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カテゴリー「日本近現代史をどう教えるか」の記事

2021年9月23日 (木)

望月五三郎『私の支那事変』の「件の箇所」は、後から誰かが挿入したのではないか?

 私は、十三年ほど前、靖国神社境内にある偕行文庫で『私の支那事変』のコピーをとり、その中の「百人斬り競争」の部分を読んで、ある疑念を抱かざるを得なかった。というのは、この本の「小学校」の節から「百人斬り競争」の節までの文を通読して、「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」から、「世界戦争史の中に一大汚点を残したのである」までの文に、異質な「はめ込み画」を見るような違和感をおぼえたからである。
 そこで、その部分を飛ばして、その前後の「この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞讃され一躍有名になった人である」と「終戦后、連合軍は両少尉を如何に処置したか」をつないでみると、論理的にも「すんなりと」つながり、文脈上の不自然さはなくなる。

 

 本書は昭和60年7月1日の刊行である。この頃は、いわゆる「百人斬り競争」の「やらせの構造」が、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、山本七平によって解明され、これに対して、本多勝一氏等が、「百人斬り競争」は「捕虜据えもの斬り競争」であったとして、双方の激しい論争が繰り広げられていた時期であった。

 

 だが、本書は、あくまで支那事変に参加した一兵士の回想禄であり、その中に「百人斬り競争」に関する記述があれば、当然、それは、その前後の記述と文脈上の整合性がとれていなければならない。

 

 ところが、その前節「小学校」では、「支那の子供たちが日本兵に対してはあまりにも好意的ではないか、教えられたことに反して、自国支那兵より日本兵の方が質が良いではないか、と子供の判定は清く正確である」と日本兵の質の良さを、高く評価しているのである。

 

 続いて、戦後の日教組教育に対して「本当の心の教育は親にまかせて、あなたたちは、教材通り国語、地理、数学を教えてくれるだけで良い、情操教育は教育勅語を基本に行ふべきであると思ふ」「現今の国際的経済戦争場裡にたって、義を重んじないで、勇気なくして、公に奉仕せずして、勝てるであろうか、どうか子供達を曲っだ方向に進めさせないでほしい」と、「義勇公に報じる」教育勅語の精神の重要性を説いているのである。

 

 さらに、この「百人斬り=捕虜据えもの斬り」説を節裏書きするような記述の後には、辻政信の『潜行三千里』の、「百人斬り競争」裁判で処刑された二少尉に関する次のような記述が引用されている。

 

 「この二人は一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証據不充分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお蔭で、どんなに弁明しても採上げられず。ただ新聞と小説を証據として断罪にされた」。つまり、「百人斬り競争」という無責任な記事を書いた新聞及び、その新聞記事を証拠として二少尉を処刑した南京裁判を批判しているのである。

 

 もし、望月氏が、本当に二少尉の農民を血祭りに上げる「百人斬り競争」を実見していたなら、なぜ、二少尉が新聞記事を根拠に南京裁判で不法に処刑されたとする辻政信の本を引用・紹介したのだろうか。おもしろいのは、ここでは「某紙」となっているが、言うまでもなくこれは毎日新聞であり、そして、この『潜行三千里』は毎日新聞社の出版だと言うことである。ということは毎日新聞も当時同様の見解を持っていた?

 

 また、この引用文では、「永い間の戦争で、中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無であることは勿論であるが」となっているが、『潜行三千里』の原文では「罪は絶無でないことはもちろんであるが」となっている。どうしてここで「罪は絶無であることは勿論であるが」と書き換えたのだろうか。

 

 さらに、この引用文の末尾は「証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石となろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。
 年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって。天皇陛下万才’を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった」となっている。

 

 これは、両少佐の運命に対する同情と、その最後の立派な態度への賞賛の言葉ではないか。もし、望月氏が、二少尉の「農民百人斬り」を実見し、それを「世界戦争史の中に一大汚点」と考えているのであれば、引用するはずのない言葉ではないか。さらに、末尾に添えられた句は、一茶の”やれ打つな 蝿が手をする足をする”である。これも、両少尉の運命に対する同情がなければ出てこない句である。

 

 以上のように見て、私は、この本の中の「農民百人斬り」の記述は、既に出来上がっていた、つまり、この箇所抜きの『私の支那事変』の当該箇所に、何らかの理由で後から挿入されたものではないかと考えるようになった。この本の「あとがき」に「断片的な私の覚え書きでは、戦闘の場所、日時がおぼろげで、どうしても一線につながらなかった。幸にして山本重一君、水口浩一朗君の資料と記憶、助言をかりて、やうやく一本の線にむすびつけることが出来た」とある。この過程で挿入されたものなのかもしれない。

 次に、上記の二節の全文を紹介するので、皆さんはこれを読んで自分の頭で考えて欲しい。「百人斬り競争」裁判では最高裁判所もこれを証拠として採用し、歴史学者の秦郁彦氏も重要な証拠としているものであるが・・・。 

 

望月五三郎『私の支那事変』から
小学校 昭12・11・26
 ○○小学校へ炊事の薪を徴発するため校内に入った。校内外共に荒れ果て、机や椅子が所かまわず散乱している。
 日本軍は今来たばかりなのに、何故こんなに荒れているのか、支那兵の横暴振りがうかがえる。
 黒板には下手な字で、”打倒日本鬼””徹底杭日””誓復仇敵””……” ”……”大小取りまぜての落書である。
 支那兵がうっ憤ばらしに、書残して退却していったのである。教室の壁には色々な教材用の掛図がつるしてある。
 日本兵が銃剣で支那人を突きさしている図、日本兵が支那人をうしろ手にしばりつけ、つるし上げている図、
 姑娘を拉致して、そのあとから母親が哀願している図、
 支那人を二、三人坐らせて列べ、うしろで軍刀をふり上げている、その中の一人の首が血をふいて前にころんでいる。          ・
 支那人を火あぶりにしている図等々、
 その図の隅に説明書きがある。日本人は惨虐鬼畜な民族で、我々同胞はかくの如き悲惨な目にあはされている。大体は判読出来た。
 その図に書かれた服装は日清戦争当時のもので支那人は弁衣を着、日本兵は黒い軍服で胸に黄色い助骨が書いてあり、軍帽のふちは赤色になっていた。
 この掛図は相当昔から掲げたものであることは、色が可成あせていたことから想像出来る。
 古くは、義和団事件、満州事変、上海事変、そして今また支那事変と続く戦火にさいなまれた強烈な敵愾心が、斯く語り、斯く数えこまれてきたのである。
 しかしながら、私は判断に苦しむ、ある皮肉を感じた。これだけ激しい抗日思想をたたき込まれた、支那の子供たちが日本兵に対してはあまりにも好意的ではないか、教えられたことに反して、自国支那兵より日本兵の方が質が良いではないか、と子供の判定は清く正確である。
 そこで今私は現在の子弟教育方針に対し、一言意見がある。
 現日教組の教育方針は文部省を手こずらし、PTAのPを心配させている。日本の子供達は恵まれた環境に育ってすくすくとのびている。本当の心の教育は親にまかせて、あなたたちは、教材通り国語、地理、数学を教えてくれるだけで良い、情操教育は教育勅語を基本に行ふべきであると思ふ、教育勅語の中で”朕”がいけないと云ふ、天皇は”私”と云っておられる。”義勇奉公”が軍国主義に通ずると云ふ、
 現今の国際的経済戦争場裡にたって、義を重んじないで、勇気なくして、公に奉仕せずして、勝てるであろうか、どうか子供達を曲っだ方向に進めさせないでほしい。
   ○孟女三還の教え(烈女伝)

 

百人斬り 昭12・11・27~昭12・11・28
 線路にそって西へと進む、無錫の手前八㎞あたりで、敵の敗残兵約二ヶ中隊に遭遇し、激戦の末、約三〇名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
 無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。
 速射砲が敵陣の壁目がけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にもう弾は壁を砕いている物猛い破壊力である。
 引続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する。援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊長怒り心頭に達する。
 やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。
 常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。
 「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。
 このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始まるのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
 この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞讃され一躍有名になった人である。

 

 「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に坐る。少尉の振り上げた軍刀を脊にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
 一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
 戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を聯隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
 この残虐行為を何故、英雄と評価し宜伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから支那兵と支那農民をぽかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。
 今戦争の姿生(まま)かうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。

 

 終戦后、連合軍は両少尉を如何に処置したか、ここで。潜行三千里の著者、元参謀辻政信大佐の手記を引用してみる。
 彼は敗戦の報を知って、戦犯をのがれるためビルマ、タイ、仏印、昆明、重慶へとのがれ南京に至って支那の重臣の被護の許に、混乱する状況下で共産軍毛沢東に対処する戦略をアドバイスしていた。それから戦犯容疑が時効となり日本に帰ってきたときのことである。
 野田、向井両少佐が南京虐殺の下手人として連行されてきた。この二人は一たん巣鴨に収容されたが、取調べの結果証証據不充分で釈放されたものであるが、両少佐は某紙の100人斬りニュースのお蔭で、どんなに弁明しても採上げられず。ただ新聞と小説を証捷として断罪にされた。
 永い間の戦争で、中、小隊長として戦ってきた人に罪は絶無であることは(『選考三千里』の原文では”絶無で「ないことは」”となっている。)勿論であるが、証據をただ古新聞や小説だけに求められたのでは何とも云えぬ。
 両少佐の遺書には一様に”私達の死によって、支那民族のうらみが解消されるならば、喜んで捨石となろう”との意味が支那の新聞にさえ掲げられていた。
 年も迫る霜白い雨華台に立った、両少佐はゆうゆうと最后の煙草をふかし、そろって。天皇陛下万才’を唱えながら笑って死についた。おのおの二、三弾を受けて最后の息を引きとった。
   ◎やれ打つな 蝿が手をする足をする(一茶)

 

2019年8月29日 (木)

加藤陽子『戦争まで』を読んだ私の批判的感想(2017-01-16 20:11:21掲載)

 以下、「かって日本は、世界から『どちらを選ぶか』と三度、問われた。良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線」とキャッチコピーの付された本書を読んで考えたことを記しておきます。

 本書は、日本近現代史の学者である著者が、中学生や高校生を相手に、2015年に出された「内閣総理大臣談話」を批判する形で、満州事変、日独伊三国同盟、1941年4月から真珠湾攻撃に至るまでの日米交渉について、「従来の解釈を否定する新解釈」を示しながら、それを、現在安倍内閣が進めている憲法改正論議に「正しく反映させよう」として書かれたものです。

 結論から先に言えば、この本は、最新の研究成果がいろいろ紹介されていることは素人としては大変有り難いのですが、上記のような政治的意図が根っこにあるせいか、「従来の解釈を否定する新解釈」に、いささか一方に偏するものがあるように思われましたので、具体的にその部分を指摘しておきたいと思います。

 まず、リットン報告書が示した満州事変後の満州問題の解決策についてですが、「リットン報告書の内容は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざまに工夫したものだった。リットン報告書には、交渉が始まった後、日本が有利に展開できる条件が、実のところいっぱい書かれていた」「タフな交渉になると予想されましたが、日本と中国が二国間で話し合える前提を、リットンは用意していました」というのは、その通りだと思います。

 ただ、この問題は、結局、日本が華北の既得権益を全面放棄した上での「満州国承認問題」に収斂しており、中国側は「棚上げ」まで譲歩、日本側はその「黙認」を求めました。しかし、中国国内の抗日運動が激化する間、中国側の交渉態度が次第に硬化し、実質的な和平交渉に入ろうとする矢先、盧溝橋事件が勃発、ついで上海事変が勃発し、日中全面戦争に突入した、というのが事実に即した事態の推移です。

 つまり、リットン報告書の提出以降、日本側は「軍部の主導する満州侵略の道はだめなのだ」「実際に様々の選択肢がある」ということに全く気づかなかったわけではないのです。それに気づいたからこそ、日本は華北の既得権全面放棄による日中和平を提案したのです。しかし、中国側が、国内の抗日運動に引きずられる形で、日本の不拡大方針を無視し、日中全面戦争に持ち込んだのです。

 もちろん、こうした流れを必然ならしめた原因が、満州問題を武力で解決しようとした関東軍一部将校の暴走にあったことは紛れもない事実です。ただ、そうした行動は即中国の植民地化を目指していたわけではなく、問題は、日本側の中国側に対する「排日停止・経済提携・共同防共」の要求が、アジア主義的なパターナリズムに根ざしていたこと。それが中国の主権侵害になることに気づかなかったのです。

