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カテゴリー「日本近現代史をどう教えるか」の記事

2009年8月18日 (火)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか3――青年将校を政治に引き込んだ「森恪」という政治家

 昭和の青年将校はなぜ暴走したか2で、第二次山東出兵に伴って起こった済南事件について説明しました。この事件についての中国側の死者が三千名を超えるという被害報告は、児島襄氏の『日中戦争』の戦闘経過を見る限り、私にはいささか誇大な数字のように思われます。しかし、済南の商埠地における両軍の衝突事件が収まって後の、日本軍による済南城の無差別砲撃と占領が、中国側に甚大な人的被害をもたらしたことは疑いありません。それは単に”武威を示した”というに止まらず、中国の国家統一事業である北伐を妨害したものと受けとられても仕方のないものでした。 

 この事件については、『森恪』(森恪を「東亜新体制先駆」として称揚した伝記。山浦貫一著)でさえも、「而して第二次山東出兵は、田中外交の功罪を決すると共に、済南事件以後の日支関係の複雑錯綜即ち、満州事変となり支那事変となり、共に東亜の開放の為に協力せねばならぬ筈の日本と支那とが血みどろの戦いをしなければならなくなった歴史的運命の岐れ路となったものである。」と記しています。(上掲書p691)それほどこの事件は、その後の日中関係を血みどろの仇敵関係に変えた運命的な事件だったのです。

 一般的には、昭和における軍部の暴走は、張作霖爆殺事件に始まると説明されます。しかし、この事件は全く愚劣としかいいようのない事件で、なぜこのような、時の首相(田中義一、陸軍大将)の意向を無視した暴虐な事件が起きたのか説明が難しいのです。というのは、これは河本大作の個人的謀略ではなく、「関東軍と陸軍中央部の張作霖排斥という総意を背景としており、満洲の治安維持のための、さらには『満州問題』一括解決のための強硬手段として行われたもの」だったからです。では一体なぜ、政府と陸軍の間に満州問題解決方針をめぐるこれほどの食い違いが生じたか。

 張作霖爆殺事件は、済南事件後の蒋介石の北伐にいかに対処するかをめぐる政府と陸軍の対立から生まれたものです。事件後蒋介石は済南を迂回し、さらに北上して進撃を続け、五月中旬には張作霖大元帥のいる北京陥落も時間の問題となりました。日本政府は、北伐軍の進出がやがて満洲の治安に影響することは必至と見て、北京政府(大元帥張作霖)及び南京政府(国民革命軍総司令蒋介石)に対して、「戦乱が満洲に波及の場合は治安維持の為適当有効の措置をとる」との「五・一八覚書」を交付しました。併せて張作霖に対して、奉天への引き揚げを勧告しました。

 問題は、この「覚書」を田中首相から芳沢在北京公使に訓令した電報(5月16日)に「措置案」が示されていて、そこに次のような指示が記されていたことでした。

 「張作霖の軍隊が京津地方において戦闘が始まる前に、満洲へ引き揚げるならばこれを許容するが、もし革命軍と交戦して敗北し、あるいは両軍著しく接近した後満洲へ逃げ込む場合には、張作霖軍といえども国民革命軍と同様に、武装解除せずに長城以北に入ることを阻止する。」また、武装解除は「奉天軍か京奉線ニヨリ退却セントスル場合ノミナラス、熱河方面ヨリスル場合ニ於イテモ同様ナル次第ニ付此辺誤解ナキ様充分徹底セシメラレ度」(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p74)

 つまり、「日本軍が満鉄の沿線を警備することは条約上の権利であるが、満鉄沿線に中国軍の戦渦が波及するのを防ぐという主旨を超えて、山海関の線から北には、戦闘しつつある中国軍は一歩も入れず、全部武装解除する」ということが示唆されていたのです。もちろんこうした行為は、条約上の根拠などもない、まさに重大な内政干渉といえるものでした。そして、この電報は必ずしも田中外相(田中首相の兼任)の意志ではなく、軍部と結びつきを強めていた外務省内の森恪政務次官の提案によるものとされます。(上掲書p75)

 こうした奉天軍及び国民革命軍を山海関または錦州において武装解除させるという方針は、すでに第二次山東出兵が閣議決定された翌日4月20日に、「支那時局ニ対スル意見」として、関東軍の斉藤恒参謀長より畑英太郎陸軍次官に上申されていました。また、5月16日の外務省亜細亜局と陸軍省軍務局の間で作成された「措置案」には、張作霖に対する下野勧告も含まれていました。しかし、5月18日に閣議決定された「支那軍隊武装解除ノ主義方針」では、こうした陸軍(白川陸相)の張作霖下野要求は、田中首相及び各閣僚の反対により削除されました。(上掲書p79)

 実は関東軍は、東方会議(s2.6.27~7.7)の前後より張作霖の排日的傾向に憤慨し、失脚の機会をうかがっており、張排斥の意向を陸軍中央部に訴えていました。「五・一八覚書」交付の際には、満洲にいる張作霖軍と国民革命軍のいずれを問わず、武力を用いて武装解除を行うべきを主張し、これを機会に関東軍の満州全域の出動をねらって、その主力を奉天に集結し、錦州出動の計画にそなえて京奉線による軍隊の輸送準備に着手していました。そして陸軍中央部もこの関東軍の計画を全面的に支持し、かつ実行させようとしていました。

 これに対して、田中首相は、南北両軍の武装解除に関する方針決定において、はじめから関東軍を錦州に出動させる考えは全くなく、まして張作霖に引退を強要し、蒋介石の北伐不支持を強行しようとする意図は持っていませんでした。また、蒋介石の国民革命軍は北伐は長城以南で一応打ち切り、満州には侵入しないと婉曲に内示していました。(上掲書p90)一方北軍も、張作霖の個人的不満はあったにせよ、戦局的には敗北が濃厚であり、結局日本側の勧告に従い満洲引き揚げを得策と判断していました。(上掲書p83)

 田中首相はこうした情況をよく把握し、かつこの機会を利用して、山本(条太郎)満鉄社長に張作霖と交渉させ、懸案となっていた満蒙の鉄道を増設し、この沿線に土地所有権などを獲得し、資源を開発することで日本の勢力を伸ばそうとしていました。そのためには、東三省政権の温存、張作霖政権の政情安定は、日本の満蒙権益の積極的な擁護拡大にとって必要不可欠だと考えていました。この点で、森恪や軍部が考えていた、日本の「武力によって満洲に傀儡政府を樹立」しようとする満洲独立論とは意見を異にしていました。

 このように、満州問題の解決策をめぐる政府と陸軍の方針が食い違っていたにもかかわらず、先に紹介した「五・一八覚書」の「措置案」には、陸軍の方針を許容するかのようなことが書かれていたのです。そのため、関東軍はあくまでも奉天軍の東三省頓入を阻止し武装解除するため錦州出動を要請し、そのための奉勅命令を待つことになったのです。しかし、張作霖の北京撤退がいよいよ現実となったにもかかわらず、ついに奉勅命令は下りませんでした。このことに対する関東軍の不満・憤激が、張作霖爆殺事件という形で暴発することになりました。

 実は、こうした政府と陸軍の満洲問題解決をめぐる方針の食い違いは、この「措置案」(s3.5.16)により初めて明らかにされたというわけではなく、蒋介石の第一次北伐に対処するための第一次山東出兵あたりから、田中首相と森恪外務次官との間で顕在化していました。この間の事情を『東亜新体制の先駆 森恪』では次のように説明しています。

 「始め、この出兵に対しては政府部内、殊に陸軍に異論があった。森は、在野時代に積極外交を唱へ、郭松齢事件、南京事件に対して、若槻内閣が機宜の処置を誤ったことを非難していたので、山東出兵の急務を主張したことはいうまでもないが、軍部方面では、出兵によって不測の紛争を惹起する危険があるとして反対を称える者があった。田中総理も、取捨に迷い躊躇の態度で、天津から二ヶ中隊位を青島に派遣してはとの折衷案を提出してきた。しかし、森は、政府がこの政策を決定することが出来なければ、政友会の党議として、出兵、現地保護の要求をすべしとなし『若し、田中が肯かなければ、総裁を引退させる』と、非常な勢いで、強引に廟議を決定せしめたのである。」(上掲書p608)

 結局、昭和2年5月27日、第一次山東出兵は閣議承認されました。しかし、田中首相は、「出兵に際しては派遣軍を青島にとどめ、済南進出は山東戦局の変化の如何に応ずるという条件をつけ、また派遣軍の行動に関しても内政干渉にわたらぬような厳密な規制を加え」ました。さらに、同日、英・米・仏・伊の四カ国代表を外務省に招致して、山東出兵の理由を説明」し、「中国における出来事は中国人自身によって解決させるべきであるが、ただ在留邦人の保護に関しては十分なる措置を講ぜざるを得ない」と強調しました。さらに南北両軍にも同様の主旨を伝えました。(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p41)

 しかし幸い、この時は武漢に政変が起こって国共分裂し、武漢の国民党と南京政府の間に合体の議が起こり、武漢派は合体の条件として蒋介石の下野を要求したので、蒋介石は一旦北伐を断念して兵を後退させることにしました。これに伴い日本政府は撤兵することに決し、9月8日を以て全師団の撤兵を完了しました。しかし、その「撤兵声明」の末尾には、「将来支那に於いて、ひとり同方面のみならず、日本人居住地にして治安定まらず、為に禍害再び邦人に及ぶの虞ある場合には、帝国政府として機宜自衛の措置をとるの已むを得ざるものあるべし。」との「政友会即森の南京事件以来の積極政策の表現」が附されていました。(『森恪』p611)

 その後、一時下野していた蒋介石は、9月末日日本に亡命、その後来日して昭和2年10月13日には東京に入りました。その目的は、国民革命に対する日本朝野の意見を打診し、田中内閣の方針を革命承認に導くためでした。そして田中首相及び森と会談し、おおむね次の点について双方の了解が成立しました。
一、共産党と分離し、ソ連と断った後の国民革命の成功、支那の統一を日本が認める。
二、満洲に対する日本の特殊地位と権益を支那は認める。

 さらに11月5日には田中首相の青山私邸で会談がもたれ(この時は森恪不在)、田中は、「国際関係の許すかぎり、また、日本に利権その他を犠牲とせざるかぎりにおいて蒋の全国統一事業に対して援助すると伝え、・・・さらに北伐をなしうるのは蒋をおいて他にいないとも言い切った。そして、日本は決して張作霖を援助しておらず、日本の願うところはただ満洲の治安維持であるとも主張した。(これは森恪には伝えず)」(『近代日本の外交と軍事』p53)さらに、その後、蒋の意を受けた張群が来日して田中と会談し「もし日本が張作霖を北京から横転に引き揚げさせるならば、国民革命軍もあえて張作霖に追い打ちをかけない、という黙契ができあがった」とされます。(『近代日本の外交と軍事』佐藤元英p54)

 昭和4年1月4日蒋介石は再び迎えられて南京政府の主席となり、9日総司令に復職しました。その後、蒋介石は党内の陣容を整備して着々戦備を進め、一方、閻錫山、馮玉祥とも連携して、第一集団軍十五万の部隊編成を行い、3月16日、北伐を再開しました。蒋介石は4月1日、徐州入城の前日、岡本在南京領事と会い、「済南方面居留民保護ニ付イテハ自分ハ断シテ責任ヲ負ウヲ以テ重ネテ出兵スルカ如キ事無キ様日支間ノ為ハ勿論朝野ノ同情ヲ表セラルル自分ヲシテ成功セシムル意味ニ於イテモ是非御一考ヲ請ウ」と日本側に伝えました。

 4月7日、蒋介石軍は津浦線上、馮玉祥軍は京漢線上、閻錫山軍は京綏線よりそれぞれ北上を開始し4月10日、北伐軍の張作霖軍に対する総攻撃を命令しました。4月17日には済寧が馮玉祥軍の支配下におかれました。そして、奉天軍主力が済南及び膠済沿線に後退すると、それを追って国民革命軍が再び済南に迫ってきました。こうした情況の中で、4月16日、済南駐在武官酒井隆歩兵少佐(例の済南事件の被害状況を極めて誇大に報告し、陸軍中央部の強硬策を煽った人物)は、鈴木宋六参謀長宛、済南への出兵を要請しました。

 しかし、「田中首相は先の蒋介石との諒解によって、第二次済南出兵には寧ろ反対でした。(それは)出兵する結果が、革命軍の北伐、支那の統一を妨げる」ことを恐れたためでした。ところがこの時も、第二次出兵を主張した急先鋒は森恪でした。森はその理由を、先の撤兵声明の末尾に述べられた、かねてより政友会の主張してきた「居留民の現地保護政策」を守るためであるとしました。(『森恪』p617)こうして、4月19日、天津の支那駐屯軍より歩兵三個中隊、内地より第6師団(約5,000名)の出兵が決まりました。

 4月20日には、関東軍は参謀長命で「奉天軍敗走の場合」、満蒙治安維持のためには軍の主力を「山海関マタハ錦州方面ニ進メ」、奉天軍・国民革命軍のいずれの侵入をも許さず、武装解除しなければならないとする意見を中央に具申しました。これは関外全体を戦闘禁止区域として特殊化しようとするものでした。さらに5月2日の意見書では、「南北対戦ノ現時局ハ我カ満蒙問題ノ根本的解決ヲ期スベキ絶好ノ機会」とし、張作霖を排して「帝国ノ要望ニ応スル新政権ヲ擁立シ、該政府ヲシテ支那中央政府ニ対シ独立ヲ宣セシムルコト緊要ナリ」と訴えました。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p62)

 この直後の5月3日に、済南に出兵した第六師団と国民革命軍の衝突事件が起こったのです。しかし、同日深夜には停戦が実現し4日午前中には戦闘は終熄し、中国側は軍隊を済南より引き離し北上させました。従って、事件はここで外交交渉に移されて然るべきでした。ところが参謀本部は、「国軍ノ威信ヲ顕揚」するため「断固タル処置」をとるよう第六師団に指示し、第六師団も「支那問題ノ解決ニ一歩ヲススムル為、南方ニ対シ断然タル膺懲ノ挙二出ツル好機ナリト信ス」と答えました。こうして福田第六師団長は中国側に、回答期限を12時間後とする強硬な要求書を突きつけ、時間切れの8日午前4時、済南城に対する総攻撃を開始したのです。
  
 この時、参謀本部は一師団増派の方針を決め、5月5日には参謀本部から陸軍大臣に対し「最早軍ノ問題ニシテ政策に左右セラレルヘキモノニアラス、動員一師団ハ断乎トシテ増派セサルベカラザル旨ヲ通告」しました。問題は、ここで、参謀本部により政府の政策に左右されない「軍の問題」なる領域が設定されたことで、軍の独断→現地交渉→軍事力行使ということが、済南事件を通して実行されたことです。これによって、「統帥権の発動により満鉄付属地外への出動命令さえ得れば、さまざまな工作の余地が生ずることを実例を以て示した」ことになりました。(上掲書p64)

 こうした第二次山東出兵を第一次出兵と比較すると、次のようなことがいえます。

 それは「第一次山東出兵の時ほどの慎重さが全くなく、しかも欧米列国に対する事前説明も熱心に行われず、とくに済南派遣軍の行動は全く異なった。第一次出兵のさいには完全に総領事の状況判断の下に決定され、しかも済南は自開商埠地にして外国疎開ではないとの配慮から、・・・在留邦人を要所に集結して保護するという、派遣軍に対する行動の制限を厳しく規定していたが、第二次山東出兵の場合は全く総領事の権限、判断、意向を無視する形で、在留邦人の保護を第一の目的とするよりは、軍の威信、武威を主張して、まさに直接蒋介石との外交交渉にまで立ち入る態度をとり、しかも済南城の占領を行ったのである」(上掲書p68)*8/18挿入

 その後、国民革命軍は済南事件にもかかわらず北上を続け、張作霖の関外敗走が時間の問題となるや、田中内閣は5月16日の閣議において戦乱が満洲に波及する場合には張作霖及び南京政府の双方に対し「帝国政府としては満洲治安維持のため適当にして且つ有効なる措置をとる」旨の「覚書」を交付しました。この覚書に付された「措置案」に、先に紹介したような、武装解除は「奉天軍カ京奉線ニヨリ退却セントスル場合ノミナラス、熱河方面ヨリスル場合ニ於イテモ同様ナル次第ニ付此辺誤解ナキ様充分徹底セシメラレ度」という、森恪が付したといわれる文面があったのです。

 このため、関東軍は、主力を奉天に集中して錦州方面への出動態勢を整えました。彼らはこの出兵に奉勅命令を得ることによって、敗走してくる張作霖軍を武装解除し、満蒙独立政権樹立の機会をつかもうとしました。一方、田中首相は、張作霖を説得して整然と満洲に退却させるとともに、国民革命軍の関外追撃をあきらめさせる方向で動いていました。そして、こうした構想が実現できる見通しとなったため、関東軍の出動を命ずる奉勅命令は出されませんでした。この時、関東軍に蓄積された不満が、6月4日高級参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件になったのです。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p64)

 河本大作は、これによって満洲に政治的混乱状態を引き起こし、関東軍の出動の機会を創出し、満蒙独立政権を作り出す手がかりを得ようとしました。しかし、奉天軍は穏忍自重してその挑発に乗らなかったため、この陰謀は不発に終わりました。そのため、張作霖爆殺は、満蒙分離をねらった河本等の思惑とは逆に、張学良(張作霖の息子)と国民政府の妥協の条件を作り出し、昭和3年12月29日には、東三省にいっせいに青天白日旗がひるがえることになりました。さらに、知日派であった国民政府外交部長の黄郛が失脚し、代わって王正廷が外交部長となり、革命外交と称する排日外交を繰り広げることになりました。

 よく満州事変の原因として、張学良が条約によって認められた日本の満州における特殊権益を侵害したことが指摘されます。だが、こうした条約が遵守されるためには、条約締結国相互間に外交上の信頼関係があることが必要です。確かに第一次山東出兵あたりまではそれは確保されていました。しかし、第二次山東出兵においては、外交より軍事力が優先され、それを象徴する事件として済南事件が発生、次いで、北伐に破れ満洲に頓入する張作霖軍の武装解除を目指した関東軍の錦州出動の要請と挫折、その帰結としての張作霖爆殺事件の発生、これによって、日中間の外交上の信頼関係は根底から破壊されてしまいました。

 ところで、先に紹介した『森恪』伝では、済南事件後、関東軍が張作霖軍の武装解除を目指して錦州出動を政府に要請した時、田中首相がこれを認めてさえいれば、平成6年の満州事変よりはるかに容易に、満洲の分離独立が可能であったといっています。「我が大陸政策の遂行上千歳の好機を逸した」ことが、やがて満州事変となり支那事変に発展し、東洋における二大国が血みどろになって相克抗争を続けることになったとも・・・。だが果たしてそうか、外交より軍事力を優先し、政治に軍人(とりわけ青年将校)を引き込み、日中間に血みどろの相克抗争を運命づけたのは、政治家森恪その人だったのではないでしょうか。  
     

2009年8月 6日 (木)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(4)――統帥権問題で、犬養首相の責任を問うのは筋違いだ

  当番組では、次のように「政党政治の自殺」について説明していました。(ブログ「夕刻の備忘録」より転載)

(ナレーション)普通選挙実施の翌年、犬養毅は二大政党の一つ、政友会の総裁に担がれました。犬養は、従来から訴えてきた、軍の合理化を、党の公約に掲げました。

「軍制を整理し国防の経済化を図る」

 この時、政権は対立する民政党にありました。首相の浜口雄幸も緊縮財政に取組み、軍縮を推進する姿勢を示していました。1929年、昭和4年、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれることになり、会議の前に、財部毅・海軍大臣が政友会総裁の犬養を訪ね、軍縮への了承を求めました。この席で犬養は、異論は無いと述べています。

 「日本のような貧乏所帯でいつまでも軍艦競争をやられては国民が堪らない。こんな問題は政争の具にすべき問題ではない」

(ナレーション)ところが、ロンドンでの会議の後、犬養は大きく態度を変えていきます。ロンドン海軍軍縮会議には、日本をはじめ、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五ヶ国が参加。巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの制限が話し合われました。会議は難航、成立した協定案は、海軍軍令部が確保を主張していた、軍艦の目標総トン数を下回っていました。浜口内閣は、海軍軍令部の反対を押し切り妥結、調印しました。

 これに対し、猛然と政府を責め立てたのが、犬養率いる政友会でした。政友会が問題にしたのが「統帥権」でした。政友会は、条約の調印は、天皇の大権である統帥権を侵すものであると政府を攻撃。海軍軍令部の主張を認める方針を打ち出しました。

 政友会が軍との繋がりを深めたのは、犬養の前の総裁だった田中義一の時です。田中は軍人出身であり、軍関係者の組織票を頼りに選挙を戦っていました。犬養は、そうした政友会を党首としてまとめるために、それまでの自説を大きく変えたのです。

(談話)東京大学・御厨貴教授
 「犬養には、もう残された時間は無かった。しかも、その総理大臣の椅子というのは、もう、目の前にぶら下がっている、いう時に、彼は、権力の方を獲った訳です。だから、そこで大胆な妥協をする。やっぱり政治家って疼くんですよ、その権力を目の前にした時に、その権力って魔物なんだけど、俺は自由に出来る、俺の力で自由にしてみたい、それはもう歴代の、累代の政治家、みんなそう思うみたいだから、だから、これ、軍拡路線に何故、その、政友会が乗っかっていくかというと、軍拡路線に乗っかることによって、次の選挙に勝てるに違いない、と思うからですよ。あるいは、次の選挙に負けないと思うからであって。で、そうこうしてるうちに、本当に軍に取り込まれちゃう」

★満州事変 1931年(昭和6)の映像

(ナレーション)ロンドンでの条約調印の翌年、満州事変が勃発します。関東軍が、独断で満州を占領。時の民政党、若槻礼次郎内閣は、満州での不拡大方針を巡って、閣内で意見が分かれ、総辞職しました。その年の12月、遂に犬養に天皇から大命が下ります。第一回帝国議会から41年、漸く手にした総理大臣の座でした。

 総理大臣官邸前に集まった500人の人々、犬養の地元、岡山の支持者達です。その真ん中で、カメラに収まる犬養毅。民衆の声を政治に反映させるという夢を、いよいよ実現出来ると、意欲に燃えていました。総理大臣になった犬養は、満州国の承認に反対の意志を示しました。軍部や党内から激しい反発を受けます。

★五・一五事件 1932年(昭和7)の映像

(ナレーション)そして、総理大臣就任から僅か5ヶ月、海軍の青年将校らによって、犬養は射殺されます。この「五・一五事件」以降、政党内閣は成立せず、犬養は政党政治・最後の総理大臣となりました。

(談話)東京大学・御厨貴教授
 「政党政治ってのは、それ自体としては非常に脆いものであって、それ以外のもの、つまり政党総裁以外のものは、総理大臣候補になれない状態を、要するに枠組として、その、ずっと維持し続ける、これはもう、それこそ日々努力していなければダメな訳ですよ。これをきちんと確立した上で、その、政党が相互に争うならいいんだけども、そこのところの枠を全部破って、やっぱり反政党的な機関と結ぶことによって、全体としての政党政治の基盤が壊れていったってのが1930年代ですから。だから自殺なんですよ、これ」(ここまで番組の内容紹介)

 つまり、政党が反政党的な機関と結びつくことによって、日本の政党政治は自殺した、といっているのです。そのことをワシントン会議における軍縮条約調印に政友会が統帥権干犯を理由に反対したことを問題にしています。その際、政友会総裁が犬養毅だったことから、その責任を、犬養首相に求めているのです。犬養自身の本音としては、「軍縮条約調印」に異論はなかったのですが、人間は「総理の座」が目前にあると、そうした危うい妥協をしてしまうのだ、というわけです。

 確かにこの点は犬養に弁解の余地はないと思いますが(犬養だけでなく河野一郎も)、しかし、こうした犬養の行動には、革新倶楽部分裂後わずか8名で政友会に合同した犬養の勢力基盤の弱さや、その犬養を政友会総裁に担ぎ出した政友会の党内事情が深く関係していたことを忘れるべきではないと思います。とりわけ政友会幹事長であった森恪が、田中義一内閣の山東出兵以来、東方会議を経て、どのように日本の大陸政策を押し進めようとしていたか、を見逃す訳にはいきません。

 『東亜新体制の先駆 森恪』(s16.7.20)には、森がロンドン条約否決に努力した理由について次のように記しています。(この本は、昭和16年太平洋戦争勃発前に出版されたもので、森恪が押し進めた日本の大陸政策がどのようなものであったか、を知る上で極めて重要な資料といえます。)

 「森がロンドン條約の否決に努力した理由は、単純な倒閣熱からでは勿論なかった。何時でも彼の言行の根幹をなす所の大陸政策の危機を防ぐためであった。即ち彼は、先づ支那大陸から米国の勢力を駆逐するに非ざれば到底日本の指導権を確立することが出来ぬと考へていたし、遠くは日露戦争後、ハリマンが満鉄買収を計画して以来、華盛頓會議の実績に徴しても米國の満蒙に對する野心熾烈なるものあり、これを防ぐには海軍力の確保以外に途はないと信じていたからである。要するに對米七割の海車力を保有することの政治的意義は満蒙生命線を保有することになるのである。海軍の責任当局が、對米七割を以て國防上最少限度の兵力量なりと宣明し、米國は、七割なら到底日本海軍を撃破し得ずと認識している以上、七割は絶對必要の兵力量に相違ない。要は對英的には支那本土、對米的には満蒙生命線の確保にあった。六割に妥協することは、わが民族の生存権に開して、安
全保障が伴わぬことになるのである。しかも華盛頓合議では全面的に日本の對支権益を削られると共に、海軍力に於ては五・五・三の大譲歩をしている。これに相つぐこの譲歩である。海軍と歩調を合せて、森がその成立阻止に渾身の努力を費したことは、世の常の人の如く便乗でもなければ軍に内政上の倒閣運動でもなかったのである。」(上掲書p671)

 では、これに対して、犬養はそのような森の大陸政策に対して、どのような中国政策を持っていたか。

 「昭和四年の孫文移柩式に日本における「友人」として招待された犬養は、沈黙を破って国民党に対する支持を明らかにした。その内容は、①国民政府は永続し国都は南京を動かないこと、②蒋介石氏は現代支那の第一人者でこの政権を維持することは日支双方の利益であること、③国民政府の財源は関税を第一とし関税増徴は同政府の死活問題であるから日本は相当考慮を払わなければならないこと、④日支通商条約改訂に当っては平等互恵の精神を原則として努めて時勢に適応させなければならないこと等であった。このような犬養の発言は、中国のナショナリズムに独自に対抗しようとしたことから国際的に孤立しつつあった政友会の中国政策に対して、慎重な姿勢を求めたものであった。」(『犬養毅』時任英人p226)

 犬養が政友会総裁に担ぎ出されたのは昭和4年9月29日ですが、政党政治に対する考え方は、「森が軍部との提携によって政友会による『一国一党制』を実現』」しようとしていたのに対し、あくまでそれを堅持せんとするものでした。その後、昭和5年4月2日ロンドン会議海軍軍軍縮条約承認に伴う統帥権問題が発生、政友会が森を中心に統帥権干犯を楯に政府を攻撃するも9月26日枢密院本会議ロンドン海軍条約可決、10月27日同条約は批准されました。にもかかわらず、森は昭和6年2月3日、幣原首相代理の「失言問題」に食い下がり、倒閣を策して議会の乱闘騒ぎをおこしました。しかし、犬養は「議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演は苦々しく思っており」幣原の発言を取り消すことにしてことを収めました。

 その後、3月には陸軍の革新将校らが引き起こしたクーデター未遂事件である「三月事件」、9月18日には「満州事変」、そして10月には3月事件と同様の「十月事件」が起こります。特に後の二者は、国際協調路線をとる第二次若槻礼次郎内閣に対する挑戦でした。こうした混乱した状況の中で若槻内閣の内相安達謙蔵による民政党・政友会の「協力内閣」構想が生まれ、これが挫折した結果、はからずも犬養が77才にして内閣を組織することになったのです。

 こうして発足した犬養内閣が直面した問題は二つありました。一つは不況打開で、これは高橋是清蔵相の独創的対応によって次第に成果を見ることになりました。もう一つが満州事変の収拾でした。犬養は特にこの後者の問題の解決策について、次のような考えをもっていました。

 「満州を武力でもって征服することはいけない、そうせずとも俺には之をうまく大局の上で権益を保護する方法がある。・・・武力で征服しても後の憂いに堪へん。国民が其財源に苦しむことも考えねばならぬ。」其の具体的方法とは、「満洲の宗主権(所有権)は中華民国に返し、その代り、満州地方の経済開発を日本と中国と平等の立場に於いて行い、あらゆる種類の排日行為は中国政府の責任で取締らせ、そして北満国境の固めは日本の実力でソ連の南下を防ぐ」というものでした。

 犬養はこうした構想を実現させるために、長年のパトロン的存在であった萱野長知を、森幹事長にも知らせず(森が軍部と通じていたため)上海に送り(s6.12.17)中国側との交渉に当たらせました。萱野はその交渉経過を次のような第一電を打ちました。(12.23)

一、満洲の政権確立のため、居正を主任とする委員会を組織し、一切の懸案は現地交渉とし、居正に権限を与ふること。
二、張学良を適当に処置すべきこと。
三、居正任命と同時に、日華双方軍事行動即時中止すること。

 そして第二電(12.25)
 「日華懸案解決に在り、一さいの権利義務を居正に一任することとなった。日本の不法侵略に対し、無条件和平の調印をなす全権は、これ国賊なりとする一般中国人の傾向を知りつつも居正は、吾甘んじて国賊の汚名を被る、アジア大局のためには何かあらむと、進んでその難局を引き受けたる由。」

 だが、この電報は東京で森書記官長の手に握られ、森はこれを握りつぶしました。さらに外務省の重光公使から「外務省公式機関を経て正式の軌道に乗せうべし」との要請があり、ついに、翌昭和7年1月5日犬養からの萱野に帰朝電報が届きました。こうして萱野工作は失敗し、そしてこの事件のため軍部との関係は悪化するようになりました。軍部と結ぶ森恪も犬養に見切りを付け、「政友・民政・軍部を再結集して挙国一致の政治力を発揮し」平沼内閣を作るよう画策するようになりました。

 次いで昭和7年1月28日軍の謀略のよる上海事変が勃発しました。この前後、犬養と高橋蔵相は激しく軍の派兵を抑えようとしました。閣議において荒木が「一躍大軍を派遣してシナを膺懲」する事を強調すると、高橋は荒木が若年であるため物事がよく見通せないとたしなめました。そして、中国問題は「犬養首相の縄張り」であると述べ、ついには「一体上海に何人の日本人がいるのか、みな引き揚げてくればいいではないか」とまで述べました。4日には高橋説得に来た森恪に対して「野蛮人」とまで罵ったほどだったといいます。 

 さらに犬養は、陸軍の長老上原勇作元帥に次のような書簡を送りました。
 「・・・実は拝晤を得度き主意は陸軍近来の情勢に関し憂慮に堪えざる事は上官の意下僚に徹底せず、一例を挙ぐれば満州に於ける行動の如き佐官級の聯合勢力が上官をして自然に黙従せしめたるか如き有様にて世間も亦斯く視て切に憂慮を懐き居候。甚しき風説に至りては直接に隊に属し居らぬ将校を称して無腰(無刀の謂)と為し隊を率いたるものに非れば無力として之を軽んずる傾向あり。何事も直接に軍隊を率いる者が聯結して事を起しさへすれば上官は終に事後承諾を与ふるものと信じて一意進行するが如き風習を成し軍の統制の上に一大変化を生ずる虞あり。全体より視れば今猶ほ一部に過ぎず。言はば萌芽を発したる際なるが故に未だ拡大敷衍せざる今日に於て軍の元老に於て救治の方法を講ぜられんことを冀ふ一事に外ならず。右の根底より発したる事。前内閣時代の所謂クーデター事件も其一現象に過ぎず。」

 しかし上原元帥はこの要請に応えようとしませんでした。これに失望した犬養は「処士横議」をやる「三十人ぐらいの青年将校」を「上奏」までして免官することも考えました。しかし、荒木陸相がこれに応えるはずもなく、また森恪を通じてこうした犬養の動きが軍に伝えられたため、軍は「犬養は怪しからん、満州事変をやめさせようとしている」と憤激するようになりました。さらに犬養は5月1日のラジオ放送で、「極端の右傾と極端の左傾」の現象に触れ、これは「議会否認論」であるとして批判し、8月の政友会関東大会では「我々は飽迄議会政治の妙用を信じ、十分改善の可能なるを信ずる」と述べました。
(以上『犬養毅』時任英人参照)

 こうした中で犬養を含めた支配層の要人を暗殺する計画が着々と進められ、ついに5月15日、海軍青年将校による白昼堂々の犬養首相暗殺事件となったのです。その時犬養は逃げず、それどころか侵入者を見ても動ぜず、”まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか”といい客間に侵入者を連れて行きました。”問答いらぬ。撃て。撃て。”弾は犬養の腹部そしてこめかみに一カ所、左鼻口に一カ所命中しました。犯人等が引き揚げた後、犬養は「今の若い者をもう一度呼んで来い。よく話して聞かせる」といったといいます。(『話せばわかる』下p358)

 まさに言論の府議会人犬養毅の面目躍如たるものがあります。このとき森は、木舎幾三郎の『政界五十年の舞台裏』によると、「森恪氏が廊下の片隅で荒木陸相と頻りに何か用談しているのに出会った。そのまま行き過ぎようとすると、森氏が『オイ、オイ』とぼくを呼ぶので、その方に足を運んでいくと、イキナリぼくの方に手を差出し、難く手を握ってニコッと笑っただけであった。」氏は、「なぜ笑ったかはいま考えても解し得ぬものの一つであるが恐らく犬養首相と不和と伝えられていた彼として、会心の笑ではなかったろうか。」といっています。

  この後森は、平沼騏一郎の擁立を画策するようになりますが、その政党観はどういうものだったかということが、先に紹介した森恪の伝記に次のように書かれています。
 「森の政党観は現在の既成政党による対立状態では国策の遂行に寄与し得ないが、さりとて政党を否認する独裁政治家というに然らず、しっかりした人物によってしっかり強い政党を築き上げ、その総裁が党を基礎にして強力な政治をする。云わばドイツのヒットラー、イタリーのムッソリーニの流れを汲もうというものの如くであった。」(上掲書p821)

 そして、五・一五事件の裁判がはじまると、これら卑怯の極ともいうべき青年将校等に対して、その減刑嘆願を求める手紙が、全国から100万通も寄せられたといいます。この時代のこうした異常な”空気”を支配したものは一体何か。以上、紹介した犬養首相の政党政治家としての思想と行動、その先見性と剛胆さを見るにつけ、こうした良識ある判断がなぜ当時の国民に受け入れられなかったか、その結果、日本の政党政治は崩壊した。その責任を犬養首相に求めるのは、私は”いささか筋違い”ではないかと思います。

2009年7月30日 (木)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(3)――明治憲法を葬った教育勅語の国体観

 本番組では、明治憲法が天皇の統治権について、第四条が「憲法の条規によりこれを行う」としていたのに対して、第一条は「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としており、これが天皇の統治権を絶対視する昭和への道を開いた、と説明していました。しかし、第一条にこれだけの責任を負わすことは無理で、というのは、この第一条の「萬世一系の天皇」が統治するという国体のイメージは、「教育勅語」によって補完されてはじめてその具体性を持つものだからです。
 
 しかし番組では、この教育勅語の存在には一言も触れませんでした。あるいは”物議を醸すことを恐れた”のかもしれませんが、しかし、この点に触れなければ、昭和の超国家主義は明治憲法第一条のせい、ということになり、本番組の”明治憲法の運用を誤った”という見解と矛盾することになってしまいます。

 ところで、前回指摘した通り、井上毅(法制局長官)は、君主による教育理念を提示する「教育勅語」が立憲主義を建て前とする明治憲法と矛盾することを自覚していました。そのため、明治23年6月20日付け山縣有朋総理大臣宛書簡で、次のような「教育勅語渙発に関する七ヵ条の諫言」をしました。(『教育基本法を考える』市川昭午p180)

第一に君主は臣民の良心の自由に干渉しないこと。
第二に天を敬い、神を尊ぶといった言葉は宗旨上の争いを起こすので使わないこと。
第三に反対論を引き起こすので哲学や思想上の理論に巻き込まれないこと。
第四に政治上の臭味を疑われないようにすること。
第五に漢文の口吻と洋風の気習を吐露しないこと。
第六に愚を貶めたり、悪を戒めたりしないこと。
第七にと特定の宗派を喜ばしたり、他の宗派を起こらせたりしないこと。
*原文を要約したもの

 結局、井上は立場上教育勅語に起草に参加しますが、勅諭を政事上の命令と区別して君主の著作とすることを主張しました。その結果、教育勅語は「大臣の副署がなく、政治上の勅語・勅令とは区別され、天皇が社会に対して直接諭言した形式をとって発布」されました。そのため法令が強制力を有するのに対して、教育勅語は一般臣民に対して強制力を有しないと解されました。

 その教育勅語の本文は次の通りです。
朕惟(オモ)フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ、德ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克(ヨ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ、世世厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ、此レ我カ國體ノ精華ニシテ、教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。爾(ナンジ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ、德器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣(ヒロ)メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。斯(コ)ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラス、朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸(ミナ)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コイネガ)フ

明治二十三年十月三十日
  御名御璽
*句読点及びよみは筆者

 これを見ると、確かに、宗教上あるいは政治上の臭みをできるだけ除いて、当時の国民の常識にそった文面とするよう努めていることが伺われます。「萬世一系の天皇」という言葉もありません。しかし、この「当時の国民の常識」にそった教育思想の表明は、自ずとその時代の日本の伝統思想の表白となりました。その結果、この伝統思想により担保された日本国の宗主としての天皇のイメージが、明治憲法に規定された立憲君主制下の制限君主としての天皇のイメージと齟齬を来すことになりました。

 では、この教育勅語によって表白された日本の伝統思想とはどのようなものだったのでしょうか。イザヤ・ベンダサンによると、それを一つの体系として示しそれを民衆教化の書としてまとめたのが、貝原益軒の『大和俗訓』(全八巻1710年)だといいます。その後、この書は江戸期を通じて「日本教の”聖書”のごとく読まれ、表現は変わっても(今日の)日本人がその延長上にいることも、また不思議でない。」といっています。(『日本教徒』イザヤ・ベンダサンp245)

 次に、この書に語られたその伝統思想を紹介します。それが、現代の私たちの自然や人間についての思想と、どう異なっているか考えながら読んで下さい。(『日本の名著 貝原益軒』中央公論社より引用)

天地と父母に仕えるは同じ
 「およそ天(=自然)は人のはじめである。父母は人の本である。人は天地をもって大父母とし、父母をもって小天地とする。天地・父母はその恩が同じである。だから天地に仕えて仁を行うことは父母に仕えて孝を行うようにすべきである。・・・おろそかなのは愛がないのである。畏れないのは敬がないのである。天地に仕えるのも父母に仕えるのも、同じく愛敬を尽くしておろそかにせず、侮ってはいけない。」

人は万物の霊
 「天地のうちに万物がある。万物のうちでは人ほど尊いものはない。であるから万物の霊という。人は霊であるがゆえに、心に五性(仁=あわれみの心、義=正しい心、礼=つつしみうやまう心、智=明らかにさとる心、信=いつわりのない心)があり、身に五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の和、長幼の序、朋友の信)がある。・・・鳥獣にはこういうことが一つもない。それなのに人となった道を知らないで、鳥獣にちかく、むなしくこの世を過ごし、人と生まれた身を無駄にすることは、くやしいことではないか。」

聖人は人の道を教えた
 「およそ人となったものは、人の道を知らないではいけない。人の道を知ろうと思ったら、聖人の教えを尊んでその道を学ぶべきである。・・・だから人と生まれては、必ず学ばないといけない。学ぶものはかならず道を知らないといけない。道を知ったら必ず行わないといけない。・・・だから道を学ぼうと思ったなら、学問のはじめから道にふかく志を立てて、明師にしたがい、良友に交わり学術をえらぶことを本旨としなければならぬ。」

学問の基は謙譲
 学問する人は謙を持ってもって基とする。謙とはへりくだることである。わが身をほこらず、人に高ぶらないで、心をむなしくし、人に問うことを好み、わが才をたのまず、師友をうやまって、わが身に寸力があっても無いかのようにし、教えをよく聞き、人の諫めをよろこび、・・・自分の知っていることを先立てず、すでに行っていることも、まだ行わないかのように思い、人を責めず、わが身を攻めるのをへりくだるという。これは学問をつとめ、教えを受ける基である。」

人の性は本来善
 「人はみな良知がある。教えなくても、小さいときから親を愛し、少し大きくなってからは兄をうやまう。人にはみな仁心がある。・・・人にはみな義理がある。・・・これは人の性が善である証拠である。・・・人は本来生まれつきもっていないことは教えても行いがたい。人に本来もって生まれついている善心があるのを本としてみちびき、開き、これをおしひろめさせようとするのである。天下の人その性はみな善である。」
 
博く学ぶ
 「天下の道理は無限である。・・・道理は我が一身に備わり、その作用は万物の上にあるのだから、まず我が一身の道理をきわめ、次に万事についてひろい道理を求めて、自分の心中に自得すべきである。これが博く学ぶということである。博く学ぶ道は多いけれども、本を読むほど益のあることはない。古人も、人の知恵をますのは本に及ぶものはないといっている。しかし文字だけ好んで、義理を求めないのは博く学ぶのではない。」

篤く行う
 「篤く行うには、すでに学び問い学び弁えて、その道理を知ったならば、我が身にその知った知った道理を篤く行わないといけない。・・・篤く行う道は、言葉を忠信にしていつわりなく、行いを慎んで、過ちを少なくすることである。人の身のわざは多いけれども、言葉と行いとの二つを出ない。だから、言葉をまことにし、行いを慎めば、身が修まる。 また心のおこるところの用が七つある。これを七情という。喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲」である。人の身の行動はこの七つからおこる。これを慎んで、過不足なくして、道理にかなうようにする。中でも七情のうち、怒りと欲の二つは、最もわが心を害し、身を損ない、人を損なうものであるから、怒りをおさえて、欲をふさいで遠ざけて、そのおこりはじめたところでうち克たねばならぬ。
 また善にうつって、わが善よりもなお良いことがあったならば自分の善をすてて優れたほうにしたがわねばならぬ。身に過ちがあったらすぐ改めないといけない。我が身に執着して改めるのをはばかってはならぬ。また人に対して行うには、人が自分に対してしたがわないことがあったら、人を責めないで、自分のみをかえりみてとがめるがよい。これみな篤く行う道である。」

民をつかさどる人
 「民をつかさどる人は、民の父母であるから、民を哀れむ心を基とすべきである。民の好むことを好んでほどこし、民の嫌うことを嫌ってほどこさない。父母の子を思うようにするからこれを民の父母という。・・・すべて民はすなおな天性を持っている。上にある人が誠をもって民を愛すれば、民も又必ずそれに感じてよろこび、かくれて悪いことをしないで、誠をもって上につかえる。」

 以上は、儒教の五常五倫の教えを軸として、天地(=自然)と人の関係や人と人の関係を日本人の伝統的考え方に合うように整理したものです。しかし、こうした諸関係の基底には、「恩」という日本人独特の基本概念が置かれているいることに注意しなければなりません。巻六の「恩を忘れない」「恩をほどこして」「恩があれば」には、次のようなことが説かれています。

 「天地につかえて仁を行い、父母に孝を行い、君に忠を尽くし、師を尊び、故旧にあつくするのは、君子の道でみな恩に報いる道である。」「古い言葉に『恩を施して念うことなかれ、恵みを受けて忘れる事なかれ』とある。人に恩をほどこしたら、これは自分のなすべき当然の道と思って、その施したことを忘れるがよい。思い出してはいけない。・・・また人の恵みを受けたなら、その恩を忘れてはいけない。」

 つまり、自然と人の関係や、人と人の関係をつなぐ基礎概念として「恩」があり、その「恩」は、儒教の五倫(君臣・父・夫婦・長幼・朋友)によって形作られた人間関係を下支えしている。そして、その「恩」に基づく人間関係における基本的な倫理規範が、「恩を施して念うことなかれ、恵みを受けて忘れる事なかれ」ということ、つまり「施恩の権利を主張せず、受恩の義務を拒否しない」だというのです。(この恩論に基づく倫理観は「平家門語」に見られるとベンダサンは指摘しています。それくらい伝統的な考え方だということです。『日本教徒』参照)

 そして、この「恩」論に基づく人間関係が、家族の人間関係から人間と自然(=天地)の関係、さらに君臣の関係にまで拡大されているのです。いうまでもなくこの「恩」論に基づく人間関係は、家族をモデルとしているため、これが社会関係に拡大された場合、その社会組織は擬制的な家族として機能することになります。これが教育勅語の背後にある、皇祖高宗を宗源とする天皇中心の家族国家論につながっているのです。

 そして、その国家論における中心概念が、後期水戸学にいう「忠孝一致」です。「臣謹んで案ずるに、人道は五倫より急なるはなく、五倫は君父より重きはなし。然らばすなわち忠孝は明教の根本、臣子の大節にして、忠と孝は、道を異にして帰を同じうす。父に於ける孝といい曰い、君に於ける忠と曰ふ。わが誠を尽くす所以に至っては、すなわち一なり。」(『弘道館記述義巻の下』藤田東湖)こうして親子関係における孝が、君臣関係における忠と一致するという考え方を生み、それが一君万民、天皇親政という国家観に発展していったのです。

 こう見てくると、この教育勅語に盛られた道徳規範や教育理念、それをはぐくみ育てた日本の伝統的な教育思想自体は、決して奇矯なものではなく、今日でも通用する常識的なものであることが解ります。だが、これを国家論としてみた場合、大きな問題点を孕んでいることが解ります。それは家族倫理に止まるべきはずの孝が、統治者と国民との政治的関係にも拡大適用されていることです。

 確かに、この統治者と国民の関係――「民をつかさどる人は、民の父母であるから、民を哀れむ心を基とすべきである。民の好むことを好んでほどこし、民の嫌うことを嫌ってほどこさない。・・・上にある人が誠をもって民を愛すれば、民も又必ずそれに感じてよろこび、かくれて悪いことをしないで、誠をもって上につかえる――はうるわしい。しかし、現実的には、これが天皇親政に名を借りた軍部の暴走につながったのです。

 美濃部達吉の「天皇機関説」を批判した上杉慎吉は次のようにいっています。「我が立憲政体は、天皇親政を基礎とするものである。議会中心の政治というのは、即ち、天皇親政を排斥する政治である。」そしてこうした主張が、「政治腐敗を打破し、貧困から国民を救うには、明治維新と同じく、再び天皇親政による国家改造しかないという議論に発展し、当時公認の学説であった天皇機関説を、「国体の本義を誤るもの」として排除するに至ったのです。

 ここで改めて確認すべきこと、明治憲法における立憲君主制下の天皇の統治イメージを扼殺した天皇親政という統治イメージは、明治憲法第一条によって生み出されたものではなく、教育勅語に集約された日本の伝統的思想(=忠孝一致、治教一致)が生み出したものであるということ。そして、このことが解れば、天皇制を今後どのように運用すべきかということも自ずと解ってくる、私はそう思っています。

2009年7月10日 (金)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(2)――明治憲法第一条の思想的背景

 ジャパンデビュー「天皇と憲法」第1部「大日本帝国憲法の誕生」の冒頭のナレーションは次の通りです。(会話文は、前回同様、ブログ「夕刻の備忘録」を参照させていただきました)

 「大日本帝国憲法です。天皇についての規定が明文化され、第一章に掲げられました。その第一條、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、日本は天皇が統治する国であると謳われています。この条文が後に、天皇を絶対視する思想に繋がっていきます。

 しかし、この憲法には、天皇が支配者として独断で政治を行わないように、その権限を制限するための条文も定められていました。それは第四條です:
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。

 「憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」という規定、つまり天皇は国家の元首であるが、この憲法に従って統治するとされたのです。天皇を絶対視することに繋がる第一條、そして天皇も憲法に従うとする第四條、この二つの条文が憲法に同時に存在することによって、様々な矛盾や曖昧さを産んでいくことになります。」

 これは、この番組のライトモチーフともいうべき見解ですが、これについて、二人の若手憲法学者(慶応大学講師 武田恒泰、国士舘大学 倉山満)が『正論』七月号の対談記事で次のように批判しています。

倉山 あれはおかしかったですね。

竹田 ええ。第一条は「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。つまり、日本は天皇が統治するが、その統治の仕方は憲法の条規に定められている――ということを述べているのであって、日本語の意味を普通に理解すれば、矛盾でも何でもないことは明らかです。
 しかし番組では、こう決めつけています。「天皇を絶対視することにつながる第一条。そして、天皇も憲法に従うとする第四条。この二つの条文が同時に存在することによってさまざまな矛盾や曖昧さを生んでいく」と。こういうのを、牽強付会というのでしょうね」

 つまり、二人は、第一条の天皇の統治権の意味は、天皇が独裁者のように何でも決められる権能を持つことを規定したものではなく、第四条にいう「憲法ノ條規ニ依リ」決まったことを、形式的に認可する権限であって、第四条と矛盾するものではない。これは、第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と同じで、「神聖不可侵である天皇に責任が及ばないよう、実際の権力は政府が行使する」との原則を述べていることと同趣旨だ、といっているのです。

 確かに、天皇の統治権の解釈としてはその通りでしょうが、問題は「萬世一系ノ天皇」という概念が一体どこから来たかということです。というより、なぜこの「成文法になじまない」言葉が、天皇の統治権の正統性を証するものとしてここに挿入されたかということです。

 このことについては、番組では次のように説明しています。

 伊藤博文より大日本帝国憲法の草案作りを命じられた井上毅(こわし)が、天皇が日本を統治することの根拠を、明文化しなければならないと考えた。そこで、井上は歴史書を改めて研究し、天皇が、第一代の神武天皇から、後に武士が台頭した時代になっても、絶えることなく、連綿と受け継がれてきたというその連続性を重視した。そして、「明治になって、天皇の歴史的由来を示す言葉として、頻繁に使われるようになっていた表現」である「萬世一系」に着目し、これをそのまま憲法草案に用いた。

 このことについて、京都大学・山室信一教授は次のように解説しています。

 もちろん「萬世一系」という言葉は、江戸時代以前から存在していた訳ではなくて、これは明治期に入って、外交文書に多く使われたことからも分かるように、徳川幕藩体制を壊して成立した明治政府の正当性を諸外国に対して証明するためのものだった。それと同時に今度は、国内において、天皇というものが何故支配するのかについて、旧支配階級などは新政府に非常に不満を持っていたから、それに対して、その正統性を伝えなければならないということで、今度は国内向けに使われ始めた。

 この山室氏の解説では、「萬世一系」という言葉は、明治政府が自らの統治を正当化するために便宜的に用いたものであるかのような印象を受けます。しかし、事実は決してそんな名ばかりのものではありませんでした。それは徳川幕府が導入した朱子学(儒学の一学派)の名分論(=階級的秩序)でもって、記紀に物語られた神代に続く皇統の連続性(=萬世一系)を権威付けることで、天皇による統治を理想化したものでした。また、その統治システムは、親子間の倫理である「孝」を、君臣間の倫理である「忠」に一致(=忠孝一致)させた、天皇を宗主とする家族国家のイメージを伴っていました。

 そして、こうした家族国家あるいは宗主国家のイメージを背景に、家族関係のあり方や君臣関係つまり天皇と臣民との関係のあり方を説いたのが、いうまでもなく「教育勅語」だったのです。従ってその構成は、まず、わが国の道徳教育の淵源が神代より続く皇統の連続性の中にあることが述べられ、その次に、そのおかげでわが国の臣民が忠孝心を一つにしてきたこと。続いて、儒教の五倫五常の教え、博愛、学業を通じて知識や道徳を身につけ、仕事を通じて社会に役立ち、憲法や法律を遵守し、一旦国難に逢えば勇敢に戦うこと期待されました。

 そして最後に、こうした生き方(=道)は、神代の昔から今に纏綿と続く天皇家の伝統的な教えであり、わが臣民として子孫の後々までも守るべきものであり、また、これは古今を通じ、また国内だけでなく世界に広めても決して道理に背くことにはならないものである。従って、私(朕)はあなたたち(臣民)と共にこれらの教えをよく守り、共に、これらの道徳規準を身につけて行きたいものだと思う、と締めくくられています。

 一見、あたりまえの道徳的規範を述べているように思われますが、注意すべきことは、ここに提示された道徳規範は儒教に基づくものであり、儒教は中国思想だということです。従って、それが皇祖高宗の教えによるというのは、あくまで儒教と国学思想が習合した結果であって、史実としては誤りです。また、忠孝一致という考え方は、儒教にはなくて、これは後期水戸学が生んだ日本独特の考え方なのです。従って、その帰結としての家族国家観も日本独自のものだということ。さらに問題は、こうした生き方=道は日本だけでなく世界に通用する普遍的な教えだ、としていることです。(これが大東亜戦争期の八紘一宇という考え方につながります)

 つまり、明治憲法第一条の「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という規定は、井上や伊藤の思いを超えて、この教育勅語がその背景に持っていた家族主義的な国家の統治イメージと密教的につながっていったのです。いうまでもなくこうした国家観、その家族主義的な国家の統治イメージが、明治憲法の立憲君主制下の制限君主としての天皇の統治イメージと、根本的に対立するものであることはいうまでもありません。

 番組では、1888年6月、出来上がった憲法の草案について、天皇の諮問機関・枢密院で、「第四條 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」の審議の模様が次のように紹介されています。(天皇陛下の臨席の下、議長は伊藤博文だった)

(山田顕義・司法大臣から意見)
 「この憲法の條規以下の文字を削除することを望みます。この文字を置くと天皇の統治権は、元々在った権限ではなく、憲法を設置したことで、新しく始まったかのような感覚を持ってしまいます」

 これに対し、議長の伊藤博文は、次のように答えました。
「本條は、この憲法の骨子です。憲法政治といえば、即ち、君主権を制限することなのです。この條項が無ければ憲法は、その核となるものを失うことになります。憲法の條規により、という言葉が無くては、憲法政治ではなく、無限専制の政体となってしまうのです」

 こうして、第四條は、多数の賛成を以て可決されました。そして、1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、天皇、議会、司法、国民の権利、義務などを明記、近代国家の骨組が出来上がりました。しかし、その翌年の10月30日には、この憲法下の立憲君主としての天皇の統治イメージとは全く異なる統治イメージをもった「教育ニ関スル勅語」が天皇より発布され、国民道徳の基本理念を定めた「国体の精華をなす」教育基準として位置づけられることになるのです。

 そして、この「教育ニ関スル勅語」の起草に当たったのも、当時法制局長官だった井上毅でした(当時の山縣有朋総理の命による)。彼自身は「立憲主義の建て前と君主による教育理念の提示が原理的に矛盾することを自覚していた」らしく、教育勅語渙発の構想には本来賛成でなかったといいます(『教育基本法を考える』市川昭午p180)。しかし、それにしても、後の時代(昭和)になって、自ら起草した教育勅語に胚胎した一君万民・天皇親政の統治イメージが、同じく自ら起草した明治憲法の立憲君主としての天皇の統治イメージ(天皇機関説)を食い殺すことになろうとは・・・、井上も夢想だにしなかったのではないでしょうか。(つづく)
 

2009年7月 6日 (月)

NHKジャパンデビュー「天皇と憲法」を検証する(1)――明治憲法の運用を誤ったという見解について

 ブログ「夕刻の備忘録」に、放送済みジャパンデビューの番組フルテキストが掲載されています。転載歓迎となっていて、この番組について私見を申し述べようとするものにとっては誠に有難く感激の至りです。本来ならNHKこそ、こうした番組については、放送直後からネットに公開し、視聴者の批評に委ねるべきだと思います。それが公共放送としての情報公開上の義務であり、また、その方が、議論の正確を期す上でも有効ではないかと思います。NHKの善処を望みたいと思います。

 さて、ジャパンデビュー「天皇と憲法」のメインキャプションは次のようになっています。
 「日本が国家の骨格ともいうべき憲法を初めて定めてから120年。大日本帝国憲法は「立憲君主制」を採り、当時の世界からも評価されていた。しかし、19世紀帝国主義から第一次世界大戦を経てうねる時代の流れの中で、日本はその運用を誤り、帝国憲法体制は瓦解する。その要因と過程を国内外に残された資料からつぶさに分析し、新しい日本国憲法誕生までの道程を検証する。」

 つまり、大日本帝国憲法自体が問題だったのではなく、その運用を誤ったことが国家の崩壊を招いたといっているのですが、この指摘は極めて重要だと思います。というのは、統帥権の問題に象徴されるように、明治憲法に不備があったから、昭和の軍閥の暴走を阻止できなかった、とするのが従来の一般的見解で、その運用を誤った云々というのは、従来あまり耳にしなかった見解だからです。私自身はこの意見に賛成ですが、ではいかなる根拠でもってこうした説を唱えたのか、以下当番組の内容を私なりに、数回に分けて検証してみたいと思います。

1 明治憲法と昭和憲法、国家の芯は続いているか(7/8挿入)

 まず、番組冒頭の、立花隆氏による次の解説に注目したいと思います。 
 「それで、その今の昭和憲法ってのは、実は大半の人は、あの明治憲法とは全く離れて、全く新しい憲法が出来たと思ってるんですよ、ね。大半の人はそう思ってます。しかし、そうじゃないんですよ、ありゃ続いてんです。だから、昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、非常に主要な部分が改正されてるから、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね。」

 これは、単に、昭和憲法が明治憲法第73条(改正条項)に基づき改正されたということを言っているだけではなくて、「国家の芯そのものは続いている」という認識に基づいてます。ではその芯は何かというと、ともに第一章が天皇であり、立憲君主制つまり制限君主制をとっているということ。つまり、明治憲法の場合は、その第4条において「天皇ハ国家ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シコノ憲法ノ条規ニ依リコレヲ行フ」として、「立憲主義」をよると規定していたことを指しています。

 確かに、明治憲法において国家元首は天皇であり、主権は天皇にあるとされました。しかし、立憲主義の要素としての言論の自由・結社の自由などの臣民の権利は、法律の留保のもとに保障され(第二章)、公選制の議会を持ち(議会は法律の提出権や協賛(同意)権、予算の協賛権を持っていた)(第三章)、天皇の行政大権の行使は国務大臣の輔弼(大臣責任制)によるとされ(第四章)、さらに司法権も天皇から裁判所に委任される形で独立を保障されていました(第五章)。

 こうした立憲主義をとる明治憲法が、敗戦後日本国憲法に改正されるとき、その改正案の作成は、当初日本側に任されましたが、GHQは、政府案(松本案)は旧憲法体制を温存しているとして強い不満を示し、その結果、いわゆる「マッカーサー草案」が急遽日本側に示されることになりました。政府は総司令部と交渉して若干の修正を施した後、これを「日本国憲法憲法改正案」として国民に発表し(s21.3.6)、国会審議にかけさらに若干の修正を行った後、昭和21年11月3日、日本国憲法公布、翌昭和22年5月3日新憲法は施行されました。

 この日本国憲法(以下昭和憲法と称す)の柱は、第一章:象徴天皇制の規定と、第二章:戦争放棄の規定にあるとされます。また、明治憲法が天皇主権を前提としていたのに対して、新憲法は国民主権を前提としていること。その他、明治憲法にはなかった内閣及び総理大臣の権限が規定され、行政権は内閣にあるとされ、その行使については国会に対し連帯責任を負うとされました。さらに、国務大臣は文民であること。その任命権は総理大臣にあること(第五章)など、内閣の権能が格段に強化されています。
 
 こうした昭和憲法の特徴をもって、明治憲法との断絶を指摘する意見が、従来は大勢を占めてきました。しかし、先に指摘した通り、明治憲法は、天皇が日本国の統治権を総覧する(主権は天皇にある)としながら、その主権の行使は「憲法ノ条規ニヨリコレヲ行フ」としており、そのため、立法権は議会の協賛、行政権は国務大臣の輔弼によるとされ、司法権は裁判所に委任されていました。つまり、立憲君主制としての基本的性格において、明治憲法も昭和憲法も「その芯においては続いている」と見ることができるのです。

 さらに、昭和憲法の二本の柱とされる象徴天皇制も戦争放棄の規定も、これは必ずしもGHQが押しつけたものとはいえないのです。というのは、前者については、幣原首相の起草にかかる「天皇の人間宣言」(昭和21年1月1日)によって、戦前の神格化された天皇のイメージが、新日本の民主化に向けて「国民の象徴」とされたものであり、これによって、戦後の憲法体制における天皇制護持の方向が確定したのです。また、後者については、幣原が昭和21年1月21日マッカーサーを訪ねた折、「原子爆弾が出来た今日では世界の情勢は全く変わってしまった。だから今後平和日本を再建するためには、戦争を放棄して再び戦争をやらぬ大決心が必要だ」と述べたことが、その端緒になったのです。

 マッカーサーは、極東委員会(その構成員にはソ連、豪州など天皇制維持を絶対拒否する強硬分子が含まれていた)が組織される前に、天皇制の維持を含む新憲法を日本側の手で作成しようとしていました。しかし、政府案(=松本案)には不満足であり、この修正を待っていては間に合わないので、急遽、自ら憲法草案の作成を決意し、2月4日、上記の象徴天皇制や幣原が提起した戦争放棄の根本原理を記したノートを総司令部の新憲法起草メンバーに示して、GHQによる新憲法草案の起草を命じたのです。

 以上の事実関係は、昭和30年に発刊された幣原平和財団の『幣原喜重郎』の記述によっても確認する事ができます。立花隆氏によれば、その後、日本国憲法の成立過程に関する研究が進んで、その二本の柱である象徴天皇制と憲法9条の戦争放棄は、マッカーサーではなく日本人の発案によるものであると認識されるようになったとのことです。私自身は、まだこれらの本を読んでいませんが、いずれにしろ、こうした発想は、(当初政府部内にはかなりの混乱が見られたものの)当時の国民にはごく自然に受け入れられていったように推測されます。

 一パラグラフ削除(「・・・運用を間違った」という見解についての考察は、今後の論述も含めて総合的に行いたいと思います。7/8)

 以上、立花隆氏の「昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね」という言葉の意味するところを、私なりに解釈してみました。これは、氏が、かって、明治憲法と昭和憲法との根本的な違いを強調していたことを知るものにとっては意外な感じがしますが、そのように氏の認識が変化したということなのでしょう。

 次回は、この明治憲法第四条と矛盾関係において論じられた第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」の意味するところを論じたいと思います。本来なら、この第一条は、教育勅語との関連で論じなければならない。第一条は、通常、明治政府の正統性を担保する条文とされますが、これは、教育勅語によって語られた忠孝一致の家族的国家観を背景に理解する必要があります。つまり、ここから生まれた天皇親政の統治イメージが、明治憲法の立憲君主制の統治イメージと激しく衝突した、昭和の先鋭的な国体観の内実を満たすものとなったのです。

 このことを論ぜず、つまり、この問題の思想史的展開を解明した山本七平の業績を踏まえずして、両者の矛盾関係を解きほぐすことなど到底できない、私はそう思っています。  

2009年6月29日 (月)

NHKジャパンデビュー「アジアの一等国」―問われているのは戦後の日本人

 NHKジャパンデビューのメインキャプションは次のようになっています。

「150年前世界にデビューした日本は、ひたすら“坂の上”をめざし、第一次大戦後には五大国のひとつになる。日本が明治以来、欧米列強に伍していこうとする時に命運を握った4つのテーマ、「アジア」、「天皇と憲法」、「貿易」、「軍事」に焦点をあて、いったんは世界の“一等国”になった日本がなぜ国際社会の中で孤立し、焼け野に立つことになったのかを、世界史的な視点から検証する。」

 その第一回が「アジアの一等国」だったわけですが、保守系のメディアからバランスを失していると激しい抗議を受けています。私も見ましたが、従来日本人が抱いてきた日本の台湾統治のプラスイメージを帳消しにする内容で、これに衝撃を受けた友人から、当夜意見を求められるということもありました。

 この番組制作の意図は、”親日的ともいわれる台湾に今も残る深い傷”を紹介することにあったようです。そのため、この番組制作に協力した台湾の方々の証言の内否定的部分だけ紹介したり、また、その非人道性を際だたせるためか、台湾原住民パイワン族を「人間動物園」としてロンドン日英博覧会に展示したことを紹介するなど、かなり誤解を招きやすい編集がされていました。

 それは、日本の台湾領有が、台湾人の「漢民族としての伝統や誇り」を奪うものであり、その皇民化政策がいかに差別的で非人道的なものであったかを、印象づけようとしているかに見えました。確かに、日本の台湾統治には、そうしたネガティブな側面もあったでしょう。しかし、よく知られているように成功した部分もあったわけで、いささかバランスを失しているように私には思われました。

 というのは、当時は、植民地は「人類の経済を豊かに思進歩させるもの」(矢内原忠雄)と考えられ、「当時の人道主義的、平和主義的、反戦的な文化人」の多くが、こうした考えを支持」していたからです。新渡戸稲造も植民は「文明の伝播」「地球人化」であると評価していました。つまり、「列強諸国の植民地統治は列強の倫理的使命だと見なされ、先進国としての崇高な歴史的使命」とされていたのです。

 もちろん、現実の植民地統治は、こうした理想主義だけで解決できるものではなく、利害関係や権力闘争が絡み、その初期には台湾人の激しい抗日運動もあり、多くの犠牲者を出したことは事実です。しかし、日本の台湾領有自体は、日清戦争後結ばれた日清講和条約(下関条約)に基づくものであり、これを非合法な侵略と見なすことはできません。

 また、その当時の台湾は土匪が支配する社会であり、ここに法的秩序を確立するためには、反乱を武力で討伐し警察による治安維持に代える必要がありました。その上で、インフラ(土地所有権の確立、鉄道・道路、上下水道、ダム・水力発電・港湾・都市の建設など)を整備し、森林開発や農業改良(米作・サトウキビ栽培)を行い、法律を整備し、教育の普及が図られました。

 また番組では、特に皇民化教育の弊害が指摘されていましたが、この問題は、朝鮮や台湾における教育政策の問題点というより、日本の国内政治(=思想統制)の延長と見るべきだと思います。というのは、日本が日中戦争から大東亜戦争へと突入する中で、独善的・排外的思想が生まれ、それが国内では言論弾圧・思想統制となり、朝鮮や台湾では皇民化政策となったのです。

 というのも、台湾人の公学校就学率は1899年の調査では2.04%だったものが1944年には71.17%、日本語普及率は57%に達しているからです。日本語教育が批判の対象となることもありますが、それまでの台湾の言語は多種多様であり、そこに日本語という共通言語を得たことで、台湾が近代国家に生まれ変われた、と黄文雄氏は評価しています。

 一方、日本人は台湾人を教化するために台湾語をマスターしようと努め、特に警察官や師範学校教師には台湾語学習が必要とされ、多くの語学書や優れた日台辞典、台湾文化志などが編纂出版されました。この外、台湾文化を守るために尽力した学者、文化人、教育者、ジャーナリストも数多くいたということです。(以上『台湾は日本の植民地ではなかった』黄文雄 参照)

 これらのことを総合的に勘案すれば、日本の台湾統治が、台湾の近代化や殖産興業に果たした役割は、正当に評価されて然るべきだと思います。それと同時に、台湾の人びとが、日本の統治下で自治を奪われ、日常生活においてもなにかと差別扱いを受け、悔しい思いをしたという事実もあったわけで、このことも率直に認めるべきだと思います。

 ただ、こうした問題を考える際に忘れてならないのは、特に昭和12年の日中戦争以降大東亜戦争に至る日本の無謀な対外膨張政策によって、日本人のみならず、台湾人や朝鮮人にも多くの犠牲者を出したという事実です。これさえなければ、朝鮮や台湾の独立あるいはアジアの植民地からの解放ということも、もう少し犠牲少なく達成できたかもしれません。歴史のIFということではありますが。

 また、この番組でNHKのインタビューに答えていた台湾のおじいさん達の言葉を聞いていて感じたことですが、私は、彼等の不満は必ずしも戦前の日本に向けられたものではなく、戦後の日本に向けられたものではないかと思いました。(雑誌「正論」7月号「視聴者センターに殺到した抗議二転三転する”仰天”言い訳集」永山英機 にも同様の指摘がなされていました。)

 それは、戦時中は日本国民として日本語を話し、日本語でものを考え、軍歌を歌い、命をかけて日本のために尽くしたのに、戦後私たちは、かって敵国であった蒋介石のの国民党の支配下におかれ、みなしごになってすてられた。中には”日本の奴隷になった”として処刑されたものもいた。この事実を戦後の日本人は忘れているのではないか、ということです。

 ”人を馬鹿にしているんだ日本人は・・・”という、この台湾のおじいさんの言葉は、戦前の日本人に対してというより、こうした悲劇に見舞われなければなければならなかった台湾の人びとに対して、戦後の日本人はどう責任をとろうとしたのか、日本人の信義は一体どうなっているのか、と問いかけているように私には思われました。

 とすれば、NHKも(この時の、このおじいさんのインタビューのテープの切り方がいかにも不自然でしたねェ・・・)、また、この番組が日台間の友好親善関係を傷つけたと抗議している日本人も、こうした彼等の言葉の意味を今一度反芻し考え直してみる必要があるのではないでしょうか。問われているのは過去の日本人ではなく、現在の日本人なのだと。

2009年6月10日 (水)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか2

 前回は、日本の大陸政策が日清戦争以降山東出兵までどのように変遷したかを一通り見てみました。今回は、もう少し掘り下げて問題点を整理しておきたいと思います。(重複する部分もありますが、ご容赦下さい。)

 日清戦争の段階では、日本の安全保障上死活的な位置を占める朝鮮の重要性が認識され、朝鮮は、日清戦争後中国の宗主権を離れて独立することになりました。いうまでもなく日本の勢力下におかれたわけですが、日本が三国干渉に屈したことにより、朝鮮では国王高宗の妃である閔妃一族の勢力が復活し、ロシアの支援を受けるようになりました。これが公使三浦梧郎(陸軍中将)による、大院君のクーデターに見せかけた閔妃殺害事件(1895.10)を惹起し、朝鮮全土に抗日義兵運動が起こることになりました。高宗はロシア公使館に移され親ロ内閣を作りました。(1896.2)

 他方、そのわずか3年前、日本に対して「遼東半島を日本が所有することは、常に清国の都を危うくするのみならず、朝鮮国の独立を有名無実のものとなす」として、遼東半島を中国に返還するよう迫ったロシアとドイツは、中国の弱みにつけ込み、前者は遼東半島の旅順・大連の25年間租借権と南満州鉄道の敷設権を、後者は、膠州湾の99年間の租借権と膠済鉄道敷設権、鉱産物採取権を獲得しました。これに対して日本は両国に正式抗議一つできずに見守るほかありませんでした。

 1898年には中国に義和団事件が発生し、清国政府はこれを利用する政策をとり6月21日列強に対して宣戦を布告し、北京の外国公使館区域を封鎖しました。列強8カ国は連合軍(七万)を組織して北京を制圧しました。この時の日本軍(二万二千)の規律ある行動は列国の賞賛を博しました。1901年には講和が成立し、北京には各国軍隊が駐留権を持つ特別区が設定されました。一方ロシアは、建設中の東清鉄道保護を名目に八万の大軍を満州に送ってこれを占領し、第一次撤兵後そのまま居座りました。

 日本国内では、このようにロシアが満洲に居座り、日本の朝鮮支配は一向に進展せず絶望視される中で、ロシアとの戦争が議論されるようになりました。こうした世論を背景に日本政府は日露交渉を開始し、1903年8月「満韓交換論」をロシアに提示しました。しかしロシアはこれを無視し、韓国領土の軍事的利用の禁止、北緯三九度以北の中立地帯化を日本に要求しました。日本は、財政的・軍事的限界からロシアとの短期局地戦を決意する一方、イギリス、アメリカの調停による早期の講和に期待しました。

 この段階での日本の大陸政策の狙いは、朝鮮を日本の植民地化することと引換に満洲を列国に解放するというものでした。幸い日本は奉天会戦と日本海海戦(1905.5)に勝利し、ロシアが第一次ロシア革命の渦中にあるこの機を捉えて、ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼しました。この時、日本による韓国の保護国化の承認と引きかえに、アメリカに対してはフィリピン統治を(「桂・タフト協定」1905.7)、イギリスに対してはインド国境地方における特殊権益を承認しました。

 日露交渉は、ロシアの強気もあって難航しましたが、1905年9月5日講和条約が調印されました。日本は、韓国における日本の優位、ロシア軍の満洲からの撤退、長春から旅順に至る鉄道と大連・旅順の租借権の譲渡、サハリン南部の割譲、沿海州沿岸の漁業権を得ました。日本国内ではこうした講和条件を不満とする暴動が発生しましたが、日本は政治と軍事、外交と統帥が一体となってこれを抑えました。当時の陸海軍人は、明治人が持つ一種の合理主義と武士的規範意識を持っていました。

 一方、韓国人にとって日本の日露戦争における勝利は、その植民地化を意味していました。「第一次日韓協約」(1904.8)によって韓国の財政権・外交権は実質的に日本の掌握するところとなり、「第二次日韓協約」(1905.11)で韓国の外交権は日本に接収されました。また、ソウルには日本政府を代表する統監府が置かれ、統監は天皇に直属し、韓国において日本官憲が行う政務の監督、韓国守備軍司令官への兵力使用の命令など、強大な権限を有することとなりました。初代統監には伊藤博文が就任しました。

 これに対して韓国国内では、こうした日本による韓国の植民地化は、韓国の独立を約した先行条約や宣言に対する裏切りであると受けとられ、救国と独立をめざす武装義兵闘争が繰り広げられました。1908年には最高潮に達し、この年の交戦回数は1451回に上り、7万人近くがこれに参加し、1万1千余名が死亡したとされます。また、高宗は「日韓協定」を容認せず、1907年6月オランダハーグで開かれた第二回平和会議に密使を送りましたが訴えは斥けられました。

 こうした高宗の密使事件に激怒した伊藤統監は、高宗を譲位させ大韓帝国最後の皇帝となる純宗を即位させ、「第三次日韓条約」(1907.8.27)により韓国の内政権も掌握しました。しかし、伊藤博文は、韓国統治の実権を掌握しながらも、韓国官僚に日本人を送り込むことはせず、その傀儡化を進めつつ合邦論は避けていました。それは、韓国を富強ならしめ、「独立自衛」の道をたて「日韓提携」するのが得策であり、「合邦はかえって厄介を増すばかり」と判断していたからです。

 しかし、韓国の義兵闘争は収まらず、日本人の間からも伊藤の保護国経営を批判する声が上がるようになり、こうして、伊藤は1909年6月「合邦」に同意するとともに統監を辞任しました。伊藤は辞任後まもなく朝鮮人安重根にハルピンで射殺されました。(10.26)新たに統監となった寺内正毅は、李完用韓国首相に日韓併合条約の受諾を求め、1910年8月22日条約発効、ここに李朝五〇〇年の歴史は閉じることとなりました。併合直後の日本の新聞雑誌は一致してこの韓国併合を支持しました。

 こうして、日本の朝鮮支配は「韓国併合」という形で完成を見たのですが、日露戦争の結果、ロシアより譲渡された旅順・大連の租借及び南満州鉄道の租借期間は二五年であり、1923年にはその期限が切れることが問題となっていました。そんな折、1914年8月欧州において「第一次世界大戦」が勃発しました。日本はこれを天佑とし、日英同盟に基づく要請を受ける形で、1914年8月23日ドイツに宣戦を布告、青島ばかりでなく済南や膠州鉄道も占領し、11月7日ドイツは降伏しました。

 中国政府(袁世凱)は1915年1月7日、日本に交戦区域の廃止と日本軍の撤退を要求しました。しかし、日本はこれを拒否した上袁世凱大統領に対して「二十一ヵ条要求」(1915.1.18)を突きつけました。この要求は五項からなり、第五号は単なる「希望条項」であり、その主眼は、第二号の、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長(さらに九十九年)、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利、鉱山採掘権の承認にありました。

 しかし、中国は、第五号の要求項目が「希望条項」とはいえ中国を属国視するものであるとして強く反発し、中国国民は憤激し、日本を「仇敵」視するようになりました。しかし、日本政府は第五号を保留した上で最後通牒を発し、1915年5月9日中国にこれを受諾させました。こうした日本のやり方に不信感をつのらせたアメリカは、中国の「領土保全・門戸開放等」を求める通告を発しました。しかし、10917年11月には、「石井・ランシング協定」により、日本に「領土相近接する国家間の特殊関係」を認めました。

 1918年11月11日、ドイツは敗れて休戦条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。1919年1月18日からパリのベルサイユ宮殿で講和会議が開催され、ドイツに極めて過酷な内容の平和条約が調印され、また、国際紛争の調停機関として国際連盟が設立されました。一方、日本が「二十一ヵ条」で要求した山東省のドイツ利権は、アメリカの妥協によって日本に譲渡されました。この頃日本は、大戦景気もあって経済を飛躍的に躍進させ、軍事大国としての地位を確立するようになっていました。

