくこのクーデター事件で天皇がそれを支持するとは全く思っていなかったのでしょう。というのは、彼には皇道派青年将校のような統制派に対する被害者意識はありませんでしたから。これが平泉の尊皇思想に対する支持が両派にまたがり得た理由です。といっても、さすがに平泉は二・二六事件後警戒されましたが・・・。

>今年の夏、目黒にある大川周明の墓をお参りしました。複雑でしたね。

tiku 大川周明については、彼が「東西文明対立史観」に陥ったことが、最大の問題だったと思っています。実は、彼は平泉などと違って、日本歴史の解釈ははるかに実態に即していて、観念的な「現人神」尊皇思想にはほとんど陥っていませんでした。この点は北一輝も同じで、大川の『日本二千六百年史』は大変優れているしおもしろいです。この当時の日本の最高知性を以てしても、この「東西文明対立史観」に陥ってしまったのです。次回これについて詳しく論じたいと思っています。

*大川の「東西文明対立史観」を猶存社の宣言文(大正8年)に見ていましたが、大川自身の思想とは必ずしも言えないので、この部分は訂正(削除)します。『米英東亜侵略史』(昭和17)には顕在化していますが。(11/15)

 なお、この問題は、現在問題になっているTPP問題にも影を落としているような気がしますね。先の慰安婦問題で述べたように「事実を事実として押し通す」外交交渉力を持たないと言う事もあるのでしょうし、その反動として、いたずらにアメリカ「陰謀史観」に陥るということもあると思います。戦前の場合、こうした史観に陥りさえしなければ、もっと柔軟かつしたたかに支那問題や満州問題を処理できたはずですが、これは、今日の日本の政治家にも至難なのですから、戦前の日本の政治家にこれを期待するのは”野暮”ということなのかもしれませんね。

2011年11月 9日 (水)

山本七平の天皇制理解について4――軍内の派閥争いが国体明徴運動を経て平泉尊皇思想に行き着いたワケ

 なぜ、「現人神天皇制」という、日本の伝統的天皇制とは異なる「超国家主義的天皇制」が、戦前昭和期の日本の思想界を支配するに至ったか。丸山真男は、この「現人神天皇制」の「超国家主義」的性格を日本の天皇制の属性と見て、それからの脱却を主張しました。しかし、日本の天皇制の伝統は「政治の実権を有せず、文化的権威のみによって、日本国の統合の象徴として存続してきた」ところにある。それは、近代的な三権分立ができる前段としての「祭儀権と行政権の分離」といえるものであり、民主的政治制度確立の上からも、むしろ積極的に評価すべきものである・・・イザヤ・ベンダサンは『日本人とユダヤ人』でそう指摘しました。

 では、なぜ、この日本の伝統的天皇制とは異なる「現人神天皇制」が、昭和期の日本人の思想を支配するに至ったか。これが、大きな謎となるわけです。前回紹介した津田左右吉は、戦後、天皇制に対する批判が高まる中で、日本の天皇制のもつ上記のような伝統的性格を、歴史学者として繰り返し主張しました。そして、なぜそれが「現人神天皇制」となったかの原因を、「軍部の宣伝によるもの」としました。しかし、それだけでは、なぜ、当時の日本国民の大多数が、その思想を受け入れることになったかの十分な説明とはなりません。

 実は、この「軍部の宣伝によるもの」とされた思想は、明治維新を成功させた尊皇思想でした。しかし、この思想は、維新後新政府が欧化政策をとったために挫折させられました。かろうじて、教育勅語=教育理念・指針として生き残りましたが、政治制度としては立憲君主制度が採用されました。しかし、この立憲君主制は西欧思想(資本主義、自由主義、個人主義)に基づくものであり、今日の政党政治の金権腐敗や貧富の差の拡大等の経済的混乱の元凶である。従って、再度「維新」を実行し、尊皇思想を復活させ、立憲君主制を廃して天皇親政としなければならない、と訴えたのです。

