昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――青年将校を政治に引き込んだ「森恪」という政治家
昭和の青年将校はなぜ暴走したか2で、第二次山東出兵に伴って起こった済南事件について説明しました。この事件についての中国側の死者が三千名を超えるという被害報告は、児島襄氏の『日中戦争』の戦闘経過を見る限り、私にはいささか誇大な数字のように思われます。しかし、済南の商埠地における両軍の衝突事件が収まって後の、日本軍による済南城の無差別砲撃と占領が、中国側に甚大な人的被害をもたらしたことは疑いありません。それは単に”武威を示した”というに止まらず、中国の国家統一事業である北伐を妨害したものと受けとられても仕方のないものでした。
この事件については、『森恪』(森恪を「東亜新体制先駆」として称揚した伝記。山浦貫一著)でさえも、「而して第二次山東出兵は、田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路となったものである。」と記しています。(上掲書p691)それほどこの事件は、その後の日中関係を血みどろの仇敵関係に変えた運命的な事件だったのです。
一般的には、昭和における軍部の暴走は、張作霖爆殺事件に始まると説明されます。しかし、この事件は全く愚劣としかいいようのない事件で、なぜこのような、時の首相(田中義一、陸軍大将)の意向を無視した暴虐な事件が起きたのか説明が難しいのです。というのは、これは河本大作の個人的謀略ではなく、「関東軍と陸軍中央部の張作霖排斥という総意を背景としており、満洲の治安維持のための、さらには『満州問題』一括解決のための強硬手段として行われたもの」だったからです。では一体なぜ、政府と陸軍の間に満州問題解決方針をめぐるこれほどの食い違いが生じたか。
張作霖爆殺事件は、済南事件後の蒋介石の北伐にいかに対処するかをめぐる政府と陸軍の対立から生まれたものです。事件後蒋介石は済南を迂回し、さらに北上して進撃を続け、五月中旬には張作霖大元帥のいる北京陥落も時間の問題となりました。日本政府は、北伐軍の進出がやがて満洲の治安に影響することは必至と見て、北京政府(大元帥張作霖)及び南京政府(国民革命軍総司令蒋介石)に対して、「戦乱が満洲に波及の場合は治安維持の為適当有効の措置をとる」との「五・一八覚書」を交付しました。併せて張作霖に対して、奉天への引き揚げを勧告しました。
問題は、この「覚書」を田中首相から芳沢在北京公使に訓令した電報(5月16日)に「措置案」が示されていて、そこに次のような指示が記されていたことでした。
「張作霖の軍隊が京津地方において戦闘が始まる前に、満洲へ引き揚げるならばこれを許容するが、もし革命軍と交戦して敗北し、あるいは両軍著しく接近した後満洲へ逃げ込む場合には、張作霖軍といえども国民革命軍と同様に、武装解除せずに長城以北に入ることを阻止する。」また、武装解除は「奉天軍か京奉線ニヨリ退却セントスル場合ノミナラス、熱河方面ヨリスル場合ニ於イテモ同様ナル次第ニ付此辺誤解ナキ様充分徹底セシメラレ度」(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p74)
つまり、「日本軍が満鉄の沿線を警備することは条約上の権利であるが、満鉄沿線に中国軍の戦渦が波及するのを防ぐという主旨を超えて、山海関の線から北には、戦闘しつつある中国軍は一歩も入れず、全部武装解除する」ということが示唆されていたのです。もちろんこうした行為は、条約上の根拠などもない、まさに重大な内政干渉といえるものでした。そして、この電報は必ずしも田中外相(田中首相の兼任)の意志ではなく、軍部と結びつきを強めていた外務省内の森恪政務次官の提案によるものとされます。(上掲書p75)
こうした奉天軍及び国民革命軍を山海関または錦州において武装解除させるという方針は、すでに第二次山東出兵が閣議決定された翌日4月20日に、「支那時局ニ対スル意見」として、関東軍の斉藤恒参謀長より畑英太郎陸軍次官に上申されていました。また、5月16日の外務省亜細亜局と陸軍省軍務局の間で作成された「措置案」には、張作霖に対する下野勧告も含まれていました。しかし、5月18日に閣議決定された「支那軍隊武装解除ノ主義方針」では、こうした陸軍(白川陸相)の張作霖下野要求は、田中首相及び各閣僚の反対により削除されました。(上掲書p79)