 しかし、この間1917年3月にロシア第二次革命が起こり、11月ソビエト政権が成立したことにより、1907年から1916年7月まで四回にわたって、満州における日露の勢力範囲(日本は南満州)や中国における利益範囲を約していた日露協定が廃棄されました。また、ロシア革命の影響や、パリ講和会議においてウイルソン大統領によって提唱された民族自決主義の考え方が広まるにつれ、朝鮮においては民族独立運動、中国においては反帝国主義・反封建主義運動が組織されるようになりました。

 ベルサイユ講和会議から二年後の1921年11月、アメリカの主導でワシントン会議が開かれました。その結果、海軍軍縮条約が成立し、主力艦の米英日比率(トン数)を5:5:3としました。また、日本はこの条約に基づいて、廃艦、空母への改造、建艦中止をするとともに、将兵7,500名、職工14,000名を整理しました。また、陸軍においても1922年の山梨軍縮で兵員約6万人と馬匹約13,000を削減、続いて、1925年の宇垣軍縮で四個師団を削減し装備の近代化を図りました。

 また、安全保障面では日英同盟を解消し、その代わり四カ国(日本、アメリカ、イギリス、フランス)条約を締結し、太平洋地域に領有する島嶼に関する四カ国の相互の権利尊重、紛争発生の場合の協議について規定しました。また、九カ国条約(上記五カ国に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加える)によって、中国に進出する列国間の原則(中国の独立・領土保全、門戸開放・機会均等等)を確立しました。これにともなって、日本の大陸における特殊利益を認めた石井=ランシング協定は廃棄されました。

*以上『あの戦争は一体何であったのか』竹内久夫を参照しました。

 懸案の二十一ヵ条問題については、支那はこの会議を利用して同条約を廃棄しようとしました。しかし、幣原は、日本は南満州において独占権(借款や、政治・財政・軍事・警察等への顧問傭聘に関する優先権)を振り回す意志のないことを表明した上で、二十一ヵ条要求の中で保留となっていた第五項を撤回しました。こうして、旅順・大連の租借期限及び南満州鉄道の租借期限の延長、日本国民に南満州・東部内蒙古での賃借権・所有権・自由に居住往来し業務に従事する権利や鉱山採掘権が正式に認められました。

 さらに、日本は中国との直接交渉によって、膠州湾租借地を中国に還付し、膠州鉄道も中国が十五年年賦で国債で引き取ることを認め、鉱山は日中合弁としました。こうして日本軍は青島から撤退しましたが、商業上の利権はそのまま確保され、山東は満洲に次ぐ日本の勢力範囲となりました。しかし、これによって日本の日清・日露戦争以来の大陸政策、軍事力増強政策に歯止めがかかり、「ワシントン体制」のもとにおける国際協調、中国の内政不干渉政策が選択されることになったのです。

 しかし、その一方で、こうした政府の軍縮政策や国際協調路線に強い不満を抱くグループが軍内に形成されつつありました。1921年(大正10年)秋、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三陸軍中佐が会合し、長州閥の打破と国家総動員体制の確立のため結束することを約しました。1927(2を訂正)年には陸士十五期から十八期までの佐官級将校の横断的組織として、二葉会が結成され、ここに陸軍による国家改革運動がスタートすることになりました。

 この二葉会とともに、昭和3年になると陸軍省軍事課の職員を中心に、第二の集団が結成されるようになります。彼らは二十期から二十五期までの陸軍の佐官級実力者たちで、無名会あるいは木曜会と称していましたが、昭和4年4月頃、先の二葉会と合流する形で一夕会が形成されました。こうして十五期から二十五期までの陸軍佐官級実力の結合が成立し、藩閥解消・人事刷新、軍政改革・総動員体制の確立による、満蒙問題の根本解決が図られるようになりました。

 ところで、彼らには”軍縮を挟んで十年の臥薪嘗胆”という言葉がありました。先に述べた軍縮の時代、大正末期から昭和の満州事変までは、軍人に対する世間の目は冷たく、当時の軍人は税金泥棒扱いされていました。しかし、彼らは、こうした「世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんの時である。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで一国の支配を誓」っていたのです。(『昭和の軍閥』p98)

 この軍縮に象徴される大正末期から昭和初期の時代は、第一次大戦後の慢性的不況に関東大震災やシベリア出兵による費用が重なり、不況のどん底にありました。こうした中で、陸海軍の青年将校たちは、大正デモクラシー下の軍縮政策や、政党政治にともなう利権体質及びその腐敗構造に対して、強烈な反感と憎悪を抱いていました。また、ロシア革命の影響を受けて国内の左右の反体制運動も激化しつつあり、一方、中国においては、反日運動が反帝・反植民地主義運動に結びつく兆候を見せていました。

 こうした困難な状況の中で、日本外交の舵を取ったのが幣原喜重郎でした。彼はワシントン会議の時は駐米大使でしたが、日本外交団の全権を務めており、四カ国条約や九カ国条約の締結、さらに二十一ヵ条要求問題とその後始末である山東問題の処理を、上述したような形で行いました。〈軍縮問題は加藤(友)全権が担当〉その後1925年6月加藤高明護憲三派内閣の外務大臣になり、国際連盟規約とワシントン条約に盛られたの精神(民族自決、国際協調)の遵守を基調とするいわゆる「幣原外交」を押し進めました。

 幣原が外相に就任したことは米国において特に好評で、ニューヨークタイムスは「その主義というのは、現代のような列国間の相互信頼の時代には協調と親善とが、傲慢と暴力よりも永遠の平和を増進するという確信から発したものである」と激賞しました。また、従来北支における排日派の宣伝機関紙として有名だった「北京益世報」も、従来の排日的筆鋒を収めて日華新提携論を高唱し、旅大の返還要求などは別に協定を締結し相当期間延長すべきである、とする具体的提案を行いました。(『幣原喜重郎』幣原平和財団発行p261)

 こうして幣原は、加藤内閣(1924.6~1926.1)第一次若槻内閣(1926.1~1927.4)において外務大臣を務める間、対支不干渉政策を基調として、中国関税自主権の確認、支那治外法権撤廃への努力、支那の通商条約改定要求への応諾等中国との関係改善に努めました。しかし、支那における軍閥間の闘争は止むことなく、一方、支那の革命運動は急進して、蒋介石の北伐は広東より開始せられ、段祺瑞政府は倒れ、北京は無政府状態となりました。この頃から、幣原外交を批判する声が上がるようになりました。

 特に問題となったのが、1927年3月24日、北伐途上の革命軍が引き起こした南京事件への対応です。この時、日本領事館も革命軍兵士による掠奪・暴行を受けましたが、領事館に派遣された陸戦隊員は、尼港事件の記憶が生々しい時期でもあり、居留民の懇願を容れて無抵抗を貫きました。この時、揚子江上にいた日本軍艦も、南京に居住する多数の日本人の虐殺を招く恐れがあるとして砲撃を控えました(幸い死者は出なかった)。また、幣原は事件後イギリスの求めた共同出兵にも応じませんでした。

 しかし、この事件が国内においてセンセーショナルに報道され、その後(3.29)、領事館に派遣されていた陸戦隊員が、その任務を全うできなかったとして自決(未遂)する事件が起きました。ここにおいて世論は激昂し、日本人の蒙る屈辱はいずれも幣原外交の結果である、として政府を激しく攻撃し、反対党は、政府の無抵抗政策を「弱腰外交」「軟弱外交」と排撃し、居留民は現地において保護すべし、必要ならば出兵も断行すべし、居留民の引き揚げはわが威信の喪失であると主張するようになりました。

 かくして、民政党内閣は倒れ、政友会内閣が出現したことで、従来の国際協調を基調とする幣原外交は、田中内閣の積極的外交に取って代わられました。この時、田中首相は外相を兼任し外務政務次官に森恪を任命しました。(1927.4)当時、森恪は政友会の闘士として活躍しており、対支政策については奔放な積極意見の持ち主で、軍の極端分子と連携して満洲に対する強硬論を煽動していました。彼は、そうした対支強硬策を政府公認の政策に高めようとして「東方会議」(1927.6.27~7.7)を開催しました。

 しかし、こうした森の対支強攻策と田中首相の満州問題解決策にはかなりのズレがありました。田中首相は、張作霖が日本の援助によって、東三省だけで事実上独立する事を希望し、張作霖が支那中央部を離れて、日本との間に特殊関係を設定することで、日本の希望する満州問題の解決を図ろうとしていました。そのため北伐中の蒋介石とも連絡し、張作霖を東三省に帰還させるよう働きかける事を約束するとともに、蒋介石の支那統一のための北伐にも了解を与えていました。

 そこで、蒋介石の北伐となりましたが、第一回目は、国民党内の内部対立から北伐は中止(1927.7)されました。この時日本は、森恪の強硬な主張で第一次山東出兵(1927.6)をしていましたが、9月に撤兵しました。続いて蒋介石は1928年4月北伐を再開しました。この時も、田中首相は不測の事態が起こることを恐れて出兵を躊躇しましたが、森恪の働きかけや、済南駐在武官酒井隆少佐の執拗な出兵要請もあり、天津より歩兵三個中隊、内地より第六師団司令部(約5,000)が、済南に直接派遣(4.26先遣部隊到着)されました。

 済南にいた北軍の残留部隊は4月30日全員撤退し、代わって5月1日より南軍の第九軍及び第四十軍が入城をはじめました。5月2日には蒋介石も済南に入りました。日本軍は商埠地内に警備地域を定め警戒に当たりましたが、5月3日午前9時半商埠地内で両軍の衝突事件が発生しました。(双方の言い分は食い違っており真因は不明、酒井武官の謀略という説もある)ただちに不拡大の交渉が開始されましたが、商埠地内においては市街戦や掠奪・暴行が断続的に発生し、4日朝の段階に至って事態はようやく沈静化しました。

 この間の日本軍の死者10名、負傷41人、一方南軍の死者は150人とも約500人ともいわれます。また、武装解除された中国兵は1,230人に達しました。また、日本居留民の受けた被害は、掠奪された戸数136、被害人員約400人、中国兵の襲撃による死者2人、負傷者30人、暴行を受けた女性2人と記録されています。また、この外に5月5日に邦人12名の惨殺死体が発見されましたが、これは、避難勧告を無視した麻薬密売人等で、惨殺は土民の手により行われたものが多かった、と佐々木到一の『ある軍人の自伝』にあります。

*中国側死者の中には、北伐にともなう外国居留民との折衝に当たっていた蔡公時はじめ済南交渉公署職員8名他16名がいます。

 ところが、この間に酒井武官より陸相宛に発した電報があまりにも誇張されたものであったため、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽り、報道各社もそれに追随しました。そのため、国内では反中国感情がみなぎり「積極的膺懲論」がしきりに唱えられるようになりました。参謀本部内ではこうした世論を背景にして「国威を保ち将来を保障せしむる為には、事実上の威力を示すにあらざれば到底長く禍根を断つ能わず」との意見をまとめて参謀総長に具申しました。総長は動員一個師団の出兵(第三次5月9日)の必要を認めました。

 一方、蒋介石は5日参謀副長熊式輝を福田中将のもとに派遣して、国民革命軍は北進する。蒋介石自身も「本日出発」する、ゆえに日本軍も戦闘を中止して欲しい、と要請しました。しかし福田中将はこれに答えず、自らの「膺懲方針」を東京に打電しました。蒋介石は6日午前8時済南を離脱しました。国民革命軍主力が北進した後の済南城には、約3,000人の将兵が、日本軍の攻撃に対して「持久する」事を目的に残留しました。日本側は7日になってようやくこの事態の変化に気づきました。

 しかし、福田中将は5月7日午後4時、蒋介石が到底飲めないことを承知の上で、あえて「暴虐行為」に責任ある高級武官の「峻厳なる処刑」、同部隊の武装解除他五ヵ条の要求を手交し、十二時間以内に回答するよう迫りました。中国側には、これはあまりに過酷な条件であり、明らかに「北伐妨害」である、一戦も辞さない覚悟ではねつけるべきだという意見もありましたが、結局、「北伐に支障なき限り忍耐策」をとることとして、回答期限の延長を提案しました。しかし、福田中将はこれを無視し、5月8日午前4時済南城攻撃を開始しました。

 この頃、東京では陸軍側の軍事参議官会議が開かれていました。会議に提出された「済南事件軍事的解決案」には次のようなことが書かれていました。

 「我退嬰咬合の対支観念は、無知なる支那民衆を駆りて、日本為すなしの観念を深刻ならしめ、その結果昨年の如き南京事件、漢口事件を惹起し、その弊飛んで東三省の排日となり、勢いの窮するところついに今次の如く皇軍に対し挑戦するも敢えてせしむるに至る」
 「之を以てか、支那全土を震駭せしむるが如く我武威を示し彼等の対日軽侮観念を根絶するは、是皇軍の威信を中外に顕揚し、兼ねて全支に亘る国運発展の基礎を為すものとす。即ち済南事件をまず武力を以て解決せんとする所以なり」

 こうして8日早暁以後11日に至るまで、済南城攻撃戦が展開されることになったわけですが、その経過については、資料間に甚だしい食い違いがあり、その実態は必ずしも明らかではありません。臼井勝美氏の「泥沼戦争への道標」(『昭和史の瞬間(上)』所収)では、「9日と10日の両日は昼夜をわかたず済南城内に集中砲火をあびせました。夜は火炎が天を焦がし、済南城内は逃げ惑う住民達の阿鼻叫喚の巷となった」と書かれていますが、児島襄氏の『日中戦争』では、両軍の一進一退の攻防戦が克明に描かれています。

 その概要を、両軍の死傷者数で見てみると、上掲『日中戦争』では、中国側の遺棄死体160で、「第四十一軍副長蘇宗轍によると、第一師第一団の死者行方不明約600、第九十一師第二団は同300であった」と記述されています。また、済南惨案後援会会長が6月7日南京で報告したところによれば、「死亡3,600、負傷1,400、財産損失約2,600万元」に上ったとされています。

 しかし、日本側にはこうした報告を裏付ける記録も回想も見あたらない、と児島襄氏はいっています。また、済南城攻撃を指揮した第六師団長福田中将の、戦闘報告書には、「済南城陥落にともない支那側は無数の死体と山のごとき兵器弾薬を遺棄して全く二十支里外に逃走し、日本陸軍の武威は十分これを宣揚したり」と書かれていると紹介されています。(『昭和史の瞬間』(臼井勝美)p49)

 一方、日本側の5月3日以来の死傷者数は、『日中戦争』では、戦死11(21の間違いか?)、負傷230人となっています。また、臼井氏の先の論文では、第六師団の済南城攻撃による死者25、負傷157となっています。(日本側居留民の死者は15名、負傷者30名)なお、前回紹介した中山隆氏の『関東軍』では、日本側居留民死者15名負傷者15名、軍人の戦死者60名負傷者百数十名となっています。

 これらの数字のうち、日本側の死傷者数については、それほど大きな食い違いはなく、ほぼこのあたりの数字であろうと思われますが、中国側(済南惨案後援会)の数字はいささか過大であり(といっても日本側の犠牲をはるかに上回ることは明白)、また臼井氏の語る済南城砲撃の様子も、私にはにわかに信じられません。というのは、児島襄氏の『日中戦争』では、済南城攻撃の戦闘模様が克明に記述されており(戦闘詳報によったものか)、砲撃は城壁破壊が中心で、城内住民の避難措置もとられており、城内に「持久」した中国兵も11日まで良く戦い、そして速やかに撤退しているからです。

 だが、以上のような点を考慮したとしても、日本軍の済南城攻撃は居留民保護という当初の目的をはるかに逸脱したものであり、中国軍に「日本軍の武威」を示すため、あえて過酷な最後通牒を突きつけて攻撃を開始したものであり暴虐のそしりは免れません。というのも、蒋介石は、5日の段階で主力部隊を北進あるいは迂回させることを福田第六師団長に告げ、戦闘中止を依頼しているからです。つまり、南軍には北伐を中止して日本軍と戦う意志は全くなく、両軍の衝突も4日午前中には沈静化していたのです。

 ところで、こうした軍中央の常軌を逸した行動は、はたして、酒井駐在武官のもたらした誇張した情報に基づく誤判断だった、というだけで説明できるでしょうか。本当はそうではなく、その背後には、山東出兵によって北伐軍との間に武力衝突が発生することを、むしろ日本軍の「武威を示す」好機と捉え、かつ、この混乱に乗じて満州問題を一気に武力解決しようとする関東軍の思惑があったのではないでしょうか。関東軍は、第二次山東出兵と同時に、錦州、山海関方面への出動を軍中央に具申しており、5月20日には奉天に出動し、守備地外への出動命令を千秋の思いで待っていました。

 こうした関東軍の、満州問題の武力解決に賭ける思いがどれだけ重篤なものであったかということは、これが田中首相の「不決断」で水泡に帰したと判った時の関東軍の憤激の様子を見れば判ります。張作霖爆殺事件は、こうした行動への願望が、とりわけ河本大作に代表される青年将校たちにいかに強烈だったかを遺憾なく示しています。

 そういえば、済南から誇大情報を送り続けた酒井隆武官(この人、例の梅津・可応欽協定の張本人でもあります)もその一人であり、張作霖爆殺事件の主犯である河本大作もそうです。また、この河本大作を英雄視し、田中内閣を倒壊させてでも彼を守り抜こうとしたのも、これら青年将校たちでした。
   

2009年6月 5日 (金)

”正義”を連発するアホ大臣を見る不快

 最近テレビニュースを見ていて不快に思うことがあります。例の鳩山総務大臣ですが、その”正義漢ぶった口吻”、水戸黄門ばりに、あたかも悪代官(西川氏?)を懲らしめる風の時代がかったものの言い方、その表情を見てると、なんだか馬鹿にされているようで、思わずテレビに向かって叫んでしまいます。

 なんでも、小さい頃から「オレは総理大臣になる」というのが口癖で周囲を辟易させていたそうですが、そもそも政治家が自らを絶対の正義と公言し他を絶対の悪と断罪するようなことはやってはならず、それを臆面もなく繰り返すに至っては、なにをか言わんやと慨嘆せずにはおれません。

 さらに、そうした自己主張について大臣の任命権を持つ首相の判断さえ無視してかかろうとする・・・。そういえば戦前の内閣は一人の閣僚が辞任するだけで内閣がつぶれたよなあ、ということを否応なく思い出してしまいました。

 おそらく、麻生総理もそれを内心では支持しているのでしょう、模様眺めを決め込んでいますが、この人のポリシーの無さにも愕然としますね。ぶら下がりインタビューに答える態度も正面を向くこともできず逃げ腰で、見ていて決していい感じはしません。

 この正義漢マニアの兄が野党党首で、周りからは何を考えているか解らない「宇宙人」だといわれているそうで、実際かれの「物言い」を聞いてきましたが、くそまじめだとは聞いていますが、まるで機知もユーモアも感じられない。一体日本の政治家はどうなってるの?と暗澹たる気分にさせられます。

 この際、あえて郵政の議論の中身には触れませんが、このアホ大臣に悪と断罪された西川氏には、ぜひ、こんな非常識に振り回されることなく、たんたんと事を処してもらいたい、と願っています。それくらいの常識が日本のリーダーには残っている、ということを是非示してもらいたい、と思っているのです。

ところでついでに、小泉元首相の進退についても、私見を申し述べておきます。

 数年前の文藝春秋(2005.11)の巻頭エッセイ(「日本人へ・30」)で塩野七生氏は、次のようなことを言っていました。

 「政治家にとっての「野心」は、やるべきと信じたことをやること、につきます。一方、「虚栄心」とは政治家の場合、良く思われたいこと、ではないかと思います。

 ただし、「野心」と「虚栄心」は政治家ならば両方とも持っているはずで、ゆえに間題は、どちらが大きいか小さいかであり、理想的な形は、つまらないことで虚栄心を満足させ、重要なことては野心で勝負する、ではないかと。つまらないこととは、自民党のマドンナたちに囲まれてニヤニヤする、のたぐいですね。

 ところが、彼ら(永田町の常識を形成している人たち=国会議員だけでなくその周辺にいる記者や評論家や官僚達=筆者註)の常識に反することばかりしてくれて、しかもそれで勝ってしまうあなたに悔然とするしかない既成の有識者の反撃が、あなたの虚栄心に的をしぼることで成されそうな気配がするのですがそれにはお気づきになられたでしょうか。

 総選挙後のテレビや新聞や雑誌をにぎわしている、小泉の男の美学なるものです。大勝負後高まりつつある任期延長の声にもかかわらず、男の美学に生きる小泉純一郎だから潔く退陣するだろう、というわけ。またあなた自身も、任期延長はしないと言われました。

  しかし、日本は改革を選んだと報じたこちら(欧米)のマスメディアは、小泉首相はあと一年でやめると言っている、と報じています。それは彼らが、一国の最高責任者ともあろう人が退陣の時期を明確にすることを、国益に反する行為と考えているからです。バーゲンセールが一週間後とわかっていて、買物するのはバカのやること。他国の政府でも、日本に譲歩するしかないかと思い始めていた国の政府は、あなたの退陣まで待つでしょう。任期を延長するかしないかは別にして、退陣の時期を明確にするのは、国益に適うとは思われません。

 それに、男の美学に殉ずるとか、潔ぎよく身を引くとか、優雅なリタイアを愉しむとかは、あなたのような高い地位と強大な権力を与えらている人の言うことではなく、それらは恵まれなかった一般の人々のためのものなのです。でなければ、神さまはあまりにも不平等。私があなたに求めることはだだ一つ、刀折れ矢尽き、満身創痍になるまで責務を果しつづけ、その後で初めて、今はまだ若僧でしかない次の次の世代にバトンタッチして、政治家としての命を終えて下さることなのです。


 ブオナ・フォルトゥーナ、ミスター・コイズミ。(九月二十二日記)

 最後のイタリア語の意味はよく解りませんが(幸多かれ、か?)、以上大変に面白い指摘で、政治家の無責任ということについて、考えさせられました。任期満了での退陣はともかく、早々と引退を表明し息子に地盤、看板、カバン(選挙資金)を継がせるというのは、世襲云々と言うことは別にしても、以上の観点から見てどうなのか・・・、あの”刺客騒ぎは、貴方の遊びだったの?”そう疑問に思う人も多いのではないでしょうか。冒頭紹介したアホ大臣の一幕も、どうやら、この無責任が演じさせているもののように、私には思われます。 

2009年5月28日 (木)

昭和の青年将校はなぜ暴走したか1

 前回の末尾に、「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」という重光葵の言葉を紹介しました。この「日本国民の政治力の不足」ということは、ひいては当時の日本国民の政治意識を支えた「思想」に帰着します。つまり、この「思想」が、この時代の日本に「自滅」への道を選択させてしまったのです。

 私は先に「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したか」について、その根本原因を「日本の伝統的大陸政策」に求めました。特に、昭和期の日本の大陸政策が、独善的・排他的な東亜共和思想に陥ったことが大きな問題でした。確かに、当時の国際環境の中で資源の少ない日本は中国にそれを求めるざるを得ませんでした。しかし、この問題を、あくまでも中国の主権を尊重するなかで解決すべきでした。また、第一次世界大戦後の国際協調路線を堅持する中で解決すべきでした。

 ここで、明治以降の日本の大陸政策の変遷を概略見ておきます。

 それは、中国との朝鮮の支配権をめぐって戦われた日清戦争(1894.7~1895.4)に始まります。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾、澎糊諸島を獲得しましたが、三国(ロシア、ドイツ、フランス)干渉(1895.4)を受け遼東半島を中国に返還しました(その代償として邦貨約4500万円を取得)。しかし、その後ロシアは旅順港の租借、東支鉄道の敷設をはじめ満洲に支配権を広げ、さらに朝鮮にも進出しようとして日本と対立するようになりました。

 こうして日露戦争(1904.2~1905.9)が勃発し、日本は日英同盟もあって勝利し、ロシアに南満州を中国に返還させた上で、遼東半島(関東州)と東支鉄道の一部(旅順―長春間、南満州鉄道)の支配権(ロシアの25年の租借権を継承)を獲得しました。この内、遼東半島については、日本は二度の戦争の犠牲を払ってようやく獲得したものであり、それだけ思い入れの深いものとなりました。また、南満州鉄道の租借権については、ロシアが採掘していた撫順及び煙台炭坑の開発・経営権や、鉄道付属地(鉄道両側併せて約62メートル及び駅付近の市街地)の行政権も含んでいました。さらに関東州の守備隊として日本の軍隊が配置され、1919年には関東軍司令部が設置され、南満州鉄道の線路防衛にもあたることとなりました(1931年の満州事変に至るまで約一万人)。

 この間、日本は1910年に朝鮮を併合しました。満洲及び蒙古については、四次(1910~1016)にわたる日露協約によって、ロシアとの勢力範囲(日本は南満州および東部蒙古)を確定し、相互援助・単独不講和を約しました。しかし、1917年のロシア革命によりこの協約は破棄されました。また、この間の1911年には辛亥革命が発生し、1912年1月には中華民国が発足し孫文が臨時大統領となりました。2月には宣統帝が退位して清朝は滅亡し袁世凱が大統領になりました。

 このように中国の政情が激動する中、一部日本人(川島浪速他)による満蒙の分離独立工作が企てられました。しかし、日本側の工作は統一されておらず、革命派を支持する活動もあり、また、イギリスが袁世凱による統一共和政府を支持して、日本に分離独立運動を援助しないよう申し入れたことから、この運動は挫折しました。一方ロシアは、1912年11月、露蒙協約を結んで外蒙(モンゴル)を保護国化し、1913年には中露協定を結んで、中国に宗主権を残す形でのモンゴルの自治を認めさせました。

 1914年7月には第一次世界大戦が勃発しました。日本は日英同盟の要請もあり、東洋からドイツの根拠地を一掃するとともに、この機会を利用して中国における日本の権益確保・拡大をねらって対独参戦しました。日本軍は11月までに膠州湾、青島、山東鉄道を占領、その後加藤外相が袁世凱に出した要求が、いわゆる「対華二十一ヵ条要求」でした。特にその第五号は、希望条項でしたが、支那中央政府に日本人の政治、財政、軍事顧問をおくなどの要求を含んでいたために、列国の反発を招き、中国はこれに激しく抵抗しました。

 結局、日本政府は第五号の希望条項を留保(撤回を訂正5/3)した上で、1915年5月7日に最後通牒を発し、5月9日中国はやむなくこれを受諾しました。続けて、二十一ヵ条要求を具体化する「山東省に関する条約」及び「南満州及び東部内蒙古に関する条約」等が締結されました。前者による権益は、その後のワシントン会議(1922)における中国との直接交渉で全て返還されましたが、日本は後者によって、新たに、日本人が南満州における商工業上の建物を建設するための土地や、農業を経営するための土地を商租する権利を得ました。また、この時満鉄平行線を敷設しないとの取り決めもなされました。

 この間、中国では袁世凱の独裁化が進行し、1915年12月に袁は皇帝となり、共和制が廃止され帝政となりました。しかし内外の強い反発を受けて、袁はあわてて帝政を取り消しましたが、各地で反袁武装蜂起が相次ぎました。こうした中国の政情不安の中で満洲では張作霖が台頭し、日本政府(大隈内閣)は張を支援して満蒙独立運動(第二次)を推し進めようとしました。しかし、1916年6月に袁が急死し、副総裁の黎元洪が大総統代理となったことで情勢は一変し、第二次満蒙独立運動は中止されました。

 1917年10月、大隈内閣に代わって寺内正毅内閣が成立しました。同内閣は混迷した対中国政策を立て直すため、「中国の独立と領土保全を尊重擁護し、両国の親善増進をはかり、内政に干渉せず、列国とも協調することで、満蒙の特殊利益の増進と利権の確保」しようとしました。そのため段祺瑞政権に対する借款(西原借款)がなされました。また、1917年11月にはアメリカとの間で「領土相近接する国家の間には特殊の関係が生ずることを承認する」いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれました。

 1918年11月には、膨大な犠牲をもたらした第一次世界大戦が終わり、1919年1月からパリで講和会議が開かれました。この会議では英仏そしてアメリカも、日本がドイツ利権を引き継ぐことに同意しました。これに対して中国民衆の憤懣が爆発し、全国的な民族解放運動が巻き起こりました。それまでの排外運動は、イギリスやロシアを対象としていましたが、今や中国民衆の主要な敵は日本に絞られるようになり、日本政府は大陸政策の抜本的修正を迫られるようになりました。

 その後、1920年7月、段祺瑞の安徽派と、これに反発する馮国璋の直隷派及び張作霖の奉天派との間で「安直戦争」が行われました。その結果、段祺瑞が敗れて日本の中国における親日基盤は壊滅しました。日本政府は、五四運動が高まりを見せる中で大陸政策を見直す余裕もないままに、「安直戦争」後の新情勢への対応を迫られました。原内閣は大陸政策に関係する諸機関の代表者を集めて満蒙政策の再検討(1921.5)を行い、「満蒙経営には張作霖との親善を保つ」ということで意志統一をはかりました。

 1921年7月には、アメリカが提唱したワシントン会議が始まりました。これは、第一次世界大戦後の軍縮要求を受け、列強間の建艦競争を休止させることを目的としていました。またこれを機会に、アジア太平洋地域における国家間の協調体制も作ろうとしました。日本では会議の結果を憂慮す声もありましたが、「日露協約は既になく、日英同盟の存続も危うく、直隷派の勝利した中国との間も多難であり、アメリカとの親善保持も不可欠」ということで、原首相はこれに応じました。

 周知のようにこの会議では、日英同盟条約を終了させ、「太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約する英米仏日による四カ国条約」が調印されました。その他中国に関する九カ国条約、海軍軍縮条約等が調印されました。この九カ国条約の成立を機に、23年4月石井・ランシング協定は廃棄されました。こう見てくると、これまで日本に有利と見られた条件がことごとく消失したかに見えますが、アメリカ全権ルートが提出した「ルート四原則」は日本の満蒙特殊権益に理解を示していました。

 この九カ国条約の締結に際して、中国は列国の特権や利権の公表と審査、不平等条約の撤廃等を要求しました。しかし、中国がすでに各国に附与した既得権益には影響を及ぼさないことが確認されました。日本は先述したように、中国との直接交渉で膠州湾租借地の還付他山東省の利権を手放しましたが、満蒙に関する権益は維持しました。しかし、その後中国では第一次奉直戦争(1922.4)が起こり、二十一ヵ条条約の無効を訴える「旅大回収運動」が提起され日本政府を悩ませました。

 この間日本政府は、中国政府のこうした要求を拒否する一方、中国の内争に対しては不干渉主義をとりました。また国際関係のおいては列国との協調路線をとりました。こうした外交方針について、この頃は、中央と現地、外務省と陸軍の間に大きな意見の齟齬は見られませんでした。また、原内閣以降も、こうした日本の不干渉政策は維持され、加藤高明護憲三派内閣(1924)外相幣原喜重郎による「中国に対する内政不干渉・国際協調政策」へと受け継がれました。(幣原外交により中国の対日世論は好転した。6/3追記)

 しかし、こうした日本の不干渉政策は、第二次奉直戦争後も引き続く中国の政情不安の中で安定せず、結局、満鉄沿線の日本国民の生命財産保護を目的としつつ、実質的には張作霖を支援する軍事的行動がとられました。また、その一方で、加藤高明内閣は満鉄支線の建設促進を図りました。これに対して張作霖は、北京政界に進出するようになると、日本の抗議を無視して満鉄東西平行線の建設を押し進めるようになりました。こうした張作霖の強硬姿勢は、従来在満権益擁護のために張作霖を支持してきた日本側に深刻な危機感を抱かせるようになりました。(下線部追記6/3)

 一方中国では、蒋介石が孫文の後継者として国民党の実権を握り、北伐(1926.7)を開始し10月には武漢三鎮を攻略しました。これに対して、張作霖は軍閥各派を糾合し国民革命に対決の姿勢を示しました。1927年1月、国民政府が広東から武漢に遷都した時、意識高揚した民衆によるイギリス租界の占拠・回収事件が発生しました。イギリスは日米両国に共同出兵を要請しましたが、幣原外相はこれを拒否しました。さらに3月には国民革命軍が南京に侵入したとき、兵士による各国領事館の掠奪暴行事件が発生し、日本領事館も掠奪暴行を受けました。

 この時、南京の江岸には日・英・米の砲艦がいて、英・米の砲艦は蒋介石軍の根拠地を砲撃しました。しかし、日本の砲艦はこの砲撃に加わりませんでした。これは、南京の居留民が尼港事件(1920.3シベリア出兵中ニコラエフスクで起きた日本人居留民・将兵の虐殺事件)を憶えていて、艦長に砲撃しないよう嘆願したためにとられた措置でしたが、これを機に、幣原外交を「軟弱外交」「腰抜け外交」と非難する声が、軍、政界、マスコミの間に澎湃として起こるようになりました。

 こうした批判の中で、幣原外交は若槻内閣総辞職(1927.4.27)と共に終わり、これに代わって、田中義一内閣による「積極的大陸政策」がとられるようになりました。一方、反共クーデターに成功した蒋介石は、首都を南京に定め北伐を再開しました。田中内閣は青島の在留邦人の安全をはかるための自衛措置として、5月28日満洲より一旅団を青島に派兵しました(第一次山東出兵)。しかし、この時は、蒋介石の南京政府と共産党中心の武漢政府の間に対立が生じ、北伐は中止されました。

 ところで、第一次山東出兵が行われる中、6月27日から7月7日のまでの間、政府や軍の幹部を集めた東方会議が田中首相の主宰で開かれ「対支政策綱領」が決定されました。ここでは「満蒙特に東三省地方は国防上、国民生存の関係上重大な利益を有するので、万一動乱が満洲に波及し、治安乱れて同地方におけるわが特殊の地位権益に対する侵害が起きる恐れがあれば、これを防護し且つ内外人安住発展の地として保持できるよう、機を失せず適当の措置に出る覚悟を要する」とされました。

 こうした考え方は、6月1日付けで関東軍が陸軍省と参謀本部に提出した「対満蒙政策に関する意見」とも似ていました。つまり、関東軍の満蒙政策が東方会議によって裏付けされることになったのです。こうした日本の動きは、それが山東出兵中になされたこともあって内外の関心を呼びました。その後1928(1927を訂正6/3)年4月、国民革命軍の北伐が再開され済南をめざして北上しました。これに対して田中内閣は第二次山東出兵(支那駐屯軍4.20済南着、第六師団は4.25青島上陸、4.26より済南商埠地警備にあたる)を行い、5月1日には北伐軍が済南に入城し、両軍が対峙する事態となりました。(下線部6/5挿入)

 そしてついに、5月3日、小部隊の衝突から日中両軍の戦闘に発展し、日本軍は中国軍の済南からの撤退及び軍団長の処刑を要求するなど期限付きの最後通牒を発しました(5月7日午後4時、福田第6師団長名で12時間後)。しかし、回答が期限までに届かなかったとして(拒否を訂正6/3)、現地軍第6師団は5月8日4時済南城の攻撃を開始し、田中内閣は5月9日第三次山東出兵を決定、5月11日これを占領しました。この戦闘で中国側の死者は三千名を超えたともいわれ、これに対して、日本側の居留民死者は15名負傷者15名のほか、軍人の戦死者は60名負傷者百数十名とされています。(この数字は『関東軍』中山隆志p67による)(下線部6/5挿入)

 この最初の衝突における日本人居留民死者(12or13名)の多くは、領事館の避難勧告を無視したアヘン密輸入などの従事していた人びとだったともいいます。(『ある軍人の自伝』佐々木到一)これを酒井隆武官は極めて誇大に軍中央に報告し、陸軍省は300人以上の邦人が虐殺されたという新聞発表を行い世論を煽りました。こうして5月8日、済南で全面的な武力衝突がはじまり、上記のような、日本側の犠牲を遙かに上回る犠牲を中国側にもたらすことになったのです。註:ただし、中国側の死傷者数については諸説あり、はっきりしない(6/3追記)

 この事件以降、それまで華中方面でイギリスを主敵としてきた中国の排外運動は日本を標的とするようになり、蒋介石始め国民政府要人の対日観も決定的に悪化しました。第一次山東出兵には理解を示した英米も、イギリスはこれ以降国民党との接触を開始し、元来国民党に好意的であったアメリカの対日世論にも悪影響を与えました。蒋をはじめとする中国側は、これを日本側が計画的に北伐を妨害しようとしたものと解釈し、その結果、この済南事件は、彼らにぬぐいがたい恨みを残すことになりました。(以上、主に中山隆志著『関東軍』参照)

 実は、この済南事件こそ、本稿の主題である「昭和の青年将校の暴走」がもたらした最初の事件であり、この事件を機に日本の大陸政策は独善的・排他的・誇大妄想的な方向へと変質していったのです。

2009年5月17日 (日)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問4

10、トラウトマン和平工作はなぜ失敗したのか

 さて、本テーマの最後の疑問として「トラウトマン和平工作はなぜ失敗したのか」ということについて総括的に考えてみたいと思います。このことは自ずと、「なぜ、日本は中国と戦争をしたのか」を問うことになりますし、ひいては太平洋戦争の敗因を探ることにもなると思います。

 一般的には、トラウトマン和平工作の失敗の原因を、文民政府(近衛首相や広田外相など)の責めに帰す意見が大半です。いわく、参謀本部は、中国との戦争が必然的に持久戦争になることを恐れて、蒋介石との寛大な条件による早期和平を強く主張した。しかし文民政府は、和平条件を過酷なものにつり上げ、かつ蒋介石の交渉態度を無礼として交渉打ち切りを主張した。米内海相に至っては内閣総辞職をちらつかせて参謀本部に政府案への妥協を迫った。もしこの時、参謀本部の意見が容れられていたならば、日本は中国との泥沼の持久戦争を避け得たし、ひいては日米戦争を戦うこともなかったであろう、と。

 だが、今までにも言及してきた通り、私はこうした見解は妥当ではないと思います。堀場一雄の『支那事変戦争指導史』では、参謀本部はあたかも広田外相が示した第一次和平条件を一致して支持したかのような印象で書かれていますが、実際の経過は次のようなものでした。

 まず、12月7日にディルクセンより蒋介石の交渉受諾の報が伝えられました。この時広田は、ディルクセンに対して一ヶ月前に起草された条件を基礎として交渉を行うことが可能か疑問だ、と述べましたが、即刻、総理・陸・海・外四相会議を開催し、ここでドイツの仲介を受諾して話を進めることが申し合わされました。、続いて陸・海・外務の事務局長が会議し、従来の条件に不当に加えられた直接損害の賠償を付加するだけの新条件が決まりました。

 しかし、広田の仲介申し入れがあったことを知った陸軍は色めき立ち、『広田を殺す』と騒ぐ者も出る始末で、多田参謀本部次長を含む省部会議は、『現在のような支那側態度では和平の応じられぬ。一応拒否し、後日新条件を提示する』」と決定しました。12月8日には杉山陸相が広田を訪ね「一応ドイツの仲介を断りたい。首相も同意だから」と伝えたとされますが、これは、この省部会議の結果を受けたものだったのではないかと、高田万亀子氏は見ています。

 こうした陸軍の強硬姿勢に対して、「海・外事務当局の二日がかりの工作が奏功し陸軍はドイツの仲介を受諾することに翻意」しました。(『外交官の一生』石射猪太郎p324)ただし、12月14日に政府大本営連絡会議にかけられた新和平案は、「新たに作成された強硬な陸軍案に基づき、『三省事務当局間で最大の条件として一応まとまりたるもの』(『静かなる楯』高田万亀子p200)で、原案説明に当たった石射東亜局長によると、それは「華北の中央化を妨げぬ趣旨」を守って「大乗的見地から立案された」ものとはいえ、「なお中国側の受諾を疑問視せざるを得ない」ものでした。

 しかし、連絡会議では、この案すら忠実に支持したのは米内海相と古賀(峯一)軍令部次長のみで、多田、末次(信正)、杉山、賀屋から出された異論で次々に条件が加重されていきました。この時近衛は、末次が「このような条件で国民が納得するかね」と言うと、「どんな条件にせよ、国民のためにこれが最善とあれば国民の間に不満があろうとも、これを断行しなければならぬ」といいましたが、条件加重に積極的に反対したわけではなく、また、広田外相は一言も発しませんでした。

 この時石射は、多田が条件加重派だったことに驚いていますが、それは、陸軍ではこの会議の前に、既に「華北五省を特殊化する強硬な新条件を陸軍案(前出「三省事務当局間で最大の条件としてまとまりたるもの」を決めるときの陸軍原案と考えられる)」を決めていて(上掲書p200)、結局これが、附記2条を含む11ヵ条の「第二次和平条件」となったのです。この時に加重された条件の要点は石射によれば次の通りでした。

・原案では、華北の中央化を妨げない趣旨にしたのが、特殊地域化の要求に変わり、
・塘沽協定を始め諸軍事協定の解消、冀察及び冀東政府の解消を規定した原案が削られ、南方の非武装地帯を上海周辺に限ったのが「華中占領地に」拡大され、
・中国側が故意にわが権益に与えた損害の賠償のみ予定した原案が、戦費の賠償をも要求する趣旨に変わり、
・和平協定成立後初めて停戦協定にいるべき旨の一項が付加され、
・なお日本政府は、中国側より講和使節を日本に送ることなどが申し合わされた。(『外交官の一生』石射猪太郎p326)

 こうした条件加重について風見書記官長が、こういう条件では「和平は到底成り立つまいと思うが、閣僚諸氏はどう思われるか」と聞くと、米内は「僕は和平成立の公算はゼロだと思う」。広田は「まあ三、四割は見込みはありはせぬか」、杉山は「四、五割は大丈夫だろう。いや五、六割は見込みがあろう」と答えたとされます。また多田も「(回答して)一応筋だけは当方の誠意を示しておく必要あり」と述べました。(『変動期の日本外交と軍事』)

 その翌日の12月15日には、陸軍省部合同で「対処要綱」が決定され、蒋介石が「条件を受諾せぬ場合は蒋介石否認」とされました。また、12月16日の連絡会議では、多田は広田や米内海相から、蒋介石否認に反対の言葉や態度を示された時、「天下りと思ってやればよし」といったとされます。(前掲書)

 こうした多田の強硬姿勢に対し、その部下である作戦指導課の堀場少佐は、
一、念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するほかなし。是道議に反す。
二、成し得べくんば支那側今次の申し出を取上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥結の道自ら開くべし」等と主張しました。

 堀場はこうした批判を広田に向けていますが、以上の経過を見ればわかる通り、広田の「第一次和平条件」を葬ったのは、上司の多田を含む省部会議だったのです。これに対して堀場は、参謀本部が12月1日に関係当局の意向を斟酌して作成していたという「解決処理方針」をもって、陸・海・外務の強硬論を説得し、12月20日になってようやく、華北の特殊地域化や非武装地帯の拡大などの加重された条件を、講和成立後に解除される保障条項とする「第二次和平条件」をとりまとめました。

 この条件案は、その後の閣議で、中国側に附記を含めた11ヵ条全部を示すか、原則4ヵ条を示すか問題となりました。これについて杉山陸相から参謀本部に意見が求められたとき、多田は書面で「順序方法は外相に一任するが、支那側が直接交渉に乗り出してくる時は全条件を納得してくることを要す。・・・目的は支那側が速やかに直接交渉に応ずるか否かを知ること。」と回答しました。要するに、蒋介石が直接交渉を求める場合は全条件の受諾が必要である。それ以外は政府に任す、ということだ思います。

 ところが、堀場は中国側が四条件の内容を具体的に承知したいという希望を述べ伝えていることを知った時、この四条件について、「右四条件より受くる印象は、甚だ侵略的にして本来の建設的理念を没却しあり、四ヵ条の内非武装地帯及び賠償問題の二項を含む。そもそも非武装地帯は保障条項にして一次的便法なり。又賠償の如きは元来期待せざりしものなり。支那側が疑心を抱きて具体的言質を請求するは当然なりと謂うべし」として、広田を激しく批判しました。(『支那事変戦争指導史』p121)

 しかし、先に見た通り、第二次和平条件の11条件を、その大体をカバーする4条件に変えたのは広田とはいえず、閣議での意見を踏まえたものでした。また、「非武装地帯は保障条項にして一次的便法なり」といっても、それは先ず蒋介石が本体の11条件を呑むことが前提であり、それが何時解除されるかについては日本側の随意に任されるわけで、蒋介石としてはとても信用できなかったと思います。また、「賠償の如きは元来期待せざりしもの」といっても、これは堀場の願望に過ぎません。

 確かに、堀場が、加重条件に対してそれを保障条項とし、和平成立後解消することの努力したことは評価さるべきですが、蒋介石が第二次和平提案について講和交渉に応ずるとしたときの条件は「華北の行政権は徹底的に維持されること。まず停戦すること。最後通牒では困る」でした。しかし、この保障条項付きの第二次和平条件は、中国の華北行政権を否定する特殊地域化や華中の占領地の非武装地帯化という過酷条件を呑まない限り、停戦には応じないとしており、蒋介石がこれを呑む可能性はなかったと思います。

 しかも、堀場のいう日本の真意とは「過去の一切を精算して日支両国が互いに領土主権を尊重し、渾然融和して日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」(『静かなる楯』p203)とするものでした。確かに日本にとってはそれでいいでしょうか、蒋介石にしてみれば、さんざんぶん殴られて満洲をひったくられ、「さあもうおしまい。みんなで仲良くやりましょう。しかしいやだというならば」と、大きな拳を振り上げられているわけで、蒋介石ならずともそんな国と肝胆相照らせるはずがありません。(上掲書p203)

 さらにいえば、堀場の「日満支三国が堅い友誼を結び、防共に、経済に、文化に、相提携していこう」という考え方は、次のような石原莞爾の最終戦総論に立脚するものでした。日本には、世界の思想・信仰を東洋の道義文明によって統一する使命がある。その使命達成のためには、西洋の覇道文明との最終戦争に勝利しなければならない。そこで、まず中国を日本を盟主とする東亜連盟の一員とし、政治的・経済的・文化的一体化を図り、まずソ連、最終的には西洋文明のチャンピオンたるアメリカとの最終戦争に備えなければならない・・・。

 まさに、アメリカとりわけ中国人にとっては妄想としかいえない誇大思想で、堀場がいかにまじめかつ真剣であったとしても、こんな手前勝手な思想に基づいて日中友誼論が説かれてもそれが説得力を持つはずがありません。実際、こうした考え方に立脚した堀場の主張は、政府・重臣にも不信の念を抱かせ、「陸軍とドイツの間に了解があるのではないか。ドイツ自身のために利用されているのではないか。対ソ同盟でも考えているのではないか」と疑われさえしたのです。

 一方、当時の日本の大陸政策の基調としては、昭和11年8月7日の「国策大綱」によって、「満州国の健全なる発達と日満国防の安固を期し、北方ソ国の脅威を除去するとともに、英米に備え、日満支三国の緊密なる提携を具現して、わが経済的発展を策するをもって、大陸政策の基調とす、而してこれが遂行にあたりては、列国との友好関係に留意す」としつつ、「ソ連の極東兵力に対しては、開戦初頭一撃を加える如く在満鮮兵力を整備充実す」とし、「海軍軍備は、米国海軍に対し、西太平洋の制海権を確保するに足る兵力を整備充実す」としていました。

 この両者は似ています。といっても、後者は、あくまで予算獲得上の陸海軍の妥協の産物であり「その場限りの作文」とされるものです。(『昭和の動乱(上)』p125)しかし、南京陥落後の蒋介石との和平交渉の段階では、軍部や政治家を含めた日本人一般の、日本の大陸政策についての基本的考え方は、ほぼこのようなものになっていました。つまり、堀場らと政府との日本の大陸政策を遂行していく上での主張の違いは、「手順あるいは心構え」の違いといった程度のものでしかなかったのです。

 さらに、日本の大陸政策を遂行していく上で、この両者のどちらが現実的であったかといえば、政府側であったというほかありませんでした。というのは、「蒋介石が日本側が期待するような条件で和平に応ずる」可能性はほとんどなく、この点、参謀本部の期待は「甘い」という外なかったからです。もしこの時、参謀本部が本当に中国との長期持久戦を恐れていたなら、軍事専門家として万難を排して政府を説得すべきであり、それをせず、あたら精神論に主軸を置いたことがかえって災いしました。(註:本来は華北分離政策の誤りを指摘すべきでしたができなかった)(下線部追記5/18)

 以上、私が、昭和13年1月に堀場等の主張による蒋介石との交渉が継続されていたとしても、それが成功する見込みはほとんどなかった、と考える理由について説明しました。もちろん、これによって、近衛首相や広田外相の責任が免除されるとは考えていません。高田万亀子氏は「近衛首相や広田外相としては、軍が乗っているこの機に一気に和平に持っていく機略こそあって欲しかった」と言っていますが(『静かなる楯』p211)、私もその通りだと思います。

 とはいっても、この時代、軍の意向を無視しては何事もできなかったことも事実です。当時、参謀本部作戦課長だった河辺虎四郎(少将)は「今次の政府の態度とその処理は、なるほど軍部の処理には、便利であることがわかるが、そうした手放し的な『軍部まかせ』の考え方が、果たして大局上妥当かどうか、私は事実、政府当局がもっと自主的に慎重な構えをとってくれることを、内心望んでいた」と書いています。(『市ヶ谷台から市ヶ谷へ』p137)

 しかし、広田自身は次のようにいっています。「外交の方は軍部さえちゃんとその持っていきたいところをはっきり決めてくれたら、手の打ちようはいくらでもあるんだ。いまうっかり手を出して、またそれじゃいけないの、これじゃいけないのといわれたら出しようがない」(『西園寺公と政局6』)つまり、「最大の政治力を持ちながら部内をまとめられない陸軍を、はたからどうしようもない」というのが実態で、問題は「陸軍の下剋上、統制不能」にあったのです。

 重光葵は「北支工作を連鎖として、満州事変が日支事変となり、日支全面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構が破壊されたためであり、結局、日本国民の政治力の不足に帰すべきである」といっています。(『昭和の動乱(上)』p188)その日本の政治機構を破壊した張本人が、当時の青年将校、特に幕僚将校たちであり、その暴走の端緒をなした事件が、張作霖爆殺事件であり満州事変でした。そして、この青年将校たちを当時の国民の多くは熱狂的に支持したのです。

 次回は、この不思議について考えてみたいと思います。

2009年5月 6日 (水)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問3

 前回の続きです。
 
9、交渉打ち切り後の政府の見通しはどういうものだったか

 それにしても近衛首相や広田外相は、蒋介石政権否認後の日本の中国政策にどのような成算をもっていたのでしょうか。昭和13年1月16日の近衛声明では、蒋介石を交渉相手とする和平を断念して「帝国ト真二提携スルニ足ル」振興政権を育成し、更正した新中国をともに建設するとしていました。というのも、南京陥落の翌日(s12.12.14)には、日本政府がほとんど関知しない間に北シナ方面軍の手によって中華民国臨時政府が樹立されていました。また、12月24日にはこれを追認するように「事変対処要綱」が閣議決定されました。そこでは、蒋介石との和平交渉が不調に終わった場合、北支に防共親日満政権を樹立し、これを拡大強化して更正新支那の中心勢力とすべく指導する、としていました。

 この中では特に  北支経済開発について、その目的を日満支提携共栄実現の基礎を確立するとし、そのため北支経済開発及び統制のため一国策会社を設立し、主要交通運輸事業(港湾及び道路を含む)、主要通信事業、主要発送電事業、主要鉱産事業、塩業及び塩利用工業等の開発経営又は調整に当たるとしていました。これについて参謀本部第二課戦争指導班の堀場一雄少佐は、「戦争方略としての施策と日支提携の基本形態との区分明瞭ならずして混同せる嫌あり」とし「之等は一切戦争遂行上の過渡的手段たることを明確にし」ない限り欧米侵略の亜流に異ならない、と批判していました。(『支那事変戦争指導史』p140)

 確かに、この「事変対処要綱」を見ると、蒋介石政権との講和よりも華北の経済開発に関心があるかのようであり、なかんずく重要産業をことごとく国策会社の管掌下に置くとしていることは、あたかも戦争目的がここにあったかのように見えます。事実、日中戦争の引き金となった華北分離工作はこれを目的としていましたから、日本は日中戦争でこの目的を達成したともいうこともできます。従って、南京陥落後首尾良く蒋介石政権が倒れたならば、日本が擁立した親日政権が日本の傀儡政権となって、ここに華北の満洲化という新たな事態が生まれたかもしれません。

 ということは、近衛も広田もこうした事態が現出することの方が、日中間紛争を根本的に解決する上では、蒋介石との和平交渉を模索するよりもベターだと判断していたことになります。もちろん、こうした判断は何も近衛や広田に特有なものではなく、軍部や政治家を含めた大多数の日本国民もそう考えていました。これに反対したのは、前述の如く堀場少佐を中心とする参謀本部の一部軍人だけだったのですが、彼らとて、もし、蒋介石が早々にギブアップし、新たに生まれた親日政権が中国国民の支持を得ることができると想定していたら、これに異論は唱えなかったと思います。

 つまり、堀場少佐等が執拗に蒋介石政権との和平交渉継続を主張したのは、和平交渉決裂後の事態はこのように日本に都合良く進まない。この戦争は必ず中国との持久戦争に発展し双方の国力を損耗することは必至である。この間中共の台頭やソ連の満洲侵攻さえ招く恐れがある、と考えていたのです。それ故に、この機会を逃さず、公明正大かつ寛大な条件で蒋介石と講和を結ぶべきである。現在蒋介石に提示している第二次和平条件は、その趣旨を十分説明すれば、決して過大な要求ではないことが了解されるはずだ。ゆえに、中国側の再度の細目条件照会にも応ずるべきだと主張したのです。

 ところで、この時の日本の第二次和平条件に対する中国側の対応は、中国国民党の最高国防会議メンバー間でかなりの混乱があったように見受けられます。汪兆銘の『挙一個例』では「12月30日から翌二十七年(昭和13年)の元旦に至るまで、三日間に亙って最高国防会議が開かれ和戦の問題を協議したのである。そして大晦日に至って、トラウトマン大使の和平提案を受諾することの決定した。併せて蒋介石は行政委員長の職を辞し、孔祥熙が代って院長となり、張群が副院長となることも決定を見るに至った」としています。しかし、別説では、この改造は”和平派”の追放が主眼であり、国民政府は1月3日に「和平拒否」を正式決定したとしています。(『日中戦争』児島襄p218)

 これは、国民政府内において、日本の第二次和平条件に対する意見の対立があったことを伺わせます。おそらくこのために、1月13日の中国側回答が「改変された条件はその範囲多少広きに過ぎるため・・・条件の性質と内容を知らされることを希望する」という迂遠な表現になったのです。また、一月15日の、この回答は必ずしも国民政府の回避的態度を示すものでないという孔祥熙のトラウトマンに対する釈明にもなったのではないかと思われます。そこでは、国民政府は「日本との真の了解に到達する希望を抱いている」として、再度、日本側提案の〈基礎的条件〉の性格と内容の照会トラウトマンに依頼するものになっていました。

 しかし日本政府は、1月15日午後7時30分蒋介石政府との和平交渉打ち切りを決議しました。参謀本部は9時20分に参謀総長閑院宮の上奏により”巻き返し”を図りましたが、天皇が一度参謀本部も同意した政府決定を覆すはずもなく、こうして参謀本部は「孤立無援」となり、それ以上の”抵抗”を断念しました。翌16日、広田外相は独逸大使ディルクセンに「中国側には和平意志がないと認めるのでこれ以上の交渉は中止する」と通告しました。

 これに対してディルクセンは、「中国側の引き延ばし的不満足な姿勢にたいし、日本側が待ちきれなかった事は理解できるが、世界の人びとの目には、日本側に交渉決裂の責任があるように、うつるのではないだろうか」と述べました。ディルクセンは交渉を決裂させたのは蒋介石側だと観察していたのですが、大使のこの発言は、「日本側から交渉拒否をいいだすのは自ら不利を招くことになる、との忠告であった」と児島襄は見ています。(『日中戦争』p228)

 こうして日本政府は、16日正午に、次のような声明を発表しました。「・・・仍ッテ帝国政府ハ、爾今国民政府ヲ対手トセズ、帝国ノ真ニ提携スルニ足ル侵攻支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、コレト両国国交ヲ調整シテ、更正新支那ノ建設ニ協力戦トス」。既に和平拒否、抗戦継続を決意していた蒋介石は、この声明を知ると、「有一笑而已」と述べ、「日本側がいう「侵攻支那政権」の樹立は、要するに中国の領土主権を破壊する意図を宣伝するものであり、かえって、国際世論を反日親中国に押しやる結果になる、との判断を示したといいます。(上掲書p230)

 このあたりの日本側の外交的駆け引きの拙劣さにはいささか愕然とします。というのは、もともとこの戦争は、中国軍の日本海軍に対する奇襲攻撃によって開始され、また、広田が11月2日にトラウトマンを通じて蒋介石に示した第一次和平条件は客観的に見ても妥当なものであり、しかし蒋介石はそれを一ヶ月も放置した。そのため南京陥落を招き和平条件の加重を見たが、それも、実質的には第一次和平条件と大差なく、中国側に和平の意志さえあれば交渉継続は可能だったことなど、中国側に不利なそれまでの交渉経過が、ここでは完全に覆っているからです。

 また、こうした拙劣さを見ると、日本政府は、蒋介石政権否認の段階で、その後の占領地統治や戦争終結の道筋について、一体どれだけの見通しを持っていたのか疑問になります。実際、南京陥落の翌日成立した中華民国臨時政府(主席王克敏)も、昭和13年3月に中支那方面軍が南京に樹立した維新政府(梁鴻志)も、民心による支持は薄く、日本軍の武力なくしては一日も存続を危ぶまれる弱体政権に過ぎませんでした。そのため、当初期待されたように国民政府を地方政権に転落させる見込みはほとんどありませんでした。(『日中戦争史』秦郁彦p152)

 また、第一次近衛政権下における占領地管理方式は、旧態依然たる分治合作主義で、華北及び蒙彊、揚子江下流地帯、華南諸島等に日中強度結合地帯を設定し、駐兵地域の鉄道航空等を管理するとともに、中央政府にも少数の顧問を派遣するというものでした。すなわち、実質的には中国の日本による独占化の色彩の強いもので、日本が育成した汪兆銘政権関係者からさえ「日本が列国を閉め出すのみならず、中国人をも閉め出すにあらずやとの誤解を生ずる」と批判されるほどのものでした。(『現代史資料』日中戦争2「解説」)

 そもそも、近衛や広田は、広田和協外交が出先陸軍による妨害工作で頓挫させられた事実から何を学んだのでしょうか。折角の広田の和協外交が出先軍の華北分治工作によって妨害されたこと。その結果、中国各地で邦人テロが相次ぐようになったこと。さらに廬溝橋事件を契機に日中全面戦争に発展しそうになりあわてて船津案という日本側の全面的譲歩案を示したこと。また、広田がごく少数の軍政府首脳の了解のもとに行ったトラウトマン和平工作はこの船津案をベースとしており、いうまでもなくこれは、出先陸軍による華北分治工作に対する反省を踏まえたものだったはずです。

 こうした疑問については、一般的には、参謀本部第二課戦争指導班の道義性や先見性が評価される一方、特に近衛首相や広田外相の不明が慨嘆されていますが、私は、これは一面的な見方ではないかと思います。というのは、実は、昭和12年1日に参謀本部が起案した「解決処理方針」の「現中央政府否認の場合」の措置も、「北支に親日満防共の政権を樹立し之を更正新支那の中心勢力たらしむる如く指導」するとなっていて、近衛「蒋介石を対手とせず」声明と同じようなものになっていたからです。

 また、「占領地域内においては画期的善導指導により・・・民衆をして抗日容共の非を悟らしめ、時と共に依日救国の大勢に順応するに至らしむ」として、日本の道義的正統性を当然としていました。さらに、「我国家総力就中国防力培養強化及び統制を促進すると共に支那に対する我国力の消耗を制限し且対ソ作戦の準備を強化整頓す」としていました。これは、中国に日本の国防政策に従うとともに経済統制を受け入れることを求めるもので、中国の主権は全く無視されています。(『支那事変戦争指導史』p116参謀本部「事変対処要綱」)

 なるほど、参謀本部の主張――日本人の支那人に対する蔑視感の払拭や、支那人の民族統一にかける思いへの理解を日本人に求める、という点では、確かに彼らは一般の日本人より覚醒的でした。また、中国の領土主権の尊重という点でも善意を持っていたことは間違いないと思います。だが、日本の中国における国防上又は経済上の権益拡大という点においては、拡大派のそれと同じ、あるいはそれを凌駕するものがありました。つまりこの点では、参謀本部の主張は当時の大多数の日本人のものと同じだったのです。

 ではこうした日本人の中国におけるこのような権益主義がどこから出てきたのでしょうか。実は、それは「満州国」の独立についての日本人の次のような倒錯的な思い込みに端を発していました。

 「『満州国』独立以後の日本の対中国政策は、『満州国』を既成事実として交渉の範囲から除外することを前提にしており中国側にも同じ前提を要求していたのである。しかし日本にとって『満州国』が過去形の既成事実であっても、中国にとっては決して既成事実ではなく、それは満州事変勃発(九・一八)以来一貫して強化されてきた日本の圧迫の基礎として、云いかえれば常に現在のものとして、意識されていた」

 「このような両国間の、あるいは両国民間の政治問題に対する認識乃至感覚の重大な相違は、日中戦争直前の事態においても指摘できる。廬溝橋事件約一週間前の『大公報』紙は、『北支中央化』問題にふれて次のような論説を掲載した。

 「日本側の云う『北支』なるものは、日本の歴史よりも古い時代から中国の土地であり、我が民族の居住生活してから、少なくとも百数十代経過している。そして中央政府とは、一国の国家組織にあって当然具有すべき最高機関であり、それが領土内において政令を施行することもまた当然のことである。しかるに今、『北支中央化』を指して直ちに抗日であるとし、さらに侮日慢日行為であるかの如く日本側が云っているのは、余りにも中国を蔑視した誤論であり、中国国民として深く憤激に堪えないものである。」

 「しかし日本側にとっては、『北支』の中央依存の強化はすなわち反日行為である、と意識された。このような日本側の無意識的な倒錯意識は限度なく拡大されるものであり、中国側から云えばいつか戦火によって洗礼を与えなければ是正できない性格のものであった。中国は九・一八以来つねに日本に一撃を与え得る軍事的経済的力量の養成に努力してきたのであり、戦争が必要なのは実は日本ではなく中国であった。日本としては戦争に訴えることなく中国を屈服せしめ譲歩させさえすれば満足であり・・・しかし中国が東北を回復するためには、軍事力に頼る以外手段はなかったといえよう。」(『現代史資料』日中戦争2「資料解説」)

 つまり、中国人の目には日本政府の主張も参謀本部の主張も同じ穴の狢に見えたのです。一方、日本人の目から参謀本部の主張を見た場合、それは理想主義的ではあるが現実性を欠いているように思われた。実際、このことは満洲経営においてすでに実証されていました。従って参謀本部がこの疑問に答えるためには、中国との戦争は不可避的に持久戦となり、双方にとって耐え難い消耗戦となることを説得的に説明しなければならなかったのです。しかし、南京陥落後の戦況は圧倒的に日本に有利であり、蒋介石政権の命脈は誰にも風前の灯火に見えました。

 その一方、ソ連に対する防備の強化や英米に対する日満支経済圏の構築という点では、参謀本部も政府と目標を共有しており、そこには対立点はなく、むしろ参謀本部の方がより長期的な観点から総力戦に堪える国防国家構想を持っていました。従って、近衛や広田が蒋介石との和平交渉継続に反対したのは、つまり、日本の伝統的な大陸政策を遂行する上においては参謀本部と意見は同じだが、蒋介石がこれを受け入れる余地はほとんどないから(この判断は当たっていた!)、従って、これに期待をかけるのは無駄であり、早々に交渉を打ち切ったほうがすっきるする、ということだったのです。

 そこで最後の疑問は、ではなぜ、蒋介石政権は容易には倒れず、日中戦争は必然的に持久戦争となるということが近衛や広田には読めなかったのか、ということになります。それは、先に紹介したように、中国人の満州事変以来の日本に対する強靱な抗戦意志を理解することができなかったということ、これに尽きると思います。つまり日本人の大半が、「満州国」を過去の既成事実とし、こうした見方への抵抗を抗日と見なして中国に反省を求め、その保障措置として華北の中央政府からの分離自治、さらには親日政権の樹立を求めた、この倒錯的心理現象の再生産が、日本人の判断を狂わしていたのです。(つづく)

2009年4月22日 (水)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問2

 前回の続きです。
7、なぜ、文民政治家の多くは参謀本部の態度を不可解としたのか

 このあたりの事情を最も的確に説明しているのが、別宮暖朗氏の「第一次大戦と二十世紀サイト」です。その「トラウトマン工作」の冒頭には次のような解説がなされています。

 「和平交渉は戦局が一段落せねば成り立たない。これは自明のことで、それより以前和平がもし成立するようであれば、戦闘自体が中断されるはずだ。一方このような悲惨な戦いを中止するため為政者がなぜ話合いをしないのか不思議と思うだろう。だが、戦争とはその為政者(片方)が開戦を決意したため起きているのだから、これは不思議ではない。この辺りの事情は大衆には全く知らされない。そして戦争を引き起こした片方の指導者は戦局の悪化を簡単には認めない。蒋介石も例外ではない。なぜならば、認めることは、自身の政治的破滅につながるからだ。」

 これは、11月6日にトラウトマンより第一次和平条件を知らされた時の蒋介石の継戦意志の強さ、さらに戦局が決定的に悪化した12月2日の段階で第一次条件による和平交渉に応ずる旨トラウトマンに伝えた時の蒋介石の強気の態度を説明するものです。同時に、この戦争が中国側の決然たる開戦意志によって始められたということ。一方日本側の、全面戦争に発展するのをなんとかして食い止めたい、そのためには、いまだ戦闘が継続中であるが、開戦直前に策定された「寛大な」和平条件でもってなんとか戦争を終結させたいともがく様子も見えてきます。

 もちろん、戦闘があらかじめ設定された追撃限界線や、あるいは南京城外で戦闘が停止されれば、こうした和平交渉も効果を発揮したと思います。しかし、日本軍では、現地軍が軍中央の指示を無視して既成事実を積み重ねそれを中央が追認するという「結果オーライ主義」が常態化していました。そのため12月7日には中国側の和平条件受諾の報が伝えられたにもかかわらず、南京城総攻撃が開始され「城下の盟」が実現する暇もなく12月13日には南京城が陥落しました。

 では、このような情況下で戦争に勝利した日本がとるべき行動はどのようなものだったでしょうか。別宮氏は続けて次のようにいっています。 
 「ところが勝利した側は楽であって、単純に占領地にいすわり相手が和平を乞うのを待てばよい。そのためには時間が必要で、まず現地軍同士で休戦ラインを設定、占領地で軍政を敷き待機することになる。この時日本の文民政府は軍事面について知識がなく、そして戦局すら知らされなかった。だが文民政府は、8・13上海決戦開始時、陸軍が逡巡する反撃、動員・派兵を支持したため、比較優越感をもっていた。つまり攻撃にたいし反撃すべきだ、友軍の孤立は救援すべきだ、との常識論が勝利したための優越感である。これが、この後の展開に意外な影響を及ぼした。」

 つまり、それまで日本の文民政府は、軍の無統制な行動に振り回されるだけで、しかも、その結果の後始末ばかりさせられてきた。しかし、今回の戦争については、参謀本部が上海への戦線拡大を恐れて兵力の逐次投入をしたため膨大な犠牲を生むに至り、これに対して文民政府は「アウトライトな攻撃に対しては断乎反撃すべき」という常識論でもって上海への増派を支持し、こうして上海戦の膠着状態は打開された。そうした先行経験もあって、文民政府は、南京陥落後も拙速に蒋介石との和平提案を推進しようとする参謀本部に疑問を投げかけた、というのです。

 昭和13年1月初旬に当時の近衛文麿首相の所信をまとめた文書に「講和問題に関する所信」があります。近衛はその中でつぎのようにいっています。
 「一、今や南京陥落し蒋介石政権も昨今は頗る窮地に立つに至りし如くなるも未だ彼の権威全く地に墜ちたりと断ずる可らず少しく手を緩めれば再頽勢を挽回し来るや明なり謂わばもう一押しと云う所なり。かかる状態にある際我より進んで条件を提示し講和を促すことは、我に重大なる弱点なき限り軽々になすべきことでなく返ってそれが為に彼の侮を受けて彼の戦意を復活せしめ大害をまねく恐れありと考えらる・・・。

 一、然るに・・・元来我より進んで講和条件を提示することさへ如何と思わるるに彼の一部拒絶に逢うて再び譲歩の色を見するが如きことありては益々彼の乗ずる所となるべきや明らかなり、政府側としては軍部がかくの如き拙速を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ次第なり。

二、ここに於いて政府側としては軍部がかくの如く講和を急がるるには何等かそこの深き事情が損するに非ずやと推測せざるを得ず、然るに今日迄の陸軍大臣の説明だけにては今日講和を急ぐがざる可らざる理由明白ならず。もし真にこの際講和を急がざる可らざるの事情存するならば陸軍大臣は率直明白に之を他の閣僚に説明すべきものと信ず、閣僚も其説明により真に能く事情を了解するに至らばいかなる譲歩も之を忍び局を結ぶことに全力を注ぐことと成るべし。恐らく之に対し事情を解せざる一般国民の間には猛然として、反対運動起こるべきこと予想せらる其際各閣僚が陸軍大臣により真に能く事情を了解し居れば一致団結断乎として政府の責任に於いてこれら反対運動を抑圧すべし・・・。」(『現代史資料9』p104)

 そして、こうした見解は、近衛首相だけでなく、広田外相はじめ軍部大臣を含む閣僚全員、そして日本国民やマスコミの大半が支持する国民的世論となっていたのです。
  
8 なぜ参謀本部は中国との和平交渉継続に固執したのか

 これに対して参謀本部は、このままでは中国との長期消耗戦を余儀なくされ、その間にソ連による満洲侵攻を招く恐れがある。従って、なんとかして蒋介石に日中親善を望む日本側の「真意」を伝えて早期に戦争を終結したい。そのためには、和平条件を侵略的との疑念を抱かせない「寛大な」なものにする必要がある、と考えていました。そのため、12月20日、陸・海・外・参本間で纏められ閣議決定された「講和交渉条件」では、いわゆる加重条件とされた北支、内蒙及び中支占拠地域の非武装地帯や北支の特殊機構の設定などは、和平案が履行されるまでの保障条項として取り扱われました。

 しかるに、広田が中国側に伝えた「日華和平交渉に関する在京独逸大使宛回答文」は、実はこの「講和交渉条件」そのものではなく、それを抽象的な四項目にまとめたもので、その中に上述の保障条項や賠償条項を含めるなど、はなはだ侵略的な印象を与えるものとなっていました。さらに、その細目条件の説明は口頭説明となっており、さらに、「講和交渉条件」に明記されていた「講和に関連して廃棄すべき約定」(梅津可応欽協定、塘沽停戦協定、土肥原秦徳純協定、上海停戦協定)が省かれるなど、中国側に条件加重による極めて過酷な印象を与えたのです。

 その年末、参謀本部は、傍受電で支那側が四条件の内容を具体的に承知したいと希望を述べていることを知りました。これに対して外務省は既に詳細説明せりと応酬し、これに対して支那側はその説明を筆記にて受領したいと申し入れてきました。参謀本部戦争指導当局はこうした外務省の態度は不可解であるとして、閣議決定の「講和交渉条件」を端的に支那側に提示すべく軍務当局を通じて督促し、また在京の許大使に直接伝達すべしと付言しました。(『支那事変戦争指導史』堀場一雄p121)

 では、なぜ参謀本部がそのとりまとめに当たった「講和交渉条件」と、広田が独大使に伝えた回答(「第二次和平案」)とが、このように異なった印象を与えるものとなったのでしょうか。この間の事情は『西園寺公と政局(6)』に次のように説明されています。

 「参謀本部は一時も早く戦争をやめたいので、『ドイツを仲介にして支那側の希望を判明させたい』と言って非常に焦っている。当方の条件も何とかしてつくって、連絡会議で成案を得たいと思っていろいろ努力した結果、閣議に出したら『先方に言ってやって、その案で纏まらない時は、政府も後で困るから・・・』というので、大体をカヴァーするような抽象的なもの即ち防共と経済提携と賠償と特殊政権の四条件に変て、その案を一応総理から上奏し、また統帥府の陸海軍首脳者からも上奏して、寧ろ御前会議を開かないで済まそうということになった。」(広田外相の談話)

 しかし、それにしても独大使に伝えられたこの「第二次和平案」が中国側にかなりの混乱を巻き起こしたことは事実のようで、三宅正樹氏の「トラウトマン工作と資料」には、1月14日に独大使ディルクセンから広田に中国側回答――日本側より提議された基礎的4条件はその範囲が広きに過ぎるため、再度その条件の性質と内容を知らされることを希望するというもの――が伝達されたときの次のような会話が紹介されています。

 「広田はあいまいな中国側宣言に憤激しそれを単なる遁辞なりと考え且中国側は諾否を表明すべきあらゆる必要材料を有しありと述べたり。結局、敗北し和平を請わざるべからざるは中国にして、情報を与えられることを絶えず求められてきた日本には非らざりきと。本官は外務大臣に対し中国政府は正式には現在迄僅かに四個の基礎条件を知れるのみなることに注意を喚起せり。彼より本官宛のその他の通信は彼の希望により中国政府に対し極めて漠然たる形式に於てのみ送達せられたり。」

 これを見ると、広田から中国側に伝えられた和平条件は、4個の基礎条件のほかは「極めて漠然たる形式」において知らされただけだったことが判ります。また、この間のドイツ外務省電文記録によると、その四条件の内の第二の原則(所要地域に非武装地帯を設け且該各地方に特殊の機構を設定すること)に関する説明としては、「華北における非武装地帯に加えて、揚子江渓谷における非武装地帯が今やはっきりと考慮されている」など、明らかに「講和交渉条件」の内容を逸脱する説明も見られます。(トラウトマン工作の性格と資料)

 実は、12月20日に決定された「講和交渉条件」は、参謀本部の奮闘により12月14日の閣議で加重された条件、すなわち、非武装地帯の拡大(華北、内蒙、華中)、華北特殊政治機構の承認及び保障駐兵を保障条項としていて、梅津可応欽協定等四つの協定と共に講和成立後に廃棄されることが予定され、実質的に「第一次和平条件」を踏襲するものとなっていたのです。こうした「講和交渉条件」の軽易な性格を曖昧にし、過酷な条件加重との印象を与えた「第二次和平案」は、広田がディルクセンに通告した回答文の方だったのです。

 従って、それが、中国側の照会に答えるべく作成された12月20日の「講和交渉条件」の趣旨と異なる印象を中国側に与えていることが判明したならば、当然参謀本部の言う如く、その回答文のオリジナルテキストをそのまま中国側に示すべきでした。実際、中国側からはその条件の細目照会が度々来ていたらしく、1月14日の中国側回答の直後の16日にも、新しく行政院長となった孔祥熙より、再度広田が示した基礎的条件の性質と内容を照会する次のような口上書が届いていたのです。

 「中国と日本が、両国に悲惨な結果をもたらす現在の武力抗争にまきこまれていることは、最も不幸なことである。中国は、依然として、その結果東アジアに永続的平和が維持されるような、日本との真の了解が到達する希望を抱いている。われわれは、日本によって提案された〈基礎的条件〉の性格と内容とを知らせて欲しいという、熱烈な希望を表明した。何故ならば我々は両国間に平和を再建する兆候を探し求める全ての真摯な努力をなすことを、我々は日本によって提起された条件に関する我々の見解を表明するのに、よりよい立場に到達すると信ずる。」(「トラウトマン工作の性格と資料」)

 もちろん、広田が独大使に示した回答文は、12月21日に閣議決定されたもので広田の独断ではありませんが、「講和交渉条件」が閣議決定された後、「此等条件を支那側に移す要領に就ては外交事務当局に一任され度し」と申し出たのは広田でした。また、中国からの度重なる細目照会に対して、あえて「極めて漠然たる形式」の回答しか与えず、最終的には1月14日の中国側回答を遷延策と見なして、蒋介石との和平交渉を打ち切ったのも広田でした。それだけにその責任は免れない。

 確かに「陸軍は相変わらず双頭の鷲であり、『二本軍』であった。陸軍省と参謀本部の意見が違う。・・・軍内部で意見調整できないものを、取り上げようがなかった」(『落日燃ゆ』城山三郎p207)という言い訳も出来ると思います。しかし、独大使に示した「第二次条件案」は、1月11日の御前会議で決定された「支那事変処理根本方針」(12月20日に決定された「講和交渉条件」にあえて日支提携の根本理念とその運用方針を附したもの)とも、その基本理念を異にしています。

 にもかかわらず、なぜ広田や近衛が中国との和平交渉継続を願わず、その打ち切りを選択したのでしょうか。前回も言及しましたが、私はここに、軍人を含む日本人一般の伝統的な大陸政策に対する思い入れがあった。つまり、この時の省部の軍人と参謀本部の軍人との違いは、その大陸政策推進上の手段・方法の違いに過ぎず、その点、参謀本部の意見は確かに正論ではあるけれども、その有効性においては、省部軍人の主張する積極的侵攻策の方が現実的と見なされていたからではないかと思います。

 つまり、参謀本部は、”言わせておいて片付けられた”のです。裏から見れば、参謀本部の説く「相互の主権及び領土の尊重に基づく日満支の互恵互助的提携論」(「支那事変処理根本方針」)は、満洲独立から華北分離工作へと発展した日本の伝統的な大陸政策と根本的に矛盾するものであり、前者の主張は究極的には満洲国さえ危うくする危険をはらんでいた。その自己矛盾が、参謀本部の主張の説得力を決定的に阻害したのではないか。おそらく石原莞爾はこのことに気づいていた。しかし、それを公言することはできなかった。