 石原自身はこうしたアジア主義的主張を政治的・軍事的にコントロールする力はあったようですが、そのエピゴーネン達は、それを表面的に模倣することしか出来ず、中国が抗日戦争に訴えたことを、一撃でもって膺懲出来るとして戦争を受けて立ったのです。しかし、戦争は予想に反し泥沼化しました。そこで、この戦争の名分を再構築する必要に迫られ、これが近衛の東亜新秩序=東亜ブロックの主張となったのです。
 
 次に、日独伊三国同盟締結について。加藤氏は、なぜヒトラーは日本との同盟を選択したかについて、「イギリス側の、不屈の抗戦意識を支えているのは、ソ連の存在とアメリカの存在への希望である」「ソ連が脱落すれば、日本を北から軍事的に牽制する国家がなくなり、日本は自由に東アジアの根拠地である香港・シンガポールや、アメリカの軍事基地があるフィリピンを脅かすことが出来る」。従って、アメリカはソ連を脱落させないため対英援助を諦める、と考えたからだとしています。 

 さらに、こうしたヒトラーの思惑がさらに発展して、イギリスへの圧迫強化のための「対ソ攻撃」に結びついたとしています。しかし、この対ソ攻撃は、結果的にソ連を連合国側に追いやることになったわけで、日本にしてみれば、4カ国連携でアメリカに圧力を加えることができなくなった。この結果、独ソ開戦以降、アメリカの日米交渉に臨む態度が一転して冷ややかになりました。

 この日米交渉でアメリカは、日本に対して日独伊三国同盟の空文化を求めました。これに対して日本は、アメリカが対ドイツ戦に参戦した場合でも、自動的な参戦義務はないと説明しました。日本がドイツと同盟を結べば、日本は、ドイツの惹起した第二次世界大戦に対する中立的な立場から、米英に敵対する立場に立つことになるわけで、大きなリスクを背負い込むことになります。

 この点について加藤氏は、なぜ日本がこうしたリスクを犯してまでもドイツと同盟したかについて、その動機として、ドイツが欧州戦争で勝利することを確信し、戦後の東南アジアにおける、フランス、イギリス、オランダの旧植民地の支配権=勢力圏をめぐって有利な地位を確保しようとしたため、としています。つまり、従来定説とされてきた”バスに乗り遅れるな”ではないと。

 しかし、”バスに乗り遅れるな”は、単にドイツへの迎合を示すだけではなく、その背後に実利的な思惑があったことは当然です。それが、ドイツにすでに降伏したフランス、オランダ、イギリスの旧植民地の戦略資源であったことは、日本が、これらの資源の輸入を外国に依存しており、、かつ、それが日本に対する経済制裁の手段になっていたのですから、その桎梏から逃れようとしたのです。

 そこで、アメリカは、日本軍が昭和16年7月28日に南部仏印に進駐すると、それは、東南アジアからイギリスへの資源供給ルートを遮断することになるから、イギリスを支援するアメリカは、それを阻止するため在米日本資産の凍結や石油の対日全面禁輸を断行しました。日本軍は、南仏進駐は平和裏になされたわけだし、まさかアメリカがそこまでやるとは思っていなかったと言います。

 では、なぜアメリカは、こうした強硬措置を執ったかについて、加藤氏は、こうした措置を執ったことをルーズベルト大統領もハル国務長官も一月ほど知らなかったと言っています。それは対日強硬派のモーゲンソーらが執った措置だと言うことですが、モーゲンソーらは、日本は資源のない「粘土足の大国」だから、アメリカが経済圧迫を掛ければ屈服するほかないと考えていたそうです。

 ここで、昭和16年4月に始まった日米交渉で、アメリカ側から提出された「日米諒解案」の具体的内容について見てみたいと思います。加藤氏は、日米諒解案に関して「アメリカの日米交渉にかける熱意を考える際、最も大きな影響を及ぼしたのは、日本の南部仏印進駐だった」と言っています。では、日米両改案には何が書かれていたかというと、

一、日米両国の基本秩序の尊重
二、三国同盟は防衛的なものであること。また、米国の欧州戦争に対する態度は自国の福祉と安全とを防衛するためにのみ決せられること。
三、支那の独立・非併合、門戸開放、日支間の協定に基づく日本国軍隊の支那領土撤退、蒋政権と汪政権の合流等の条件の範囲内で、善隣友好、防共共同防衛、経済提携の原則に基づき、日本が具体的和平条件を支那側に提示する。
四、日米両国は太平洋において相互に他方を脅威する海軍兵力及び航空兵力を配備しない。五、日米間の新通商条約の締結及び金融提携、今次の了解成立後日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障する。
六、南西太平洋方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国は日本に協力する。
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針、東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等をしない。フィリピン独立保障、米国及南西太平洋に対する日本移民の無差別待遇が与えられる。
日米両国代表者間の会談の提唱、本会談では今次了解の各項を再議せず、両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとする。

 この案は、41年2月以降日米の民間人や政府・軍関係者によって周到に準備されたものでした。従って、この案が日本側に示されたとき、東条も、「米の提案も支那事変処理が根本的第一義であり、従ってこの機会を逃してはならぬ。断じて捉えねばならぬ」と近衛に言いました。武藤も「これで支那事変が解決されるからイイナ」と言ったといいます。そして、この提案は、陸・海軍省部・局部長会議で「独を刺激せざるよう一部の修文を行う」等の条件で陸海軍間で合意されました。(『太平洋戦争への道7』p168)

 こうしたアメリカの譲歩に対して、これを謀略ではないかと疑う者もいましたが、この提案を、日本側が軍部を含めて、当初”ほっと胸をなで下ろす”形で受け入れたことは事実です。近衛は直ちに「主義上同意」と返電しようとしました。これに反対したのが松岡で、松岡は日ソ中立条約を締結して帰国したばかりで、対米外交を三国同盟+ソ連の4カ国連携でアメリカを脅威圧迫すべきと考えており、次の三つの条件を付けました。

 それは、 一、米国に中国から手を引かせる、二、三国条約に抵触しない、三、米の欧州参戦を阻止する、でした。このため、日米諒解案の、米国をして支那事変終結を仲介させる、そのため三国同盟の趣旨を極力防衛的な性格のものする、という趣旨が飛んでしまいました。問題は、こうした松岡の四国連携の構想に、当初、諒解案を歓迎した誰も正面から抗し得なかったと言うことです。

 これに対してアメリカは、すでに1月末から独ソ開戦を予想しており、それが勃発すれば松岡・軍部の錯覚的な枢軸政策は粉砕されると見ていました。実際6月に独ソ開戦したわけですが、これによって松岡の4国連携によるアメリカ圧迫構想は瓦解し、ソ連が英米側につくことになりました。この結果として、アメリカの日米交渉における対日妥協姿勢が強硬に転じることになったのです。

 合わせて重要なことは、4国連携が中国を含めた大陸連携構想に発展する可能性もあったということで、昭和16年段階でアメリカが日米両改案の線まで下りてきた背景には、こうした枢軸体制の誕生を阻止する意図があったのです。つまり、こうしたアメリカの妥協姿勢が三国同盟から生まれている以上、日米諒解案の肝である三国同盟の実質的空文化はそれと矛盾する関係にあったのです。

 日米交渉がこうしたジレンマに直面する中で、松岡は枢軸体制強化を主張しました。しかし、独ソ開戦によってこの構想は崩壊しました。では、その後、日本はそういう選択すべきだったか。最良の策は、ドイツの背信を理由に三国同盟から離脱し、欧州大戦に対して中立の立場を取ることで、日米諒解案の線で日米間、日支間の関係調整を図ることでした。しかし、松岡や陸軍はソ連侵攻を主張、これを牽制するため海軍は南進を主張、結果的にこれが南部仏印進駐となりました。

 では、なぜ日本は枢軸同盟に止まったまま南部仏印に進駐する道を選んだか。その理由としては、欧州戦争におけるドイツの勝利を盲信していたこと。アメリカを中心とする経済封鎖から自由になりたかったこと。そのためには東南アジアに進出し戦略資源を確保する必要があったこと。実際、こうした構想が魅力的であったからこそ、コミンテルンのスパイ尾崎秀実の謀略も成功したのです。(この尾崎の、加藤氏の扱いもおかしい!)

 南部仏印進駐後は、ルーズベルトの仏印中立化案や、日本側からは最終的に乙案が示されることになりますが、この提案と日米諒解案との違いは、この段階では、日本側が最も期待したアメリカの仲介による日支事変解決の可能性がなくなっていたと言うことです。言うまでもなく、南部仏印進駐は日本が中国を完全に封鎖することになりますから、中国としては日米戦争だけが救いでした。

 こうしてアメリカの対日要求は、ハル四原則(すべての国の領土と主権尊重、他国への内政不干渉を原則とすること、通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること、平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持)に立ち返ることになりました。アメリカは、「日本が『日中和平基礎条件』で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに闡明するよう求め」ました。

 ここで日本軍の支那からの撤兵問題が浮上しました。東条は撤兵に反対、その結果近衛は内閣を投げだし、東条内閣の誕生となりました。東条は昭和天皇の「白紙還元の御諚」(「外交交渉により日本の要求を貫徹出来る目途がない場合は、直ちに開戦を決意する」という九月六日の御前会議決定を一旦白紙に戻すこと)を受け、その後、対米交渉を継続し、最終的には乙案を提出し、南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしましたが、アメリカ側のハルノートの提出でついに日米開戦となりました。

 このような事態になったのは、加藤氏の言う通り、日本軍がドイツの勝利を盲信し、枢軸同盟を背景に武力で南方の資源獲得をしようとしたためでした。この時取るべき唯一の道は、先ほど述べたように、三国同盟離脱、欧州戦争からの中立維持、日米諒解案の趣旨に沿った、アメリカ仲介による日支事変解決、通商条約再締結による資源確保だったことは言うまでもありません。

 ただ、日本が乙案を提出し南部仏印進駐以前に戻ることで日米戦争を回避しようとしたにも関われず、なぜアメリカはそれを無視しハルノートを提出したかが問題になります。これについては、アメリカに「絶望から戦争をする国はない」という甘い見通しがあったため、ともいいますが、アメリカの対独参戦を可能にするための日本挑発という意図があったことも間違いないと思います。

 ただ、こうした挑発を受けても、これに冷静に対処し、アメリカがそれまでの日米交渉を無視し、日本を挑発して欧州戦争参戦への口実を得ようとしたことを世界に宣伝することで、しばらく戦争を回避することはできたでしょう。しかし、問題の根本はやはり、当時の日本が、ドイツ流の国家社会主義を信じ、英米流の自由民主主義をよしとしなかったことにあったのではないかと思います。

 戦後の反省はこの点に重点を置くべきではないでしょうか。こう見てくれば、戦後こうした一種の全体主義的考え方が払拭されたとは到底言えないと思います。ソ連が戦後理想の国のように喧伝されたのも、毛沢東の文化大革命が賞賛されたのもそのためです。つまり、戦後も、今日まで一貫して、国家社会主義や共産主義に通底する考え方が伏在し続けていると見るべきだと思います。

 そこで、最後に、こうした戦後体制の基軸となった日本国憲法の平和主義、憲法第9条の戦争放棄、戦力放棄の意義について考えたいと思います。加藤氏は、以上述べたような歴史解釈に立って、幣原の次の言葉を引用しています。

 「今日我々は、戦争放棄の宣言を掲げる大旗を翳して、国際政局の広漠なる野原を単独に進みゆくのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、結局私どもと同じ旗を翳して、遥か後方についてくる時代が現れるでありましょう。」

 どうやら加藤氏は、幣原のこの言葉を引用することで、憲法第9条改正に反対する立場を暗に表明しているようです。しかし、戦後70年、日本国憲法第9条と言う旗の後方についてくる国はなかったのでは?というのも、実は、この旗が示した理想は戦争放棄(=戦力放棄)ではなく、武力の国際機関への一元化だったからです。つまり、軍事力は国際機関に一元化し各国は警察力だけを持つ・・・。

 こうすることが、国際社会に戦争をなくす唯一の方法であると、幣原は「平野文書」の中ではっきり述べています。そして、この理想に近づくための手段として、敗戦後の日本が「戦力放棄」という奇策を採ることによって、各国の軍縮を促そうとしたのです。そうすることで、天皇制を軍国主義から切り離し、象徴天皇制という本来の姿に立ち返らせようとしたのです。

 従って、日本国憲法第9条の改正問題を論ずるに際しては、もちろん、その第一項の平和主義と戦争放棄を謳った条項は残すべきだと思いますが、第二項の戦力放棄条項をどうするかについては、戦後70年の平和が第9条だけで守られたわけではなく、日米安保による戦力補完によった、という冷厳な事実を踏まえて、これを憲法と矛盾しないようどう規定するか考えるべきだと思います。 以上 