実は関東軍は、東方会議(s2.6.27~7.7)の前後より張作霖の排日的傾向に憤慨し、失脚の機会をうかがっており、張排斥の意向を陸軍中央部に訴えていました。「五・一八覚書」交付の際には、満洲にいる張作霖軍と国民革命軍のいずれを問わず、武力を用いて武装解除を行うべきを主張し、これを機会に関東軍の満州全域の出動をねらって、その主力を奉天に集結し、錦州出動の計画にそなえて京奉線による軍隊の輸送準備に着手していました。そして陸軍中央部もこの関東軍の計画を全面的に支持し、かつ実行させようとしていました。
これに対して、田中首相は、南北両軍の武装解除に関する方針決定において、はじめから関東軍を錦州に出動させる考えは全くなく、まして張作霖に引退を強要し、蒋介石の北伐不支持を強行しようとする意図は持っていませんでした。また、蒋介石の国民革命軍は北伐は長城以南で一応打ち切り、満州には侵入しないと婉曲に内示していました。(上掲書p90)一方北軍も、張作霖の個人的不満はあったにせよ、戦局的には敗北が濃厚であり、結局日本側の勧告に従い満洲引き揚げを得策と判断していました。(上掲書p83)
田中首相はこうした情況をよく把握し、かつこの機会を利用して、山本(条太郎)満鉄社長に張作霖と交渉させ、懸案となっていた満蒙の鉄道を増設し、この沿線に土地所有権などを獲得し、資源を開発することで日本の勢力を伸ばそうとしていました。そのためには、東三省政権の温存、張作霖政権の政情安定は、日本の満蒙権益の積極的な擁護拡大にとって必要不可欠だと考えていました。この点で、森恪や軍部が考えていた、日本の「武力によって満洲に傀儡政府を樹立」しようとする満洲独立論とは意見を異にしていました。
このように、満州問題の解決策をめぐる政府と陸軍の方針が食い違っていたにもかかわらず、先に紹介した「五・一八覚書」の「措置案」には、陸軍の方針を許容するかのようなことが書かれていたのです。そのため、関東軍はあくまでも奉天軍の東三省頓入を阻止し武装解除するため錦州出動を要請し、そのための奉勅命令を待つことになったのです。しかし、張作霖の北京撤退がいよいよ現実となったにもかかわらず、ついに奉勅命令は下りませんでした。このことに対する関東軍の不満・憤激が、張作霖爆殺事件という形で暴発することになりました。
実は、こうした政府と陸軍の満洲問題解決をめぐる方針の食い違いは、この「措置案」(s3.5.16)により初めて明らかにされたというわけではなく、蒋介石の第一次北伐に対処するための第一次山東出兵あたりから、田中首相と森恪外務次官との間で顕在化していました。この間の事情を『東亜新体制の先駆 森恪』では次のように説明しています。
「始め、この出兵に対しては政府部内、殊に陸軍に異論があった。森は、在野時代に積極外交を唱へ、郭松齢事件、南京事件に対して、若槻内閣が機宜の処置を誤ったことを非難していたので、山東出兵の急務を主張したことはいうまでもないが、軍部方面では、出兵によって不測の紛争を惹起する危険があるとして反対を称える者があった。田中総理も、取捨に迷い躊躇の態度で、天津から二ヶ中隊位を青島に派遣してはとの折衷案を提出してきた。しかし、森は、政府がこの政策を決定することが出来なければ、政友会の党議として、出兵、現地保護の要求をすべしとなし『若し、田中が肯かなければ、総裁を引退させる』と、非常な勢いで、強引に廟議を決定せしめたのである。」(上掲書p608)
結局、昭和2年5月27日、第一次山東出兵は閣議承認されました。しかし、田中首相は、「出兵に際しては派遣軍を青島にとどめ、済南進出は山東戦局の変化の如何に応ずるという条件をつけ、また派遣軍の行動に関しても内政干渉にわたらぬような厳密な規制を加え」ました。さらに、同日、英・米・仏・伊の四カ国代表を外務省に招致して、山東出兵の理由を説明」し、「中国における出来事は中国人自身によって解決させるべきであるが、ただ在留邦人の保護に関しては十分なる措置を講ぜざるを得ない」と強調しました。さらに南北両軍にも同様の主旨を伝えました。(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p41)
しかし幸い、この時は武漢に政変が起こって国共分裂し、武漢の国民党と南京政府の間に合体の議が起こり、武漢派は合体の条件として蒋介石の下野を要求したので、蒋介石は一旦北伐を断念して兵を後退させることにしました。これに伴い日本政府は撤兵することに決し、9月8日を以て全師団の撤兵を完了しました。しかし、その「撤兵声明」の末尾には、「将来支那に於いて、ひとり同方面のみならず、日本人居住地にして治安定まらず、為に禍害再び邦人に及ぶの虞ある場合には、帝国政府として機宜自衛の措置をとるの已むを得ざるものあるべし。」との「政友会即森の南京事件以来の積極政策の表現」が附されていました。(『森恪』p611)