 残された唯一の解決策は、支那の満洲に対する宗主権を回復させることだった、と私は思うのですが・・・。

2009年4月11日 (土)

トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問

 トラウトマン和平工作は、日中戦争期において日本が中国に働きかけた数ある和平工作の中で最初の、そして蒋介石が受諾の意向を示した唯一の和平工作です。結局、この和平工作は、日本側が途中で和平条件を加重したために、具体的な話し合いに入ることなく、近衛文麿首相の”国民政府(=蒋介石)を対手とせず”という声明によって打ち切られました。この時、参謀本部は執拗に交渉継続を求め、ついには帷幄上奏まで行い政府決定の「再考」に期待をかけましたが、ついにその願いはかないませんでした。

 こうしたトラウトマン和平工作の失敗について、その責任を、統帥部の意見を無視して交渉を打ち切った文民政府(近衛首相や広田外相など)に求める意見が大勢のようです。しかし、前々回申しましたように、私はこうした見方は一種の結果論であって当を得ていないと思います。というのは、すでにこの段階(南京陥落後)では、日中双方が妥協できる和平案を得ることはできなかったのではないかと思うからです。

 以下、このことを、トラウトマン和平工作をめぐる幾つかの疑問点を明らかにする中で考えてみたいと思います。

1,なぜ(戦勝国である)日本が先に和平条件を提示したのか

 この和平工作は、日支全面衝突以前の昭和11年末、参謀本部の真奈木中佐が、石原作戦部長の意を受けてこの問題の全面解決を目的とし駐日ドイツ武官オットーに接触したことに始まります。この時「支那側は(1)内蒙古の自治を許し(2)満州において支那主権を認め親日政権の樹立をなすという条件にて和平をなすに異議はなかった」と重光葵は記しています。(参謀本部がこれに同意していたかどうかは不明)(『昭和の動乱(上)』p197)

 日本政府の動きとしては、参謀本部の働きかけもあって、昭和12年10月1日に「支那事変対処要綱」を決定し講和条件に関する思想統一をはかった後、広田外相が10月27日に各国の外交代表(英米仏独伊)を招いて、個別に日本側条件の概要を説明し、第三国の公平な斡旋を依頼したのが最初です。この要綱は、「内蒙自治政権の承認」を追加したほかは、ほぼ船津工作当時の『大乗的条件』を踏襲」していました。

 なぜ、この時期にこうした寛大な和平条件が踏襲されたかというと、それは、当時の「上海戦線の膠着状況、ひいては消耗戦争への不安」を反映していたからで、いわゆる「一撃派」にとっても、上海戦線における苦戦は全く想定外でした。そのため、それまで支那に一撃を加えることで紛争の早期解決を図るべしと主張してきた陸軍省及び参謀本部内の「拡大派」も、この条件での蒋介石との和平交渉に同意したのです。

 後に、日本軍が上海占領後南京に向けて追撃を行う段階で、この和平条件が無電傍受され、「広田がこっちの肚を早く入ってしまったのが悪い」「広田を捕まえて縛ってしまえ」などと陸軍省や参謀本部の若手将校が広田外相を攻撃しました。しかし、実態は以上の通りで、またこの時の和平条件には、回答が遅延すれば「条件の変化があり得る」ことを広田よりディスクゼンを通じて中国側に通告していました。
    
2,日本の示した「大乗的」和平条件は何をめざしていたのか

 日中戦争前における国交調整交渉は、まず広田三原則(1935年秋)の提示(排日停止、満州国の承認、共同防共)に始まり、川越・張群交渉(1936年秋)でその具体的条件の詰めがなされました。しかし、それに反対する陸軍出先の妨害工作(=華北分離工作)により交渉は中絶しました。

 その後、軍は、佐藤尚武外相の新政策(1937年春)――陸軍出先が華北分治工作の一環として設けた既成事実の一部放棄(華北政治工作の中止、冀東密輸の停止など)――に同意し、日中和平交渉の再開が図られました。しかし、林内閣の瓦解(12.6.30)により進展せず、廬溝橋事件の勃発で交渉は再び中絶しました。

 廬溝橋事件勃発後は、石原第一部長の発案になる近衛首相または広田外相の南京訪問案(7月中旬)や、近衛首相による宮崎竜介(宮崎滔天の息子)派遣などが試みられましたがいずれも実現しませんでした。そんな中、拡大を見せ始めた事変をなんとか収拾するための新たな「停戦及び国交調整案」(=船津案)がまとめられました。

 これは、外務省の石射東亜局長が中心となってまとめたもので、(1)塘沽、梅津・何応欽、土肥原・秦徳純各協定の解消、(2)冀察・冀東両政府の解消、(3)排日の取締、(4)自由飛行、冀東特殊貿易の廃止を骨子とするもので、満州国を除き1933年以降日本の出先軍が華北で獲得した既成事実の大部を放棄しようとする「寛大な」条件でした。

 特に「三原則交渉いらい難点となっていた満州国承認問題については、ただちに正式承認を求めず、「満州国を今後問題とせずとの約束を隠約の間になすこと」で足りるとし、また停戦協定成立後の交渉において治外法権の撤廃をも許与する含みがあった」(『日中戦争史』秦郁彦p147)とされます。

 つまり、日本側としては、何としても中国との全面戦争は避けたかったわけで、そのためには、満州国の実質的承認を中国側に約束させることさえ出来れば、1933年以降日本の出先軍が華北において積み上げてきた既成事実のほとんどを放棄してもかまわないとする、従来の行きがかりを精算した画期的な了解案に達していたのです。

 そのため、いまだ上海での激戦が継続中の10月1日に決定された「支那事変対処要綱」に示された和平条件が、「船津工作」(8月9日中国側に提示)に見られる「寛大な」和平条件を踏襲するものとなったのです。ということは、日本が中国に対して求めていたことは、究極において「満州国の承認」のみであったということになります。

 ところで、この「船津工作」おいて、船津辰一郎(在華紡同業界理事長)に託された交渉を、天津より帰任した川越駐華大使が横取りしたため成功しなかったとの評が一般的になされます。この意味は、古屋哲夫氏によると、船津の役割は「極秘の内に中国有力者と接触し中国側から停戦を発議させる」ことを工作のかぎとしていた、とのことです。

 このことは、政府が現地軍部の行動を正面から抑制し得ないと考えていることを示すもの(『日中戦争史研究』古屋哲夫編p108)で、従って、以上紹介したような中国との和平交渉の推進も、陸軍省及び参謀本部のごく一部の首脳と政府と間で極秘裏に進められてきたものであるということが判ります。 

3,なぜ蒋介石は日本の「第一次和平案」を一月も放置したのか

 先に述べた「支那事変対処要綱」の和平条件を引き継ぐ和平案(第一次案)が広田外相より駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石のもとに届けられたのは11月2日でした。しかし蒋介石は、開催中の国際連盟ブラッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保しました。しかし、同会議が見るべき成果なく月末には閉会されたので、あらためて12月2日ドイツの仲介を取り上げることにしました。 

 しかし、この段階でも蒋介石の対日不信は根強く、「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとしました。

 また、「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」と述べました。(『広田弘毅』p302)一方、この時(s12.12.6)開かれた中国の国防最高会議常務委員会での協議に出席した他の将領の意見はいずれも「だだこれだけの条件ならば、これに応ずべし」というものでした。

 ここに、蒋介石と他の将領との、日中和平交渉に臨む姿勢の違いが伺われるわけですが、こうした蒋介石の強硬な態度を決定づけたものが、広田三原則以降の日本の出先陸軍による武力を背景とした華北分離工作と、それに引きずられた日本政府の「二枚舌」的外交に対する不信にあったことは言うまでもありません。

 実際、上海戦以降の日本軍の行動も中央の指示を全く無視したものであり、大本営(11.20設置)には南京まで進撃する計画はなく、あらかじめ蘇州―嘉興の線を現地軍の追撃限界線としていました。しかし現地軍は、南京占領による国府の降伏を主張して軍を進め、大本営はやむなく無錫―湖洲の線までこれを延長しました。

 その後の南京攻略に際しても、参謀本部の戦争指導当局は、これを機に講和を図らんとして、南京城外における戦線の停止を提案しました。つまり、この「按兵不動」の間に勅使を南京に送り双方の真意を交換し、「日支和戦究極の決定に導かん」(『支那事変戦争指導史』堀場一雄p110)としたのですが、現地軍の不同意で断念しています。しかし、12月1日松井大将の強い意見具申を受けて南京攻略の許可を与えています。(4/18追記)

 *一パラグラフ削除(4/18)

 なお、蒋介石は11月2日に第一次案がトラウトマンより示された時、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、わが政府は世論の大浪に押し流されてしまうだろう。・・・日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べました。(『日中戦争』児島襄p146、「トラウトマン工作の性格と資料」三宅正樹)

 つまり、それほど「日本のやり方」に対する蒋介石の不信は根強く、かつ、中国国民の日本に対する抗戦意志も強烈だったということができます。従って、蒋介石に第一次和平案が示された段階では、先に述べたブラッセル会議に対する期待もあり、蒋介石にはこの第一次和平案を受諾する意志はなかったのです。(下線部追記4/18)

4,なぜ日本は「第二次和平案」に見られるような条件加重をしたのか

 第一次案に対する条件加重に、近衛首相や広田外相がどのように関わったのかということについては、資料間に異同があり正確なことは判りません。しかし総じていえば、両者とも軍や世論の多数意見に左右されがちないわば「融和的」政治指導者であったことは否めないと思います。といっても、両人とも軍の独断専行と無統制に悩みつつ、なんとか早期和平に導こうと努力したことは間違いありません。(下線部修正4/20)

 また、この時の戦争は、中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まっていますし、上海戦における日本側犠牲者は、旅順攻撃における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものでした。従って、そうした激戦を制した後の南京陥落という戦果を前にして、二人ともつい、華北における親日政権の樹立(=蒋介石政権の否認)が戦争終結の早道であるいう現地軍の「トリック」にはまってしまったのではないでしょうか。

 というのは、この条件加重は、12月7日ディルクゼン大使から広田外相に「日本側提示の条件を基礎にして交渉に応ずる用意がある」との蒋介石の回答が伝えられた段階では、この「第一次和平案」に「青島紡績工場焼き払いの如きもの」に対する損害賠償を加えたというだけのものだったのです。広田はこれを直ちに天皇に上奏し、天皇は「よかったね」とうなずいたといいます。(『天皇』第3巻 児島襄p238)

 しかし、これが南京陥落(s12.12.13)後12月14日の政府・大本営連絡会議では「近衛首相は終始沈黙していた。原案を忠実に支持したのは保内海相と古賀軍令部長のみで、多田、末次、杉山、賀屋の諸氏から出された異論によって条件が加重されていった。・・・かねてから和平論者として評のある多田次長から、条件加重の意見が出たのは不可解であった。わが広田外相に至っては一言も発言しない。」と描写されています。(『外交官の一生』石射猪太郎p326)

 ここにおける「近衛首相は終始沈黙していた」との描写については、『西園寺公と政局』では、末次内務相が「この事変の講和条件については、よほど強硬にやらないと、とても国民は収まらんし、出先の軍人も収まらん」と述べたのに対し、近衛首相は、「今の内務大臣の言われた趣旨には自分は反対である。自分達としてはどこまでも中外から見て、なるほど日本の主張は正当であり、日本の要求は公正である、といわれるような内容をもった講和の条件でないとならないと思う。国民が収まらないからとか、軍人が不平を言うからと言って、不可能なこと、或は無理なことを日本が要求することは、国家の威信に関する」と毅然として自己の主張を述べた、とされています。(米内海相の談話)(同書第6巻p187)

 また、堀場一雄(参謀本部作戦指導課)の『支那事変戦争指導史』では、「広田外務大臣先ず発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認しがたきを述べ」た(誰かからの伝聞)、となっています。また、堀場は、広田が第一次和平案を軍に相談しなかったとか、一度自らの責任で条件を提示しながら南京の戦勝に酔って条件を加重したことは国家の信義に反するなどと広田を批判しています。(同書p118)

 しかし、このトラウトマン和平工作における第一次和平案の提示は、先に述べたとおり、参謀本部とドイツのオットー(東京駐在武官)を通じての中国との和平交渉を政府が引き継いだものであり、「要するに陸軍の統制さえついていれば何事もおこ」らないはずのものでした。(米内海相及び山本次官の話『西園寺公と政局』第3巻p173)

 また、参謀本部の戦争指導班は「成しべくんば支那側の申し出を取り上げて交渉に入るべし」としていましたが、付加すべき条件については、陸海外三省及び統帥部間の協議を経て、第二次和平案がまとめられました。そこでは非武装地帯の拡大(華北、内蒙、華中)、内蒙自治政府及び華北特殊政治機構の承認、保障駐兵、及び戦費賠償などが追加されていました。

(5)なぜ参謀本部は蒋介石との交渉継続を執拗に主張したか

 この「第二次和平案」は、その翌日(12.22)ディルクゼンに提示されましたが、ディルクゼンは一読して、中国側が受諾する見込みは薄いとの感想を述べました。これは26日トラウトマンより孔祥熙ならびに蒋介石夫人(宋美齢)に伝えられました(この時は蒋介石は病中)が、孔は「誰もこんな原則を受け入れることはできない。・・・日本は日本自身の破滅をもたらすであろう」と述べました。(「トラウトマン工作の性格と資料」三宅正樹)

 なぜなら、この講和条件はまさに華北分離工作の延長上にあるとしか見えなかったからです。華北、内蒙における非武装地帯の拡大や特殊政治機構の承認などは、「塘沽協定以来の現地軍部の基本目標であり、そのうえに戦争の拡大に伴う諸要求を積み上げてゆくというのが、この要求の骨組みをなして」いました。このことは「船津工作に見られた政策修正の試み」が消え失せたことを意味します。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p108)

 案の定、中国側の回答は年が明けても届きませんでした。船津案をまとめた石射は広田に「あの加重された条件では、到底色よい回答が中国側からくるはずがありません。和平はさし当たり絶望です。日本が事変を持てあまして、目が醒めるまでは、時局を救う途はありません。その時機はやがて到来します。それまで『国民政府を相手にせず』結構です。この点について私は争いません」と述べました。(『外交官の一生』p329)

 結局、中国側回答は、最終期限の1月15日の前日に届きました。内容は「日本の条件は範囲広範に過ぎるので・・・さらに詳細な内容を知りたい」というものでした。これに対して政府・軍部は、講和条件の細目はすでに数次にわたり(ディルクゼンを通じ口頭で)説明済みであるとし、いまさらこのような申し入れをしてくるのは講和への誠意がなく遷延策に出たものであるとして、14日の閣議で交渉打ち切り方針を固めました。

 しかし、参謀本部はなお交渉継続をあきらめず、そのため15日の連絡会議では広田外相らの交渉打ち切り論と多田参謀次長の継続論が鋭く対立しました。多田はこの機会を失えば、長期戦争に引き入れられる危険が大きいとし「中国側の要望に応じて日本側条件11ヵ条の確実な内容を文書で交付し、手続きについても、なお検討を加えるべきである」と主張し、古賀軍令部次長も多田の主張を支持しました。

 しかし、陸軍省は打ち切り論に一致していて、杉山陸相もすでに連絡会議で広田に賛成し多田と激論を交えている状況であり、部内の意見統一すら困難とみられたので、結局参謀本部は「この重大事局において、政府対統帥部の抗争のために政変を起こすようなことは是対に避けねばならぬと考えるので、統帥部として不同意なるもあえて之に反対しない」という趣旨を政府に通告して、その方針に従うことにしました。

 にもかかわらず参謀本部は、これを参謀総長から天皇に上奏すれば、かねてより早期和平を望んでいる天皇から政府に対し「再考の御諚あるいは御前会議の招集」があるのではないかと期待しました。しかし、閑院宮参謀総長があらためて対ソ防備上交渉継続の必要性を天皇に言上すると、天皇は、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければなおよかったじゃないか」といい、総長は返す言葉を失ったといいます。

 この天皇の言葉は、日支事変に際して度々講和の機会を得るよう希望していた天皇の言葉としては意外な感じがします。しかし、これは「政府がその全責任において決定したことについて、天皇がそれを左右するような発言をすることは厳に慎む」という立憲君主の態度として当然のことでした。ただ、天皇としては、事ここに至ったその責任が「最初に支那と事を構えた」参謀本部にあるとの認識について一言したかったのでしょう。

(6)なぜ参謀本部は政府を説得できなかったか(小見出し挿入4/18)

 それにしても、どうして参謀本部は、軍の統帥機関としての専門的見地から日支間戦争の長期化をこれほど恐れながら、なぜ文民たる政治家を説得できなかったのでしょうか。一方、なぜ文民政治家たる近衛や広田は、事変当初から早期和平の実現に努めながら、この決定的な局面において、参謀本部の交渉継続を求める意見を無視したのでしょうか、いや無視することができたのでしょうか。

 この間の事情を説明する論はほとんどなく、参謀本部の見識を評価する一方、文民政治家の無能ぶりを慨嘆する意見がほとんどです。しかし私自身は、先に述べたように、「第二次和平案」の段階で、蒋介石が和平交渉に応ずる可能性はゼロだったと考えますので、この点はむしろ文民政府の判断の方が正しかったと思います。問題は、この「第二次和平案」から「船津工作に見られた政策修正の試み」が姿を消した、ということではないでしょうか。

 つまり、この「第二次和平案」は、国民政府がこれを呑まなければ、日本は再び華北分離工作さらには華中分離工作を開始するぞ、という脅しているようなものなのです。確かに参謀本部は、華北分離工作の誤りを指摘する一方、日満支三国提携共助の実現の必要性を説いています。しかし、参謀本部は、この和平案がならず、「現中央政府を否認」した場合の中国における軍事占領地域内の新政権樹立方針をも同時に起案していました。(『支那事変戦争指導史』P116)

 ところで、石原が日本の伝統的大陸政策の修正の必要を認めたのは昭和10年末頃です。しかし、石原自身、これと矛盾する日本による華北五省の分離支配政策を捨ててはおらず、この政策は、昭和11年8月決定の「帝国外交方針」その具体化である「第二次北支処理要綱」で正式の政府決定とされました。ここでは「北支分治政治を完成して防共親日満地帯を建設し、併せて国防資源の獲得をはかり、以て蘇国の侵攻に備える」としていました。

 その後石原は、昭和12年1月に「帝国外交方針」を改訂し、華北「分治政策」の放棄を提起しました。しかし、それは、究極的には、石原自身が押し進めてきた日本の伝統的大陸政策の放棄を意味するものであり、ここに石原は、深刻な自己矛盾に逢着しました。つまり参謀本部の堀場一雄を中心とする作戦指導課もこの矛盾の上にあったのですが、しかし彼らは、この自己矛盾の深刻さに(下線部追記4/18)気づきませんでした。

 というより、実は、石原が説き堀場も信奉した「王道思想」論が日本の大陸政策を根底において支えていたわけで、従って、この「第二次和平案」を堀場がいかに非侵略的なものだと言いつくろおうとも、その欺瞞性は中国人の目には明らかだったのです。蒋介石は王寵恵外交部長から、ドイツ大使トラウトマンから対日回答の督促を受けていることを告げられた時、次のように王部長に大声で命令したとされます。

 「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」「断固として拒絶せよ」そして日本側が1月15日の回答期限を前に政府大本営間で会議を重ねていることを知ると「それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気がついたか――。」(『日中戦争(3)』児島襄p222)
(つづく)

2009年3月29日 (日)

蒋介石の「敵か友か?中日関係の検討」

 前々回に紹介いたしましたが、蒋介石は、1934年12月、満州事変以前そして以後の中国側の犯したあやまりに対する反省を踏まえて、日中関係の抜本的改善を呼びかける「敵か友か?中日関係の検討」という論文を、南京で発行された雑誌「外交評論」に発表しました。「外交評論」は国民党外交部の機関誌といえるもので、党・政府中央の意を広く民衆に伝える雑誌でした。そこに「日中朝野の人びとに先入観抜きで読ませる」ため、あえて第三者に語らせる形をとり、かつ、その内容が国民政府の本意にかなうものであることを明らかにしました。

 これを見ると、当時蒋介石が、満州事変以降危殆に瀕した日中関係を、どのような観点に立って、互助互恵の日中親善関係へと転換させようとしたかがよく分かります。北村稔・林思雲著『日中戦争』によると、満州事変後における中国市民や学生間の主戦論はすさまじく、それに比べれば和平派(その多くは軍事や政治の重要ポストにいる人たちや、社会的影響力の大きな学者たち)の数は少なく、彼らの努力が無かったならば、日中間の全面戦争は、一九三一年頃に早くも勃発していたであろう、というほどだったといいます。

 そうした雰囲気のなかで、蒋介石は何とか満州事変の戦後処理を済ませ、日中親善・互助互恵の経済関係を築きたかった。それが両国のためであるし、ひいてはアジアの平和の確立のためでもあり、さらに世界戦争の危機を免れるためでもあると確信していたのです。そして、そのための唯一の方策として、蒋介石が広田外相に期待したのは、満州国問題をその宗主権を中国に残す形で、「中国の面子」を立てるやり方で解決して欲しい、それ以外に、主戦論に沸き立つ中国国民の怒りを鎮める方法はない、ということだったのです。

 残念ながら、当時の日本はその願いに応えることができなかった。なぜか、日本人は当時の世界をそして中国人の感情を、蒋介石が世界をそして日本人の感情を読んだほどには読めなかった、そういうことだったのではないかと私は推測しています。おそらく、近衛も広田も内心ではそうしたい気持ちはやまやまだったろう、という推測ともあわせて・・・。(以下『蒋介石秘録(下)』より引用・要約p134~138)

 「世上、中日問題を論述した論文は非常に多い。両国の政治家、学者が発表した意見も、専門的なもの、一般的なものを問わず、少なくない。ただ、私はここで、あえて断言する。一時の感情や意地、一時のあやまりにとらわれず、国家の終局的な利害を考えた見解は、きわめて少なく、問題の正面からの認識が、あまりにも不足しているのだ。国際間の多くの悲劇は、すべて一時のわずかな行き違いから生まれながら、永遠にとり返しのつかない禍いとなっているのである。中日両国はさまよい、滅亡への足どりをますます早めている。これを打開し、ひいてはアジア平和の基礎を確立し、世界戦争の危機を免れるためには、なによりもまず、中日問題をまじめに検討しなくてはならない。率直で赤裸々な批判と反省が必要なのである」

 「まず私かいいたいのは、理を知る中国人はすべて、究極的には日本人を敵としてはならないということを知っているし、中国は日本と手を携える必要があることを知っていることである。これは世界の大勢と中日両国の過去、現在、そして将来(もし共倒れにならなければであるが・・・)を徹底的に検討したうえでの結論である。私は日本入のなかにも同様の見解を抱く者は少なくないと思う。だが、今日までのところ、難局を打開し、両国の関係を改善する兆候はないばかりか、前途をみても一点の光明もない。ずるずると、行き当たりばったりに、自然のなりゆきにまかせられているのである」

 蒋介石はこのような日中関係についての基本認識のもとに、当時の日本の置かれた情況について次のような透徹した認識を示しています。

 「日本の中国にたいする関係を論じるには、必ず対ソ、対米(そして対英)という錯綜した関係と関連して論じなければならない。一方において、日本はその大陸政策および太平洋を独覇しようという理想を遂行し、強敵を打倒し、東亜を統一しようと望んでいるため、ソ連と米国の嫉視を引き起こしている。その一方では、日本当局は、満蒙を取らなければ日本の国防安全上の脅威は除去できないなどと言って、国民をあざむいている。換言すれば、対ソ戦、対米戦に備えるため、満蒙を政略経営しなければならない、というのである。

 「われわれはいま純粋に客観的な態度で、日本にかわってこのことを考えてみよう。現在、日本が東に向かって米国とことを構えようとすれば、中国は日本の背面にあたる。もし日本が北へ向かってソ連と開戦しようとすれば、中国は日本の側面となる。このため、日本が対米、対ソの戦争を準備しようというのならば、背側面の心配を取り除かなければ、勝利をつかめないどころか、開戦さえ不可能である。

 この背側面の心配を除去する方法は本来二通りある。一つは力によって、この隣国(中国)を完全に制圧し、憂いをなくすことであり、もう一つの方法は側背面の隣国と協調関係を結ぶことである。しかし、いま日本人は中国と協調の関係によって提携しようとはしていない。日本は明らかに武力によって中国を制圧しようとしている。だが、日本は中国を制圧する目的を本当に達成できるのだろうか?」

 「日本がもし、何らかの理由によって中国と正式に戦争をするとしよう。中国の武力は日本に及ばず、必ず大きな犠牲を受けることは中国人の認めるところである。だが、日本の困難もまたここにある。中国に力量がないというこの点こそ、実は軽視できない力量のありかなのである。

 戦争が始まった場合、勢力の同等な国家ならば決戦によって戦事が終結する。しかし、兵力が絶対的に違う国家、たとえば日本対中国の戦争では、いわゆる決定的な決戦というものはない。日本は中国の土地をすみからすみまで占領し、徹底的に中国を消滅しつくさない限り、戦事を終結させることはできない。

 また、二つの国の戦争では、ふつう政治的中心の占領が重要となるが、中国との戦争では、武力で首都を占領しても、中国の死命を制することはできない。日本はせいぜい、中国の若干の交通便利な都市と重要な港湾を占領できるにすぎず、四千五百万平方里の中国全土を占領しつくすことはできない。中国の重要都市と港湾がすべて占領されたとき、たしかに中国は苦境におちいり、犠牲を余儀なくされよう。しかし、日本は、それでもなお中国の存在を完全に消滅することはできない」

 このように日本の軍部の中国武力制圧方針の誤りを指摘した後、蒋介石は、それまでの中国側のおかした対日外交のあやまりについて次のように率直な反省をしています。(筆者要約)

一、九・一八事変(満州事変)のさい、撤兵しなければ交渉せずの原則にこだわりすぎ、直接交渉の機会を逃した。

二、革命外交を剛には剛、柔には柔というように弾力的に運用する勇気に欠けていた。

三、日本は軍閥がすべてを掌握し、国際信義を守ろうとしない特殊国家になっていることについて情勢判断をあやまった。

四、敵の欠点を指摘するだけで自ら反省せず、自らの弱点(東北軍の精神と実力が退廃していること)を認めなかった。

五、日本に対する国際連盟の制裁を期待したが、各国は国内問題や経済不況で干渉どころではなかった。つまり第三者(国際連盟の各国)に対する観察をあやまった。

六、外交の秘密が守れず、国民党内でも外交の主張が分裂することがあり、内憂外患は厳重を極めた。

七、感情によってことを決するあやまり。現在の難局を打開するにはするには、日本側から誠意を示し、侵略放棄の表示がなければならない。中国人がこれまでの屈辱と侮辱に激昂するのは当然としても、感情をおさえ、理知を重んじ、国家民族のために永遠の計を立てなくてはならない。

 もちろん、中国のあやまりにくらべれば、日本側のそれは、はるかに多い。日本の根本的なあやまりは、中国に対する認識にある。日本は、その根本的なあやまりに気づかず、あやまりの上に、あやまりを重ねることになってしまった。

 日本側には、次の五つのあやまりがある。

一、革命期にある中国の国情に対する認識の誤り。中国は現在革命期にあり、主義が普及し最高指導者が健在で民衆が一致してこれを支持している。日本はこうした中国の国情に対する認識をあやまっている。

二、歴史と時代に対する認識のあやまり。明治時代、日本の台湾、朝鮮併合に痛痒を感じなかった中国国民も今日民族意識を備えており、東北四省が占領されたことを知っている。日本の武力がいかに強くても、この十分に民族意識に民族意識を備えた国民を、ことごとく取り除くことはできない。

三、国民党に対する認識の誤り。日本は中国国民党を排日の中心勢力とし、これを打倒しなければ駐日問題は解決しないと考えている。しかし日中両国間の唇歯相依の関係を説いているのは国民党である。

四、中国の人物に対する認識のあやまり。日本が武力によって中国に脅威を与え、(蒋介石を)屈服させようとしても、その目的は達せられない。

五、中国国民の心理に対する認識のあやまり。中国には百世不変の仇恨の観念はない。今日本は中国の領土を占領し中国の感情と尊厳を傷つけている。日本がこうした領土侵略の行動を放棄すれば、どうして同州同種の日本と友人になることを願わないだろうか。

 日本はこの五つのあやまりのほか三つの外交上のあやまりがある。

①国際連盟を脱退したこと。

②アジア・モンロー主義を唱えて世界を敵に回したこと。

③自ら作り出した危機意識にとらわれていること。

 以上のような認識を踏まえて、日本がまず認識すべきことは、

第一に、独立の中国があって初めて東亜人の東亜があるということである。日本は徹底的に中国の真の独立を助けて、初めて国家百年の計が立つ。

第二に、知るべきは時代の変遷である。明治当時の政策は今の中国には適用できない。武力を放棄し文化協力に力を入れ、領土侵略を放棄して相互利益のための経済提携をはかり、政治的制覇の企図をすて、道議と感情によって中国と結ぶべきである。

 第三に、中国問題の解決に必要なものは、ただ日本の考え方の転換だけであるということである。

 以上、誠にお見事というほかありません。

(以下3/29追記)

 ところで、この内支那側の反省を見ると、満州問題の処理をあやまったということが中心をなしていますが、それはいうまでもなく支那側の拙速な革命外交によって幣原外交の日本における存立基盤を破壊してしまったことに対する、蒋介石の痛切な反省がベースになってように私には思われます。実は、こうした中国外交のあやまりをつとに指摘していたのが幣原自身で、幣原平和財団が発行した『幣原喜重郎』には、政治評論家馬場恒吾による「幣原外交の本質」と題する次のような一文が掲載されています。

 「昭和七年十一月支那に開係ある日本人が幣原を訪ねて云ふには、自分はこれから支那に行って支那の要人に會ふ積りだ。満洲事変の起った当時の外務大臣として、幣原は支那人に云ふべきことがあるかと云った。

  幣原は答へて、大にある。支那の要人に會ったら、幣原は彼の阿房さ加減に呆れていると云って呉れ、其の理由は前年九月十八日に満洲事変が突発した。そのころ財政部長宋子文からの非公式の話しとして、支那は満洲事変に関して日本に直接交渉を開き度いと云ふ意向がある、と云ふ報道が来た。幣原は外務大臣としてそれに応じてもよいと返事した。 所が其後何の音沙汰もない。

  越えて十月八日幣原は東京駐在の支那公使に向って、日本は直接交渉を開く用意があると云ふ公式通牒を発したのである。かうした通牒を出すに『幣原は命がけの決心をしていた。直接交渉に依って、日本は正常の権益を収める。しかし、同時にこれ以上満洲事変の拡大することを抑へるといふことは当時の情勢では幣原は一身を賭してなさなければならぬことであった。若しあのとき、支那の要人が幣原の誘ひに乗って満洲問題の満足な解決を与えたならば、支那は共後の汎べての戦禍を免れたであらう。それをしなかった支那要人の阿房さに呆れるといふのであった。

 幣原を訪ねた人はそれは過去の事だが、今後の支那に對する忠告はないかと問ふた。幣原は答へて、今日支那は満州国の独立を認めぬとか云って、國際聯盟あたりで運動しているが、それが又愚の骨頂だ。満州国の独立は現実の存在になっている。その独立を取り消さうなどということは理論の遊戯として面白いかも知れぬが、国際政治の領域のものでない。実際政治家の要は、この現実此の事実に立脚して如何に善処するかを講究するにある。支那の出方一つで、満洲國の独立は支那の利益になる。独立しても血が繋がっているのだから、本家と分家の関係位に見て居ればよい。

 例へば加奈陀は英國から実際的には殆んど独立している。各回へ公使を出したり、國際聯盟へも代表者を出している。併し重大問題になると、其國の不利益になるやうな事はしない。満洲が独立国になった所で、支那の出様さへよければ、本家分家程度の人情があって支那の害にはならず、却って支那の利益になる。それを悟らずして成功の見込みもないのに、独立取消などに騒ぐ支那の政治家の気が知れないと。」(上掲書p503~504)

* なお、この記述は、幣原のなした会話の伝聞記録なので、幣原が言いたかったことをどの程度正確に反映しているのか判りません。ただ、氏のそれまでの主張との整合性を考えると、おそらく、これは必ずしも満州国の独立を承認せよといっているわけではなくて、そのポイントは「此の事実に立脚して如何に善処するかを講究」すべき、という点に置かれているような気がします。そう考えれば、この時の蒋介石の提案はその善処策の一つと見ることができます。(3/30追記)

 おそらくこの後段の幣原の提案に対する蒋介石の回答が、「敵か友か?中日関係の検討」以降の広田外相との日中親善をめざす外交交渉になったのではないかと私は思っています。(以下追記3/30)この時の駐華日本大使は有吉明で、国民政府の対日態度が一大転換をしたことについて、これは日本にとって千載一遇の好機であるが、これに対して外務省は何をもって応えようとしているのか、と問うています。南京政府が「邦交敦睦令」や「排日禁止令」で誠意を示しているのに、外務省のは華北問題につき軍部の若手強硬派を説得する勇気も矜持も持っていないのか、と怒りを露わにしています。

 しかし、この頃の日本の政治体制は、あたかも一国二政府のごとき変態を呈していて、日本の支那駐屯軍は、政府の日中親善を目指す外交交渉を妨害するため、あえて、梅津・何応欽協定を嚆矢とする華北分治工作を推し進めました。しかも、それに対する政府の干渉を統帥権を盾に排除する姿勢を示しましたので、その説得は極めて困難でした。私は前稿で、満州事変のもたらした二つの難問の一つとして、「関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなった」ことを指摘しましたが、この時の支那駐屯軍による華北分治工作こそ、日本に中国との全面戦争を運命づけるポイント・オブ・ノーリターンとなったのです。

2009年3月26日 (木)

なぜ日本は中国と戦争をしたか6

 前回紹介した岸田国士の言葉「今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。」は、日中戦争の本質を端的に表したものといえます。

 また、私は前回の末尾で「軍部を含めた日本側も、そしておそらく中国側も望まなかった日中戦争」と書きました。これについては廬溝橋事件発生時における「拡大派」の存在や「中共謀略説」などを根拠に、異論を唱える方も多いと思います。北村稔・林思雲氏の『日中戦争』の副題は「戦争を望んだ中国望まなかった日本」となっています(挿入3/30)。しかし、日中関係をより長いスパンで見た場合、日中親善が望まれていたともいえるわけで(注1)、蒋介石も、また満州事変の張本人である石原莞爾も、先の「拡大派」にしても、決して中国との全面戦争を望んだわけではありませんでした。

注1:中国は日本を近代化のモデルとし、日本は中国をアジア主義または王道文明という観点から一体的に捉えていた、という意味(3/27)。「両者とも日中親善を望んでいたことは明らか」という表現は上記の通り訂正(3/30)。なお、中共の立場はまた別の観点で見るべきで、ここでは日中戦争を日本と国民党間の戦争として考察します。(3/29)

 終戦後の1946年にアメリカ戦略爆撃調査団が日本陸軍の華北進出の動機に関する調査を行っていますが、その一説には次のような調査結果が記されています。(『太平洋戦争への道4』「日中戦争(下)」p3)

 「一九三七年(昭和一二年)の華北進出は、大戦争になるという予測なしに行われたものであって、これは本調査団が行った多数の日本将校の尋問によって確証されるところである。当時、国策の遂行に責任のあった者たちが固く信じていたところは、中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自ら調整してゆくであろうということであった。中国全土を占領することは必要とも、望ましいとも考えたことはなかった。・・・交渉で――あるいは威嚇で後は万事、片がつくと考えていた。」

 この事実は、満州事変以降の日本の中国に対する究極の要求が何であったかを見てもわかります。もちろんそれは、寛大ないわゆる「大乗的」といわれるものから侵略的という外ないものまで、その振幅はさまざまですが、中国との戦争状態を惹起しないあるいはそれを終熄させようとした時の最低限の日本の要求は何だったかというと、結局それは、満州事変以降日中戦争期そして大東亜戦争期を通じて、満州国の独立を中国に承認させる、という一点に絞られてくるのです。

 この間における満州国承認に関する日中間交渉は、昭和10年9月7日、蒋介石が蔣作賓を通じて日本政府に示した日中提携のための関係改善案の提示に始まります。この時の中国側の提案は「満州国については、蒋介石は同国の独立は承認し得ざるも、今日これを不問にする。(右は日本に対し、満州国承認の取り消しを要求せずという意なり)」というものでした。これに対して広田外相は、昭和10年10月7日、張作賓に「広田三原則」を示し、その第二項で「満州国の独立を事実上黙認」することを求めました。

 これに対する中国側の答えは、「満洲にたいし政府間交渉はできないが、同地方の現状に対しては、決して平和的以外の方法により、事端を起こすようなことをしない」というものでした。広田外相は、「中国は満洲に対して政府間の交渉はできないというが、それでは現状と変わりがない」として重ねて「事実上の満州国承認」を求めましたが、中国側は応諾しませんでした。おそらくその理由は「中国としては満州国の宗主権を放棄することはできない」ということだったと思います。

 また、中国側はこの交渉に先立って中国側三原則を示し、その趣旨に日本側が賛同することを求めました。それは(1)日中両国は相互に、相手国の国際法上における完全な独立を尊重すること。(2)両国は真正の友誼を維持すること。(3)今後、両国間における一切の事件は、平和的外交手段により解決すること、でした。その狙いは、「梅津・何応欽協定」以降の日本軍の武力を背景とした脅迫的な交渉態度や「華北自治工作」という主権侵害行為の停止を、日本側に約束させることにありました。

 広田外相としても、1935年1月12日の議会演説で中国に対する不脅威・不侵略を宣言して以来、なんとか日中関係改善の糸口を見つけようと努力しました。また、国民政府も日本軍による華北自治工作開始後も、対日親善方針を変えなかったため、広田外相は陸海外三省協議の上、「広田三原則」をまとめたのです。しかし、そこでは軍部の圧力のため(3/27挿入)「相互尊重・提携共助の原則による和親協力関係の設定増進」という項目が削除されたり、「日満支三国の提携共助により」が「日本を盟主とする日満支三国」となるなど中国側三原則の趣旨は失われていました。

 そのため、この時の日中関係改善交渉は挫折しました。そしてその後も、日本の出先陸軍は華北自治工作を強力に推進し、1935年11月23日には殷汝耕を政務長官とする冀東(冀=河北省)防共自治委員会を設置し、さらに河北の宋哲元らに対する自治工作を強化しました。国民政府はこれに対して1935年12月18日、一定の自治権を有する冀察(チャハル省)政務委員会を設置(1935.12.18)しました。しかし、こうした日本軍のあからさまな華北分治工作に対する中国国民の反発は、燎原の火の如く中国全土を蔽い、各地で対日テロ事件が頻発するようになりました。

 一方日本では、1936年2月26日に一部青年将校による二・二六事件が勃発し、岡田内閣が崩壊、続いて3月9日広田内閣が発足しました。対華政策については8月11日「第二次北支処理要項」が決定され、日本の「華北分治政策」が満州国の延長の如く解せられないよう留意しつつ、「日本と華北の経済合作」を進めるべきとしました。また、険悪の度を増す日中関係の根本解決をめざして、南京で川越駐華大使と張群外交部長の間で華北経済合作を中心とする交渉が行われました。その中で中国側は、塘沽・上海停戦協定(満州事変の停戦協定)の取り消しや、冀東政府の解消を要望するようになりました。

 さらに日本の綏遠工作(内モンゴル軍を使った中国からの綏遠分離工作)が発覚すると、蒋介石は、「綏遠工作が続く限り南京交渉は困難である」「中国国民の日本に対する不安と猜疑の念は、ますます高められる一方だから、日本も大局的見地からこれを一掃する処置を講じてほしい」と要望しました。さらに1936 年11月24日の百霊廟陥落(綏遠事件の最後の戦闘で中国軍が勝利したもの)以降の中国側の姿勢はさらに高姿勢に転じ、交渉の進展は絶望となりました。さらに12月12日には「西安事件」が発生し、これ以降蒋介石は、第二次国共合作、抗日民族統一戦線の結成へと進むことになりました。

 広田内閣は1937年1月23日に総辞職し、組閣の大命は宇垣一成予備陸軍大将に下りましたが、陸軍の反対に遭い組閣を断念し、2月2日林(銑十郎)内閣が成立しました。外相は佐藤尚武となり、対華政策については従来の陸軍の拙速主義に対する反省から、華北分治政策の放棄と冀東政府の解消がはかられました。また、「日満を範囲とする自給自足経済を確立し」て対支政策を一変し「互助互栄を目的とする経済的・文化的工作に主力をそそぎ、その統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み、北支(華北)分治は行わず」となりました。これは石原構想に基づくものでした。

 しかし、こうした政策変更が実効を見る間もなく、林内閣は5月31日に倒れ、6月1日に近衛文麿内閣が誕生し、外相は再び広田弘毅となりました。この間、華北をめぐる日中関係は悪化の一途をたどり、一触即発の状態となりました。そしてついに、7月7日北平郊外の廬溝橋で演習中の華北駐屯日本軍と冀察政権の第二九軍の間で武力衝突が発生したのです。直接の原因は第二十九軍の兵士の偶発的発砲(秦郁彦)とされますが、この段階では、すでに中国国民や兵士の抗日気運は十分に盛り上がっており、いつ衝突が起こってもおかしくない状況になっていました。

 事件直後の7月8日、中共中央は全国に通電を発し、即時全民族抗戦を発動することを主張し、蒋介石に国共合作による共同抵抗の実現を要求しました。しかし、抗日戦準備態勢の不完全を憂慮した蒋介石は、なお抗日戦発動をためらっていましたが、7月17日廬山国防会議において「最後の関頭」演説を行い、万一やむをえず「最後の関頭」にいたるならば」中国としても全民族をあげて抗戦し、最後の勝利を求めるほかないとしました。そしてついに8月8日「全将兵に告ぐ」という次のような演説を行いました。

 「九・一八以来、われわれが忍耐・退譲すれば彼らはますます横暴となり、寸を得れば尺を望み、止まるところを知らない。われわれは忍れども忍をえず、退けども退くをえない。いまやわれわは全国一致して立ち上がり、侵略日本と生死を賭けて戦わなければならない。」

 一方日本側では、事件発生後「不拡大・現地解決」を指示しましたが、陸軍の一部には「この機会を利用して、内地からの兵力を派遣し中国に一撃を加えて、前年からの華北工作の行き詰まりを打開しようという強硬意見」が台頭し、不拡大を主張する石原参謀本部作戦部長らとの間で激論が交わされました。しかし現地では11日相互撤退の原則で停戦協定が成立しました。しかし、東京ではこの調印に先立つ数時間前の閣議で内地三個師団の派兵が決定していました。ただし、動員後派兵の必要がなくなれば取りやめるとの条件付きでした。

 この派兵が決定した11日の五省会談及び閣議では、米内海相から反対意見が述べられ、近衛首相、広田外相、賀屋蔵相も乗り気ではなかったといいますが、近衛首相はその日の夕方、華北派兵の理由及び政府の方針に関する政府説明を内外に公表し、同時にこの事件を「北支事変」と呼ぶことにし、同日夜首相官邸に政・財・言論界の代表をまねき、協力を求めました。こうした政府の鼓吹によって「暴支膺懲熱」が国民の間にも高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催があいつぎました。(この時の近衛首相の判断には首をかしげざるを得ませんが、それは、中国との外交交渉の主導権を握るためのブラフだったと説明されています。3/27補足)

 この7月11日の派兵声明以降、陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が生じ、これを反映してその後二週間の間に三回も動員の決定と中止が繰り返されました。一方、現地では支那駐屯軍と冀察政権の交渉は順調に進み、19日には細目協定が橋本参謀長と張自忠の間に停戦協定が調印されました。そして23日、石射外務省東亜局長は、陸・海・外三局長会議で、事変の完全終結を見こして、(1)不拡大、不派兵の堅持、(2)中国軍第三十七師が保定方面に移動を終わる目途がついた時点で、自主的に増派部隊を撤収、(3)次いで国交調整に関する南京交渉を開始する、の各項を提案し了解を得ました。

 だが、23日を境に現地情勢は急速な変転を示し始め、第三十七師は北平撤退を中止したばかりでなく、かえって第二十九軍の他の部隊が協定に反して北平侵入するありさまでした。さらに25日には郎防駅(北平・天津の中間)付近で電線修理に派遣された日本軍の一中隊と中国軍が衝突した「郎防事件」。次いで26日には北平入城中の広部大隊に対し、中国側が城壁上から機銃掃射を加えた「公安門事件」が発生しました。かくて、現地香月軍司令官は従来の不拡大方針を放擲し、27日、政府も午後の閣議で内地五個師団二十万人の動員案を決定しました。(南苑にある中国軍主力対する攻撃は28日1日で終わり華北での戦闘は停止しましたが日本軍は南下を続けた。)

 一方、石射東亜局長の提案になる解決試案――日中戦争の全期間を通じ、最も真剣で寛大な条件による政治的収拾策――が7月30日から外務省の東亜局と海軍のイニシアティブで取り上げられ、石射がかねてから用意していた全面国交調整案と平行して、これを試みることになりました。その原動力は石原作戦部長だったと推定されていますが、これに天皇も同感の意を表され、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定されました。

 「この停戦協定案は、(1)塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定の解消、(2)廬溝橋付近の非武装地帯の設定、(3)冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政、(4)増派日本軍の引揚げ、また国交調整案としては、(1)満州国の事実上の承認、(2)日中防共協定の締結、(3)排日の停止、(4)特殊貿易・自由飛行の停止などを、それぞれ骨子とし、別に中国に対する経済援助土地顔法権の撤廃も考慮されていました。この両案は日中戦争中の提案としては、思い切った譲歩で、満州国の承認を除き、一九三三年以後、日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄しようとする寛大な条件でした。(『太平洋戦争への道(4)』p18~19)

 この案(船津案)を、南京政府の高宋武・亜洲司長に伝える交渉者として、在華紡績同業者会理事長・船津辰一郎(もと上海総領事)が選ばれ、八日または九日から高宋武と会談を始める予定でした。ところが、おりしも華北から帰来した川越・駐華大使が訓令を無視して高との会談を行うよう変更し、九日夜川越・高会談が行われました。しかし、この日上海で大山事件が突発したため、交渉はなんら進展のないまま途絶しました。そして十三日夜、上海で対峙していた日中両軍間で戦闘が開始され、翌十四日、中国空軍は上海在泊中の第三艦隊に先制攻撃を加えました。そして翌十五日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設けて蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し、ここに日中全面戦争が開始されました。

 以上、「広田三原則」以降「日中全面戦争に突入するまでの日中交渉の経過を『太平洋戦争への道』の記述を引用しつつ説明してきました。そこで疑問となるのは、8月4日に日本側にこれだけの譲歩ができたのなら、なぜ、出先陸軍は広田外相の日中親善外交をあれほど露骨に妨害し「華北分離工作」をおし進めたのか、ということです。その時問題となった「満州国の事実上の承認」についても、中国側は日本に対し「満州国承認の取り消しを要求せず」としていましたし、また、第三国の承認もなされていたのですから、この線での妥協も可能だったと思います。

 この和平条件は、11月2日に広田外相から依頼を受けたディルクゼン駐日ドイツ大使が、駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石に示した仲介案(「満州国の事実上の承認=黙認」が「満州国の承認」となっているほか船津案とほぼ同じ)にも引き継がれていました。しかし蒋介石は、ブラッセル会議(蒋介石はこの会議で対日制裁が決議されることを期待していた)を理由にこの申し出を断りました(11月5日)。その後同会議が見るべき成果なく閉会したので、蒋介石はあらためてドイツの仲介案を取り上げることにしました。12月2日、蒋介石は会議に出席していた各将領の意見を聞きましたが、白崇禧は「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」と疑問を呈しました。

 他の将領もこれだけの条件なら受諾すべしと答えました、しかし蒋介石は「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつも、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」としました。しかし「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」とトラウトマンに要望しました。(『広田弘毅』p302)

 トラウトマンより連絡を受けたディルクセン駐日独大使は12月7日広田を呼び、「中国側では日本側提示の条件として交渉に応ずる用意がある。ついては先にお示しになった条件のままで話を進めてよいか」と訊ねました。広田は早速近衛総理及び陸海両相と会談しこの件をはかるといずれも意義なく賛成だといいました。ところが翌朝杉山陸相が広田を訪れ「ドイツの仲介を断りたい.近衛総理も同意である」と申し出てきました。そこで和平条件案が12月14日の連絡会議にかけられましたが、原案を支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、近衛首相は沈黙を守り、そのため多田、末次、杉山、賀屋らの異論により条件が加重され、戦費賠償まで加えられました。(『廣田弘毅』廣田弘毅伝記刊行会p302~303)

 最終的にこれが閣議決定されたのは12月23日ですが、このように日本側の態度が強腰になったのは、上海の激戦や(3/27挿入)南京陥落により国民が刺激され、対華強硬世論が盛り上がってきたことが原因と考えられます。というのは、11月13日から始まった上海戦は、14日の中国空軍による第三艦隊に対する先制攻撃で開始され、また、中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築、訓練、作戦指導を受けており、ドイツ製の優秀な武器を持って日本軍と戦い、日本軍に膨大な犠牲をもたらしたからです。この模様は同盟通信の松本重治によると「上海の戦いは日独戦争である」というほどのものだったといいます。

 そのため、上海での戦闘(「上陸作戦」を訂正3/29)に三ヶ月もかかり、この間の日本軍の戦死傷者は四万一千名に及び、日露戦争の旅順攻略に匹敵するほどでした。こうした予想だにしなかった事態を、日本軍はどれだけ事前に把握していたか。廬溝橋事件後のいわゆる一撃派は「一撃で中国軍が簡単に降参する」と見ていました。また、当時の支那通も上海付近の要塞化にさしたる注意を払いませんでした。それは日本軍の伝統的な支那人蔑視観が判断をあやまらせたともいえますが、最大の理由は、まさか支那との全面戦争になるとは思っていなかったからではないかと思います。

 こうした上海戦の犠牲の大きさを考慮すると、それ以前に構想された和平条件を、そのまま南京陥落後の和平条件とすることは無理だったのではないかと思います。蒋介石の12月2日の言葉を見れば、こうした事態を当然の如く予測し、調停が成功しないことを見越していたように思われます。それより問題なのは、白崇禧の「これだけの条件だと何のために戦争しているのか」という言葉です。つまり日本側の条件で懸案となるのは「満州国の承認」だけで、そして、これだけなら戦争の必要はなく、満州事変以降の外交交渉で十分解決可能だったということになるからです。

 よく、トラウトマン和平工作の打ち切りに際して、参謀本部が強硬に交渉の継続を主張し、これに対して米内海相が「参謀本部は政府を信用しないというのか。それなら参謀本部がやめるか、内閣がやめるかしなければならぬが・・・」という会話が引用され、日中戦争を長期化させた責任は参謀本部ではなく米内や文民たる政府である、との主張がなされます。しかし、かりにこの交渉を継続しても、蒋介石がこの加重された調停案を呑むことはなかったでしょう。参謀本部はこの時あえて昭和天皇に帷幄上奏を試みましたが、天皇はこれを受け入れませんでした。私はこれは当然だと思います。

 この時天皇は、閑院宮参謀総長に対して「どういうわけで参謀本部はそう一時も早く日支の間の戦争を中止して、ソビエトの準備に充てたいのか。要するにソビエトが出る危険があるというのか。」と問い、「それなら、まづ最初に支那なんかと事を構えることをしなければなほよかったぢゃないか」といっています。蒋介石は「日本が軍事的優勢をカサに着て、条件の加重をはかろうとしたため、交渉を重ねた末、中途で打ち切られた。」(『蒋介石秘録(下)』p225)と言っていますが、この条件加重を強硬に主張したのは多田参謀次長らであり、そもそも日中関係をさらに悪化させた華北五省分離宣言(「多田声明」)をしたのも彼でした。

 いずれにしても、上海事変以降の蒋介石の持久戦を想定した抗戦意志は明確であり、南京陥落後に和平交渉が成立する可能性は全くなかったと思います。仮に、日本が、上海事変が起こる前に中国側に提示したものとほぼ同じ条件で南京陥落後のトラウトマン調停に応じた場合、上海戦が中国軍のイニシアティブによるものであることや、それまでに日本軍の払った人的犠牲の大きさを考慮すると、これに憤激する国内世論は誰にも押さえられなかったでしょう。ではどこで間違ったか。いうまでもなく、それは、1935年当時の蒋・広田間の日中和平交渉の段階であり、せっかく蒋介石より日中関係改善の処理方法が提案されたのに、軍部がこれを妨害し華北五省分離工作を強引に推し進めたからというほかありません。

 そこで、「なぜ日本は中国と戦争をしたか」という本稿のテーマに沿って、その根本原因を探るならば、それは、満州事変以降華北分離工作において観察された、関東軍将校をはじめとする軍人らの特異な行動パターンを常習化させたものは何か、を問うことになります。一体、彼らはなぜ、蒋介石による中国の国家統一をあれほど恐れたのか、なぜ、彼らは満州国承認問題で中国の宗主権を認めようとしなかったのか。また、なぜ彼らは、武力を背景とする示威行動において、あれほど自制心を失ったのか。

 おそらくその原因は、まず、中国を他者(国)として認識する力が欠如していたということ。次に、満州国成立の正当性に自信を持てなかったということ。最後に、当時の青年将校たちが、大正デモクラシー下の軍縮に由来する軍人蔑視の社会的風潮に深刻な被害者意識を持ち、そこに当時の革新思想である国家社会主義が強烈なアピール力を持って作用したということ。さらに、それが日本の伝統的な一君万民・天皇親政を理想とする尊皇思想(これが明治維新のイデオロギーとなった)によってオーバーラップされた結果、殉教者自己同定さらに自己絶対化へと進んでいった・・・そういうことではなかったかと、私は思っています。(つづく)

2009年3月18日 (水)

なぜ日本は中国と戦争をしたか5

 前便で、満州事変の基本的性格について、それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させたものだということを申しました。また、その担い手となった軍人たちの心理的背景として、ワシントン会議以降の軍縮がもたらした軍人軽視の社会風潮、それに対する憤懣があったことを指摘しました。折しも、金融恐慌(s2.3.15)、世界恐慌(s4.10.25)、金解禁(s5.1.11)などが重なり日本経済は深刻な経済不況に陥り、軍部はその原因を自由主義経済の破綻や政党政治の腐敗に求めました。また、これらの問題と合わせて日本の人口問題や資源問題さらにはソ連の脅威に対処するためには「満洲領有」が必要であり、そのためには国内政治の抜本的改革が必要であると訴えたのです。

 こうした「満蒙問題」に関する国民啓発運動は昭和6年6月頃から活発化しました。まず、満州青年連盟が「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民とを鞭撻し国論を喚起するため内地に遊説隊を派遣しました。関東軍も板垣を帰京させ「機会を自ら作り満州問題の武力解決」を図る石原構想をもって軍中央の一部将校(永田、岡村、建川など)の説得に当たりました。また、陸軍も国防思想普及運動を全国的に展開し「時局講演会」を各地で開催し、満蒙の領有が土地問題の抜本的解決になること、極東ソ連軍の脅威、日本の満洲権益がワシントン条約で放棄(?)させられたこと、張学良政権の排日政策によって日本の正当な満洲での権益が損なわれていること等を国民に訴えました。

 そこに、前回紹介したような中村大尉事件(1931.6.17)や万宝山事件(1931.7)が発生し、国民世論は一気に対支強硬論へと急展開していったのです。特に、中村大尉事件の公表以降は、政友会はいうまでもなく、貴族院各派さらに民政党内にも「中村事件を幣原外交の失敗と見なし」「あえて軍部の強硬意見を非難しない」というような情況が作り出されました。しかしながら、外務省はあくまで「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」を堅持しており、また、南陸相のもとに省、部中堅層を集めて作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)でも、満洲で軍事行動を起こす場合も、閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、これを是認せしむるよう努力する」としていました。

 にもかかわらず、9.18満州事変の勃発となったわけですが、そのことについて私は前回次のような問題点を指摘しました。「この結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。もう一つは、関東軍の暴走に対して政府の歯止めが利かなくなったということです。」つまり、この時ビルトインされたこの二つの難問を解くことが出来なかったことが、日本を泥沼の日中戦争そして太平洋戦争へと引きずり込んでいく足かせとなったのです。しかし、当時、この問題点に気づいた日本人はごくわずかしかいませんでした。いや、現在においてもこの点が十分認識されているとはいえません。

 というのは、事変直後の9月19日の陸軍中央部(金谷参謀総長、二宮参謀次長、南陸相、杉山次官、荒木貞夫教育総幹部本部長)の方針は全満州の軍事占領ではなく、条約上における既得権益を完全に確保する、というものでした。また10月8日の段階でも「独立案」には進んでおらず「中国中央政府と連携を認める地方政権」ということで陸軍三長官の意見は統一され、政府の方針もその方向で統一されつつありました。

 ところが、関東軍の方では、早くも九月二十二日に軍参謀長三宅少将(13期)以下土肥原賢二大佐(16期)、板垣征四郎大佐(16期)、石原中佐、片倉衷大尉(31期)らが集まり、「軍年来の占領案より譲歩し、中国本土とは切り離した親日政権、宣統帝を頭首とする独立政権を作ること、内政などは新政権が行うが、国防、外交は新政権の委嘱という形で日本が握ること」などの要点で話が決まっていました。

 結局、「この満蒙処理の構想に関する限り、現地関東軍が押し切り、東京の軍中央部も政府当局も、これに引きずられていったわけである。勿論、世論の強硬論が関東軍の案を支持した。満洲で一発撃たれると同時に世論はがらっと変わって、軍を支援する形に動いていった。この時風は完全に変わり、今までの陸軍に対する逆風は追い風になった」のです。(『陸軍の反省』加登川幸太郎p40)

 加登川氏はこれに続けて、自らの元陸軍省軍務局軍事課参謀としての体験を踏まえて、彼自身の反省の弁を次のように述べています。

 「私は満州事変は当然のことを当然のこととしてやったんだといったが、さて、ここの段にいたって、私は日本は「攻勢移転」したとたんに『攻勢の限界点を越えた』と思っている。日本は全く後戻りの出来ない袋小路に首をつきこんでしまったからである。

 これからあとは私の愚痴である。例として引くにはおかしいが、すでに述べたように、一九一一年(明治四十四年の辛亥革命のとき)、外蒙古は清朝衰亡の機に、帝政ロシアの使喉を受けて清国からの独立を宣言し、大蒙古国と称した。

 翌明治四十五年には帝政ロシアは、露蒙条約を結んで蒙古独立を支持し、土地借款などの特権を得た。当時の中国にとっては大問題であった。だがその後、既成事実として「自治」を認め「名」をとる妥協の余地があった。それは一九一三年(民国二年)に至って袁世凱政権のもとで外蒙古に関する露中宣言となって、中国は蒙古の自治を承認し、ロシアは中国の対蒙宗主権を承認するという解決法であった。

 中国は、なくなった『実』は何ともならなかったが、『宗主権』という『名』をとって『面子』を保った。外蒙古はロシア革命後に、永久に中国の手を離れてしまったが、それはまた違った事態である。帝政ロシアの侵略の手を学べというのではないが、巧妙な解決策が残っていた。日本も、武力侵略を決意したにしても中国側に『宗主権』という妥協の余地を残すだけの含み、余裕がとれなかったものであろうかと私は今でも思っている。

 それにしても、溥儀を担ぎ出したことが、まずかった。かつぎ出した以上『執政』としてもひっこめる余地が少ないだろうし、ましてこれを『皇帝』としたのではもうひっこめる手はない。中国政府との間に『面子』に関する解決不能の難題を作ったことになったのである。(この満州国という難題が、ついに日本の敗戦まで続いて日本はニッチモサッチもいかなかったのである)」

  もちろん、満州国が、東京裁判の宣誓供述で石原莞爾が述べたように「東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもの」なら問題はありませんでした。しかし実際は、石原莞爾自身当初は満洲を武力占領するつもりであり、しかし、軍中央の反対に会ってやむなく「満蒙の支那本部よりの独立」に妥協したのでした。しかし、この間の事実を認めれば、国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約違反を問われる恐れがあったので、満洲国の独立は、あくまで、張学良が悪政故に満洲の民衆の支持を失った結果であり、「民族自決」の原理によって国民政府から独立したものである、と説明したのです。

 だが、これが詭弁であることはいうまでもありません。そして日本政府もこの主張の無理を承知していました。また当然のことながら、この事変を企図した者たちもそれを自覚していたので、それが柳条湖の鉄道爆破という謀略で始まったという事実を戦後に至るも隠し続けたのです。その結果、陸軍そしてそれに引きずられて日本政府もそして国民も「満州において日本が軍事行動をとったのは、張学良=支那が条約により日本に認められた権利を尊重しなかった結果であり、日本は自らの権利を守るためやむなく自衛行動に立ち上がったのである」と主張し続けることになったのです。

 では、こうした、いわば「ゴルディアスの結び目」から日本が逃れる方法はあったのでしょうか。実はそれは甚だ簡単なことで、加登川氏も指摘するように、満洲に対する中国の宗主権を暗黙にでも認めればそれで済むことでした。そうすれば、上に述べたような日本の言い分にもスジが通ってきますし、日本国の名誉も守ることができたのです。しかし残念ながら当時の陸軍にはそれができませんでした。そして、この問題をあくまで武力を背景に中国側の犠牲において処理しようとしたのです。つまり、中国が「満州国を承認する」という形で問題解決を図ろうとしたのです。

 ではなぜ、そんな道義にもとることをしたのでしょうか、また、なぜその過ちに最後まで気づかなかったのでしょうか。もし、関東軍がこれを初めから中国を侵略する目的でやったのなら、むしろ堂々と公言した方が少なくとも論理的には(下線部挿入3/27)スッキリしたのに、一方で戦争を継続しながら日支親善を言い中国に対して抗日を改めろと言い反省を求め続ける、この不思議さ。このことについて岸田国士は、昭和14年に出版した彼自身の著書『従軍五十日』で、この間の両者の心理を次のように説明しその解決策を提示しています。

 「平和のための戦争といふ言葉はなるほど耳新しくはないが、それは一方の譲歩に依って解決されることを前提としている。ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもって強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによったといふ結果になっている。

 かういふ表現は多少誤解を招き易いが、平たく砕いて云へばさうなるのである。支那側に云はせると、日本のいう親善とは、自分の方にばかり都合のいいことを指し、支那にとっては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かかる美名のもとに行われる日本の侵略を民族の血をもって防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらいの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。そこで、事変勃発以来、日本の朝野をあげて、われわれの真意なるものを、相手にも、第三国にも、亦、自国国民にも、無理なく徹底させ、納得させるやうに努めて来、また現に努めつつあるのであるが、問題がやや抽象的すぎるために、国民以外の大多数には、まだ善意的な諒解が十分に得られでゐないやうである。

 これは考へてみると、わからせるといふことが無理なのである。なぜなら、日支の間に如何なる難問題があったにせよ、それが戦争にまで発展するといふことは常識では考へられない。すなはち、民族心理の最も不健康な状態を暴露しているわけで、そのうへ、両国の為政者自らが、それに十分の認識があったかどうかは疑わしいからである。戦争になつたことを今更かれこれ云ふのではない。戦争がさういふ危機を出発点とすることはあり得るし、戦争によって、何等か打開の這が講ぜられる期待はもち得るのであるけれども、この事変の目的とか、性質とかを吟味するに当つて、これを意義ある方向へ導くための国家的理想と、その現実的な要素を分析した科学的結論とを混同することによつて事変そのものの面貌があやふやな認識として自他の頭上に往来することは極めて危険である。

 欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について、支那側の云ひ分に耳を藉すことでなく、日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。私は、ここで今更の如く外交技術の巧拙や経済能力の限度を持ち出さうとは思はぬ。われに如何なる誤算があったにせよ、支那に對するわが正当な要求はこれを貫徹しなければならぬ。が、しかし、戦争の真の原因と、この要求との間に、必然の因果関係があるのかないのか、その点を明かにしてこれを世界に訴へることはできないのであらうか?

 一見、支那の抗日政策そのものが、われを戦争に引きずり込んだのだといふ論理は立派に成りたつやうでいて、実は、さういふ論理の循環性がこの事変の前途を必要以上に茫漠とさせているのである。つまり、日本の云ふやうな目的が果してこの事変の結果によって得られるかとうかといふ疑問は、少くとも支那側の識者の間には持ち続けられるのではないかと思ふ。まして、第三国の眼からみれば、そこに何等かの秘された目的がありはせぬかと、いはゆる疑心暗鬼の種にもなるわけだ。ここにも私は、日本人の自己を以て他を律する流儀が顔を出しているのに気づく。

 戦争をあまりに道義化しようとして、これを合理化する一面にいくぶん手がはぶかれている傾がありはせぬか。主観的な意戦論は十分に唱へられているが、客観的な日支対立論とその解消策は、わが神聖な武力行使の真の行きつくところでなければならず、寧ろ、これによってはじめて東亜の黎明が告げ知らされるのだと私は信ずるものである。

 そこで、いはゆる客観的な対立論とその解消策の第一項目として、私は、日支民族の感情的対立の原因の研究ということを挙げたいと思ふ。事変そのものを挟んで、両国の運命は等しく重大な転機に臨んでいるけれども、かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」(同書p108)

 実は、岸田国士がこの文章を書いた昭和14年の時点では、満州事変の真相は国民の前に明らかにされていませんでした(それが明らかにされたのは昭和34年)。もちろん、この事件を企画し満州を武力占領した当事者たちにはその真相は分かっていました。石原莞爾はそれを「最終戦争論」という偽メシア的預言によって(注1)正当化したのです。その意味で石原莞爾こそ、以上説明したような誠に不思議な自己欺瞞的戦争を日本に余儀なくさせた元凶であるといわなければなりません。

 では、日本人全員が石原莞爾に騙されていたのかというと、必ずしもそうとはいえず、むしろ石原莞爾は、そうした当時の日本人の中国人に対する優越した気分(注2)を代弁していただけ(そういう意味では、私は彼が独創的な思想家であったとは到底思えません。3/27挿入)ということも可能なのです。それが、満州事変を機に、それまであからさまに行われてきた軍部批判が、一気に熱狂的な軍部礼賛へと転化したというもう一つの不思議を説明する、最も説得的な解釈ではないかと思います。

 もちろん、日本人の支那人に対する優越感が、支那人の自尊心を傷つける行動につながっていたのと同様、支那人の側にも同じような問題があり、それが日本人の自尊心を煽った側面もあったと思います。しかし、この問題点に先に気づいたのは中国側指導者たちでした。1934年12月20日付『外交評論』紙上に「敵か友か?中日関係の検討」と題する注目すべき論文が掲載され、そこには「一般に理解力ある中国人は、すべて、次のことを知っている。すなわち、日本人は究極的にはわれわれの敵ではない。そして、われわれ中国にとって、究極的には日本と手をつなぐ必要がある」と記されていました。
 (注:それは蒋介石の口述したものをその最も信頼する第一侍従室長の陳布雷に筆記させたものだったといいます。)(『上海時代(上)』松本重治p286)

 ここから、満州事変勃発以来初めての、日中親善に立脚した日中国交回復が、蒋介石と広田外相の間で真摯に模索されることになったのです。しかし、こうした慶賀すべき動きに対して、関東軍は執拗に妨害工作を繰り広げました。こうして、軍部も含めた日本側も、そしておそらく中国側も(注3)望まなかった日中戦争へと、ほとんど運命的に突入していくことになるのです。岸田国士は「かかる根本問題について、なほよく考慮をめぐらす余裕のあるのは、彼でなくして我である。」と言いました。しかし、日中全面戦争に突入する以前において(下線部3/23挿入)その余裕を見せたのは中国人であり、これに応える余裕を持たなかったのは日本人だったのです。(つづく)

注1:「それをもって、そうした手段に訴えることに逡巡する「仲間たち」をミスリード」部分を削除3/27。

注2:「つまり『侵略をも恩恵と見なし、その恩恵を抗日という仇で返す中国を、懲らしめる』といった倒錯した当時の日本人の気分」部分を削除3/27

注3:「誰ひとりとして」を削除3/27

2009年3月 8日 (日)

なぜ日本は中国と戦争をしたか4

 前回、昭和の悲劇は「満州問題」を外交的に処理できなかったことによりもたらされた、と申しました。結局それは、陸軍の伝統的な大陸進出(=領有)論と国内政治の国家社会主義的革命(=軍部独裁)論とを結合させた満州事変によって処理されることになりました。その結果、外交上二つの難問が生じることになりました。一つは、満洲に対する中国の主権を否定したこと。(これがその後の「満州問題」の処理をどれだけ困難にしたか)もう一つは、関東軍の独走に対して政府の歯止めが掛からなくなったということです。(これが日本に「二重外交」をもたらし、その国際的信用を地に落とした)

 重ねて申しますが、「満州問題」は確かに存在しました。これは、前回紹介したような国民党の王正廷外交部長がおし進めたいわゆる「革命外交」、その余りに性急な、既成条約を無視した国権回復の主張や、さらに満州における張学良の露骨な排日方針に起因するものであったことは間違いありません。これが幣原外交に対する国民の信頼に決定的な打撃を与える一方、軍部の「満州問題」の武力解決、その伝統的な大陸進出論に弾みを与えました。といっても、当時(満州事変前)の国民は必ずしもこうした軍の強硬策を支持していたわけではありませんでした。

 この事実は、以前、私が「日本近現代史における躓き」で「満州問題」を論じたとき(今もその続きをやっているわけですが・・・)に紹介したような、松岡洋右(昭和5年まで満鉄副総裁をしていた)の次のような言葉でも確認することができます。

 「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義=筆者)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向に気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びはむしろ頑迷固陋の徒の如くに蔑まれてさえ居た。これは事実である。国民も亦至極呑気であった、二回迄も明治大帝の下に戦い、血を流し、十万の同胞を之が為に犠牲にした程の深い関係のある満蒙に就てすら、全く無関心と謂って宜しいような有様であった。情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」(『興亜の大業』松岡洋右p78)

 更に興味深いことには、当時、在満邦人の自治拡大と利益擁護をめざした「満州青年連盟」――その第二回議会で「満蒙自治案」が提起された――の有力メンバーであった小沢開作(小澤征爾氏のお父さん)が、その「満蒙独立論」について石原莞爾との会話で次のように自説を展開していることです。(満州事変が起こった少し後の頃の会話)

 石原「ほほう、そうして満蒙を日本の権益下に置こうというのですか、小沢さん」

 小沢「冗談じゃない、私は日本の官僚財閥ではありません。満蒙を取っても三、〇〇〇万民衆の恨みを買ってどうします。いや三、〇〇〇万民衆ばかりではない、中国四億の漢民族は日本を敵とするでしょう。欧米人の圧迫に目醒めたアジアの諸民族は、日本を欧米諸国以上に憎むでしょう。そんなバカらしい権益主義は改革すべきです。」

 石原「すると小沢さんは、大アジア主義者で満蒙を独立国にしようというのですか」

 小沢「満蒙独立国の建設は満州青年連盟の結成綱領です。その実現のために出来たんです。(中略)新国家の建設は、私たち日本人がやるんではなくて、三、〇〇〇万民衆にやらせるんです。そこが帝国主義と民族共和の違いです。」

 石原「廃帝溥儀を、満洲の皇帝に持ってくるという方策をどう思いますか」

 小沢「バカらしい、溥儀のために死ねますか。私ばかりではない、三、〇〇〇万民衆の八〇%は”滅満興漢”の中国革命を信奉している漢民族です。溥儀なんかを皇帝に持ってきたら新国家はできませんよ」(『昭和に死す 森崎湊と小沢開作』松本健一p160)

 つまり、満州における居留日本人の立場から「満蒙独立論」を唱えた彼らの思想は決して、満蒙権益擁護論でもなければ、ましてや満洲占領論ではなかったのです。それはあくまで、「隣邦の国民自身が自主的に永遠の平和郷を建設せむとする運動に対して、個々の我等が善隣の誠意を鵄(いた)してこれを援助せしむるものである。換言せば、国家的援助に非ずして、国民的援助である。従って外交的問題の起こるはずがない」(上掲書p150)とするものでした。(この小沢の慈善的ロマンティシズムは、まもなく関東軍によって裏切られ、小沢はこの運動から手を引くことになります)

 では、当時、このように一向に国民の「気乗りのしなかった」満蒙問題が、一転して国民の関心を引くようになったのはなぜでしょうか。山本七平は、「中村大尉事件」(満州事変の直前のs6.6.27に、満洲で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長らが殺された事件)が当時の世論に及ぼした決定的影響について次のように述べています。

 「当時の人の思い出によると、満州問題についてそれまで比較的穏健な論説を張っていた朝日新聞が、これを契機に一挙に強硬論に変わったそうである。そうなると世論はますます激昂し、ついに『中村大尉の歌』まで出来た。

 一方政府にしてみれば、何しろ犯人が明らかでないから、動けない。すると・・・『内閣のヘッピリ腰』を難詰する『世論』はますますエスカレートした。・・・昂奮の連鎖反応で国中がわきかえっているとき、やはり(張学良軍によって殺害されたのではという=筆者)『第六感』があたっていた。もう始末におえない。そして柳条溝(湖)鉄道爆破から、満州事変へと突入していく。

 これを後で見ると、非常に巧みな世論操作が行われていたように見える。というのは、この状態でもなお、関東軍の首謀者は『世論』の支持を四分六分で不利と見ていたそうだから、当然中村大尉事件がなければ『世論』の支持は得られず、満州事変は張作霖事件のような形で、責任者の処罰で終わっていたであろう。」(『ある異常体験者の偏見』「マッカーサーの戦争観」p160)

 にわかに信じられないような話ですが、この中村大尉事件が「満州事変」を支持する方向で国内世論を一気に急転回させたその不思議について、戦後、山本七平のいた収容所内では、「中村大尉事件も軍の陰謀で日本軍の密命で中国軍が殺したのだろうと極論する人までいた」といいます。(事実はそうではありませんでしたが・・・)

 では、これは日本人にとって単なる「不幸なアクシデント(偶然の事件)」だったのでしょうか。山本七平は、そのようには見ないと、当時の「金大中事件」(s48.8.8)に対する日本の世論の激昂ぶりや、南京攻略時のパネー号撃沈事件における日本人の反応を例に挙げて、次のように自説を展開しています。

 「こういう事件は、もちろん全く予期せずに起り、予期せずに起るがゆえに「突発事件」なのである。そして、これが他国に起因する場合は、日本人自身がいかに心しても、日本人の意思で、その突発を防ぐことはできないわけである。そこで、昔も今も起ったように今後も当然起るであろう。従って問題は、そういう事件が起るということ自体にあるのでなく、むしろ、起った場合に、その「事件は事件として処理する能力」が、われわれにあるか否かが、今われわれが問われている問題だ」と思う。

 そしてもう一つは、たとえ相手がこういった事件を「事件は事件として」処理したにしても、それが常識なのであって、それを、相手が屈伏したと誤解したり、相手を「弱腰だ」と見くびったりしてはならないこと、そしてこの点においても昔同様の誤りをおかすかおかさないか、ということが最も大きな問題だと私は思う。

 太平洋戦争中、「アメリカなにするものぞ」といった激越な議論の根拠として絶えず引合いに出されたのが「パネー号事件」であり、「自国の軍艦を撃沈されても宣戦布告すら出来ない腰抜けのアメリカに何かできるか」と「バカの一つおぼえ」のように言われ、今でも耳にタコが出来ているからである。

 これは南京攻略のとき、揚子江上にいたアメリカの砲艦パネー号を日本軍が撃沈し、レディバード号を砲撃した事件である。奇妙なことに最近の「南京事件」の記事からは、このパネー号事件は完全に消え去っているが、当時はこれが最大事件で「スワー 日米開戦か?」といった緊張感まであった。」

 「主権の侵害」というのなら、交戦状態にない他国の軍艦を一方的に撃沈してしまうことは、撃沈された方には実にショッキングな「主権の侵害」であり、艦船をその国の主権内にある領土同様と見るなら一種の侵略であって、これの重大性は到底金大中事件の比ではない。今もし韓国によって日本の自衛艦が砲撃され撃沈されたら、一体どういうことになるか。金大中事件ですらこれだけエスカレートするのだから、おそらく「日韓断交型」の「世論」の前に、他の意見はすべて沈黙を強いられるであろう。それと等しい事件のはずである。

 だが当時アメリカはそういう態度に出ず「事件は事件として処理した」。これを日本の「世論」は「笑いころげずにいられないアメリカ政府のヘッピリ腰」と断定した。これは日本政府がそういう態度に出れば、これを弱腰と批判するその基準で相手を計ったことを意味している。それが対米強硬論の大きな論拠となるのであり、確かに日本の世論が方向を誤る一因となっている。従って今回の事件も、韓国がこの事件を「事件は事件として」処理した場合、日本の「世論」がこれをどう受けとめるかは、私には非常に興味がある。

 個人であれ国家であれ、問題の解決が非常にむずかしいのは、むしろ「相手に非」があった場合であろう。この場合のわれわれの行動は、常に、激高して自動小銃にぶつかるか(反撃するという意味=筆者)、はじめから諦めるか、激高に激高を重ねて興奮に興奮したあげく、自らの興奮に疲れ果てた子供のようにケロッと忘れてしまうかの、いずれかであろう。といっても私は別に他人を批判しているわけではない。いざというとき、自分の行動も似たようなものであったというだけである。」(上掲書)p162~163)