 

 
 
 
一、日米両国の抱懐する国際観念並に国家観念
 両国政府は相互に両国固有の伝統に基く国家観念及社会的秩序並に国家生活の基礎たる道義的原則を保持すべく之に反する外来思想(=共産主義)の跳梁を許容せざるの鞏固なる決意を有す
二、欧州戦争に対する両国政府の態度
 日本国政府は枢軸同盟の目的は防御的にして現に欧州戦争に参入し居らざる国家に軍事的連衡関係の拡大することを防止するに在るものなることを闡明す
 ・・・枢軸同盟に基く軍事上の義務は該同盟締約国独逸か現に欧州戦争に参入し居らざる国に依り積極的に攻撃せられたる場合に於てのみ発動するものなることを声明す
・・・米国政府は戦争を嫌悪することに於て牢固たるものあり従って其の欧州戦争に対する態度は現在及将来に亙り専ら自国の福祉と安全とを防衛するの考慮に依りてのみ決せらるべきものなることを声明す
三,支那事変に対する両国政府の関係
 米国大統領か左記条件を容認し且日本国政府が之を保障したるときは米国大統領は之に依り蒋政権に対し和平の勧告を為すべし
 A、支那の独立
 B、日支間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の支那領土撤退
 C、支那領土の非併合
 D、非賠償
 E、門戸開放方針の復活但し之が解釈及適用に関しては将来適当の時期に日米両国間に於て協議されるべきものとす
 F、蒋政権と汪政権との合流
 G、支那領土への日本の大量的又は集団的移民の自制
 H、満洲国の承認
 蒋政権に於て米国大統領の勧告に応じたるときは日本国政府は新たに統一樹立せらるべき支那政府又は該政府を構成すべき分子をして直に直接に和平交渉を開始するものとす
日本国政府は前記条件の範囲内に於て且善隣友好防共共同防衛及び経済提携の原則に基き具体的和平条件を直接支那側に掲示すべし
四、太平洋に於ける海軍兵力及航空兵力並に海運関係
 A、日米両国は太平洋の平和を維持せんことを欲するを以て相互に他方を脅威するが如き海軍兵力及航空兵力の配備は之を採らざるものとす右に関する具体的な細目は之を日米間の協議に譲るものとす
 B、日米会談妥結に当りては領国は相互に艦隊を派遣し儀礼的に他方を訪問せしめ以て太平洋に平和の到来したることを寿ぐものとす
 C、支那事変解決の緒に着きたるときは日本国政府は米国政府の希望に応じ現に就役中の自国船舶にして解役し得るものを速かに米国との契約に依り主として太平洋に於て就役せしむる様斡旋することを承諾す但し其の屯数等は日米会談に於て之を決定するものとす
五、両国間の通商及金融提携
 今次の了解成立し両国政府之を承認したるときは日米両国は各其の必要とする物資を相手国が有する場合相手国より之が確保を保障せらるるものとす
 又両国政府は嘗て日米通商条約有効期間中存在したるが如き正常の通商関係への復帰の為適当なる方法を講ずるものとす尚両国政府は新通商条約の締結を欲するときは日米会談に於て之を考究し通常の慣例に従い之を締結するものとす
 両国間の経済提携促進の為米国は日本に対し東亜に於ける経済状態の改善を目的とする商工業の発達及日米経済提携を実現するに足る金クレジットを供給するものとす
六、南西太平洋方面に於ける両国政府の経済的活動
 日本の南西太平洋方面に於ける発展は武力に訴うることなく平和的手段に依るものなることの保障せられたるに鑑み日本の欲する同方面に於ける資源例えば石油、護謨、錫、「ニッケル」等の物資の生産及獲得に関し米国側の協力及支持を得るものとす
七、太平洋の政治的安定に関する両国政府の方針
 A、日米両国政府は欧州諸国が将来東亜及南西太平洋に於て領土の割譲を受け又は現存国家の併合等を為すことを容認せざるべし
 B、日米両国政府は比島の独立を共同に保障し之が挑戦なくして第三国の攻撃を受くる場合の救援方法に付考慮するものとす
 C、米国及南西太平洋に対する日本移民は友好的に考慮せられ他国民と同等無差別の待遇を与えらるべし

日米会談
 (A)日米両国代表者間の会談はホノルルに於て開催せらるべく合衆国を代表してルーズヴェルト大統領日本国を代表して近衛首相に依り開会せらるべし代表者数は各国五名以内とす尤も専門家書記などは之に含まず
 (B)本会談には第三国オブザーバーを入れざるものとす
 (C)本会談は両国間に今次了解成立後成るべく速かに開催せらるべきものとす(本年五月)
 (D)本会談に於ては今次了解の各項を再議せず両国政府に於て予め取極めたる議題は両国政府間に協定せらるるものとす
付則
本了解事項は両国政府間の秘密覚書とす本了解事項発表の範囲性質及時期は両国政府間に於て決定するものとす

HATENA::DAIARY様への再反論(2015-12-06 00:36:49掲載)

謹告:本稿以後のブログ記事について、千を越えるおびただしいスバムコメントが書き込まれましたので、一旦削除し、コメントを受け付けないよう設定を変更し、記事を再掲することにしました。ご了承願います。


HATENA氏が私の反論に対して再び反論してきましたので、再反論をしておきます。私の反論部分は【】内

スマイス調査をろくに読まない、あるいは都合の悪い箇所は「スマイスの推測に過ぎない」と貶める否定論者CommentsAdd Starkufuhigashi2zakincorawan60
南京事件, 歴史修正主義
以前の「スマイス調査をろくに読まない否定論者」に対して、渡邉斉己氏が反論してきました。

「「南京事件」に関する私論へのHATENA::DAIARY様の反論への反論」

反論箇所1

渡邉氏による“スマイス調査に記載された被害者について「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」”という主張が誤りであるとこちらが指摘した件に対する渡邉氏による反論です。


本調査「まえがき」(M・Sベイツ)には「われわれ自身の立場は戦争の犠牲者にたいする国境をこえた人道主義の立場である。この報告書のなかでわれわれはほとんど「中国人」とか「日本人」等の言葉を使うことなく、ただ農民・主婦・子供を念頭に置いている」と書いている。実際、第4表「日付別による死傷者数および死傷原因」の死亡原因は軍事行動、兵士の暴行という区分はあるが、その加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない。そもそも50戸に1戸の割合で抽出した数字を50倍した被害者数について加害者が誰であったかを正確に推定できるだろうか。なお、この「報告書の作成と調査結果の分析について、指揮者は金陵大学のM・Sベイツ博士の貴重な協力を得た」となっていおり、『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為がこの分析に反映したことは当然である。

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/hatenadaiary-e7.html

要点は以下の2つ。

(i).スマイス調査の表4には「加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない」し、「まえがき」にも「われわれはほとんど「中国人」とか「日本人」等の言葉を使うことなく」と書いてあるから、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」と渡邉氏は結論付けた。

(ii).「『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為が(報告書の作成と調査結果の分析)に反映」されたに違いない、と渡邉氏が考えている。

反論への反論に対する反論1

(i)は要するにスマイス調査に書かれた被害について加害者が明記されていないのだから、日本軍による加害とは言えない、ということですが、最初の指摘記事でも引用した部分に少しだけ追加して示します。


Of those killed 2,400 (74 per cent) were killed by soldiers' violence apart from military operations.(1)

There is reason to expect under-reporting of deaths and violence at the hands of the Japanese soldiers, because of the fear of retaliation from the army of occupation.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

軍事行動の巻き添えではない兵士たちの意図的な暴力による死者は2400人に上るが、占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷被害については過小評価されている可能性があると記載されています。普通に読めば、主たる加害者が日本軍であるという前提での記載としか読めないでしょう。

ベイツの記述「まえがき」として引用した部分が以下です。

For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces - whether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

調査対象期間における、全地域での略奪のほとんど(most of the looting in the entire area)、民間人に対する暴力のほぼ全て(practically all of the violence against civilians)は日本軍によって為された、とはっきり書かれています。「加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない」のではなく、虐殺・暴行のほぼ全て(practically all)について日本軍が加害者であると言っているわけです。

【まず、「スマイス報告」は「戦争とはなにか」と同様、国民党中央宣伝部国際宣伝処の工作を受けて作成されたものだということです(『中国国民党新聞製作之研究』)。(北村稔『「南京事件の探求」P39』)。一見公平を装っていますが、恣意的な解釈が随所に見られます。次に引用された文の前後の文を原文で引用します。

In order to guard against controversial misuse of the present report, we feel it necessary to make a brief factual statement as to the causation of the injuries listed.

The burning in the municipal areas immediately adjoining the walled city of Nanking, and in some of the towns and villages along the southeasterly approaches to Nanking, was done by the Chinese armies as a military measure - whether proper or improper, is not for us to determine.

A very small amount of damage to civilian life and property was done by military operations along the roads from the south-east, and in the four days of moderately severe attack upon the city.

Practically all of the burning within the city walls, and a good deal of that in rural areas, was done gradually by the Japanese forces (in Nanking, from December 19, one week after entry, to the beginning

For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces - whether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.

Beginning early in January, there gradually developed looting and robbery by Chinese civilians; and later, particularly after March, the struggle for fuel brought serious structural damage to unoccupied buildings.

Also, there has latterly grown up in the rural areas a serious banditry which currently rivals and sometimes surpasses the robbery and violence by Japanese soldiers.

In some portions of our report, these elements of causation can be distinguished.

From a humanitarian point of view, we venture merely to point out that losses to life and property from actual warfare are shown by these surveys to be one or two per cent of the total.

The rest could have been prevented if both sides had wished to give sufficient consideration to the welfare of civilians, including reasonable protection by military and civilian police.

ここには概略「城壁に接する市街部と南京の東南部郊外の町村や既払いは中国軍がやった。南京陥落後4日間の攻撃による住民の生命及び財産の損害は極めて少なかった。入場から一週間過ぎて後の焼き払いは次第に日本軍がやるようになった。調査期間内の全域の略奪の大半と、一般市民に対する暴行は、それが正当か不当かは我々の判定するところではないが、同様に日本軍がやった。1月初旬以来、中国人による略奪と強盗が徐々に広がった。特に3月以降は燃料争奪戦のために空き家に構造上の被害が出た。また、後には農村部において深刻な盗賊行為が増加し、今では日本軍の強盗と暴行に匹敵し、時にはこれを凌ほどになった」などが書かれています。中国軍も中国人もいろいろやったわけですね。なお、このスマイス報告はアメリカや中国が訴える被害者数に比べて少なすぎたために、東京裁判の証拠として採用されませんでした。残念!】

このベイツの記述は渡邉氏にとって都合が悪かったせいか、(ii)の主張に繋がります。「『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為が(報告書の作成と調査結果の分析)に反映」されたに違いない、という渡邉氏の示唆ですが、要するにベイツが作為的に捏造・改竄したとほのめかしているわけです。しかし、その根拠は一切示されません。

「『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割」なるほのめかしだけで、渡邉氏や否定論者たちにとっては十分なのでしょうが、これでは反論とは言えません。

【「戦争とはなにか」でベイツの果たした役割については、アゴラの拙稿参照。ベイツもスマイスも「南京安全地帯の記録」では不法とは言えなかった便衣兵摘出処断を、どうにかして捕虜不法殺害や市民殺害に思わせようとしました。そこで、「この本をショッキングな本にするため、学術的なバランス感覚を犠牲にして劇的な効果を上げ」(南京事件資料集アメリカ関係資料編p371)ようとして「4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうち約30%はかって兵隊になったことのない人々である」という記述を三章に追加挿入したのです。しかし、この部分の記述があると本の真実性が損なわれるので、この本と同時に出版された「漢訳本」からはこの部分は削除されているそうです(『国民党極秘文書から読み解く』東中野修道)。なおこの部分の原文は次の通り。
This is not the place to discuss the dictum of international law that the lives of prisoners are to be preserved except under serious military necessity, nor the Japanese setting aside of that law for frankly stated vengeance upon persons accused of having killed in battle comrades of the troops now occupying Nanking. Other incidents involved larger numbers of men than did this one. Evidences from burials indicate that close to forty thousand unarmed persons were killed within and near the walls of Nanking, of whom some 30 per cent had never been soldiers.