 ここで、この天皇親政というのは、実際の政治のあり方としてはどういうものであったか、ということが問題になります。もちろん、天皇が政治の意思決定を全て一人で行うことができるはずはありません。どうしても天皇を補佐する何らかの中間的な組織や機関を必要とする。それが、明治憲法に規定された内閣組織や軍組織、議会及び裁判所であったわけです。つまり、これらの組織が統治権の総覧者として天皇の補弼責任を負うことで、実質的に政治責任を負い、天皇を「無答責」としてきたのです。

 天皇親政は、それをどのように変えようとしていたのか、というと、この中間組織を「君側の奸」として、つまり、これが天皇の「大御心」による一君万民平等の政治を疎外していると見て、これを取り除くべきと主張していたのです。では、このあとにどのような組織を持ってくるのかというと、皇道派の青年将校は思想的にはあえてそれをすべきでないと考えた。といっても、そのモデルが全くなかったというわけではなくて、北一輝の「日本改造法案大綱」がそのモデルであったことは間違いありません。

 そこで次に、その北一輝の「日本改造法案大綱」が、どのような政治制度や政策を構想していたのかについて見てみたいと思います。〈「日本改造法案大綱」(大正15年版による)〉

(政治制度)
・クーデターにより、天皇大権の発動により三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令をしく。
・天皇は国民の総代表たり、天皇を補佐すべき顧問員(五十人)を設く。
・華族制廃止、貴族院を廃して審議院(各種勲功者間の互選及び勅撰)を置き衆議院の決議を審議せしむ。
・国民自由の回復、文官任用令、治安警察法、新聞紙条例、出版法等の廃止
・戒厳令施行中国家改造内閣を組織する。内閣院は従来の軍閥、吏閥、財閥、党閥の人を廃し全国より広く偉材を求む。
・国家改造知事を任命する。
・戒厳令施行中普通選挙(男子)による国家改造議会を招集し改造を協議せしむ。改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討論することを得ず。

(経済政策)
・私有財産限度を設く(一家で100万円、現在の10億円程度)。超過額は国納とする。
・在郷軍人会議を設け改造内閣の直属とし、国家改造中の秩序を維持するとともに、私有財産超過者を調査し、その徴収にあたらしむ。
・私有地限度を設く(一家で10万円)超過せる土地は国納。在郷軍人会議をして私有地限度超過者の土地評価徴収にあたらしむ。
・私人生産業の限度を資本1000万とす。限度を超過する生産財は国有とする。

(労働政策)
・労働者の権利を保護するため労働省を設置する。老僧争議は労働省が採決する労賃は自由契約、労働時間は8時間、日曜祭日は有給、純益の二分の一配当、労働者の代表は経営計画及び収支決算に関与する。
・農業労働繁忙期労働時間延長の賃金加算
・借地農業者(小作者)を擁護
・幼年労働(16歳以下)の禁止
・婦人労働は男子と共に自由、ただし改造後は婦人に労働を負荷せしめない。

(国民生活の権利)
・15歳未満父母なき児童は国家が養育・教育する。
・60歳以上の貧困、扶養者なし、不虞廃疾者は国家が扶養する。
・満6歳より15歳まで男女同一の教育をする。
・10年間の一貫せる学制とする。
・英語を廃してエスペラントを第二外国語とする。
・特殊の女子科目を廃止する。
・無月謝、教科書給付、昼食の学校支弁とする。
・男子生徒に制服強制せず
・婦人人権の擁護(姦通罪、有夫の買春禁止)
・国民人権の擁護(官吏による人権侵害の防止、未決監の人権保障、弁護士の任用)
・遺産は母、子女に平等分配

 要するに、軍(下層階級)がクーデターを起こして政権を掌握し、天皇大権を発動して戒厳令を施行し、その下で、現行の議会政治や政党政治を排し、新たに改造内閣、改造議会を組織し、「資本主義の特長と社会主義の特長を兼ね備えた」経済体制へと移行する。それによって、私有財産や土地所有の制限を設け、超過分は国に納付させる。これによって財政の基盤を拡張して福祉を充足させるなど社会改革を進める。具体的には、労働者の権利の保障、平等な福祉政策・教育政策の実施、国民の人権を守るための施策の実施など・・・。