(一パラグラフ削除3/27) 

 実は、こうした日本人の「事件を事件として冷静に処理」することの出来ない弱点が、1927年の北伐途上の国民革命軍が引き起こした第二次南京事件、1928年の済南事件、そして、中村大尉事件、万宝山事件の処理にも典型的に表れているのです。そして、これらの事件を重ねる毎に日本人の対中国感情が悪化し、また、その時の行き過ぎた日本人の反応が新たな悲劇を生み、さらにそれが中国人の対日感情を悪化させるという、悪循環を生むことになったのです。こうして、日本人も中国人も望まなかった日中戦争へと突入して行くことになるのです。

 ところで、こうした悪循環の起点となった第二次南京事件に対する日本の対応が、幣原外交を「軟弱外交」「弱腰外交」と批判する一般的風潮を生むことになりました。こうした批判は、今日ではほとんど通説化していて、名著『太平洋戦争への道(一)』「ワシントン大勢と幣原外交」でも、「彼はあまりに人間性を偏重し、満蒙にたいする日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と満蒙問題にからむ内政面への顧慮とを欠いていた。しかも彼自身はその合理主義へと世論を誘導する政治力を持たなかったのである。」と批判されています。

 だが、本稿で紹介したように、満蒙に対する当時の日本人一般の感情が一体どのようなものであったか、それが何故に満州事変を指示する方向で急展開したか、また、軍部の満蒙問題をめぐる非合理的感情というものが、一体どのようなものであったかを見れば、こうした批判は私は当たらないと思います。というのは、ではこの局面において、「満州問題」の解決のために有効な他のどのような方策があり得たか、ということです。その代案の一つが、田中義一内閣の武力を背景とする「積極外交」だったはずですが、それがいかなる惨憺たる結果を招いたか。

 第一次山東出兵、それに続く第二次山東出兵は済南事件(日本軍の謀略・煽動の疑い濃厚)を引き起こし、それが中国人に、あたかも日本が中国の国家統一を妨害しているかのような印象を与え中国の排日運動を激化させました。さらに、張作霖爆殺事件――この無法極まるむき出しの暴力主義を生んだのも田中「積極外交」でした。そして、その真相(すでに周知の事実となっていた)を陸軍は組織をあげて隠蔽した。この人を馬鹿にした不誠実極まる事件処理が、父を爆殺された張学良に、日本に対するどれだけの不信と恨みを植え付けたか・・・。

 その田中「積極外交」が遺した支那本国や満州におけるの排日運動激化の責任を、なぜ幣原が負わなければならないのか。第二次若槻内閣における幣原の無策を責めることは簡単ですが、では、当時の、支那の革命外交や張学良の排日政策が進行する中で、幣原や重光が唯一取り得るとした「堅実に行き詰まらせる」方策以外に、はたしてどのような方策があり得たか。この「堅実」策が最終的に何を想定していたかについては、前便で守島伍郎の解釈を紹介しましたが、幣原は既に昭和3年9月17日の段階で次のようにその所信を述べています。

 「私は満洲の権益は、東三省の政治組織如何によって左右されるやうな薄弱なものではないと思う。だから、政治と経済を混同してはならないといふのだ。第一国民政府が満州に進出して、特に我国の権益を脅かすような不謹慎的行動に出るとすれば、その時初めて我政府は否と返答すればよい。真に帝国の存在を無視するが如き態度に出るにしても執るべき手段は幾らでもある。」大切なのはそれに至る手続きだ。「徒に小細工を弄し、列国をして侵略的なる疑問を抱かせるような方策に出ることは、他を傷つけると共に自分を傷つける不明の策であって、外交の妙諦を解せざるものである」(大阪日華経済協会「幣原招待懇談会」における田中外交批判演説要旨、『幣原喜重郎』p366)

 なお、先に述べた幣原外交批判の嚆矢となった第二次南京事件における現地軍の無抵抗主義は、実は、幣原が指示したものではなく、当地の本邦居留民が「尼港事件」の二の舞を恐れて海軍部隊長に隠忍を陳情したことによって執られた措置でした。幣原がこうした局面における軍の統帥事項に容喙するはずもなく、もし本当に政府がこの時無抵抗主義を現地領事館に指示していたとしたら、いち早く居留民の引き揚げを断行していたはずだ、と幣原はいっています。(「外交管見」『幣原喜重郎』所収p322)

 しかし、こうした「穏忍自重」の対応策は、その被害についての誇大報道もあり、国内において激しい批判の対象となりました。そして、それがあたかも幣原の「対華不干渉主義」「対華親善政策」の結果である如く喧伝されました。しかし、日本が排外暴動の対象となったのは実はこの時が初めてで、それまではイギリスがその対象とされたのです。また、この時の暴動は、国民革命軍内部のソビエトに指導された共産主義分子が、共産党排斥の旗幟を鮮明にした蒋介石を打倒するため、意図的に引き起こした領事館襲撃だったといいます。

 こう見てくると、一体、幣原の外交方針のどこに間違いがあったのか。「日英同盟を廃棄してこれを四カ国条約に代えた」ことや、「九カ国条約に謳う門戸開放・機会均等主義が日本の満蒙における特殊権益と政治的に両立しない」ことなどが批判されますが、「日本が九ヵ国条約に敵意を抱いたのは満州事変以降のことであり」、それまでは、それが「中国の排日感情を和らげ、列国の疑惑を解くため必要な実利政策である」(『太平洋戦争への道(一)』p37)として、当時の政府が一致して支持してきたものなのです。四カ国条約についても、集団安全保障体制であり無力だということは戦後判ったことだし、仕方ないのではと思います。(3/28追加)

 また、こうした幣原の外交方針が、その後の世界恐慌による自由市場の閉鎖化や、ソ連共産主義の台頭、国民党の革命外交や張学良の排日政策に有効に対処するものでなかった、などとも批判されますが、では、これらに対応できるどのような外交方針がありえたか。それは結局、ワシントン体制下の世界秩序――軍縮から外交交渉による国際紛争の解決の方向、デモクラシーと自由民主主義の方向に国民を導いていく、ということではなかったか。だとすれば、「満州問題」を巧みに利用することで、満洲領有と軍部独裁を同時に実現しようとした軍部に、どのように対抗し得たか。

 あるいは、そうした幣原とは違う軍部とのつきあい方(3/27挿入)を試みたのが広田弘毅であり近衛文麿ではなかったか。彼らこそ「日本人一般、ことに軍部の非合理的感情への評価と、満蒙問題にからむ内政面への顧慮」に注意を払いつつ、内交的外交を展開した人たちではなかったか。そしてそれは見事に失敗した。そう見ることができるのではないか、私はそう思っています。 (つづく)

2009年2月27日 (金)

なぜ日本は中国と戦争をしたか3

 満州事変にこだわって記事を書いていますが、それは、私が、「昭和の悲劇」は日本がこの事件を外交的に処理できなかったためにもたらされた、と考えているからです。この問題を考える際のポイントは、この満州事変と「満州問題」とを区別するということです。確かに「満州問題」は存在しました。しかし、その解決策としての満州事変は決して必然ではなかった。それは多分に、日本の国内事情、一つは「軍縮問題に起因する軍人の国内政治に対する不満」や、第一次世界大戦以降世界の五大国の一つに列することになって以降の「日本人の慢心」と「中国蔑視の感情」にその主たる原因があった、と考えるからです。

 私は先に、「なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか2」で、幣原と陳友仁との間に「満州問題」処理についての確認書が交わされたことを紹介しました。さらに陳友仁は、満州事変が起こった後も、上海の須磨總領事を通じて幣原に書簡を送り、「満洲事変は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張学良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と幣原に意見を求めてきたことも紹介しました。

 ここで、陳友仁の言うハイ・コミッショナー制度というのは、「満洲に対して支那が単に宗主権を持ち、そのノミナルな支那の承認の下に、日本が任命するハイ・コミッショナーによって満洲の施政を行う仕組み」のことです。この時は具体的な話には至っていませんが、そのポイントは、満州の対する中国の宗主権の承認を前提に、日本が任命するハイ・コミッショナー(=高等弁務官)による満州の施政を認める、ということです。満州事変で張学良が満州からいなくなれば、その実現が容易となり、これによって「満州問題」を解決できる、というのです。

 では幣原は、「満州問題」をどのようなものと考えていたかというと、これは前述の記事の中でも紹介しましたが、その時の確認書ではその第四項に次のように述べられていました。(これをみれば、幣原は「満州問題」に対して決して弱腰ではなかったことが判ります。)

 「四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意図なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により附与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経営及び運行は同鉄道の破滅を企図する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。

 一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来れる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に関する取極にして成立するに於いては、之を既成事実として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。」

 では、なぜそのような要求がなしうるかというと、
 「即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。

 第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当たり満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し当時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事実を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。

 第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。」

 幣原外相はこうした「満州問題」の処理についての基本認識をもとに、重光葵を代理公使としてこの問題の解決にあたらせました。重光は、田中外交の混乱を一掃して、北京関税会議以来の幣原外交を継続し、「まず関税問題を解決し、西原借款の債務問題に目鼻をつけ」「支那本土についてまず不平等条約の改訂を進め、これを機として日支関係の全般的改善を計り、その結果改善された空気の下に、困難なる満州問題を解決」しようとしました。実際、これによって日支関係は急速に改善し、国民政府とも良好な関係を樹立して、日支関係が軌道に乗るかに見えました。

 しかしながら、「日本は、折角立派な方針を立てながら、政府機関に統一がなく、軍部は干渉を恣にし、政党は外交の理解がなく、世論に健全な支持がないため、幣原外交はある限度以上に少しも前進しない。」「その間、英米と支那側の交渉は急速に進捗し、不平等条約改訂にも目鼻がついて来た。こうなれば支那が『夷を以て夷を制する』事は容易である。支那は・・・英米との交渉がここまで来て成立の域に達すれば、大勢はすでに支那の制するところで、躊躇する日本との交渉はもはや支那側において重要視する必要はなくなった。」(『昭和の動乱上』重光葵p51~53)

 こうした情況の中で、国民党の王正廷外交部長は、「すでに大勢は支那に有利であると観てか、支那の革命外交に関する彼自身の腹案を公表した。これによると、関税自主権及び海関の回収が第一期で、法権の回収が第二期で、租界や租借地の回収を第三期とし、内河及び沿岸航行権の回収、鉄道及びその他の利権の回収を第四期及び第五期としたものである。このいわゆる革命外交のプログラムなるものは、極めて短期に不平等条約を廃棄して、一切の利権回収を実現せんとするもので、列国との交渉が予定期間内に片がつかぬときは、支那は一方的に条約を廃棄して、これら利権の回収を断行するという趣旨であった。」

 さらに「王外交部長は、日本公使たる記者(=重光葵)の質問に答えて、新聞紙の発表は真相を伝えたものであることを肯定し、外国の利権回収はもちろん、満洲をも包含するものであって、旅大の租借権も満鉄の運営も、何れも皆公表の順序によって、支那側に回収する積りであると説明した。記者は、これでは、記者等の今日までの苦心は、或いは水泡に帰するかも知れぬと非常に憂慮した。この王外交部長の革命外交強行の腹案発表は、内外の世論を賑わし、甚だしく刺戟し、幣原外交の遂行に致命的の打撃を与うることとなった。」

 以上のように、日本と支那中央政府との交渉が緊迫した展開を見せる一方、満洲における張学良との関係は悪化の一途をたどっていました。「張作霖を嗣いだ学良は、感情上から云っても、到底日本に対して作霖のような妥協的態度を執ることが出来ず・・・その考え方は極端に排日的であった。彼は日本党と見られた楊宇霆を自ら射殺してその態度を明らかにし、国民党に加盟し、満洲の半独立の障壁を撤し、五色旗を降して国民党の青天白日旗を掲げ、公然排日方針を立て、日本の勢力を満洲より駆逐するため露骨な方策に出て来た。」((上掲書p54~55)

 そのため「日本は満洲において商租権を取得し、鉄道附属地以外においても、土地商租の権利があるが、日本人や多年定住している朝鮮人の土地商租は、支那官憲の圧迫によって、新たに取得することは愚か、既に得た権利すら維持困難な有様であった。満洲鉄道の回収運動も始まった。支那側は満鉄に対する平行線を自ら建設し、胡盧島の大規模の築港を外国(オランダ)の会社に委託して、日本の経営している鉄道及び大連の商港を無価値たらしめんと企図するに至った。これらの現象を目前に見ている関東軍は、その任務とする日本の権益及び日本人・朝鮮人の保護は、外交の力によっては到底不可能で、武力を使用する以外に途はないと感ずるようになった。」(同上p56)

 一方、「当時、日本人は、国家及び民族の将来に対して、非常に神経質になっていた。日本は一小島国として農耕地の狭小なるはもちろん、その他の鉱物資源も云うに足るものはない。日清戦争時代に三千万余を数えた人口は、その後三十年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加がある。この莫大なる人口を如何にして養うかが、日本国策の基底を揺り動かす問題である。海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、更に満洲における経済活動によりこの問題を解決せんとし、また解決しつつあった。もとより、海外貿易はこの点で欠くべからざるものであったが、これは相手あってのことで、そう思うようには行かぬ。」

 というのは、当時「国際連盟は戦争を否認し、世界の現状を維持することを方針とし、これを裏付けするために各国の軍備の縮小を実現せんとした。しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、単に自由主義を空論するのみで、世界は、欧州各国を中心として、事実上閉鎖経済に逆転してしまった。」特に、1929年の世界恐慌以降そうした傾向が顕著になりました。

 つまり、「自由主義の本場英国内においても、帝国主義的傾向に進む形勢であって(一九三二年にはオッタワ協定が結ばれた)、仏も蘭もその植民地帝国は、本国の利益のために外国に対してはますます閉鎖的となるのみであった。かくの如くして、第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は、全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなった。国際連盟の趣旨とする経済自由の原則なぞは、全く忘れられていた。」

 このために日本は、増加する人口を養うための海外貿易の発展に依頼することができなくなり、特に、日本が密接な関係を有する支那との関係においては、「対支貿易は、支那の排日運動のために重大なる打撃を受け、且つ支那における紡績業を宗とする日本人の企業は、これがため非常なる妨害を受くるに至った。・・・支那本土においてのみならず、前記の通り、満洲においても、張学良の手によって甚だしく迫害せられる運命に置かれた。支那の革命外交は、王外交部長主唱の下に、全国的に機能を発揮するに至った。」

 このように、事態が急迫する中で、駐支公使であった重光葵は、「この形勢を深く憂慮し、日支関係の急速なる悪化を防止せんとし、支那本土に対する譲歩によって、満洲問題の解決を図り、もって日支の衝突を未然に防ぐことに全力を尽した。また他方、紛糾せる事態を国際連盟に説明して、日本の立場を明らかにすべきことを主張し、更に日本は速かに徹底したる包括的の対支政策の樹立を必要とする旨を、政府に強く進言した。」(上掲書p58)

 しかし、「浜口首相暗殺の後を継いだ若槻氏の内閣(一九三一年四月)は、当時すでに末期的様相を示し」ており、「記者が具体案の一部として進言した、蘇州・杭州の如き価値の少なき租界の如きは、速かにこれを支那に返還して、不平等条約に対する我が態度を明らかにすべしという主張すら、枢密院の賛同を得る自信なき故をもって却けられた。内閣の閣員中、記者の態度があまりに支那側に同情的なるがために、幣原外相を苦境に陥れることとなると、記者に指摘して注意を喚起したものもあった。

 日本における国粋主義は、すでに軍のみでなく、反対党及び枢密院まで行き渡っておった。ロンドン海軍条約の問題を繞って、軍の主張せる統帥権の確立は成功し、政府は辛うじて条約の批准には成功したが、すでに右傾勢力のために圧迫せられて、政治力は喪ってしまっておった。日本の政界は、未だに暗殺手段を弄する程度のものであった。しかのみならず、幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものであったことは疑う余地はなかったが、その弱点は、満洲問題のごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案を有たぬことであった。

 政府が国家の危局を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力とに欠けておったことは、悲劇の序幕であり、日本自由主義破綻の一大原因であった。かくして形勢は進展し、満洲問題は内外より急迫し、政治性のない政府はただ手を拱いて、形勢の推移を憂慮しながら傍観するのであった。」(同上)(*当時外務省アジア局第一課長であった守島伍郎は「幣原さんが余りハイカラ外交をやるものだから、こんなとんでもないことになってしまった」(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』p35)と慨嘆している。同様に、幣原外交のリアルポリティクスの欠如を指摘する意見は多い。私は必ずしもそうは思わないが。)

 だが、この時、幣原や重光が考えていた方策は「支那問題を中心として、我が国際危機はもはや迫っておる。若し人力の如何ともすべからざるものであったならば、せめてこの行き詰りを堅実なものとせねばならぬ。即ち、如何なる不測の変が現地において突発しても、日本政府は、国内的に国際的にも、確乎たる立場に立って処理し得るだけの準備をする必要がある。政府は、軍部は勿論、国内を統制して不軌を戒め、極力日支関係の悪化を避けつつ、警鐘を打ち鳴らして、世界をして我が公正なる態度を諒解せしむるため全力を挙げねばならぬ。

 支那の革命外交の全貌が明らかになった今日、而して日本政府のこれに対する対応策の欠如せる今日、日支関係は行き詰ることは明らかであり、すでに行き詰るとすれば、外交上の考慮としては、『堅実に行き詰る』ということを方針とするよりほかに途はない。堅実にということは、如何なる場合においても、外交上目本の地位が世界に納得せらるるようにして置くということである。」というものでした。(『昭和の動乱上』p60)

 この外務省の「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」は、同時期、南陸相のもとに満州問題解決のために、省、部中堅層会議において作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)に似ていると、守島伍郎は指摘しています。その要旨は「(A)満州における排日行動激化の結果軍事行動の必要性を予見し、(B)そのためには閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、軍事発動の場合、これを是認せしむるよう努力する」というものでした。(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』p46)

 しかし「満洲においては、万宝山の朝鮮人圧迫事件や、中村大尉暗殺事件のごとき危険を包蔵する事件が、次ぎ次ぎに起ってきた。張学良の日本に対する態度は、強硬で侮辱的であった。記者は、満洲における両国関係の悪化を根本的に救うために、当時南京政府の中枢人物であった宋子文財政部長と協議して、満洲における緊張の緩和方法を計った。

 宋子文と記者とは、当時親密なる連絡をもって、日支関係の改善に協力していたので、ともに満洲に到り、現地の調査を親しく行って、解決方法を見出そうと云うことに談じ合った。宋部長は途中北京に立ち寄り、同地に滞在中の張学良を説得して、日本に対する態度を改めしめ、更に大連において、満鉄総裁で前外務大臣であった内田康哉伯と吾等二人は、鼎座して満洲問題に関する基礎的解決案を作製することに意見がまとまった。

 記者はこの案に対し、政府の許可を得て、宋子文と同行、九月二十日上海より海路北行することに決定し、船室をも保留した、この考案は遂に間に合わなかった。満洲事変は、九月十八日奉天で突如として勃発した。記者は、これに屈せずなお折衝を続け、事変を局地化するために宋子文とともに満洲にいたって、事を処理してその目的を達せんとしたが、日本政府の訓令を待つ間に、事態は燎原の火の如く急速に拡大し、策の施しようもなく、支那は、事件を国際連盟に提訴して、かかる外交的措置を講ずるの余地なきに至らしめた。」(『昭和の動乱』p60~61)

 この時、重光葵が政府に宛てた満洲事変発生当時の電報の一節には、次のようなことが記されています。
 一、今次軍部の行動は、所謂統帥権独立の観念に基づき、政府を無視してなせるもののごとく、折角築き上げ来れる対外的努力も、一朝にして破壊せらるるの感あり。国家将来を案じて悲痛の念を禁じ難し。この上は、一日も速かに軍部の独断を禁止し、国家の意志をして政府の一途に出でしむることとし、軍部方面の無責任にして不利益なる宣伝を差し止め、旗幟を鮮明にして、政府の指導を確立せられんことを切望に堪えず……。(国際法廷記録に依る)(上掲書p61)

 この突然の満州事変の勃発に直面した外務省の林総領事及び森島代理は、「事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東車の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。」(同上p64)

 しかしながら、「張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上が風をなし、関東車は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党に反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。

 若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍も従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫した。若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。

 関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」(同上p65)

 以上、満州事変当時外務省にあって「満州問題」の外交的処理に当たった重光葵の回想を中心に、満州事変前後の日支間の政治・経済状況を見てきました。注目すべきは、こうした情況の中で外務省の取った「満州問題を堅実に行き詰まらせる」という方針は、「あくまで日本は支那に対して、治外法権問題交渉で公正妥当な態度を維持する。これに対して革命中国が勝手なことを主張し、既存条約違反の行動に出るようなことになれば、世界世論は日本に対し有利になってくる。そうなれば日本は何らかの新規の方策に訴えることができる」(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』p47)というものだった、ということです。

 こうした政府外務省が押し進める、外交による「満州問題」解決策を根底から破壊し、軍中央のみならず政府の指示をも無視して、独断で満洲占領を強行したのは、関東軍の石原莞爾を中心とする一部将校達でした。彼らは、「若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫」しましたが、その真の目的は、「政党金権の害毒を一掃し、内外に対する諸政を刷新するためには、軍部によるクーデターを断行し、議会を解散し、軍部政権を打ち樹てる」ことにあり、満州事変はそのための革命前哨基地づくりでもあったのです。*山本七平はこうした事態を「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。

 つまり、彼らが満州事変を引き起こした真の理由は、実は国内政治に対する軍部の不満に端を発したもので、そうした軍部独裁をめざす彼らの政治的的野心を正当化するためにこそ「満州問題」は利用されたのです。そして、あたかも「満州問題」を解決するためには満州事変は不可避であったかのような宣伝がなされ、それは、日本の条約で認められた在満権益に対する不当な侵害に対抗する自衛措置である、と国民に説明されたのです。

 だが、その在満権益が日本にとってそれほど「巨大な比重」を持っていたかというと、それは甚だ疑問であると秦郁彦氏は次のように指摘しています。

 「張政権の平行線敷設による満鉄の経営悪化説には、多分に誇張があり、木村鋭一満鉄理事は「満鉄包囲線が原因ではない。不景気のためなり。世人は黄金時代の収入を基準に論ず。包囲線の方の減収はより大」と説明していた。つまり満鉄が不況の波をかぶって従来ほどの巨利を得られなくなったのは事実だが、競争相手の包囲線(平行線)の方が先に倒れそうだというプラス面が指摘されているのである。」

 また、「一般邦人の生業圧迫についても、本質は張政権の排日政策というより、張作霖爆殺を決行した河本大作大佐が指摘したように、日本人コロニストが生活水準の低い勤勉な中国本土からの移民に、経済競争で対抗できないところにあった。こうして見てくると、満州事変は多分に「満蒙の危機」という虚像の産物であり、武力発動を推進した一部の関東軍とコロニストたちは、政府・軍の中枢や世論を納得させる理由づけに苦心した。」

 「そもそもポーツマス条約で獲得した日本の在満権益は、伊藤博文の表現に従えば「遼東半島租借地と鉄道のほかには何物もない」のであった。ところが大陸進出論者のなかには日露戦争で流した血の犠牲を理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想があった。」

 「石原莞爾は『満蒙は漢民族の領土ではない。満蒙は元来、満州・蒙古人のもの」「我国情は殆ど行詰り、人口、糧食、その他の重要問題皆解決の途なく、唯一の途は満蒙開発の断行にあるは世論の認むる所」と書いたが、論理の飛躍が目につく。漢民族の領土でないことがなぜ日本の領土権主張につながるのか」(『昭和史を縦断する』所収、「試論・1930年代の日本」秦郁彦p17)

 この秦氏の疑問は、満州事変の「隠された真相」の一端を突いていると思います。つまり「一般に満州事変は中国ナショナリズムの権益回収運動と張政権の反目・侮日政策に直面した幣原外交が対応力を失い、行きづまりに乗じた軍部が多年の野望である満州占領を強行したものと説明されている。」だが、それが、「軍事行動による反撃が正当化できるほど」日本にとって死活の問題だったかというと、実はそれは多分に軍の宣伝によるもので、先に紹介したように、冷静に対応すれば国際世論の支持を失わない範囲での対応が可能だったのです。(十分外交交渉でも片のつく問題だったのです。を訂正3/7)

 では、なぜ彼らにとって「満洲領有」が必要だったかというと、当時の青年将校の間には「農村の窮乏と政党の腐敗を重視し、軍部の手による独裁政治によって国内の革命を断行する以外に、邦国救済の途はない」という思想が蔓延しており、こうした日本の政治革命を断行するためには、「満洲に事を起こし、満洲の全土を占領した上、この新天地に軍部の革新政治を断行し、これを日本内地に移植するのが彼らの狙い」だったのです。(『陰謀・暗殺・軍刀』森島守人p76)

 この意味で、満州事変とは、日露戦争以降日本陸軍の一般意志になったかに見える大陸進出論(日露戦争における血の代償とを理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想)と、国内政治の軍部独裁をめざす思想(金融恐慌や世界恐慌に端を発する経済的混乱や思想的混乱から自由主義思想が排撃され、それが国家社会主義という独裁思想を生み出した)とを結合させたものと見ることができます。

(二パラグラフは削除3/27)

 こう見てくれば、「昭和の動乱」の根底をなした二つの思想、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」がいずれも、国内問題であった、ということに気づきます。では、前者の主張がなぜ昭和に至って満洲の軍事占領という事態に発展したのかというと、実はその根底には、第一次大戦後の大正デモクラシー下の軍縮がもたらした「軍人に対する国民の軽侮」への、怨念ともいうべき「軍人の憤懣」があったのです。(こうした軍人に対する軽侮は、明治以降、富国強兵策がおし進められる中で、自らを特権階級とみなし国民の委託を無視して藩閥的利益の擁護に没頭した軍に対する国民の反感を示すものでもありました。)

 「軍人は至るところ道行く人びとの軽侮の的となり、軍服姿では電車に乗るのも肩身が狭いという状態であった。たとえば、拍車は電車の中で何か用があるかというような談話が軍人の乗客に聞こえよがしに行われる。長剣は一般の客に邪魔にされた。かような軍人軽視の風潮に対する軍部方面の反動はまた醜いものであった。軍隊には階級如何を問わず農村の子弟が多かった。農村は軍隊の背景をなしていた。その農村が、年の繁栄と腐敗のために疲弊枯渇して行き、軍閥の基礎を危うくすることは、軍の黙視する能わざる処である、という主張が台頭した。」(上掲書p18)* 山本七平は、実は「軍人はカスミを食って世の中を悲憤慷慨していたわけではなく、窮乏は彼ら自身にあった、と『私の中の日本軍』で指摘しています。

 つまり、こうした軍の当時の社会風潮に対する憤懣が背景にあって、すでに陸軍の一般意志ともなっていた満洲領有にその活路を求め、更にそこを前哨基地として国内政治革命を断行しようとしたのです。満洲は漢民族のものではなく満洲民族のものである。満洲民族は漢民族よりも日本民族に近い。その土地は人口希薄であり、匪賊の横行して政情定まらざる未開の地である。満洲の良民は塗炭の苦しみに呻吟している。彼らをこうした苦境より救うためには、日本民族がその利害を超えて満洲を領有し五族協和の善政を行い人びとを善導する外ない、という論理です。

 そして、こうした論理を思想的に補完したのが、いわゆる「大アジア主義」と呼ばれる、日中を「道義文明」として一体的に捉える思想だったのです。この思想がそもどういう思想的系譜より生まれたのかを解明したのが、山本七平の『現人神の創作者たち』でした。

 それは、徳川幕府の官学としての朱子学の採用(皇帝による中国型徳治政治の理想化)に始まり、山鹿素行の「中朝事実」(中国の理想化に対する反動としての「日本こそ中国だ」という意識)、水戸光圀の「大日本史」(日本史の中に、理想化された中国型皇帝である万世一系の天皇を発見、それが、天皇の正統性を絶対化した)、浅見絧斉の「靖献遺言」(天皇に対する忠誠を絶対とする個人倫理の確立)、さらに、それが幕府の存在の非正統とする観念を生みだし、尊皇倒幕から天皇を中心とする中央集権絶対主義をめざす明治維新に突入していった、というものです。(3/27修文)

 これが「皇国史観」が生まれた思想的系譜で、その一君万民的・徳治主義的・天皇親政的形態を理想とする政治イメージが、昭和になって、明治政府が採用し明治憲法に規定された西欧型立憲君主としての天皇の政治イメージと鋭く対立し後者を圧倒した(訂正3/27)。つまり、前者の政治イメージが「大アジア主義」の思想的母体となり、このイメージをもとに現実の中国を見たとき、その軍閥・匪賊が横行して政情定まらざる中国の現状が、日本人の中国文化に対する軽侮を生み、同時に自国文化に対する慢心を生むことになったのです。

 重ねて言いますが、この昭和動乱の根底をなした二つの思潮、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」はそのいずれも、実は「満州問題」より惹起されたというより、むしろ以上述べたような「国内問題」に端を発していたのです。

 さて、こう見てくれば、戦後、「自衛隊」及び「自衛隊員」に対する侮蔑と人権無視に終始してきた、日本人の一般的思潮がどれほど危険なものであるかが判るでしょう。それと同時に、金権腐敗、党利党略、官僚専制等、国民の負託に答え得ない日本の民主政治の堕落が、日本人をして一君万民的全体主義に陥らしめる危険性を強く持っていることにも気づくと思います。

 昭和の動乱の根底には、あくまで国内問題としての日本人自身の以上のような思潮があった。そして、国民がそれを支持したことによって「昭和の悲劇」は生み出された、私はそう思っています。 

2009年2月 9日 (月)

なぜ日本は中国と戦争をしたか2

 前回、昭和7年の5.15事件の後、駐日支那公使の蔣作賓が近衛文麿を訪ねてきて、「蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はない」と力説した、という話を紹介しました。おそらく中国の側でも、近衛文麿が近い将来日本の政治的リーダーとなることを予測して、彼に対する政治的レクチャーを試みたのではないかと思われます。

 ここで蔣作賓が言っている「蒋を中心勢力と認めさえすれば」というのは、要するに蒋介石が行っている中国統一を認めよ、ということで、言葉を代えて言えば、「中国の主権を認めよ」ということに他ならないと思います。従って、日本がその蒋介石を否定するということは、「支那の統一をさまたげ分割統治をやろう」とすることと同じになる。「これがそもそも根本の誤である」と蔣作賓はいうのです。同様の指摘は、これも前回紹介した北京燕京大学校長レイトン・スチュアート氏の近衛文麿に対するアドバイスにも見ることができます。

 だが、当時の関東軍の蒋介石に対する不信と嫌悪は「いささか常軌を逸し」ており、「(国府は)絶対に帝国と親善不能」だから「支那大陸を・・・分治せしめ其分立せる個々の地域と帝国と直接相結び帝国の国力により・・・平和の維持と民衆の経済的繁栄を図る」(1936年5月板垣が有田次期外相に語った言葉)というほどのものでした。それは「予期に反し全国統一事業を着実に進めていく南京政府と蒋介石への不安と焦慮に発したのかもしれない」と秦郁彦氏は言っています。(『廬溝橋事件の研究』p10)

 こうした板垣の考え方は満州事変の以前からあり、というより、こうした日本軍の日清戦争以来の中国蔑視の考え方が、満州事変を引き起こしたとも言えるわけです。その満州問題の処理にあたって中国をどのように認識するかということは、当の満州事変の首謀者石原莞爾によって、次のように語られていました。(以下句読点は読みやすくするため筆者が付した。)

 「支那全体ヲ観察センカ永ク武力ヲ蔑視セル結果、漢民族ヨリ到底真ノ武カヲ編成シ難キ状況ニ於テ、主権ノ確立ハ全然之ヲ望ム能ハス。彼等ノ止ムルヲ知ラサル連年ノ戦争ハ吾等ノ云フ戦争即チ武カノ徹底セル運用ニ非スシテ、消耗戦争ノ最モ極端ナル寧ロ一種ノ政争ニ過キサルノミ。我等ニ於テ政党ノ争ノ終熄ヲ予期シ得サル限り、支那ノ戦争亦決シテ止ムコトナキモノト云ハサルヘカラス。

 斯ノ如キ軍閥学匪政商等一部人種ノ利益ノ為メニ、支那民衆ハ連続セル戦乱ノ為メ塗炭ニ苦シミ、良民亦遂ニ土匪ニ悪化スルニ至ラントス。四面ノ民ヲ此苦境ヨリ救ハソト欲セハ他ノ列強力進テ支那ノ治安ヲ維持スル外絶対ニ策ナシ。即チ国際管理力某一国ノ支那領有ハ遂ニ来ラサルヘカラサル運命ナリ。単ナル利害問題ヲ超越シテ吾等ノ遂ニ蹶起セサルヘカラサル日必スシモ遠トイウヘカラス。」(『現在及び将来における日本の国防』石原莞爾s6.4)

 つまり、支那は永く武力を蔑視してきたために真の武力が編成できない。そのため自らの主権を確立することは望めず、その結果、一部の人の利益を争う政争のような戦乱が続き良民を苦しめている。こうした支那の苦境を救うためには、他の列強力(=日本)がその利害を超越して治安の維持に当たる必要があるというのです。しかし、残念ながらその動機はそれだけではなく、其の前段には次のような日本自身の利害が赤裸々に語られています。

 「我国情ハ殆ント行詰り人口糧食ノ重要諸問題皆解決ノ途ナキカ如シ。唯一ノ途ハ満蒙開発ノ断行ニアルハ輿論ノ認ムル所ナリ。然ルニ満蒙問題ノ解決ニ対シテハ支那軍閥ハ極力其妨害ヲ試ムルノミナラス、列強ノ嫉視ヲ招クヲ覚悟セサルヘカラサルノミナラス、国内ニモ亦之ヲ侵略的帝団主義トシテ反対スル一派アリ。

 満蒙ハ漢民族ノ領土ニ非スシテ寧ロ其関係我国ト密接ナルモノアリ。民族自決ヲ口ニセントスルモノハ満蒙ハ満洲及蒙古人ノモノニシテ、満洲蒙古人ハ漢民族ヨリモ寧ロ大和民族ニ近キコトヲ認メサルヘカラス。現在ノ住民ハ漢人種ヲ最大トスルモ、其経済的関係亦支那本部ニ比シ我国ハ遥ニ密接ナリ。

 之等歴史的及経済的関係ヲ度外スルモ、日本ノ力ニ依リテ開発セラレタル満蒙ハ、日本ノ勢力ニヨル治安維持ニ依リテノミ其急激ナル発達ヲ続クルヲ得ルナリ。若シ万一我勢力ニシテ減退スルコトアランカ、目下ニ於ケル支那人唯一ノ安住地タル満洲亦支那本部ト撰フナキニ至ルヘシ。而モ米英ノ前ニハ我外交ノ力ナキヲ観破セル支那人ハ、今ヤ事毎こ我国ノ施設ヲ妨害セントシツツアリ。我国正当ナル既得権擁護ノ為、且ツハ支那民衆ノ為遂ニ断乎タル処置ヲ強制セラルルノ日アルコトヲ覚悟スヘク、此決心ハ単ニ支那ノミナラス欧米諸国ヲ共ニ敵トスルモノト思ハサルヘカラス。」

 この最後の段は、満蒙における日本の治安維持の義務を語りつつ、同時にそれは、我が国の正当な既得権擁護のためでもあり、かつ支那民衆のためであるといい、しかし、そうした日本の行動は、支那のみならず欧米諸国をも敵とするものであり、日本人はその日が来ることを覚悟すべきであるというのです。そして次のように続きます。

 「即チ我国ノ国防計画ハ米露及英ニ対抗スルモノトセサルヘカラス。人往々此ノ如キ戦争ヲ不可能ナリトシ、米マタハ露ヲ単独ニ撃破スベシ等ト称スルモ、之自己ニ有利ナル如キ仮想ノ下ニ立論スルモノニシテ、危険ハナハダシキモトイウヘク絶対ニ排斥セサルヘカラザル議論ナリ。」いささか空想的に過ぎるように思われますが、これは決して冗談やざれごとでありません。というのは、石原莞爾はこうした言葉を、彼自身のオリジナル思想(?)である周知の次のような「最終戦争論」のもとに語っているのです。

 「欧州大戦ニヨリ五個ノ超大国ヲ成形セントシツツアル世界ハ、更ニ進テ結局一ノ体系ニ帰スヘク、其統制ノ中心ハ西洋ノ代表タル米国ト、東洋ノ選手タル日本間ノ争覇戦ニ依り決定セラルヘシ。即チ我国ハ速ニ東洋ノ選手タルヘキ資格ヲ獲得スルヲ以テ国策ノ根本義トナササルヘカラズ。」「而シテ此ノ如キ戦争ハ一見我国ノ為極メテ困難ナルカ如キモ、東亜ノ兵要地理的関係ヲ考察スルニ必スシモ然ラス。即チ

1 北満ヨリ撤退シアル露国ハ、我ニシテ同地方ヲ領有スルニ於テハ有力ナル攻勢ヲトルコト頗ル困難ナリ。

2 海軍ヲ以テ我国ヲ屈服セシムルコトハ難事中ノ至難事ナリ。

3 経済上ヨリ戦争ヲ悲観スルモノ多キモ、此戦争ハ戦費ヲ要スルコト少ク、概シテ之ヲ戦場ニ求メ得ルヲ以テ、財政的ニハ何等恐ルルニ足ラサルノミナラス、国民経済ニ於テモ止ムナキ場合ニ於テハ、本国及占領地ヲ範囲トスル計画経済ヲ断行スヘク、経済界ノ一時的大動揺ハ固ヨリ免ルル能ハストスルモ、此苦境ヲ打開シテ日本ハ初メテ先進工業国ノ水準ニ躍進スルヲ得ヘシ。(『満州問題私見』石原莞爾s6.5)

 つまり、世界は最終的には西洋文明のチャンピオンたる米国と、東洋文明のチャンピオンたる日本の間で最終決戦が争われる。日本はその東洋チャンピオンたる資格を獲得することを国策の根本とすべきである。一見、これは日本には無理と思われかもしれないが、決してそうではない。即ち、ソ連は、北満を日本が領有すれば有効な攻勢に出ることは極めて困難となる。また、アメリカが海軍力をもって日本を屈服させることも至難である。また、戦費は戦地において現地調達すれば、いわゆる「戦争をもって戦争を養う」ことができる。さらに、国民経済において計画経済(=「国家総動員体制」)をすれば、一次的に経済界が動揺しても、それを乗り越えることで先進国の水準に飛躍できる、というのです。

 ここに、日中戦争及び日米戦争のアウトラインがはっきりと描かれています。それは、紛れもなく満州事変以前に石原莞爾によって描かれたもので、これによって初めて、日本の満蒙領有についての文明史的意義付けがなされ、その実行主体としての日本の歴史的使命が説かれたのです。だが、こうした途方もない戦争のビジョンが、はたしてどれだけ当時の軍人にリアリティーをもって理解されたか、これは甚だ疑問といわざるを得ません。だが、これによって、二重政権の創出にも等しい満州の武力占領が実行に移され、その、目的のためには手段を選ばぬ下剋上的無法行為が正当化されるに至ったことは間違いありません。

 しかし、こうした石原莞爾の責めに帰すべき満州事変の歴史的評価については、その後の彼の対支認識の意見修正(『対支政策の検討(案)』s11.9.1)」を根拠に、満州事変限りにおいて評価する意見が多いようです。このことについては、日本陸軍の、その尊大、驕慢、加えその浅慮を指摘し、わが国力、軍の実力を無視し、さらには敵の力を下算する大きな過誤を冒し、なお聖慮に背いて皇軍皇国を崩壊に引きずり込んだ昭和陸軍を嘆き、悔み、憤った、元陸軍省参謀加登川幸夫氏も、満州事変は中国側の対日圧迫、日本の合法的権益の侵害に対する自衛措置だったとして容認しています。(『陸軍の反省』「はじめに」)

 もちろん、私自身は先に「『偽メシア』石原莞爾の戦争責任」で指摘したように、氏の戦争責任を強く指摘し、この事件こそが日本を崩壊に引きずり込んだ元凶と理解しています。しかし、それを繰り返しても言っても仕方ありませんので、ここでは、こうした私たち日本人の立場を離れて、いわゆる親日派といわれる中国人がこの事件をどう見たか、これについての大変興味深い対談記事「段祺瑞の満州事変観」を見つけましたので、それを次に紹介したいと思います。

 これは林耕三氏という、戦前の東北地区(満州)で日本の協和会運動に協力した方(中国人)の紹介になるもので、『宣統皇帝遺事』中第三十七章「天津における土肥原大佐」を日本文に翻訳したものです。段祺瑞といえば、いわゆる「西原借款」で有名ですが、その彼と、当時奉天特務機関長をしていた土肥原賢二との対談です。言葉における正直と不正直ということもさることながら、両者の政治的洞察力及び見識の差にはいささか驚かされました。

 また、段氏の、何故日本人は日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のかという言葉、功名のために大戦を起こせばどうなるか、日本人の「幻想」についての指摘、そして「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」という言葉は、当時の日本人が陥った傲慢と、その後の日本の運命、そして土肥原自身の運命(A級戦犯で処刑)をも的確に見通したものであると、私には思われました。(以下『満州建国の夢と現実』P373~380)

段祺瑞略歴(1864~1936)
 中国の軍人、政治家、安徽省出身、初め袁世凱の腹心として地位を築き、円の失脚後も黎元洪のもとで国務総理兼陸軍総長として実権を握り、安福派を形成し、馮国璋の直隷派と対立した。   
 第一次世界大戦に際してはドイツに対して宣戦を行ない、日本からは西原借款などの援助をうけて目本の対華進出を許した。一九二〇年の安直戦争で失脚。一九二四年、奉直戦を機に臨時執政に復活したが、一九二六年、張作霖、馮玉祥の交戦によりその地位を保てず、以来政界から退いた。*この会談は、土肥原大佐が陸軍の命をうけて訪問したもの

 土肥原 閣下は、生ぐさ物や酒はおやりにならない大徳のお人柄ゆえきっと「即身成仏」なさるでしょう。

 段 「成仏」は敢えて望まないが、ただ、人生の大半を軍人で過したので、殺戮すること少なからず、罪業、が深い、希くは、仏法のざん悔をして、将来、天寿を全うしたいものだと願っています。

 土肥原 執政閣下のご教訓には全く痛み入ります。私共後輩の軍人として閣下のお話を座右の銘としたいものです。

 段 土肥原さん、軍人の一生には「不殺生戒」―殺生をしてはならないという戒め――を犯さないものはないでしょう。しかし、軍人としての職掌柄そうなるのは止むを得ないとしても、己の功名をあげたり、利益のために大戦を引起すということであれば、その罪業は非常に深いと言わなければなりません。

 中国にはこういう諺がある。「兵猶太也 不戦自焚」――戦争は火のようなもので、戈を止めなければ自らを焼いで自滅する――武力を乱用した国が永続きしなかったことは歴史の証明する所です。まして殺戮を専門とする上級軍人に至っては、如何に功名があろうと天寿を全うした例が非常に少ない。

 土肥原 閣下のご教訓、心に銘じました。このたびの奉天事件(九一八事変)は、本庄司令官以下幕僚一同反省しています。

 段 今になってそういうことを言われても、この事件の善後処置については今のところこれという方法もなく仲々困難でしょう。今、貴官が「反省している」などと言われたが、真実のところ、それは十年位先のことでしょうし、その頃になってやっと私の話を思い出すのじゃありませんか。

 土肥原 閣下のお話は、全て禅の修業を積まれた結果によるもので、後輩の私などにはとても真意を了解することができません。

 段 私の話には少しも神秘な節はない。もし貴官が、私の今おかれている立場にあるとすれば、私の話が、実際に即した話である。ということを理解できるでしょう。

 土肥原 閣下は、高い視野に立って、永い将来のことを見透すことのできる人です。どうか私のために遵守すべき道をご教示願います。

 段 私の今日の話は、世間話に過ぎませんからあまり気にしないで下さい。唯一つ貴官にお尋ねしたいことがある。

 日本の人口は中国の六分の一にも満たなしし、土地も中国の某一省にも及ばない。然るに何故、日清戦争以来四十数年の長きに亘って「中国を見下げ侮る」のです。(大佐、黙して語らず)私は、貴官が直ちに答えられないことはよく分る。そこで、私か代って答えよう。

 中国は一皿の砂のようなもので、団結心乏しく、容易に団結しない。日清戦争で、日本は勝ったと言うが、それは李鴻章一人を打倒しただけのもので、真の中国の力にぶっつかった訳ではない。我が国では、民国以来、群雄が割拠して紛争を続けていたので「君達」に入り込む隙を与えた。君達に、何でも思い通りになり、何をしても利益になる、と思いこませた。然し、今回の「九一八」事変――九月十八日勃発の満洲事変――は、君達が中国人の夢を醒まさせた。四億の人民は一塊りとなって日本に対している。今后、君達が武力で征服しようとしてもそれは難しいでしょう。

 私の話は貴官には、誇張しているように聞こえるかも知れないが、それは貴官の自由である。私はもう一つの実例を挙げて話したい。
 本庄さん――関東車司令官――は、どうして貴下を私の所へ来させたのだろう。おそらく、私を日本人の友達と思ってるに違いない。

 土肥原 そうです。その通りです。閣下。

 段 日本人は、私を友達、味方にしようとしているので、中国人は私を親日派と罵っている。しかし 「九一八事変」以後からは私自身、もう日本人の友達ではなく、むしろ日本人を恨んでいる。今日の貴下は、責任ある人だけに、その一言一句、一挙手一投足は、中日両国人民の前途に対し多大の影響があるものと考える。本日、貴官は、貴国の陸軍の命令で来られたからお会いした訳で、他の日本人が私を訪問したとせば、私は正門から入ることを思い止まってもらった筈です。

 土肥原 閣下、癇癪を起さないで下さい。何か要求がおありとすれば、私はその実現に尽力したい。

 段 只今のは、言い過ぎだったかな? 全く汗顔の至りです。私は、一九二六年、政界を引退してから六、七年になるが、殆ど癇癪を起したことはなかったが、どういう訳か突然それを起してしまった。まだまだ修養が足りない、恐縮の至りです。

 土肥原 閣下は、生仏様ですよ、奉天事件(九一八市変)の刺激が強過ぎたので、怒って睨みつける金剛様に変ったのですね。(一同笑声、緊張やや緩か)

 段 貴官が帰って本庄さんに報告する時には段の意見として次のように伝えて貰いたい。「段との会談は全て程々にし、適当な所で止めた。事変の解決は無理をせず自然に従うべきだ。目下、中国側としては、この問題を国際連盟に提訴しているので連盟が処理するものと思う。然し、東洋人の問題には西洋人の手を煩わすべきでなく、東洋人の手で解決すべきだ」と。

 土肥原 分りました。然し、当方としても、九一八後、三日目、私は東京から奉天に帰り、東北(満洲のこと、以下東北)当局との交渉の糸口を探しましたが、張学良司令(東北辺防軍司令)は、これに応せず、どうしようも無かったのです。

 段 東北問題は張作霖(奉天督弁)時代からのことで、貴官らは専ら東北に一つの独立国を造ろうとしていた。これに対し張督弁が反対したので、遂に爆死さぜたではないですか。張司令も身に危険の及ぶのを感じて北京に逃避したのです。この機に乗じ、君達は、武力をもって進攻し奉天、長春の地を次々に不法占領し掌中に収めた。君達は、張学良と交渉したいというが、こうした情況下で、果して交渉に応ずるでしょうか。又、独立させる、とか、最高の地位を与えるから・・・、という条件を持ち出したりして之に応ずるでしょうか。それは言わなくても明々白々の事でしょう。

 君達日本には、沢山の「中国通」がいると言われている。しかし果して、真の中国を識る「中国通」が居るだろうか。皆さんは、自分の幻想に照して、まず原則を定め、そのあとでいくらかの資料を探してそれに当てはめ、こういうやり方で中国問題解決の政策をつくって行くようだが、この結果は、中日両国の将来を誤まらせること必定で、とどの詰りは、第三国に漁夫の利を得させること明らかである。

   (土肥原無言、談話は続く)
 段 君達は、中国が長く分裂することを望んでいるかも知れないが、中国は統一している。君達は、現実を正しく見つめようとしない。問題に遭遇しても、南京政府と交渉しようとせず、ただ地方(東北)で攪乱し、大したこともない人物を推し立てて既成事実とし、益々問題をこじらせ、その解決を困難にしている。

 土肥原 この度、私か当地に参りましたのは、先刻ご承知のように上司の命を奉じ、閣下にご謁見の上、お知恵を拝借し、大乗的見地から中日両民族の永久平和の道を発見したい為でありまして、特に現在の東北における行詰り打開は焦眉の急に追っており一刻の猶予も許されないのです。

 段 私は一介の閑人である。私か今迄話したことは、私個人の意見であって、決して中国政府が私に代弁させているのではない。これは本庄さんに伝えてもらいたい。

 土肥原 勿論そのように報告します。私の国では、閣下が、もと執政としてのお立場から、たとえ野に在っても超然たる高い視野に立って物事を考えていられるものと考え、それだからこそこうして私などがお教えを賜わるため参上しているのです。

 段 私か君達に代って考えてみると、現在の占領地域はこれ以上拡大しなしが宜しい。君達は今の占領を「保証占領」と言い、中国の領土を取得しよう、とは考えていない旨を声明しているが、どうして従来の中国の行政組織をこわそうとするのか、その真意が分らない。東北の臧式毅君は遼寧省の主席で、得難い人物である。決してこういう人物を監禁するようなことがあってはならない。

 また元老としては、張輔臣(作相)、張叙五(景恵)の二人がいるが、張輔臣は既に大関(満洲から長城を越えて華北に入った、の意)し再び帰ることはあるまい。残るは張叙五一人だが、彼は東北全般を総攬する能力をもっている。君達はどうして彼を探し出さないのだろう。彼を東北の最高指導者に推挙して中国の主権を回復させるようにすれば、君達の誠意が認められ、事件は解決に向うものと信じる。これは口で言う程容易でなく、問題解決は困難ではあるが可能性が認められる。

   (段は更に続けた)
 東北、黒竜江省の馬占山将軍は、猛将であり、英雄である、決して彼と衝突してはならない。それにひきかえ、古林省の熈洽将軍は困ったものだ、張輔臣が永吉(吉林省永吉県)を留守にしたのを好機とし、日本側と勝手に結んで、今日の混乱を招いた。表面的には、君達には有利に見えるかも知れないが、最後には必ず、君達を断崖から突き落すようなことをするだろう。(土肥原大佐としても熈洽に対しては好感を持ってはいなかった。それは熈洽が日本側と手を結ぶとき、特務機関を無視し、直接、多門師団に交渉した経過があった)

 土肥原 この人物については私も同感で、帰還の上は本庄司令官に閣下のお考えをよく伝えます。

 段 聞く所によれば、もと清朝の溥儀皇帝が、東北に行ったそうですが、結局どういうことになるのです。

 土肥原 この件は、奉天事件とは関係ありません。溥儀氏がこの地(天津)に居られると一部の閑人が何やかやとうるさいので、租界当局も職責上毎日所要の警察官を派遣して、保護申しあげねばならず、お互いに不都合が多いので、溥儀氏としては、こうした雑音を避け、環境の好い東北南端の旅順(現在の旅火市)に移りたいというご希望があったのでお力添えをしたまでのことです。生憎く奉天事件九一八事変に際会したので、貴国朝野の人士から疑われるのも無理はありますまい。

 段 土肥原さん、今日の会談はうまくいきましたね。お互いは確かに因縁がありますよ、貴官は、貴国の軍人中、人格識見とも最上級の方だけに高所に立って広い視野で物事を観察される。私はそう信じたい。
 昔の人の言葉に「多く不義を行えば、必らず自ら斃れる」ということかありますが、これは確かに道理に叶っている言葉です。

 中日両国の関係から言えば、私は今、思い出せませんが、中国はどういうところで日本に済まないことをしたのか、ということです。日本としては、どうした訳か中国につきまとって拘束から開放してくれない。中国人としては、何とかして日本の意のあるところを理解し歩みよりたいと念願するのですが、忍耐にも限界があり、現在の状況はもうギリギリの状態に立ち至っている訳で誠に重大と言わなければなりません。

 もし、君達が、東北撹乱の特殊組織を作り、中国人の忍耐の限界を超えるとすれば、それこそ大きい禍根を作ることとなり、貴下もこの災難から込れることは出来なくなるでしょう。

 土肥原 執政閣下、お安心下さい。土肥原は決して閣下のご厚意に背くようなことは致しません。

  (会食と談話はこれで終った。但、土肥原大佐が段邸を訪問する以前、密かに溥儀氏を天津から東北に連れ出す工作は完了していたのだ。段元執政もこれは知っていたが。)
(安東省実業庁長 大東文化大学講師 亜細亜善隣仏教会会長)

2009年1月30日 (金)

なぜ日本は中国と戦争をしたか

 前回の末尾で、橋川文三(1922.1.1生、政治思想史研究者)の日本国民としての日中戦争及び日米戦争についての率直な印象を紹介しました。ここで氏は「極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。」といっています。私はこれは、日中戦争及び日米戦争における日本の「調子狂い」の根本原因を最も鋭く見抜いた言葉ではないかと思います。

 次に、この問題を考えるために、1945年12月20日から11回連載された「近衛文麿手記」に紹介された、日支間の問題解決についての駐日支那公使蒋作賓の提案を見てみます。

 「丁度その頃駐日支那公使の蒋作賓も血圧が高い為長谷の大仏の境内に住んでいた。そんな関係から、ある日―たしか昭和七年の五・一五事件のあとだったと思うが、秘書役の参事官丁紹扨と連れ立って、蒋は私を訪ねて来た。丁紹扨とは私の一高時代に西寮で一緒だったという因縁があったので特に丁を伴って来たものと思う。それ以来蒋と丁は屡々やって来た。鎌倉山の家にもひと月に一回位は必ず顔を見せた。

 蒋作賓は前にドイツ大使をやって居り、蒋介石直系の人物である。彼は丁の通訳で日支問題を論じ、このままで行けば日支の衝突は世界戦争にまで発展する可能性があると私に警告した。

 彼は何よりもまず蒋介石の実力を説いた。蒋介石は支那の中心人物であり、しかも今日では殆ど全支那を把握している形であるから、支那を考えるには蒋の勢力を第一に考えなければならない、蒋を中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今くらい対支外交のやりよい時機はないというのである。成程一方には呉佩孚等いう人も居るが、しかし彼等は一部勢力の代表にしか過ぎない。そういう手あいを相手にしていたのでは何時になっても日支の問題は解決しないであろう。

 一体日本の軍部は支那の軍閥を利用して、お互いにお互いを牽制し、反発させて支那の統一をさまたげ分割統治をやろうという政策をとって居るようだが、これがそもそも根本の誤である。日本人は第一にこの点からして認識を改めねばならぬ。日本が如何なる政策をとろうとも今日の支那はまさに国内統一の気運に向っている。そしてこの気運に乗っているものこそ実に蒋介石その人だ。だから支那のことを考えるからには是非とも蒋介石国民党を中心に置いて考慮をめぐらしてほしい、とこういうのである。

 従来日本の軍部は国民党を叩こうとばかりしている。この政策ぐらい間違っているものはない。こういうやり方を続けていると、支那の隠忍にも程度がある。やがては我慢ができなくなり、終には捨てばちになって反抗するようになる。一体武力で支那を征服しようなどという事は、全く支那をしらない者の考えであって、いくら支那が衰えているからといってそんな事ですぐ倒れるものではない。戦が長びけばその内には英・米が蒋に味方をするということが起こり、日支問のもつれは必ずや世界戦争に発展する可能性がある。もし世界戦争にでもなれば、結果は英・米を利し、日本も支那も共倒れになってしまう。

 だから日本は今の内に政策を改めて大局に目をくばり蒋介石と手を携えて、大アジアの問題を処理すべきではないか。これが孫文以来の理想なのだ。そうなればイギリスにしても、アメリカにしても手が出せなくなる。これこそ東亜安定の唯一の策であり東亜興隆の唯一の道だ。今日の日本のやり方というものはこれと全く逆になっている。」(注:驚くべきことにその後の歴史は、この蔣作賓の「読み」どおりに進行しています。)

 こうした蒋作賓の説に対して、近衛文麿は「心から同感の意を表し」たといっています。その後、「蒋作賓は十年の夏だったか、一先ず帰国し」当時四川省で赤軍討伐のため重慶にいた蒋介石と協議して日支和平案を練り、これを「丁紹扨に持たせて日本に寄こした。丁は日本に着くと、早速軽井沢に私を訪ねて来た。」その時彼の携えて来た日支和平案というのは、

一、満州問題ハ当分ノ間不問二付スル(現在の空気では支那に於ては取りあげられないから)

二、日支ノ関係ヲ平等ノ基礎ノ上二置ク、ソノ結果トシテ凡ユル不平等条約ヲ撤廃スル、但シ満州二関係ノアル不平等条約ハ、除外シナイ、マタ排日教育ハ防止スル。

三、平等互恵ノ関係ノモトニ、日支経済提携ヲナスコト。

四、経済提携ノ成績ヲ見タウエデ軍事協定ヲ結ブ(軍事協定締結の場合には、蒋介石自身は日本を訪問してもよいというのである)。

 大体右のような内容のものであった。」といいます。

 この提案内容は、昭和10年9月、蔣大使が広田外相に示した和平提案の内容―「日中両国相互の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しないこと。日支の経済提携の相談に応ずること。更に「共同目的」(防共=筆者)のため軍事上の相談を為すこと」等―と同様のものだったのではないかと思います。

 近衛もこの案に大賛成であり、「充分努力しようと丁に誓」いました。そして、この支那の提案を、「議会で広田外相に会い事情を話し、政府に於いても日支問題の解決につき努力するよう頼んだ。」しかし「広田も外務省も同感であったのだが、軍部から反対の声があがった。それは提案第一条の満州を「不問」に付するという点がいかん、「承認」と改めよというのである。これには広田も困った。」その後、昭和10年10月の「広田三原則」(外陸海三省了解)が出来上がり、これと中国側三原則の調整のための協議が広田と蔣の間で進められましたが、そこで問題になったのがやはり満州国の承認問題でした。

 広田三原則では、「二、支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策をやめしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。」となっていました。日本側は「満州国の独立を事実上黙認」することを求めましたが、中国側は、日本に満州国承認の取り消しを求めることはしないなど「かなりの譲歩の意向がみとめられる」ものの、その主権の放棄を明言することはありませんでした。

 ただ、この「広田三原則」の付属文書には、「我が方が殊更に支那の統一または分立を助成しもしくは阻止する」施策は慎むとの方針が入っていました。これは、同時期関東軍が進めていた華北分離工作を押さえ込もうという政府の思惑があったのですが、関東軍はこれを阻止しようとして、華北分離工作をおし進めました。この時出されたのが「多田声明」で、北支より反満抗日分子の徹底一掃、民衆救済のための北支経済圏の独立、赤化防止、北支五省連合自治体の結成をうたい、「これを阻害する国民党及び蔣政権の北支よりの除外には威力の行使」も辞さないと露骨に威嚇しました。(『廬溝橋事件の研究』秦郁彦p18)

 しかし、こうした関東軍の強硬策も、中国の「幣制改革」の成功に伴う中国経済の統一の進展もあって縮小せざるを得ず、結局、翌昭和11年25日の「冀東防共自治委員会(一ヶ月後「冀東防共自治政府」と改称)」という親日自治政権の樹立、同12月18日の「冀察政務委員会」(=国民政府、宋哲元、日本政府の妥協の産物である日中間の緩衝政権)の設置となりました。(冀東とは河北省東部のことで、冀東政権はその地域を、冀察政権はそれ以外の河北省とチャハル省をその管轄地域としていた)その後川越駐華大使と張群外交部長の間で交渉が継続されましたが、中国は「主権の完整」という大前提のもとでタンク-停戦協定の廃止など具体的要求を持ち出すようになりました。(交渉は関東軍の内蒙工作である綏遠事件により破綻)

 こうした日中交渉の手詰まり状態の中で、華北分離工作に対する中国の抵抗が強いことや、西安事件を契機として中国に「国共内戦停止」や「抗日国内統一」の気運が高まっていることを背景に、従来の「軍閥闘争時代」の中国観の修正を求めるいわゆる「中国再認識論」が生まれてきました。石原莞爾が、従来の主張(=中国の政治的中心を覆滅し抗日政権を駆逐する)を転換し、「支那の統一運動に対し帝国は飽迄公正なる態度を以て臨む北支分地工作は行わざること」(『石原莞爾資料』p206「陸軍省ニ対シ対支政策ニ関スル意思表示」s12.1.25参謀本部)と主張し始めるのはこの頃です。

 こうした「中国再認識論」の動きは、昭和12年4月16日付けで四相会議が決定した「対支実行策」と「北支指導方策」にも反映されました。そしてこうした動きを促進するため、吉田茂駐英大使は往年の日英同盟の協調関係を復活させようとしました。イギリスのイーデン外相は「日本は中国を扱う正しい方法をが何であるかについての見方を明らかに変えつつある」と評価しました。しかし、6月4日に発足した第一次近衛内閣に外相として再登場した広田は、こうした対支親善策に消極的でした。吉田大使は「日支関係の局面打開は日英協力主義を善用すべし」としましたが、広田は冷淡でした。(『廬溝橋事件の研究』p34)

 日本政府内にこうした「中国再認識論」が出てくる一方で、関東軍参謀部は「北支防共を完成し対ソ必勝の戦備を充実するため内蒙及び北支工作を強行」し「冀東、冀察、山東各政権を一体とし呉佩孚を起用し、茲に北支政権の基礎を確立・・・要すれば所用の兵力を行使し」と唱えていました。また、関東軍板垣参謀長の後任の東條英機中将も昭和12年6月「対蘇作戦準備の見地より・・・まず南京政権に対し一撃を加え我が背後の脅威を除去」せよと中央部に具申していました。こうして陸軍内が対中国避戦派と一撃派に分かれたまま廬溝橋事件を迎えることになったのです。(上掲書p31)

 この間、蒋介石は「安内攘外」を標語として、対日和平の途を模索したのですが、1935年半ば頃から日本の華北分離工作が進み始めると、高まる抗日世論にさらされるようになりました。しかし、この間の中国の国内統一の進展はめざましく、反蔣軍閥との抗争も一段落し、管理通貨制度による幣制改革も成功し、経済建設面でのインフラ整備も顕著で、こうした国内的成功によって蒋介石はカリスマ的指導者として世論の支持を受けるようになりました。1936年からは軍備の近代化と重工業の振興をめざす三カ年計画に着手しました。この間中国は「二、三年の時間をかせぎ出すことだけを考え」てかろうじて日中交渉の決裂を避けようとしていました。

 こうして蒋介石は、その「安内攘外」策の「安内」が整って行くにつれ、次第に「国民の要望に応えて、”攘外”を何とかやらざるを得ないという羽目」(『上海時代下』松本重治p70)に追い込まれていったのです。「すでに『即時抗日』を呼号する声は、中共党や救国運動に結集した進歩は文化人ばかりでなく、綏遠事件の『勝利』で『敗戦コンプレックス』を解消した中央軍の中下級将校まで広がり、『準備抗日』を説く軍幹部の統制もゆらぎはじめ」ていました。(上掲書p40)こうして、昭和12年7月7日の廬溝橋事件を契機に泥沼の日中戦争へと突入することになるのです。

 まさに、ため息が出るような話ですが、ではどうして日本がこのようなまるで集団自殺を思わせるような局面に落ちこむはめになったのか。この間の事情を最もわかりやすく語っているのが、昭和14年初め、北京の燕京大学大学校長レイトン・スチュアート氏が近衛文麿溝に宛てて書いた和平提案の手紙の邦訳写しです。これは昭和13年12月22日の「第三次近衛声明」が「日本が何等支那の主権と独立を侵害する意志なし」(スチュアート氏の解釈)と表明したことを受けて、スチュアート氏が日中和平を願う同志を代表し、近衛公に両国間の誤解を解くべくアドバイスしたものと思われます。(平成17年秋に近衛家の鏡台の隠し棚の中から発見された『近衛文麿六月終戦のシナリオ』p20)

 「近衛公閣下、未だ拝眉の機を得ざるも貴国に於ける貴下の卓越せる地位と、自由にして聡明なる閣下の政治的風格に対する敬仰の念よりして、吾等に関聯せる現下の問題に対して敢えて一書を拝呈する。私は支那生まれの米国人です。長き間宗教と教育を通じて支那の福祉の為に働き支那人を愛敬するが同時に心から日支両国の親善を希って居るものです。これは独り両国の共通の利益たるのみならず又関係第三国もこれを歓迎することと信じます。たとへそのため少し位自分達の利益を犠牲にされても。

 現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る。日本は支那の排日感情乃至排日煽動を撲滅せんとして戦って居ると思って居る。然るに一方支那は支那の独立とその存在すら脅かされると思って、如何なる愛国者にも当然なる防衛の為の戦争をしてゐると思って居る。

 昨年末貴下の有名な近衛声明に於いて日本は何等支那の主権と独立を侵害する意志無しと公表された。然るに支那人は大抵日本は占領地に於ける軍事上の占領のみに止まらず、あらゆる生活の形式を支配するものと思い込んで居る。日本は共産党を排撃し、防共上の協力を提議して居るが、支那人はこれは支那内部の問題であって、支那の政府に一任すべきだと思って居る。防共の為に如何なる他国の軍隊と雖も駐在することは、却って平和生活の破壊となり漸く納まりかけた治安を激発するものと思って居る。

 日本は所謂親日政府を建設しこれと協同して居るが、これは支那側からみれば深刻許すべからざる日本の支配の軽蔑すべき一形式であり、凡そ支那人の目からみると彼等の承認せる政府を裏切った漢奸としか映じない。(王兆銘擁立工作のこと=筆者)これ等は前述せる相互の無理解の一班である。その憂慮すべきことは、この無理解の傾向は日支両国がお互いにその動機と手段とに対する猜疑心を益(ますます)解けがたきものにすることである。真の悲劇はこれが必要なくして、しかも益(ますます)深刻になってゆく点にある。

 私の貧弱な、しかし確たる確信によれば、支那は日本の帝国主義的脅威に対する危惧の念を脱却したらその瞬間排日の行動を終熄し、且つ喜んで日本に必要な原料品と市場を提供するであろう。乃至は又互恵的な経済的合作の道をも講じ、且又共同の外敵に対し共同防衛の方法をも講ずるであろう。

 米国がこの問題に対して関心せざるを得ないのは、支那の自由且独立は太平洋の永久的平和の基礎条件であると信じ、且日本の現在の駐兵は日本の支那支配の表現ではないかといふ危惧に由来する。その懸念が晴たら、日米の間の偕老的なる友誼は直に恢復されるであろう。

 支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今まで日本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる様にされんことを勧告する。そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退することだ。これは貴国政府に対する凡ゆる疑問を一掃する。一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう。私は微力乍ら喜んで両国並に米国間の理解の促進に力める。私の役割は少さい。然私はこの崇高なる目的の実現に協力せんとする多くの同志を代表するといふ確信の下にこの手紙をかいた。」

 要点は次の通りです。
 「現在の紛争は、少なくとも或程度相互の無理解より生じて居る」もので、日本が防共のために軍隊を中国に駐在させたり、親日政府を立てたりすることは日支両国の猜疑心をますます解けがたいものにしている。従って、この問題を解決するためには、「支那の独立向上を希望するといふ閣下の崇高な見地に立って、閣下の権威を以てこれ等の疑問を一掃する様な方法に出られ、今までの本政府の真意はかくの如きものでありしと疑ふ感情の余地なからしむる」ことが必要である。そして「そのための尤も端的な証明は日本軍隊を長城以外に撤退すること」であり、「一度もしそれがなされたら日本が支那に求めつつあるものは、戦争において尤も効果的に獲べきそれよりも猶一層よく得ることが出来るであろう」

 しかし、近衛がこの手紙を受け取ったのは、氏がその職を辞した直後であり、これを「近衛第三次声明」後の外交交渉に生かすことはできませんでした。だが、おそらくこれは、昭和16年8月の日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「(ハル四原則」(一切の国家の領土保全と主権の尊重、他国の内政への不干渉他)につき「主義上異存なし」と述べたことや、その後の近衛・ルーズベルト会談(実現を見なかったが)において近衛が陸軍に求めた「名を捨てて実を取る日本軍の中国からの撤兵」提案などに反映していたのではないかと推測されます。

 一体、この「中国の主権と独立の尊重」という”あたりまえ”の観念を否定して華北分離工作を強行し、数百万に上る兵を駐兵させて中国に居座ったまま撤兵を拒んで、日本を対米英戦争に引きずり込んだ、この「妖怪」の正体とは何だったのでしょうか。いうまでもなくそれは、満州事変という実行行為を通して日本軍に胚胎したものであり、「中国の主権否認」という形で現実化したものでした。イザヤ・ベンダサンは『日本人と中国人』の中で、先の駐日支那公使蒋作賓の言葉を「中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい」という意味だといっています。おそらく、スチュアート氏の「勧告」も同様の点を指摘しているのではないでしょうか。

 つまり、中国を「他国としてみる目」が欠如していたことが原因であり、日本人の伝統思想である尊皇思想から見た中国のイメージが、現実の中国と余りにも異なり「匪賊国家」に見えたため、自分たちこそ「東亜の盟主」であるとし、中国人はその「内面指導」を受けべきであり、日本のアジア解放・欧米駆逐という大業に協力すべきである、という傲慢を生んだというのです。そしてこのことは、何も軍部だけにいえることではなく、世論となるとこれが決定的で、これが本稿の冒頭に紹介したような「日本人の日中戦争観の狂い」を生じさせたというのです。

 満州事変の発生と、それに対する国民の熱狂的な支持の背景には、中国文化に対する憧憬とそれに対する反発を繰り返しながら、自らの文化を育んできた日本の「中国の辺境文化」として宿命があった。ではそれから脱却するためにはどうしたらいいか。いうまでもなく、それは、こうした自らの行動の規範がどういう伝統思想に由来するかを知ることであり、それを対象化し思想史として客体化できれば、それを脱却して新しい文化を創造することもできるというのです。(山本七平語録「明治維新は疑似中国化革命」参照)

 ともあれ、我々が日中戦争から学ぶべきことは、こうした自らの「内なる中国」と、実際の「外なる中国」とを区別すること。つまり、中国(=他国)の主権を尊重する」という”あたりまえ”の観念を、自らの思想として身につける、ことなのかもしれません。たったそれだけのことができなかったために、あれだけの傲慢と惨劇を生むことになったとしたら・・・。 

2009年1月20日 (火)

なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか3

 前回、「政府及び軍中央の命令を無視し満州の武力占領をめざした関東軍の独断的軍事行動によって、中国主権の否認を前提とした満州国独立が既成事実となり、それを日本政府が追認したことによって後戻りができなくなった」と申しました。私は、ここに昭和の悲劇を理解する最大のポイントがあると思います。この満州事変さえなければ、間違いなく昭和史は別のものになっていたと思います。

 ところが、この満州事変についての評価は必ずしも確定しているとはいえない。私は、これが今日の我が国における歴史観の分裂を招いている最大の要因だと思います。かって主流をなした「自虐的」歴史観においては、この満州事変を否定することによって、それと同時に「満州問題」の存在自体を否定あるいは無視する傾向がありました。一方、最近の修正主義史観においては、この「満州問題」の存在を指摘することで、自動的に満州事変が正当化できると考えているようです。

 最近話題になった「多母神論文」は、いうまでもなく、この後者の立場に立って日本の大東亜戦争における「侵略性」を否定しようとしているのですが、不思議なことに、満州事変をすっぽり抜かしています。なぜそうしたかというと、この満州事変を抜くことで、いわゆる「満州問題」を日中戦争を直接結びつけることができるからです。そうすれば廬溝橋事件に端を発する日中戦争は、どちらかといえば中国のイニシアティブで始まった戦争ですから、日本の「侵略性」を否定することができます。

 また、そうすることで、その中国を後押しして戦略物資を仏印ルート等を通して中国に送り込み、早期の戦争終結と日中和平を願っていた日本の努力を妨害し続けたアメリカ。さらに資産凍結や禁輸によって日本を追い詰めて挑発し、先に手を出させることによって国内世論を対独参戦へと導こうとしたアメリカ。そうした謀略国家アメリカの挑戦に対し「自存自衛」のため戦わざるを得なかった日本の立場を、被害者の位置から(場合によってはペリー来航に遡って)正当化することができるからです。

 これに対して、「自虐的」歴史観においては、満州事変の謀略的・侵略的性格を忌避するあまり、その前段にあった「満州問題」の存在を無視する傾向があるのです。そのため、大東亜戦争は勿論のこと、日清・日露戦争の歴史的な意義についても、日本の膨張的・侵略的な大陸政策の一環として否定してしまうことになります。あるいは否定はしないまでもその意義付けを明確にできないため、明治、大正、昭和の歴史的連続性の把握ができなくなってしまうのです。悪くすれば暗黒史観に陥ってしまいます。

 この問題を考える上で最もよい資料が、瀬島龍三(氏は、大本営陸軍部作戦参謀として同年12月8日の太平洋戦争開戦以降、陸軍のほぼ全ての軍事作戦を作戦参謀として指導したとされる)の『大東亜戦争の真相』大東亜戦争敗戦の教訓1「賢明さを欠いた日本の大陸政策」です。これは、氏が1972年にハーバード大学大学院の要請を受けて、国際関係学者約50人を前に「1930年代より大東亜戦争開戦までの間、日本が歩んだ途の回顧」というテーマで行った講演録をまとめたものです。

 「教訓の第一は、いわゆる大陸政策の功罪についてであります。日本側の立場から見ると、大東亜戦争の動機はハード面では米国の対日全面禁輸、特に石油の供給停止であり、ソフト面から見ると「ハルーノート」に示された米国による日本の大陸政策否定、つまり国家の威信の全面否定にあると考えられます。米国による日本の大陸政策否定は、「ハルーノート」の各条項がこれを示しているばかりでなく、その冒頭にかかげられたいわゆるハル四原則」が、端的にこれを物語っております。

  昭和十六年(一九四一年)八月、日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー米大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」と述べたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥結事項に含ましめることを、極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なるからでありました。

 ともあれ日本の大陸政策に対し、今日の時点において今日の価値観に基づいて断罪を下すことはきわめて容易でありましょう。しかし歴史としては日本が歩んで来た大陸政策のよって来たる由来を、当時の時点においてとらえることを重視しなければならぬと考えます。

 既に申し上げましたように、明治維新(一八六八年)当時における日本の国防環境は重大でありました。インドを併合して清国を植民地化した英国と、沿海州を割取し樺太、千島、カムチャッカに進出した露国、すなわち世界の二大強国が、二百五十年にわたる鎖国桃源の夢の醒め切らない日本に対し、南北二正面から迫って来ていたのであります。徳川幕府末期の思想家橋本左内は日露結んで英国に対すべしと提言いたしましたが、明治政府は日英結んで露国にあたったのでありました。

 このような存亡の危機において、韓国も清国も、国家としての自衛独立の機能に欠如し、主権国家としての責任遂行能力をもっておりませんでした。特に清国は露国の満洲(現在、中国の東北地方)占領を放任するのみならず、満洲経由韓国への侵略も拱手傍観するのみでありました。日清、日露戦争は日本にとってみますと、国防上のやむを得ざる受動的戦争、すなわち明治の時代(十九世紀)における日本の大陸政策は、国防上の必要に基づく防衛圏の大陸推進であり、それは明治日本の国是たる「開国進取」の政策的発展でありました。

 日露戦争勝利の結果日本が満洲において獲得した権益は、露国から移譲されたものが主であり、当時の戦争終結の通念からして戦勝国に与えられるべき権益として世界はこれを明らかに肯定したものでありました。

 その後、この権益の確保拡充を中心として、日本の大陸政策は政治的、経済的、軍事的勢力圏設定へと変貌し、勢いの赴く所満洲事変となり、支那事変へと発展したわけであります。(筆者注:満州事変によって日本の大陸政策が侵略的なものに変質したとの私の指摘は前回述べた通りです。従って、これを連続的・必然的にとらえる著者の見解には同意できません)

 しかしその背景には第一に、日本の国土狭小、資源貧弱、人口過多という国家存立上の当時としては半絶望的条件を、大陸発展により克服しようとする国民的意欲の勃興がありました。

 さらに、世界経済恐慌の波及と世界経済ブロック化の趨勢が、ますます日本と大陸との結合関係を促進し、日満支ブロック経済の確立が国家の存立上不可欠の要件なりとするに至ったことであります。

 その上さらに、対ソ防衛圏の前縁を満ソ国境線に推進することにより、日本本土自体の国防を完うするばかりでなく、東亜の安定を確保することが、日本の使命と考えられたことであります。

 第四に、当時の中国の実体が、なお近代国家として未完成の域にあったことであります。従って中央政令の徹底が不十分であるため地方的処理の必要があったこと、治安の不安定、軍隊の不統制のため、在留邦人の生命財産または権益の擁護に日本が自国軍隊による現地保護の措置が必要であったことなど、中国の特殊事態をも指摘しなければなりません。