この文のnor以下を洞氏は「日本軍もまた、国際法など眼中になく、今南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告発した人間に対しては復讐すると公然と言明したのである」と訳しています。しかしこれは、not ~nor構文であって、正しくは「捕虜の生命が重大な軍事的必要以外には保障されるという国際法の条文を論じる場所ではないし、・・・復讐すると公然と言明し国際法を無視した日本兵について論じる場所でもない」でしょうね。】

反論箇所2+反論への反論に対する反論2

占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷被害については過小評価されている可能性があるとの指摘に対する渡邉氏の反論が以下です。


この英文資料の邦訳は『日中戦争資料9南京事件?』(s49年刊)で読むことができる。この本をご存じないか、それとも訳文に不満か。この文章はスマイスの推測。そもそも加害者を特定しない調査であるから日本軍の報復を怖れる必要はないと思うが。

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/hatenadaiary-e7.html

前半部分の意図はよく分かりません。英語というかなり一般的な言語で書かれたWEB上で閲覧できる原文資料があるのに、わざわざ書籍の邦訳にあたる必要性はあるとも思えませんし。これがロシア語とかアラビア語とかであれば、邦訳にあたりますけど、英語ですからねぇ。

後半部分はあきれる他ありません。「加害者を特定しない調査」なら、ソ連軍占領下でもイスラム国支配下でも住民は何も恐れず被害実態について答えてくれると思ってるんでしょうか。

【だから「訳文に不満か」と聞いているのです。不満がなければ邦訳の方が読者に親切でしょう。もちろんHATENAさんのように文脈を無視したつまみ食いの翻訳をしてはいけません。なお、洞氏の訳に見るように専門家でも意図的な誤訳をする場合もありますので原文で確認する必要はありますね。なお、「加害者を特定した告発のための調査」より「加害者を特定しない調査」の方がより正確な調査ができると思いますが。】

「There is reason to expect under-reporting」という可能性の指摘ですから「スマイスの推測」なのは当然の話ですが、重要なのはその推測が妥当かどうかであって、占領軍による暴力被害について占領下の住民が訴え出る上での心理的障壁という一般的な認識があれば、「スマイスの推測」が妥当なのは誰でも分かる話です。南京事件否定論者は、加害者が日本軍の場合だけ、そういう一般的な認識を喪失する傾向が強いんですよね。

【スマイス調査は、南京における被害状況調査としては第一次資料として扱えますね。ティンパーリーの『戦争とはなにか』より良心的です。ベイツに付き合って4,200拉致の付記として「12,000人の一般市民が暴行によって死亡した」としましたが、本表の数字は改竄しませんでした。なお、農業調査の郊外4県半の死者数の統計の取り方に、被害を水増しする作為があることが北村稔氏より指摘されています。いずれにしろ、HATANAさんが主張するように信のおけるものなら東京裁判で証拠採用すべきでした。よほど都合が悪かったのでしょう。】

反論箇所3+反論への反論に対する反論3

渡邉氏は最初の記事で、「(虐殺拉致被害者)6,600人は、一般市民ではなくこの期間に掃討された兵士の数である可能性が大である」と何の根拠もなく決め付けています。要するに渡邉氏の推測に過ぎないわけですが、スマイス報告にはこう明記されています(前記事で指摘済みですけどね)。


The figures here reported are for civilians, with the very slight possibility of the inclusion of a few scattered soldiers.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

これに対する渡邉氏の反論が以下です。


これもスマイスの推測に過ぎない。6.600人の内拉致された4,200人について、スマイスは「拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた」と記している。兵士の暴行による男1,800人の死亡の47%846人が元兵士であったとすると、5,046人が元兵士の疑いをかけられたことになる。

http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/hatenadaiary-e7.html

渡邉氏は自らの推測に過ぎない「6,600人は、一般市民ではな」いという主張にスマイス報告の記載をもって反論されると、「これもスマイスの推測に過ぎない」と否定するわけですが、スマイスと渡邉氏では同じ推測でも信憑性に雲泥の差があります(どちら泥の方かはあえて言いませんけど)。

さて、渡邉氏は、拉致被害者4200人を敗残兵と決め付けている根拠をスマイス報告の記述に求めていますが、「形式的に」と書かれているのが読めなかったのでしょうか。

原文は「often accused, at least in form, of being ex-soldiers」ですね。

The men taken away were often accused, at least in form, of being ex-soldiers; or were used as carriers and laborers. Hence it is not surprising to find that 55 per cent of them were between the ages of 15 and 29 years; with another 36 per cent between 30 and 44 years.

https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

言うまでもなく、元兵士と告発された(accused)イコール兵士ではありません。まして形式的(in form)では話になりません。どうも渡邉氏にとって、20~40歳くらいの中国人男性は全て兵士と見なして拉致して構わない存在のようですね。

【at least in form「少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた」と言っているでしょう。この場合の「形式的」は、元兵士であるかどうかの判別のための一定の調査をした、ということでしょう。もちろん、現地召集の雑兵が混じっていたため判別が難しいということはあったと思います。ただ、兵士が軍服を脱いで民間人になりすませば、まだ戦闘継続中なのですから掃討の対象となり、摘出された場合は不法戦闘員扱いされ直ちに処断されても文句が言えないことになります。だから、ベイツやスマイスは「少なくとも公式には」これを非難できなかったのです。】


この調子でずっと渡邉氏の反論と称するものが続くのですが、すべてに反論すべきかどうか悩みます。「拉致と連行とは違うのでは。」とか訳の分からぬものまでありますから。

【この調子でHATENA氏に反論すべきかどうか悩みます。拉致と連行を区別できない訳の分からぬものまでありますから。なお、拉致という項目は最初の調査書では「死傷者のうちの一項目『事情により』」に書き込まれた数字を拉致(take away=連行?)としたものだと説明されていますよ。】

Indeed, upon the original survey schedules, they were written in under the heading "Circumstances," within the topic of deaths and injuries; and were not called for or expected in the planning of the Survey.

南京事件では”一般市民の組織的虐殺はなかった”(2015-12-02 22:44:04投稿)

謹告:本稿以後のブログ記事について、千を越えるおびただしいスバムコメントが書き込まれましたので、一旦削除し、コメントを受け付けないよう設定を変更し、記事を再掲することにしました。ご了承願います。


(12/1アゴラ投稿論文)
去る11月12日のフジテレビプライムニュースで、南京事件をめぐって大虐殺派の山田朗氏、中間派の秦郁彦氏、まぼろし派の藤岡信勝氏の討論が行われた。山田氏は南京陥落時の人口が60万位いたとか、崇善堂の埋葬記録(11万)を根拠に加えて十数万の犠牲者が出たなどと怪しげなことを述べていた。

秦氏は『南京事件』の3万人の捕虜不法殺害、1万人の一般市民殺害を主張していたが、後者の1万は、スマイス調査の江寧県等4県半の地域での犠牲者数より算出したもので、南京陥落後の「南京城及びその周辺」の犠牲者数ではない。その他、自説の根拠をティンパーリーの『戦争とはなにか』に求めたり、厳密を欠くエピソードを連発するなど、研究の停滞を感じさせた。

藤岡氏の発言で最も重要なものは”南京戦はあったが、一般市民の組織的な殺害はなかった”だが、幕府山事件の弁明は苦しげで、山田支隊が長勇の捕虜殺害の「私物命令」を無視して捕虜を解放しようとして失敗し、捕虜暴動から鎮圧に至った状況の説明をしなかったのは不可解だった。

だが、いずれにしろ、山田氏も秦氏も、南京陥落後に”一般市民の組織的殺害があったか否か”という論点については、安全区からの便衣兵の摘出処断や、幕府山事件における捕虜殺害に一般市民が含まれていた可能性を述べるだけで、”一般市民の組織的殺害はなかった”とする藤岡氏の主張に反証できなかった。

そこで問題となるのが、安全区からの便衣兵の摘出処断や、幕府山事件のような捕虜の殺害が、当時の戦時国際法に照らして合法であったか否かということだが、当時、国民党も国際連盟も、そして南京安全区国際委員会も公式にはこれを非難しなかったわけで、この事実を無視するわけには行かない。

おそらく、国民党にしてみれば、万を超す中国軍兵士が軍服を脱いで安全区に逃げ込んだり、敵に数倍する兵士がむざむざ投降したのは、「勇敢に敵を倒す忠誠な将士」にあるまじき行為だったに違いない。まして、それは南京防衛軍司令官の「敵前逃亡」によりもたらされたわけで、下手に抗議してやぶ蛇になることを恐れたのかもしれない。

そこで、これを「人道的見地」から非難する役割は「我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言者になってもらう」(『曾虚白自伝』)ことにしたのである。そのための宣伝本がティンパーリーの『戦争とはなにか』と『スマイス報告』だった。

これらの著作に関わった宣教師らは一定の節度は示していて、「南京安全地帯の記録」に掲載された事件について「これらは、我々の雇員により書面で報告された事件である」(匿名の中国人協力者の書面報告を英文に翻訳したもの)と注記していた。また、中国兵の処刑や戦争捕虜の処刑についても、国際法上の判断を避ける記述をしていた(『「南京事件」の探求』北村稔)。この点、同書の洞氏訳には、多くの意図的誤訳があることが北村氏や冨澤繁信氏により指摘されている。

しかし、その一方で、彼らは、『戦争とはなにか』では、中国国民党中央宣伝部の意を受けて「日本軍の暴虐」を伝聞を利用し醜悪かつ誇大に記述した。また、便衣兵等の摘出処断についても、捕虜の不法殺害や一般市民の虐殺を思わせる記述をした。

さらに、その記述は、s13年3月に紅卍会の埋葬記録が4万弱と出たことで、「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三0パーセントはかって兵隊になったことのない人々である」とエスカレートした。(なお、この加筆記述は、『戦争とはなにか』とほぼ同時に刊行された、その漢訳本『外人目撃中の日軍暴行』からは削除されているという―『南京事件国民党極秘文書から読み解く』東中野修道)

では、こうした「日本軍残虐宣伝」は何を目的にしていたかというと、これは『戦争とはなにか』の「結論」に記されているが、「中国が屈服することは許されない」それを許せば「現在、中国が体験している言語に絶する惨禍を繰り返す危険を冒すことになる」。これを防ぐためには、イギリスとアメリカは日本に経済的圧力を加えるべきであり、中国に武器援助や財政援助をすべきと訴えるためだった。

こうした宣伝工作が功を奏して、アメリカによる対日経済制裁が始まり、ひいてはアメリカを中国の抗日戦争に巻き込むことに成功したのである。さらに、こうした宣伝工作は、日本敗戦後の東京裁判決にも決定的な影響を与えた。このことは『戦争とはなにか』の記述が、エドガー・スノーの『アジアの戦争』(1941)によって、日本軍の残虐宣伝から、さらに日本人及び日本文化の残虐宣伝に変容したことによってもたらされた。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明参照)

そこでは、南京における日本軍の「残虐行為」は次のように描写された。
「南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世界に聞こえている。南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会の改称)・・・の委員が私に示した算定によると、日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもその大部分は婦人子供だったのである」「いやしくも女である限り、十歳から七十歳までのものはすべて強姦された」「この世界の何処においても日本の軍隊ほど人間の堕落した姿を念入りに、そして全く組織的に暴露しているものはない」日本人は「人種的に関連のあるイゴロット人の場合と同じく医者と首狩り人が今もなお併存している」「日本軍の精神訓練は・・・封建的な武士道に立脚している・・・今日行われている武士道は、気違いじみた人殺しの承認に過ぎぬ」

こうしたスノーによる日本人の描写が、太平洋戦争における日本軍の”バンザイ突撃”や”カミカゼ自殺部隊”の目撃を経て、アメリカ知識人の日本人観を形成した。そこでGHQは、「南京大虐殺」を日本本土の無差別爆撃や原爆投下の非人道性を相殺する格好の宣伝材料として利用した。GHQは、昭和20年12月8日から「太平洋戦争史」の掲載を新聞各紙に命じ、その連載の初日「南京虐殺」は次のように描写された。

「このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。 婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された」。同様の描写は、この「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにしたNHKのラジオ放送「真相はこうだ」、さらに「真相箱 」へと引き継がれた。また、これを受けて東京裁判では、新たな南京での証拠集めがなされ、中国は「30万大虐殺」を唱えるようになり、そして今日、「南京大虐殺」はユネスコ世界記憶遺産に登録された。

虚偽の謀略宣伝を放置すれば、それがいかに事実とかけ離れた大虐殺事件に変貌するか、まさに恐るべき情報戦争の世界である。では、日本人はこれにどう対処すべきか。秦氏は、「あったことは否定せず、訂正すべき部分は直すようにする」(プライムニューステキスト)と提言している(番組での実際の発言は”不毛の論争は止めた方がいい”だったが)。