 この「日本改造法案大綱」は、北一輝が大正8年に中国で40日間の断食を経て書いたといわれるもので、翌9年、北が満川亀太郎や大川周明の主催する猶存社に招かれたことで、猶存者の企画する「日本主義に基づく国家改造指針」となりました。大正15年に北一輝と大川周明が性格の違いから疎隔した後は、こうした革新的日本主義運動は北派と大川派に分裂し、前者は西田税を通して隊付青年将校らに、後者は行地社、大学寮を通して幕僚青年将校らに国家改造熱を吹き込むことになりました。

 こうした、ワシントン条約以降、軍内に高まっていた革新気運(軍縮への反発、軍内の薩長閥に対する不満、総力戦への対応などによる)と、これら民間志士の啓蒙による革新熱とが合流して、陸軍の中堅将校が計画し軍上層部も関わったとされるクーデター未遂事件(3月事件、10月事件)を引き起こされるに至りました。しかし、その後、こうしたクーデターによる国家改造計画の是非をめぐって、幕僚青年将校と隊付青年将校らの間に対立が生じるようになりました。

 というのは、後者は、「隊付き」であって陸軍省や参謀本部の幕僚将校への昇進の道が閉ざされていた。そのため、幕僚将校らの権力奪取を目的としたクーデターを「皇軍を私するもの」として激しく批判するようになったのです。西田は、この後、心酔する北の「改造法案大綱」の版権を譲り受けてこれを印刷し、全国各部隊の少壮革新分子に配布し、尊皇思想に基づく国家改造を目指して、部隊横断的な同志的結合を進めました。10月事件後は、荒木陸相や真崎将軍を支持し、そのもとで昭和維新に向けた国内改造を推進しようとしました。

 一方、前者は、満州事変に成功したこともあって、漸次、合法的な権力掌握へと向かいました。ただし、10月事件以降、荒木陸相就任によってこの事件関係者は地方に転出させられ、宇垣系と目された者も次々と没落させられました。その後、荒木陸相から林陸相に代わると、皇道派青年将校らの部隊横断的結合は、軍の統制を乱すものとして幕僚将校らに排撃されるようになりました。こうして、隊付き青年将校からなる皇道派グループと、幕僚将校からなる統制派グループとの対立が深刻化することになりました。

 といっても、両者の国家改造イメージにはそれほどの違いはなく、立憲君主制下の政党政治や議会政治を排し、軍主導の高度国防国家を建設すること。また、資本主義・自由主義経済から統制経済へ移行すること。尊皇思想に基づく一君万民平等の道義国家を建設すること等については、ほぼ一致していたのです。違いは、そうした国家改造を進める主体の問題であって、前者は自らを明治維新における脱藩浪士に自己同定し、後者は、当然のことながら自らをその推進主体としていました。そこで、軍の統制回復を主張したのです。

 この両者の立場が微妙な形で交錯したのが、天皇機関説問題とそれに引き続く国体明瞭問題でした。一般的にこの問題は、軍が、明治憲法下の日本の政治体制の解釈を、立憲君主制から天皇親政に転換するために起こしたもののように理解されています。しかし、実際は、この運動を積極的に推進したのは統制派ではなくて、皇道派に属する軍人たちでした。統制派はこうした学問上の問題には当初はそれほど関心を持っていませんでした。それを象徴するのが真崎甚三郎に代わって教育総監となった渡辺錠太郞でした。

 もちろん、この運動は、蓑田胸喜という一種異常人格の持ち主によって引き起こされた美濃部達吉の天皇機関説攻撃(s9.6.6)に端を発していました。しかし、裁判では美濃部は不起訴となった。ところが、この問題を貴族院本会議で菊池武夫らがとりあげ(s9.11)、さらに衆議院本会議でも山本悌二郎が国体に関する質疑(s10..3)を行ったことから、俄然この問題は政治問題化しました。その結果、貴族院で政教刷新建議が可決され、衆議院でも国体明徴に関する決議が採択されました。

 こうして、この問題は、憲法解釈の学理論とは全く関係なく、政治的・社会的問題として紛糾を重ねることになったのです。ここでも、統帥権問題と同じく、政治家が、それを政治問題化することにおいて決定的な役割を果たしていることに注目する必要があります。