 しかも当時の中国の為政者は近代国家統一政策の手段として、国権回収、排外思想を強く鼓吹するのを常としていたのであります。そして戦後日本の代表的指導者であった幣原喜重郎氏が、当時外務大臣として平和協調外交を強調されるに対し、間もなくその外務次官に就任した吉田茂氏が武力強硬外交を主張するという時代であったのであります。

 かくてこの大陸政策は国民的合意を得たものでありました。昭和十六年(一九四一年)十一月東条内閣の国策再検討の結論を求める大本営政府連絡会議において、対米妥協屈伏を伴う臥薪嘗胆案を、本来戦争回避を願う東郷、賀屋両文官大臣が意外にも言下に否定したことは、大陸政策に対する国民的熱意を物語るものでありましょう。(筆者注:ここにおける東郷に関する記述は、氏の回想録『時代の一面』によると、11月初めの連絡会議において戦争回避の方策に努力した際「臥薪嘗胆」と同様の主張を為し、陸海軍に対し勝利の見込みもなく戦争に突入するは国民に対し相済まざるところなりとつめよった、とある)

 昭和十六年(一九四一年)十月二目付米側の口上書をめぐって、和戦の論議が沸騰したときにおける木戸内大臣の日記(十月九日)「日米交渉に関する豊田外務大臣所信」及び「現下国際情勢に処する帝国外交方針天羽外務次官意見」(共に十月十三日)は、いずれも戦争回避を趣旨としながら、大東亜新秩序建設または大東亜共栄圏建設の堅持を強調しているのであります。

 (筆者注:10月9日の『木戸日記』には、近衛公参内拝謁後意見を述べた中に、一、十年乃至十五年の臥薪嘗胆を国民に宣明し・・・とある。また、東郷の東亜政策は、「この地域内の諸国に就いても、主権の尊重と経済協力との基礎の上に善隣友好関係を樹立せんとするを念とした。即ち日本は東亜の先進国として東亜諸国並びに諸地域の進展を助け、平和的手段により東亜の繁栄を図るにあった」とし、これは武力による支配の政策とも異なり、また、「ブロック」経済乃至生活圏の観念とも一致しないのはあまりに明瞭であり、これら生活圏主義を至上とする東亜新秩序の観念の主張主張と相反することは明らか」であり、東條一派の大東亜政策と異なるのは当然としている。(『時代の一面』p437~438)

 当時米国または英国においては、日本における軍の強硬分子にとってかわる協調分子の台頭により、日米英関係が好転するかも知れぬことを、指摘する向きがあったようでありますが、それは日本の実状に対する認識が不十分であり、大陸政策に対する日本国民の合意を的確に把握していなかったものと考えます。

 しかしこの大陸政策が中国ばかりでなく米国によっても否定され、戦争となりました。そして日本はすべてを失いました。結果論として様々な事情があったにせよ私は日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。」(『大東亜戦争の実相』p278~282)

 この最後に語られた「日本の大陸政策はその限界、方法、節度のプロセスにおいて賢明でなかったと断ぜざるを得ません。」という言葉、これはその前に語られた日本の大陸政策に対する弁護の言葉と鋭い対照をなしています。それは、その「限界、方法、節度」において賢明でなかったというのです。では、その「限界、方法、節度」というのは具体的にどういうことか。もちろんこれは日本の満州事変以降の大陸政策全般についていえることですが、これを満州問題についていえば、その「限界」は東三省(=満州)、「方法」は国際法遵守、「節度」は中国の主権の尊重ということであったろうと思います。また、東亜政策については東郷外務大臣の説明の通りであろうと思います。

 また、昭和16年4月に始まる日米交渉において、最大のネックとなったことは、日本軍の中国からの撤兵問題でした。廬溝橋事件以来日中戦争は4年を経過し、この間、日本軍は中国の主要都市の大半を占領して多くの親日政権を樹立し討伐戦を行う一方占領地の治安維持にも当たってきました。この間の日本軍の犠牲者は実に18万人にも上りました。これらの既成事実や犠牲を全て投げ捨てて中国から撤兵するということ、しかもそれをアメリカの圧力に屈する形で行うということは、満州事変以来の日本陸軍の行動を否定することであり、当時の陸軍には到底できることではありませんでした。

 それでも陸軍の主敵はソ連であり、中国から足を抜けない状態の中でアメリカと戦争はしたくなかった。そこで、昭和16年の10月12日、近衛首相の下での最後の日米交渉の段階において、陸軍の武藤章軍務局長は、「海軍の方で『戦争出来ぬ』というのなら陸軍はなんとかおさめるから、本当の処をいって呉れ」と海軍に伝えたといいます。これに対して、及川海相は海軍首脳を集めて対応を協議しましたが、結論は、海相としては戦争をすべきや否やを決定する発言はできぬ。その問題は総理がきめるべきで、そこで総理からはっきり「戦争は避けるべきだ」と言ってもらえばよい、ということでした。

 実際のところ、昭和16年10月6日の海軍首脳会議では、「日米戦うのは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」という結論に達し、及川海相が「それでは陸軍と喧嘩する気で争うも良うございますか」と半分は自己の所信を示し、永野修身軍令部総長の了解を求めたのでした。これに対して永野は「それはどうかね」と述べ、大臣の折角の決心にbrakeをかけられ、意気高揚する場面たちまち白けわたる」といった状況だったといいます。(『第一次世界大戦と日独伊三国同盟』平間洋一p315)

 こうした海軍の責任回避を非難する意見に対して、海軍の高木惣吉少将は次のように反論しています。
 陸軍が「海軍として成算がないから、ということにしてもらえば何とか内部が収められぬこともないが……」と、統制の乱れた陸軍の部内収拾のため、海軍が陸軍の前に膝を折らねばならぬ、とは何と虫のいい勝手な要求であったろう。仮りに国のためなら一身上の毀誉褒貶も、海軍の立場がぬきさしならぬ境地に立ってもかまわぬ、という勇猛な海相や総長がいて、海軍には対米戦の成算がない、ぜひ対米交渉をつづけてもらいたい、と陸軍に歎願したと仮定して、東條陸相、杉山総長は、はたして陸軍の中央および出先の強硬主戦派を統制できたと断言できるであろうか。それができる位ならば張鼓峯でも、ノモンハンでも、柳条溝でも、盧溝橋でも、また近くは南北の仏印進駐でも問題は起こらなかったはずである。中央、とくに大本営命令に違反した南部仏印の強行上陸などなぜ起こったのか。

 一方仮りに奇蹟が現われて陸軍が開戦決意を緩和し、または延期したと仮定しても、反日親支の連中がそろったハル、ハミルトン、ホーンベックの立てこもる米国務省、スチムソンの陸軍省、支那びいきの口ーズヴェルト大統領の率いる米国が、はたして対日要求条件を現実的なラインまで近寄せることができたであろうか。そのいずれの一方の条件が欠けても、海軍はただ年度作戦計画の上奏では陛下をあざむき、国民の前には無敵海軍が一転して無能海軍と化して世論の集中攻撃にさらされ、陸軍に対しては支那事変や北方問題解決(実は対ソ作戦)のために、予算と軍需資材と生産工場を提供しなければならぬ絶好の口実を与えたにすぎないであろう。陸軍部内を統制するのは海軍の泣き言ではなく、陸相、参謀総長の重大な責任ではなかったであろうか。」(『私観太平洋戦争』高木惣吉)

 そこで最後に下駄を預けられた形になった近衛首相ですが、実は、氏は最後に「近衛・ルーズベルト会談」に最後の望みを賭けていました。

 「日米交渉の最大の難問は、中国からの撤兵だが、軍部は到底承知しそうにない。ところが近衛は、『どんな譲歩をしても日米妥協を図る。それには直接御允裁を仰ぐという非常手段をとる』と、なかなか悲壮な決心を固めていたようだ。聖断により中国から撤兵するということであり、木戸氏によれば、『近衛君と僕との話では、そのトップ会談で話がついたら、それを僕のところへ電報で寄こすと……、で、それを陛下に申し上げると……。陛下がそれを御嘉納になればだね、陛下の御命令で軍隊を撤兵するということなら、陛下の御命令とあらは終戦のときでも収まったからね、結局収まるわけなんだ。まあ、年を貸すぐらいのことは認めるだろうと……そう考えていたわけだ』という。『これをやれば殺されるに決まっているが……』伊沢多喜男が心配したら、近衛は「生命のことは考えない」と言い切ったという。『この頃は見上げたものだ。あれならものになりそうだ』。原田は、近衛が松岡を辞めさせたり、生命の危険を顧みずにアノリカヘ行くと聞いて、池田成彬や東久爾たちと、『なかなか粘り強いし意志も強くなって来たようだ』と感心するほどだった。」(『重臣たちの昭和史』勝田龍夫p279)

 一方、東條は「(中国)駐兵は最後までがんばる。優諚(天皇の恵み深いお言葉)があってもがんばる」と天皇の命令さえはねのける決意でした。海軍は前述の通り、「撤兵問題のため日米戦うは愚の骨頂なり、外交により事態を解決すべし」と内部決定をしながら、それを外部には明確にしない。結局、「近衛・ルーズベルト会談」は実らず、東條は説得できず、近衛は昭和16年10月16日、ついに内閣を投げ出し、ここで近衛の政治生命は終わりました。

 この近衛文麿の戦争責任を問う声はきわめて強い。しかし、彼が昭和12年6月に首相になった直後に起こった日中戦争は、明らかに中国側のイニシアティブで始められたた戦争であり、中国の継戦意志が続くかぎり終結することは困難でした。そしてその困難を決定づけていたものが、中国に満州国を承認させることでした。もし「満州問題」が、中国の宗主権を認める形で処理されていたら、この問題の解決は容易だったと思いますが、それが満州国の独立で否定されている限り、例え誰が首相であっても、この問題を解決することは困難だったのではないかと思われます。

 その上、その後の、日本軍の華北五省分離工作に至る度重なる中国に対する主権侵害・侵略行為は、中国人の抗日意志をいやが上にも高めました。昭和10年9月、中国側から「日中両国の完全な独立の尊重、両国の真の友誼の維持、今後両国間の一切の事件は平和的外交的手段により解決する」のほか「蒋介石の考えとして、満州国の独立は承認し得ないが、今日はこれを不問とし、満州国承認の取り消しは要求しない」ということを基礎に話し合いを進めたい」とする申し出がありました。

 これに対して、昭和10年年10月4日、次のような広田三原則が示されました。「一、支那側は排日言動を取締り、・・・欧米依存政策より脱却し対日親善策を採ること、二、満州国はさし当たりその独立を事実上黙認し、反満政策を止め・・・北支方面では満州国との間に経済的、文化的融通提携を行うこと、三、外蒙などよりの赤化勢力の脅威排除のため、我が希望する施策に協力すること。」

 これに対する蒋介石の言葉は次のようなものだったといいます。
 「9.18事変発生以来、継続不断に上海事件、華北事件と踵を接してくる。全国上下、ひとしく極度の煩悶、苦痛に陥る。・・・最大の忍耐をなすに当たっては、主権を侵さざるをもって限度とする和平いまだ絶望の時期に至らざれば、決して和平を放棄せず。犠牲いまだ最後の関頭に至らざれば、まだ決して軽々に犠牲を言わず・・・これより全国の同胞、振奮鼓舞、埋頭努力、共に抗日戦争の積極準備を為す。」(第五次国民党全国代表大会)(『陸軍の反省』加登川幸太郎p65)

 そしてついに、廬溝橋事件を経て、蒋介石は「生死関頭の演説」をなすに至りました。
 《……弱体国家の人民として吾人は、数年来隠忍自重、あらゆる痛苦を忍びて和平を維持し来りしが、もし不幸にして最後の関頭に至らば、徹底的犠牲、徹底的抗戦により、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり。その時に至って、再び不徹底なる妥協をなすことは許されず、全国国民はいわゆる「最後の関頭」の意味を充分に認識すべきなり。

 蘆溝橋事件は、もとより日本側の計画的挑戦行為なり。・……今日の北平にしても、もし昔日の奉天と化したらんには、今日の糞察はまた往年の東北四省となるべく、北平もし奉天とならば、南京またかつての北平と化することなきを誰か保せんや。故に蘆溝橋事件の推移いかんは、中国にとって実に全国家的問題にして、同事件収拾の能否は、吾人の最後の関頭の境界なり。……五に人の和平解決の条件には、きわめて明瞭なる左の四項あり。

一、いかなる解決も中国の領土と主権とを侵害するを許さず。
二、糞察の行政組織に対する、いかなる非合法的改変も容認し得ず。
三、翼察政務委員会委員長・宋哲元らの如き中央政府の派遣する地方官吏を、外部の要求により更迭せ しむるを得ず。
四、第二十九軍現在の駐屯地区に対する、いかなる制限をも受け得ず。
 これを要するに政府は、……全力をつくしてこの条件を固守せんとするものなり。……》

 この廬溝橋事件の発端については、中国側第29軍の兵士による「偶発的発砲」(秦郁彦氏の見解)の可能性が高いとされていますが、いずれにしても、この後の郎防事件、公安門事件、通州事件、上海事件等そのいずれも、中国側の激しい抗日抗戦意志を示すものであることは疑いありません。

 この間8月7日、陸海外三省会議決定の停戦協定案及び国交調整案が示され、1933年以降日本が華北で獲得した既成事実の大部分を放棄するとともに、満州についても「中国は満州を承認するか、あるいは満州国を今後問題とせずという約束を穏約の間になすこと」と大きな譲歩案が示されましたが、8月9日上海で突発した大山事件もあり、交渉はなんら進展することなく中絶しました。(『日中戦争史』秦郁彦p228)

 こうして始まった日中戦争を、アメリカの圧力を受けて日本軍の一方的な中国からの撤兵という形で終わらせることは、昭和12年末の南京占領、13年の徐州・漢口作戦、広東作戦、昭和14、16年の南昌・南寧作戦、宣昌作戦、華北の百団大戦と続いて、日露戦争を超える犠牲者(日米開戦までの日本軍犠牲者は約18万人)を出している現状においては極めて困難なことでした。

 よく、南京戦におけるトラウトマン和平工作の失敗が近衛の責に帰せられますが、中国側のイニシアティブで始められた抗日戦争である上海・南京戦の勝利の後に、開戦前の「国交調整案」でその終結をはかることは無理だったのではないかと思います。まして、それより4年後の日米交渉の段階において、中国からの撤兵を前提とする日米交渉を成功させることはどれだけ困難だったか。

 先に紹介したように、近衛は、終戦時に鈴木貫太郎が用いた天皇聖断をもって、中国からの日本軍の撤兵を実現し日米戦争を回避しようとしました。しかし、もし「近衛・ルーズベルト会談」が成功して日本軍の中国からの撤兵が約束されたとしたら、結局、「あいつはやはり公卿だ、長袖政権が英霊をむだ死にさせて屈服した」ということになって殺されたであろう。」と山本七平は推測しています。(『激動昭和の領袖』「近衛文麿」山本七平p214)

 この中国本土への、数百万に上る日本軍駐兵という恐るべき結果をもたらしたものが満州事変であり、その帰結が日米英戦争であったことはいうまでもありません。満州事変は関東軍の一部参謀による謀略によって引き起こされたものであり、政府及び軍中央の不拡大方針を無視した関東軍の独断的軍事行動によって満州占領が企図されました。しかしその途中で、これでは国際的非難を避けがたいということになり、満州人による自治運動の結果としての満州国の独立という体裁にし、その執政として廃帝溥儀を担ぎ出し、それを関東軍が内面指導するという形で日本の傀儡国家としたのでした。

 この満州国出自におけるあまりにもあからさまな”虚偽”が、それゆえに国際社会に対して、さらには国民に対して隠蔽され、自衛戦争の名の下に正当化されたということが、日本陸軍が、その暴露につながりかねない中国からの撤兵を恐れた、その”本当の”理由だったのではないかと思います。また、アメリカの執拗な日本軍の中国からの撤兵要求も、あるいはここにその根拠をおいていたのかもしれません。(下線部1/28挿入)

 この満州事変その必然的結果として導かれた日中戦争の性格について、橋川文三は次のようにいっています。

 「あの戦争は非常に不思議な戦争で、宣戦布告がないし、戦闘はやっているけれども、いわゆる裏面工作では、和平工作というのが執拗に最後まで行われるわけでしょう。極端にいったら日本国民は、あれを戦争と思ってないかもしれない。そのことが致命傷になって、太平洋戦争入るときも、指導者を含めて日本国民の判断を狂わせてしまっているのではなかろうか。なにか、私なんかの体験でもぜんぜんすっきりしなかったという記憶を持つんですね。そしていつの間にかそれに慣れちゃって、太平洋戦争にああいう形で入りますと、これは本当の戦争だと少し元気になったという、奇妙な記憶があるんですがね。」(『シンポジウム日本歴史 ファシズムと戦争』p245)

2009年1月11日 (日)

日本はなぜ大国アメリカと戦争をしたか2

 前回私は、日本が無謀な対米英戦争に突入することになった根本的な原因は、満州事変以降の日本の大陸政策の誤りにあったのではないかと申しました。結局、それが「日満だけでなく日満支ブロックさらには東南アジアの資源地帯を含めた大東亜ブロック(政治)経済圏を日本の武力を背景に作り上げ、それをもってアメリカやイギリスの大陸進出に対抗しよう」ということになり、もし、それが彼らによって妨害されるなら戦争も辞さない」ということになったのです。

 問題は、こうした流れの端緒となった満州事変及びそれに続く満州国の建国です。国際連盟のリットン報告書は、この事件の発端について次のような認識を示しました。

  「まず満州事変の発端となった柳条湖事件について,日本軍の軍事行動を〈合法なる自衛の措置と認むることを得ず〉と認定し,満州国についても,〈現在の政権は純真且自発的なる独立運動に依り出現したるものと思考することを得ず〉と断定して,柳条湖事件以来の日本の主張を否定」しました。

 しかし、その一方で、「〈毒悪なる排外宣伝〉が中国の〈社会生活の有らゆる方面を通じて実行せられた〉こと,日本が中国の〈無法律状態に依り他の何れの国よりも一層多く苦しみた〉ることなどが紛争を誘発したとして中国の側にも一半の責任があると認定」しました。

 その上で、報告書は「〈単なる原状回復が何等解決たり得ざること〉は明らかであるとし,東三省(吉林,黒竜江,奉天の3省)に広範な自治をあたえ,自治政府を設けること,特別憲兵隊が治安維持にあたり,それ以外の日本,中国のすべての武装隊は撤退すること,自治政府に外国人顧問を任命し,〈其の内日本人は充分なる割合を占めること〉」などを提議しました。

 「結局,報告書の構想は東三省を日本を中心とする列強の共同管理下におくことにあり,日本の排他的な覇権を否定する一方,日本の優先的地位を認め,日本が国際連盟と妥協することを期待するもの」でした。

 しかし、すでに満州国を承認していた日本政府は、この報告書が満州事変に伴う日本の武力行使を自衛権の発動と認めず、また満州国の成立を独立運動の結果と認めていないことを理由に、この提案をまったく受けつけませんでした。

 そして、11月21日開会の国際連盟理事会に報告書が付議されると,日本代表松岡洋右はこれを激しく非難し,報告書の提案を問題解決の基礎として受け入れるという中国代表と激論を重ねましたが、1933年2月24日の総会がこの報告案を42対1の票決により採択すると,日本代表は退場,3月27日,日本は国際連盟に脱退を通告したのです。(以上『平凡社世界大百科事典』「リットン報告書」の項参照)

 このリットン報告書に対して「我が朝野の態度は、反駁、非難、罵倒、冷罵など、さまざまの批判」がなされました。当時の雰囲気については、昭和6年12月第二次若槻礼次郎内閣総辞職とともに外務大臣を辞して野にあった幣原喜重郎――彼は当時世間から軟弱外交の代名詞のように蔑視され完全に「忘れ去られた人」となっていた――は彼の友人大平駒槌宛書簡で次のようにいっています。

 「近頃時局の変態に営り、國際開係は理解なき民心に媚びむが為め、新聞に、演説に”ポスター”に偏狭なる排外思想を鼓吹せむとするもの多く、我國も宛然支那と同一の水平線に落ちたるの観あり。聯盟調査委員の報告書所載の事實叉は意見にして現實の認識不充分なるものあらは、我当局の努力足らざりしことを證するに拘はらず、自己の責任を省慮せずして調査委員を悪罵する現状、寔(まこと)に苦々しきことと存候(昭和七年十月十五日附)」

 では、満州問題解決のために幣原がとるべきと考えていた具体的方策とはどのようなものだったのでしょうか。私は、それは、満州事変が起こる一ヶ月くらい前に、当時広東にあった汪兆銘政権の外交部長陳友仁との間にかわされた、日中政府間の満州問題解決のための確認書に明瞭に示されていると思います。

 陳友仁は、幣原に、まず満州の総督制度をやめてノミナルな支那の承認の下に日本が任命するハイコミッショナー組織とすることを提案します。それに対して幣原は次のようにいいます。「支那人は満洲を支那のものと考へているやうだが、私共から観れば、それはロシアのものだった。團匪事件の後に、牛荘の領事を任命するのにロシアの許諾を求めたといふやうな事情であった。支那の學生などは、さうした歴史を知らないから自分の力で満洲を取り返したやうに考へているが、露國を追ひ出したのは日本である。」

 「日露戦争の終結以来、満洲は建設的事業の凡有る方面に於いて驚くべて進展を示し、支那の他地方にかって見ない程度の平和と繁栄とを獲得した。斯くの如き東北諸省の発展が少くとも一部分は日本の同地方に於ける企業及び役員の結果なることは、我が國民の確信する所である。

 しかし吾人は未だかって満洲に對する中國の領土権を争いたることは無い。吾人は同地方に對する中國の領土権を明白に承認し、且之を領土権たる凡有る意味に於いてこれを尊重せんとするものである。要するに吾人は同地方の領土権を要求するものではないのである。

 然し乍ら吾人は日本國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、相互的親睦及び協力の基礎の上に満洲に居住し商、工、農業に従事し、其の他一般に同地方の経済的開発に參加し得る如き状況の確立せられんことを期待するものであって、これを以て少くとも道義的に吾人の有する当然の要求であると思惟する。

 次に満洲の鉄道問題につき吾人は中國側の如何なる鉄道計書も、南満洲鉄道の存立及び運行に對する脅威を企図するものでない限り、これに干渉せんとするが如き意図を持たないし、叉千九百五年に日清両國代表者が調印した北京會議議定書には南満鉄道と並行し、叉は同鉄道に有害なる鉄道を敷設しない旨、中國政府は保障してゐるのである。何れにするも中國が日本の南満鉄道所有及び経管に同意せる以上、苟も該鉄道を無價値ならしめんとするが如き線路の建設を計書することが出来得ないことは、信義の観念上からいっても自明の理と謂ふべきものである。

 吾人は本問題に就いても「共存共栄」の主義に據らんとするもので、我方としては中國が我方累次の抗議を無視し、建設したる既成競争線の撤去を要求せんとするものではないが、しかし日華鉄道系統間に無盆なる競争を予防するに足るべき運賃率及び運輸連絡を取極めるの要あることを主張するものである。吾人は両國鉄道当局が友好的協力の共通の基礎を発見し、以て双方の永続的利盆に資するの可能なるべきを信ずるものである。」

 こうして両者の間に非公式ながら次のような確認書が交わされました。

一、過去四半世紀聞を通じ日華両國間に存在せる不満足なる開係を終了せしむること両國のため利益なり。

二、両國関係は之を眞の親善の基礎の上に置かざるべからず。右は廣東政府が支那の承認せられたる政府となりたる暁、同政府と日本政府との間に締結せらるべき協約又は條約に依り形成せらるる同盟叉は協商の形式を取り得べし。

三、該締約には極東に於ける平和の必要及び其の維持保全を明定すべく、而して一般に挿入せらるる形式的の普通の條款の外不侵略條款及び日支両國間に係争中又は未解決なる総ての問題及び事項、殊に満洲に関するものの解決に関する規定を設くべきものとす。

四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意圖なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により賦与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経管及び運行は同鉄道の破滅を企画する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。

 一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来たれる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に開する取極にして成立するに於いては、之を既成事實として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。而してこの道徳的要求権は三個の考慮による。

 即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。

 第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当り満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し常時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事實を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。

 第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。

五、日支雨國間の締約が有効なる為には支那側に於ける一種の國民的承認を経ざるべからず。此の点に関し、陳友仁氏は右は國民党なる機関を通じ實現し得べき旨を述べたり。叉同氏は支那側に於いては斯る締約は全國大會に於いて國民党に附議し、其の承認を得たる後に於いてのみ批准せらるべきものなることを表明せり。(『幣原喜重郎』幣原平和財団)

 満洲事変が起ったのは、この会談が行はれて後、約五十日ほど後のことでした。その後十月には、上海で南京、広東の平和統一会議があり、十二月には国民党四全大会があって、南京と広東に分地開会し、予ての諒解により蒋介石の下野宣言、広東南京蒋汪合作政府成るといった筋書きが績きました。汪精衛氏としては、恐らくは南京に乗り込み、国務を分担するについては対日政策を決定し、日本との諒解を遂げておいて、政策具現の資に供しようとしたのではないか、と幣原は推測しています。

 その後、陳友仁は須磨總領事を通じて幣原に書簡を送って来て、「満洲事態は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張學良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と書いてあったといいます。(昭和18年10月幣原稿)

 ここにおけるポイントは、まず、日本は満州に対する支那の主権を明白に承認し、同地方について領土的侵略の意図がないことを明らかにする、ということです。その上で

一、日中親善の基礎の上に両国間に同盟または協商条約を結ぶこと。
二、極東における平和の維持のため両国間に不可侵条約を結ぶこと。
三、両国間の係争中又は未解決の解決のための条約を結ぶこと。
 などが提言されました。

 また、幣原はこの確認書の中で、重ねて次のような点を指摘しています。
 歴史的にいえば、満州は日本が日露戦争の犠牲を払って取り戻し支那に返還しないかぎり、ロシアの領土となっていたこと。また、日本が満州を中国に返還したのは中国が中立の立場にあったからであって、もし、日露戦争の当時、中国がロシアと秘密同盟を結んでいたことを日本に知ることができていたならば、自ずと別の解決方法をとっていたかもしれないこと。また、今日の満州の繁栄は相当に日本の企業努力や投資に負っていること。

 こうした幣原の考え方は、満州事変勃発後、日本政府が10月26日に発表した満州事変に関する声明書にも次のように明示されています。
一、相互的侵略政策及び行動の否認
二、中国領土保全の尊重
三、相互に通商の自由を妨害し、国際的憎悪の念を煽動する組織的運動の徹底的取締
四、満州の各地に於ける帝国臣民の一切の平和的義務に対する有効な保護
五、満州に於ける帝国の条約上の権益尊重

 ところが、こうした幣原の将来の日中関係及び国際関係を考慮した問題解決努力にもかかわらず、関東軍は全く中央の命令に服さず、事変を全満州に拡大し、しかも内閣にも陸相もこれを抑えることができない。そのため、どれだけ立派な国策が立案されても、その施策や所信は全く行われない。こうして日本外交の国際的信用は地に墜ちてしまいました。幣原は、何とかして時局を平和裏に切り抜けたいと念願し、「実に気の毒なほど苦慮し暗躍しましたが、殆ど手のつけようがない」状態に追い込まれ、ついに第二次若槻内閣の瓦解と共に辞任のやむなきに至りました。(上掲書)

 ところで、このような幣原の満州問題の平和的解決策は、その後の国際連盟のリットン報告書の提言ともかなり共通する部分を持っています。リットン報告書の概要は先に紹介しましたが、次にその具体的提言を紹介します。

一、東三省に特別行政組織を構成する。
 シナ中央政府(国民政府)は一般的な条約や外交関係の管理、税関、郵便局、塩税等の事務管理(これらの純収入は両政府間で公平に配分する)、東三省自治政府の執政の第一次任命権(ノミナルな)等を持つ。この執政は適当数の外国人顧問を任命するが、そのうち日本人が十分な割合を占める。その他の権力はすべて東三省自治政府が有する。東三省の武装隊として特別憲兵隊を置く。

二、日本の利益に関する日支条約を結ぶ。
 東三省における日本人の特定の経済的利益と鉄道問題を取り扱う。その目的は、「満州国」の経済的開発に対する日本の自由な参加、熱河省において日本が享受しつつある権利の存続、居住権及び商租権を全満州地域に拡大する。また、これにともなって治外法権の原則を多少修正する。鉄道運行に関する協定を結ぶ。

三、調停、仲裁裁判、不侵略及び相互援助に関する日支条約を結ぶ。
 これらによって日支両国政府間における紛争の調停を行う。また、不侵略相互援助に関する規定にもとづいて、当事国は満州が次第に非武装地帯となることに同意する。

四、日支通商条約を結ぶ。
 通商条約は当然、他国の現存条約上の権利を保障しつつ、できるかぎり日支両国間における公益を増進すべき条件の設定を目的とする。(『リットン報告書』渡部昇一)

 つまり、満州国をシナの統一国家の枠組みに置きつつも東三省を自治政府として認める。その自治政府と日本の特定の経済関係や鉄道問題を処理については日支条約により、できるかぎり日支両国間の公益を増進するような条件を設定する。満州を非武装地帯とする。これらによって、この新体制を、連盟規約や不戦条約、九カ国条約の精神に合致するものにすると同時にシナの主権とも両立する、としたのです。

 だが、先に述べたように、この時すでに満州国を承認していた日本政府(斉藤実内閣)は、この報告書が満州事変に伴う日本の武力行使を自衛権の発動と認めず、また満州国の成立を独立運動の結果と認めていないことを理由に、この報告書の受け入れを拒否し、さらに、この報告書に基づく勧告が国際連盟総会で四十二対一で可決されたことから、国際連盟からの脱退を宣言しました。

 問題の焦点は、満州国の成立をもって中国の主権からの分離独立とすることを認めるか否かということにありました。そして中国は、日中戦争期さらに大東亜戦争期を通じて、こうした「満州国の独立」を公式に承認することを拒否しつづけました。本当は日本が満州の独立の承認を中国に求めるというのは、満州国を独立国と宣明する以上おかしなことであり、それをあえてするということは、満州は日本の傀儡国家だといっているに等しいのですが、いずれにしても、この問題が最後まで日中戦争を和平に導く最大の障碍となったのです。

 実は、満州国を正式承認した斉藤実首相の前の犬養毅首相も、満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとしていました。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものでした。しかし、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居たためにじゃまされ、成功の可能性のあった交渉は挫折してしまいました。(『犬養毅』時任英人」)

 犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱き、陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えました。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようとしました。当時、前蔵相井上準之介の暗殺(2.9)や財界の大立者團琢磨の暗殺(3.5)などに対するテロが相次ぎ(血盟団事件)、軍閥や右翼の勢力が伸張しつつありました。こうした中で5月15日に、犬養首相は、現役の海軍将校によって永田町首相官邸で射殺されてしまいました。

 幣原は、この五.一五事件の公判についても次のような感想を漏らしています。

 「昨今五・一五事件の公判過程を見るに、軍法會議に於ては荐(しき)りに各被告をして其犯罪の動機に付大言壮語せしむるの機會を輿ふるに努むるものの如く、被告の誤解または軽挙を指摘せむとするの意向毫も見受けられざるは甚だ面白からず。斯かる公判の経過発表は、今後も無思慮の青年を駆って同一歩行を再演せしむるに至らざるか私かに憂慮に堪へず候。」(八月三日附)

(以下の文章のうち推敲が不十分な部分を修正しました。1/16)

 日本はこうして破滅の道を歩むことになりました。よく対米英戦争に至ったポイント・オブ・ノーリターンはどこか、ということが議論されます。それは日独伊三国同盟であったり、南部仏印進駐であったり、あるいはハルノートであったりするわけです。しかし私はそれは、以上述べたような満州事変以降の日本の大陸政策――満州を中国の主権から切り離して日本の傀儡国家とし、そこを前線基地として日満支ブロック(政治)経済体制を確立し、もって米英に対抗しようとした――が、満州事変を経て国民的合意を形成した時点に置くべきではないかと思います。

 つまり、この満州事変の奇跡的成功が、満州独立を前提とする日本の大陸政策の国民的合意を形成し、それが、その後幾度となく繰り返された日中和平工作を失敗に終わらせ、さらには日米交渉をも破綻させることになったのです。昭和16年8月、「日米巨頭会談の実現に焦慮する近衛首相が、グルー大使に対し、「ハル四原則」につき「主義上異存なし」としたことが後日問題化し、また東条内閣の対米交渉甲案において、「ハル四原則」を日米間の正式妥協事項に含ましめることを極力回避することとしたのも、それが大陸政策の否定に連なる」(『大東亜戦争の実相』瀬島龍三p278)と判断されたためでした。

 また、五.一五事件を経て日本政府がこの満州国を承認したによって、それまでの関東軍の行動――政府や軍中央の命令どころか天皇の奉勅命令さえも無視した独断専行の侵略行為――が是認されることになりました。そのため、結果さえよければそうした行為も報償の対象となり栄達が約束されるという、まさに恐るべき下剋上的風潮を軍内に蔓延させることになりました。それどころじゃありません。時の首相や政府高官を白昼堂々、軍服を着たまま首相官邸等に乗り込んで射殺するという卑劣極まる行為さえ、動機が純粋であれば許されるというモラルハザードを招来するに至りました。

 こうした下剋上的風潮の中で、当時の世界恐慌に端を発する経済不安があおられ、一方ロシア革命に端を発する共産主義思想が流行し、それに対する反動として国家社会主義が唱えられ、それが、日本の伝統的な尊皇思想における天皇親政という、伝統的なるが故に強力な政治イメージと結びつくことになったのです。こうして、明治憲法下の統帥権や「軍部大臣現役武官制」(首相の閣僚任免権の不在という明治憲法の制度的欠陥をついたもの)をテコとして、軍部による政治支配が貫徹されることになりました。

 また、軍部内においても、政党政治や議会政治のくびきを脱することによって一切のチェック機能が働かなくなり、派閥抗争の巷と化し、はてに2.26事件を生むに至りました。さらに、こうした政治テロへの恐怖が、政党政治や議会政治を窒息させ、政党を解体し大政翼賛会という軍部の大陸政策を追認するだけの御用組織を誕生させることになりました。こうして軍部の専横は殆どコントロール不能となり、ヒトラーとの同盟さらには南部仏印進駐となって米英との対立を決定的にし、ついには対米英戦争へと突入することになったのです。

 つまり、こうした流れを必然ならしめたその発端となった事件こそ満州事変というべきであって、これが、その後の日本の大陸政策を決定し、冒頭紹介したような、リットン報告書を一顧だにせずにはねつけるという、かたくなな国民世論を形成したのです。この満州事変さえなければ、幣原喜重郎と陳友仁の確認書に見られるような張学良を排除した上での満州自治も可能でした。また、当時の軍中央でさえもそうした満州における実力行使を含む新政策の展開について、国際社会の理解と支持を得るべくなお1年間の宣伝工作の必要を認めていたのです。

 それが、政府及び軍中央の命令を無視して満州の武力占領をめざした関東軍の独断的軍事行動によって、中国主権の否認を前提とした満州国独立が既成事実となり、それを日本政府が追認したことによって後戻りができなくなったのです。そして、このような軍部の行動を支えた(正当化を訂正1/19)たものが、尊皇思想にいう天皇親政という政治イメージだったのです。そしてそれが、明治憲法に規定された立憲君主制と衝突し、天皇機関説排撃事件となり、立憲君主制を機能不全に陥れてしまったのです。

 そうした日本の尊皇思想という日本の伝統思想の思想的系譜及びそのメカニズムを、江戸時代草創期における日本への朱子学の導入に遡って解明し、その思想的克服を提言したのが山本七平でした。(松岡正剛『千夜千冊』「山本七平」参照

2009年1月 5日 (月)

なぜ日本は超大国アメリカと戦争をしたか

  昨年の暮れに、「山本七平学のすすめ」の談話室で今回のエントリーにあるような質問を受けました。簡単に答えられることではないのですが、これを機に自分が現在理解している範囲で考えをまとめてみました。談話室のコラムには少し長すぎるので、ここに転載しておきます。参考までに!

Q なぜ日本は超大国アメリカと無謀な戦争をしたか

 おそらく一か八かの賭ではあるけれども勝てるチャンスがあると思ったのでしょうね。もちろんそう考えたのは対米戦の主役となった海軍でなければなりません。戦後、「なぜ、多年にわたって米国を研究し、最も米国を知っていたはずの日本海軍が、米国に対して戦争を開始することになったか」と問われたそうです。

 また阿川弘之氏の「米内光政論」以降、海軍善玉、陸軍悪玉論が唱えられるようになりました。しかし、実際はその海軍でも、昭和10年頃までには、米英との協調を重視するいわゆる条約派は大半が予備役編入され、一方、反英米感情を持った親独派であるいわゆる艦隊派が海軍中堅を占めるようになっていました。

 なぜ、「つねに科学的、合理的であることを組織の本質」とした海軍に、こうした合理性から逸脱し、いたずらに危機感にあおられ反米感情を持った政治的軍人が増えたのか。実は、ここにも、陸軍の場合と同じく、海軍兵学校や海軍大学校を卒業したエリート青年将校の被害者意識という問題があったのです。

 それは1922年のワシントン軍縮会議における主力艦対米英7割(6割で妥結)、1930年のロンドン軍縮会議における補助艦の対米比率7割(重巡洋艦6割等で妥結)という要求がが達成できなかったことで爆発し、いわゆる統帥権干犯問題を引き起こします。これは表向きは兵力量の問題とされましたが、後者の場合、全体的にはほぼ7割が達成されていたことから見て、その不満の根底には、陸軍の青年将校の場合と同じく、軍縮に伴うエリート青年将校の軍の社会的威信の低下に対する不満があったのではないかと思われます。

 この時、彼らをとらえた政治思想も陸軍の場合と同じで、昭和維新により軍縮を推進した政党政治の撲滅を図るとともに、英米等アングロサクソンに対する一種の攘夷論を根拠に日米戦争を宿命と見てこれに備えようとしていました。このことは5.15事件の首謀者が海軍の青年将校であったことでもわかります。こうして海軍の中枢を占めるようになった彼らは艦隊派と呼ばれ、ワシントン、ロンドン軍縮条約を破棄し(1936)、米英との無制限建艦競争に突入していきます。(下線部修文)

 昭和11年には日独防共協定が締結され、この年の第三次改定帝国国防方針において初めて米国が主たる仮想敵国とされるに至りました。そして昭和12年7月に日中戦争が始まると、米ルーズベルト大統領が「『国際的無政府状態』を引き起こしている国(日独伊)に対する隔離演説」(12.10.5)を行い日米対立が先鋭化します。そして昭和14年2月、援蒋ルート遮断のために海軍が海南島を占領すると、アメリカはその報復として日米通商航海条約を破棄、その結果、日本は石油の確保を蘭領印度に求めざるを得なくなりました。

 また、彼らは、昭和13年夏ドイツが提案した日独伊防共協定を軍事同盟に格上げする案を陸軍とともに後押しし、昭和14年には、このために200日、70回に及ぶ五省会議が開かれました。しかし、海軍省中枢の米内光政海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長が反対しこれを抑えました。しかし、14年夏には米内は海相を辞任、山本はテロを避けるため連合艦隊に、井上も支那方面艦隊に出されます。この間しびれを切らしたドイツは、14年8月日本を裏切ってソ連と不可侵条約を結びます。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」と辞任、続いてドイツは9月にポーランドに侵入、これに対して英仏両国がドイツに対して宣戦布告し第二次大戦が始まりました。

 翌、昭和15年5月ヒトラーはオランダ、ベルギーに侵入してこれを降伏させ、英仏連合軍をドーバー海峡に追い落とし、6月にはフランスを降伏させます。このようなドイツの快進撃に、日本では”バスに乗り遅れるな”、この機に乗じて東南アジアの仏・蘭・英の植民地資源地帯に進出すべし、とする主張が、軍部、議会、マスコミに風靡し、こうして再び日独伊三国同盟の締結が主張されるようになりました。また、これと独ソ不可侵条約とを結びつけることによって、日独伊ソ協商が結ばれれば、中国を支援している米英に対する日本の立場を強めることになるとの判断も生まれました(近衛首相はこうした考え方を支持しました)。

 こうした中で9月に日本が北部仏印に進駐、その直後に日独伊三国同盟が締結されました。これに対してアメリカはすかさず屑鉄・鉄鋼の対日輸出を全面禁止。これに対して日本は、翌16年4月に日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保して南進を進めようとしました。

 一方、これと平行して、日本とアメリカの間で日米衝突を避けるための交渉が「日米諒解案」をもとに始まりました。アメリカは「ハル四原則」(すべての国の領土主権の尊重、内政不干渉、すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持)を示します。日本は、①日独伊三国同盟は防衛的なもの②日中間協定によって日本軍が中国から撤兵する③中国に賠償を求めない④蒋介石、王兆名両政権の合流を助ける⑤中国は満州国を認める、アメリカが中国国民政府との平和を斡旋する、日米間の友好通商条約を正常に戻す、という案でアメリカと妥協を図ろうとしますが、松岡洋右がこれに反対し交渉は頓挫します。

 こうするうち、6月にはまたまたドイツが日本を裏切りソ連に対して宣戦布告。日本は度重なるドイツの不信行為を理由に日独伊三国同盟を破棄することもできたのに、南部仏印、蘭印に対するドイツの影響力を慮ったのか、7月に関特演を実施し70万の兵力を満州に集めてソ連を牽制する一方南部仏印に進駐。これに対してアメリカは日本の在米資産を凍結するとともに石油輸出を全面禁止する措置に出ました。(下線部挿入1/6)

 こうして日本は9月6日の御前会議で「自存自衛を全うし」「大東亜の新秩序を建設する」ことを名目として米英との開戦を決断するに至ります。この後も、近衛首相とルーズベルトの直接会談が検討されますが、陸軍との調整がうまくいかず近衛は辞任、代わって10月東条英機が首相となります。

 この時も、天皇の希望によって外交交渉の継続がはかられ、11月7日には最終譲歩案(甲案)、20日には最終暫定協定案(乙案)が出されますが、これに対し米国務長官ハルは、11月26日両案を拒否し、中国とインドシナからの日本軍の撤兵、重慶政府以外の政府・政権及び三国同盟の否認という、それまでの交渉経過を無視したいわゆるハル・ノートを提示します。日本はこれをアメリカの最後通牒と受け取り、こうして、12月1日の御前会議で米英との開戦が最終決定されることになりました。(下線部挿入1/6)

 ところで、こうした対米英戦にそなえるための海軍の伝統的戦術とは、一体どのようなものだったのでしょうか。それは、漸減邀(よう)撃戦という長期持久戦で、その間、南方資源地帯を確保し輸送路を作って米主力の来航を待ってそれを迎え撃ち、その戦力を漸減させ最終的には主力艦の艦隊決戦で勝負を決する、というものでした。しかし山本五十六は、日米の国力差から到底米英と戦争することは無理であり、それ故に日米英衝突は避けるべきで、日本は穏忍自戒、臥薪嘗胆すべしと考えていました。

 しかし、もし避戦ができないなら、海軍の伝統的な邀撃長期持久戦では勝ち目はないので、前方短期決戦で敵機動部隊を撃滅し、アメリカの戦意を喪失させつつ早期に講和に持ち込む作戦を採るべきと主張したのです。最終的には、軍令部は、山本の案をあくまで南方作戦の支援のための一作戦と位置づけることでこれを認めました。このため敵機動部隊撃滅のための連続決戦という山本の作戦が中途半端なものとなりミッドウェーの大敗につながったとされます。

 だが山本も、この作戦(真珠湾攻撃)について「桶狭間とひよどり越えと川中島と合わせ行うの已むをえざる羽目に追い込まれる次第」と述べているように、もしこれで失敗したら、対米戦争はいさぎよく断念すべきと考えていたのです。この作戦の重点はむしろここにあったのではないかと半藤氏は見ています。(以上『太平洋戦争への道』『昭和史探究』5 半藤一利 参照)

 以上、ロンドン軍縮条約から日本が対米英戦争を突入するまでの海軍の動きを見てきました。では、一体、この間の歴史のどこに誤りがあったのでしょうか。

 私は基本的には、日本の満州事変以降の大陸政策の誤りが原因だと思います。つまり、日満だけでなく日満支ブロックさらには東南アジアの資源地帯を含めた大東亜フロック(政治)経済圏を日本の武力を背景に作り上げ、アメリカやイギリスのブロックに対抗しようとしたところに根本的な誤りがあったのではないかと思います。

 つまり、日露戦争後世界の一等国になったと錯覚し、アジアの盟主として満州を武力占領し(結果的には満州傀儡国家となった)、さらに華北を国民党政権から分離して親日政権を樹立し、さらに国民党政権を否認して汪兆銘という親日傀儡政権を樹立し、中国を武力でもって親日(?)国家にしようとした、そうした一連の流れを導いた、その基本的考え方に問題があったと思うのです。(下線部挿入1/6)

 確かに、それは当初から意図されたものではなく、満州事変が予想外にうまくいったものだから、ついそうした妄想に駆られて欲を出し華北にまで手を出した、そのために中国人の反撃に遭い泥沼の日中戦争となった、というのが本当のところだろうとは思いますが、それは、こうした無原則な成り行き任せの「切り取り勝手次第」の国策の遂行が必然的にもたらした結果であるといわざるを得ません。(下線部挿入1/7)

 また、こうした一連の日本の行動が、当時の国際連盟規約及び不戦条約による侵略戦争の禁止や、九カ国条約による中国の領土保全、主権尊重、門戸開放・機会均等、内政不干渉等の原則に違反しているという意識、それが、軍部だけでなく、当時の政治家、マスコミ、そして国民にも全く見失われていたことも見逃せない事実です。

 これらの国際法規は、第一次世界大戦による甚大な被害に驚いた西欧諸国が、その後の国際社会における平和維持のルールを確立しようとしてできたもので、軍縮条約もその一環でした。しかし、日本人はこれはアングロサクソンがアジアにおける利権の拡大を図ろうとするもので、先に述べたような日本の大陸政策を掣肘するものだと被害者意識で受け止めたのです。(下線部修文1/7)

 一方、満州事変以降の日本軍の行動に見られる特徴は、日本人の無原則性を如実に示すもので、法的規範を無視しても既成事実を積み上げ、その結果さえよければすべてよし、例えそれが軍中央の命令を無視した独断的行動であっても、罰されるどころか逆に栄達を重ねるといったような事があからさまに行われ、これが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延させる元凶となりました。

 そうした武力優先の考え方が、むき出しの侵略行為に狂奔する独裁者ヒトラーに対する崇拝を生み、さらにそのヒトラーにそそのかされて南進政策を選択し、東亜の資源地帯を押さえることで米英に対抗し、ついには大東亜共栄圏という新秩序(はたしてどのような?)を打ち立てるという妄想を実行に移させることになるのです。(下線部修正1/7)

 この間、政党政治や議会政治は相次ぐテロや長引く戦争によって全く機能しなくなり、軍の方針を翼賛するだけの御用組織となり、国民の言論の自由も報道の自由も全く失われてしまいます。

 先の日米交渉の当事者であった岩畔(くろ)豪雄(ひでお)は、交渉が頓挫し帰国した8月ころの日本人の様子を次のように伝えています。

 「『大和魂を過大に評価する』あまり、『精神だけ鍛錬すれば、技術や兵器は論ずるに足らず』というような弊風が、一部日本人の心をむしばむようになった事実も、見逃すことは出来ない。その結果『物量のアメリカ恐るるに足らず、我には大和魂がある』といったような悪風が生まれ、この悪風が日本を勝利の見込みのない戦争に追い込む一員になったことは、かえすがえすも遺憾であった。そして、同時に『天佑神助の迷信』が大手を振ってまかり通っていたのである。」(『昭和史探索5』p238)

 当時のアメリカと日本の国力は、GNP比で12.7倍、艦艇生産能力4.5倍、飛行機生産能力6倍、鋼鉄10倍、鉄20倍、石油20倍、石炭10倍、電力6倍という圧倒的な差がありました。その国と長期持久戦争ができると考えたということは、要するに日本が一撃を加えればアメリカは恐れをなして引っ込むはずだ、という相手を小馬鹿にした手前勝手な思い込みが軍人にあったからに違いありません。それは現に中国人にも通用しないものであったにも関わらず・・・。(前掲書p330)

*以下、山本七平『日本はなぜ敗れるのか』の小松真一「敗因21箇条」についての記述は別途論ずる事として、ここでは削除させていただきます。(1/7)

2009年1月 1日 (木)

明けましておめでとうございます。

 新年明けまして、おめでとうございます。本ブログも開設以来3年目を迎えます。山本七平さんの思想、そして氏のものの見方や考え方を紹介するのが本ブログの目的です。とはいえ、あくまで一読者として勉強しながら進めていることですので、間違いも多いことかと思います。お気づきの点はどうぞご教示下さい。

 山本七平さんが自分の本名で”ことば”を発し始めたのは、横井さんがグァム島から出てきた時のこと、文藝春秋に求められて1971年3月号に書いた「なぜ投降しなかったのか」がその最初でした。51歳の時です。

 それ以降の著作は、私のホームページ「山本七平学のすすめ」の著作一覧の通りですが、私が今までに本ブログで紹介できたのは、初期の「軍隊論4部作」(『私の中の日本軍』『ある異常体験者の偏見』『一下級将校の見た帝国陸軍』『日本はなぜ敗れるのか』)までです。

 少しずつでも前に進めれば、と思っていますが、はたしてどこまで行けるのやら、まあ、山本七平という大監督のもとでやっていることですので、安心といえば安心ですが、とらわれることなく自由にやらせていただこうと思っています。

 今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

2008年12月13日 (土)

日本国憲法第9条の生い立ちと有事教育の行方1

 前回、自衛隊と憲法第九条との関係、そして有事教育の必要性について述べました。問題は、実は憲法第九条第一項の「戦争放棄」ではなくて、第二項「戦力不保持」の規定が、あたかも自衛権の行使のための戦力をも否定しているかのように読めてしまうということです。そのため、自衛隊の存在そのものを「憲法違反」とする考え方が、憲法制定以来60年経っても残ることとなり、その結果、自衛権を行使するとはどういうことか、有事の際には国民はどう行動すべきかということも含めて、防衛問題を議論することが国民の間で極めて困難になっているのです。

 これは大変不思議なことで、というのは、この憲法第九条の条文が確定した段階では、それは決して自衛権の行使まで否定するものではなく、従って、そのための戦力の保持は認められると解釈されていたからです。また、こうした考え方は、この日本国憲法を審議する国会論戦でも当然のこととして主張されていました。南原繁貴族院議員は「歴史の現実を直視して少なくとも国家としての自衛権と、それに必要なる最小限度の兵備を考えるということは、これは当然のこと・・・之を憲法において放棄して無抵抗主義を採用する何らの道徳的義務はないのであります(8月27日)」と言っています。

 こうして出来上がった日本国憲法第9条の規定は次の通りです。

 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この規定の内、第一項の冒頭「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と、第二項の冒頭「前項の目的を達成するため」は、憲法改正特別委員会におけるいわゆる芦田修正(1946.8.20)で挿入されたものです。その目的は、第一項については、平和なら何でもいいというのではなく、あくまで正義と秩序が保たれた国際平和という意味であり、そのためには、世界政府のような国際機関など何らかの平和維持機構を想定していました。また、第二項の「戦力を保持しない」「交戦権は認めない」というのは、前項の目的を達成するため、つまり国際紛争を解決する手段としての戦力は持たないという意味であって、自衛権を行使するための戦力はこの限りではない、と解釈されたのです。

 この修正によって、日本が自衛権を行使するために戦力を持つことは、条文解釈上可能となりました。芦田はこの修正について、GHQ民政局のケーディスに了承を求めています。それに対してケーディスは即座に同意し、芦田が、マッカーサーやホイットニーに相談しなくてもいいのかと訊ねたところ、「大丈夫だ、問題ない」と答えています。また、ケーディスは、部下が「これでは日本は再軍備できることになるではないか」と騒ぎ出したのに対して「日本から自衛権まで奪うのはやり過ぎだ」と答え、民政局長のホイットニーもこの訴えに対して「それがどうした、それでいいじゃないか」と答えています。(『吉田茂とその時代』岡崎久彦p216)また、連合国11カ国で構成する極東委員会も、国務大臣(軍部大臣含む)を文民とする規定を第66条を追加することでこれを了承しています。(1946.9.25)

 と、こう見てくれば、戦後の日本がその自衛権を行使するために自衛軍を持つことは当然、GHQもそれを認めた、ということになり、冒頭に述べたような問題は起こらなかったはずですが、その後の歴史の展開はいささか違っていました。というのは、この憲法第九条の議会審議(1946.6)において、「侵略された場合はどうするのだ、他国との条約でも考えているのか」という質問に対し、吉田茂は「本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬが」と前置きした上で次のように答弁しました。「従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。日本は好戦国である、・・・ということが、日本に対する大きな疑惑であり、また誤解であります。・・・ゆえにわが国においては、いかなる名義をもってしても交戦権はまず第一自ら進んで放棄することによって全世界の平和の確立の基礎をなす・・・」

 これは、「自衛権は憲法上否定されているわけではないが、自衛権の発動はしない、つまり、自衛権の名によって戦う権利を放棄する」といったのです。なぜか、「日本は好戦国である、いつ再軍備をして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分からない」そういう世界の日本に対する大きな疑惑がある。従って、そうした日本に対する疑念を解くためには、「いかなる名義をもってする交戦権も自ら進んで放棄する」という規定を憲法に明記する必要があるというのです。こうした吉田の見解は、昭和49年の施政方針演説にも「我が国の安全を保障する唯一の道は、新憲法において厳粛に宣言せられたごとく・・・非武装国家として・・平和を愛好する世界の世論を背景に」と一貫して主張されています。

 ところが、その翌年昭和50年1月の施政方針演説では、「戦争放棄の趣旨に徹することは、けっして自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。わが国家の政策が民主主義、平和主義に徹底し、終始この趣旨を厳守して行動せんとする国民の決意が、平和を愛好する民主主義国家の信頼を確保するにおきましては、・・・この相互信頼が、民主主義国家相互の利益のために、わが国の安全保障の道を論ぜんとする国際協力を誘致するゆえんであるのであります」と述べています。これは、戦争放棄といっても自衛権を放棄したわけではない。民主主義・平和主義に徹する我が国への信頼が、民主主義国家相互間の安全保障を誘致し、それによって我が国の安全は守られる、といっているのです。要するに、自らの軍備はなくても、自衛権の行使の一形態としてアメリカに守ってもらう、つまり平和条約と日米安保条約の締結を示唆したのです。(『吉田茂とその時代』岡崎久彦p361~363)

 もちろん、このような自衛権の解釈は、先に紹介した芦田修正の中にも見られるもので、その時は、安全保障を担う世界機構として国際連合が想定されていました。しかし、すでに昭和22年3月のトルーマンドクトリンあたりから米ソの冷戦構造が明らかになり、1948年はチェコの政変やベルリン封鎖などで東西関係は一触即発の危機を迎えていました。そのため、当初、日本の安全保障の担い手とされた国連への期待も疑問視されるようになり、そして、1948年10月には、アメリカの対日政策は全面転換(NSC-13/2)されました。そこでは日本を西側陣営の一翼とすることが決定され、日本の再軍備が要請されるようになりました。しかし、こうしたワシントンの要請に対して、マッカーサーは1950年に至るまで「日本は東洋のスイスたれ」といい、日本の再軍備に徹底して反対し、ワシントンの日本再軍備の要請を拒否し続けました。

 では、なぜマッカーサーは日本の再軍備に反対したのか。その理由は、「日本に軍隊を作るための足がかりとなるような措置をとることは、日本占領の性格と目的をそこなう恐れがあるので望ましくないし、時期尚早である」(『史録日本再軍備』秦郁彦P108)というものでした。その「日本占領の性格」とは、トルーマン大統領からマッカーサーに交付された「初期の対日方針」(1945.9)に示されたもので、日本が「再び米国の脅威となり又は世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」ため、日本の非武装化と民主化を図るというものでした。しかし、それだけなら、すでに日本はGHQによる占領支配を受けているのですから、冷戦期を迎えて新たにソ連勢力が脅威となり、その「封じ込め政策」がとられて後は、当然、日本占領の性格が変化してもおかしくありません。

 というのは、NSC(アメリカの国家安全保障会議)はすでに1948年3月にトルーマン大統領に対して次のような「ソ連の指導する世界共産主義に関するアメリカの立場」という文書を提出し、ソ連の脅威を訴えていたからです。

 「枢軸陣営の崩壊で世界には米・ソという二つの巨大中心勢力が生まれた。アジアとヨーロッパはその争奪目標であるが、この両地域がソ連の手中に入るとソ連は圧倒的に優勢となり、アメリカの影響力は微弱となるので、かかる〔国家的自殺〕を受け入れることはできない。・・・今やスターリンはヒトラーが失敗した目標をほとんど達成しようとしている。・・・ソ連は自由陣営とは共存不可能である、とのドグマに立っている・・・クレムリンに主導権を与えてはならぬ・・・防衛体制は不得策であり、アメリカは世界的な反撃体制を創設しなければならぬ」。そして、そのために直ちにとるべき具体的手段として、対外面では、(4)侵略に対する軍事的反撃、(5)非共産主義国家の軍事力強化等が必要である、としていました。(『史録 日本再軍備』秦郁彦p115)

 このように、「非共産主義国家の軍事力強化」が求められる中で、対日講和問題が話し合われるようになりました。トルーマン大統領はジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に任命し対日講和問題を専任させました。そのダレスが1950年6月6日にアリソン日本課長とともに作成した第一次講和条件案は、(1)日本を平和的、親米的かつ反共的な国家に育成する。(2)強力な警察軍を創設する。(3)日本人のアメリカ移民を許容する。(4)賠償その他の経済統制は課さない。(5)日本の国連加盟。(6)ソ連をふくむ講和予備会議の全メンバーが加わる安全保障協定を講和条約と同時に締結する、等でした。(6)は変な感じがしますが、講和はソ連をふくむ連合国が参加して行うものであり、客観情勢をつめていけば、多数講和、日米安保条約、日本の再軍備の戦に落ち着くであろうと読んでいたのです。(前掲書p130)

 これに対して、マッカーサーは当初は日本の再軍備にも米軍駐留にも反対していましたが、当時来日していたジョンソン国防長官の顔を立てる形で「米軍の要点駐留」を譲りながらも、なお日本の再軍備には反対しました。また、6月22日の吉田・ダレス会談で吉田首相は「非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と力説し、ダレスは「不思議の国のアリスに会ったような顔」になって沈黙したといいます。これは、これに先立つ4月末から約一ヶ月間、池田勇人蔵相がアメリカを訪問した際、講和の促進と米軍の駐留について打診したことが、マッカーサーを飛び越してワシントンとの連絡を企てたものとして、マッカーサーの不興を買い吉田首相が陳謝した事件の余波とされ、吉田は安全保障の問題で総司令官を出し抜く発言をすることは慎んだ方が賢明と判断したためではないかといいます。(『上掲書』p132)

 ところが、1950年6月25日朝鮮戦争が勃発しました。在日米軍は急遽朝鮮半島に出動しなければならなくなり、そのため日本が手薄になるというので、マッカーサーは75,000人からなる警察予備隊の創設と海上保安庁の8,000人増員を指令しました。しかし当時も、マッカーサーは依然として、日本に必要なのは国内治安能力だけであり、再軍備は不必要と考えていました。そんな中で、1951年1月、正式に対日講和を交渉するダレス使節団が日本に到着しました。ダレスは「日本は独立を回復して自由世界の一員になろうとする以上、・・・自由世界の強化にいかなる貢献をしようとするのか?」と吉田に尋ねました。吉田は再軍備の不可を経済面、対外面から説きました。また、マッカーサーは「自由世界が今日日本に求めるものは軍事力であってはならない」といい、吉田の側に立つ意見を述べました。(上掲書P372)

 しかし、吉田は2月3日、「日本の防衛努力について、ダレスに対して何の意思表示もしないで、日米協定だけをまとめるという虫のいいことは到底見込みがないと考え」て、5万人からなる保安隊を設ける案をアメリカに示しました。しかし、正面から再軍備をするための憲法改正は、いまのところ「きわめてデリケートで困難」であり、「平和条約が締結され日本が国際社会に復帰して、日本人が軍備を持つべきであるとの気持ちになるまでは、国内治安のための警備力という概念」にとどめるとしました。その後マッカーサーは、朝鮮戦争における強引な情勢判断と独走がもとで解任されました。マーシャル国防長官は「マッカーサーは二年前に解任すべきだった」と述べたといいますが、それは、マッカーサーが、自分がつくった日本の平和主義路線に固執して、ケナンからダレスに至る米本国の現実主義を斥け続けたことをさしています。(上掲書p375~380)

 では、マッカーサーはなぜこれほどまでに日本の非武装化に固執し続けたのでしょうか。

この日本の非武装化というアイデアは、1946年2月3日にマッカーサーがGHQ民政局長ホイットニーに憲法草案の起草を命じたときに示した、いわゆる「マッカーサーノート」の一項にあったものです。それは、「二、国権の発動たる戦争は、廃止する。」という項目の下に次のような説明書きが添えられていました。「日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。日本が陸海空軍を持つ機能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」(『マッカーサーの二千日』袖井林二郎P173)

 実は、この項目は、その10日ほど前の1月24日のマッカーサーと幣原首相の会談をふまえて作成されものです。マッカーサーはこのときの様子を自らの『回想記』で次のように述べています。

 「首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる『戦争放棄』条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起こす意志は絶対ないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。」

 「私は腰がぬけるほどおどろいた。・・・戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。・・・原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。私がそういった趣旨のことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出るときには感極まるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』といった。」

 これは、「戦争放棄」と「非武装化」のアイデアはまず幣原の方から示され、それに対してマッカーサーが共感を示した、と説明するものです。しかしこれに対して、「マッカーサー草案」を作った当人であるケーディス大佐ほか民政局のスタッフは、口をそろえてマッカーサーのアイデアだといっています。(『史録日本国憲法』児島襄)そして、幣原自身も、側近の村山有氏に「戦争放棄は私から望んだことにしよう・・・」といったといいます。こうしたやりとりから判ることは、憲法にこうした条項を盛り込むことについて両者の見解が一致したことは間違いなく、そして、そのアイデアはあくまでも幣原(=日本側)から提起された、とすることについて合意が得られた、ということではないかと思います。

 では、どうして両者間にこのような合意が成立したのか。幣原は2月21日に再びマッカーサーと会談し、その内容を22日の閣議で次のように報告しています。

 「マッカーサーは例のごとく演説を始めた。『吾輩は日本のために誠心誠意図っている。・・・しかし極東委員会の討議の内容は、総理の想像に及ばないほど、日本にとって不快なもの(天皇の戦犯訴追も含め=筆者)だと聞いている。自分もいつまでこの地位に留まりうるや疑わしいが、その後を考えるとき自分は不安に堪えない。・・・憲法第一条は・・・米国案は天皇護持のために努めているものである。・・・また軍に関する規定は全部削除したが、この際日本政府は、国内の意向よりも、外国の思惑を考えるべきであって、もし軍に関する条項を保持するならば・・・またまた日本は軍備の復旧を企てていると考えるに決まっている。日本のためを図るに、・・・戦争を放棄すると声明して、日本がmoral leadership を握るべきだと思う』これに対して、幣原は、leadershipといわれるが、おそらく誰もfollowerとならないだろうといった。マックはfollowerがなくても、日本は失うところはない。これを支持しない者が悪い、といった」

 この幣原によるマッカーサーの主張の説明と、マッカーサー回顧録の説明とはかなり食い違っていますが、岡崎氏は、1月24日のマッカーサーの言葉は、幣原が2月22日に紹介したマッカーサーの言葉の通りだろうといっています。そのポイントは二つあり、一つは天皇を守るためには、天皇制維持を定めた憲法を通さなければならないということ。そしてそのためには、戦争放棄などを含む、極東委員会といえども反対のしようのないリベラルな憲法を作らなければならない。それも、それが占領軍の強制ということでは、マッカーサーは極東委員会やワシントンに対して新憲法を守りきれないので、あくまで日本側の自発的意志ということでなければならない。つまり絶対に人に言えないマッカーサーとの約束が幣原にあったとすれば、それをそれを日本側の発意とする、ということで、幣原はそれに同意したのではないかと氏は推測しています。

 実は、こうした憲法改正は極東委員会の専管事項であり、その極東委員会の開催は2月26日となっていました。また、それはあくまで日本が主体的に取り組むべきこととされていたのです。そこで、マッカーサーは、憲法問題には介入せず日本政府の自発的発案に任せてました。しかし、2月1日に毎日新聞にスクープされた日本側の憲法改正案は旧態依然たるものであり、また、マッカーサーは占領の成功のためには天皇の権威を温存してこれに頼るしかない、と考えていたため、急遽1月24日の幣原との会談で、一、天皇は国の元首の地位にある。二、国権の発動たる戦争は、廃止する。三、日本の封建制度は廃止される。の三本を柱に、新たに憲法草案を策定することを提起し、それをあくまで日本側の自発的発案とすることで幣原の諒解を求めたのです。

 そして、この作業を極東委員会の開催日である2月26日前に完了するため、民政局のホイットニーに2月3日、三項目の「マッカーサーメモ」を渡して2月12日までに憲法草案を策定することを求めました。そして2月13日にその案を日本政府に交付。日本政府は、それまでに松本案を作成し2月8日にはGHQに提出していましたが棚上げされたまま、突然、13日のGHQ案に接することになりました。2月21日の閣議では「到底受諾できない」との声が大勢でした。そこで2月21日に、先に紹介した第2回目の幣原・マッカーサー会談がもたれたのです。幣原はその後直ちに天皇に拝謁し「象徴天皇制」についても説明しましたが、天皇は「象徴でいいではないか」と答えたといいます。その後、新憲法草案は若干の表現上の手直しの後、3月6日、日本政府案として公表されました。

 幣原は、その後4月22日に内閣総辞職をしますが、その直前の枢密院での憲法草案審議第1回審査会において、「戦争放棄は私の信念である」と述べたとされます。それは、1月24日のマッカーサーとの約束をふまえれば、少なくとも占領時代が終わるまでは、それは自らの発案である、といい続けるほかなかったのだと思います。国会図書館長の金森徳治郎は、昭和25年の晩秋、幣原に占領初期のことについて「日本側でも一つ正確な記録を作っておかなければならないと考えるが、そのことになるとあなたご自身しか知らないことがずいぶん多いから、この際ぜひお話を伺っておきたい」と訊ねましたが、幣原は「そのことをお話しするのはまだ時期が早い」といって何も語らなかったといいます。幣原はその翌年3月、平和条約の調印を見ずに亡くなりました。(『吉田茂とその時代』P139)

 以上、憲法第九条、特にその第二項「戦力不保持」「交戦権否認」の規定がどのようにして生まれたのか、について説明しました。それにしても、マッカーサーはなぜ、あれほど繰り返し本国の方針に反してまで、そして大統領の目がなくなってから後も、さらに、朝鮮戦争の勃発によってその非現実性が明らかになっても、日本の戦力不保持にこだわったのでしょうか。考えられるのは、あれほど無理をして日本国憲法を作り、それをによって日本の占領を歴史的成功に導き、非武装化による平和の実現と諸制度の民主化を図った。つまり、そう自負する自らの業績の正当性を一貫して守り通そうとした、ということではないかと思います。では、幣原や吉田はそれに利用されただけだったのでしょうか。いや、そうではない。彼らは逆に、そうしたマッカーサーの性向を見抜き、非武装をという憲法理念を逆利用して、冷戦下におけるアメリカの極東戦略の先兵に日本人が使われる危険性を未然に防いだ、堤堯氏はそのように推測しています。(『昭和の三傑』参照)おそらくこれが幣原と吉田の憲法第9条の解釈の不可解さ(自衛権行使のための戦力をも否定した)を説明する最も妥当な解釈であろうと私は思います。(下線部追記12/5)

 いずれにしろ、「あの憲法は、当時の国際的要求をかろうじて食い止めた、一種の救助艇のようなものだった。彼ら(GHQ)も、これによって日本も救われたし、GHQも救われたという話をしていたことがある」(『占領秘録』住本利男)つまり、そのような歴史的せめぎ合いの中に、冷静に日本国憲法の第九条の生い立ちとその特性を捉える必要があるのです。その救助艇としての役割を無事母船に回収するためにも・・・。

2008年12月 2日 (火)

田母神論文が教える「有事教育」の必要性

 12月1日、田母神氏は日本外国特派員協会で講演し、「普通の国のように軍を使うことができないのは歴史認識の問題」と従来の考え方を繰り返し強調しました。また、「(核保有を)議論するだけで(核)抑止力が向上する」などと国内外での「本音の安全保障論議」の必要性を訴えました。(毎日新聞12月1日配信)さらに、戦争や武力行使の放棄をうたった憲法9条についても「国民の意見が割れており、直してもらった方がいい」と述べました。また、懸賞論文で「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣(ぬぎぬ)」と主張した点については「自衛隊員の多くは支持していると思う」と語りました。(読売新聞12月1日配信)

 田母神氏のいう歴史認識の問題については今まで論じてきましたので、ここでは、現在の平和憲法下における自衛隊のあり方、それを担う自衛隊員の意識あるいは「士気」の問題について、私見を申し述べておきたいと思います。田母神氏は、「日本は侵略国家だった」という歴史観が「普通の国のように軍を使うこと」を困難にしているといいます。そして、核という問題も含めて「本音の安全保障論議」が必要であり、それが自由にできないのは、「国際紛争解決の手段」としての武力の行使を放棄した憲法9条についての「国民の意見が割れている」ためであり、こういう状態は「直してもらった方がいい」と述べています。

 ここで田母神氏のいう「普通の国のように軍を使うこと」というのは、どういう意味なのか必ずしもはっきりしませんが、一応ここでの議論は現行憲法下における自衛隊のあり方についての議論だと思いますから、これを「軍=自衛隊による自衛権の行使」という風に理解して議論を進めたいと思います。田母神氏はこの「軍=自衛隊による自衛権の行使」が困難になっているのは「日本は侵略国家だった」という歴史観があるからだといっています。しかし、私はそれは違うと思います。実際は、国際法上「侵略国家」といわれても仕方のない軍事行動があったという反省に立って、憲法上軍の使用を自衛権の行使に限定したのであり、そして、こうした考え方は、国際法から見ても決して特異な考え方ではなかったのです。

 国連憲章(1945.10.25発効)は、国連の目的が「国際の平和及び安全を維持すること」であることを明記し次のように規定しています。

 第一条 平和を破壊するに至る虞の国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
 第二条 すべて加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

 つまり第一条は、国際紛争はすべて平和的手段によって解決するということであり、第二条は、武力による威嚇又は武力の行使はいかなる場合も他国に対して行わない、ということです。いうまでもなくこの規定は1928年の不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約、日本を含む当時存在した主要国60カ国が調印、現在でも有効とされる)の規定を反映したものです。この不戦条約は次のように規定しています。

 第一條 締約國ハ國際紛争解決ノ為戦争二訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互間係二於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ拠棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名二於テ巌蕭二宣言ス
 第二條 締約國ハ相互間二起コルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハズ平和的手段二依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約ス
 
 これは、日本国憲法第9条一項の規定そのままです。そして東京裁判における最大の訴追理由は「平和に対する罪」ですが、これは、この不戦条約を破って戦争を始めたことそれ自体とされたのです。(『滅び行く国家』立花隆p224~228)もちろん、不戦条約は自衛戦争を認めています。そしてこのことを当時の日本もよく知っていました。それ故に、満州事変や真珠湾攻撃を自衛戦争だと言い張ったのです。しかし、これが通るためには不戦条約の解釈から「先制攻撃」(=作戦計画に基づき第一撃を討つこと)をしては駄目で、だから、満州事変が関東軍の謀略(=柳条湖における満鉄線路爆破)に始まったことを関係者は隠し続けたのです。(それが当事者の証言で明らかになったのは1956年秋のこと)

 また、真珠湾攻撃では開戦通告が遅れたことが問題とされますが、不戦条約によって開戦手続き(=最後通牒又は宣戦布告)は集団安全保障に基づく参戦を除いて空文化していた(『軍事学入門』別宮暖朗p36)そうですので、たとえ宣戦布告が真珠湾攻撃開始以前だったとしても自衛戦争とは認められなかったでしょう。もちろん戦争にはどちらが先に手を出したかということの外に、どちらが正義かということがありますが、これはいずれの国でも主張しうることであり、いわばそれは自国民を戦争に駆り立てるための宣伝に過ぎないといえます。ここに、不戦条約が先制攻撃を非としていることの意味があるわけで、つまり、その最初の一撃を侵略と規定することで戦争の発生を防止しようとしたのです。

 もちろん、これで戦争が防げるかというと、その後の歴史を見ても判る通り、必ずしもその理想どおりにはいきません。宗教的あるいはイデオロギー的に自国の軍事行動を正義とする国家が現れ、それに対して有効に対抗できない場合は侵略される恐れが出てきます。そこで、勢力均衡の考え方に立つ「同盟を含んだ安全保障体制」の構築が必要になってくるのです。つまり、日本国憲法第9条第一項の規定は、「同盟を含んだ安全保障体制」(=日米安保条約)の構築と矛盾するものではないのです。それは、自国の自衛権の行使(=独立の確保)を集団的な安全保証体制の中に求めようとするもので、従って、当然「集団的自衛権」は認められるのです。

 ただし、現在の日本政府は、憲法解釈上「日本の自衛権は憲法上の制限に従って行われ、自衛権の行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきものであるため、「集団的自衛権を行使することは…憲法上許されない」としています。しかし、それでは、日本はアメリカと安全保障条約を結ぶことによって自国の自衛権を担保してもらうが、その逆はできないということになります。そこで、その埋め合わせをするために「思いやり予算」など在日米軍の駐留経費の一部を負担したりしているのです。しかし、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以後、アメリカからの要請によって、安全保障分野における日本の役割拡大が求められるようになりました。

 これは、アメリカと日米安全保障条約を結び、自国の自衛権の行使をアメリカによる「集団的自衛権」行使によって肩代わりしてもらっている以上当然出てくる議論で、日本はアメリカのそうした要求を、平和憲法を盾に今まで拒みつづけてきたのです。それは「日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる」とした、連合国最高司令官マッカーサーの指示を受けて作成されたものだったからです。しかし、当初の民政局が示した原案は、自衛権まで否定するものでしたので、その後、いわゆる芦田修正により日本国憲法第9条第二項の冒頭に「前項の目的を達成するため」が挿入され、「」自衛権行使のための戦力の保持及び国の交戦権」は認められるとしました。だが、「集団的自衛権」の行使については、日本国憲法9条の解釈として認められない、と解釈してきました。

 ここに、日本国憲法第9条の解釈上、田母神氏も指摘するような、日本の防衛をめぐって「国民の意識が割れる」状況が発生しているのです。実際、この条文の成立過程を見れば、もともとそれは、一切の戦力の保持及び交戦権を否定していたことは明らかで、文章表現もそう解釈するのが自然です。また、第二項の「前項の目的を達成するため」も、自衛権の行使を可能とするため応急的に挿入したもので、苦肉の策という外はない。そして、こうした一見して矛盾した条文をあえてそのままにすることによって、日本の自衛権の行使の有効性をアメリカの「集団的自衛権の行使」に担保させつつ、一方、アメリカの極東戦略に巻き込まれないために、自らの「集団的自衛権」の行使は憲法上できないとしてきたのです。

 こうした態度は、ある意味では狡智といえますが、何となくすっきりしない。一体、こういう態度がいつまで許されるのか、しかし、そのおかげで日本は戦後60余年間一人の戦死者も出さず、また他国の人を傷つけることなく平和を保ってきた。それは世界が夢みてきたことではないか。だから、その理想は今後とも誇り高く保持すべきではないか。こうした意見がある一方、だがそれは、アメリカ軍の一方的な犠牲の上に保持されてきた平和ではないか。また、日本も憲法解釈上自衛権の行使は当然としており、実際、世界第三位(軍事費)の自衛力を持つ自衛隊を持っているではないか。それなら、そうした自衛隊の役割を憲法上明記し、国論の分裂を避けるほうが賢明ではないか、という意見もあります。

 さて、こう考えてくると、私たち国民は、自国の安全・独立の確保のために自衛権を行使するとはどういうことかということを、憲法第9条を盾に、あまり考えてこなかったということに気がつきます。あるいは、その困難に伴う精神的負担を自衛隊員に押しつけてきたのではないか。いやそれどころか、彼らの仕事を軽視あるいは忌避さえしてきたのではないか。こうした観点から田母神氏の提起した自衛隊員の意識あるいは「士気」という問題を考えてみると、氏の訴えるところは一理ある。いうまでもなくそれは、日本人は、今後、日本の「有事」ということをどう考えるのか、という問いにつながっていきます。

 実は、こうした問題は、一部の政治家や官僚が考えればいいという問題ではないのです。そもそも防衛とか有事への対応ということは、国民生活にも重大な影響を及ぼすことであり、国民の理解と支持がない限り不可能なことなのです。当然、教育の課題としても採り上げられるべきものです。しかし、今日までの中央教育審議会の答申はいずれも、国際化の重要性を強調し、そうした厳しい環境の下で経済的な繁栄を持続していくためにはどうしたらいいかを論じながら、その前提となる平和の確保、我が国の安全保障の問題については一言も触れてきませんでした。。(『未来形の教育』市川昭午「なぜ有事に言及しないのか」参照)

