望月五三郎『私の支那事変』の「件の箇所」は、後から誰かが挿入したのではないか?
そこで、その部分を飛ばして、その前後の「この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞讃され一躍有名になった人である」と「終戦后、連合軍は両少尉を如何に処置したか」をつないでみると、論理的にも「すんなりと」つながり、文脈上の不自然さはなくなる。
本書は昭和60年7月1日の刊行である。この頃は、いわゆる「百人斬り競争」の「やらせの構造」が、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、山本七平によって解明され、これに対して、本多勝一氏等が、「百人斬り競争」は「捕虜据えもの斬り競争」であったとして、双方の激しい論争が繰り広げられていた時期であった。
だが、本書は、あくまで支那事変に参加した一兵士の回想禄であり、その中に「百人斬り競争」に関する記述があれば、当然、それは、その前後の記述と文脈上の整合性がとれていなければならない。
ところが、その前節「小学校」では、「支那の子供たちが日本兵に対してはあまりにも好意的ではないか、教えられたことに反して、自国支那兵より日本兵の方が質が良いではないか、と子供の判定は清く正確である」と日本兵の質の良さを、高く評価しているのである。
続いて、戦後の日教組教育に対して「本当の心の教育は親にまかせて、あなたたちは、教材通り国語、地理、数学を教えてくれるだけで良い、情操教育は教育勅語を基本に行ふべきであると思ふ」「現今の国際的経済戦争場裡にたって、義を重んじないで、勇気なくして、公に奉仕せずして、勝てるであろうか、どうか子供達を曲っだ方向に進めさせないでほしい」と、「義勇公に報じる」教育勅語の精神の重要性を説いているのである。
さらに、この「百人斬り=捕虜据えもの斬り」説を節裏書きするような記述の後には、辻政信の『潜行三千里』の、「百人斬り競争」裁判で処刑された二少尉に関する次のような記述が引用されている。
「この二人は一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証據不充分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお蔭で、どんなに弁明しても採上げられず。ただ新聞と小説を証據として断罪にされた」。つまり、「百人斬り競争」という無責任な記事を書いた新聞及び、その新聞記事を証拠として二少尉を処刑した南京裁判を批判しているのである。
もし、望月氏が、本当に二少尉の農民を血祭りに上げる「百人斬り競争」を実見していたなら、なぜ、二少尉が新聞記事を根拠に南京裁判で不法に処刑されたとする辻政信の本を引用・紹介したのだろうか。おもしろいのは、ここでは「某紙」となっているが、言うまでもなくこれは毎日新聞であり、そして、この『潜行三千里』は毎日新聞社の出版だと言うことである。ということは毎日新聞も当時同様の見解を持っていた?
また、この引用文では、「永い間の戦争で、中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無であることは勿論であるが」となっているが、『潜行三千里』の原文では「罪は絶無でないことはもちろんであるが」となっている。どうしてここで「罪は絶無であることは勿論であるが」と書き換えたのだろうか。
さらに、この引用文の末尾は「証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石となろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。
年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって。天皇陛下万才’を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった」となっている。
これは、両少佐の運命に対する同情と、その最後の立派な態度への賞賛の言葉ではないか。もし、望月氏が、二少尉の「農民百人斬り」を実見し、それを「世界戦争史の中に一大汚点」と考えているのであれば、引用するはずのない言葉ではないか。さらに、末尾に添えられた句は、一茶の”やれ打つな 蝿が手をする足をする”である。これも、両少尉の運命に対する同情がなければ出てこない句である。
以上のように見て、私は、この本の中の「農民百人斬り」の記述は、既に出来上がっていた、つまり、この箇所抜きの『私の支那事変』の当該箇所に、何らかの理由で後から挿入されたものではないかと考えるようになった。この本の「あとがき」に「断片的な私の覚え書きでは、戦闘の場所、日時がおぼろげで、どうしても一線につながらなかった。幸にして山本重一君、水口浩一朗君の資料と記憶、助言をかりて、やうやく一本の線にむすびつけることが出来た」とある。この過程で挿入されたものなのかもしれない。
次に、上記の二節の全文を紹介するので、皆さんはこれを読んで自分の頭で考えて欲しい。「百人斬り競争」裁判では最高裁判所もこれを証拠として採用し、歴史学者の秦郁彦氏も重要な証拠としているものであるが・・・。
望月五三郎『私の支那事変』から
小学校 昭12・11・26
○○小学校へ炊事の薪を徴発するため校内に入った。校内外共に荒れ果て、机や椅子が所かまわず散乱している。
日本軍は今来たばかりなのに、何故こんなに荒れているのか、支那兵の横暴振りがうかがえる。
黒板には下手な字で、”打倒日本鬼””徹底杭日””誓復仇敵””……” ”……”大小取りまぜての落書である。
支那兵がうっ憤ばらしに、書残して退却していったのである。教室の壁には色々な教材用の掛図がつるしてある。
日本兵が銃剣で支那人を突きさしている図、日本兵が支那人をうしろ手にしばりつけ、つるし上げている図、
姑娘を拉致して、そのあとから母親が哀願している図、