その後、一時下野していた蒋介石は、9月末日日本に亡命、その後来日して昭和2年10月13日には東京に入りました。その目的は、国民革命に対する日本朝野の意見を打診し、田中内閣の方針を革命承認に導くためでした。そして田中首相及び森と会談し、おおむね次の点について双方の了解が成立しました。
一、共産党と分離し、ソ連と断った後の国民革命の成功、支那の統一を日本が認める。
二、満洲に対する日本の特殊地位と権益を支那は認める。
さらに11月5日には田中首相の青山私邸で会談がもたれ(この時は森恪不在)、田中は、「国際関係の許すかぎり、また、日本に利権その他を犠牲とせざるかぎりにおいて蒋の全国統一事業に対して援助すると伝え、・・・さらに北伐をなしうるのは蒋をおいて他にいないとも言い切った。そして、日本は決して張作霖を援助しておらず、日本の願うところはただ満洲の治安維持であるとも主張した。(これは森恪には伝えず)」(『近代日本の外交と軍事』p53)さらに、その後、蒋の意を受けた張群が来日して田中と会談し「もし日本が張作霖を北京から横転に引き揚げさせるならば、国民革命軍もあえて張作霖に追い打ちをかけない、という黙契ができあがった」とされます。(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p54)
昭和4年1月4日蒋介石は再び迎えられて南京政府の主席となり、9日総司令に復職しました。その後、蒋介石は党内の陣容を整備して着々戦備を進め、一方、閻錫山、馮玉祥とも連携して、第一集団軍十五万の部隊編成を行い、3月16日、北伐を再開しました。蒋介石は4月1日、徐州入城の前日、岡本在南京領事と会い、「済南方面居留民保護ニ付イテハ自分ハ断シテ責任ヲ負ウヲ以テ重ネテ出兵スルカ如キ事無キ様日支間ノ為ハ勿論朝野ノ同情ヲ表セラルル自分ヲシテ成功セシムル意味ニ於イテモ是非御一考ヲ請ウ」と日本側に伝えました。
4月7日、蒋介石軍は津浦線上、馮玉祥軍は京漢線上、閻錫山軍は京綏線よりそれぞれ北上を開始し4月10日、北伐軍の張作霖軍に対する総攻撃を命令しました。4月17日には済寧が馮玉祥軍の支配下におかれました。そして、奉天軍主力が済南及び膠済沿線に後退すると、それを追って国民革命軍が再び済南に迫ってきました。こうした情況の中で、4月16日、済南駐在武官酒井隆歩兵少佐(例の済南事件の被害状況を極めて誇大に報告し、陸軍中央部の強硬策を煽った人物)は、鈴木宋六参謀長宛、済南への出兵を要請しました。
しかし、「田中首相は先の蒋介石との諒解によって、第二次済南出兵には寧ろ反対でした。(それは)出兵する結果が、革命軍の北伐、支那の統一を妨げる」ことを恐れたためでした。ところがこの時も、第二次出兵を主張した急先鋒は森恪でした。森はその理由を、先の撤兵声明の末尾に述べられた、かねてより政友会の主張してきた「居留民の現地保護政策」を守るためであるとしました。(『森恪』p617)こうして、4月19日、天津の支那駐屯軍より歩兵三個中隊、内地より第6師団(約5,000名)の出兵が決まりました。
4月20日には、関東軍は参謀長命で「奉天軍敗走の場合」、満蒙治安維持のためには軍の主力を「山海関マタハ錦州方面ニ進メ」、奉天軍・国民革命軍のいずれの侵入をも許さず、武装解除しなければならないとする意見を中央に具申しました。これは関外全体を戦闘禁止区域として特殊化しようとするものでした。さらに5月2日の意見書では、「南北対戦ノ現時局ハ我カ満蒙問題ノ根本的解決ヲ期スベキ絶好ノ機会」とし、張作霖を排して「帝国ノ要望ニ応スル新政権ヲ擁立シ、該政府ヲシテ支那中央政府ニ対シ独立ヲ宣セシムルコト緊要ナリ」と訴えました。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p62)
この直後の5月3日に、済南に出兵した第六師団と国民革命軍の衝突事件が起こったのです。しかし、同日深夜には停戦が実現し4日午前中には戦闘は終熄し、中国側は軍隊を済南より引き離し北上させました。従って、事件はここで外交交渉に移されて然るべきでした。ところが参謀本部は、「国軍ノ威信ヲ顕揚」するため「断固タル処置」をとるよう第六師団に指示し、第六師団も「支那問題ノ解決ニ一歩ヲススムル為、南方ニ対シ断然タル膺懲ノ挙二出ツル好機ナリト信ス」と答えました。こうして福田第六師団長は中国側に、回答期限を12時間後とする強硬な要求書を突きつけ、時間切れの8日午前4時、済南城に対する総攻撃を開始したのです。
この時、参謀本部は一師団増派の方針を決め、5月5日には参謀本部から陸軍大臣に対し「最早軍ノ問題ニシテ政策に左右セラレルヘキモノニアラス、動員一師団ハ断乎トシテ増派セサルベカラザル旨ヲ通告」しました。問題は、ここで、参謀本部により政府の政策に左右されない「軍の問題」なる領域が設定されたことで、軍の独断→現地交渉→軍事力行使ということが、済南事件を通して実行されたことです。これによって、「統帥権の発動により満鉄付属地外への出動命令さえ得れば、さまざまな工作の余地が生ずることを実例を以て示した」ことになりました。(上掲書p64)