 では、本当に「有事はないと考えてよいか」「本当にアメリカ頼みで大丈夫か」日米欧の120名以上の識者・知識人に対するインタビューに基づいて作成された三つのシナリオの一つは、「安保で自立を迫られる日本」だったといいます。(上掲書p72)それよりなにより、日本人は独立国家として自国の安全を守るということ、その意味が判らなくなってしまっているのではないか。ホントに憲法改正をしないだけで、国の安全は守られるのか。少なくとも、現在の世界各国の安全保障の実態を学ぶべきではないか。さらに、現在のような国民の意識で、自衛隊員に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」ことを求めうるのか。まずは、「国民が防衛問題の重要性を認識し、有事への対応を真剣に考え、まともに議論し合うこと」が必要ではないか・・・。

 「本当の文民統制は、文民が防衛問題について的確な見識を有することを前提としてはじめて可能となるのである。」(上掲書p82)

 と、ここまできて、ふとあることに気づきました。例の裁判員制度についてですが、その意味が私はどうもよく分からなかったのですが、これはある意味で、我が国の安全の確保、社会秩序の維持ということについて、国民の意識の高揚をねらって、その審理過程に参加さすべく義務を課す、つまり、徴兵制ならぬ一種の「徴民制」ではないかと・・・。それならそうとはっきり言うべきではないかと、私は思いました。

2008年11月22日 (土)

「田母神論文」から、私たちは何を学ぶべきか2

 前回「一握りの軍国主義者」論の問題点について山本七平の見解を紹介しました。実はこの問題は、氏が『ある異常体験者の偏見』を執筆当時(1973年)、毎日新聞の元編集委員新井宝雄氏との間で論争になったものです。

 新井氏は、山本七平への反論の中で次のようにいっています。
 「山本氏は当時の新聞を極悪人にしたてることによって、かえって侵略戦争を立案しその実施を指令した軍国主義者達を弁護する結果になっている。山本氏は戦争を画策し、その執行を指示した軍国主義者達があたかもいなかったかのようにいっておられるが、それは事実に反する。戦後の新聞にも問題はむろん大いにあるが、しかし・・・日本のマスコミが全く無用の長物であるかのようにいうのは、当たっていない。」(「私の反論のあとさき」『ある異常体験者の偏見』(山本七平ライブラリー)所収)

 これに対して山本七平は次のように反論しています。
 「『一握りの軍国主義者がいた―ただし私はそうではない』といって、みなが『一握りの軍国主義者』という『言葉』に背を向けてしまえば、かえって何一つ実態は究明できない。逆にすべてを隠してしまうではないか。・・・この世に『生まれながらの悪玉』などは存在しないと同様『生まれながらの軍国主義者』などというものは存在しない。ある人が、ある思想・主義を抱き、その思想に基づいてある判断を下し、その判断の下に一つの発想をして、その発想の下に計画を立て、その計画を実行に移したのである。そしてその人は、そうすることを最善と考えた―ではなぜ最善と考えたのか。彼らの多くはそれを誠心誠意それを実行した。それは残念ながら否定できない事実ではないか。そして誠心誠意やったということは何ら正当性を保証しないことを、われわれはいやというほど思い知らされたのではなかったか。その人達がどれほどまじめであったかなどということは無意味である以上に、その人たちを醜悪化し戯画化することも無意味である。」(『ある異常体験者の偏見』p260)

 つまり、「戦争の実態」を究明しようとするときに「一握りの軍国主義者」で片づけてしまえば、結局「オレは彼らを声高に非難している。従ってオレは彼らとは関係ない純正潔白な人間だ」ということになり、戦争は「一部の軍国主義者」がやったことで、自分も含めその他国民は被害者だということになる。そうすると「一部軍国主義者」の「悪」は自明だから、後はそれを醜悪化し戯画化するだけとなる。一方、政治家やマスコミを含め国民が一致して軍を支持したという事実も消えてしまう。その結果、なぜ軍はそのように行動したのか、なぜ国民は軍を支持したのか、それはどういう思想に基づいていたのか、ということが判らなくなってしまう。それでは「戦争の実態」はつかめないし、問題の解決もできないではないか、というのです。

 ここで山本七平は、個人の思想と行動との関係を問題にしています。つまり、人間の行動を、時代情況との相対的な関係の中だけで捉えて、その人の思想との関連を無視する、そのような精神構造を問題にしているのです。また、氏がマスコミを批判するのは、決して「マスコミが無用の長物」だといっているのではなく、新聞が、戦前は軍の戦争政策、戦後はマッカーサーの軍政施行のスポークスマン的役割を担ってきた、そうした事実を指摘しているのです。確かに、戦時中は軍の検閲があり戦後の占領期はマッカーサーの検閲があった。しかし、そうした時代情況を理由に、新聞社がそうした過去の行動を正当化するということは、自らの言葉=思想に責任を持たないということになりはしないか、といっているのです。

 このような、人間の行動の「正当化の基準」を、時代情況への対応の仕方だけで考える倫理観を、山本七平は「情況倫理」と呼んでいます。これは日本の伝統的な考え方で、「『情況に対する自分の対応の仕方は正しかった。』従ってその対応の結果自動的に生じた自分の行為は正しかった。それを正しくないというなら、その責任は『自分が正しく対応しなければならなかった』苛烈な状況を生み出したものにあるのだから、責任を追及さるべきはそのものであって、自分ではない」という論理です。(『空気の研究』単行本p116)これは田母神氏の「大東亜戦争肯定論」の論理にもつながります。

 そして、「この考え方の背後にあるものは、実は一種の『自己無謬性』乃至は『自己無責任性』の主張であり、(この)情況の創出に自己もまた参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである。そしてこれは自己の意志の否定であり、従って自己の行為への責任の否定である。そのため、この考え方をする者は、同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人でみな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく決断であることを、絶対に認めようとせず、人間は一定の情況に対して、平等かつ等質に反応するものと規定してしまう。」(上掲書p121)これが「一部の軍国主義者論」の論理になります。前回述べた軍政としての「マッカーサーの戦争観」とも重なるわけです。(下線部追記11/24)

 こう見てくると、田母神氏の「大東亜戦争肯定論」も新井氏の「一部の軍国主義者論」も同じ「日本的情況主義」の伝統に根ざしていることが判ります。ではこのような、個人の置かれた「情況」を、個人の行動の倫理的判断の基準とする考え方はどこから生まれているかというと、それは、その「情況」に対応する個人が「人間性の平等」という観念で均質的にとらえられているということ、つまり、個人がある「情況」に置かれれば誰でも同じように対応するのが当然と考えられているからです。ここでは個人個人はそれぞれの思想に基づいて行動し、その行動に対して責任を持つ、という考え方が排除されます。

 そして、「この日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範にはなり得ない。いかなる規範と雖も、その支点に固定倫理がなければ、規範とならないから、情況倫理の一種の極限概念が固定倫理のような形で支点となる。ではその支点であるべき極限としての固定倫理をどこに求むべきかとなれば、情況倫理を集約した形の中心点に、情況を超越した一人間もしくは一集団乃至はその象徴に求める以外になくなってしまう。西欧が固定倫理の修正を情況倫理に求めたのとちょうど逆の方向をとり、情況倫理の集約を支点的に固定倫理の基準として求め、それを権威としそれに従うことを、一つの規範とせざるを得ない。」(上掲書p136)

 「日本における・・・スターリン賛美の論理も、日本軍への『神兵化』も、ヴェトナム報道も、毛沢東礼賛も、常に同じくこの論理による一種の『神格化』である。そしてこの論理の矛盾を指摘した者は、常に一種の『瀆聖罪=不敬罪』として非難される。そして非難されて当然なのである。というのは、この支点的絶対者を、どこかに設置しない限り、いわば一種の人間尺の極限概念のような形でゴムの一端をどこかに固定しておかない限り、『オール3』的(人間性=筆者)評価の『3』(つまり平等の基準点=筆者)が設定できず、従って、平等は立証できず、情況倫理も成立しないからである。」(上掲書p137)

 ここに、なぜ日本人が、一方で人間性の平等を指向しつつ、他方で、絶対者(戦前はヒトラーやムッソリーニ、戦後はスターリンや毛沢東など)を賛美する傾向を持つのかの理由があります。また、これは戦前の言葉で言えば「一君万民(平等)」、戦後は「一教師オール3生徒」ということになります。そして、これらの組織は中国の儒教の影響で「家族主義的」に運営されますから、それは一蓮托生の連帯責任の社会となり、いわば個人の倫理より集団=組織の倫理が優先する社会となり、組織に不利なことは決して口にしない、逆に「知りません」「記憶にありません」といって事実を語らないことが美徳とされる社会になります。

 実は、この「家族主義的」組織の基本原理は「忠孝一致」ということで、「孝」という親子間の道徳規範が、「忠」という組織間の秩序原理にまで拡大適用されたものです。これが、「教育勅語」の説く倫理観なのです。いうまでもなくこの倫理観は、「仏心」が、あたかも、月が一滴の露にもその影を映すように全ての人の心に宿っている、とする仏教的平等観を母体として、その上に中国の輸入思想である儒教が重なり、それが江戸時代を通して日本的に変容する過程で生まれたものです。そして、これが尊皇思想となり明治維新の原動力となるのです。こう見てくると、よく日教組批判の口実に使われる「平等主義的オール3評価」は、決して左翼的なものではなく、実は、戦前の「教育勅語」の「一君万民(平等)」思想を受け継ぐ、最も伝統的な日本的評価基準なのです。

 いうまでもなく、戦前の軍部も右翼も、こうした「一君万民」「天皇親政」的な政治形態を理想としていました。従って、それと矛盾する「天皇機関説」的立憲君主制、それを支える政党政治、その思想的前提である「自由主義」ないし「自由主義者」は絶対許すべからざるものと考えていました。一方、社会主義者は、ただ方向を誤っただけで、いわば転向させれば有能な「国士」になると考えていました。従って、転向者の多くは軍部の世話で「満鉄調査部」などで、満州における計画経済の立案に参加していました。

 そして、以上述べたような「一君万民」を前提とする情況倫理・集団倫理の世界では、組織に不利なことは口にしない、逆に「知りません」「記憶にありません」といって事実を語らないことが美徳とされます。その結果、事実を事実として、その人の思想信条と切り離して論ずることができなくなります。また、前回紹介しましたが、是か非かを論ずる前に可能不可能を論ずることもできなくなります。そしてこの体制は、個人が自由に発言し行動することを徹底的に排除し、「父と子の隠し合い」の関係以外は認めないということになるのです。

 そして、この「父と子」の関係によって律される秩序を維持しようとするなら、この集団は必然的に閉鎖集団とならざるを得ない。そしてこの閉鎖集団を維持するためには不都合な外部情報を統制して内部の秩序維持を図らなければならない。対米戦争期の日本が英語を敵性言語と規定してその教育を廃止したのはそのためです。それは結局、相手の実態を見てはならないという態度になり、一切の情報を統制し、新聞と読者の間、政府と国民の間をも「父と子の隠し合い」の状態に持って行くことになります。そしてそのためには、集団の倫理を個人の倫理の上におく、いわゆる「情況倫理」を当然とするようになるのです。

 いささか回りくどい説明になりましたが、私たちが究明すべき昭和の「戦争の実態」とは、以上のような、組織の名誉のためにはホントのことを隠す、事実を事実として語ることを許さない、従って、可能か不可能かという事実に関する議論と、是か非かという価値観に関する議論とを区別できなくなる、など「情況倫理」の世界がもたらしたものだったのです。もちろん、この「親と子」の運命共同体的な組織は、到達すべきモデルがある間は爆発的なエネルギーを発揮し得たわけですが、そうした目標を見失い孤立した状態の中で外交問題を自らの発想で処理しなければならなくなったとき、以上述べたような、事実を事実として語ることを許さない精神風土の中で、冷静客観的な判断ができなくなり、ついに、やるつもりもなかった無謀な戦争に突入することになったのです。

 以上、「一部の軍国主義者論」の問題点、及びそうした考え方が依拠している日本の伝統的な考え方=「情況倫理」の世界についての、山本七平の分析を説明してきました。とはいえ、ここで引用した山本七平の『「空気」の研究』は1977年の出版で今から30年以上前のものですから、その頃からすると現在は、いわゆる「内部告発」による談合事件や不正の摘発が相次ぎ、コンプライアンス(企業が法令や規則を遵守しようとすること)の姿勢が明確になってきています。しかし、今なお閉鎖的な身内社会を脱していない組織が多く存することも事実です(特に教育界は問題です。大分でその一端が明らかになりましたが・・・)。

 しかし、ここで問題となるのは、今日の日本の精神風土において、はたして、以上指摘したような、戦前の日本を破滅に追いやったいくつかの思想的課題が、はたしてどれだけ克服されたか、ということです。個人の思想信条の自由を組織の利害あるいは名誉に従属させていないか。身内組織の利害を超えた一般的法的規範の遵守という考え方がどれだけ浸透しているか。事実論とその人の思想信条とを区別して論ずることができるか。可能不可能の議論と是非論とを区別できるか、などなど。

 テレビでは連日、『自己無謬性』の刻印を額に押したような「正義の士」が、世の悪を陶然として指弾追求し、それに扇動された人びとが、名指された「極悪人」に抗議の電話を集中する。憲法を守れといいながら、この人権無視、思想信条の自由の侵害。この平和な時代でさえこうなのだから、かっての植民地主義、軍国主義、人種差別、世界恐慌、冷害・不況の時代にああいうことになるのも、けだし当然かも・・・と思うのは私だけでしょうか。(*少し抑制した表現に修正しました。11/23)

2008年11月16日 (日)

「田母神論文」から、私たちは何を学ぶべきか

 田母神論文については、歴史的事実に関する認識不足があまりにも多く、論理も一貫していないし哲学も貧困なので、エントリー「田母神空軍幕僚長『最優秀論文』の論旨、論点及び哲学」でその点を指摘しました。秦郁彦氏や保阪正康氏などの歴史研究の専門家もその後同様の指摘をしていますし(朝日新聞)、マスコミでも批判的な意見が大半のようです。ところが、ネット上での調査では、yahooでは「まったく問題はない」「ほとんど問題はない」の、あまり問題視していない人が6割近くにのぼりました。内容は、「論文の内容自体が間違っていない」のだから問題はないと考える人や、「言論の自由だ」とする人など、理由はさまざまのようですが、予想はしていたものの、共感者がこれほどの高率になるとはいささか驚きました。

 これはどうしたことか、私は、これは、戦後のいわゆる「自虐史観」にもとづく歴史教育は、子供達にはそれほど深く浸透しなかった、というより心理的な反発があって受け入れられなかった、ということなのではないかと思いました。また、中国や韓国の反日教育や反日暴動、さらには内政干渉ともいうべき行き過ぎた対日批判が、多くの日本人の反感を呼び、その反動として、彼らの日本攻撃の源泉となっている日本の「アジア侵略」を正当化する心理につながったのではないかとも思いました。そして、おそらくこれが今日の「時代の空気」になっているのではないかとも。

 私も、この気持ちはわかります。私は一度社会に出てそれから大学に入り直したという経験から、当時(昭和40年代)のソビエトや中国、北朝鮮を理想化する一方、日本を貶めてやまない時代風潮に強い反発を感じていました。また、そうした時代風潮の中で、日本国憲法第九条の「陸海空軍その他戦力は認めない、国の交戦権はこれを認めない」とする規定の解釈から、社会一般とりわけ教育界において、自衛隊員やその子弟を差別的に取り扱う事例が数多く発生したことに憤りを感じたことを覚えています。

 biglobe百科事典の「自衛隊」の項「自衛隊関係者への人権侵害や運用面での阻害」には次のような記述があります。

 「上記のような憲法上の問題や旧軍との連続性への懸念などから、自衛隊は日本教職員組合(日教組)や日本共産党党員などの左翼勢力から、平和主義の敵として存在自体が憎悪されることとなった。そして、実際に自衛隊員の子供の学校入学拒否、教師による自衛隊員の子供へのいじめや差別(これらは警察官の子供に対しても行われることがあった)、自衛隊の公共施設使用に対する妨害や抗議などのような、自衛隊員や関係者の人権を侵害する事件が起こっている。

 また、自衛隊という組織を犯罪者集団、自衛隊員という職業を賤しいものとする偏見が流布され、平成7年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件における自衛隊の活躍で下火になるまで長く続いた。中でも自衛隊員の配偶者や子供の中には差別を恐れ、配偶者や親の職業を隠さざるを得なかった事例がある。また、現在でも小中学校の社会科授業では日教組系列の教師により反自衛隊教育が公然と行われている学校も存在し、高校卒業時の進路指導でも自衛隊入隊を希望した生徒に対し入隊を辞退するよう説得する傾向も存在する。」

 私は、先のエントリーの論点7で、「○ 我が国の自衛権を行使するための適切な安全保障体制を確立すべきだと思います。装備の充実や武器の使用などは、その安全保障の目的にそって冷静かつ合理的に決定すべき事です。また、自衛隊員が一種の被害者意識に陥るような状況はよくないし危険だと思います。」と書きました。これは先に紹介したような自衛隊員を差別するような状況が過去にあり、それが数十年にわたって続いてきたことを知っているからです。今回の論文を見ると、田母神氏は、こうした差別的状況を脱却するためには、こうした差別を正当化してきた「日本は侵略国家であった」という歴史認識を覆す必要があると確信しておられるように思います。

 だが、その気持ちはわかりますが、私は、今回の田母神氏の論文は、残念ながら自衛隊の名誉を回復するものにはなっていない、というより逆に誤解を招きかねないものになっていると思います。第一に、史実の解釈が一方的で、旧軍が主張したものとそっくりだということです。旧軍の行動については、戦後、その数々の謀略事件(張作霖爆殺事件や柳条溝鉄道爆破事件等)が明らかになっており、日本外交の信用を失墜させた責任は免れない。また、ロンドン軍縮条約締結時における統帥権独立の主張による内閣のシビリアンコントロールの否認、3月事件、10月事件、5.15事件、2.26事件などのテロ・クーデターによる政党政治の破壊及びその後の議会の奪取、言論の検閲・統制・弾圧による民主主義の否定等を見れば、それを教訓とはしえても弁護することは到底できません。

 ただ、ここで注意すべきは、当時の政治家や外交官やマスコミや国民一般に責任がなかったか、彼らはなべて軍の被害者であったかというと、実はそうではなく、軍の統帥権独立の主張を手引きした鳩山一郎(民主党の鳩山幹事長の実父)をはじめ政治家の責任は極めて大きい。また、張作霖爆殺事件や満州事変の真相の隠蔽に政治家やマスコミが果たした役割は隠れもなく、満州事変では新聞はそれを正当化するキャンペーンを張り、また5.15事件の犯人を弁護したのは新聞そして国民でした。何とこの裁判では、11名の事件首謀者に対する減刑嘆願書が血書、血判のものを含め30万通も届き、その中には根本から切断された小指9本があったといいます。(『天皇と東大(上)』立花隆p766)つまりこの時代、先に示したような軍の一連の行動を多くの国民が支持したという事実、この不思議を解明することこそ、昭和史を学ぶ際の最も重要な観点なのです。

 実は、こうした観点を見失わせたものが、「マッカーサーの歴史観」なのです。これが、こうした事実を隠蔽し、占領地の原住民=日本人の不満が占領軍に向かってこないよう、直接間接の誘導・暗示・報道・論説という形で言論統制し、原住民の分裂を策し、敗戦の不満を原住民政府や「一部の軍国主義者」に向かわせ、それによって国民のうっぷんを晴らさせ、さらに、「一部の軍国主義者」の侵略を阻止し日本を解放したのは私たち占領軍だ、と被占領地原住民に思い込ませること、これが「マッカーサーの戦争観」の目的だったのです。つまり、この戦争観は占領政策をうまく運ぶための「軍政」の一環であり、決して、日本人に真の戦争の敗因を教えるものではなかったのです。。」(『ある異常体験者の偏見』山本七平p181)*下線部記述修正11/17

 この「占領下の言論統制やプレスコードの実態は不思議なほど一般に知られていない。マスコミ関係者がこの問題をとりあげると、必ず例外的な犠牲者を表面にたて、自分はその陰に隠れて、自分たちは被害者であったという顔をする。それは虚偽である。本当の被害者は、弾圧されつぶされた者である。存続し営業し、かつ宣撫班の役割を演じたのみならず、それによって逆に事業を拡大した者は、軍部と結託した戦時利得者でありかつ戦後利得者であって、『虚報』戦意高揚記事という恐るべき害毒をまき散らし、語ることによって隠蔽するという言葉の機能を百パーセント駆使して『戦争の実態』を隠蔽し、正しい情報は何一つ提供せず、国民にすべてを誤認させたという点では、軍部と同様の、また時にはそれ以上の加害者である。」(上掲書p182)

 「多くの出版人がいうようにプレスコードのしめつけは東条時代よりひどかった」「新聞・放送は徹底的に統制され」「日本的な抜け道がなく」「『私信』すら遠慮なく組織的に開封し点検した。こういうことは、戦争中の軍部も行わなかったし、日本軍の占領地でも全く行わなかったそうである。」「ただ彼は軍部よりはるかに巧みであって、一般の人びとにはほとんどそれを感づかせず、『言論』が自由になったような錯覚を、統制した新聞を通じて、人びとに与えていたのである。そして今でも人びとは、この錯覚を抱きつづけている。民主主義と軍政の併存(?)は、実は、この錯覚の上に成り立った蜃気楼に過ぎない。」「史上最も成功した占領政策」は、すでに長い間大日本帝国陸軍の内地宣撫班としての実績を持つ日本の新聞によって導かれたのである。(上掲書p184)

 再び言いますが、こうした占領軍による思想言論統制その一環としての「マッカーサーの歴史観」は、占領軍による占領地の「軍政」をスムースに行うための言論誘導だったのです。一方、これによって、当然、戦争責任の一端を担うべき政治家や官僚やマスコミの責任が回避されることとなりました。彼らの責任、とりわけ、戦後はマッカーサー軍政の宣撫班と化して組織を温存拡大し、再び「語ることによって隠蔽するという言葉の機能を百パーセント駆使して『戦争の実態』を隠蔽し、正しい情報は何一つ提供せず、国民にすべてを誤認させた」新聞の責任は極めて大きいといわざるを得ません。(いわゆる「百人斬り競争」の戦意高揚創作記事で無実の二少尉を死刑台に送りながら、今も正当な取材だったと言い張る「毎日新聞」、これを非戦闘員の虐殺にすり替えた朝日新聞などその典型です。)

 そこで、この「マッカーサーの歴史観」と、田母神論文の歴史観の関係ですが、田母神論文は、この「マッカーサーの歴史観」の裏返しのように思われます。つまり、加害者と被害者を逆転させただけで、今なお「マッカーサーの歴史観」のマインドコントロール下にある。この呪縛を脱却し、日本の近現代史を日本人自らの視点で、紛れもなく私たちの父祖たちの歴史として、その事実関係を再把握することが、今日私達に求められていると思います。また、今後日本をどう守るかは、かって国家予算の9割を軍備に充て、陸軍だけでも700万の兵員を擁し、南方の島々では140万にも及ぶ餓死者を出す壮絶な戦いをしながら敗れたという、この事実から出発しなければならないと思います。

 敗戦後、多くの兵士達は、捕虜収容所の中で、「事ここに至った根本的な原因は『日本人の思考の型』にあるのではないかと考えた」と山本七平さんはいっています。「そしてほとんどすべての人が指摘したことだが、日本的思考は常に『可能か・不可能か』の探求と『是か・非か』という議論とが、区別できなくなるということである。」再軍備を考えるなら、まず、『是か・非か』の前に『可能か・不可能か』を検討しなければならない。しかし、「われわれは、『食料、燃料を含めた軍備』という点で、全く手段方法なき状態におかれて」おり、この軍備としての食料をどう確保するか、それが「可能か・不可能か」という考え方に立たなかったのが旧軍部であり、その結果が飢えであり、餓死と降伏であった。そしてこの事実を消したのが、実はマッカーサーなのである。」といっています。(上掲書p177)

 今回、田母神論文の是非をめぐって、ネット上に多くの意見が寄せられており、私もそのいくつかに目を通しましたが、残念ながらその多くは東京裁判史観からの脱却とはいいながら、田母神氏と同様、いまなおそれに呪縛され続けている現状を目の当たりにし、いささか暗澹たる気分にさせられました。(「是か非か」を論ずる前に~欠いているように思われました。」を削除11/17)

2008年11月11日 (火)

田母神論文を支えている日本人の思想的陥穽

 田母神氏が民主党などの要求により参議院の外交防衛委員会で参考人招致されることになりました。さて、どんな議論が交わされるか。

 田母神氏は3日の更迭後の会見で、自分が論文で主張したことは「誤っているとは思わない。政府見解は検証されてしかるべきだ」。「政府見解とか、一言も反論できないということでは、北朝鮮と一緒ですね」といっています。また、論文は本や雑誌の引用がほとんどで独自の研究とは言い難いとの指摘には「書かれたものを読んで意見をまとめた。現職なので歴史そのものを深く分析する時間はとれない」といっています。従って、私が前回指摘したような歴史的事実に関する議論には深入りしないと思います。

 では何を主張するか、結局それは、自衛官の服務規定上どの程度まで政治的な自分の個人的見解を対外的に公表することが許されるか、という問題に落ち着くと思います。ただ、空軍幕僚長というポストは一種の管理職ですから政府見解に反する意見を公表すれば解任降格となってもやむを得ないでしょう。しかし、それが懲戒免職の対象となり退職金返納までさせられて然るべきものか、私はそれは疑問だと思います。

 この問題について、この懸賞論文の審査委員をつとめた政治評論家の花岡信昭氏は、「田母神氏の論文は一言で言えば、いつまでも『自虐史観』『東京裁判史観』にとらわれているような実態から脱却して、先の戦争をもっと多面的に見つめなおそうではないか、日本が悪逆非道なことばかりしてきたとされるような一面的な歴史観を克服しようではないか、といった点に尽きる。これは既に保守系論客の多くが主張してきたことであった。

 論文の中で使われている歴史的事実などに異論をさしはさむ向きはある。正直いって、審査の過程でもそのことは話題になった。だが、総体として、田母神氏が真っ向から『日本は侵略国家の濡れ衣を着せられている』と問いかけたことを重視したのであった。」といっています。その上で花岡氏自身は次のように自説を述べています。

 「国家の過去をことさらあしざまに言いつのる状況がいつまでも続いていていいはずはない。歴史は見る視点によってさまざまに解釈されていいのではないか。朝鮮半島や台湾などで、日本があの当時、インフラ整備や教育環境の充実などに努力したことはまぎれもない事実なのだ。」

 「『村山談話』で日本は過去の『侵略』を反省し、謝罪の意思を表明した。これもあらゆる場面で重ねてきたことなのだが、半世紀以上も前のことをいまだに謝罪し続けている国など、世界のどこにもない。戦争というのは、開戦に至る過程で、国家としての判断、主権の尊厳など、あらゆる要素が存在するのであって、『侵略戦争』の一言で片付けられるものではない。要は戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた『東京裁判』の呪縛から解き放たれていないということではないか。」(花岡信昭メルマガより転載)

 そして花岡氏は最後に、田母神氏は「民間人になったのだから、もう何を言っても平気だ。これが(参考人招致)実現したらおもしろいことになるとひそかに期待している。」と述べています。しかし、先に述べたとおり、国会の参考人質疑で、満州事変や日中戦争及び大東亜戦争の歴史的評価に関する議論を深めることは無理だと思います。また、田母神氏にしても、論文は「書かれたもの」(渡部昇一氏や黄文雄氏の著作など)をまとめたものに過ぎなくて、それも「勉強不足」が目立ちますから、それに深入りすることはしないと思います。

 そこで、私の関心ですが、もちろんそれは花岡氏がいっておられることで、日本の満州事変から敗戦に至までの歴史をどう評価するかという問題です。渡部昇一氏や黄文雄氏そして花岡氏の主張は、要するに、「国家の過去をことさらあしざまに言いつのる状況がいつまでも続いていていいはずはない。歴史は見る視点によってさまざまに解釈されていいのではないか。朝鮮半島や台湾などで、日本があの当時、インフラ整備や教育環境の充実などに努力したことはまぎれもない事実なのだ。」ということを言っているだけで、必ずしも当時の歴史が正しかったと主張しているわけではありません。

 そうしたバランス感覚が、田母神氏の論文では、彼らの書いたものの一部を引用しただけのものであるために、抜け落ちているのです。従って、この問題を論ずる上においては、田母神氏の論文ではなく、渡部昇一氏や黄文雄及び花岡氏らの主張をより詳しく点検する必要があります。本稿「日本近現代史における躓き」は、もともと、こうした問題関心から書き始めたものなのです。従って、かなりしつこい論述になっていますが、勉強しつつやっていることですので、議論が輻輳する点はどうぞご容赦いただきたいと思います。

 以下、この問題に関する私なりの見方を手短に紹介しておきます。私は、今までにも何度か言及しましたが、いわゆる「自虐史観」というのは好きではありません。また、そうした見方に安住して、”自分は正しい”と信じ込み、当時の日本人やそれを弁護する人たちを、あたかもある種の残虐人間であるかのごとく見なし、ヒステリックに批判する人たちを私は支持しません。問題は、彼らが「自己義認」から「自己絶対化」に陥っているのにそれに気がついていないことで、これこそ戦前の日本歴史を反省する上での最大のキーポイントではないかと思っています。

 こうした観点から、渡部昇一氏や黄文雄氏の主張について私見を述べると、確かに私も「朝鮮半島や台湾などで、日本があの当時、インフラ整備や教育環境の充実などに努力したことはまぎれもない事実」だと思います。台湾の領有や朝鮮の併合は条約に基づいてなされました。一方、満州の場合は、関東軍の謀略に端を発する満州占領から地方自治政権の連省による満州独立となりました。そしてそれを内面指導するという形で、実際は関東軍の武力を背景とする日本の新進官僚や財界人による中央集権的統制によって、その近代化が取り組まれました。

 そして黄文雄氏は、こうした日本による台湾、朝鮮、満州支配を、「大東亜戦争の否定・肯定論を超えた貢献論」という観点から、次のような自説を展開しています。

 「私は白人の植民地支配に対して否定的かといえばそうではなく、むしろ肯定的である。しかも植民地時代の遺産と社会主義時代の遺産を比べても、植民地主義の人類への貢献の方がはるかに大きい。なぜなら世界に対し、社会主義は破壊しか残さなかったが、植民地主義は近代化建設をもたらしているからだ。

 では日本は大東亜戦争において、一体いかなる歴史的貢献を行ったのであろうか。」「 大日本帝国が人類史に対して行った貢献、果たした役割として私がまず取り上げたいのは、開国維新後の「文明開化」と「殖産興業」を、東アジア地域に波及、拡散していったことである。この「文明開化」はソフトの波、「殖産興業」はハードの波だ。日本の成功あってこその拡散力で、それらが日清戦争の結果台湾を、日露戦争の結果朝鮮を、満州事変の結果満州を、そして支那事変の結果中国(占領地)を近代化させ、さらには大東亜戦争から戦後にかけ、南洋をも近代化させていったのだった。もちろんこの近代化の波は、資本や技術だけでなく、知識や知恵の伝播でもあった。

 このように東アジアを近代化させたのは、欧米でもロシアでも中国でもなく、日本だったのである。日本が台湾、朝鮮、満州、中国で行ったのは、匪賊退治、内戦・内訌阻止、治安確立、インフラ建設、金融財政の健全化、農民救済、農業改良、植林・米産指導等々だけでなく、二十世紀における世界支配の力学を変えたのだった。欧州大戦だけでは、ドイツが何度負けても従来の植民地時代が変わることはなかったのだ。

 だから戦後六十年以上が経った今日、戦前・戦中だけでなく、戦後の時代の流れからも、より冷静に、より客観的に、そして史実に正確に基づきながら、大東亜戦争を見なければならないのである。この戦争には悲劇の一面も大きいが、それとは別に人類史への貢献という側面も探求していかなければならないと思う。」(『大東亜戦争肯定論』黄文雄p27~29)

 黄文雄氏は、台湾出身で台湾ペンクラブ賞を受賞したすぐれた評論家です。特に、日本近現代史に関わって、中国の国家権力を恐れない大胆な切り口の評論で有名で、私も氏の著作を読み多くのことを学んでいます。しかし、あえて私見を述べさせていただくなら、氏は台湾出身ということもあって中国人に厳しく、日本人に優しい。それは大変有難いが、しかし私は、日本人自らのこととして、日本人によってもたらされたその歴史の「悲劇」の側面から目をそらすべきでない、と思うのです。

 言われるように、確かに日本人がこうしたアジアの近代化に貢献したという側面もありました。また、「善意」もありました。しかし、思想的に見れば、自国と他国との区別がつかず、そのため他国の文化的伝統に対する理解を欠き、その結果、自分たちの生き方や思想を彼らに押しつけることになった。そしてそこから朝鮮人や中国人に対するいわれなき差別感や優越感が生まれた。それが、朝鮮や中国との近代化に向けた真の友好関係の樹立を妨げた、というよりそれを破壊した。そしてついには、自国をも破滅させ「侵略国家」の汚名まで被ることになった・・・。

 私は、「日本近現代史における躓き」で幣原外交がどのようなものであったか繰り返し説明してきました。それは、もし当時の日本人に、朝鮮や中国をそれぞれ固有の文化的伝統をもつ他国と認める思想的余裕があったなら、満州問題についても、イギリスやアメリカとも連携を維持し得て、中国の国家統一にともなうナショナリズムに根ざした国権回復運動にも適切に対処し得たのではないかと思うからです。つまり幣原外交を支持する余裕が当時の国民にあったなら、日中戦争そして日米戦争という破滅の道に落ち込むこともなかったと思うのです。

 もちろん、そのためには、当時一世を風靡した国家社会主義的な思潮の中で、政治家は、軍部による政党政治批判を阻止するだけの知恵と力を持たなければなりませんでした。そしてマスコミは、関係する情報を冷静かつ的確に国民に伝えるべきでした。また、国民は、そうした情報をもとに冷静に判断して、軍部によるテロやクーデターを支持しないようにすべきでした。しかし、残念ながら事実はこの反対で、当時の国民にはそれだけの知恵と勇気を欠いていました。

 その結果、何のためにやっているか皆目わからないまま数百万の兵士を中国に送り込む「日中戦争」を4年余も戦い、その泥沼から逃れようとして、勝ち目のない「日米戦争」に”窮鼠猫をかむ”式に、一か八かの戦いを挑むことになったのです。

 ではこうした歴史的体験から、私たちはいかなる教訓を導き出せるでしょうか。それは、当時の軍部の陥った被害者意識と自己絶対化の心情、テロやクーデターの首謀者が厳罰に処せられずかえって英雄視されたこと、謀略により国法や国際法を犯しても結果さえよければよしとされ栄達を重ねたこと、一方、こうした軍部の専横に抵抗するどころか手引きさえした政治家たち、軍部の宣撫機関と化したマスコミ、そして満州事変や真珠湾攻撃を熱狂的に支持した国民世論等々、これらの不思議とその真因を見極めることなくして、私は決してその悲劇の糸口をつかむことはできないと思うのです。

 実は、こうした見解は、山本七平さんが自らの体験を通して導き出したもので、私はこの事実を日本近現代史を学び直す中で自分なりに検証したいと思っているのです。そうすることによって、日本近現代史をまぎれもない私たち自身の父祖の歴史として理解したいと願っています。田母神氏の論文はこうした観点から見ると、誠にいいわけがましく、我が父祖たちの失敗の真因に向き合っていない、ここからはさらなる被害者意識しか出てこないような気がします。あえてその論に言及した所以です。

2008年11月 4日 (火)

田母神航空幕僚長「最優秀論文」の論旨・論点及び哲学

 アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』で自衛隊の航空幕僚長田母神俊雄氏の論文「日本は侵略国家であったのか」が最優秀賞を受賞したことが話題になっています。アパグループのホームページに和文と英文のテキストが公開されていましたので早速読んでみました。本稿のテーマ「日本近現代史における躓き」の関心とも一致していますし、ちょうど論じようと思っていた観点も含まれていましたので・・・。以下、私なりの感想と私見を申し述べておきたいと思います。氏は「嘘やねつ造は全く必要がない」といっておられます。その知的誠実を共有しつつ・・・。

 論旨
① 日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。

② この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。

③ これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

④ 日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。

⑤ 私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。・・・我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 以上が全体の論旨の流れです。要するに、日中戦争は蒋介石に引きずり込まれたもの。太平洋戦争はアメリカに引きずり込まれたもの。しかし、こうして日本が戦った大東亜戦争は、白人国家の植民地支配からアジア諸国を開放し、人種平等の世界を到来させた。従って、我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である、というのです。

 そこで先ず①の事実認識ですが、これは満州事変(s6.9.18)が起こる以前についてはいえますが、その後についてはいえないと思います。侵略といわれるのは、日本の満州事変以降の軍事行動についてですから。

 次に②ですが、これもおそらく満州事変以前の事でしょうが、幣原弱腰外交という批判の端緒となった第二次南京事件や済南事件及び満州事変直前の万宝山事件の報道はいずれもセンセーショナルな誇大報道により国民が扇動されたという側面のほうが強いと思います。

 特に、済南事件では、北伐中済南に入った蒋介石軍と居留邦人の現地保護のため出兵した日本軍の衝突が発生すると、済南駐在武官だった酒井隆少佐が中央に誇大な数字を報告、陸軍省は邦人の惨殺300と報告して出兵気運をあおりました(酒井少佐の謀略説もある)。しかし、実際は殺された日本人は12名で、それも彼らは避難命令を無視した朝鮮人の麻薬密売者だった(在北京公使館の警備に当たっていた岡田芳政少尉の回想談)といいます。結局これが全面衝突に発展し、この戦闘による中国側死者(死傷者を訂正11/12)は日本側の10倍約2,000人(『満州事変への道』馬場伸也p210)に達しました。これが日本軍が中国の国家統一を妨害したものと受け取られ、その後の日中関係を決定的に悪化させる契機となったことは忘れてはなりません。

 また、満州事変直前に起きた万宝山事件では朝鮮人の死者は一人も出していなかったのに、センセーショナルな誇大報道がなされたために、激昂した朝鮮人によって虐殺された朝鮮在住の中国人華僑は100余名に達しています。
 
 ③は、私も今まで勉強してきて、残念ながら、事実はここで述べられている事と逆だな、と思わざるを得ませんでした。満州事変に引き続く華北分離工作という度重なる関東軍の挑発に、ついにがまんしきれなくなったのは蒋介石の方というべきであって、そのことは蒋介石の「最後の関頭」演説の通りであり、日本は”引きずり込まれた”というより、”慢鼠猫にかまれた”といったほうがより適切だと思います。その意味ではやっぱり加害者ですね。(下線部”窮鼠猫にかまれた”を訂正11/5)

 ④は、対米戦争に日本は”引きずり込まれた”という説ですが、秦郁彦氏は、日米戦争に至るポイント・オブ・ノーリターンは、日独伊三国同盟だといっています。つまり、ハル・ノートがなくても日米戦争は不可避だったというのです。ただし、ハル・ノートが”窮鼠猫をかむ”で真珠湾攻撃を招いた(より正確には、アメリカは”窮鼠猫を(南方で)かませる”つもりだったが、油断していて真珠湾をかまれた11/12)事は否定できません。(もっとも、11月26日にハル・ノートが日本に届いたその数時間前に南雲機動部隊はヒトカップ湾を出撃してハワイに向かっていました。12月8日開戦を意味する”ニイタカヤマノボレ”は12月2日です。11/7追記)また、それがコミンテルンの工作によるものだったとしても、戦争に謀略はつきものですから、騙されたほうが悪いという事になりかねません。渡部昇一氏は、日本政府はハルノートの”非道”をアメリカ国民にマスコミを通じて訴えるべきだったといっていますが、これは卓見です。

 それにしても、大東亜戦争の日本側犠牲者約310万うち約200万人は軍人及び軍属の死者で、その約七割140万人は広義の餓死者(『現代史の対決』秦郁彦p232)だといいます。これらの死に対する責任は一体誰にあるのでしょうか。日本軍が中国に与えた被害もさることながら、日本軍が日本人自身に与えたこれらの無残な死の責任こそ問われるべきだと思います。

 ⑤は、①から④の論理と矛盾しますね。引きずり込まれてやむを得ず戦った戦争が、多くのアジア諸国で評価が高かったとしても、それは、いわば結果論であって、自ら意図したものではないというのですから、自慢にはなりません。つまり、これによって侵略戦争という非難を埋め合わせることはできません。

 次に、論文の中で主張された田母神氏独自の論点を点検してみます。

論点1 いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。
○ これは渡部昇一氏が主張している事ですが、この要求が外交的に稚拙であったということは氏自身も認めています。(本稿「二十一箇条要求」参照)

論点2 昭和2年の張作霖爆殺事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。
○ そういう工作がなされた可能性は、この事件はあまりにも愚劣な事件ですから、私もなくはないとは思いますが、仮にあったとしたら、それに騙されて爆殺を実行した河本大作以下関東軍首脳は本当の大馬鹿ものだと思います。(本稿「張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆」参照)

論点3 日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている 
○ この件については、田母神氏が引用されている『廬溝橋事件の研究』の著者秦郁彦氏の最近の見解では、95%以上の確率で、中国側第29軍の兵士による偶発的発砲による、といっています。なお、劉少奇は事件勃発時には延安で開かれていた白区会議に出席して不在だったということです。(『歴史の嘘を見破る』中島嶺雄編「中国に「廬溝橋事件は日本軍の謀略で戦争が始まった」といわれたら」秦郁彦)*下線部追記11/7

論点4 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。
○ 本稿「日韓併合」参照

論点5 幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
○ 幣原外交は、第二次南京事件以降、軍部及びマスコミに軟弱外交、弱腰外交と批判され、昭和2年に田中義一首相の積極外交に取って代わられました。しかし、田中首相は済南事件で大失敗し張作霖爆殺事件で退陣に追い込まれ、その後幣原が再び外相となりましたが、田中外交の後遺症や張作霖の息子張学良の意図的な反日・侮日政策のため行き詰まり、満州事変で息の根を止めらました。
 渡部昇一氏の『日本史から見た日本人―昭和史』はこのあたりを詳しく書いていますので、田母神氏のこの記述はその影響かとも思われますが、私も、この時代の日中交渉が幣原外交を基軸に進める事ができていたらと、惜しまずにはいられません。

論点6 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。
○ アメリカは開戦時の日本軍の行動を「執拗な攻勢努力は終局的にフィリピンを含みマライ半島および香港の占領をめざすだろう」と想定していました。事実、日本の対米戦争における伝統戦略は、来攻するであろう米海軍と内南洋で迎撃決戦するというものでした。しかし、山本連合艦隊司令長官が軍令部と連合艦隊の猛反対を押し切ってハイリスクのハワイ攻撃へ持ち込んだことが米側のもくろみを覆すことになりました。そのため、ハワイの連合艦隊司令長官のキンメルは、ワシントンからの危機警告を受けていたにも関わらず、12月6日(金)から12月8日(日)まで搭乗員に週末休暇を与えて周辺海域の哨戒を怠り、また、攻撃を受ける2時間(50分?)前にオアフ島北端で試運転中だったオパナ・レーダーサイトの水兵が、日本機らしい大軍を発見したのに当直の中尉はそれを信用せず握りつぶしてしまったのです。つまり、日本の連合艦隊のハワイ奇襲の情報は攻撃を受けるまでルーズベルトの耳には届かなかった、というのが秦氏の結論です。

 また、秦氏は、いわゆるルーズベルト陰謀説について、もしルーズベルトが日本の真珠湾奇襲を知っていたとすれば「ルーズベルトは直前に太平洋艦隊を出航させればよい。そうすれば、日本の攻撃はカラ撃ちとなり、損害を出さないで目的を達せるではないか。」と問う事にしている、といっています。
 諸説あるようですが、私もこれが妥当な判断ではないかと思います。いずれにしろ陰謀説はいまだ証明されておらず、憶測の域にとどまっているのではないでしょうか。(『検証・真珠湾の謎と真実』『昭和史の謎を追う』外秦郁彦著参照)

論点7 自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。
○ 我が国の自衛権を行使するための適切な安全保障体制を確立すべきです。装備の充実や武器の使用などは、その安全保障の目的にそって冷静かつ合理的に決定しなければなりません。また、自衛隊員が一種の被害者意識に陥るような状況はよくないし危険です。この点は戦前の歴史的経験から学ぶべき重要な観点だと思います。

論点8 アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。
○ 伝統文化をどのように発展させていくかは国民一人一人に課せられた課題です。優れた点を伸ばし弱点を克服する。そのためにも自国の文化的伝統の再把握が必要だと思います。歴史教育において近現代史教育にもっと時間を割くべきですね。

論点9 私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
○ 親子関係のようなものである事が望ましい、ではなく、兄弟関係のような・・・では?(*後で気づきましたが田母神氏は良好な親子関係と頼りきった親子関係を対比しているのですね。11/5)

論点10 日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。
○ 山本七平さんは、「獣兵も聖兵もいなかった」といっています。また、特定の民族が残虐だとかいうようなことはいえない、ともいっています。
 日本軍の軍紀が厳正であったとは、少なくとも張作霖爆殺事件から2.26事件に至までの青年将校達についてはとてもいえません。

哲学1 もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
○ 1922年のワシントン会議以降、九カ国条約で、中国の領土・主権の尊重という事が謳われ、1928年の不戦条約では侵略戦争が否定され、国家間の紛争は平和的手段によるとされて以降、「侵略」の定義は条約上明記されたのです。日本が満州国を、地方政権の独立と連省の結果と言い張ったのも、これらの条約が適用され「侵略国」の烙印を押されることを避けるためでした。それ故に、満州事変の発端となった柳条溝線路爆破事件の真相は、東京裁判においても関係者全員知らぬ存ぜぬで通し、その秘密を守り抜いたのです。

哲学2 人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
○ 国家間の関係においては、今日でも経済面においてもそういう側面がありますね。ただし、軍事面におけるそのプレゼンスは、経済面に比べてそれほど決定的なものではなくなっているのではないでしょうか。

 以上、田母神氏の論文のいくつかの論点について私見を申し述べさせていただきました。

2008年10月30日 (木)

満州事変は日本の「運命」だったか。

 このあたりで、「日本近現代史における躓き―「満州問題」のまとめをしておきたいと思います。

 戦前の日本人にとって「満州問題」とは、朝鮮の独立問題をめぐって勃発した日清戦争に日本が勝利し、その結果、遼東半島が日本に割譲されたことに起因します。これに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の中国への返還を要求し(三国干渉)、日本はやむなくそれに応じましたが、その後、日本が日露戦争に勝利した結果、それまでロシアが支那から租借していた関東州と南満州、安奉両鉄道の租借権を日本が譲り受けることになりました。

 これによって、日本は、関東州租借地を完全な主権を持って統治し、南満州、安奉両鉄道の経営は半官半民の南満州鉄道株式会社(略称満鉄)にあたらせることになりました。日本はこの満鉄を通じて鉄道付属地の行政にあたりました。この満鉄の付属地には、奉天や長春など人口の多い地域をはじめとして15都市が含まれ、これらの地域では、日本は、警察・徴税・教育・公共事業を管理しました。また、租借地に関東軍を置き、鉄道の沿線地帯(線路の両側合わせて62m)には鉄道守備隊を駐屯させ、各地方に領事館や警察官を配置するなど、満州諸地方に武装部隊を置きました。

 その後1915年の「二十一箇条要求」で、これらの租借期限(ロシアが得ていた租借期限は25年)を99年に延長するとともに、日本国民が南満州において旅行、居住し、営業に従事し、商業、工業及び農業のための土地を商租する権利を得ました。

 ところで、満鉄経営の基本政策は、満鉄線に連絡する支那の鉄道建設に対してのみ資本を供給し、そうすることによって満州内の貨物の大部分を租借地・大連から海運輸出するために直通輸送しようとすることにありました。しかし、支那にすれば、満鉄のような外国管理の施設が国内に存在し鉄道輸送を独占することはおもしろくなく、そのため満鉄の発達を妨害しようとする支那の試みは張作霖の時代からありました。張学良の時代になると南京政府の利権回復運動とも相まって、日本の独占的・膨張的な政策との衝突を繰り返すようになりました。

 1931.9.18日の満州事変以降日本は、その武力行使を正当化する根拠として、日本の満州における以上のような「条約上の権益」が侵害されたと主張しました。

 第一の非難は、①南満州鉄道付近にそれと平行する幹線および利益を害すべき支線を建設しないという、1905年の取極(「満州に関する日清条約付属取極」)があるにもかかわらず、張学良政権が満鉄包囲網というべき平行線を敷設したこと。②南満州において、各種商工業上の建物を建設するための土地あるいは、農業を経営するための土地を商租する権利が1915年の「南満州及び東部内蒙古に関する条約」によって認められているにもかかわらず、たとえば、間島における朝鮮の農民が土地を商租する権利が中国側官憲の不誠意によって実現されていないこと。

 第二の非難は、満州の都市部・華中・華南で広く見られた排日貨、対日ボイコットが中国側の組織的な指導によってなされているという主張で、これが不戦条約第二条(「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段に依るの外、之が処理または解決を求めざることを約す」)の明文またはその精神に違反する、というものでした。つまり、これらの条約で規定された守られるべき日本の権利が蹂躙された以上、それを実力で守ってどこが悪いか、というものでした。(『戦争の日本近現代史』加藤陽子p255~256)

 しかし、第一の①については、「付近の平行線」の定義が明確でなく、欧米の慣行では約12マイルから30マイル以内の鉄道を「付近」としていたそうですが、日本が平行線と非難した錦州―チチハル間の鉄道は最短の部分で100マイルも離れていました。また、②については、「外国人の内地雑居は領事裁判権と密接な関係があり、そのため中国側は、多くの日本人(朝鮮人含む)が開港地以外の内地に雑居し、かつ中国の法律に服さないというのは、中国の主権の破壊になると主張し、領事裁判権を日本側が持つ以上は、内地雑居を許可できないと反論」しました。事実、こうした特権は外交上前例がなく、日本側もその無理は承知していました。

 また第二については、これまで済南事件や張作霖事件における日本側の行動を詳しく見てきましたので事情はお分かりだと思いますが、こうした日本側の度重なる侵略的行為に刺激された結果、中国側も日本の条約上の権利を力で蹂躙するようになったのだ、ということもできます。なにしろ張学良は自分の父親を日本軍の謀略によって爆殺されたのですから、その彼に日本に対する友好的な態度を期待する方がおかしい。さらに、日本側の主張の根拠とされた、それまでに積み上げられた条約や規定の解釈自体にもグレーゾーンがあり、双方の解釈が異なっていたことも指摘されています。(上掲書p259~263)

 こうしてみてくると、日本側の言い分にはかなり無理がありますが、関東軍は満州事変を引き起こす過程で、その武力占領の正当性を国民に納得させるため、日本は条約を守る国であるが、中国は条約を守らない国であるという宣伝に努めていました。確かに、1920年代の国民党による中国統一の過程で、排外主義的なナショナリズムが鼓吹されたことは事実です。幣原喜重郎はこうした中国の事情に十分な同情を寄せつつも、中国側が「事情変更の原則」を掲げて、前述したような既存条約の一方的廃棄を求めることを、国際関係の安定を脅かすものだとして明確に拒否していました。

 幣原としては、1922年のワシントン体制の中核的条約である九カ国条約の中国における門戸開放や機会均等主義を「わが商工業は外国の業者の競争を恐れることはない。日本は実に有利な地位を占めている」として支持していました。同時に、満州においては、「日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互友好協力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況の確立」を目指していました。この時幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているが、私から見ればロシアのものだった。・・・ロシアを追い出したのは日本」であり、このような歴史的背景を踏まえれば、以上のような日本の要求を中国側が尊重するのは道義的に当然である、という考えをその基礎に置いていたのです。。(*おそらく幣原はこの商租権の問題は不平等条約の撤廃で可能と考えていたのではないでしょうか。11/3挿入)

  だが、こうした幣原の期待は、両国国民の友好関係(お互い~信頼関係を訂正11/3)があってはじめてできることで、しかしこの時は、済南事件で日本が中国統一を妨害したように受け取られ、張作霖爆殺事件以降は、張学良政権による意図的な反日侮日政策がとられていたのですから、そのための現実的基盤は失われていました。その結果、在満邦人はこうした反日・侮日政策に結束して対抗するようになりました。また、幣原外相が、在満同胞が「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発し、もう外務省は恃むに足らずとして、軍の支持のもとに「実力行使による満州問題の解決」を要求するようになりました。

(注) 幣原外相と広東政府外交部長陳友仁との秘密交渉に関する記述、近衛文麿と駐日支那公使蒋作賓との会話及び石原莞爾の「満蒙計略の方針」に関する記述は削除し、以下を追加挿入11/3)

 もちろんこの間陸軍は着々とこうした満州問題の行き詰まりを武力で解決するための政治工作、世論作りを進めていました。そこに起きたのが万宝山事件(1931年7月、長春北30キロにある万宝山で発生した朝鮮人移民と中国人農民との衝突事件)で、これが朝鮮人虐殺事件と誇大に報道され(実際には死者は出ていない)、朝鮮国内で激しい排華暴動となり華僑100人余が殺害され、中国でも排日ボイコットが展開されるるという事態に発展しました。さらに、中村大尉事件(興安嶺地区の兵用地誌調査中の参謀本部の中村震太郎大尉らがスパイ容疑で張学良軍の殺害された事件1931.6.27発生)が8月17日公表されると、世論はいっそう硬化し、従来幣原を支持してきた朝日新聞も「小廉曲謹的」と幣原外交を批判するようになりました。また、政友会や貴族院においても軍部の主張する満蒙問題の武力解決を容認する政治的情況が生まれていました。(『太平洋戦争への道』1p421)

 こうして、1931年9月18日、関東軍参謀の謀略による柳条溝鉄道爆破に端を発する満州事変が勃発しました。政府(第二次若槻内閣)は不拡大方針をとりましたが、関東軍は軍中央の協力、朝鮮軍の支援を得、謀略、独走を反復して戦線を拡大し、1932年2月までに東北の主要都市、鉄道を占領しました。この間奉天、吉林、ハルピン等に次々と地方独立政権を樹立させ、これらは連省自治制を採用して1932年2月17日東北行政委員会を発足させ、その名において、満州事変勃発後わずか半年後の3月1日、奉天、吉林、黒竜江、熱河の四省を中心とする新国家満州国の建国を宣言しました。発足時の政体は共和制とし、溥儀には「執政」の称号を贈りました。

 この間、12月11日には若槻内閣が総辞職し幣原外交はここに終焉することになりました。続いて犬養政友会内閣が成立し、外相は犬養兼任、陸相は十月事件でクーデター政権の首班に擬された満州事変積極的推進派の荒木貞夫が就任しました。そして、翌1月6日には陸、海、外三省の関係課長は次のような「支那問題処理方針要項」を決定しました。いうまでもなく、先の新国家満州国の建国は、こうした日本政府の方針・要綱に沿って進められたのです。

 「方針一 満蒙については、帝国の威力の下に同地の政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において、帝国の永遠的存立の重要要素たる性能を顕現するものたらしむることを期す。二(略)。要綱一 満蒙はこれをさしあたり支那本部政権より分離独立セル一政権の統治支配地域とし、逐次一国家たる形態を具備するごとく誘導す。・・・成立する各省政権をして逐次、連省統合せしめ、かつ機を見て新統一政権の樹立を宣言せしむ(以下略) 」

 以上、「日本近現代史に於ける躓き」における最大の難問である満州問題、その発端から満州国建国に至るまでの経過を見てきました。ではこうした歴史の展開をどう見るか。岡崎久彦氏は次のようにいっています。

 中国の国家統一が進展しそれが「満州に及んだ場合を想像すると、日本は在留邦人の希望に添った現地保護主義をとらざるを得ず、その場合、中国側との衝突路線を歩むのは不可避である。現地保護主義を抑えて(幣原の)不干渉主義を貫く場合、中国側の有識者のなかには日本の政策の理解者もあり、日本の権益を保護しようとしてくれたかもしれないが、中国の国権回復のうねりはそういう妥協を許したかどうかもわからない。双方によほどの良識ある外交とそれを実施する指導力がないかぎり、悲劇は運命づけられていたといえる。」(『幣原喜重郎とその時代』p288)

 さて、その「運命」ですが、確かに歴史はそのように進んだのですが、では、そのような「運命」を決定づけた歴史的条件のすべてが不可避であったかというと、私は必ずしもそうはいえないと思います。本稿では、その歴史的条件の一つとして、当時の軍部とりわけ青年将校グループが満州占領、政治革新へと突き進んだその異常な心理状況を説明しました。また、そうした青年将校達を熱狂的に支持した国民世論がどのように形成されたのかを見てきました。では、はたして、こうした事態は回避できたのでしょうか。

 そこで最後に、このことを、当時の政党や政治家およびマスコミの果たした役割とともに考察して本稿のまとめとしたいと思います。

2008年10月18日 (土)

「偽メシア」石原莞爾の戦争責任3

 「メシア」とは、ヘブライ語またはアラム語で油を注がれた者、すなわち聖別された者を意味する言葉です。出エジプト記には祭司が、サムエル記下には王が、その就任の際に油を塗られたことが書かれていますので、後にそれが「油注がれた者」すなわち理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになったと辞書には説明されています。私が石原莞爾について「偽メシア」という言葉を使ったのは、彼の言葉と行動は、はたして、昭和6年という日本の危機の時代において、民族の伝統文化を未来に向けて発展させる契機をもっていたか、ということについて疑問を感じているからで、私はむしろその逆だったのではないかと思っています。

 もちろん、こうした見解は従来のものと特に変わってはいないのですが、最近の石原評の中には、彼の頭脳の並外れた優秀性と、満州事変の奇跡的な軍事的成功に幻惑されて、その「偽メシア」的メッセージの及ぼした害毒の深刻さを看過しているものが多いような気がします。とりわけ福田和也氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』では、「世界最終戦総論も、満州国も、五族協和も、東亜連盟も、永久平和も、都市解体も彼の祈りであった。」(上掲書p461)「石原莞爾の魅力は、・・・その根源は、やはり高い倫理性、理念性にあると思う。」(同p464)として、その生き方や精神性を高く評価しています。

 だが、私は石原莞爾の場合は、そんな資質よりも、彼の「政的的行動」が日本に及ぼした結果責任をこそ、厳しく問うべきだと思います。よく、彼の東京裁判の「酒田臨時法廷」における発言が紹介されます。いわく「もし大東亜戦争の発端の責任が満州事変および満州国にあるというのなら、その第一の戦争責任は自分にある、なぜ自分を裁かないのか、と裁判官を問い詰めた」と。これは「潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する」という石原の捨て身で痛快なイメージを伝えるものですが、これが真実かどうかとなると、かなり怪しい。

 そもそも、彼が計画・実行した満州事変が、石原莞爾や板垣征四郎を中心とするごく少数の将校たちによる謀略(柳条湖事件)に始まることが明らかにされたのは、歴史家の秦郁彦氏が、事件の首謀者の一人花谷正(事件当時奉天特務機関補佐官)らをヒアリングしてまとめた、「別冊知性」(河出書房)の記事「満州事変はこうして計画された」(1956年秋)が最初です。それまでは、この事件は日本軍の犯行と推断されてはいたのですが、決定的な証拠はなく、東京裁判でも検察の追求は不徹底に終わり、石原は戦犯指定を免れました。事実、彼は、検察側証人として次のような虚偽の証言をすると共に自分の責任をも否定しています。

 「石原は、一九四六年(昭和二一年)五月三日に、東京逓信病院で行われた国際検察局による第一回の尋問において、自分や板垣が満洲事変を計画したことを否定している。また、石原は、日本軍による南満州鉄道線路の爆破をも否定し、五月二四日に行われた第二回の尋問で、再度、南満州鉄道線路の爆破について問われた際は、「私は中国人が、一九三一年九月一八日に鉄道線路を爆破したと思っている。」と答え、日本軍が満洲事変を計画的に引き起こしたことを完全に否定し、満洲事変は偶発的に起こったことを主張している。更に、石原は、自分や板垣が、本庄司令官の命令無しに、攻撃命令を出したことも否定し、攻撃命令を下したのは、本庄司令官であり、自分はその命令に従った過ぎないことも主張している。〔以上、「戦史研究 石原莞爾はかく語りき―戦後の石原莞爾―」参照〕 

また、こうした態度はこの事件の他の実行犯にも一貫していました。なぜか、秦郁彦氏は次のようにいっています。

 「柳条湖事件には、どことなく後味の悪さがつきまとう。味を占めた日本はその後も同じ手口を重ねて戦火を拡大し、十年もたたぬうちに東アジア・太平洋の全域を支配する軍事大国に急成長するが、太平洋戦争で元も子も失って倒れた。まさに『悪銭身につかず』である。東京裁判で『共同謀議による侵略戦争』遂行したとして訴追された戦時指導者たちは、『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったと抗弁した。しかし、どんな大義名分を持ち出しても、起点となった柳条湖事件を正当化できないのは明らかだった。だからこそ、彼らは一致して秘密を守り抜いたのである」(『昭和史の謎を追う』p34)

 では、このことを確認するために、先に紹介した花谷証言以降明らかになった柳条湖事件の事実関係を説明します。

 石原は昭和3年10月に関東軍参謀として赴任して以来、前回紹介したような壮大な「最終戦争」ヴィジョンのもとに、日米戦争を覚悟しても満州領有が必要であることを周囲の人びとに説きつつ、具体的な満州占領計画を作成していました。だが、はたして、こうした霊感、神意に発する石原プランが板垣以下同士同僚にどれだけ説得力を持ちえたかについては私も疑問に思いますが、いずれにしろ、「満州領有」という悪くすると世界大戦に発展しかねない軍事行動のバネになる最低限の根拠を与えられたということだけで満足したのではないかと思います。(『昭和史の軍人たち』畑郁彦p235参照)

 一方、軍首脳は、満州問題が外交交渉で解決できず、ついに軍の出動を必要とするに至った場合でも、なぜそれがやむを得ないものであったかを、ソ連や米英だけでなく国民にも納得させる必要があるとして、そのためには約一カ年を要すると見ていました。そして、満州における「排日侮日一覧表」などを作成・配布して宣伝に努めるとともに、関東軍に対しても張学良との間に事件が起きても大事に至らしめないよう注意していました。これに対して石原は、この中央の方針を「腰抜け」と罵って不服従の姿勢を示し、旅順司令部で、花谷正参謀後に高級参謀板垣征四郎も加わり実地解決策を内密で研究しました。

 板垣は初めは関東軍単独の解決案に反対しましたが、昭和5年には石原工作の主将たるを約束しました。この外張学良顧問府補佐の今田新太郎大尉も加えこの4人だけで満州事変の密造に着手し、鉄道の爆破、北大営の夜襲、奉天の占領、各枢要都市の占拠、各種擾乱工作、朝鮮軍との連絡、軍中央部(東京)の誘導、等々の事変方式を作り上げました。昭和6年1月頃にブループリントは出来上がりました。それから朝鮮軍参謀中佐神田正種に大要を明かしてその全面賛成を得、次いで参謀本部の橋本欣五郎及び根本博に打ち明けて原則的に協力の約束をとりつけました。

 また、石原は軍の中央部に対し、万一事ある場合には関東軍を見殺しにしないだけの諒解をとりつける必要があるとして、土肥原、花谷を東京に派遣し、敵から挑戦された場合は関東軍は断然決起する決心であることを省部の首脳に説かしめ、なお在郷の同士には極秘裏に「我が方から起つ計画」を内示し、その場合の強力なる掩護行動を要望しました。これに対して橋本欣五郎は、満州問題解決には内政革命が先決である、若槻の政党内閣では何事もできない。故に先ずクーデターによって軍政府を樹立し、その上で思う存分に解決を計るべく、その時期は大体10月の見当だから関東軍の行動はその直後とすることを熱説して袂を分かちました。(「十月事件」参照)

 だが、石原は、高梁の刈り入れが終わる直後を選んで9月28日の夜に決行することを決めていました。そして中央及び朝鮮の空気も、関東軍が手一杯の戦闘に突入してしまえば、決して知らぬ顔では済ませないと判断し、一直線に既定計画に邁進する考えでした。9月に入ると実行部隊の中隊長を集め、初めて計画を内示し、極秘裏に演習を行わせて時期を待ちました。一門28センチ要塞砲は極秘裏に旅順から分解搬送され、第29連隊の兵営内に据付けられ、照準を北大営に調整して盲目にも打てるよう準備しました。

 9月15日驚倒すべき急電が東京から届きました。橋本欣五郎の電報で「計画露見、建川少将中止勧告に出発す、至急対策を練るべし」というものでした。板垣、石原、花谷、今田の4名と実行部隊の5人の将校は直ちに集まって会議を開きました。建川美次(参謀本部第2部長)の奉天着は18日の夕刻である。もしも天皇陛下の中止命令を携えてくるなら即刻服従の外はない。故に、彼の到着善に決行してしまえ、というのが、今田以下実行部隊5名の熱説するところでした。その理由は、部外の策謀工作員として予備大尉の甘粕正彦などが資金を与えられて浪人や青年を擾乱作為に雇い、各地に予備工作を進めているので、ここで延期すれば全面遺漏は避けられない、「延期は放棄」を意味するというものでした。

 しかし、さすがに板垣や石原は自重し、とにかく建川の話を聞いた上で後図を策しようとする方針に一同を宥めて(一説では鉛筆を転がすクジで決めたいう)散会しました。ところが翌日、今田大尉は花谷参謀を訪ねて前論を熱説し、あるいは今田一人で鉄道爆破を決行する意志が読まれたので花谷もついに同意し、直ちに板垣と石原を説いて、28日の予定を18日に繰り上げることに同意させ、かくて柳条湖の鉄道爆破となりました。その夜建川は奉天につくとその足で料亭菊文に招じられ、酒で眠らせるという策略の布団の上で急ピッチで杯を重ね、9時頃には前後不覚で酔体を横たえた10時頃、建川は爆音と銃声に目を覚ました、といった次第。

 以上のような経過で、満州事変は、関東軍参謀作戦課長の石原中佐が中心となり、板垣、花谷、今田と計って専断強行したものでした。なんと御大の本庄司令官にも三宅参謀長にも一言の相談もなく、二、三の参謀だけでやってしまったのは、まさにウソのような本当でした。況んや軍中央部が時期と方法について別項の計画をもっていたものを、腰抜けと罵って聴従せず、日本国を世界世論の前にさらすような大事件を、三人の参謀が独断専行したこと。この事実は、東京裁判で戦時指導者たちが、日中戦争は『自衛戦争』であり『アジア解放の戦争』だったといういくら抗弁しても、どんな大義名分を持ち出しても、決して正当化できない、つまり隠し通す外ない一大過失だったのです。

 事変勃発後、政府は「不拡大方針」を決定し、陸軍省も参謀本部もこれに同調しました。ところが、事変は夜を日に継いで拡大し、ハルピン、チチハル、錦州、熱河、後には長城を超えて拡大しました。そして、わずか半年後には政府や軍部の声明とは似てもつかぬ形に発展し、ついに満州国という傀儡国家まで造り上げてしまいました。満州国はやがて日本政府の承認するところとなり、「日満提携」は国策のイロハとして謳われるようになりました。板垣、石原たちには金鵄勲章が授けられました。(以上『軍閥攻防史第2巻』伊藤正徳p190~195)

 だが、このように、本来ならば軍刑法に照らし天皇大権の侵犯のかどで本庄司令官以下死刑に処せらるべき者たちが栄達を重ねていったことは、結果さえよければ、軍中央の統制にも服さず、上官の命令をも蹂躙して差し支えないという、およそ近代国家の軍隊とは思えない無統制・無規範ぶりを軍内に蔓延させることになりました。

 まして、彼らの行動は、中国の主権・独立の尊重、門戸開放・機会均等を謳った九カ国条約や、自衛戦争以外の戦争の放棄や紛争の平和的解決を謳った不戦条約などの国際条約に真正面から挑戦し破壊するような行為でした。アメリカの国務長官のスチムソンは、1936年の段階で、満州事変という「侵略行為」の成功がイタリアやドイツなどの国際協調政策に「不満なる独裁政府」に元気を与えた、と認識していました。つまり第二次世界大戦の突破口は満州事変によって切り開かれたと認識していたのです。(『日本の失敗』松本健一p157)

 その後の日本軍はどうなったか、それは次回以降に論じるとして、石原莞爾の話題にもどりますが、彼はその後、以上述べたような満州事変における致命的過失に気づいて、それを心底深く悔いたのではないかと私は推測しています。それが、後に彼をして「満州国独立論」「五族協和「王道楽土」の満州国建設という理想論に憑かしめた理由ではないかと。その石原は、昭和11年、2.26事件に際してうまく立ち回ったことから、参謀本部作戦部長の要職に就きました。そのころ、華北では、関東軍が政略活動による華北五省の分離工作に走り、蒋介石との本格的軍事衝突が懸念される事態になっていました。

 そこで、石原は断然彼らに「不拡大」を指示しました。しかし関東軍がどうしても聴かないので単身長春に乗り込み、参謀達を集めて一条の訓辞を試みました。訓辞が終わると、武藤章中佐が起って「それは閣下が本心で言われるのですか」と臆せず発言しました。石原はそれを叱して再び軍中央の方針と対局論とを述べると、武藤が平然として「自分達は石原閣下が満州事変の時に遣られたことを御手本として遣っているのです。褒められるのが当然で、お叱りを受けるとは驚きました」と討ち返した、といいます。(『軍閥攻防史』第2巻p198)

 こうして、日中戦争そして太平洋戦争は、満州事変の、およそ法治国家とは思えない無軌道・無規範、むき出しの暴力肯定の行動哲学を基調として、おし進められることになるのです。秦郁彦氏は「日中戦争」には三分の理、太平洋戦争には四部の理があるとして、満州事変には一分の理も見いだせないといっています。重要なことは、この一分の理も見いだせない「満州事変」の延長に「日中戦争」も「太平洋戦争」もあるということです。東京裁判において日本側は、これを「自衛戦争」とか「アジアの開放」という言葉で正当化しましたが、もし「満州事変」の真相が明かされたらどうなったか。

 「自衛戦争」とか「アジアの開放」とか、そのような抗弁どころか、近代法治国家としての日本の信用はその瞬間地に墜ちる、この恐怖こそ、関係者が一様に口を閉ざしたその本当の理由だったのではないでしょうか。

2008年10月13日 (月)

「偽メシア」石原莞爾の戦争責任2

 「政治家はヴィジョンを持たなくてはといわれる。目先のことに捉われずにヴィジョンを持った政治をやれ、たしかに結構なことに違いないが、余りヴィジョンをもたれすぎても困ることがある。戦前の日本人で、石原莞爾ほど壮大なビジョンを展開し、それが全く崩壊し、結果が国を滅したという人もないだろう。なぜなら、彼がヴィジョン展開の第一着として演出した満州事変は、日本を世界に孤立させる始まりとなったばかりでなく、石原がおかした下剋上、政府無視、そして独善がこの後の陸軍を支配して、やがては国を破局に導いていくからである。」

 これは、高田万亀子氏の石原評ですが(『昭和天皇と米内光政と』p115)、私も石原莞爾の関係資料をあたってみて、ほぼこの通りではないかと思いました。ただ、石原の「下剋上、政府無視、そして独善」的傾向は、私が「張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆」でも述べたとおり、当時の軍人特に「二葉会」「一夕会」「桜会」等に集った青年将校たちにも見られた傾向でした石原莞爾は、こうした精神傾向を彼の壮大なヴィジョンによって粉飾し、一方、冷厳な作戦計画によって満州事変を奇跡的成功に導くことによって、それを正当化したのです。(「顕著に」を削除10/14)

 ところで、これらの「二葉会」や「一夕会」と呼ばれた青年将校グループにはある特徴がありました。彼らは陸軍士官学校卒第15期から25期に属する人たちで、その多くは、1896年に東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に新設された陸軍地方幼年学校(13、15歳から3年の修学期間、定員各50名)、中央幼年学校(2年の修業期間)を卒業し、陸軍士官学校(1920年より予科2年、隊付き6ヶ月、本科1年10ヶ月)に入り、さらに陸軍大学校(隊付き2年以上の大尉、中尉から1期50名内外を選抜し3年間修業)を卒業した超エリート軍人(いわゆる「天保銭組」)だったのです。

 また、彼らが陸軍大学を卒業して現役についたのは日露戦争後であり、つまり、彼らは実戦経験をもたない「戦後派」でした。これに比べて、彼らの先輩達(第15期以前=当時の軍首脳、軍事参議官、師団長、連隊長)は、全員日露戦争の功労者、戦場の殊勲者で「個人感状」や「金鵄勲章」をもらった人たちでした。これら賞を軍人たちが最高の栄誉としてどれだけ羨望したか・・・、しかし、これは戦場で砲火をくぐって戦うか、あるいは最高戦略に参画し”武功抜群”と認められる働きをしなくては手にすることのできないものでした。(『昭和の軍閥』p116)

 それに加えて、彼らが佐官となり活躍を始めた頃は、第一次大戦の惨禍を経て軍縮が世界の潮流となった時代でした。大正11年6月11日成立の加藤友三郎内閣では、戦艦「安芸」「薩摩」以下14隻を廃棄し、戦艦「土佐」「紀伊」など6隻を建造中止にしました。それにともない海軍の現役士官と兵7,500人を整理し、海軍工廠の工員14,000人が解雇されました。また、山梨半蔵陸相も陸軍の兵員53,000人、馬13,000頭を減らし、大正13年までに退職させられた陸軍将校は約2,200人にのぼりました。続いて、第二次加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成は、陸軍4個師団を廃止し、整理された兵員は将校以下34,000人に達しました。昭和5年のロンドン軍縮会議による軍縮では、海軍工廠の工兵8,233人が解雇されました(『日本はなぜ戦争を始めたのか』p31)

 「こうした一連の軍縮によって、深刻な絶望感をいだいて動揺したのは当然職業軍人であった。彼らは財閥とむすんで(軍縮をおし進める:筆者)腐敗した政党政治に不信感を深める一方、新しい希望を満蒙の大陸にもとめる気運が強くなった。とりわけ満州に”事変”を誘発して、新国家を建設しようとうごきはじめたのは、陸軍省及び参謀本部の天保銭組のエリート軍人たちであった。彼らはまず、自分たちの栄進をさまたげる陸軍中央の「藩閥」(=長州閥:筆者)にたいして猛然と挑戦した。」(前掲書p32)

 なお、ここにいう陸軍中央の「藩閥」とは、初代陸軍大臣の山県有朋以来の長州閥と薩摩閥のことで、山県の死(大正11年2月1日)後、長州は陸軍、薩摩は海軍を背景に、軍の要職や政権をねらって排他的な権力闘争を展開しました。ところが大正末期になると、薩長とも人材難で藩閥内に後継者がいなくなり、そこで長州閥の田中義一大将は、宇垣一成(岡山)、山梨半蔵(神奈川)を自派に引き入れました。これに対して、薩摩閥の上原勇作は武藤信義、真崎甚三郎(以上佐賀)、荒木貞夫(東京)などの有力将軍を自派(これが後に皇道派となる)に引き入れ、藩閥闘争を繰り広げました。(前掲書P33)*海軍の場合は兵学校の入学試験が難しいことから次第に薩摩閥は解消したが、陸軍の長州閥は宇垣陸相時代まで続いた。薩摩閥の上原はこれに挑戦した。

 これに対して、第16期以降の陸軍中央の天保銭組のエリート将校達は、こうした藩閥(=長州閥)がらみ人事や「戦わずして四個師団を殲滅」させた軍縮に反感を抱き、藩閥打倒の運動を始めました。その嚆矢となったのが、天保銭組の中でも三羽烏といわれた永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三少佐で、彼らは大正10年に南ドイツの温泉郷バーデンバーデンで「長州閥打倒・陸軍の人事刷新」の密約を交わしました。「二葉会」(14期から18期までの佐官級約20名)や「一夕会」(「二葉会」のメンバーと第20期から25期までの佐官級将校が合流約40名、昭和3年結成)など従来の藩閥に代わる「学閥」はこうして形成されたのです。

 この時、彼らがめざしたものは、①陸軍の人事を刷新して諸政策を強く進めること。②満蒙問題の解決に重点を置く。③荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護りたてながら、正しい陸軍を立て直す(「一夕会」第一回会合決議S3.11.3)でした。といっても、重点は「人事の刷新」に置かれていて、必ずしも下剋上的な非合法手段が是認されたわけではないといいます(『昭和の軍閥』)。しかし、陸軍の伝統的な「日満一体」の考え方を背景に、軍事上の見地や満蒙の自給自足的経済的見地が重なり、これを「日本の生命線」として「満州領有」を主張する考え方が急激に高まっていきました。(「満蒙一体」を「日満一体」に訂正10/14)

 ここに登場したのが石原莞爾で、彼は、満州に赴任(s3.10)するまでに、後の「世界最終戦総論」の発端をなす「戦争史大観」を構築していました。それは、「第一次世界大戦の次に「人類最後の大戦争」が起こる。それは飛行機をもってする殲滅戦争である。また、それは全国民の総力戦となる。それは「日蓮上人によってしめされた世界統一のための大戦争」であって、最終的には、東洋文明の中心たる日本と西洋文明の中心たる米国の間で争われる」というものでした。これは戦史研究の成果というより、むしろ宗教的終末論によって日米間の最終戦争を不可避としたものだと思います。(『現在及将来ニ於ケル日本ノ国防』参照、満州赴任前に起草済み)