では、その「あったこと」とは何か。私見では、それは南京陥落時の捕虜等の扱いにおいて、松井司令官より解放命令が出されたにもかかわらず、上海派遣軍参謀、長勇による”皆殺し”「私物命令」があったことが、拙速な便衣兵処断や捕虜暴動鎮圧を招いたこと。日本軍の統制さえしっかりしていれば避け得た事件だったのではないか、ということである。

一方、「訂正すべき部分」とは何か。それは先に述べた如く、そうした日本軍の統制の乱れに起因する「南京事件」は確かにあったが、少なくとも”一般市民の組織的な虐殺はなかった”ということ。このことを、日本政府は明快に主張すべきだということ。もちろん、これは、日中戦争を招くに至った日本の軍部主導の「力による大陸政策」を正当化するものではないことは、言うまでもない。

「南京事件」に関する私論へのHATENA::DAIARY様の反論への反論(2015-11-08 03:08:15投稿)

謹告:本稿以後のブログ記事について、千を越えるおびただしいスバムコメントが書き込まれましたので、一旦削除し、コメントを受け付けないよう設定を変更し、記事を再掲することにしました。ご了承願います。


拙稿「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」に対して、HATENA::DIARY氏から以下のような反論がありましたので、それに対する私の反論を掲載します。斜線部分が私の反論。

スマイス調査をろくに読まない否定論者
南京事件、歴史修正主義
アゴラ「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」における渡邉斉己氏の否定論についてです。

タイトルは「南京戦史」ですが、記事中(と言うより「南京戦史」が)ではスマイス調査についても言及されています。
市部調査の加害者についての印象操作
まず、この記述。

では、このスマイス調査にはどのような数字が書き込まれているか。「本調査」第四表によると、南京市部における、12月13日~翌1月13日の間の兵士の暴行(日付不明150を加える)による死者2,400、拉致され消息不明のもの4,200、合計6,600となっている。この数字は、その大部分が日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもので、かつ、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。

「この数字は、その大部分が日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもの」なら、加害者は日本軍と考えるのが普通ですが、渡邉氏は「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」と付け加えています。

本調査「まえがき」(M・Sベイツ)には「われわれ自身の立場は戦争の犠牲者にたいする国境をこえた人道主義の立場である。この報告書のなかでわれわれはほとんど「中国人」とか「日本人」等の言葉を使うことなく、ただ農民・主婦・子供を念頭に置いている」と書いている。実際、第4表「日付別による死傷者数および死傷原因」の死亡原因は軍事行動、兵士の暴行という区分はあるが、その加害者が日中いずれであるかのく分がなされていない。そもそも50戸に1戸の割合で抽出した数字を50倍した被害者数について加害者が誰であったかを正確に推定できるだろうか。なお、この「報告書の作成と調査結果の分析について、指揮者は金陵大学のM・Sベイツ博士の貴重な協力を得た」となっていおり、『戦争とはなにか』でベイツの果たした役割を考えると、その作為がこの分析に反映したことは当然である。

ちなみにスマイス調査では、表4の市部調査に関連する記述で以下のようなものがあります。

There is reason to expect under-reporting of deaths and violence at the hands of the Japanese soldiers, because of the fear of retaliation from the army of occupation.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

占領している日本軍を恐れて、日本軍による虐殺・暴行が過小評価されている可能性にスマイスはわざわざ言及しているわけです。

この英文資料の邦訳は『日中戦争資料9南京事件Ⅱ』(s49年刊)で読むことができる。この本をご存じないか、それとも訳文に不満か。この文章はスマイスの推測。そもそも加害者を特定しない調査であるから日本軍の報復を怖れる必要はないと思うが。

虐殺犠牲者を便衣兵扱い

ここで注意すべきは、この6,600人は、一般市民ではなくこの期間に掃討された兵士の数である可能性が大であること。また、この掃討について『南京戦史』は、「ことに城内安全区掃討(12月14日~24日)や兵民分離(12月24日~13年1月5日頃)の際、我が軍としては一応選別手段は講じたけれども、便衣兵と誤ったケースもあったようであるが、その最大の原因は安全区の中立性が犯され、便衣の敗残兵と一般市民が混淆してその選別が極めて困難になったことがある」としている。

渡邉氏はスマイス調査で示された虐殺拉致被害者らは、中国兵だと決め付けています。しかし、スマイスは基本的にこれらを市民(civilians)と呼び、少数の敗残兵が含まれている可能性が極僅か(the very slight possibility)だと言っています。

The figures here reported are for civilians, with the very slight possibility of the inclusion of a few scattered soldiers.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

これもスマイスの推測に過ぎない。6.600人の内拉致された4,200人について、スマイスは「拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた」と記している。兵士の暴行による男1,800人の死亡の47%846人が元兵士であったとすると、5,046人が元兵士の疑いをかけられたことになる。

さらに言えば、虐殺された2400人のうち650人は女性ですし、男性も半数(53%)は14歳以下と46歳以上で敗残兵とはまず考えられません。虐殺犠牲者の性別・年齢構成を考えれば、そのほとんどは市民であったとしか言いようがなく、「便衣兵と誤ったケースもあったようである」などという言い訳は通用しません。

この650人という数字は、紅卍会の埋葬記録(『侵華日軍南京大屠殺檔案』)では、死体数男41,183人、女75となっている。そもそもこの調査は市部では50戸に1戸の割合で調査し、その数を50倍して求めたものであり、調査段階の数字は13人だったことになる。いずれにしても、虐殺犠牲者の「ほとんどが市民であったとしか言いようがない」とはとても言えない。

拉致された4200人について言えば、男性ばかりで年齢も15才~44歳ですが、スマイスは給仕や売春を強要された女性の拉致被害者が短期間で帰れたのに比べて、深刻であることを指摘しています。また、その4200人も、中国兵だったというのは考えにくく実際、3月に13000家族が連行された家族の解放を求めていたことにスマイスは言及しています(このあたりの話は以前も書いています)。

拉致と連行とは違うのでは。

農村調査での犠牲者も否定。

また、スマイス調査における江寧県での死者9,160人という数字は、あくまで城外の(調査した100日間)の死者数であり、かつ「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。また、「我が軍の中国一般市民に対する基本的態度は、これを敵視しないことであった。市民の被害は我が軍が中国軍を攻撃し或は掃討などの戦闘行為をとったさい、その巻き添えによってやむなく殺害された場合を除いて、すべて個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」としている。

ここでも加害者が日本軍(だけ)ではないように印象操作する否定論を展開していますが、実際にはスマイス調査の報告書には以下の記載がちゃんとあります(この部分はベイツによる)。

Practically all of the burning within the city walls, and a good deal of that in rural areas, was done gradually by the Japanese forces (in Nanking, from December 19, one week after entry, to the beginning of February). For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces - whether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

この文章は本調査の「まえがき」にあるが、この前段には「南京の城壁に直接接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである」とある。なお中国軍の堅壁清野作戦をご存じか。また、「調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民に対する暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた」という記述が伝聞に過ぎないことは、拙稿「『南京大虐殺』が創作された歴史的経緯」で論じた通り。さらにwhether justifiably or unjustifiably in terms of policy, is not for us to decide.
訳文「そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない」と但し書きされていることに注意されたし。

「個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」という言い訳についてもスマイス調査から否定されています。

87 per cent of the deaths were caused by violence, most of them the intentional acts of soldiers.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

このように、ほとんどは日本兵による意図的な暴力(intentional acts of soldiers)だと書かれています。

これは「調査で回答のあったこの100日中の志望者総数」についてのもので、「死亡者の87%は暴行事件による死亡で、大半は兵士の故意によるもの」とあるだけで、その加害者が日中いずれであるかは問題とされていない。

そもそも江寧県しかカウントしないこともおかしい

大体、スマイス調査では江寧県以外に、句容県(暴行死:8530人)、溧水県(暴行死:2100人)、江浦県(暴行死:4990人)、六合県(半分のみ)(暴行死:2090人)の調査が行なわれていますから*1、それらを無視しているのもおかしいんですけどね。

拙稿では「日本軍が南京占領後、翌年1月までの間に発生した中国軍民の不法殺害」を問題にしている。なぜなら、「南京大虐殺記念館」の30万という数字が、「日本軍占領後6週間、城内外都市部とその近郊でで起こった虐殺事件」における虐殺数としていることと、江寧県以外の県における犠牲者については、南京城陥落以前の戦闘中に発生したものと見るべきだから。

そして結論として、スマイス調査の6,600人+9,160=15,760人という数字について「この中には前述したように、戦闘員としての戦闘死、戦闘行為の巻き添えによる不可避なもの、中国軍による不法行為や、また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ、さらにスマイス調査実施の際の手違いや作為も絶無とは言えない。また、第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても生命を完うした者もあるかもしれない」ので、「一般市民の被害者数はスマイス調査の15.760よりもさらに少ないものと考える」としている。

スマイス調査で挙げられている暴行死者数は、基本的に「戦闘死、戦闘行為の巻き添え」を除外しています。表4は、「Military Operations 」と「Soldiers' violence」を明確に区別していますし、表25でも「Causes of Death」の内訳を「Violence」としてカウントしています。

「暴行による死亡」には「戦闘死、戦闘行為の巻き添え」が含まれているのでは。なお、ここでも、その加害者が日中いずれであるかは問題とされていない。

「中国軍による不法行為や、また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ」などというのも、調査対象の日付とベイツの記述から明らかなように改竄に等しい内容です。

繰り返しますが、「For the period covered in the surveys, most of the looting in the entire area, and practically all of the violence against civilians, was also done by the Japanese forces」とはっきり書かれています。

これも本調査のベイツが記した「まえがき」にるもので、この期間の市民に対する暴行のほとんどを日本軍の所為にしているところに、ベイツによる明らかな作為が看取される。それは「戦争とはなにか」の記述における作為と同じ動機によるもの。

「第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても生命を完うした者もあるかもしれない」というのもひどい話で、スマイス調査報告が出る1938年6月の時点まで、半年経ってなお行方不明の者を“生きているかもしれない”といって犠牲者数を過小評価するのは異常です。

こうした判断は『南京戦史』によるものだが、必ずしも異常とは言えないのでは。捕虜として収容されていたものや「荷役と労務に使われた」例もあったであろう。

そもそも、拉致被害者4200人という数字自体が少ないという可能性をスマイスは指摘しています。

The figures for persons taken away are undoubtedly incomplete.

Indeed, upon the original survey schedules, they were written in under the heading "Circumstances," within the topic of deaths and injuries; and were not called for or expected in the planning of the Survey.
https://en.wikisource.org/wiki/War_Damage_in_the_Nanking_area_Dec._1937_to_Mar._1938

この文章は「数字自体が少ないという可能性」について述べたものではなく、最初の調査票には「拉致」がなく死傷者の「事情により」の欄に書き込まれた数字であったので、不完全だと言うのがより正確である。

まともにスマイス調査を読めば、市部調査の暴行死2400人、拉致4200人、江寧県の暴行死9160人、句容県の暴行死8530人、溧水県の暴行死2100人、江浦県の暴行死4990人、六合県(半分のみ)の暴行死2090人を合せた33470人でさえ、市民の犠牲者数見積もりとしては控えめな数字だとわかります。

「一般市民の被害者数はスマイス調査の15.760よりもさらに少ないものと考える」のは、最初から犠牲者数の過小評価、あわよくば皆無にしようという偏向の表れに過ぎません(そもそも「南京戦史」はそういう目的で編纂されたわけですから当然ですが)。

貴方の主張には「あわよくば犠牲者数を水増ししようという偏向の表れ」が見える。拙稿では『南京戦史』の紹介をしたわけだが、これが今日までの南京事件に関する研究では最も信頼に値するものだと私は評価している。多くの研究者も同様の評価だと承知している。

それにしても、未だに南京軍事法廷や東京裁判を“結論先にありき”であるかのように批判する論者は大勢いますけど、それなら、南京事件を否定しようという“結論先にありき”で編纂された「南京戦史」を鵜呑みにするのはどうなのか、と思わざるを得ませんし、そのようなスタンスで編纂した「南京戦史」でさえ南京事件は否定できなかったことの重みを感じて欲しいものとも思います。

拙稿で私は「南京事件」はあったが一般市民を対象にした「計画的かつ意図的な南京大虐殺はなかったと言っている。もちろん『南京戦史』もそういうスタンス。「それにしても、未だに南京軍事法廷や東京裁判を“結論先にありき”であるかのように肯定する論者」がいるが、”結論先にありき”ではなく、まず事実に肉薄することが先で、その上で当時の時代条件の中でフェアーにその行為の当不当を考えるべきではないか。なお、『南京戦史』はその当不当についてはそれを判断する具体的な資料がないので避けた」と言っている。また、南京軍事法廷や東京裁判がおかしなことは”結論先にありき”でなくても少し勉強すればすぐ分かる。