支那人を二、三人坐らせて列べ、うしろで軍刀をふり上げている、その中の一人の首が血をふいて前にころんでいる。 ・
支那人を火あぶりにしている図等々、
その図の隅に説明書きがある。日本人は惨虐鬼畜な民族で、我々同胞はかくの如き悲惨な目にあはされている。大体は判読出来た。
その図に書かれた服装は日清戦争当時のもので支那人は弁衣を着、日本兵は黒い軍服で胸に黄色い助骨が書いてあり、軍帽のふちは赤色になっていた。
この掛図は相当昔から掲げたものであることは、色が可成あせていたことから想像出来る。
古くは、義和団事件、満州事変、上海事変、そして今また支那事変と続く戦火にさいなまれた強烈な敵愾心が、斯く語り、斯く数えこまれてきたのである。
しかしながら、私は判断に苦しむ、ある皮肉を感じた。これだけ激しい抗日思想をたたき込まれた、支那の子供たちが日本兵に対してはあまりにも好意的ではないか、教えられたことに反して、自国支那兵より日本兵の方が質が良いではないか、と子供の判定は清く正確である。
そこで今私は現在の子弟教育方針に対し、一言意見がある。
現日教組の教育方針は文部省を手こずらし、PTAのPを心配させている。日本の子供達は恵まれた環境に育ってすくすくとのびている。本当の心の教育は親にまかせて、あなたたちは、教材通り国語、地理、数学を教えてくれるだけで良い、情操教育は教育勅語を基本に行ふべきであると思ふ、教育勅語の中で”朕”がいけないと云ふ、天皇は”私”と云っておられる。”義勇奉公”が軍国主義に通ずると云ふ、
現今の国際的経済戦争場裡にたって、義を重んじないで、勇気なくして、公に奉仕せずして、勝てるであろうか、どうか子供達を曲っだ方向に進めさせないでほしい。
○孟女三還の教え(烈女伝)
百人斬り 昭12・11・27~昭12・11・28
線路にそって西へと進む、無錫の手前八㎞あたりで、敵の敗残兵約二ヶ中隊に遭遇し、激戦の末、約三〇名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。
速射砲が敵陣の壁目がけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にもう弾は壁を砕いている物猛い破壊力である。
引続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する。援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊長怒り心頭に達する。
やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。
常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。
「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。
このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始まるのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞讃され一躍有名になった人である。
「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に坐る。少尉の振り上げた軍刀を脊にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を聯隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
この残虐行為を何故、英雄と評価し宜伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから支那兵と支那農民をぽかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。
今戦争の姿生(まま)かうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。
終戦后、連合軍は両少尉を如何に処置したか、ここで。潜行三千里の著者、元参謀辻政信大佐の手記を引用してみる。
彼は敗戦の報を知って、戦犯をのがれるためビルマ、タイ、仏印、昆明、重慶へとのがれ南京に至って支那の重臣の被護の許に、混乱する状況下で共産軍毛沢東に対処する戦略をアドバイスしていた。それから戦犯容疑が時効となり日本に帰ってきたときのことである。
野田、向井両少佐が南京虐殺の下手人として連行されてきた。この二人は一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証証據不充分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお蔭で、どんなに弁明しても採上げられず。ただ新聞と小説を証捷として断罪にされた。
永い間の戦争で、中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無であることは(『選考三千里』の原文では”絶無で「ないことは」”となっている。)勿論であるが、証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。
両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石となろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。
年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって。天皇陛下万才’を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった。
◎やれ打つな 蝿が手をする足をする(一茶)
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