 その上で、彼は昭和4年7月5日に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決策」を関東軍参謀として策定し、次のように「満蒙領有」の歴史的必然性とその問題解決方針を提起しました。

一、3 満蒙問題の積極的解決は単に日本の為に必要なるのみならず多数支那民衆の為にも最も喜ぶべきことなり即ち正義の為日本が進で断行すべきものなり。歴史的関係等により観察するも満蒙は漢民族よりも寧ろ日本民族に属すべきものなり。
二、1 満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによりて始めて完全達成せらる。対外外交即ち対米外交なり 即ち前記目的を達成する為には対米戦争の覚悟を要す。若し真に米国に対する能はずんば速に日本は其全武装を解くを有利とす
  2 対米持久戦に於て日本に勝利の公算なきが如く信づるは対米戦争の本質を理解せざる結果なり 露国の現状は吾人に絶好の機会を与えつつあり
三、2 若し戦争の止むなきに至らば断固として東亜の被封鎖を覚悟し適時支那本部の要部をも我が領有下に置き・・・其経済生活に溌剌たる新生命を与へて東亜の自給自足の道を確立し長期戦争を有利に指導し我目的を達成す(以下略)(石原莞爾資料p40)

 こうして、石原莞爾によって、済南事件以降ほとんど手詰まり状態になっていた満州問題の根本解決が、日本の「満州領有」という形で可能とされるに至ったのです。そして、この日本の「満州領有」には「日米戦の覚悟がいるが、それは満蒙だけでなく支那本部の要部も領有下に置き、自給自足の道を確立すれば有利に持久できる。決勝戦は日米間の徹底した殲滅戦になる。・・・国民は鉄石の意志を鍛錬しなければならない。」そして「これを勝ち抜けば王者天皇の下の永久平和がくる」(『昭和天皇と米内光政と』P116~117)とされたのです。

 だが、はたしてこれが思想の名に値するでしょうか。単に、当時の軍の「満州領有」の願望に迎合しそれを粉飾しただけではないでしょうか。そのために、移民問題に端を発した日本人の反米感情を巧みに利用し、満州領有の結果予測される日米戦争の危険を永久平和に至るための試練と言い換え、済南事件の失敗や張作霖爆殺事件の暴虐に憤激する中国人の反日感情を一切無視して、満州領有は多数支那民衆のためにも喜ぶべきことなりという。こうした中国人に対する優越感と蔑視意識は、当時の日本人の潜在意識の中にあり、石原はこうした日本人の潜在意識をも巧みに利用したのです。

 さらに、マルクスの歴史必然論を借用してインテリ受けを良くし、仏教的終末論を使って西欧文明の終末を予言し、さらには皇国史観に基づく天皇親政論を使って統帥権の独立を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と神秘化した。私は、これだけの壮大な思想的粉飾があってはじめて、このクーデターまがいの満州事変は成功したのではないかと思います。この結果、関東軍は「中央が出先(=関東軍)の方針を遮る場合には、皆で軍籍と国籍を脱して新国家建設に向かうべし」とまで極言するようになりました。そして、ついに政府も満州国を黙認するほかなくなりました。(「それを」を「満州国」に訂正10/14)

 この後の、関東軍の華北分離工作に至る日本軍将校によるテロや謀略活動の連鎖を見ていくと正直言ってあきれ果てるというか、司馬遼太郎さんではありませんが、”精神衛生上良くない”。一方、蒋介石の忍耐力には同情を禁じ得ない。確かに戦争に正義・不正義はないとは思いますが、それにしても当時の日本軍将校の思い上がり、自己絶対化、他者蔑視の精神構造には参ります。一体、この精神構造はどこからきたか。おそらく、これを中国人やアメリカ人のせいにするのは間違っている。それは日本の伝統思想中にもとめる外ない、私はこのように指摘する山本七平さんの見解が当たっているように思います。(日本軍人→日本軍将校に訂正10/13)

(10/13修文しました。下線部挿入10/14)

2008年10月 4日 (土)

「偽メシア」石原莞爾の戦争責任

 ここまで、幣原外務大臣の「協調主義外交」がどのように行き詰まっていったかを見てきました。特に「張作霖爆殺事件」を適切に処置し得なかったことが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延さすなど決定的な悪影響を及ぼし、ついに満州事変を引き起こすに至ったことを指摘しました。また、この間、国民世論は大正デモクラシー時代は軍縮や国際協調外交を支持していましたが、済南事件や張作霖爆殺事件を契機に反日運動や国権回復運動が高まると、関東軍の主張する「満蒙領有論」を熱烈に支持するようになったことも指摘しました。

 こうした国民世論の急激な変化の背景には、軍による世論操作があり、さらにその背景には、軍縮による軍人の失業や威信低下をもたらした大正デモクラシー下の政党政治に対するルサンチマンがあったことも指摘しました。しかし、もちろんそれだけではありません。客観的要因としては、1920年の第一次世界大戦後の「反動恐慌」、次いで東京大震災後の「震災恐慌」(1923)、そして震災手形の処理問題に端を発した「金融恐慌」(1927)があります。さらに浜口雄幸内閣の金解禁(1930)によるデフレーション政策と世界恐慌が重なって、日本経済が深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の倒産、、失業が急速に増大したことも指摘しなければなりません。

 これは、どちらかといえば外的要因によるものですが、実は、先に述べた「国民世論の急激な変化」の背景に、もう一つ、国民の隠然たる反米主義や中国人に対する近親憎悪的な反感が含まれていたことに注意する必要があります。渡部昇一氏は、こうした日本人の排外主義的な心情を生んだ背景には、次のようなアメリカ人や中国人の反日政策があったと指摘しています。そして、これらが、幣原外相がそれまで進めてきた国際協調外交の基盤を掘り崩し、日本国民の幣原外交に対する信頼を失わせるに至った根本原因であるとも指摘しています。(『日本史から見た日本人 昭和編』p131)

第一は、アメリカの人種差別政策
第二は、ホーリー・ストーム法(米国で一九三〇年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向
第三は、支那大陸の排日・侮日問題

 第一の問題は、日露戦争の翌年(1906)に発生したサンフランシスコ大地震後に、日本人や朝鮮人児童(中国人も含む)を公立学校からの閉め出したことにはじまります。ついで大正2年(1913)には、カリフォルニア州は土地法により日本人移民の土地所有を禁止、さらに1920年には、借地も禁止するという州法を成立させ、また他の州でも同様の州法が制定されました。さらに、1922年には、米国の最高裁判所は日本人の帰化権を剥奪する判決を下し、それまでに帰化していた日本人の市民権まで剥奪しました。そして、1924年には、日本人の移民を完全に禁止する「排日移民法」を成立させました。

 こうしたアメリカの措置が、元来は親米・知米的であった日本の学者、思想家、実業家をも憤激させ、そして日露戦争以来親米的であった国内世論を一挙に反米に向かわせることになりました。渋沢栄一は、排日移民法が成立した年に行った講演で、「(私は渡米後、)アメリカ人は正義に拠り人道を重んずる国であることを知り、かってアメリカに対して攘夷論を抱いていたことについてはことに慚愧の念を深くした。そして自分の祖国を別としては第一に親しむべき国と思っておりました。」と前置きした上で、次のように慨嘆しています。

 「さらにこのごろになると、絶対的な排日移民法が連邦議会で通ったのであります。長い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏もないのかという愚痴も出したくなる。私は下院はともかく、良識ある上院はこんなひどい法案を通さないだろうと信じていましたが、その上院までも大多数で通過したということを聞いた時は、七十年前にアメリカ排斥をした当時の考えを、思い続けて居たほうが良かったというような考えを起こさざるをえないのであります。・・・」(『前掲書』p166)

 第二の問題は、第一次世界大戦後の過剰投資が原因となって、1929年10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨーク株式市場が大暴落し、深刻な世界恐慌に発展したことに端を発しています。アメリカはこうした状況の中で、1930年6月に国内産業保護のためと称して1000品目以上の商品に高率の関税障壁を設けるホーリー・ストーム法を成立させました。これに対してどの国もこれに対抗して保護関税を設け、このためアメリカの輸出・入は半減し大不況に陥りました。さらに、こうした保護貿易の風潮の中でイギリスはオタワ会議を開き、イギリス連邦内に特恵関税同盟によるブロック経済を導入しました。

 これらのブロック経済の導入は、資源に恵まれたアメリカやイギリス連邦などのアングロ・サクソン圏では、国内やブロック内で何とかやっていけますが、資源のない国はどうしたらいいか。特に日本の場合は、近代産業に必要な資源をほとんど持たず、「せいぜい生糸を売って外貨を稼ぎ、それで原料を買い、安い労働力を使って安い雑貨を売り、それによって近代工業を進め、近代軍備を進めてきたのである。それに日露戦争以来の借金も山のようにある(そうした日本の負債がゼロになったのは昭和63年=1988年12月31日である)。」(上掲書186)という状態でしたから、これは死活問題でした。

 こうした状況の中で、日本が近代国家として生き延びていくためには、自らの経済圏を持たなければならないと多くの日本人が考えるようになったのも当然でした。また、先に述べたように、日本ではすでに昭和2年(1927)から金融恐慌に伴う不況がはじまっており、それに拍車をかけるような形で金解禁が断行され、不況は一層深刻化していました。おりしも、昭和6年9月21日にイギリスが金本位制から離脱したため、井上財政は信憑性を失い若槻内閣は総辞職し、それに代わって犬養毅内閣の高橋是清が蔵相となりました。その高橋が金解禁を廃止するやいなや円安状況が生じ、輸出ブームとなり景気が回復していきました。そして丁度この時期が、満州事変(昭和31年6月18日)と重なっていたことも、関東軍の暴走が国民に支持された一因だと渡部昇一氏はいっています。(上掲書p195)

 第三の問題は、中国人の日本に対する意識が、日清・日露戦争後の「恐日」あるいは「敬日」から、日本の「対華二十一箇条要求」(1915)を境に、「排日」そして「反日」・「侮日」さらにはボイコット運動へと変わっていったということです。この「二十一箇条要求」については以前説明しましたが、外交の拙劣としか言い様のないもので、最終的にはワシントン会議(1921~22)において当時駐米大使であった幣原喜重郎の努力でなんとか誤解を取り除くことができました。しかし、中国では、「二十一もの不当要求を日本が大戦のどさくさに中国に押しつけた」とされ、この条約の締結日である1915年5月9日は、中国の「国恥記念日」とされました。

 渡部昇一氏は、この他に、清朝が滅んだ後、袁世凱が共和国大統領となって「米国と組んで日本を抑える」方針をたてたこと。また、米国のウイルソン大統領が唱えた「十四箇条」が、その後の中国の反植民地主義を支えるバイブルになったこと。また、1919年のパリ講和会議あたりから、中国でしきりに日英同盟更新反対運動が起こったこと。さらにアメリカも、日露戦争後の日本に対する警戒感の高まりや、中国における日本との利害関係の対立から、イギリスに対して日英同盟の廃棄を迫り、その結果、日英同盟は廃棄され「四カ国条約」に代えられたこと。これらが、日本を孤立させ中国人の「侮日」を招くことになったと指摘しています。

 この間、支那では、清朝が滅んでのち中国各地の軍閥間の争いが続き、1922年には張作霖が東三省=満州の独立を宣言しました。「この間にも孫文の北伐や、奉天軍と直隷軍の戦い、いわゆる奉直戦争が二度も行われ、大正13年(1924)には、安徽省出身でありながら直隷派と手を組んだ馮玉祥が北京を占領した・・・。その翌年には広東の国民政府が樹立され、昭和2年(1927)には王兆銘の武漢国民政府出来、同じ年には蒋介石の南京国民政府ができる」といった具合で、めぼしい政府だけでも四つ五つあるといった状態でした。そんな中で、国家統一をめざす国民の中に、排外思想や攘夷思想、特に「排日思想」が強くなるのは自然の成り行きでした。

 そして、以上述べたような状況下にあって、いかにして日本の安全を確保し、民族としの生存をはかっていくか、そして、そのための生命線と考えられ急にクローズアップされたのが、「満州問題」でした。しかし、中国の「排日思想」の高まりの中で、幣原喜重郎の「対支宥和外交」は、蒋介石による北伐にともなって発生した第二次南京事件を経て「軟弱外交」「屈辱外交」との批判を浴びるようになりました。さらに、済南事件や張作霖爆殺事件の処理の失敗によって、対支関係は決定的に悪化しました。そこで、この「満州問題」解決のために残された唯一の手段が、武力による「満州領有」だったのです。

 こうした「満州領有」という考え方は、日露戦争以来、陸軍に根強くあったことは前回指摘しました。しかし、こうした手段に訴えることは、ワシントン会議の「九カ国条約」における中国の領土保全・主権尊重と門戸開放・機会均等主義や、さらには1928年の不戦条約(国際紛争を解決するため、あるいは国家の政策の手段として、戦争に訴えることをは禁止され認められなくなった。ただし国際連盟の制裁として行われる戦争及び自衛戦争は対象から除外)が成立して以降は、決して許されることではありませんでした。この時、その難問を解くべく登場したのが、昭和3年10月関東軍参謀として赴任した石原莞爾だったのです。

 しかし、結果をいえば、石原莞爾も、その満州占領直後から、自らの理論では到底国際社会を説得しきれないこと、また、中国人の納得も得られないことを悟らざるを得ませんでした。そのため、当初の「満州領有」計画は諦め、満州人の自治運動の結果としての「満州独立」という体裁を取らざるを得なくなりました。さらに、その「最終戦争論」に基づく米国との戦争に備えるためには「日・満・支」の連携が不可欠で、そのためには、満州を五族共和の「王道国家」としなければならないと考え、日本の指導性を排除することや、ついには、満州国の官吏たる日本人の日本国籍離脱を主張するようになったのです。

 こうした石原の「ユートピア」的ロマンチシズムは、当初は、「満州占領」の大義名分を求めていた軍人たちに強くアピールしましたが、やがて、そのリアリズムの欠如から遠ざけられるようになり、満州事変(1931.9.18)のわずか1年後の1932年8月には満州を追われました。石原退去後の満州は、関東軍による満州国政府に対する「内面指導」という名目での日本人官僚支配が強化され、それまでの「独立援助」は「属国化」に、「民族協和」は「権益主義」(=帝国主義)に姿を変えていきました。「内地に帰還した石原は永田鉄山参謀本部第二部長と面談した際『満州は逐次領土となす方針なり』と聞かされ愕然」としたといいます。(『キメラ満州国の肖像』p205)

 その後石原莞爾は、1935年に参謀本部第一作戦課長として復帰し、2.26事件において戒厳司令部参謀を任じられ事件処理に当たっています。また、1927年には作戦部長となって、関東軍の華北分離工作や廬溝橋事変後の戦線の拡大に、「最終戦争論」に基づく総力戦準備、生産力拡充計画を専行させる観点から執拗に反対しましたが、関東軍参謀長である東条英機や部下の参謀本部作戦課長の武藤章の「一撃論」を抑えることはできませんでした。そして、1937年9月関東軍参謀副長に左遷され(参謀長は東条英機)、38年8月には辞表を提出、41年には退役しました。

 このように見てくると、石原莞爾がなした歴史的仕事は、柳条湖事件という鉄道爆破謀略事件の後約1年間の「満州事変」の計画・実行それのみということになります。しかも、その結果生み出された「満州国」は、彼の「最終戦総論」にいう「王道国家」の理想とは似ても似つかぬもので、ただ、日本の戦争遂行に寄与・貢献するための官僚統制国家=日本軍による傀儡国家へと必然的に収斂していきました。さて、こうした歴史の推移を、石原莞爾の不明として責めるべきか、それとも彼の理想主義の挫折として惜しむべきか、私はその「偽メシア」としての厄災をこそ、しっかり認識する必要があると思います。

2008年9月26日 (金)

満州問題(10)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか(3)

 そもそも満州問題はいつどこから発生したのでしょうか。前回、そのことについての渡部昇一氏の主張を紹介しましたが、もう少し詳しくこの間の経緯を見ておきたいと思います。

 いうまでもなく、それは、日本が日清戦争で遼東半島全域を手に入れたことにはじまります(1895.4.17)。しかし、三国干渉でロシアにそれを中国に返還するよう迫られたので、賠償金を積み上げる形で遼東半島を清に返還しました(1895.5.4)。その後ロシアは、露清密約(1896.6.3)で、日本が満州・朝鮮・ロシアを侵略した場合の共同防衛、交戦中清国全港湾のロシア軍への開放、黒竜江・吉林両省を横断しウラジオストックに達する鉄道(東清鉄道)の敷設権を得ました。

 さらに1898年、中国から遼東半島南部を25年間租借し、旅順・大連の港湾都市建設、東清鉄道の延長となるハルピン―旅順間の鉄道建設権を得ました。その後1900年に義和団事件が起こり居留民保護のため列国(8カ国)が共同出兵すると、ロシアは満州に大軍を送り、事件鎮圧後もこの地に居座り、事実上占領支配下に置き、さらに韓国の鴨緑江河口の竜岩浦に進出しようとしました。日本はこの事態に朝鮮支配の危機感をつのらせ、「満韓交換論」でロシアとの衝突を回避しようとしました。

 しかし、ロシアは交渉の最終段階の回答(1904.1.6)で、「日本の韓国に対する援助の権利は認めるが、軍略的使用は認めないこと、朝鮮の北緯三十九度以北の中立地帯については最初の案を維持すること、そしてこれを日本政府が同意するなら・・・日本が満州は日本の利益外であることを承認する前提のもとに、ロシアは日本及び他国が清国から獲得した権利(ただし居留地の設定は除く)を認める」としました。これは、日本の韓国支配に制限を加えると共に、事実上満州支配を宣言するものでした。

 こうして日露戦争が始まりました。日本陸軍は1904年2月8日に仁川上陸、旅順港外及び仁川沖での日本艦隊とロシア艦隊の戦闘、第一軍は朝鮮北部からロシア軍を撃退して満州地域に攻め込み、5月には第2軍が遼東半島上陸、第4軍は両軍の中間地点に上陸し、8,9月遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦と苦戦しながらも奉天に軍を進めました。一方、第3軍は8月以降旅順のロシア軍近代要塞に膨大な犠牲を強いられながらも、1905年1月にこれを陥落させ、旅順艦隊を撃滅し、3月には陸軍の総力を挙げて奉天を占領、さらに1905年5月27,28日には、対馬海域の海戦で日本連合艦隊はバルチック艦隊を壊滅させました。

 この段階で、日本は国力の限界を見極め、アメリカに講和の斡旋を依頼しました。ロシアもロシア革命が高揚して政治体制が揺らいでいたことから、ポーツマス条約(1905.9.5)が結ばれ戦争は終結しました。〔日本軍の戦死者8万、戦傷38万人、戦費総額20億(前年の一般会計歳入総額は2億6000万円)、外債7億円〕これにより、日本は満州の清国への返還、韓国に対する日本の指導・保護・監督権の承認、清国政府の承認を前提として、ロシアの遼東半島租借権と長春―旅順間の鉄道権益の日本への譲渡、樺太南部の割譲、沿海州における日本の漁業権の承認、1㎞に15名以内の日本の鉄道守備兵配置を承認させました。

 その後、日本は、第二次日韓協約(1905.11.17)により韓国の外交権の日本への委譲や統監の設置を認めさせ保護国化しました。また、ロシアから日本に譲渡された東清鉄道南部支線(長春―旅順)の鉄道および付属する土地建物、港湾、炭坑、さらに「日清満州善後条約」により、清国に経営権を認めさせた安奉(安東―奉天)鉄道を基礎に、1906年、南満州鉄道を設立しました。これは鉄道だけでなく炭坑、製鉄所などの鉱工業、自動車、水運、港湾埠頭、電気、ガス、旅館など多角経営を行うもので、満鉄付属地(沿線用地及び停車場のある市街地)においては日本は行政権を有することとなりました。

 実は、この段階で、すでに、日露戦争後の満州における日本の地位をめぐって、陸軍と政府の間で意見の対立が生じていました。伊藤博文は、政府側を代表する立場で、「満州における日本の権利は、ポーツマス条約によってロシアから譲渡されたものだけである、満州は決してわが国の属地ではない、純然たる清国領土なのである」と主張しました。これに対して、児玉源太郎は、「国際法上は伊藤のいう通りだが、南満州を事実上は日本領にしておかなければロシア軍と戦えないとして、占領地に軍政署を置くなど「新領地」扱いし、さらに満州経営を統括する部門の新設などを提案しました。(『史伝伊藤博文』下p544)

 結局、この局面では、政府の方針に従って、関東総督の機関を平時組織に改め軍政署は順次廃止されることになりました。しかし、陸軍の行き過ぎに歯止めをかけることには成功したものの、軍の満州に対する野望をくじくことはできませんでした。そして、この児玉に代表される考え方が、後の関東軍幕僚たちに受け継がれ実行に移されることになるのです。ただ、この段階では、「陸軍第一の山県でさえも、最後には、ライバルであった伊藤の側に立ち、児玉や寺内をたしなめ」ました。「さすがに山県は日本の国力の限界を心得ており、児玉を野放しにして英米を敵に回すようなことになっては、日本が危ないことを見通していた」と三好徹氏はいっています。(『前掲書p547』)

 その後、1907年7月30日、第一回日露協約の付属の秘密協約により、日本とロシアは、鉄道と電信に関し、南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲とすることを相互承認しました。その後、1910年7月4日には、第一回日露協約を拡張し、鉄道と電信以外も全般的な利益範囲としました。さらに、1912年7月8日には、第三回日露協約を調印し、付属秘密協定において内蒙古部分について、北京の経度から東部分を日本の利益範囲としました。もちろんこうした合意は、中国側の了解をとってなされたわけではありませんでした。(『満州事変から日中戦争へ』p21)

 そして、1915年5月、いわゆる二十一箇条要求にもとづく「南満州及び東部内蒙古に関する条約」により、①旅順・大連の租借期限及び安奉鉄道に関する期限を99年に延長すこと、②南満州における工業上の建物の建設、又は農業経営に必要な土地を商祖すること、③南満州において自由に居住往来し各種の商工業その他業務に従事すること、④東部内蒙古において支那国民と合弁により農業及び付帯工業の経営をすることを中国に認めさせました。その後この東部内蒙古は、32年の時点では熱河省と察哈爾省すべてを合した地域と日本側に認識されていました。(上掲書p27)

 1921年から22年に賭けて開催されたワシントン会議では、「中国に関する九カ国条約」により、以上説明したような日本に有利と見られる諸条件が消滅したかのように思われます。しかし、アメリカ全権・ルートの提出した四原則が「中国に関する大憲章」として採択され、そこには安寧条項と呼ばれた項目があり、「帝国の国防並びに経済的生存の安全」が満蒙特殊利益に大きく依存する、という日本のかねてからの主張に理解が示され、各国は中国の既得権益を原則的に維持することで合意していました。(上掲書p55)

 こうして、日本の満蒙特殊権益の擁護は、まず、幣原喜重郎の「条約に基礎をおくものであり確固としたものである」とする主張にそって進められることになります。しかし、第二次南京事件を経て「軟弱外交」との批判を受けるようになり、ついに1927年4月退陣に追い込まれました。しかし、次の田中首相による「積極外交」は、早速、第二次山東出兵で済南事件を引き起こし、国民政府の対日観は決定的に悪化しました。さらに「張作霖爆殺事件」は張学良に易幟を決意させ、満州を国民党の支配下におきました。その結果、唯一の残された満蒙権益擁護策が、陸軍が日露戦争以来宿願としてきた武力による「満蒙領有」だったのです。

 しかし、こうした軍事行動を伴う「満蒙領有」論は、1928年8月27日にパリで戦争放棄に関する「不戦条約」の調印によって、その「国防」のための軍事行動が「自衛権」に限られることになったため、日本の満蒙特殊権益擁護の措置がはたして「自衛権」で説明され得るかどうか問題となりました。検討の結果、その治安維持のための軍事行動は正当化されないと認識されました。にもかかわらずというべきか、それ故にというべきか、その後、こうした「満州領有」を正当化するための「満州生命線論」の一大キャンペーンが満州だけでなく内地においても繰り広げられることになるのです。

 前回にも紹介しましたが、当時の、国民一般や知識人の間における満蒙問題の認識は次のようなものでした。

 「兎に角、満州事変以前の日本には、思い出してもゾットするような恐るべきディフィーチズム(敗北主義)があったのである。当時私共が口をすっぱくして満蒙の重大性を説き、我が国の払った犠牲を指摘して呼びかけて見ても、国民は満蒙問題に対して一向気乗りがしなかった。当時朝野の多くの識者の間に於いては吾々の叫びは寧ろ頑迷の徒の言の如くに蔑まれてさえいた、之は事実である。国民も亦至極呑気であった、・・・情けないことには我が国の有識者の間に於いては、満蒙放棄論さえも遠慮会釈なく唱えられたのである。」(『興亜の大業』松岡洋右p76)

 そして、丁度この頃、張作霖爆殺事件が起きて4ヶ月後の1928年10月はじめ、石原莞爾が関東軍参謀(作戦主任)として旅順の軍司令部に着任しました。それは東三省側の排日体制の激化にともなって、「警備上応変の準備として対華作戦準備を必要とするようになった」と関東軍が考え始めた時期と一致していました。また、それは張作霖爆殺事件調査で峯憲兵隊長来満の直後でもあり、河本の取り調べが行われていましたが、河本はうそぶくように満蒙武力解決の必要を強調し、石原もこれを当然としていた、といわれます。(『太平洋戦争への道』2p362)

 こうして石原は、河本とともに作戦計画の検討を関東軍幕僚会議に提議しました。そこで採択された案は、「万一事端発生するとき」は、「奉天付近の軍隊を電撃的に撃滅し、政権を打倒」しようとするものでした。「この案は、防衛計画としての衣装をまといながら全面的武力衝突の可能性を増大させ」るものであり、具体的計画もこの原則にもとづいて研究されることになりました。また、「29年2月28日に満州青年連盟第一回支部長会議が開かれ、小日山理事長は、日本が満蒙から『旗をまいて引揚げる運命』におちいることは断じて許せぬ」と述べて、奇しくも石原構想を背後から支持することになりました。
(上掲書p363)

 「このような関東軍の満蒙武力行使計画による実戦の準備と平行して、満州青年連盟は満州における在留邦人の世論を統一するため、また国内世論を喚起沸騰させるために独立した活動を行って」いました。彼らは幣原外相が、在満同胞の排外主義を批判し「徒らに支那人に優越感をもって臨みかつ政府に対して依頼心」を持っていることが「満蒙不振の原因」と述べたことに反発しました。そして、「満蒙問題とその真相」と題するパンフレットを一万部印刷し、これを内地の政府当局、各代議士、各新聞、雑誌社、各県当局、青年団その他各種団体など、鮮満各方面にまで広く配布しました。(上掲書p387)

 その主張は、「満蒙はわが国防の第一線として国軍の軍需産地として貴重性を有するのみならず、産業助成の資源地として食料補給地としてわが国家の存立上極めて重要な地域である」という大前提のもとに、日本の特殊権利を「支那はもちろんのこと列国に向かって堂々と主張し得る政治上ないし超政治上の根拠理由を有する」と説いていました。さらに、「全既得権益を一挙にして抛去らんとする険難」が迫ってきた今日「吾人は起って九千万同胞の猛省を促す」と主張しました。(同上)

 こうして、旅順、鞍山、奉天と全満州各地には武力解決のムードを作るための遊説隊が送られました。石原・板垣らの企図した在留邦人の世論統一を創出するための方策は、青年連盟による「満蒙領有」運動として自然とおし進められました。満州青年連盟はさらに大連新聞社の協力で、1931年6月中「噴火山上に安閑として舞踊する」政府と国民を鞭撻し国論を喚起する目的で、遊説隊を内地に送ることにしました。内地では政府・軍首脳、政治家らと会見し、財界や新聞社を訪問し「幣原氏の軟弱外交」を非難する一方、「満蒙解放論」は当然であると論じました。

 こうした青年連盟の圧力運動は、「満蒙放棄論」をとなえていた関西財界の空気に大きく影響したばかりでなく、東京においては七十一団体を強硬論へと結束させたとさえいわれました。貴族院の研究会、公正会はもとより枢密院の福田雅太郎、伊藤巳代治などを含む黒幕の権力者もその強硬論のあおりを受け、8月5日には上野、日比谷の二カ所で国民大会が開催されて全国的運動への糸口が今やきり開かれました。このような満州現地からの本国への圧力とならんで、関東軍の板垣も帰京して軍中央と連絡を取っていました。(上掲書397)

 そこで示された「情勢判断に関する意見」は、米ソとの開戦を覚悟しても満蒙を領土化せよと主張するもので、その根拠は、今日の恐慌による未曾有の経済不況は、アメリカ製の資本主義や民主主義がもたらしたものであり、そこにソ連製の共産主義が進入しようとしているから、「日本が経済及び社会組織を改めて社会改造を行う必要がある」と主張するものでした。さらに謀略計画に関する意見では、日本の満蒙獲得が日米、日ソ戦争を誘発する公算があるから、「支那中央政府を転覆せしめて親日政府を樹立する」謀略が推奨されていました。(上掲書399)

 こうした動きの中で、民政党は6月30日、幣原外交擁護の声明書を発しました。それは「政友会の田中内閣の外交が『支那のみならず南洋方面の排日をも引きおこして、対支対南洋貿易を危機に陥れたことを立証し』、外交知識の欠乏せる田中大将が、『我が国の対支外交をほとんど救う能わざる窮地に陥れた』と非難したうえ、民政党内閣の成立とともに、『(一)日貨排斥が沈静に帰し、(二)日支関税協定が成立し、(三)政友会内閣のとき行きづまった満蒙鉄道協定の交渉が開始され、(四)間島の共匪事件が解決して同地における共産党の細胞組織が完全に破壊され、(五)治外法権問題を中心とする日支通商条約の改定商議が開始されんとしている』ことなどをあげて、国民に対して幣原外交に対する支持を呼びかけました。(上掲書p394)

 だが、こうした幣原の努力も、1931年9月18日の「柳条溝事件」いわゆる満州事変の勃発によって、完全に息の根を止められてしまいました。そして国民の間には、数年前までは「満蒙放棄論」さえ唱えられていたものが、この関東軍による謀略戦争、彼ら自身には米ソとの開戦さえ必然と見なされたこの満州の武力占領策を、熱狂的に支持する空気が生まれるのです。もちろん、こうした世論の急展開の背後には石原莞爾という一種の偽メシア(予言者)がいました。その終末論は、ハルマゲドンを思わせる最終戦争論、最後の審判後の千年王国のような満蒙王道楽土論をともなっていました。

 では、そうした彼らの一種の宗教的信念に基づく、満蒙を日本の国家改造の前線基地とする彼らの国家改造論を根底においてささえていたものは一体何だったのでしょうか。あるいは、それは前回紹介したような大正デモクラシー時代の政党政治に対するルサンチマンだったのかもしれません。そうしたエリート将校の「恨み」と「傲り高ぶり」、「国際法無視」の精神が、日清・日露戦争以来ほとんど無意識のレベルにまで達した日本国民の、中国人に対する蔑視感や日本人の優越感を励起させた、それが、この間の世論の急激な変化をもたらしたように思われます。

 では、次に、こうしたルサンチマンに基づく国家改造運動を扇動した、偽メシア石原莞爾の戦争責任について論じたいと思います。彼の戦争責任を故意に看過し、天才的思想家とあがめる論調が余りに多いように思われますので・・・。

2008年9月19日 (金)

満州問題(9)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか(2)

 もう少し、渡部昇一氏の説に関わって、私の考え方を述べておきます。渡部昇一氏は「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない、と述べています。

 これは、極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判が、戦前期の日本の指導者28名をA級戦犯とし起訴し「平和に対する罪」「殺人」「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に問おうとしたとき、起訴状では、その訴追対象期間を1928(s3)年から1945(s20)年までとしたことに関わっています。つまり、この間に、日本の「犯罪的軍閥」がアジア・世界支配の「共同謀議」をなし、侵略戦争を計画・開始したと立証することによって、その犯罪成立を容易にしようとしたのです。

 ここから、昭和十五年戦争という言い方も生まれてくるわけですが、実は、本稿の「山本七平と岡崎久彦の不思議な符合2」で,「塘沽(タンク-)停戦協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた]という事実をあえて紹介したように、満州事変から太平洋戦争までの間に、「犯罪的軍閥」による一貫したアジア・世界支配の「共同謀議」があったとはとてもいえないのです。

 それが、渡部氏のいわれる「日本には日本の歴史があったのであり」ということの意味だと思います。実際、よく調べてみると、そのような事実はなくて、まあ、はっきりいって”行き当たりばったり”です。特に中国との戦争では、国民には戦争をしているという意識すら曖昧で、暴支膺懲という言葉が使われたように、中国が満州における日本の当然の権益を無視して「反日・侮日」を繰り返すから、満州事変が起こり日華事変の泥沼に陥ったのだといった気持ちで、むしろ被害者意識の方が強かったのです。

 竹内好は、「近代の超克」の中で、そうした当時の国民の心理状況を次のように説明しています。
 「『支那事変』」と呼ばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、『文学界』同人を含めて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命観の一支柱である「生命線」論(満州を日本の安全面及び経済面における生命線と見る見方=筆者)の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。」(『日本とアジア』p189)

 さらに、亀井勝一郎は次のように述懐しています。
 「しかしいまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年たっているにも拘わらず、『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない。たとえばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大勝の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」(同上p190)

 これに比べて、アメリカに対しては、はっきりとした戦争意識を持っていました。それは、日本が先に述べたような泥沼に陥ったところに、アメリカが介入して一方的に中国の味方をし軍需物資を中国に送り込んだ。日本がその援蔣ルートを遮断しようとすると、今度は、日本の資産凍結や石油をはじめとする天然資源の対日禁輸を始めた。日本は、なんとか対米戦争を避けようと努力したが、アメリカはさらに、それまでの交渉経過を一切無視して中国からの完全撤兵を日本に要求した。このため日本はやむなく対米戦争を決意した、といった意識です。

 そうした意識は、次のような、開戦二日目の河上徹太郎の言葉に典型的に表れています。 「私は、徒に昂奮して、こんなことを言っているのではない。私は本当に心からカラッとした気分でいられるのがうれしくて仕様がないのだ。太平洋の暗雲という言葉自身、思えば長い立腐れのあった言葉である。今開戦になってそれが霽(は)れたといっては少し当たらないかも知れないが、本当の気持ちは、私にとって霽れたといっていい程のものである。混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『文学界』1942.1月号)

 これが、満州事変以降日中戦争そして対米英戦争に至るまでの日本国民のいつわらざる正直な気持ちでした。一言で言えば、中国と戦争をしているという意識はあまりなくて、一方、アメリカとは民族の存亡を賭けて戦ったという気持ちです。そして、敗戦後の東京裁判において、日中戦争において中国人が被った甚大な被害を知らされた時、日本人は、亀井勝一郎の述懐にあるような「中国無視」の態度やその裏返しとしての日本人の「優越感」の存在にはじめて気づいたのです。

 つまり、この事実をしっかりと認識することが、戦後の出発点でなければならないと思います。確かに昭和の戦争については、特に、陸軍幼年学校、海軍士官学校、陸軍士官学校、陸軍大学、海軍大学などを卒業したエリート軍人たちによる、謀略・侵略的かつ独断・独善的的な国際法無視の軍事行動や、統帥権や軍部大臣現役武官制を悪用した国内政治の壟断などがありました。しかし、これをマスコミを含めた国民の圧倒的多数が支持したこともまた事実です。

 そして、このような軍の行動と、国民の意識が分厚く重なり始める時期が、張作霖爆殺事件以降満州事変までの時期に当たるのです。それ以前は、当時満鉄副総裁をつとめていた松岡洋右の回顧録にあるように「当時、朝野の多くの識者の間において」満蒙の重大性に関する叫びが「頑迷固陋の徒の如くにさげすまれてさえ」いたのです。また、一部の左翼や自由主義者の間には満蒙放棄論さえ台頭しつつありました。(『太平洋戦争への道1p359』)

 一方、軍人の間では、「満蒙は『明治大帝のもとに戦い血を流し十万の同胞をこれがために犠牲にした』聖地であると考えられていました。「彼らは、・・・満蒙放棄論が台頭していることを痛切になげき、在満青少年に呼びかけて満州に世論機関の創設を図ろうと試みた。『為政者のなすに任せたる満蒙』から『全国民の血によって購いたる満蒙』に転化するために満州青年議会の創設がはかられ・・・『若人の純真なる熱意と愛国心を持って』満蒙を死守する必要を説いた。」(上掲書p360)

 こうして、関東軍と満州居留民指導者が一体となり、本土における満州「生命線」論の宣伝活動を精力的に展開していくのです。

 また、この満州「生命線」論は、当時の青年将校達にとっては、もう一つの重要な意味を持っていました。それは、大正時代の軍縮ムードの中において、軍人はまるで無用の長物、税金泥棒扱いされていた事実に起因します。当時、軍人に対する世間の目は冷たく、新聞の投書欄には「軍人がサーベルをガチャ、ガチャさせて電車やバスに乗るのはやめてほしい」という女学生の投書が載るしまつでした。さらに、軍縮による兵員の削減は大量の失業者を生み、その救済策の一つが、妹尾河童の『少年H』の中等学校に配属された将校なのです。

 「この風潮が軍隊、軍人にはどう受け止められたか、それが”十年の臥薪嘗胆”である。世間の風潮、流れというものは、おおむね、十年を区切りに変化し、更替する。今はがまんのときである。しかしかならず自分たちの時代がくると歯を食いしばって、軍縮に象徴される、自分たちのおかれた地位、身分の回復、さらに進んで、一国の支配を誓うにいたるのである。その結果でてきたものは、『一夕会と桜会』」(『昭和の軍閥』p98)であり、この青年将校グループの中の一人が、張作霖爆殺事件を引き起こした河本大作でした。

 この張作霖爆殺事件の真相については、「張作霖事件に胚胎した敗戦の予兆」でくわしく述べましたが、当事者の証言として極めて興味深い証言がありましたので紹介しておきます。これは、張の軍事顧問であった町野武馬大佐の証言を1961年に国立国会図書館が採録したものです。この録音は「三十年間は非公開」の条件付きで実施したもので、平成三年六月一日に、やっと公表さました。

 「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので、殺したという関東軍首脳の説はウソだ。張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは日本だけだ。だから日本と手を握らにゃならないのだとよくいっていた。関東軍の首脳は、張を殺さないと満州は天下太平になり、日本では軍縮が激しくなる。軍人が階級をのぼりぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。そして張作霖を殺した。それは斉藤恒(注:関東軍参謀長)の案なんだ。」(『日本はなぜ戦争を始めたか』p51)

 私はこの説は、この本ではじめて知りましたが、実のところ、「河本大作は、なぜ張作霖を殺す必要があったか」という疑問について、「日本の言うことを聞かなくなったから」という説明は十分ではないと、福田和也氏なども疑問を呈していました。それだけに、「張を殺さないと満州は天下太平になり・・・」というのは、まさに驚くべき重要な証言です。確かに、この時期の青年将校達が抱えていた、大正デモクラシーに対するルサンチマンの激しさを考えれば、私はさもありなんと思いますが、それにしても・・・。

 また、このことについては、幣原喜重郎も「満州事変」の原因について、それは「今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う。」と次のように述べています。

 「・・・陸軍は、二個師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大ていが大佐が止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは、情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢がいっぺんに落ちてしまった。

 軍人たちがこれを慨嘆して、明治以来打ち建てられた軍の名誉―威勢を、もう一度取り返そうと苦慮したであろうとは首肯けるが、血気の青年将校のたちの間では、憤慨が過激となり、『桜会』という秘密結社を組織したり、政党も叩き潰して、新秩序を立てよう。議会に爆弾を投じて焼き討ちしようなどという、とんでもない計画を立てるようになった。・・・これがすなわち柳条溝事件のはじまりで、満州事変の発芽である。」(『幣原喜重郎―外交五十年』p192)*岡崎久彦氏はこの説には疑問を呈していますが・・・。

 もっとも、こうした軍人の主観的心理的動機の他に、国内外における経済的・政治的な客観的要因が重なったことも事実です。しかし、私には、これが、日清・日露戦争で軍功を上げ個人感状や金鵄勲章を受け元勲となった将官たちと、そうした実戦参加の機会を得なかった第15期以降の幼年学校から士官学校そして陸軍大学を卒業したエリート軍人たちとの意識のズレを最もよく説明しているように思われます。(山本七平もこのことについて、青年将校の決起の動機とされる「農村の貧困」について、「貧困は彼ら自身にあった」といっています。)

 なぜ、彼らはあれほどまで必死になって河本大作を守ろうとしたのか。彼らの自己及び自国の実力に対する異常なまでの過信、中国人に対するはなはだしい蔑視と優越感、既成エスタブリッシュメント(元老、政治家、財界人等)に対するはげしい敵対意識、マスコミや国民に対する不信とその隠蔽工作、これらの肥大化した自尊心と被害者意識の根底には何があったか。そして、こうした心的傾向は、張作霖爆殺事件において予兆的に露呈していたと私は考えるのです。

 さて、それでは、一般国民=大正デモクラシーの軍縮時代に軍人に冷たい視線を浴びせていた人びとは、一体、いかなる事情で、以上のような怪しげな軍人たちの主張に耳を傾け、さらに、これに熱狂的に支持するようになるのでしょうか。これが次に解明さるべき問題です。いずれにしてもできるだけ正確に事実関係を把握することが、問題解決の第一歩だと思います。意外と、それを解く鍵は、身近なところにころがっているのかもしれません。くどいと感じられる方もおられると思いますが・・・。

2008年9月13日 (土)

満州問題(8)―満州事変を熱狂的に支持する世論の変化はなぜ起こったか。

 張作霖爆殺事件の「もみ消し」によって、軍部が真に守ろうとしたもの、それは一体何だったのでしょうか。もちろん、日清戦争以来、日本が膨大な犠牲を払って獲得した満州における「特殊権益」の擁護が目的であったことは間違いないのですが、問題はそれを達成する方法・手段です。張作霖爆殺事件の場合は、関東軍の高級参謀が、謀略により政府が承認した満州国の元首を爆殺し、その混乱を利用して軍事行動を起こし満州を武力制圧しようとしたのでした。

 従って、もし、この重大事件の真相が明らかにされ、その責任者が厳罰に処せられるということになると、当然のことながら、軍中央の命令なしに、独自の政治的主張をもって、勝手に兵を動かした関東軍の下剋上体質が問われることになります。それと同時に、相手国の元首をも平気で爆殺する、その恐るべき危険性も国民の目に明らかとなり、その結果、そうした関東軍の暴走を食い止めるための方策や、徹底した軍紀の引き締めが図られることになります。

 実は、軍部―特に陸大出の若手将校たちが最も恐れたことは、このように事態が進行することによって、軍に対する国民の信頼が失われ、その結果、彼らが「満蒙問題の根本解決」のための唯一の方策と考える「満州の武力占領」という強硬手段がとれなくなってしまうことでした。そのために彼らは組織を上げて、軍首脳はもちろん、政治家、官僚、マスコミに対する説得工作を行い、多数派を形成して田中首相を孤立に追い込み、事件の真相を闇に葬ったのです。

 だが、問題はここからです。確かにこのあたりまでは、軍の行動は必ずしも国民の支持を得ていたわけではありませんでした。というのは、田中内閣による第二次山東出兵が引き起こした済南事件は、中国人の反日民族意識を決定的にし、さらに張作霖爆殺事件は、その後継者である張学良(張作霖の息子)を反日に追いやり、東三省の国民政府への合流を決断させたのです。そして、これらはいずれも軍事力行使を伴う軍の対中強硬策がもたらしたものでした。

 ところが、この張作霖爆殺事件の三年後に起こった「満州事変」では、それが軍中央の命令を無視した、関東軍ぐるみの謀略的軍事行動であったにもかかわらず(もちろんその真相は国民には隠されていましたが)、マスコミを含めた国民の熱狂的な支持を受けることになりました。政府は謀略の証拠を列挙し、南陸相に対して不拡大を命じましたが、関東軍は、軍中央の黙認?や朝鮮軍の支援を得て戦線を拡大し、ついには政府も既成事実の追認を余儀なくされました。

 この間わずか三年あまり、国民の意識は、張作霖爆殺事件の真相「もみ消し」以降、ほとんどクーデターに等しい関東軍による「満州の武力占領」を熱狂的に支持するまでに劇的な変化を遂げました。一体、この間に何があったか。いうまでもなくこの満州事変こそ、日本が泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、そして絶望的な対米英戦争へと突入していく、その起因となる大事件だったのです。しかし、この時、そのことに気づいた国民はほとんどいませんでした。

 ところで、こうした満州事変の位置づけ方に反対する意見もありますので、まず、これに対する私見を申し述べてから先に進みたいと思います。以下は、渡部昇一氏の見解ですが、氏は関連する文献の紹介やユニークな著作を数多くものしており、私自身も氏から多くのことを教わっていますが、いくつかの点で、私見とは異なる部分もありますので、それを確認しておきたいと思います。

 満州某重大事件は日本の侵略のはじまりか(以下『昭和史』渡部昇一による)

 「張作霖爆殺事件も・・・関東軍の陰謀のにおいがしても、(満州の匪賊による)連続する鉄道爆破事件の「ワン・オブ・ゼム」ととらえられるところもあった」だからそれほど大きな国際問題とはならなかった。しかし、その後この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになった。つまり「張作霖爆殺事件が満州事変を呼び、さらには支那事変を引き起こし、それがアメリカとの全面戦争につながった・・・という見方」である。しかし、こうした見方は、占領軍から押しつけられた戦後の歴史観にすぎない。話はそれほど単純ではない。日本には日本の歴史があったのであり、それを理解しないと、この問題に対する正しい理解は得られない。

 「日本は満州を侵略した」といういうが、まず、「満州における日本の『特殊権益』とは何か」を理解する必要がある。日本が満州に特殊権益を持つようになったのは、日清戦争(1894年)に日本が勝利し、下関条約で遼東半島が日本に割譲されたことにはじまる。
ところがその条約締結後一週間もたたないうちにロシア、フランス、ドイツの三国がわが国に「遼東半島を放棄せよ」と迫り、日本はやむなく遼東半島を清国に還付した。

 ところがロシアは日本に返還させた遼東半島の要衝の旅順と大連を、清国の弱みにつけ込んで租借した(1998年)。それは不凍港がほしいというロシアの悲願によるものだった。さらにロシアは1899年に義和団事件の時に日本を含む諸外国と華北に共同出兵し、それが満州に及ぶと、兵を増派して全満州を占領した。そのとき清国はロシアを満州から追おうとしなかった。この満州に居座ったロシアを追い払ったのは日露戦争に勝利した日本だった。こうして日露戦争に勝利した日本は、満州を清国に返還させた上で、ポーツマス条約により次のような満州における権益をロシアより譲渡された。

①ロシアは遼東半島の租借権を日本に譲渡すること。
②ロシアは東支鉄道の南満州鉄道(長春~旅順間。のちの満鉄線)と、それに付属する炭坑を日本に譲渡すること。
③ロシアは北緯五十度以南の樺太を日本に譲渡すること。

 つまり、こうした経緯を見てもわかるとおり、日本は満州を侵略したわけではない。これらは国際条約にのっとって正当に得た権益である。さらに、日露戦争後、清国はロシアとの間に「露清密約」という日本を敵視する条約を結んでいたことが露見した。もし、この事実が日露戦争以前に日本にわかっていたら、日本は満州を清国に返還する必要はなかった。

 次に、「満州はシナではない」ということを理解する必要がある。十六世紀後半の満州の族長はヌルハチで、当時シナ大陸を支配していたのは明で、その支配権は満州には及んでいなかった。明にとって万里の長城の外側にある満州は文明の及ばない「化外の地」だった。その後ヌルハチは東満州を統一して「後金」という国を建てた。そのヌルハチの跡を継いだホンタイジは後金を「大清国」と改めた(1636年)。この間明との攻防が続き、その後継者フリンのとき、ついに明を倒し北京入城を果たした(1644年)。ここにシナ人は満州人の被征服民族となった。

 こうした歴史を見る限り、満州という土地は清朝の故郷であってシナではない。しかも秦の始皇帝以前も以降も、シナの歴代王朝が満州を実効的に支配した事実はない。つまり、「満州族の清朝がシナを支配しているあいだは、シナ本土も満州も清国の領土であるが、そうでなくなれば満州とシナ本土は別個のものだ」「したがって辛亥革命によって清国が倒されたとき、あのときに最後の皇帝・溥儀が父祖の地・満州に帰っていたら、満州はシナとは『別個の国』として存続していただろう」。

 そして渡部氏は結論として、溥儀の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』の文章を引用しつつ、次のように主張します。「遅かれ早かれ、日本が満州の地で二度も戦争をして獲得した権益をシナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信するものは大勢いた。(『紫禁城の黄昏』第16章)
つまり、先に述べたような日本が日清・日露の二度の戦争で得た満州における合法的権益を侵したのはシナの方であり、それ故に、張作霖爆殺事件や満州事変の起こる必然性はあった、というのです。

 このほかに「なぜ張作霖は狙われたか」や、張作霖死後にその後継者となった張学良が易幟を行い東三省(満州)の国民党への合流を決断し猛烈な反日運動を展開したことが満州事変を引き起こす直接のきっかけとなったこととか、幣原外相が軍部と協力して満州独立の方向で外交的な働きをすればよかったとか、最後に昭和天皇が張作霖爆殺事件の時、田中内閣に総辞職を迫る発言をしたことについて、重臣がそうした天皇の発言を抑えすぎなければ、その後の昭和史の悲劇はいくつも避けられた、とかが論じられています。

 さて、こうした意見に対する私の考えですが、まず、満州における日本の「特殊権益」についての歴史的理解はその通りだと思います。ただ問題は、それを守るためにどういう手段・方法を選ぶべきであったかということで、軍事占領がただちに正当化されるわけではないと思います。また、満州はシナの領土ではなかったということは歴史的にはいえると思いますが、満州固有の問題をシナの問題に拡大したのは二十一箇条要求や華北分離工作に見るとおりむしろ日本だったと思います。また、張学良の易幟は自分の父親が日本軍に故なく爆殺されたからであって当然だと思います。(下線部修正10/14)

 なお、冒頭の満州事変及び張作霖爆殺事件を昭和史にどう位置づけるかということですが、私はいわゆる「東京裁判史観」などにとらわれることなく、それを日本の歴史の流れの中に、自分の常識で理解できる姿で位置づけるべく、さらにそれを山本七平氏の独創的見解とも対比しつつ、一つ一つ考えていきたいと思っています。

 以上、渡部昇一氏の見解に対する私見を申し述べさせていただいた上で、先に問題提起しておきました、済南事件や張作霖爆殺事件以降満州事変に至るまでの間の急激な世論の変化がどうして起こったか、ということについて考えてみたいと思います。(下線部挿入10/14)

2008年9月 5日 (金)

満州問題(7)―張作霖爆殺事件と昭和天皇

 前回、張作霖爆殺事件(昭和3年6月4日)をめぐるいくつかの問題点を指摘しました。だが、そのほかに、もう一つの重大な問題が惹起していたことを指摘しなければなりません。それは、この事件の処理の過程で、天皇及びそれを輔弼する元老・重臣たちと、政府あるいは軍との権限関係のあり方をめぐって、双方に根本的な意見の対立が生じていたということです。(実は、この問題は、今日においても、特に天皇の戦争責任との関連で問われている問題であり、日本人の被統治意識の根幹に関わる問題です。)

 この事件の処理について、田中首相は昭和天皇に、その実行犯及び責任者の厳罰を約束しました。(昭和3年11月24日)しかし、こうした田中の方針に対する陸軍の抵抗は強まる一方でした。天皇は、翌年1月に白川陸相に対して「まだか」と催促し、白川陸相は2月26日の拝謁で、調査が遷延している理由として、「関係者は尋問に対して興奮し、国家のためと信じて実行したる事柄につき取り調べを受ける理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り・・・」と苦し紛れのいいわけをしました。(『昭和史の謎を追う』上p36)

 一方、閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説きまわり、「閣僚全員首相に反対」(『小川秘録』)に持ち込みました。孤立した田中にとって最大の痛手は、古巣の陸軍がこぞって反対論にまとまり、特に、当初は田中支持に見えた白川陸相(処罰の法的権限を持つ)が、部下に突き上げられ、小川にけしかけられて変心したことでした。昭和4年3月末、陸軍が真相は不公表、河本らは行政処分という結論を出すと、田中は外務省で唯一の支持者だった有田アジア局長に閣議での反論を起案させましたが、そのとき「白川がなあ・・・」とため息を漏らしたといいます。(同上)

 また白川陸相は、3月27日、天皇に対して次の様な中間的な結論を報告しました。それは、「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、その計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と犯人を特定しましたが、処罰については「処分を致度存ずるも、今後この事件の扱い上、其内容を外部に暴露することになれば、国家の不利に影響を及ぼすこと大なる虞あるを以て、この不利を惹起せぬ様深く考慮し十分綱紀を糺すことに取計度存ず(後略)」という回りくどい言い方で、真相不公表、行政処分で済ますことを説明しました。(上掲書p37)

 こうして田中は、軍法会議での処分をあきらめ、「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸相報告(5月20日)を呑みました。その後、田中は、それを天皇に対してどう申し開きをするか、悩んだあげく、6月27日午後参内して天皇に拝謁し上奏案を読み上げました。これに対し天皇は、「お前の最初に言ったことと違うじゃないか、言い訳は聞きたくない、辞表を出したらどうか」といい、その怒りは激しく、田中は慌てふためいて退出し、鈴木侍従長に「辞職する」と何度も口走ったといいます。(上掲書p38)

 しかし、田中は、翌朝閣議に出て叱られた様子を報告したのち気を取り直し、再び、同じ処理方針を、今度は白川陸相に持たせ参内させました。すると意外にもすんなりご裁可があり、続いて鈴木侍従長より首相に参内せよと連絡が来たので、田中も閣僚も、天皇が反省して折れたらしいと喜び、田中はいそいそと参内しました。しかし、鈴木侍従長より、前日の上奏を責める天皇の意向がもう一度伝えられ、田中は拝謁を、と食い下がりましたが、鈴木から「ご説明に関し召されずとの思召なり」と聞き、「もはや御信任は去った」と諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職を告げました。(上掲書p40)

 田中内閣は7月2日総辞職しました。そして、その四ヶ月後の9月29日、田中は狭心症のため亡くなりました。一説では、遺骸の首に包帯が巻かれていたことから軍刀で喉を突いて自殺したのではないかともいわれています。

 以上が、田中首相の、張作霖爆殺事件の処理についての上奏の経過ですが、ここに、二つの問題が生じることになりました。一つは、こうした天皇による、時の宰相を罷免する様な言動がはたして妥当なのかどうか、ということ、もう一つは、6月28日午後の白川陸相による天皇に対する説明にはすんなりと裁可をしておきながら、なぜ、午前の田中首相による同じ内容の上奏に対しては、あれほど激しい怒りを表したのか、ということです。

 前者の問題については、これが天皇を輔弼する宮中方面の元老重臣による政治介入であるとして軍部を強く刺激しました。もとより、軍部は田中を見放してはいましたが、張作霖事件に際して軍紀の粛正を迫った宮中に対して、激しい反感を持つようになりました。このことが、後年の五・一五事件や二・二六事件において、いわゆる「君側の奸」とされた元老・重臣(西園寺や牧野内大臣、鈴木侍従長など)が、繰り返し軍部によるテロの標的となった、その遠因とされています。(『日本史発掘2』p190)

 また、天皇に対しても、その処置が気に入らないと、「若さゆえの思慮不足」にこじつけて恨み言を言い立てる政治家や軍人も少なくありませんでした。それは「輔弼の責任者として、君主に過ちある時は其過ちを正すに非ずんば、宰相の責任をつくしたといふべからず。特に御壮年の陛下に対して君徳の完成を図るはお互いに兼ねて熱心努力せし所にあらずや。・・・昨日の陛下の聖旨中(首相の)説明を聞くに用なしとあるは・・・決して名君の言動にあらず。或は何者か君徳を蔽ふの行動に出でたるものあるやもはかられず・・・。」といったものでした。(『小川秘録』)

 また、昭和天皇自身も、戦後、このことについて、「私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった。・・・私の若気の至りであると今は考えているが・・・」(『昭和天皇独白録』)と反省の弁を述べています。これをもって昭和天皇は自分の思慮不足を認めたとする解釈が一般的になっていますが、秦郁彦氏は、そう解釈せず「昭和天皇は熟慮の末、田中内閣を更迭するという決断のもとに行動した」のではないかと次のように説明しています。

 昭和8年6月、鈴木が時の本庄侍従武官長に語ったところでは、天皇は、田中が自己の責任で処置を公表したのち「政治上余儀なく発表しました。前後異なりたる上奏をなし申し訳なし。故に辞職を請ふ」と申し出たなら、「政治家として止むをえざることならん」と理解もするが、「まづ発表そのものの裁可を乞い、これを許可することとなれば、予は臣民に詐りをいわざるを得ざること」(『本庄日記』)になるではないか、と鈴木侍従長に述べた、というのです。(『昭和史の謎を追う(上)』p42)

 そして、そのように理解するなら、これは第二の問題に対する答えにもなります。秦氏は、「田中がこの通りの手順を踏んでいたら、天皇は今後を戒めて辞職を慰留するつもりだったのかも知れない」といっています。それが、自分の意にそわぬ結論であっても白川陸相の上奏には裁可を与え、「真相不公表」「行政処分」の線で事件の後始末に一応のケリをつけた理由であり、昭和天皇はそうすることによって陸軍との正面衝突を回避した、と推測しているのです。(同上)

 しかしながら、天皇の意向によって内閣が倒れ、政変が起きたことには変わりがありません。このことについて元老である西園寺は、当初、軍紀粛正の正論を主張しましたが、直前になって、天皇の不信任という理由で内閣が総辞職するとなると天皇が政治責任をかぶることになるのでよくないと、天皇が「田中の責任を問う」発言をすることに反対しました。(『上掲書』p41)それは君臨すれども統治せずという、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動だからです。そして、天皇の、このことに対する反省が、その後、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めることになってしまった(『幣原喜重郎とその時代』p310)と多くの論者が語っています。

 だが、前回指摘したように、こうした張作霖爆殺事件の誤った処置は、次のような「恐るべき」事件を次々と引き起こし、その後の日本の政党政治の基礎を掘り崩すことになりました。1930年に発生したロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、1931年3月の3月事件(陸軍中堅将校によるクーデター未遂事件)、1931年9月18日の満州事変、1031年10月の十月事件(3月事件と同様)、1932年5月15日の五・一五事件(海軍青年将校によるクーデター事件)そして1936年2月26日の二・二六事件などです。

 つまり、これらの軍若手将校による恐るべき謀略・クーデター事件を惹起することとなったその初発の事件が、この張作霖爆殺事件であったのですから、もしこの事件が国内法に照らして厳正に処置されていたなら、前回指摘したような問題点の自覚がなされ、その解決への努力がなされていたかもしれません。そうすれば、あるいは昭和の悲劇は回避することができたかもしれないのです。

 この点に関して、『張作霖爆殺』の著者大江志乃夫氏は、関東軍を管轄するのは参謀総長であり、その参謀長に命令または指示ができるのは天皇だけであるから、天皇はまず参謀総長に事件の真相解明の調査を命じるべきであった。それなしに陸相は司法捜査権を発動できないし、ましてや首相は事件の処分について関与できない。従って、昭和天皇がそれをしないで田中首相を叱責したのは筋違いであり、統帥権者としての自覚に欠ける行為であった。また、張作霖爆殺事件の処理に当たってその統帥権の手綱をゆるめたことが、その後の軍部という暴れ馬の暴走を許すことになった、と昭和天皇を厳しく批判しています。(『張作霖爆殺』p185)

 しかし、法理的にはそういうことがいえるのかも知れませんが、昭和天皇は、立憲君主制下における「君臨すれども統治せず」という英国憲政を手本としていたのであり、また元老重臣もそのような考えに立って天皇を補弼していたのです。従って、当然のことながら、統帥権の行使についても統帥部(参謀本部及び軍令部)による補翼(補弼を訂正11/13)に期待したと思います。その統帥部も、もし天皇が自らの意にそわない場合、補翼責任者として「その過ちを正す」ことを当然としており、事実、同様の論理に基づいて、天皇を補弼する元老・重臣が次々と軍人によるテロの標的にされたのです。

 いうまでもなく、こうした軍人の行動は、はじめから当時の国内法や国際法を無視しているのであって、こうしたアウトローを信条とする武力集団を法律で規制することは、たとえ天皇であってもそれが可能であったとは思われません。「たとえ、この時期に有能な首相が出ても、満州侵略に逸る軍部は、その政治力を持ってしても抑えることはできなかったであろう。時代は個人の政治力を超えて、日本の破局の序幕を開けはじめていた。」(上掲書p200)というのが、この時代の実相だったのではないでしょうか。

 では、その若手将校たちに、そうした合理性を超えた、破壊的行動エネルギーを供給していたものは、一体何だったのでしょうか。次回からは、このことについて考えてみたいと思います。

2008年8月30日 (土)

満州問題(6)―張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆2

 張作霖爆殺事件の真相については、東京裁判で田中隆吉少将が次のように証言したことで、はじめて一般の国民の知るところとなりました。
 「張作霖の死は当時の関東軍高級参謀河本大佐の計画によって実行されたものである。この事件は軍司令官、当時の参謀長には何ら関係なし。当時の田中内閣の満州問題の積極的解決の方針に従って、関東軍はその方針に呼応すべく、北京、天津地方より退却する奉天軍―張軍の錦州西方での武装解除する計画をもっていた。その目的は張を下野せしめ、張学良を満州の主権者として、そこに当時の南京政府から分離した新しき王道楽土を作るという目的であった。・・・しかるにこの計画はのちに至って田中内閣より厳禁された。

 しかしなおこの希望を捨てなかった河本大佐は、これがため、六月三日、北京を出発した列車を南満鉄道と、京奉線の交差点において爆破して、張作霖はその翌日死んだ。この爆破を行ったのは、当時朝鮮から奉天へきていた竜山工兵第二十連隊の一部将校並びに下士官兵十数名。このとき河本大佐は、参謀の尾崎大尉に命じて、関東軍の緊急集合を命じて、列車内から発砲する張の護衛部隊と交戦せんとした。しかし、この集合は、参謀長斉藤少将の厳重なる阻止命令により中止された。

 私は河本大佐も尾崎大尉もよく知っている。河本大佐は、まったく自分一個の計画であると申し、そのとき使った爆薬は工兵隊の方形爆薬二百個で、あのとき緊急集合が出ておったなら、おそらく満州事変はあのとき起こったであろうと語った。」(『昭和史発掘3』松本清張p52)

 ここで、事件が河本大佐だけの計画だったというのは真実ではなく、村岡関東軍司令官自身も関東軍の錦州出動が田中首相により阻止された段階で張作霖暗殺を計画し、それを知った河本大佐が自分の案を採用させた(『張作霖爆殺』大江志乃夫p16)とされているように、関東軍上層部も知っていたことは間違いありません。ただ、関東軍が他国の国家元首の暗殺に組織的に関与したということになると大変なことになるので、あくまで河本一人の謀略(爆破犯人を国民党の工作員に見せかける偽装工作もしていた)として実行せしめ、あわよくばその混乱に乗じて関東軍の武力発動の好機を得ようとしたのではないかと思われます。

 また、そのように武力発動をしてでも達成しようとしていた、その目的は何だったのかというと、それは、当時参謀本部員であった鈴木貞一の談話(戦後)に示された、次のようなものでした。
 「昭和二年・・・僕は自分で参謀本部、陸軍省あたりの若い同じ年配の連中に会った。今の石原莞爾とか河本大作とかであるが、・・・日本の軍備の根底をなす政策を確定しなければならぬという考えで、いろいろ若い人に話をして、ほぼこうすれば軍部は固まり得る、少なくとも下のほうのわれわれ若いところは固まり得る、という案を考えていた。その案というのは、方針だけでいうと、満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる。そうして東洋平和の基礎にする。これがつまり日本のなすべき一切の内治、外交、軍備、その他庶政すべての政策の中心とならなければならない」(『昭和史発掘』p33)

 しかし、「こういう考えをむき出しに出したのでは、内閣ばかりでなしに、元老、重臣皆承知しそうもないから、これを一つオブラートに包まなければならぬ」ということで、鈴木貞一と森恪(外務政務次官)及び吉田茂(奉天総領事)が相談し、東方会議を開催することにしました。この会議は、昭和2年6月27日から7月7日まで、外務本省(首相兼外相田中義一、政務次官森恪他)、在外公館(中華公使芦沢謙吉、奉天総領事吉田茂、上海総領事矢田七太郎)、植民地(関東軍司令官武藤信義他)、陸軍(次官畑英太郎、参謀次長南次郎、軍務局長阿部信行、参謀本部第二部長松井石根)、海軍(次官大角岑生、軍令部次長野村吉三郎他)、大蔵省(理財局長富田勇太郎)の代表が出席し、森恪の主導で行われました。(前掲書p35)

 この会議で決まった方針(「対支政策綱領」)は、次のようなものでした。
 その「綱領」の前段では、田中も注意深く、「支那の内乱政争に際し一党一派に偏せず、支那国内に於ける政情の安定と秩序の回復とは、支那国民自ら之に当ること最善の方法なり」と述べています。にもかかわらず、同一綱領の後段では、
(一)「支那の治安を紊し不幸なる国際事件を惹起する不逞分子が支那に於ける帝国の権利利益並在留邦人の生命財産を不法に侵害する虞ある時は、断乎として自衛の措置に出でこれを擁護する。……排日排貨の不法運動を起すものに対しては、権利擁護の為、進んで機宜の措置を執る」
(二)「満蒙殊に東三省地方に国防上並国民的生存の関係上重大な利害関係を有する我邦としては特殊の考量を要す。同地方の平和維持経済発展により内外人安住の地とする事には接壌する隣邦として特に責務を感じる」
(三)「東三省有力者にして満蒙に於ける我特殊地位を尊重し、真面目に同地方に於ける政情安定の方途を講ずる場合は、帝国政府は適宜これを支持する」
(四)「万一満蒙に動乱が波及し我特殊の地位権益が侵害される虞がある時は、それがどの方面から来るを問はず之を防護し、且内外人安住発展の地として保持される様、機を逸せず適当の措置をとる覚悟を有する」(『満州事変への道』p199)となっていました。

 だが、こうした方針は、「田中と森の方針の相違(田中は、日本の満蒙への勢力進出をできるだけ同地の実力者(張作霖)を利用してその目的を達成しようとしていたのに対して、森は、そんな手ぬるいことはせず、日本が直接満蒙に手を下し、その開発に当たるべきとした。)や、関東軍の強硬論(治安の乱れを口実に満州を武力制圧する)と、なお幣原外交の影響が強く残る外務省首脳見解(「将来東三省の主人がだれになろうとも、日本の権益にははなはだしい影響はない。満州における日本の地位はすこぶる強固であるから、今後は公平かつ合理的な主張をもって日本の権益を擁護し、経済的発展を獲得すれば足りる」=吉田茂奉天総領事)の対立を反映した、いわば玉虫色の色彩を帯びていた」といいます。(『張作霖爆殺』p8)

 そして田中は、満蒙政策を具体化するためには、まず満蒙の地に鉄道を増敷設をすることから開始し、その沿線に日本の勢力を伸ばしていくこと、この計画は東三省の「真面目な有力者」=張作霖と提携することだと考えました。そこで「張作霖をして東三省における過去、現在及び将来のわが国の地位とともに以上の趣旨を十分諒解せしめ」鉄道の増敷設を承認させるため、その交渉を山本条太郎(満鉄総裁に任命)にあたらせたのです。結局、張もそうした要求を承諾し北京を引き上げることに同意しました。山本はこれで「日本は満州をすっかり買い取ったも同然だ」と喜んだといいます。(『満州事変への道』p201~206)

 一方、関東軍の方は、そもそも東方会議がもたれたのは、先に紹介した鈴木貞一のような考え方を政府の満蒙政策の指針とするためでしたから、その結論を「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という方向で理解していました。そして、そのためには、蒋介石の北伐によって張作霖が北京から追われる際の混乱を利用して、日本軍のいうことを聞かなくなっている張作霖を武装解除し下野させることで、一挙に満州を武力制圧し支那本土から切り離すとともに、その政治支配権を確立しようとしていたのです。

 しかし、こうした関東軍の思惑は、田中首相の採った満蒙政策によって裏切られることになりました。そして、このことに対する怒りが、「張作霖爆殺」という「恐るべき」事件を引き起こすことになったのです。当然のことながら、田中首相は、自分の満州問題解決の努力を水泡に帰したこの愚挙を怒り、その実行犯及び責任者の厳罰を天皇に約束しました。しかし、軍は事件をうやむやにすることをはかり、それに多くの閣僚も同調し、また多くの政治家やマスコミも、真相が公表される事によって日本が面子が失われることを恐れて追求を手控えました。結局、軍は、真相は不明、事件の責任者は事件現場付近の警備上の手落ちがあったということで行政処分するに止めたのです。

 さて、ここで問題となるのは何か、ということですが、

 第一に、たとえ、首相の意志に全く反することであっても、自分たちが正しいと信じることであれば、何をやってもかまわない、という下剋上的考え方が、当時の軍特に若手の将校たちに蔓延しており、これを放置したということ。

 第二に、この場合、何をやってもかまわないといっても、爆殺の相手は、北京政府の大元帥である。それを関東軍の一参謀が平気で爆殺し、それを軍が組織ぐるみでかばうということは、当時の軍人が中国人をどれだけ軽んじ侮っていたかということ。逆に言えばどれだけ増長していたかということ。

 第三に、実は、この事件の真相は、事件発生後二ヶ月たった八月頃には、東京、上海、天津の英字新聞に出始めており、爆破ははっきり日本軍のしわざであると報道されていた。そして九月頃には、国内の新聞も与野党も詳しい内容をほとんど知っていた。にもかかわらず、国内の新聞は、翌年の4月になっても「満州某重大事件」としか言わなかった。ここに、日本の新聞の権力迎合的性格が如実に現れていたということ。

 第四に、このように、外国人の目から見れば虚偽であることが明白であるような事件について、政治家もマスコミも、「外に向かって恥ずかしいようなことをわざわざ公表しなくてもいいではないか」というような甘い考え方をした。それが日本に対する国際的信用をどれだけ失墜させ、日本人に対する侮蔑を招いたかについて、考えが及ばなかったということ。

 第五に、これだけの重大事件を引き起こした犯人たちが、形式的な行政処分で済まされたばかりか、仲間内で英雄視され、要職につけられ、軍で重用され続けたということ。また、彼らを組織ぐるみでかばい、事件をもみ消そうとした責任者たちが、その後の軍の出世街道を歩き軍の中枢を占めたということ。

 そして最後に、この事件が、以上のような問題点を抱えながら処理されたことによって、結果的に「満州を支那本土から切り離して別個の土地区画にし、その土地、地域に日本の政治勢力を入れる」という考え方(が容認されたということです。そして、ついに満州事変を経て、)政府自身(もこうした考え方を)認知せざるを得なくなりました。〔( )内挿入9/3〕

 こうして、日本は、この時ついた嘘(謀略の存在のもみ消し)をつき続ける一方、こうした手段(武力発動し満州を実効支配すること)に訴えた自らの立場を正当化し続けなければならないという窮地に追い込まれることになりました。しかし、この嘘はアメリカには見えていました。日本を対米戦争に追い込んだハル・ノートの第一条件は、「日本軍の中国からの撤兵」でしたが、それは、このときついた嘘を嘘と認めることを意味していました。しかし、その時点(昭和16年)で日本は、満州事変以降さらに多くの犠牲を払っており、これを無視して撤兵する勇気は、当然のことながら当時の軍人にはありませんでした。〔( )内挿入9/4〕

2008年8月21日 (木)

満州問題(5)―張作霖爆殺事件に胚胎した敗戦の予兆

 前回、関東軍高級参謀河本大作が引き起こした張作霖爆殺事件(1928.6.4)によって「満州事変」への道が開かれた、ということを申しました。つまり、満州事変というのはこの事件がもたらした帰結だということです。その意味で、この張作霖爆殺という「恐るべき」事件の発生と、その処理をめぐる「奇怪さ」の中に、その後の対米英戦争に至る、日本人の数々の蹉跌の根本原因が胚胎していたといっても過言ではありません。次に、それがどれほど「恐るべき」事件であったか。また、その処理がいかに「奇怪」なものであったか、ということを見ておきたいと思います。

 いま少し詳しく事件の概要を述べます。

 前回述べた済南事件は未解決のまま、田中内閣は、京津に非常事態が継続していることを理由に、5月8日、三たび山東出兵しました(これで山東地帯の日本兵は一万五千に達した)。さらに田中は同月18日、満州に動乱が波及する場合は治安維持のため適当有効の措置をとるむね中国南北両政府に覚書で通告しました。これは、南北両軍の(錦州方面よりの)満州乱入を阻止するため両軍の武装解除を行うという事を意味していました。といっても、南軍(革命軍)の関外(長城以北)《関内(長城以南)を訂正8/22》進入は絶対に阻止するが、奉天軍の場合は、早期に戦闘を離脱して整然と関外に引き上げれば、必ずしもこれを武装解除しないと了解されていました。

 この通告に対して、北京政府(北軍)も国民政府(南軍)も共に内政干渉であると激しく抗議しました。しかし、国民政府は、この通告の意味するところは、関内の国民政府による統一を日本が認めたものと理解し、矢田七太郎総領事に対して、関外に奉天軍が撤退するならば国民革命軍はこれを追撃しないと約束しました。一方、張作霖の方は、日本の武力援助により関内にとどまることを期待していたためこの通告には大変不満でしたが、田中は芳沢公使に訓電して、張作霖に対して自発的に奉天に引き上げるよう勧告し、張作霖はやむなくこれを承諾しました。(上掲書p305)

 一方、村岡長太郎関東軍司令官は、18日この覚書を受領するや、奉天軍の武装解除を目標として関東軍の錦州派遣と軍司令部の奉天移駐にとりかかりました。しかし、外務省は、この措置がポーツマス条約で規定された範囲をこえて、関東軍の付属地外への出動をもたらすことになるとして反対し、19日、芳沢公使あてに「奉天軍の引き上げを南軍が追撃」しない場合は武装解除するには及ばないと訓電しました。20日夕、奉天では林総領事が斉藤参謀長と秦特務機関長と会い、有田アジア局長からの同文の訓令を提示したため、関東軍は錦州出撃計画を別命あるまで延期することにしました。(上掲書p306)

 この間、関東軍の田中首相と政府に対する不満は日ごとに激しくなっていきました。参謀本部の方も、荒木貞夫作戦部長の外務省への圧力が功を奏せず、29日の陸軍・外務両省の首脳会議でも現地軍出動時期について意見がまとまらなかったため強い不満を持つようになりました。5月31日、張の北京撤退が時間の問題となった段階で、関東軍は重ねて出兵の許可を求める電報を軍中央に打ちました。31日陸軍は関東軍の電報を受け取ると、阿部軍務局長を通じて有田アジア局長に出兵断行を強調させるという手をもちいました。両名は田中首相のところにおもむき田中首相の裁断を仰ぎましたが、田中首相は31日夜出兵延期を裁決しました。(『太平洋戦争への道1p308』)

 村岡関東軍司令官は、これにいらだち、北支駐屯軍と連絡を取り、張作霖暗殺を計画しました。しかし川本大作高級参謀は、あくまで張の謀殺によって関東軍の満州武力制圧のきっかけを作るという目標をもっていたため、村岡の計画ではなく自分の作った爆破計画を採用させました。河本の張作霖爆殺→東三省権力の地方軍閥化→治安攪乱→関東軍出動という段取りは、5月中旬、大石橋の石炭屋・伊藤謙二郎が、張作霖に代えて呉俊陞(しょう)擁立計画を斉藤参謀長に進言したことに端を発しており、河本は出兵の奉勅命令が出ないため、かねてからの鉄道爆破計画を実施に移すことにしたのです。(上掲書p309)

 また、河本は、張作霖抹殺により満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するためには、張作霖はその本拠地奉天で殺害されたほうが治安が乱れている証明になると考え、6月4日早朝、張が京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下に爆薬をしかけ張作霖を列車ごと爆破し死亡させました。河本は日本の主権下にある満鉄付属地内で張作霖が爆殺されたとなれば、その部下の軍隊が直ちに駆けつけるであろうから、主権侵害を口実に武力衝突を起こす計画であり、また、その日の内に第二段階行動として各地の爆弾騒ぎの挑発謀略を起こしました。しかし、この陰謀が河本を中心とするごく少数者で計画実行されたことや、案に相違して奉天省長は奉天軍の行動を抑制したため、武力発動には至りませんでした。(『張作霖爆殺』p16大江志乃夫)

 この事件の報を受けて、田中首相は愕然としました。なぜなら、田中は「満蒙に鉄道を増敷設し、この沿線に土地所有権なども獲得し、資源を開発して日本の勢力を伸ばしていくこと、そしてこの計画は張作霖を擁立して進め」ようとしており、そのために張を東三省に引き上げさせたからです。事実、田中の意を受けて、山本(条太郎)満鉄総裁と張との間には鉄道敷設の契約が成立しており、しかしこの計画はあくまで張と山本・田中の個人的「諒解」であったので、張が北京にとどまり南軍に破れでもすれば、もとのもくあみになると恐れていたのです。(『満州事変への道』P213~214)