 その結果、4月には、真崎教育総監が、機関説が国体に違背する旨の訓示を発し、内務省は同博士の『逐条憲法精義』他3冊を発禁処分とするなどしました。さらに、本問題は革新(右翼)団体だけでなく、反政府立場にあった政友会が「国体明徴のための徹底運動」を起こすに至り、ついに政府は、8月3日、国体明徴に関する次のような声明書を出すに至りました。この結果、美濃部博士は起訴猶予処分を受け参議院議員を辞することになりました。また、10月15日には、政府は重ねて「国体明徴声明」を出しました。

 「恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、我が国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り昭示せらるゝ所にして、万世一系の 天皇国を統治し給ひ、宝祚の隆は天地と与に窮(きわまり)なし。・・・即ち大日本帝国統治の大権は 天皇に存すること明なり。若し夫れ統治権が 天皇に存せずして 天皇はこれを行使するための機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。近似憲法学説を繞(めぐ)り国体の本義に関連して兎角の論議を見るに至れるは寔(まことに)遺憾に堪えず。・・・」 

 注目すべきは、こうした運動の背後には、皇道派系右翼団体による倒閣の動きがあったということです。これに対し、軍当局は、最終的には「郷軍各支部長宛これらの団体の策動に乗ぜられないよう」警告を発しています。では、この結果どういうことになったか、ということですが、実は、この運動の「究極目標は自由主義現状維持陣営(元老西園寺公望、牧野伸顕、斉藤実、蔵相高橋是清、枢相一木喜徳郎ら)の徹底的排撃にあったということです。

 すなわち、「三十年来唱道されてきた憲法学説を一朝にして崩壊せしめ、政党財閥特権階級の現状維持陣営と通ずと目さるる法律権威者を社会的に葬り、その陣営の一角を突破」することが革新(右翼)陣営の目的だったのです。そして、これに成功した結果、従来、国体観念についてのはっきりした理論もなく、直感的かつ個人的な関係に止まりがちであった革新(右翼)陣営(皇道派青年将校を含む)は、この「国体明徴」の標語の下に戦線統一を組むようになりました。(『右翼思想犯事件の総合的研究』司法省刑事局)

 こうした動きに内心警戒心を強めていたのが林陸相でした。彼は、陸軍の統制強化の必要という点で、統制派に属すると見なされていた軍務局長永田鉄山らと意見を同じくしていました。そこで、皇道派青年将校らに同情的な教育総監真崎甚三郎を辞任させ、代わって渡辺錠太郞を教育総監としました。ちなみに渡辺は、天皇機関説問題については、特にこれを不都合としていませんでした。こうした人事に憤激したのが皇道派で、その一人相沢三郎中佐は、白昼堂々陸軍省軍務局を訪れ、永田鉄山軍務局長を斬殺しました。(s10.8.12)

 この相沢三郎中佐の公判中、昭和11年2月26日に発生したのが二・二六事件で、教育総監渡辺錠太郞は真っ先に蹶起将校に襲われ殺害されました。こうした軍内部の派閥争いの熾烈さには全く恐れ入ります。というのは、両者の国家改造イメージにはそれほどの違いはなく、ただの主導権争いのようにも見えるからです。なにより不思議なのは、二・二六事件後、反乱軍を指揮した青年将校らが処刑された後、国民を支配することになった思想は、彼ら皇道派青年将校らが唱えた「現人神」尊皇思想でした。

 つまり、この「現人神」尊皇思想は、この皇道派青年将校らが国体明徴問題で政治問題化して以降、社会一般に浸透していったものなのです。そして、この思想の理論的指導者であった平泉澄は、この後、文部省に設置された教学刷新会議の委員となり、文部省はこの刷新会議の答申を受けて、次のような「国体の本義」なるパンフレットを全国の学校に配布しました。こうして、日本の学問と教育は、「上から下まで『国体観念、日本精神を根本とする』方向で刷新されることになったのです。(『天皇と東大(下)』

 「忠は(略)天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨てて私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。(略)されば天皇の御ために身命を捧げることは、いわゆる自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。(略)実に忠は(略)我が国民道徳の基本である。」(『国体の本義』「忠君愛国」の項)(『天皇と東大(下)』p162)