2015年11月 3日 (火)

「南京大虐殺」が創作された歴史的経緯

前稿(「『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相」)で、いわゆる「南京大虐殺」について、「南京防衛軍司令官の”敵前逃亡”でパニックに陥り撃滅処断された兵士が相当数いた(その中には不当なものもあった)ことは事実だが、一般市民に対する計画的な不法殺害はなかった」と記した。

しかし、実際は唐生智は”敵前逃亡”ではなかった。当時はそのように受け取られ、「軍事裁判の結果死刑」との情報が流れたが、実際には唐は生きていて、戦後も共産党政権下で湖南省副所長などを歴任したことが判っている。さらに、唐の脱出は蒋介石の命令であったことも判っている。それは軍主力をいち早く撤退させ戦力を温存するためだったが、蒋が降伏を認めなかったため、逃げ遅れて日本軍に殲滅処断された兵士も多かった。


また、この時「安全区」に「埋兵」を置き、略奪・放火・強姦などの攪乱工作をさせた。これを日本軍の暴虐宣伝に利用したのが、南京安全区国際委員会の主要メンバー(スマイス、ベーツなど)であった。これが意図的であったかどうか不明だが、ベイツは中華民国政府顧問であり「蒋介石から二度勲章をもらった」人物(東中野)。スマイスも国民党中央宣伝部国際宣伝処の工作を受けていたことが判明している(北村稔)。

彼らは、日本軍の南京占領後「南京安全区国際委員会」(委員15名)を組織し、南京城内に残された中国難民約20万人の保護・救済を名目に、日本軍に対して難民の食料・住居の配分、警察権などの行政権を主張した。日本軍は「安全区」の存在を正式には承認しなかったが、パネー号事件で英米に気を遣っていたためか「承認したものの如く」扱った。ここに、「安全区」の管理をめぐる国際委員会と日本軍との確執が生じた。

この確執の記録が、南京安全区国際委員会が南京の日本大使館等に提出した『南京安全地帯の記録』(s12.12.16~翌2月上旬間の安全地帯における日本兵の不法行為の事例)である。ここには、第一部189件、第二部255件の事例が列挙されており、第一部は日本側に提出された公式文書であるが、第二部は単なる「覚書」であり公式文書ではない。いずれにしろ、ここに列挙された事件が、彼らが訴えた南京城内で発生した事件の全てである。

では、この記録の中に殺人事件は何件あるかというと、驚くなかかれ22件で被害者は53名である。その他の強姦、略奪、放火、拉致、傷害、侵入、その他は、冨澤繁義氏の「データーベース南京事件の全て」によると、これらの中から、文責のないものを除き、さらに被害者不明な人的事件を除き、人的事件以外では被害場所不明なものを除いた「事件らしい事件」は97件となる。

この97件は南京城内における2ヶ月間の事件数であるから、1日あたり1.6件、20万都市の犯罪件数としては極めて少ない。では、なぜこれが南京の「terror=暴虐」となったか。それは、事実関係の確認されていない訴え=伝聞をそのまま日本軍兵士の犯行としたため。確かに日本軍の責めに帰すべき事件や日本軍兵士の引き起こした事件も多かったようだが、国際委員会は、事実確認より日本軍の暴虐を訴えることを優先したのである。

こうした彼らの作為は、彼らがティンパーリー(国民党中央宣伝部顧問)に協力し出版した『戦争とはなにか――中国における日本の暴虐(The Japanese Terror in China)』1938.7)に明白である。この本は、先の『南京安全地帯の記録』に多く依拠しているので、いわゆる大虐殺(massacre)とは題されていない。しかし、ここでは暴虐から大虐殺にするための重大な事実の改変が行われている。それは、『南京安全地帯の記録』では公式に訴えることができなかった安全区からの敗残兵の摘出処断を、不法殺害ないし市民虐殺としたことである。

この本の第四章「悪夢は続く」には、「一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました・・・これらの者は追い詰められた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されたりしましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています」と書かれている。(この記述者は次の第三章の記述と同じくベイツ)

さらに第三章「約束と現実」には、「四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、そのうちの約三0パーセントはかって兵隊になったことのない人々である」と書かれている。つまり、安全区に逃げ込み摘出された一万人以上の兵士を、不法殺害された兵士の如くいい、また、一般市民も殺されたといい、さらに、その総数を4万人とし、その30%1万2千人を一般市民としたのである。

なお、前稿で紹介したスマイス調査についてであるが、その調査書第四表とは別に、本文2「戦争行為による死傷」において、拉致された4,200の数の付記として、「市内及び城壁付近の地域における埋葬者を入念な集計によれば、12,000の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器を持たないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない」という記述がある。(ベイツに付き合った?)

スマイスは、この数字の根拠を「紅卍会の埋葬者の入念な集計」としているが、紅卍会の埋葬記録では、男41,183、女75、子ども20(訂正:この数字は城外区の集計、城内区は男1,759、女8、子供26(56?))となっている。また、この数字も、「当時、特務機関兵として南京に駐在し埋葬問題を取り扱った」丸山進氏によれば、「民生を潤すために大幅な水増しをみとめた」という(実数3万人前後)。一般市民が大量虐殺されたのなら女83、子ども46(76?)という数字には止まらないだろう。

それにしても、日本軍による相当数の「捕虜や敗残兵、便衣兵」の処断が行われた(『南京戦史』では1.6万、ただし、この数字は南京城攻防戦全体での犠牲者数であって南京陥落後の数字ではない)ことは事実である。私は、これは松井大将が入場式を12月17日に強行したためではないかと考えたが、松井大将としては、一刻も早く戦闘状態を終わらせたかったのかもしれない。氏の日記にはこのことの反省はない。

しかし、問題は、中国軍が投降せず、安全区で後方攪乱を行い、かつ国際委員会は国民党宣伝部と結託して日本軍残虐宣伝を行っていたと言うこと。つまり、「戦闘」は継続していたのである。これが日本軍の掃討作戦を過酷にした主たる原因なのではないか。「戦闘」が最終的に終息したのは、昭和13年2月14日、国際委員会委員長ラーベ宅から二人の中国軍将校が姿を消した時。ラーベは翌日の日記に「我々の友情にひびが入った」と書いている。

おそらく、こうした「南京事件」をめぐる「実相」は、当時の人々には自明だったのではないか。国民党も顧維鈞が一度言及しただけで、国際連盟も問題にしていない。ところが、この『戦争とはなにか』の記述が、戦後にわかに復活した。昭和20年12月9日より、GHQがNHKラジオで毎日放送させた「真相はかうだ」では、「陥落前の南京」と題して「この南京大虐殺こそ、近代史上希に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名が惨殺されたのであります」となった。(『真相箱』)。

その後、「南京大虐殺」は東京裁判を経て”正式に”復活した。それは国民党の戦時プロパガンダ(日本軍残虐宣伝)として始まり、アメリカ人宣教師らがそれに協力して虐殺事件に改変し(人種的優越感と共に日本軍国主義に対する嫌悪感がその根底にあった)、戦後、アメリカがそれを原爆等の非人道性相殺のために利用し、さらに国共内戦におけるヘゲモニー争いで国民党が日本軍国主義との戦いのシンボルと化した。今は、中共がそれを日米離間に利用している。

『南京戦史』が明らかにした「南京事件」の実相

田原総一朗氏は、「記憶遺産登録の『南京大虐殺』を日本は完全否定できるのか」〈週刊朝日〉と題する記事の中で、南京事件の被害者数について次のような見解を示している。「日本人の研究者が示すように、4万人にせよ6万人にせよ大勢の中国市民が旧日本軍に殺されたのは事実なのである。」
はたして、これは事実だろうか。おそらく、こうした見解は、中間派とされる秦郁彦氏の不法殺害4万人説(兵士3万、民間人1万―2007年改訂版『南京事件』)の影響が大きいと思う。秦氏は、この本で、軍人捕虜の不法殺害3.0万人、民間人の不法殺害1.0万人、合計4.0万としつつ、この4万の概数はあくまで最高限であり「実数はそれをかなり下回るであろう」としている。

秦氏の『南京事件』の初版は1986年で、ここには「最高限云々」の記述はなかった。しかし、1989年に偕行社より『南京戦史』が刊行され、「南京事件」の実相が明らかにされたことで、2007年の改訂版ではこのような「但し書き」が加えられた。また、『南京戦史』による「不法殺害の規模」について「単行本はすべて不法殺害とは言えぬがとの条件付きで『捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅若しくは処断』した兵士を約一万六千、民間人の死者を一万五七六0人と推定した」と紹介している。

だが、この紹介だけでは秦説と『南京戦史』説の違いは分からない。そこで、以下『南京戦史』の見解を紹介する。これによって、”南京事件では、なぜ軍人捕虜等の殺害の当・不当の判定が困難か”。また”意図的な一般市民の殺害があったかどうか”が明らかになるからである。

『南京戦史』は、南京戦における中国軍兵力7.6千人、その内訳は、戦死約3万、生存者(渡江、突破成功、釈放、収容所、逃亡)約3万、撃滅処断約1.6万としている。この1.6万という数字は、「捕虜や敗残兵、便衣兵を撃滅処断した実数を推定したもので、戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない。これらの撃滅、処断は概して攻撃、掃討、捕虜暴動の鎮圧という戦闘行為の一環として処置されたものである。しかし、これらを発令した指揮官の状況判断、決心の経緯は戦闘詳報、日記等にも記述がないので、これらの当、不当に対する考察は避けた」としている。

いうまでもなく、この1.6万というのは、兵士の処断数であって、民間人の虐殺を含まない。では、いわゆる「南京大虐殺」における一般市民の殺害に関する記録はあるかというと、「日本側にも中国側にもなく、第三国人の作った資料として『南京地区における戦争被害』(スマイス調査)が唯一のものであり、学術的かつ比較的公正なものと判断される」と言う。

では、このスマイス調査にはどのような数字が書き込まれているか。「本調査」第四表によると、南京市部における、12月13日~翌1月13日の間の兵士の暴行(日付不明150を加える)による死者2,400、拉致され消息不明のもの4,200、合計6,600となっている。この数字は、その大部分が日本軍の掃討期間(12月14日~24日)のもので、かつ、「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。

ここで注意すべきは、この6,600人は、一般市民ではなくこの期間に掃討された兵士の数である可能性が大であること。また、この掃討について『南京戦史』は、「ことに城内安全区掃討(12月14日~24日)や兵民分離(12月24日~13年1月5日頃)の際、我が軍としては一応選別手段は講じたけれども、便衣兵と誤ったケースもあったようであるが、その最大の原因は安全区の中立性が犯され、便衣の敗残兵と一般市民が混淆してその選別が極めて困難になったことがある」としている。

また、スマイス調査における江寧県での死者9,160人という数字は、あくまで城外の(調査した100日間)の死者数であり、かつ「その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない」。また、「我が軍の中国一般市民に対する基本的態度は、これを敵視しないことであった。市民の被害は我が軍が中国軍を攻撃し或は掃討などの戦闘行為をとったさい、その巻き添えによってやむなく殺害された場合を除いて、すべて個別的な偶発や誤認の結果生じたものが圧倒的に多い」としている。

そして結論として、スマイス調査の6,600人+9,160=15,760人という数字について「この中には前述したように、戦闘員としての戦闘死、戦闘行為の巻き添えによる不可避なもの、中国軍による不法行為や、また堅壁清野作戦による犠牲者などが含まれ、さらにスマイス調査実施の際の手違いや作為も絶無とは言えない。また、第四表の拉致4,200人の内、調査の時点では行方不明でも、後日無事帰還した者や、たとえ帰還しなくても生命を完うした者もあるかもしれない」ので、「一般市民の被害者数はスマイス調査の15.760よりもさらに少ないものと考える」としている。

ここで、一般的に南京大虐殺という場合、日本軍が12月13日に南京を占領して後、翌1月までの間に発生した中国軍民の不法殺害を問題にする。従って、上述した城外の江寧県の死者を「個別的な偶発や誤認の結果生じたもの」と見なして除くと、市部調査の6,600人のみとなり、これは先に述べた通り、城内安全区の掃討等において便衣兵と見なされ摘出された人数と重複していると思われるので、結局、「南京事件」においては、南京防衛軍司令官の”敵前逃亡”によりパニックに陥り撃滅処断された兵士が相当数いた(その中には不当なものもあった)ことは事実だが、一般市民に対する計画的な不法殺害はなかった、ということになる。