 だが、この事件は関東軍の河本大佐を中心とするごく少数者の陰謀であったため、当初は陸軍中央部も田中首相もその真相を知ることができませんでした。陸軍中央部は、6月26日から一週間、河本大佐を取り調べましたが、河本は事件への関与を否定し、また陸軍中央部も内心張作霖の抹殺を望んでいましたので、河本を深く追求することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中首相にしました。しかし、河本が上京したとき、荒木作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長、小畑敏四郎作戦課長が出迎えており、河本は彼らには一切の事情を告白していました。(『張作霖爆殺』P20)

 一方、田中首相は9月7日林総領事に会い、「本件は国際的重大事件である。若し日本人の仕業ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。ついては本件を取り調べよ」と命じるとともに、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長に共同調査を命じ、さらに峯幸松憲兵司令官を奉天に派遣し調べさせました。その結果、関東軍からは何らの証拠も得られませんでしたが、朝鮮軍の工兵隊が爆薬敷設に関係しており、その工兵隊の某中尉を取り調べた結果、案外すらすらと自白したので帰郷し、10月8日に白川陸相を通じて田中首相に報告しました。また外務省などの共同調査の第二回調査特別委員会が10月23日に開かれ、河本らの犯行をほぼ裏付けましたが、杉山軍務局長は陸軍側の調査報告を待ってくれと依頼し、また参謀本部は、事件をやみのうちにほうむろうとしました。(『太平洋戦争への道1p320)

 田中首相は事実がある程度判明した段階で西園寺に報告しました。この時西園寺は首相のとるべき方針について次のように勧告しました。
 「万一にもいよいよ日本の軍人であることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなくてはならぬ。日本の陸軍の信用は勿論、国家の面目の上からいっても、立派に処罰してこそ、たとえ一時は支那に対する感情が悪くなろうとも、それが国際的に信用を維持する所以である。かくしてこそ日本の陸軍に対する過去の不信用をも遡って回復することができる。・・・また、内に対しては・・・政党としても、また田中自身としても、立派に国軍の綱紀を維持せしめたということが非常にいい影響を与えるのではないか。ぜひ思い切ってやれ。しかももし調べた結果事実日本の軍人であるということが判ったら、その瞬間に処罰しろ。」(『張作霖爆殺』P28)

 田中首相はこの西園寺の勧告を容れ、事実関係者の厳正な処罰と、全容の解明・公表することで意見一致しました。しかし参謀本部は、政友会幹部と連絡を図り、原嘉道法相、久原逓相、小川鉄相、山本達雄農相は公表反対としました。一方、田中を支持して公表賛成したのはわずかに岡田啓介海相と山本満鉄総裁だけとなりました。また当初田中に共鳴した白川陸相もにわかにあわてだし、いまや全陸軍が組織の命運をかけて田中首相に挑戦したに等しい状態となりました。こうした陸軍の動きは、この陰謀が公表されることによる陸軍の面子・威信の失墜が防ぐということ以上に、当時の陸軍が進めようとしていた満州問題の(軍事的)根本解決方針を死守せんとする思惑に発していました。

 こうして、小川ら満州に利害を持つ閣僚、政治家たちも、処罰と公表に頑強に反対するようになりました。それは、もし「この事件の全容が明らかになれば、満州はもとより、中国全体からの強い反発は避けられない。そうなれば、国民党政府が進めている、国権回復運動がいよいよ勢いづき、また反日、抗日運動がより盛んになるのは目に見えている。今は中国の条約を無視したやり方に対して反感を持ち、日本を支持してくれているイギリスをはじめとする国際世論も、陰謀が明らかになったら、どのような姿勢をとるか分からない。その帰趨によっては、日本は満州から追い出されることになるのではないか。」(『地ひらく』上p360)といった危惧によるものでした。

 しかし西園寺に励まされた田中は、この事件についての「調査内容」を、1928年12月24日午後2時に天皇に奏上しました。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるをもって若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行うべく、詳細は調査終了次第陸軍大臣より奏上する」(『田中義一伝記』による)これに対して天皇は田中に「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と戒めました。田中は上奏後、各閣僚に個別に了解を求め、白川陸相に対して強硬に責任者処罰を要求しました。しかし、この報告を白川から聞いた陸軍省中堅幹部は激烈に反対を表明しました。(『太平洋戦争への道』P321)

 ここで、陸軍省中堅幹部というのは、実は東条英機や永田鉄山といった学閥(藩閥を訂正8/26)意識を強く持った陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校出身のエリートたちのことで、陸士卒業期でいえば15期以降の卒業生です。彼らは二葉会(15期から18期まで)や一夕会(20期から25期)といった藩閥と違った学閥を母体とする新しい幕僚閥を形成していました。そして、当時の軍内の主導権は、こうした、日露戦争の激戦を体験していない(試験で選抜された)エリート軍人たちの手に握られていたのです。張作霖事件の首謀者である河本大作は、陸士第15期でこれらの幕僚閥の最先輩であり、その行動は同士たちに”英雄視”され、彼らによる組織を上げての擁護が画策されていたのです。

 田中は、1929年に入っても、このように陸軍の組織から孤立した状況におかれながら、なお懸案解決に向かって努力しました。しかし、政友会の森恪や、閣僚たちは、田中内閣を存続させるためには、田中首相が陸軍の要求に従うことを求めました。6月12日には、鈴木参謀総長、武藤教育総監が白川陸相と会談し田中首相に反対の態度をとるよう要求し、その後、陸軍省では阿部次官、杉山軍務局長、川島義之人事局長が田中の要求に反対をとなえ、白川陸相も辞意を表明すると見られたため、ついに田中首相は陸軍の圧力に屈し、責任者を単に行政処分にする案を天皇に上奏するとともに、真相不明として公表することについて許可を得ようとしました。

 しかし、天皇は「首相の述ぶる所前後全く相違するではないか」とのむねを伝え、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいうことはちっとも分からぬ、再び聞くことは自分はいやだ」ともらしました。恐懼した田中首相は、その後ただちに西園寺を訪問し一時間にわたる会談の後、各大臣一人一人官邸に呼んで内閣総辞職に至るかもしれぬと告げました。この際再度参内して事情を天皇に奏上するよう求められ、田中は再び参内しようとしましたが鈴木侍従長はこれを取り次ぐことに難色を示しました。恐懼した田中は首相を辞任し、7月1日田中内閣は崩壊しました。同日、河本大佐停職、斉藤中将と水町少将とが重謹慎、村岡中将が持命となりましたが、処分の文案には関東軍の警備上の手落ちとのみ説明されていました。(上掲書p326~327)

2008年8月 9日 (土)

満州問題(4)―張作霖爆殺事件が切り開いた満州事変への道

 ここまで、日本が日中戦争それから日米戦争へと引きずり込まれていく、そのターニングポイントとなった満州事変がどうして起こったのかを見てきました。一般的には、これを日本軍による植民地主義的な領土拡張(=帝国主義的な侵略戦争)と見る見方が多いと思います。しかし、こうした見方は、マルクス主義的な歴史観(植民地主義や軍事的膨張主義を伴う帝国主義を資本主義の帰結とする見方8/22挿入)によらない限り、”当時の軍人の頭は狂っていた”というような結論に達せざるを得ません。また、それは自分は彼らとは違うといった免罪意識につながり、さらには自分を被害者に見立てて当時の日本人を糾弾するといった態度になります。

 しかし、実際には、この満州事変が起こる前段には、幣原喜重郎による国際協調主義に基づく日中「友好政策」があり、それを国民が支持した時期もあったのです。彼は中国の満州に対する主権を認めた上で、ワシントン会議における「九カ国条約」に抵触しない形で、両者の友好的な関係を維持することで日本の満州における「特殊権益」の確保ができると考えていました。しかし、こうした幣原の態度は、結局、中国の排外主義的な日本の「特殊権益」侵害を防ぐことはできず、日本国内においては、第一次南京事件を経て、幣原外交を「屈辱外交」と批判する論調が次第につのっていきました。

 この第二次南京事件というのは、北伐途上の国民革命軍が南京を占領した際、列国領事館が襲撃に会い暴行・略奪をうけたという事件です。英米軍艦は蒋介石軍の本拠地を砲撃してこれに軍事的圧力を加えましたが、日本の軍艦は「尼港事件」の教訓から十数万の居留民に危害が拡大することを恐れて砲撃を控えました。また、日本領事館でも無抵抗主義をとったことから、現場にいた海軍大尉も居留民と共に暴行・掠奪を受けることになりました。そのため、彼は帰艦後、これを帝国軍人として屈辱に耐えないとして割腹しました。

 この事件を機に、幣原外交を非難する世論が急速に高まっていきます。各新聞はセンセーショナルに支那兵の残虐を報道し、激越な言葉で幣原の無為を論難しました。また、金融恐慌問題を討議中の枢密院でも、南京事件を中心とする若槻内閣の対支外交批判が集中し、「なかでも枢密顧問官の伊東巳代治は、率先して幣原外交を罵倒した。論旨は、無抵抗主義は本帝国の威信を傷つけ、軍の士気を阻喪させ、中国における日本人の生命財産を危うくしている。国民党の革命運動は北支に及ぶ趨勢であるが、その背後には第三インターナショナルの共産勢力がある。これに対する政府の認識は甘い」というものでした。(『幣原喜重郎とその時代』p293)

 こうして、ワシントン会議(1920)以降、第一次若槻礼次郎内閣まで、幣原喜重郎が主導した国際協調外交、日中友好外交、内政不干渉外交は、田中義一(外相兼任)内閣(1927.4)の「積極外交」に取って代わられることになります。この田中内閣の「積極外交」とは、中国における日本人居留民の生命財産や権益(条約によって認められたもの)を守るためには、必要があれば出兵してでもそれを守る(「現地保護政策」)というもので、特に、満洲における「特殊権益」を守るためには、その地区の治安維持のための積極的な役割を果たす、というものでした。

 ところが、こうした田中義一内閣の「積極政策」は惨憺たる結果をもたらしました。おりしも、1928.2から蒋介石による中国統一をめざす第二次北伐が始まっており、4月には早くも山東省の境に達していました。田中内閣は居留民の「現地保護政策」をとっていたため再び山東出兵(4.20)しました。この時、蒋介石軍は済南に平和的に入城しますが、5月3日に発生した南軍暴兵による日本人に対する掠奪・暴行事件がエスカレートして日本軍との全面衝突となり、5月8日には日本軍が支那軍の立てこもる済南城を砲撃、11日これを占領するという「済南事件」が起こりました。(死亡者は日本軍二百三十名、中国軍二千名、日本人居留者十六名)

 この「済南事件」は、その後の日中関係の大きな転機となります。中国は、日本権益に対する組織的なボイコット運動で対抗するようになり、日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米マスコミに向かって日本を非難し、日本を孤立させる政策をとるようになりました。特に、日本軍の行動は張作霖政権を応援するために、意図的に南軍の北進(北伐=中国統一)を妨げるものであるという推測も行われ、中国の国民感情をますます刺激しました。それまでは中国の排外運動といえば英国が主たる目標でしたが、一転して日本が最大の敵となりました。(上掲書p296)

 このことについて幣原は、「日本には、もともと北伐軍の進路を妨げて中国の内政に干渉する意図があったとも思われない。それならば、居留民(約2,000人)をしばらくの間青島など安全な場所に避難させておけばよかった。それなのに政府は、将来どうするかの深い考えもなく突如出兵して、現地保護策をとった。その結果、国庫の負担はすでに六、七千万円に達し、将卒の死傷も数百名を下らない。そしてわが居留民は財貨を略奪され虐殺陵辱にあったものは少なくない惨状を呈している。」と批判しています。(慶應義塾大学での講演、上掲書297)

 また、1929年の貴族院における質問に答えるかたちで「南京事件では特に出兵もせず、日本人には一人の死者もなかった。しかるに済南事件では出兵したがためにかえって多くの死傷者を出したのは皮肉である。田中内閣の山東出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果、多年築かれた日支両国の親善関係を根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と嘆き、「これは畢竟、内政上の都合(世論におもねったということ=筆者)によって外交を左右し、党利党略のために外交を軽視した結果であると信ずる」と述べています。(上掲書p298)

 だが、はたして、こうした幣原の「人間の善意と合理主義への確信」に基づいた対支外交で、日本の満州における「特殊権益」は本当に守れたのでしょうか。幣原は、「我々は支那における我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加え、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります。」(『大東亜戦争への道』p250)と述べています。しかし、こうした幣原の外交姿勢に対して、特に、自分たちの生活が直接脅かされていると感じていた中国在留邦人と日中ビジネス界から激しい批判がわき起こりました。

 田中内閣は、こうした幣原の軟弱外交に対する批判を背景に、幣原外交の不干渉主義を離れ、在留邦人の「現地保護主義」を標榜するかたちで登場しましたが、これが中国側との衝突を招くことは不可避でした。では、一方、仮に幣原のいうように「現地保護主義」を抑えて不干渉主義を貫いたとした場合、はたして、幣原が言うような合理主義に基づく満州権益の主張は、中国の国権回復運動のうねりに抗し得たでしょうか。これは双方によほどの良識と指導力があってはじめてできることで、その意味では「悲劇は運命づけられていた」と岡崎久彦氏は述べています。(『前掲書』p288)

 済南事件の後、蒋介石の軍隊は済南を迂回して北上を続けました。北京の張作霖軍は風前の灯となっていました。この時、日本軍が最も心配したのは、戦乱が満州に及んで日本の権益が害されるということでした。そこで、田中は1928年5月18日、張、蒋双方に対して「もし、戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持のために適当にして有効な措置をとらざるをえない」と公式の覚書きで警告しました。その一方で、北京の芳沢公使を通じて張作霖に対して、戦わずに満州に引き上げて満州防衛に専念するよう説得しました。

 この時、田中首相は、「いざという場合の用意はしつつも張を平和利に満州に撤退させて、すでに話し合いが軌道に乗っている満州五鉄道(吉会線の内敦化、図們間、延海線、吉五線、長大線、洮索線の五線で、正式の外交ルートを通さない秘密交渉により、山本条太郎が張作霖に無理矢理ねじ伏せる形でのませたもの=筆者)などの日本の権利を張に守らせ」ようとしていました。そしてその説得が成功して、張は北京から引き上げ京奉線で奉天に帰る途中、満鉄とクロスする地点で陸橋下にしかけられた爆薬により列車ごと爆破されて死亡したのです。(満州某重大事件」1928.6.4)

 これは、関東軍の河本大作高級参謀が引き起こした事件だったのですが、その目的は、張作霖抹殺により東北三省権力を中小の地方軍閥に四分五裂させて満州の治安を攪乱し、関東軍出動の好機を作為するということにありました。しかし、奉天軍が反撃を抑制したことや、ごく少数による計画・実行であったために武力発動には至りませんでした。(下線部挿入、相当部分削除8/21)張作霖の死後、田中は息子の張学良をたてて、今まで通りの計画を推進しようとしましたが、逆に、張学良は蒋介石に恭順の意を表し、七月末には中華民国の国旗、青天白日旗が全満州に翻ることになりました。ここに関東軍の夢も破れ、こうして満州事変への道が開かれることになったのです。

2008年7月25日 (金)

満州問題(3)―幣原協調外交から自主外交への転換

*説明のためのパラグラフの挿入・追加を行いました。7/26

 前回、満州問題の処理をめぐる国民の意識の変化、つまり国際協調主義を基本とした幣原外交による問題解決方法から、石原完爾ら陸軍首脳による満州占領という問題解決方法に、なぜ急激にシフトしていったか。これが、日本近現代史の悲劇を考える上で最も重要なポイントだと申しました。この原因を、軍(この場合は陸軍ですが)の「帝国主義」に求めるだけで済むならことは簡単です。もし、そうなら、そうした軍の独走を許すことになったその原因を突き止めさえすればよいからです。

 こうして、その原因とされてきたものが、軍の「統帥権」や「軍部大臣現役武官制」の問題です。また、明治憲法には内閣や首相の規定がなく、組閣の大命降下を受けた人が総理大臣となるが、国務大臣の任命権は持たなかったという明治憲法の欠陥も指摘されます。(『日本史から見た日本人 昭和編』渡部昇一)確かに、その後の軍部の専横には目に余るものがありますから、こうした指摘は当然ですが、より重要なことは、当時の大多数の国民が、こうした軍部の考え方や行動を支持したということです。この事実を閑却すべきではありません。

 では、一体なぜ当時の日本人は、そんなに満州にこだわったのでしょうか。もし、この問題を、幣原が主張したように経済合理的に処理できていたら、日中戦争も対米英戦争もしなくて済んだはずです。それがどうして武力による満州占領、そして満州国の独立へと進んでいったのでしょうか。再びいいますが、こうした考え方が、当時の軍人だけの妄想であったならばことは簡単です。だが事実はそうではなかった。当時の日本人のほとんどがこれを熱烈に支持したのです。

 次の文章は、1933年2月14日に発表された、国際連盟による満州事変に関する調査報告書、いわゆる「リットン報告書」からの引用ですが、以上提示した疑問についての、客観的かつ周到な考察がなされていますので紹介します。実は、日本は、この「報告書」に反発して、その後国連を脱退することになるのですが、これは決して日本批判に終始したものではない、ということにご注目下さい。

(第三章一節)
満洲における日本の利益、日露戦争より生じた感情
 満洲における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度もまったく違う。一九〇四から五年にかけて、奉天や遼陽といった満鉄沿線の地、あるいは鴨緑江や遼東半島など、満洲の礦野で戦われたロシアとの大戦争の記憶は、すべての日本人の脳裡に深く刻み込まれている。日本人にとって対露戦争とは、ロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争、生死を賭けた戦いとして永久に記憶され、この一戦で十万人の将兵を失い、二十億円の国費を費したという事実は、口本人にこの犠牲をけっして無駄にしてはならないという決心をさせた。
 しかも満洲における日本の権益の源泉は、日露戦争の十年前に発している。一八九四年から五年にかけて、主として朝鮮問題に端を発した日清戦争は大部分、旅順や満洲の礦野で戦われ、下関で調印された講和条約によって遼島半島は完全に日本に割譲されたのである。それに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の放棄を強制してきた〔三国干渉〕が、日本人にすれば、戦勝の結果、日本が満洲のこの部分〔遼東半島〕を獲得し、これによって日本が同地方に得た特殊権益はいまなお存続しているという確信に変りはない。

満洲における日本の戦略上の利益
 満洲はしばしば「日本の生命線」といわれる。満洲は、現在日本の領上である朝鮮に境を接している。シナ四億の民衆がひとたび統一され強力になって、目本に敵意をもって満洲や東アジア一帯に勢力を仲ばす日を想像することは、多くの日本人の平安を乱すことになる。だが、日本人が国家存続の脅威や自衛の必要を語るとき、彼らがイメージしているのはロシアであって、シナではない。
 したがって満洲における日本の利益のなかで根本的なのは同地方の戦略的重要性だ。日本人のなかには「ソ連からの攻撃に備えるために満洲に堅い防御線を築く必要がある」と考えるものがいる。彼らは、朝鮮人の不平分子が沿海州にいるロシアの共産主義者と連携して、将来、ロシア軍の侵入を誘導したり、それに協力したりすることをつねにおそれている。
 彼らは満洲をソ連やシナとの緩衝地帯と認めている。とりわけ日本の陸軍軍人は、ロシアとのシナとの協定によって満鉄沿線に数千人の守備兵を駐屯させる権利を得たものの、これは日露戦争における莫大な犠牲の代償としては少なすぎるし、北方からの攻撃の可能性に対する安全保障としても貧弱にすぎると考えている。

満洲における日本の「特殊地位」
 日本人の愛国心、国防の絶対的必要性、条約上の特殊な権利等、すべてが合体して満洲における「特殊地位」の要求を形成している。日本人の懐いている特殊地位の観念は、シナと他の諸国とのあいだの条約や協定中に規定されているものとはまったく違う。日露戦争の遺産としての国民感情、歴史的な連想、あるいは最近の二十五年間における満洲の日本企業の成果に対する誇りは(なかなか捕捉しにくいものであるが)「特殊地位」の要求の現実的な部分を形づくっている。したがって日本政府が外交用語として「特殊地位」という語を使用するとき、その意味は不明瞭で、ほかの諸国がその真意をつかむことは不可能ではないにしても困難である

 以上が、満州において日本が有する「特殊地位」についての説明です。(アンダーライン部分要注意)そしてこれがシナの主権と抵触すると次のように述べています。(挿入7/26)

満洲における日本の特殊地位の要求はシナの主権および政策に抵触する
 (しかし)こうした満洲に関する日本の要求はシナの主権に抵触し、国民政府の願望とも両立しない。というのも国民政府はシナ領土を通じていまなお諸外国がもっている特権を減らし、将来、これらの特権が拡張されることを阻止しようとしているからだ。日支両国がそれぞれ満洲において行おうとしている政策を考察すれば、衝突がますます拡大されることは明らかである。

 そして、ここから生じる日支間の利害の対立をどう調整し、日本の国益を守っていくかとということを巡って、幣原喜重郎の「友好政策」と田中義一の「積極政策」が対立したわけですが、その違いは「大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度」の違いであり、その目的―「日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護する」―は共通していたと、次のように述べています。(挿入7/26)

満洲に対する日本の一般的政策
 一九○五年から柳条湖事件にいたるまで、日本の諸内閣は満洲において同一の目的をもっていたように見えるけれども、その目的を達成する方法に関しては見解を異にし、治安維持に関しても日本の取るべき責任の範囲に意見の相違があった。満洲における日本人の一般的目的は、日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護することにあった。こうした目的を実現するために取られた諸政策すべてに共通する主な特徴は、満洲および東部内モンゴルをシナの他の地域とはっきりと区別する傾向で、それは満洲における日本の「特殊地位」に関する日本人の考え方から生じる当然の結果であった。
 日本の諸内閣が主張してきたそれぞれ特別な政策――たとえば幣原〔喜重郎〕男爵のいわゆる「友好政策」と、故田中〔義一〕男爵のいわゆる「積極政策」とのあいだにいかに相違があったとしても、前記の特徴はつねに共通していた。「友好政策」はワシントン会議のころからはじまり、一九二七年四月ごろまで継続され、その後「積極政策」に変り、一九二九年七月にまた「友好政策」に戻り、これは一九三一年九月まで外務省の正式政策として継続されてきた。
 両政策の原動力となる精神にはいちじるしい相違があった。「友好政策」は、幣原男爵の言を借りれば「好意と善隣の誼を基礎」とするが、「積極政策」は武力を基礎とするからだ。だが、満洲において取るべき具体的方策に関する違いは、大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度のいかんに拠るものであった。
 田中内閣の「積極政策」は満洲をシナの他の地域から区別することを強調し、その積極的な性質は、「もしシナの動乱が満洲やモンゴルに波及し、その結果として治安が乱れ、満洲における日本の特殊地位や権益が脅威を受けるようになった場合、その脅威がどの方面からこようとも、日本は敢然と権益を擁護すべきだ」という率直な宣言によって明らかだろう。田中政策は、それ以前の諸政策が目的を満洲における日本の利益の擁護に限定していたのに反し、満洲における治安維持のつとめも日本国が担当すべきだということを明らかにした。(後略)

 さらに、日本の満州におけるこうした「特殊地位」の主張が、ワシントン会議における九カ国条約の精神―シナの領土保全と門戸開放―に抵触するのではないか、という疑問については次のように説明しています。(挿入7/26)

ワシントン会議の満洲における日本の地位および政策に対する影響
 ワシントン会議はシナの他の地方の事態に大きな影響を及ぼしたが、満洲においてはほとんど変化はなかった。一九二二年二月六日の「九か国条約」にはシナの領土保全と門戸開放に関する規定があり、条文上、その効力は満洲にも及ぶはずだったが、満洲については日本の既得権益の性質や範囲に考慮して、単にその制限的適用がなされただけだった。前述したように、日本は一九一五年の条約によって借款や顧問に関する特権を正式に放棄したが、「九カ国条約」は満州における既得権益(関東州の租借地や満鉄及び安奉鉄道の日本の所属期限を99年に延長すること、南満州の内部の土地を賃借する権利及び南満州の内部において旅行、居住、営業する権利、南満州において各種商工業上の建物を建設するため,または農業を経営するため、必要とする土地を商租する権利等=筆者)にもとづく日本の要求を実質上縮小することはなかった。」

(以下追加挿入7/26)
 以上が、「リットン報告書」に示された、満州における日支間の基本的対立構造ですが、これが、うち続く中国国内の内戦や、胎動する中国のナショナリズムに刺激されて、激しい反日運動・反帝国主義運動へと高まっていくのです。こうした極めて困難な状況の中で、いかに日本の実益(特に経済的)増進を計っていくかが、当時の日本外交の最重要課題でしたが、幣原は、この課題に取り組む外交の基本姿勢を、就任演説の中で次のように述べていました。

 「由来支那と政治上経済上および文化上、最も密接な関係を有する日本としては、支那の政情が一日もすみやかに安定することを希望する。近年支那の諸地方に外国人の被害事件が頻発し、支那の不満足なる政情は外国人の注意をいっそうひくことになったが、日本としては、同情と忍耐と希望をもって、支那国民の努力を観望し、その(統一の)成功を祈る。日本は機会均等主義のもとに、日安両国民の経済的接近を図る。ワシソトソ会議での諸条約は日本の政策と全然一致するものであるから、日本は同条約の精神をもってこれにのぞむ。」

 その後、支那に第二次奉直戦争が始まり、張作霖が劣勢となり満州に直隷派が侵入してくるような情勢になると、国内でも「日本は列強と異なり、支那には特殊利益を有する以上、内政不干渉に固執する必要はなく、満州の秩序を維持するためには実力行使も辞さない覚悟でなければならない」(『外交時評』)といった、中国内戦への干渉出兵を求める意見が強く出されるようになりました。関東軍がこの急先鋒に立ち、参謀本部がそれに続き、外務省がこれを牽制するというパターンでした。(『満州事変への道』p158)

 議会でも、「われわれの満蒙の権益を守ったか」とか「満蒙の秩序維持をどうするか」といった質問が出されましたが、幣原は「満蒙の権益と申されましても、具体的には満鉄沿線以外において、われわれはなんの権利利益ををもっていないのであります。・・・私は満蒙地方における治安維持は当然支那の責任であると申しておる。これは当たり前のことであると思う。支那の主権に属することならば当然支那の責任である。」また、張作霖支援についても、「満州の一部の情勢のみを見て帝国の態度を決するがごときは、はなはだ不得策にして、かつ危険なる方法なりと思考す」と答えています。(上掲書p162)

 実際、こうした幣原外相の外交方針の転換によって、日中関係が非常に好転したことも事実です。堀内干城は『中国の嵐の中で』という回顧録で次のように述べています。幣原外交の時代に「日本の侵略政策、高圧政策は180度の転換を遂げて、全中国、特に当時台頭しておったヤングチャイナの間に非常な好感をもって迎えられた。・・・上海をはじめ、各大都市の排日は暫時影をひそめて、親日の空気が台頭してくるという極めて愉快な状況であった。」おかげで、対中貿易額は1921年の二億八千七百万円から1925年には四億六千八百万円に伸張した、といいます。(上掲書p182)

 しかし、南京事変などを経て、対支強攻策を唱える国内世論の『幣原外交』に対する批判と不満はますますつのっていきました。当時最も進歩的な新聞とみられていた『朝日新聞』でさえ「幣原外交」を「自由主義かぶれ」と社説で攻撃するありさまでした。幣原のとった一つ一つの事件に対する措置を検討してみれば・・・独自の外交理念に基づき、日本の実益(特に経済的)増進を計ろうとする、むしろ「自主外交」の感が強かったのですが、世論はそう受け止めませんでした。こうして幣原外交に対する「軟弱外交」「迎合外交」の非難が激しくなるにしたがい、彼らの間には「自主外交論」を求める声がますます高まっていったのです。(上掲書p182)

 この「自主外交」を求める世論が、「満蒙問題の根本解決」を標榜する軍の「満州占領計画」を呼び込む事になるのです。そして軍内には、そのためには何をしてもよい(張作霖爆殺事件はその第一歩)という下剋上的考え方が生まれ、中央政府がそれを追認しない場合は「満州国を日本から独立させ、そこを革命の拠点として日本に政治革命を引き起こす」(3月事件や10月事件)」といったクーデターが企図されるに至りました。また、それが露見しても隠蔽し、関係者は処罰されないどころか栄達をほしいままにする、といったむちゃくちゃな事態に陥るのです。(7/27追記)

 山本七平は、こうした事態を、「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。(「山本七平学のすすめ」語録「日本軍人国は日本一般人国を占領した」)

2008年7月18日 (金)

満州問題(2)―幣原協調外交はなぜ国民の支持を失ったか

*7/20末尾2パラグラフ挿入・削除しました。

 これまで見てきたように、私も、”ワシントン会議以降、『幣原外交』による「満州問題」の処理ができていたら・・・”と思うわけですが、結果から見ると、いささかこれは楽観的過ぎたのではないかと思います。そもそも、この「満州問題」のポイントは、中国が条約上で認められた日本の満州ににおける既得権益を組織的に侵害しているというものでした。こうした考え方の背後には、先に述べたように、日本が日露戦争において膨大な人的犠牲を払ったという思いがあったことは疑いありません。

 そして、こうした考え方は、当時の日本の中正穏健な指揮者たちにも共有されていました。

「たとえシナの民族統一の願望に同情があったとしても、ちゃんと礼儀を守り、懇願してくるのならよいが、とにかく南満州の権利は当然シナに帰属すべきだと言って既存の権利を取りに来るのでは、こちら側に超人的な善意がないかぎり、ああそうですか、といって承認し得ないのは当然である。まして南満州の日本の権利はロシアから譲り受けたものであって、英国、フランスのように直接中学から奪取したものではない」(河合栄二郎)

 そして、幣原喜重郎は、この問題を、ワシントン会議で確認されたウィルソン的理想主義に基づく国際的法規範の枠組みの中で処理しようとしたのです。それは中国の領土保全を約束した九カ国条約においても、その第1条第4項で、「友好国の臣民または人民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため、中国における情勢を利用すること、およびこれら友好国の安寧に害ある行動を是認することを差し控えること」と規定し、これを列強の中国における既得権を侵されない保証としていたのです。(『戦争の日本近現代史』p269)

 また、幣原は、1922年2月2日極東総委員会において次のように中国の態度を非難しています。

 「支那が自由なる主権国として締結したる国際的約定を廃棄せしむが為、厳にとらむとする手段については、同意を表するを得ざるものなり〔中略〕(しかし)何国と雖も、領土権其他重大なる権利の譲渡を容易に承諾するものに非ざることは言を俟たず。若し条約に依り厳然許与せられたる権利が、許与者の自由意志に出でざりしとの理由を以て、何時にてもこれをこれを廃棄し得べきものとするの原則を一旦承認せられむか、これ亜細亜、欧羅巴其他至る処に於ける現存国際関係の安定に、重大なる影響を及ぼすべき極めて危険なる先例を開くものなり。」(上掲書p270)

 おそらく、このあたりまでは、こうした日本の言い分は十分説得力を持っていたのではないかと思います。幣原は、ワシントン会議が終わる直前の会議で「日本は条理と公正と名誉とに抵触せざる限り、できうるだけの譲歩をシナに与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情及び好意の大義に照らして無益になるまいという考えの下に欣んでいるのである」(『幣原喜重郎とその時代』p198)とその中国に対する「思いやり」の心境を吐露しています。

 そして、幣原は、こうした考え方に立って、その後、約10年間(田中義一内閣の時を除いて)、いわゆる「新外交」と称する「幣原外交」を押し進めていくのです。しかし、こういった幣原の理想主義は、次に述べるような内外情勢の変化の中で、次第に国民に対する説得力を失っていきます。その一方で、その抜本的解決を軍に求める空気が次第に醸成されていきます。そこで登場したのが石原完爾という予言者(日蓮宗徒)的人物で、彼は、幣原とは全くその質を異にする国際関係のパラダイム(西洋の覇道文明と東洋の王道文明が最終戦争を争うというもの)を提供し、そのための抜本解決策を立案します。

 こうした石原の考えは一見荒唐無稽なもののように見えますが、必ずしもそうではありません。「彼はまず日露戦争の勝利に疑問を持ち、もしロシアがもう少し戦争を続けていたならば日本の勝利は危うかった」点に着目し、またナポレオン戦史を研究して、勝敗の鍵は膨大な資源を要する持久戦に勝てるかどうかである、と考えました。そして、戦争は先に述べたように第一次世界大戦で終わるものではなく、最終戦争を控えている。そして、それに勝つためには、まず、満州を北満州まで押さえてロシアに対する防衛を固め、さらに満蒙、朝鮮、日本の資源を動員してアメリカの大戦(持久戦)に備えるべき、としました。(前掲書p348)

 また、彼が満州事変を起こした昭和6年当時は、「ソ連は第一次五カ年計画が未達成であり、外に力を用いる余力はなく、石原はこれを絶好のチャンスと考えた。また、アメリカは大恐慌の最中で外の争いにかかわる余裕はなく、蒋介石は大規模な掃共作戦に従事中であり、張学良は主力を北京周辺に集めていた」(前掲書p349)こうして石原完爾は、昭和3年に関東軍参謀として赴任して以降、満州占領のための作戦、占領後の具体的計画案まで緻密に練り上げ、これを実施に移すタイミングを計っていたのです。

 もちろん、こうした破天荒な計画が、軍はもちろん一般国民の支持を受けるようになるまでには、次に述べるような、いわゆるワシントン会議で確認された国際協調路線を根底から覆す国際情勢の変化があります。が、最大の問題は、私は、やはり当時の日本人の思想・心情にあったのではないかと思います。確かに、このあたりは運命的としかいえない部分があるのですが、事実の問題として、その後の軍のテロリズムを支持し、国際社会の支持を失わせる道を選択したのはマスコミを含めた国民自身だったからです

 この点、満州事変が柳条湖における満鉄線路爆破という謀略で始まった事は、そうした行動に出ざるを得ない中国側の「挑発」があったにせよ、「国際法上」言い訳のできない致命的な瑕疵となりました。また、こうした(「国際法」無視の)考え方が当時の軍を支配していたことは、この3年前に起こった張作霖爆殺事件における軍の対応を見ればよくわかります。軍は、この事件(当時、満州全体の支配者であり北京政府大元帥の地位にあった張作霖を奉天郊外で列車ごと爆殺した。*文章訂正7/21)の実行犯河本大作(大佐)を徹底してかばい、付近鉄道の警備不備という行政処分ですましたばかりか、その4年後の昭和7年には満鉄理事の要職に任命しているのです。

 ここに、「尊皇愛国の純粋な動機をもっていさえすれば何をしてもかまわない」(「目的のためには手段を選ばない」、あるいは、「動機が純粋であれば何をしてもよい」を修正7/21)という、恐るべき法秩序無視、下剋上的思想傾向が、当時の軍を支配していたことに気づきます。そして、こうした思想傾向は何も軍だけに特有なものではなく、国民一般の心情にも根強く支えられており、これが軍部独裁を生み、昭和の激動期を迎えてその後の日本の選択を狂わせていくのです。一体、これはどうした事か。なぜ大正デモクラシーという政党政治が花開いた直後に、こうした過激思想の急展開が起こったのか。実はここに昭和史の謎が隠されているのです。(下線部挿入7/20)。

(以下のパラグラフは、これだけではわかりにくいと思いましたので、追って詳しく説明する事として、今回は削除させていただきます。)

2008年7月11日 (金)

満州問題(1)―日本を破滅に導いた満州問題

 いままで、日露戦争以降の「躓き」として「日韓併合」と「21箇条要求」について述べてきました。そこで最後の問題が「満州支配」の問題です。結局、この問題の処理がうまくできなかったことから、満州事変が起こり(1931.9.18)、日中戦争となり(廬溝橋事件(1937.7.7)、さらに、対米英戦争(真珠湾攻撃1941.12.8)、ソ連の対日参戦(1945.8.9)、ポツダム宣言受諾(1945.8.10)となるのです。(8月15日は終戦の詔勅発表の日)

 ここで、この間の人的被害がどれほどのものであったか、概略見ておきたいと思います。ただし、日本や米英の被害者数についてはかなり正確な統計が残されていますが、中国人の「死者数及び死傷者数については詳細な調査は不可能であり、中国側の提出する数字の信頼性も不明である。」(wikipedia「15年戦争」)とされています。そこで、ここでは『平凡社世界大百科事典』の「太平洋戦争」の項目の記述を引用しておきます。

 「十五年戦争の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名( 括弧内筆者注記削除10/27),外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。このうち満州事変と日中戦争(s12~16)における死者はそれぞれ約4000名と約18万9000名であったから,太平洋戦争の犠牲者がいかに多かったかがわかるであろう。しかも特徴的なことは,太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期と言われた1944年10月のレイテ決戦以後に出ているという事実である。

 これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したと言われているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった。」(ちなみに、太平洋戦争における米軍の死者は約35万4千人、イギリス軍の死者は約8万6千人wikipedia「太平洋戦争」)

 また、敗戦後のソ連軍によってシベリアに抑留された日本人は約60万人とされますが、wikipedia「シベリア抑留」の項では、「従来死者は約6万人とされてきたが実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」と説明されています。

 これらの数字がいかに桁はずれのものであるかは、日清戦争における日本軍の死傷者数約1万7千人(内死者約1万3千人)、日露戦争の約23万8千人(内死者約11万8千人)と比較してみるとよく分かります。また、ここで注目すべきことは、日中戦争(s12~16)による日本軍の死者数は約18万人ですが、太平洋戦争による死傷者数は300万人に達するということ、かつ、その大半は、昭和19年10月のフィリビンのレイテ戦以降に生じているという事実です。また、その多くは戦闘によるものではなく飢餓やマラリア等の病気による死亡、あるいはバーシー海峡などでの米軍潜水艦による兵員輸送船の撃沈による溺死だということです。(『語録』「バシー海峡の悲劇」参照)
*一橋大学名誉教授藤原彰氏によるとアジア太平洋戦における軍人軍属戦死者230万の内約6割140万人が餓死戦病と栄養失調による病死だということです。なお無差別爆撃等による一般市民の死者数は約80万人です。(*部分10/28追記)

 さて、では、この最後のソ連によるシベリア抑留は論外としても、これだけの甚大な被害をもたらした日中戦争及び太平洋戦争(日本は1941.12.11以降大東亜戦争と呼称)の原因は一体何だったのでしょうか。近年、これをアメリカや中国の挑発とする説が多く聞かれますが、私は、その淵源は、日本の「満州支配」にあったのではないかと思います。前回紹介したように幣原喜重郎は、ここで生じた日中の対立構造を、中国の主権尊重と内政不干渉を基本に、国際規範に則った協調外交によって乗り切ろうとしました。
 
 幣原は、満州事変の直前に次のような自説を開陳しています。「満州に求めるものは領土権ではなく『日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず相互有効強力のうえに満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況』の確立であり、『これは少なくとも道義的に当然の要求と考える』」。そして、鉄道については、中国は協定によって満鉄の競争線は敷設しないと保証しているのだから、「かりそめにも日本の鉄道を無価値にするような路線を建設できないことは信義の観点からいっても自明の理である」(『幣原喜重郎とその時代』p344)

 つまり、満州問題を、経済・貿易上の問題として処理できると考えていたのです。そうした考えは幣原にはワシントン条約締結時から一貫したものでした。「・・・日本は、また支那において優先的もしくは排他的権利を獲得せんとする意図に動かされていない。どうして日本はそんなものを必要とするのか。・・・日本の貿易業者及び実業家は地理上の位置に恵まれ、またシナ人の実際要求については相当知識を有っている」。だから、自由平等な競争ならば日本は勝てるのだから、特権は必要としないのだ」と。(『上掲書』p199)

 だが、こうした幣原の「自由貿易」を基礎とする満州問題の解決方法は、次第に、その後の国際的な政治・経済環境の変化や、それに対して過激に反応する国内世論の変化に対応できなくなります。このことについて岡崎久彦氏は、幣原が、ワシントン会議でアメリカのウイルソン主義にもとづく理想主義に流され、バランス・オブ・パワーによる平和維持という現実を軽視したことが、日英同盟を失効させることとなり、それが、その後の日本の国際的孤立を招くことになった批判しています。

 この間の事情をもう少し説明すると次のようになります。つまり、幣原が信じたワシントン体制下の国際協調主義というのは、アメリカのウイルソン主義に基づくもので、国際秩序の基礎を、民主主義、集団安全保障、民族自決に置くものでした。しかし、当時、各国の置かれた政治・経済・社会状況は、帝国主義の現実や共産革命の成功もあって混沌としており、とても、各々の国益の相違を乗り越えて、こうした原理のもとに国際秩序を維持することはできなかったのです。(『上掲書』p202)

 そのことは、「民主主義」という考え方一つをとっても、その困難性は容易に想像できます。つまり、これは世論を無視しえなくなるということで、事実、こうした幣原の国際協調外交は、その後の国際状況の変化の中で、「軟弱外交」あるいは「国辱外交」という世論の悪罵にさらされ退陣を余儀なくされます。また、「民族自決」という考え方についても、中国はこうした考え方に立って、いわゆる「革命外交」を推し進め、それまで国際条約で承認された外国の権益一切を否認するようになります。

 こうして、満州における特殊権益をめぐる日本と中国の対立は、全く調整不可能なものとなり、ここに新たに「満州の軍事的占領」による問題解決をめざす軍人グループの台頭を見ることになるのです。いわく、満州における日本の権益は、日露戦争における20万を超える日本軍人の生命の犠牲を払ってロシアより得たものであり、それを放棄することは断じてできない、とする考え方です。そして、こうした軍の対支強攻策を世論が熱狂的に支持し、政治の押さえが全く効かないなります。

 では次に、こうして幣原の国際協調外交を破綻させることとなった、ワシントン会議から満州事変に至るまでの国際及び国内情勢の変化を順次見て行くことにしましょう。

2008年7月 4日 (金)

日本近現代史における躓き―「21箇条要求」

 日露戦争後の「日韓併合」に次ぐ「躓き」は、中国の袁世凱政権に対する「21箇条要求」です。その内容が中国人にとってあまりに露骨な帝国主義的要求であったため、この条約妥結日(5月9日受諾)は中国の「国恥記念日」となり、その後の反日運動の基点とされるに至りました。

 この「21箇条要求」とは次のような経緯で出されたものです。
 1914年7月28日に、欧州において三国同盟国と三国協商国間の戦いとなる第一次世界大戦が勃発しました。この時、苦境に立った協商側のイギリスが日英同盟により日本に参戦を求めてきたことから、日本は6月23日ドイツに対して宣戦布告し、中国におけるドイツの租借地である膠州湾や青島等を占領しました。その後、日本は、これらのドイツ利権の引き渡しとともに、当時の中国の袁世凱政権に対して次のような五号よりなる「21箇条要求」をしました。(1915年1月18日)

 第一号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める四ヵ条。
 第二号は、旅順・大連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の期限の九十九      ヵ年延長、南満洲・東部内蒙古での日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘に於ける日本の優先権を要求する七ヵ条。
 第三号は、漢冶萍公司を適当な機会に日支合弁とすることなどを求める二ヵ条。
 第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲せぬことを求める二ヵ条。
 第五号は、支那の主権を侵害するとされた七ヵ条の希望(要求ではない)事項で、
  第一条 日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること。
  第二条 日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること。
  第三条 必要の地方で警察を日支合同とすること。
  第四条 日本に一定数量の兵器の供給を求めるか支那に日支合弁の兵器廠を設立すること。
  第五条 南支での鉄道敷設権を日本に与へること。
  第六条 福建省の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること。
  第七条 支那での日本人の布教権を認めること。

 問題は、特にこの第五号にありました。日本は、これは要求ではなく希望条項としていましたが、同盟国である英国にはこの部分を除いて事前に通報していました。しかしこれが漏れ、また、それがあたかも中国の保護国化をめざすような内容になっていたため、中国全土は激昂して反日運動が広がりました。

 問題は、なぜこのような、中国を半植民地化するような、天下の非難を浴びるに決まっている要求を付け加えたのかということですが、結局、「陸軍の単純強引な強行突破、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省(元老を排した中堅外務官僚が作成)」の責任というほかありません。(『百年の遺産』岡崎久彦)

 結果としては、英国、アメリカからの強い反対もあり、この第五号を除いて、5月7日に最後通牒を発し5月9日に中国側に受諾させました。しかし、この最後通牒というのも、あたかも呑まなければ戦争を仕掛けるぞと脅しているようなもので、内外からごうごうたる非難を浴びました。一説では、これは袁世凱から頼まれたものだともいいますが、そのことによる非難は日本が一身に浴びるわけで、これも「21箇条要求」に輪をかけた拙劣というほかありません。(『幣原喜重郎とその時代』)
 
 当時の議会で原敬は大隈内閣弾劾演説で次のように批判しています。
「欧州の大乱で各国は東洋に手を出すことができない。この時に日本が野心を逞しくして何かするのではないかということはどの国でも考えることである。今回の拙劣な威嚇的なやり方はこうした猜疑の念を深くさせるものである。また中国内の官民の反感も買っている。もともと満蒙における日本の優越権は、中国も列強も認めている。山東も日独が戦争した以上当然の結果である。こんなことは、今回のような騒ぎを起こして世界を聳動させずとも、目支親善の道を尽せば談笑の間にもできたことである。世間はこの外交の失態をはなはだ遺憾に感じている。要するに今回の事件は親善なるべき支那の反感を買い、また親密なるべき列国の誤解を招いた。」 
 
 この原敬の批判にあるように、この「21箇条要求」を基点として、中国の反日運動が激化することになります。また、この「21箇条要求」は当時中国や列強にどのように受けとられていたかという事について、かってイザヤ・ベンダサンは次のように指摘していました。(『日本人と中国人』p287~288)

 「日本はまず日露戦争でロシアの利権(遼東半島租借権、長春―旅順間東清鉄道の譲渡等)を継承したが、この際中国は全く無視され、継承の事後承諾を承認させられるにとどまった。そして第一次大戦でドイツの利権(膠州湾租借権と山東省内の鉄道敷設権)を継承したが、このときは、中国政府無視は不可能であった。というのは、ロシアの関東州租借権の期限はその設定から二十五年である。日本はこれの延長に、継承したドイツの利権を利用しようとした。すなわち将来一定の条件下に膠州湾を中国に返還することを条件に、関東州の租借期限をロシアによる設定後九十九年まで延長することが交渉の主眼であったと思われる。〔()内筆者記入9/17訂正)〕

 日本は自己の提案の重要性を何ら意識していなかったように見える。それはこの提案は、日本が継承者としてでなく、新たな当事国として、中国に、差引き七十四年の利権の設定を新規に要求しているに等しいからである。しかも中国は第一次大戦においては、日本の同盟国(1917年8月14日にドイツに宣戦布告)であり、ドイツの利権は日本が干渉しなければ、そのまま中国に帰ったであろう。」

 実は、「21箇条要求」の背後には、ベンダサンが指摘しているとおり、「日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年に切れてしまう」のをなんとかして延長したいという思惑があったのです。日本はすでにイギリスが香港を根拠地としているように、日本の大陸政策の根拠地として遼東半島を整備しつつありました。そのためにこの租借期限を延長する必要があり、そのチャンスをうかがっていたのです。

 つまり、この「21箇条要求」の背後には、当時の日本の「満州進出積極論」があったのです。もちろんこの時点では、このように中国に対する帝国主義的進出をしたのは日本だけではなく、英仏米独露も同じような立場にありましたが、満州については日露の特殊範囲という地固めが進んでいました。そして、このような現実に対して、中国人のナショナリズムの高まりがあり、失われた利権回復運動として高揚していくのです。
 
 結局、これが「反日」運動へと発展していくのですが、こうした外交当局の失態をカバーし、反日運動の高まりをなんとか修復しようとする外交努力もなされています。実際、それが成功し、その後の日中関係が改善された時期もありました。その立役者が幣原喜重郎で、氏の回顧録「外交五十年」には次のようなワシントン会議(1921年11月~22年2月)における山東問題についての交渉経過が記録されています。

 「中国全権王寵恵氏は声明書を出して、日本攻撃の火蓋を切った。そして21箇条なるものは、その一服だけでも支那を毒殺することができる。それを日本は二一服も盛ったのである。その中国に与えたる苦痛の深刻なることは言語に絶するものがあるといって、アメリカの対日反感をあおった。・・・中国側委員は(中国官民の空気を反映して)山東問題を妥結する意志は初めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうという肚であったように察せられた。」(この山東問題とは、大正4年に日本政府が、日華両国間にわだかまる懸案を一掃するために中国との間で結んだ「山東に関する条約」並びに「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を巡るものです。7/7追記)

 この時幣原喜重郎は腎臓結石で苦しんでいましたが、交渉が決裂寸前となったので、病気をおして交渉に出席し次のように述べました。

 「日本は山東省の鉄道その他を、奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから、盗人でも何でもない」すると、「日本は代償を払うのですか」と質問するから、「パリの講和会議の記録を、よく調べてご覧なさい」「それならば、われわれも誤解していた」。こんな具合で・・・翌日になると、中国側の態度がガラリと変り、会議もぐんぐん進んだ。

 「山東問題とは別に、対支21箇条条約問題が、極東委員会のテーブルに残されていた。これを取り上げると、また中国の委員との喧嘩の花が咲くかもしれないというので、長いこと伏せてあった。私は病気がいくらか良くなったので、一つこの厄介物と取り組んでみる決心を決め、委員会に出席してこう発言した。」

 「どの国でも他日条約を破るつもりで、自己の意思に反するその条約を締結したことを主張するのは許されない。もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか。私は中国全権がかかる主張を敢てすることを残念に思う。いわゆる二十一箇条条約なるものも、最初提出した日本の要求事項は二十一箇条であっても、交渉中に日本が撤回しかものがたくさんある。これが全部調印せられたのではない。また調印批准された条項中でも、満州に日本の顧間を入れるなどということは、日本はいま実行を求めてもおらず、またその意思もない。しかしそれは日本が任意に実行を求めないのである。条約の神聖ということを、中国は認めらるべきである。日本はその決意によって、自らの権利を放棄することは自由であるが、中国はあくまでも条約の神聖を守るべきである」と述べ、私はさらに進んで、今日日本が条約上の権利を実行するの意思なき条項を列挙した。」

 そして、このワシントン会議において、わが国は中国の山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問招聘に関する優先権を放棄し、「他日の交渉に譲る」としていた第五号希望条項を全面的に撤回しました。

 この後、大正14年に幣原外相は、中国の関税自主権回復を提議する国際会議を提唱し、列国をリードしてその合意案を作成しました。残念ながら、中国の内政不安定で中国代表団が自然消滅したため成立しませんでしたが、「これで中国の対日感情は一変し、中国一般民だけでなく、英国代表はその後対中折衝は中国から一番信頼されている日本に任せるという態度になった」といいます。(『歴史の嘘を見破る』p70)

 しかし、これで、軍の「満州進出積極論」が収まったわけではありません。もちろん、幣原喜重郎は、先に紹介したように国際条約に基づき、両国の信頼関係の確保に努めつつ合理的にこの問題を処理しようと努力したのですが、いわゆる「満州問題」をめぐる日中双方の政治状況は、そうした冷静な交渉による問題解決を不可能にしていきました。 

2008年6月30日 (月)

岡崎久彦と山本七平の不思議な符合2

 前回、岡崎久彦氏の歴史を書く場合の基本的態度について紹介しました。要するに「特定の価値観、とくに現在われわれの生きている時代だけに特有な、しかもそれが政治の道具になっているような価値観にとらわれることなく、客観的に真実のみを求めることである」ということです。

 より具体的にいうと、「現在の概念では帝国主義が悪であることは誰も異論はないが、帝国主義の時代の人を帝国主義者といって非難するのは、中世の人を「中世的」「前近代的」と非難するのと同じで、別に間違いではないが、中世を理解しようという努力にとってマイナスにこそなれ、何のプラスにもならない。」

 しかし、「歴史の真実を追究するにあたって一番難しいのは、真実と真実の間の軽重、大小のバランスである。一つ一つの事実は真実であっても、自分の考え方に都合の良い真実だけを集めたのではバランスを失する。一部の事実だけをことさらに強調して歴史の本当の流れを見ていない。あるいは故意に曲解する歴史書が少なくない。」

 そこで、岡崎氏がこの「その時代シリーズ」を書くにあたってとった手法は、「草稿を三章ごとにまとめて数名の学識あり洞察力のある歴史の専門家の方々に読んでいただいて、セミナーを開き、『そこまでいえないのではないか』『それにはこういう反対の資料もある』というようなコメントをいただいて、『まあ、そのあたりが本当のところだろう』と言われるまで書き直す」ということでした。(以上『重光・東郷とその時代』p31~32)

 従って、このシリーズの目的は、「すでに多くの優れた学者先生たちによって研究し尽くされている」「そうした正確な事実と事実との間の軽重なバランスを見極めて、最も真実に近い歴史の流れを見いだすことにある。」「その目的を妨げる落とし穴は数多いが、木を見て森を見ないのもそのもっとも戒心すべき落とし穴の一つ」といっています。

 といっても、この本を書いた岡崎氏には、その動機となった一つの「思い入れ」がありました。それは「昭和前期に少年時代を過ごした世代として、われわれの父や祖父の世代であるこの時代の当事者たちが、逆らいようのない歴史の流れの中にあって、いかに国民と国家のために真摯に生きてきたかということをできるかぎり正確にありのままに後世に伝えるよう努力してみたい」というものでした。(前掲書p36)

 そして次の言葉は、おそらくこのシリーズを通しての岡崎氏の感想であろうかと思いますが、私もこのシリーズを読み終わって、同じような共感と感慨を新たにすることができました。

 「客観的に見て、われわれの父や祖父の世代の人びとはことごとく悲劇の人びとである。日本人としての教育を受けてその矜持と節操を守りつつ、大日本帝国の栄光の中に育ち、また大正デモクラシーの自由をも謳歌しながら、壮年以降戦争の辛酸を嘗め、戦後、それまでその中で生まれ育った社会環境や価値観が足元から崩れ落ちるのを見ながら、誇りを失ったなかで家族の生活を守るために戦わなければならなかった世代である。」(前掲書p38)

 もちろん、こうした共感と感慨を共有し得たとして、ではそこからどういう反省を導き出し有効な対策を立てるかと言うことが問題になります。私は、本稿の表題を「岡崎久彦と山本七平の不思議な符合」としましたが、その意味は、岡崎氏のこの本に述べられた、従来人口に膾炙している見方と異なる部分、例えば「大正デモクラシー」が戦後民主主義のパイロットプラントであるという評価や、「塘沽(タンク-)協定」(s8.5.31)以降「支那事変」(s12.7.7)までの四年間に経済成長の時代があった、つまり、中国との間で満州問題を解決するチャンスがまだ残っていた、とする部分など、山本七平がすでに30年前に指摘していたことを紹介するためでした。

 なぜ、山本七平がこのような今日の歴史研究の成果を先取りするような「とらわれない」見方ができたかと言うことですが、それは氏が、日本人的思考法とは別の、もう一つのユダヤ・キリスト教的伝統に基づく「対立概念で物事の実相を把握する」思考法を身につけていたと言うことと、歴史を思想史と見、その「連続の背後にあるものをいかに把握するかがその主題」(『受容と排除の奇跡』p183)と考えていたからだと思います。

 つまり、歴史を思想(=言葉)の連続、あるいは弁証法的展開(マルクスの歴史観と同じですね)と見る見方です。言うまでもなく岡崎氏も明治以降の歴史をそうした連続性の内にとらえ継承しようとしているのです。その連続性の糸を、氏は、「その時代シリーズ」で取り上げた外交官たちの情報分析と判断の連続の中に見ているのです。同時にそうすることによって、この連続性からはみ出した部分も見えてきます。(以下3行削除8/27)

 では、この連続性から「はみ出した部分」の正体は何か、実は、この部分も含めて、それを日本の歴史つまり思想史の連続性の内にとらえようとしたのが、山本七平でした。

 「明治も過去を消そうとした。当時の学生は『われわれには歴史がない』といってベルツを驚かした。戦後も戦前を消そうとした。そしてベルツを驚かした学生が前記の言葉につづけたように『われわれに歴史があるとすれば、消すべき恥ずべき歴史しかない』と考えた。・・・だが、こういう状態、劣等史観やその裏返しの優越史観、万邦無比的な超国家史観やその裏返しの罪悪史観、いわば同根の表と裏のような状態を離れてみれば、われわれは貴重な遺産を継承しているが、同時に欠けた点があることもまた認めねばならない。どの民族の履歴書も完璧なものはあるまい。諸民族の中の一民族である日本人もまた同じであって、貴重な遺産もあれば、欠けた点もあって当然なのである。要はそれを明確に自覚して、遺産はできうる限り活用し、欠けた点を補ってそれを自らの伝統に加え、次代に手わたせばそれでよいのであろう。」(『1990年の日本』p270)

 従って、私が本カテゴリー「日本近現代史をどう教えるか」で扱うテーマは、その「はみ出した部分」に焦点を当てることになります。
 

2008年6月26日 (木)

岡崎久彦と山本七平の不思議な符合

 エントリー「日本近現代史の躓き」では、主として岡崎久彦の著作を参考にしています。特に日本近現代史「その時代シリーズ」5巻本―『陸奥宗光とその時代』、『小村寿太郎とその時代』、『幣原喜重郎とその時代』『重光・東郷とその時代』『吉田茂とその時代』はこの期に活躍した外交官から見た近現代史ですが、大変面白く、ようやく納得のできる近現代史本に出会えたという感じがしました。

 岡崎氏は、『明治の教訓、日本の気骨』という本の中で、明治期に活躍した人物評をめぐって渡部昇一氏と対談をしていますが、その末尾で、歴史の見方について渡部氏の見方を批判して、次のような興味深い見解を述べています。

 まず、渡部氏は、歴史の見方はそれぞれの立場によって異なる。従って、まず、自分の立場を主張すべきである。その上で相手の立場に理解を示すというのならわかるが、戦後は、日本の言い分は教えないで、アメリカやシナやコリアの言い分だけを教えた。もちろん、自国の歴史にも反省すべき点はあるが、それは国内で議論すべきことであり、国際的に言う話ではない。」(氏はそういう観点から数多くの著作をものしています。)

 これに対して岡崎氏は、「渡部さんの議論を引き継いで若干批判するとすれば、日本の立場とかアメリカの立場と言っただけで、もう歴史判断は偏ってしまいます。だから日本を論じる場合はまるでアメリカを論じるごとく論じて、アメリカを論じる場合は日本を論じるがごとく論じることが必要なんです。極端に言えば、火星人が見ているような形で論じないと歴史というのは読み間違えてしまう。」と反論しています。

 つまり、「歴史というのは公正客観的であるという基準以外はあり得ない」。なぜそう考えるかというと―氏はもともと外交官でしたから―国政情勢をいかに誤りなく正確に判断するかが問われる。そして、そのためには事実をできるだけ客観的に見る必要がある。つまり、歴史というのは、そうした事実関係をできるだけ公正客観的な記録することであり、渡部氏が言うように「歴史観」を介在させるべきでないと言うのです。

 そして、以上のように、歴史を、事実関係の(できるだけ)公正客観的な記録として把握した上で、「政策論として自国の利益を主張すべき」である。しかし、そうなると「日本の利益だけが得られれば戦争をしてもいいのか」というはなしになる。「それに対する唯一の反論は予定調和」という考え方で、「それぞれの国が自分の利益だけを全部主張すると一番いい世界ができる」という考え方をする。

 また、「ただ、そこで日本の利益だけを考えていればいいのか」という疑問が出てくるが、それについては、エンライトゥンド・セルフインタレスト(世界が平和になれば、それが日本の国益にかなう、というより広い観点から国益を考えること)という考え方も必要になってくるが、世界政府ができて世界の平和が保たれるようになるまでは、それぞれの国がそれぞれの利益を守ることを第一にせざるを得ない。

 つまり、「歴史」と「国益」とを区別し、前者はできるだけ公正客観的に、後者は「自国の国益を優先する立場」で論じるべきだ、と言っているのです。従って、それぞれの時代に生きた歴史的人物を評価しようとするときは、その時代の客観的な歴史的条件の中で、どれだけ日本の「国益」を守ったか、という基準で計るべきである。従って、人物の評価は、その次代の歴史的事実を離れて行うことはできないと言うのです。

 では、こうした考え方に立って日本の近現代史を見たらどうなるか。冒頭申しましたように、私もそれを大変面白く読み、また心底納得したわけですが、同時に、この見方は、不思議なことにかって山本七平が、25年程前に『1990年の日本』等で述べた見方とほとんど符合していることに気づきました。、おそらく氏の視角が火星人ならぬ「異人的」であったために生じたのだと思いますが・・・。

2008年6月22日 (日)

日本近現代史の躓き―日韓併合について

 「日本近現代史の躓き1」で、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思う最初のポイントとして「日韓併合」をあげました。最近は韓国ドラマなどを通して韓国人の生き方や考え方を知り、韓国文化に不思議な”なつかしさ”や”あこがれ”を感じる人も多くなっています。また、進んでハングルを勉強する人も増えてきていますので、両国国民の相互理解も、徐々に改善の方向に向かうのではないかと期待されます。

 しかし、その場合も、こうした日朝間の過去の歴史をしっかり勉強し、それにまつわる事実関係をしっかり把握しておく必要があるのではないかと思います。なにしろ「日韓併合」というのは1910年から1945年までの36年間、韓国民族の独立を奪い日本民族に同化しようとした歴史であり、それだけに、そこに至った政治的理由やこの間に醸成された韓国人に対する差別意識の根源をしっかり見据えておく必要があるからです。

 一般的な「日韓併合」を正当化する理由としては、当時の食うか食われるかの帝国主義的時代環境の下で、韓国はその置かれた地政学的位置の故に、清国、ロシア、日本という三強国間の勢力拡大競争に巻き込まれざるを得なかった。また、この間、李氏朝鮮が排外的な小中華思想を脱却できず近代化が立ち後れたために、自らの政治的独立を保持し得ず、結局、日清、日露戦争に勝利した日本に併合されることになった、というものです。

 この場合、もし日本が日清、日露戦争に勝たなければ、韓国はもちろん日本もソ連邦の解体までかっての東欧諸国と同様、国家としての自由を奪われていたはずだ、といわれます。また、仮に、日清戦争において清(=中国)が日本に勝利したとすれば、いうまでもなく、沖縄やその周辺諸島は清(=中国)のものとなり、また、韓国も、それまでの清露の力関係から考えてソ連による支配を免れなかったと思います。

 となると、日本の立場から言えば、日清、日露戦争を勝ち抜き、韓国を日本の勢力下に置くことに成功した後において、なお、「韓国の独立を保全し、日韓の長期的信頼関係を固めるという選択肢」があったかどうか、ということが問題となります。これに対して岡崎久彦氏は「結論から言えば、可能性はほとんどなかったというほかはない」と次のようにいっています。

 まず第一に、「当時の日本としては、ロシアの韓国征服の意図を排除したなどととうてい言いうる状況になかった。ロシアの報復戦の恐れは、帝政ロシアが崩壊するまで、あるいはずっと後でスターリンが揚言したように、日露戦争の復讐が完了する第二次世界大戦の敗戦までつねに日本の頭の上に重く蔽い被さっていた。」

 第二に、韓国は、日本との過去の歴史的・文化的関係からして「日本とどんな特殊関係―それが友好関係の名の下でも―を持つことも嫌がり、日本が特殊な地位を主張すればするほど、ロシアかシナに頼ってバランスをとろうとしたであろう。それはまた自主の国の外交として当然である。そうなると、いつまたロシアが甘言と脅迫を持って復帰してくるか分からない。・・・そこまで読み切っていた日本が、日露戦争の戦果をむざむざ捨てることは考えられないことであった。」

 「つまり、(秀吉による文禄・慶長の役で植え付けられた恐怖心や、日清戦争後に起きた日本公使三浦梧楼等による「閔妃殺害事件」などの)過去の歴史のために、韓国側は猜疑心の下に隠微な抵抗を続け、日本はこれを押さえつけるためにますます脅迫と強引な行動に訴えてさらに韓国人の信頼を失うという悪循環が、そのまままっしぐらに併合の悲劇へと進む勢いとなっていたとしか言いようがない。」というのです。

 しかし、そうした状況下にあっても「日本にとって取りえたせめてもの最善の措置は、同化政策などは厳しく自制して、・・・不良日本人の流入を禁止し、韓国内における韓国人の土地や権利を尊重することだった。それでも怨恨と抑圧の悪循環を完全に中断し得たかどうかは分からないが、・・・一般国民や知識層の一部から真の支持が得られる可能性は十分あった。もしそうなっていれば、伊藤(博文)が当初意図していたような保護国統治にとどまり、韓国はエジプトやモロッコなどのように、民族の自治を守りつつ、植民地解放の時代を待つことができたであろう。」といっています。

 実際、伊藤博文は、1906年1月初代統監として赴任する前に新聞記者に対して、次のような抱負を語っています。

 「従来、韓国におけるわが国民の挙動は大いに非難すべきものがあった。韓国人民に対するや実に陵辱を極め、韓国人民をして、ついに涙を呑んでこれに屈服するのやむなきに至らしめた。・・・かくのごとき非道の挙動はわが国民の態度としてもっとも慎まなければならないところである。・・・韓国人民をして外は屈従を粧い、内に我を怨恨する情に堪えざらしめ、その結果ついに日韓今日の関係に累を及ぼすがごときがあったならば誠に遺憾とするところである。・・・かくのごとき不良の輩は十分に取り締まる所存である。」
(伊藤は統監という危険な職を引き受けるとき、韓国駐屯の日本軍の指揮権を統監に与えることを条件とした。軍の統帥権を盾にとった横暴を押さえようとしたのである。)

 「しかし、(その)伊藤の権威を持ってしても、下が小村(寿太郎)のような考え(なるべく多くの本邦人を韓国内に移植し、我が実力の根底を深くするというような考え方)ではこの大勢は止めようがなかった。」

 また、伊藤は、併合に反対し、何とか保護国統治に留めようと努力しています。「併合ははなはだ厄介である。韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全な自治を遂げることはできぬ」(1907年7月ソウルでの公演)「古は人の国を滅ぼしてその国土を奪うことをもって英雄豪傑の目的のごとく考えたものであるが、いまはそうではない。・・・弱国は強国の妨害物である。従って今の強国は弱国を富強に赴かしめ、ともに力を合わして、各々その方面を守らんと努めるのである」(以上引用は『小村寿太郎とその時代』より)

 しかし、その伊藤博文も、韓国民の保護国化そのものに対する抵抗運動を抑えることができず(明治40年は323件、翌年には1451件と反乱討伐が5倍に増え)、ついに韓国併合のやむなきことを認めるに至ります。そして、1909年10月、統監の職を降りた後、満州問題についてロシア蔵相ココフツォーフと話し合うためハルピンに立ち寄った時、安重根の凶弾に倒れるのです。

 その安重根は、公判の席で次のように、伊藤公暗殺の動機を語っています。
 「日露戦争の時(日清戦争の時の誤り=筆者)日本天皇陛下の宣戦詔勅には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)・・・今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上(*)と思います。・・・伊藤は奸雄であります。天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いているその罪悪に対して、韓国人民は尠なからず伊藤を憎んでこれを亡きものにしようという敵愾心を起こしたのであります。」                      *1907年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降1910年末までの反日義兵運動による義兵側の死者は17,688名、負傷者3,800名に上る。(『朝鮮暴徒討伐誌』朝鮮駐箚軍司令部編)

 伊藤は凶弾を受けたとき「やられた」と一言を発し、「相手は誰だ」と問い、犯人は韓国人であってすでに逮捕せられたことを知らされるや「馬鹿な奴だ」といってしばらく呻吟したのち、目を閉じたといいます。(『伊藤博文』中村菊男p199)そもそも、伊藤は、維新以来4度も総理を勤めた元勲であり、統監という困難な職を引き受けることはなかったのですが、自らは、先に紹介したように、韓国の自治と近代化を推し進め得るのは自分しかいないとの自負も持っていたのではないでしょうか。(なお、伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、1.伊藤博文に命中した弾丸はカービン銃のものと証言しているのに、安重根が持っていたのは拳銃である。2.弾丸は伊藤博文の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。ことなどから、伊藤博文に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説が根強くあります。)

 ともあれ、安重根公判におけるこの言葉を聞くと、意外にも彼は、日本の力を借りて独立を達成しようとした金玉均や朴泳孝と同様の考え方を持っていたのではないかということが推測されます。彼らはその後、日本の政策によって裏切られることになるわけですが、「その挙措進退は、ある場合には血気にはやって暴走したことがあっても、その動機においては、一つ一つ全く非難する余地のない愛国者で、日本でいえば明治維新の一流の志士達と肩を並べられる立派な人たちなのですということもできます。。」(『なぜ日本人は韓国人が嫌いか』岡崎久彦p54)

 従って、「もし日本が、韓国の独立と近代化を一貫して支持し、その政策の枠の中で金玉均や朴泳孝(あるいは金玉均)などという立派な人々をもりたてていっていれば、元々近代化の大きな流れが韓国の政治の基調になる条件は十分にあったことですから、韓国の民心が一変して、従来の清国に対する事大思想から、日本と協力しての近代化する方向に流れた可能性は十分あったと思う」と岡崎久彦氏はいっています。(前掲書p54)

 一方、この問題に対して、韓国人である呉善花氏は「李朝―韓国の積極的な改革を推進しなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自の独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった」といい、「韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった」と指摘しています。(『韓国併合への道』p215)

 また、朝鮮と同じように日本による総督府統治を受けた台湾の金美齢氏は「台湾人と朝鮮人が親日と反日に別れたのは、日本の統治政策の差というよりも、それぞれの民族がたどった歴史の違いや、民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだ。もし統治政策の差を云々するのであれば、客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていた(例えば京城大学は併合後14年で創立、台北大学は領有後33年。台湾統治の方が15年も先だったのに、徴兵施行は後まわし、朝鮮人は陸士入学を認められていたが、台湾人はダメ、などなど)」と述べています。(『諸君』2003.7)(アンダーライン部誤字修正7/10)

 おそらく、台湾と同様、韓国における総督府統治においても、近代化のための経済的・社会的インフラの整備という面では、相当の成果があったことは間違いありません。(黄文雄氏の著作参照)しかし、帝国主義の時代、日本の安全と独立を守るためには、韓国をその勢力下に置くことが韓国の実情からして避けられなかったとしても、この時代のアジアの植民地主義からの解放・独立、そのための近代化という旗印を、当時、日本は世界に先駆けて持っていたのですから、それを見失わない限り、帝国主義的領土拡張の落とし穴に陥らずに済んだのではないかと思います。

 だが、残念ながら日本人は、日清、日露の戦勝に奢って、この旗印を見失ってしましました。韓国の場合はその厄災を韓国人が堪え忍びました。しかし、中国人はついに反抗に立ち上がりました。日中戦争は昭和12年7月7日の廬溝橋事件を発火点としますが、8月13日の上海事変も含めて、それは中国の抗日戦の決意によって進められ、泥沼の持久戦へと発展していくのです。そして、遂に日本は、ファシズム国家と同盟を結ぶことによって、自由と民主主義の敵という烙印を押されることになります。

 この間の歴史的経緯を詳しく点検して行くと、確かに、日中戦争も太平洋戦争も中国やアメリカの挑発を受け引きずり込まれた、と言はざるを得ないような局面がしばしばでてきます。しかし、そのもともとの原因をただせば、こんな訳の分からない、勝つ見込みの全くない戦争に引き込まれたのも、日清、日露の奇跡的(あるいは幸運)な勝利に奢り、欲に目がくらみ、そのために、先ほどの旗印を見失い、さらに自分自身をも見失った結果であり、その責任を他に転嫁することは決してできないということが判ってきます。

2008年6月 9日 (月)

日本の近現代史における”躓き”

 日本の近現代史、特に明治以降の歴史を一通り勉強していくと、”もう少し何とかならなかったのだろうか”と思わせるいくつかのポイントがあります。前回記したように、明治時代までは、西洋の近代化された科学技術だけでなく、政治制度やその他の法制度にも謙虚に学び、それを日本に取り入れ、かつ模範的に行動しようとする姿勢が濃厚でした。

 日本軍についても、「北清事変」におけるその勇敢で規律正しい行動が、西欧諸国の賞賛の的になっています。また、日露戦争では、日本軍の陸戦(遼陽、旅順、奉天)における死闘を経ての勝利、日本海海戦における「信じられないほど」の大勝利が、同盟の相手国であるイギリスだけでなく、アメリカのマスコミにも熱狂的な賞賛の渦を巻き起こしています。

 当時の『ワシントンタイムス』は、「日本の勝利は文明・自由・進歩の勝利であるとして、『スラブ人種とアングロサクソン人種は20世紀中に決死の死闘をする、との予言があるが、はたしていまやその一部が実現したと云える。なぜならば日本はアングロ・サクソンの正当な後継者だからである』と評したそうです。

 それよりももっとすごいのが、その世界の非白人全体に及ぼした影響です。ネールは『父と子に語る世界歴史』のなかでその感激を次のように語っています。
 「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。わたしが少年時代、いかに感激したかを、おまえに何度も話したとおりだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人が、同じ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国が敗れた。だとすればアジアは、昔しばしばそうしたように、いまでもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムはますますアジアに広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった。」

 さらに、日清戦争で日本に敗れた中国の孫文も「日本の勃興以降、白人はアジア人を見下さなくなった。日本の力は日本人自身に一等国の特権を享受させただけでなく、他のアジア人達の国際的地位も向上させた」と述べています。(以上の引用は『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦p259~p262)

 そして、この日露戦争の結果、清国留学生が日本に殺到するようになり、1905年には、興中会、華興会、光復会の革命三派による中国革命同盟会が東京においてを結成され、その後の中国の反清・反帝国主義、民族主義を掲げる革命的民衆運動をリードしていくことになるのです。

 このあたりまでの日本の歴史、またこの間の戦争における日本軍兵士の純粋かつ勇猛果敢な戦いぶりについては、司馬遼太郎や児島襄などの時代小説を読んで感激された方も多いと思います。とはいえ、こうした見方が一般的になったのは、司馬遼太郎の時代小説が書かれて以降のことで、それまでは、第二次世界大戦の反動から、日本の近代史全体を否定的に見る見解が主流をなしていました。

 その意味で、司馬遼太郎は、戦後のアメリカ軍による占領政策としての思想言論統制の結果できあがった、日本の戦後社会の自閉的な言論空間の壁の一角を打ち破り、日本近現代史における明治期までの歴史に、光をあてることにはじめて成功したといえます。

 だが、問題はその後です。この日露戦争の勝利は、同時に、白人世界の日本に対する警戒心を呼び起こすことになりますが、それよりなにより、日本がこのように近代化に成功し西欧諸国に肩を並べられるようになったと自負して以降、いわゆる自前の思想で国を動かすことを余儀なくされて以降の日本国の舵取りが、次第に変調を来してくるのです。

 その最初の変調、冒頭に述べた”もう少し何とかならなかったのだろうか”と呻かざるを得ない最初のポイントが、1910年の「日韓併合」です。その次が1915年の中国に対する「21箇条要求」、そして最後が、アメリカとの戦争を必然ならしめた日本の「満州支配」です。

 最初の「日韓併合」は、戦後60年を経ても今なお消えない朝鮮民族の日本人に対する恨みを背負い込むことになりました。また、「21箇条要求」は、中国にその条約締結日(最終的には13条となり5月9日妥結)を「国恥記念日」とさせただけでなく、ついには泥沼の日中戦争へと発展しました。そして、最後の「満州支配」は、一方で中国との持久戦争を戦いつつ、さらに米英を中心とする連合国との絶望的な戦争に突入することになりました。(アンダーライン部7日調印を訂正7/4)

 こうした結果を見れば、司馬遼太郎ならずとも、この日露戦争以降の日本の歴史に、呪詛の一つも投げつけたくなるのは当然です。

 しかし、この間の歴史的経緯を注意深く検討してみると、実は「日韓併合」も「21箇条要求」も日本軍の「満州支配」も、日清・日露戦争における奇跡的勝利がもたらしたものであり、ここで生じた問題を、その後の国際関係の中で適切に処理できなかったことが、その後の日本を泥沼の日中戦争、ひいては地獄の太平洋戦争へと引きずり込む、その基因となっていることに気づくのです。

 また、この間の歴史的経緯をさらに詳しく見て行くと、そこには、「東京裁判」が想定したような、満州事変以降の侵略戦争を一貫して計画・開始・遂行した首謀者がいたわけではなく、また、政治家を含む文民と軍部との関係も、必ずしも前者の責任が免除されるものでもなく、また、巷間言われる陸軍悪玉・海軍善玉論もかなりあやしく、さらに、当時のマスコミには、「一部の軍国主義者」よりも遙かに過激な侵略的論調が風靡していました。

 これらのことを総合的に考え合わせてみると、むしろ、韓国や中国を同文同種であり価値規範を共有するものと見て一体的に行動すべきことを主張した、いわゆる「アジア主義」思想が、かえって中国や韓国の反発を招いたことや、既成事実の積み重ねで物事を処理しようとする態度が、法規範を重視する国際社会の信用を損なわせたこと、あるいは日本人独自の死生観が、苦闘する戦況の中で甚だしい人命軽視へとつながったことなど、要するに日本人の思想的弱点が、負け戦の中でもろくも露呈したと見た方がいいように思われるのです。

 今後、他のテーマと飛び飛びになることもあるかと思いますが、この間の事情をより詳しく見ていきたいと思います。

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