 いうまでもなく、こうした思想は、平泉が説いた尊皇思想に基づくものでした。平泉は、昭和7年以降、軍部から高く評価されるようになり講演依頼を受けるようになりました。昭和9年には、当時士官学校の幹事をしていた東条英機少将に招かれ、海軍大学校や陸軍士官学校で講義を重ねました。また、士官学校の国史教程を平泉が編纂し、その弟子が士官学校の教官となるなど、平泉の精神で「陸軍士官学校を全部立て直した」というほどになりました。また彼の私塾「青々塾」には陸士41期から50期まで、30名前後の軍人が正式に塾生になっています。(上掲書p221、p270)

 しかし、そんな平泉も、二・二六事件以降は、彼の思想がこの事件の背景にあったのではないかと疑われ敬遠されることになりました。そのため、その後は、近衛のスピーチライターのようなことをしていましたが、昭和15年7月、第二次近衛内閣がスタートすると、平泉は、戦意高揚のための講演活動で全国を駆け巡るようになりました。その「平泉の思想のエッセンスは、先ほど紹介した「国体の本義」と同じもので、「日本精神の極致は『忠』の一字に帰着する」・・・日本人の忠義は天皇ただ一人にあり、その究極の表現は命を捧げること」というものでした。

 それは天皇に対する絶対忠誠を説くもので、従って、二・二六事件のような天皇の意思に反するクーデター事件を起こすなどということは、その「目的がいかに立派であってもそうした行動は一切許されない」としました。そのため、この事件を知った平泉は、直ちに首相官邸に行き、反乱軍の指導者に会ってその行為が国体に違背するゆえんを説き、速やかに撤兵して天下に謝罪するよう勧告、もし聞き入れないならば、一撃を持って天誅を加えなければなりません」といい、青々塾生二人に案内を頼み、一緒に死んでいただけないでしょうか、と言ったといいます。(上掲書p267)

 このように、いわゆる天皇に対する反逆は一切認めないとするのが平泉の思想だったわけですから、軍部が彼の思想を歓迎したのも判ります。といっても、彼ら軍人は、皇道派青年将校の場合にしても、究極的には、天皇に対する絶対忠誠より、自ら自身の思想信条を優先させたわけですし、また、東条英機ら統制派の幕僚青年将校は、張作霖爆殺事件にしても、満州事変にしても、天皇の意思は全く無視して軍事行動を起こした、つまり天皇を「機関説」扱いしていたわけですから、平泉の思想は、彼らにとって、思想というよりむしろ「美学」だった、というべきかも知れません。

 しかし、「この平泉史学の骨髄をなす天皇絶対、行学一致の精神は、大東亜戦争の全課程を通じ、戦場の全域において、皇軍が壮烈な戦闘を展開し、時に戦勢非なるに当たってもなお鬼神を泣かしめる奮闘をなし、天皇陛下の万歳を唱え、笑って参加していった、狂信的とも思われる若い将校の行為の強い支えとなっていたのではないかと、私は常に考えているのである」と、青々塾生で平泉の高弟であり、阿南陸相の自刃を見届けた陸軍省内務班長竹下正彦中佐は述懐しています。(上掲書p223)

 つまり、この思想は「生の哲学」としてではなく「死の哲学」として機能したということです。では、この思想は日本の伝統思想のどこから生まれたか。「政治権力を持たず、文化的権威のみを持って、国民統合の象徴として存在してきた日本の伝統的天皇制」と、それとは、どのように関わっているのか。なぜ、この思想は、昭和10年の「国体明徴運動」以降、日本国民の精神を支配するようになったのか。私たちは、こうした疑問に対し納得できる答えを探さなければなりません。

  そこで、いよいよ、その思想=「現人神天皇制」の思想的淵源を探った、山本七平の天皇制論に入ることになります。が、その前に、この頃の日本の知識人が、以上紹介したような「国体明徴運動」前後の、訳の判らない思想的混乱状況を、どのように見ていたのか。また、それをどのように克服しようとしていたのかを、見ておきたいと思います。学理的には誠にばかげた天皇機関説問題が、国体明徴運動によって政治問題化した結果、「現人神天皇制」が現出することになったわけで、この「不思議」を彼等は思想的にどのように解釈しようとしたのかが問題となるからです。

最終校正11/9 22:00

 

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