2015年8月28日 (金)

安倍「70年談話」は歴史認識における「日本人の視点」確立に寄与する

私は、安倍首相も、村山談話や河野談話を”全体として引き継ぐ”と言っているのだから、あえて「70年談話」を出す必要があるのか、と思っていました。そもそも歴史認識というのは、基本的には内政の問題であって、他国から強要される筋合いのものではないからです。

しかし、日本の場合は、極東軍事裁判によって満州事変以降の歴史が裁かれ、かつ占領期間中のWGIP(ウオーギルトインフォメーションプログラム)によって、戦勝国に都合の良い歴史認識を「教化」されたために、日本人は今日に至るも、自らの視点に基づく歴史認識を持てずにいます。

こうした状態につけ込み、これを外交カードとして使い、「日本の国論を分裂させ、日米の同盟関係を離間させ、日本を国際的に孤立させる」いわゆる孫子流の兵法を駆使しているのが、中国や韓国です。従って、中国や韓国がこうした状態を持続させたいと思うのはその伝統からして当然です。

これに対して安倍首相は、いわゆる「戦後レジーム」に基づく歴史認識を、日本人の視点から見直そうとしているわけですから、必然的に、中国や韓国のこうした思惑とは齟齬を来します。そこで、村山談話や河野談話との関係もあり「70年談話」が注目を集めたわけですが、それは、バンドン会議や米国の上下両院合同会議における安倍演説に沿ったものになることが予測されました。

いわく、戦前昭和の日本は、国際紛争を武力で解決しようとして侵略戦争を起こし自国のみならず近隣諸国に多大な犠牲を強いた。戦後の日本は、こうした先の大戦の深い反省を胸に、いかなる時でも、“侵略の行為、武力の行使によって他国の領土保全や政治的独立を侵さない”“国際紛争は平和的手段によって解決する”と誓った。また、戦後の世界秩序の基本原則である「自由、民主、人権、法の支配」を守ることで、戦後70年の平和と繁栄を達成した。こうした世界秩序の原則に基づき、日本は「積極的平和主義」の旗印の下、世界の平和と安定に貢献するつもりである、云々。

「70年談話」は、こうした反省と抱負を基軸として、被害を被った関係国や人々にあらためて謝罪し、”二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない”と誓いました。それに加えて、この談話は、戦前の昭和史の理解に”事実に即した視点”を導入することに成功しました。このことについて、欧米各国はもちろん中国や韓国からも、正面切った批判はなされていません。

ところが、驚くべきことに、朝日新聞は、2015年8月15日の社説で「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と論評しました。その理由は、この談話は「日本の行為を侵略だと認め、その反省とアジアの諸国民へのおわびを、率直に語っていない。そのため、国民とアジア諸国民との間に横たわる(不信感の)負の連鎖を断ち切ることに失敗した」というものでした。

率直に言って、私自身がこの談話を実況で聴いた後のその最初の印象は、そこまで四方八方に気を遣って謝らなくてもいいのでは!というものでした。従って、朝日新聞の「日本の行為を侵略だと認め、その反省とアジアの諸国民へのおわびを、率直に語っていない」とする批判は、私には大変意外でした。では、朝日新聞は何が不満でこうした論評をしたのでしょうか

それは、この談話が、戦前の日本のアジア侵略の歴史について、それは「戦争自体を違法化する(当時の)国際社会の潮流」に反して、国際紛争(=満州問題)を武力で解決しようとしたこと。その原因の一つとして世界恐慌後ブロック経済が導入されたこと。それ以前は、日本もこの「国際社会の潮流」を支持していたこと、などの論述が、朝日新聞には「言い訳」のように聞こえたのかもしれません。

もちろん、その原因はブロック経済だけではありません。「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)報告書」によると、「パリ講和会議において人種差別撤廃決議が否決されたこと、1924年に米国議会で日本人が帰化不能外国人とされ、移民枠ゼロとされたこと」なども指摘されています。

また、談話では、明治維新以降、昭和に至るまでの世界が「西洋諸国を中心とする植民地化」の時代であり、「植民地化」が「世界を覆った」時代であったこと。これに対して日本は、明治維新を経ていち早く近代化に成功し「植民地化」を免れたこと。日露戦争は「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気」を与えたこと、にも言及しています。

しかし、大正末から昭和の初めにかけて、先に指摘したような、人種差別問題、移民排斥問題があり、さらには世界恐慌に端を発する米の高関税政策や英のブロック経済が自由貿易体制を崩壊させたこと。そのため「持たざる国」日本は経済的に追い詰められ、英米に対する反感が高まったこと。また、国内的には、関東大震災や東北地方の冷害などが重なり、社会不安は一層増大しました。

また、「21世紀構想懇談会」報告書には言及されていませんが、日本は1922年のワシントン会議において、アメリカから日英同盟の破棄を迫られました。当時の駐米大使でこの外交交渉の全権を担った幣原喜重郎は、日英同盟に代えて日米英仏による四カ国条約を締結しました。これは、日英の集団的自衛体制から、日英米仏による集団安全保障体制へと切り替わったことを意味しました。

しかし、その後、この四カ国による集団安全保障体制は、太平洋方面(中国を含む)においてほとんど機能せず、そのため、英国の後ろ盾を失った日本は、満州における権益をめぐって中国と激しく対立するようになりました。ここから、日本の「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しよう」とする動きが軍に生まれました。それが、関東軍の一部将校によるクーデター的性格を持つ満州事変に発展したのです。

また、これら青年将校の暴走の原因として、ワシントン軍縮会議後断行された海軍軍縮や陸軍軍縮の影響を見逃すことはできません。こうした思い切った軍縮が、軍人の早期退職を含む処遇の低下や威信の低下をもたらし、社会的な軽視や揶揄さえも生むようになりました。これが当時のエリート青年将校の心に”10年の臥薪嘗胆”という言葉を芽生えさせ、これが昭和の青年将校を暴走させる一つの心理的要因となったのです。

残念ながら、当時の政治はこうした問題に適切に対応できませんでした。また、統帥権を盾に取って暴走する軍に対して、明治憲法に基づく「国内の政治システムは、その歯止め」たり得ませんでした。こうして「日本は、世界の大勢を見失」い、満州事変、そして国際連盟からの脱退を経て、「新しい国際秩序」への「挑戦者」となり、日中戦争、対英米戦争に突入し、国を滅ぼすことになったのです。

談話では、このように、日本の明治維新以降昭和の敗戦に至るまでの歴史を簡潔に述べた上で、日本が、国際紛争(=満州問題)を武力で解決しようとしたことが、日本が国策を誤った最大原因だったとしました。この間、国内外におびただしい犠牲を生んだことに対し、「深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます」と、謝罪と哀悼の言葉を述べています。

これに対して、安倍首相自身の反省の言葉がないとか、間接的な反省に止まっている、などの批判がなされていますが、内閣が国を代表して反省するのですから、安倍首相個人の反省ではなく、次のように「我が国」が主語であっていいと私は思います。

「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」

また、こうした反省を踏まえて、今後、日本人は、どのように世界の平和と安定に貢献していくかを述べるに際しては、次のように「私たち(=日本国民)」が主語であっていいと思います。

「私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。」

まあ、この談話でタクティカルな論述と思われる部分は、こうした戦前昭和の日本の反省から得られる教訓を、「国際紛争を武力で解決しようとしたこと」に集約したこと。そして、戦後の日本は「いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべき」ことを原則に、戦後一貫して、平和国家としてのあゆみを続けてきたと、戦後の日本の歩みを自負しているところです。

「だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」。つまり、安倍首相の「積極的平和主義」を、以上の論述の帰結に位置づけているのです。言うまでもなくこれは、中国が「力により現状変更しようとしている」ことに対する批判にもなっています。

伝えられるところでは、この談話に対する評価は、国内の世論調査〔YAHOO(8.14~9.3)〕では、評価するが約73%、評価しないが約27%になっています。また、欧米各国の評価も高く、東南アジア各国の評価も総じて好意的です。もちろん中国や韓国の反応は批判的ですが、かなり抑制的なものに止まっています。

これに対して、欧米メディアの中には批判的なものもありますが、その論理は曖昧です。これは、談話が、侵略戦争の原因として、かっての欧米の植民地主義やブロック経済の存在等を指摘したこと。つまり、村山談話のような「無条件謝罪」ではなかったこと。かといってそれへの反論が困難なこと。これらが、欧米ジャーナリズムを「不満」に陥れた要因ではないかと思います。

私は、この安倍首相の「70年談話」によって、中国や韓国を含む国際社会からの日本の歴史認識をめぐる批判は、終息に向かうと思います。一方、安倍首相のもう一つの課題である”日本の近現代史を見る際の「日本人の視点」を確立する”については、この談話及び「21世紀構想懇談会」報告書が、今後、ベーシックなテキストになるのではないかと思います。

その意味で、私は、「21世紀構想懇談会」報告書及び安倍首相の「70年談話」を高く評価します。これによって日本の近現代史、とりわけ昭和史に関する理解は、中国や韓国が主導する「政治的プロパガンダ」から、より客観的な「事実に即した理解」へと進んでいくと思います。そのためにも、学校のみならず、一般社会においても、近現代史とりわけ昭和史を学ぶ気運が高まって欲しいですね。

2015年7月11日 (土)

戦争の反省で大切なことは、自分自身の問題として考えること

幣原が日本国憲法に関わったのは、第9条と象徴天皇制に関わる部分だけです。実際に新憲法草案の起草にあたったのは、GHQ民政局を構成する、ユダヤ人ケーディスを中心とする、いわゆるニューディール派と呼ばれた人々でした。彼らは、ワイマール憲法などを参考に、社会主義的理念に裏打ちされた憲法を作りました。それは、前稿で述べたような終末論的歴史観を背景に、階級闘争的な善悪二元論を日本国憲法に持ち込むものでした。(『日本人に謝りたい』モルディカイ・モーゼ参照)

また、GHQは、東京裁判やWGIPに基づくプレスコードによって、日本人に侵略戦争の罪の意識を植え付けると同時に、その一方で、その戦争責任を「一部の軍国主義者」に負わせ、一般の日本人を戦争の罪から免除しました。こうして、かってアメリカと死力を尽くして闘った日本人を、「軍国主義グループ」と「平和愛好グループ」に分断し、対立させることに成功したのです。

こうした、マッカーサーによる日本人の分断計画を持続させるためのセンターピンの役割を果たしたのが、憲法第9条2項でした。一方、この条項は、幣原の狡知によって、戦後の日本が東西冷戦時代の戦争に巻き込まれることを防いできましたが、その結果、憲法9条2項を守ること、すなわち日本が「戦力」を持たないことが、日本及び世界の平和につながるとの非現実的な観念を生むことになりました。

こうした考え方は、”自国の手足を縛ることが世界の平和につながる”という一種「自虐的」な考え方です。しかし、先ほどの、日本には「軍国主義グループ」と「平和愛好グループ」がある、という考え方に立ち、自分は後者に属すると考えれば、自分は過去の戦争の責任から免れるだけでなく、自分を被害者とすることで自分以外の「軍国主義グループ」を批判できることになります。

言うまでもなく、こうした考え方は、日本の占領統治上仕組まれたものですが、日本が独立した後も、こうした考え方が日本国民に根強く残ったのはなぜかを考える必要があります。その原因は、上述したように、GHQの占領政策によって、侵略戦争の罪の意識を植え付けられたことと、日本人が「軍国主義グループ」と「平和愛好グループ」に分断されたためでしょう。

アメリカは、そうした工作を行った張本人ですが、憲法9条2項については、朝鮮戦争以降”失敗だった”と地団駄踏んだことでしょうが、しかし、WGIPに基づくプレスコードによって日本人に一方的に侵略戦争の罪の意識を植え付けたことについては、それほど反省しているようには見えません。なお、中国や韓国の場合は、何とかしてこれを復活し宣伝に利用しようと躍起です。

さて、では、日本はこうした構図の中で、どのような安全保障策を構築すべきでしょうか。まず、アメリカですが、東京裁判やWGIPで一方的に日本を断罪し、日本人が自分自身の目で戦争を反省する機会を奪ったことについて反省してもらう。中国や韓国には、これらデタラメの日本断罪を根拠に、虚偽の日本軍残虐宣伝を繰り返していることに対して、事実をもって反証する。

最後に、日本人自身ですが、戦争の反省を、他人事じゃなく日本人である自分自身の問題として考える。そもそも、日本は昭和の戦争で何を間違えたか。私は、その原因は、軍が政治の実権を握ったことにあると思っています。それが、日本の外交判断を狂わせ、するつもりのなかった日中戦争を誘発し、さらに、するはずのなかった日米戦争に引きずり込まれたのです。