こうした第二次山東出兵を第一次出兵と比較すると、次のようなことがいえます。
それは「第一次山東出兵の時ほどの慎重さが全くなく、しかも欧米列国に対する事前説明も熱心に行われず、とくに済南派遣軍の行動は全く異なった。第一次出兵のさいには完全に総領事の状況判断の下に決定され、しかも済南は自開商埠地にして外国疎開ではないとの配慮から、・・・在留邦人を要所に集結して保護するという、派遣軍に対する行動の制限を厳しく規定していたが、第二次山東出兵の場合は全く総領事の権限、判断、意向を無視する形で、在留邦人の保護を第一の目的とするよりは、軍の威信、武威を主張して、まさに直接蒋介石との外交交渉にまで立ち入る態度をとり、しかも済南城の占領を行ったのである」(上掲書p68)*8/18挿入
その後、国民革命軍は済南事件にもかかわらず北上を続け、張作霖の関外敗走が時間の問題となるや、田中内閣は5月16日の閣議において戦乱が満洲に波及する場合には張作霖及び南京政府の双方に対し「帝国政府としては満洲治安維持のため適当にして且つ有効なる措置をとる」旨の「覚書」を交付しました。この覚書に付された「措置案」に、先に紹介したような、武装解除は「奉天軍カ京奉線ニヨリ退却セントスル場合ノミナラス、熱河方面ヨリスル場合ニ於イテモ同様ナル次第ニ付此辺誤解ナキ様充分徹底セシメラレ度」という、森恪が付したといわれる文面があったのです。
このため、関東軍は、主力を奉天に集中して錦州方面への出動態勢を整えました。彼らはこの出兵に奉勅命令を得ることによって、敗走してくる張作霖軍を武装解除し、満蒙独立政権樹立の機会をつかもうとしました。一方、田中首相は、張作霖を説得して整然と満洲に退却させるとともに、国民革命軍の関外追撃をあきらめさせる方向で動いていました。そして、こうした構想が実現できる見通しとなったため、関東軍の出動を命ずる奉勅命令は出されませんでした。この時、関東軍に蓄積された不満が、6月4日高級参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件になったのです。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p64)
河本大作は、これによって満洲に政治的混乱状態を引き起こし、関東軍の出動の機会を創出し、満蒙独立政権を作り出す手がかりを得ようとしました。しかし、奉天軍は穏忍自重してその挑発に乗らなかったため、この陰謀は不発に終わりました。そのため、張作霖爆殺は、満蒙分離をねらった河本等の思惑とは逆に、張学良(張作霖の息子)と国民政府の妥協の条件を作り出し、昭和3年12月29日には、東三省にいっせいに青天白日旗がひるがえることになりました。さらに、知日派であった国民政府外交部長の黄郛が失脚し、代わって王正廷が外交部長となり、革命外交と称する排日外交を繰り広げることになりました。
よく満州事変の原因として、張学良が条約によって認められた日本の満州における特殊権益を侵害したことが指摘されます。だが、こうした条約が遵守されるためには、条約締結国相互間に外交上の信頼関係があることが必要です。確かに第一次山東出兵あたりまではそれは確保されていました。しかし、第二次山東出兵においては、外交より軍事力が優先され、それを象徴する事件として済南事件が発生、次いで、北伐に破れ満洲に頓入する張作霖軍の武装解除を目指した関東軍の錦州出動の要請と挫折、その帰結としての張作霖爆殺事件の発生、これによって、日中間の外交上の信頼関係は根底から破壊されてしまいました。
ところで、先に紹介した『森恪』伝では、済南事件後、関東軍が張作霖軍の武装解除を目指して錦州出動を政府に要請した時、田中首相がこれを認めてさえいれば、平成6年の満州事変よりはるかに容易に、満洲の分離独立が可能であったといっています。「我が大陸政策の遂行上千歳の好機を逸した」ことが、やがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相克抗争を続けることになったとも・・・。だが果たしてそうか、外交より軍事力を優先し、政治に軍人(とりわけ青年将校)を引き込み、日中間に血みどろの相克抗争を運命づけたのは、政治家森恪その人だったのではないでしょうか。


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