私は、日中戦争のこうした性格について”慢鼠窮描に噛まれる”、日米戦争について”慢描窮鼠を噛ませる”と表現していますが、この謎を、冒頭に紹介したような、「闇の国」VS「光の国」という図式で解くことはできません。もちろん「一部の軍国主義者による世界侵略のための共同謀議」があったわけでもありません。むしろ、計画なしの行き当たりばったりだったことが問題なのです。

そこには、漠然とした「東洋王道文明=道徳文明」対「西洋覇道文明・植民地文明」という対立図式があり、日本が盟主となってアジアをリードするという「アジア主義」があったことは事実です、しかし、不幸にも、それが当時流行した反近代思想の一つである国家社会主義と結びつき、それを日本国民やマスコミが支持したことで、軍が政治の主導権を握ることになったのです。

しかし、こうした日本の失敗は、戦前昭和の一時期のことであって、戦前の日本が、ずっと「軍が政治の主導権を握った暗黒時代」であったというわけではありません。それは、幣原喜重郎が、終戦直後、首相として憲法改正に取り組もうとしたときの基本認識を見ればよく分かります。氏は、首相となった時の施政方針演説で、憲法改正について次のように述べています。

「明治憲法は本来相当の自由主義、民主主義的性格を有することを認め、ただそれが実際政治上誤って運用せられ、今日の結果を生んだとし、今後その運用の余地なからしめ、その本来の軌道に復せしめる為の改正が要求されているのだ」。「現行憲法下でも、ポツダム宣言の履行(平和主義、言論、思想及び宗教の自由その他基本的人権の尊重)は可能」

日本国のあり様についての、こうした幣原の基本認識は、マッカーサーが戦前の日本を「闇の国」とし、戦後、それを「光の国」にすべく日本人を回心させようとした時の、日本観及び日本人観とは全く別のものです。確かに幣原は、「戦力不保持」条項を日本国憲法に書き込ませましたが、その狙いは上述したようなもので、それによって占領軍に一矢を報いたのです。

問題はその後ですね。こうした外交上の「負けて勝つ」の秘策が、一方では、占領軍による先述した通りの日本人洗脳計画の遂行によって、あたかも”日本人の手足を縛ることが世界平和に貢献する”かのような倒錯した心性を日本人に植え付けた。しかし、それは先述した「終末論的歴史観」が生み出したものなのです。(もっとも多くの日本人はこれを「空体語」として「実体語」にバランスさせているだけだと思いますが)

今日、自民党提出による安保法制論議が行われていますが、まず、上述したような”自分の手足を縛ることが世界平和につながる”といったような倒錯した発想から脱却すべきです。その上で、憲法第9条は、自衛権を否定するものではないことを改めて確認すべきです。その上で、それを専守防衛の観点に立っていかに行使すべきかを議論すべきだと思います。

もちろんアメリカとの同盟は不可欠です。それがあったからこそ、戦後の日本の平和と繁栄は可能となりました。しかし同時に、GHQによる、日本占領期間中における日本人の思想改造計画は、当時の国際法上も、日本国憲法からも決して許されるものではなかったことを知るべきだと思います。また同様の過ちを犯さないよう、日本は必要に応じてアメリカに助言すべきです。

そこで、今後の日本の安全保障をどうするかということですが、先ず第一に、島国の通商国家として、自らの国力に応じた安全保障策をとること。もちろん大国にはなれません。それ故に大国アメリカとの同盟は不可欠ですが、その集団防衛はあくまで専守防衛を原則とすべきです。また、国際社会の平和維持活動には同様の観点から参加すべきです。

以上のことが、憲法9条の解釈上許されないというなら、当然、これを可能とするよう9条2項の規定を改正すべきです。当面それができないなら、その解釈を変更するしかありません。

それが憲法違反となるかどうかは、最高裁判所が判定すべきことですが、砂川判決では、「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」ことに基き、日米同盟は「その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断・・・究極的には国民の判断」としています。

従って、その日米同盟を、専守防衛の観点から有効に機能させるために、集団的自衛権の限定的容認が必要なら、それを可能とすべく、従来の憲法解釈を見直すべきです。要は、いかにして日本の安全保障体制を専守防衛の観点から再構築するかです。そうした日本の意思を明確に示すことが、日本のみならず極東ひいては世界の平和に寄与することになると思います。

以上

幣原喜重郎の「戦力放棄」は「本心」か「欺し」か?

前稿「日本国憲法は日本人にとって『栄光』」かそれとも『屈辱』か」で、私は、日本国憲法がその背景に持っていた世界観について山本七平を引用し次のように述べました。

「この世界には『平和を愛する諸国民』(光の子)と「戦争を愛する諸国民」(闇の子)とがあり、そして「闇の子」は終末的な戦争において滅んだ」。そして、その「闇の子」は戦後悔い改め「回心」して「光の子」となり、「平和を愛する諸国民」(光の子)の「公正と信義に信頼して」自らの「安全と生存を保持しようと決意した」

これが、日本国憲法前文に書かれていることで、この「平和を愛する諸国民」の代表がアメリカであり、「闇の子」である日本人を「回心」させるための作業が、一つは東京裁判であり、もう一つが、WGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に基づく、プレスコードによる徹底した言論統制であったわけです。

なぜ、こんな事を改めて言うかというと、日本国憲法を「ノーベル平和賞」に推薦する運動があるように、この日本国憲法を日本人の「栄光」と考える人が多いからです。しかし、以上の事を知れば、日本国憲法が前提とする歴史観や世界観は、戦勝者が敗戦者に押しつけたものであって、こんな世界観の下に、日本人に罪悪感を植え付けようとしたことは、決して許されることではない、ということです。

といっても、日本国憲法の本文は、第9条2項を除いて、決しておかしなものではありません。日本語として”おかしい”と批判する意見もありますが、それはドイツのワイマール憲法のほか日本側の憲法改正案なども参考にしたらしく、ある意味「理想的過ぎる」もので、日本の自由化、民主化を徹底する上では一定の効果を発揮したと思います。

問題はその第9条2項ですが、なぜこれが問題になるかというと、この条文で、日本は国際紛争解決のための「戦力」を持たないとなっており、従って、国家の自然権とされる自衛権の発動において「戦力」を持つことができない。しかし、「戦力」以下の「自衛力」なら持てる・・・などといった訳の分からない解釈を生んでいるからです。

これは、本来持ってはいけない「戦力」を「自衛力」という言葉でごまかして持っていることになります。その結果、自衛隊の存在がごまかしになる。つまり、憲法第9条2項によって、日本の安全を守るための「自衛力」そのものが、何かしら罪深いことのように思われてくるのです。なにしろ、この憲法は、冒頭紹介したように、日本の軍隊を「戦争を愛する諸国民」の軍隊と見なしているのですから。

では、この憲法9条2項は誰が発案したか、ということですが、これは当時の総理大臣であった幣原喜重郎とする意見が有力です。

では、なぜ幣原はこのような日本の主権を制限するような条文を発案したのでしょうか。それは、戦争終結直後、連合国内に「天皇と戦争を不可分」とする意見が大勢を占めていたので、そんな中で、天皇制を維持するためには、憲法に「戦争放棄」を書き込み「天皇と戦争を切り離す」必要があったからです。

しかし、こんなことは国内の憲法改正論議の中では言い出せることではないので、幣原は、独断で、このアイデアを「マッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心し」、S21年1月24日に一人でマッカーサーを訪問しました。そして、「二人で長い時間話し合った」結果、そのアイデアが、新憲法の象徴天皇制及び第9条の戦争放棄条項に反映されることになったのです。(平野文書「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」S39.2)

しかしながら、この時、日本政府も憲法改正のための作業を進めていて、「憲法改正要綱」(いわゆる松本案)がほぼ出来上がっていました。従って、幣原がこの時マッカーサーに、”憲法に戦争放棄条項を組み込むことを提案した”のは、あくまで現在進行中の日本側の憲法草案に、そうした条文を盛り込むべく、マッカーサーに命令を出して欲しいと要望したに止まるのではないかと思います。

従って、その後、GHQがにわかに新憲法草案を作成し、日本側に押しつけてくるとは、幣原も思っていなかったのではないでしょうか。堤堯氏の『昭和の三傑』では、幣原はそこまで予測していて、まず味方を「欺く」事からはじめた、というような書き方がなされていますが、1月30日の松本案の審議では、幣原は「軍の規定を憲法に置かない」ことを主張しています。

ただ、いずれにしても、憲法に、「戦争放棄(戦力放棄を含む)」に関する条項を、日本側の誰にも相談せず(あるいは天皇の内諾を得ていたのかも?)、独断で、マッカーサーの指示によって書き込ませたことは事実です。そこには、天皇制の維持という目的に加えて、もう一つの、幣原ならではの「負けて勝つ」起死回生の外交戦略が隠されていました。

それは、前稿でも言及した通り、戦後の東西イデオロギー対立が顕在化する中で、日本が軍隊を持てば、東西冷戦の代理戦争の先兵として使われる危険性がある。従って、「戦力放棄」を憲法に書き込めば、それを防止することができる。しかし、表向きはあくまで「原爆発明後の世界が破滅を免れ新しい運命を切り開くための究極の軍縮としての戦力放棄」をするのだと説明しました。

ここで、こうした幣原の行為についての評価が二つに分かれます。一つは、幣原のこの説明をそのまま真実として、憲法第9条を日本人の発案とし、それを「栄光」として擁護する立場。もう一つは、それを、あくまで占領下あるいは東西冷戦を見越した「負けて勝つ」外交の秘策であるとし、状況が変われば当然改正すべきとする立場です。

では、どちらがより真相に近いかというと、私は後者を取ります。その一つの理由は、幣原の説明に見られる「原爆発明後の世界が、破滅を免れ新しい運命を切り開くための、究極の軍縮としての戦力放棄」という発想は、実は、マッカーサー自身の「神学的課題」だったということです。マッカーサーは、ミズリー艦上で行われた降伏調印式の演説で次のように述べています。

「我々はいまや新時代を迎えた。勝利さえ我々の未来の安全と文明の存続に対する深刻な危惧の念を伴っている。科学的発展の進展は軍備の破壊力を増大させ、いまや伝統的戦争観の修正を余儀なくする点に達した。平和探求の努力は有史以来存在した。・・・しかし国際紛争の解決の試みは何れも不成功に終わっている。・・・戦争もまた徹底的破壊力を持つに至り、戦争という途も封じられてしまった。」

幣原は、こうしたマッカーサーの発言を聴いて”使える”と思ったのではないでしょうか。つまり、幣原がマッカーサーに「戦力放棄」条項を憲法に書き込ませるために使った論法は、まさに、マッカーサーのこうした「神学的課題」に解答を与えるものだったのです。マッカーサーは敬虔なカトリック教徒であり、「アメリカのキリスト教系新興宗教の『通俗的終末論』」の信奉者でした。(『戦争責任と靖国問題』山本七平P178)

幣原がマッカーサーを説得するときに使った論理は次のようなものです。1,原爆の発明で世界は滅亡の淵にある。2,滅亡を避けるには世界は一つの世界に向かって進むしかない。3,そのための唯一の手段は軍縮、日本が究極の軍縮=戦争(戦力)放棄を自発的に行うのは歴史的運命であり正義にかなう。4,そのためには世界の公平な世論によって裏付けられた正義が必要。5,日本がその正義で生きようとするのに日本を侵略する国があれば第三国(アメリカ?)は黙っていない。5,日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。(上掲「平野文書」)

これはまさに、マッカーサーの終末論的歴史観そのもので、これを鼓舞することによって日本が憲法に「戦力放棄」を書き込むことをマッカーサーに認めさせようとしたのです。当時連合国には、条約によって日本を非武装化させる「バーンズ案」があったそうですが、幣原の発想は、さらに進んで、これを憲法に書き込むことで、敗戦後の日本が東西冷戦の先兵として使われる危険性を除去しようとしたのでした。

こうした幣原の外交秘策がいかに有効であったかは、朝鮮戦争時のアメリカの日本再軍備要求を、吉田首相がマッカーサーに頼んで阻止したり、ベトナム戦争への参戦を免れたことで証明できます。マッカーサーは、朝鮮戦争の直前憲法に「戦力放棄」を書き込んだことは「時期尚早」であったと後悔しています。しかし、騙されたとは言っていない。もっとも、ニクソンは1953年(「昭和53年」は間違い)に「誤りだった」と言ったそうですが(『昭和の三傑』堤堯p112)。

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