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カテゴリー「教育基本法改正問題について」の記事

2007年1月27日 (土)

「天の声」はなぜ知事から出るか

 本稿は、このたびの教育基本法改正の問題点を指摘するために書いているわけですが、(その問題点の第一に挙げられるべきものが、教育理念・教育目標を法律に規定して怪しまないということですが)そのポイントは、こうした考え方は、日本人の江戸時代以来の政治的伝統である「治教一致」の考え方にもとづくものではないか、ということを指摘した点にあります。

 この指摘は、本稿の冒頭のエントリー「教育基本法改正の疑問」で紹介したとおり、昭和52年にイザヤ・ベンダサンが教育勅語の問題点を指摘する中で行ったものです。氏は、これを、日本の三教(神・儒・仏)合一論以来の伝統思想である「治教一致」の問題とする一方、戦後、「一国の政治ルールを規定するにすぎない憲法や(教育)基本法が教育の依拠すべき基盤と見なされる」ようになったことを、「明治の教育方針がついに行きつくところまで行きついた」といっています。

 なぜそれが問題なのか、という疑問が出てくると思いますが、それは後回しにして、その前に、この「治教一致」という言葉自体の意味を歴史的に明らかにしておきたいと思います。(もう少し早めにすべきでしたが) これは、徳川時代の代表的知識人新井白石が、宝永5年(1708)に、鎖国時代の禁制を破って屋久島に渡来したイタリア人宣教師シドッチを審問したときのことを書いた『西洋記聞』に現れた考え方です。

 この時、白石は、次のようなシドッチの主張に対して、日本国における「治教一致」の秩序のあり方を主張し、キリスト教の布教を受け入れられないとしました。 シドッチは、「国に入りては、国に従うべし。いかにも其法に違(たが)ふ所あるべからずと候ひしかば、骨肉形骸のごときは、とにもかくにも国法にまかせむ事、いうに及ばず。」といって、キリスト教布教の許可を得ようとしました。

つまり、外面的な行為においてはこの国の法律には全面的に従うので、個人の信仰の問題であるキリスト教の布教は認めてくれ、といったのです。 これに対して白石はそれは絶対に認められないとして次のようにいいました。

 「もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父の及ぶところにあらずとせば、家においての二尊、国においての二君ありというのみにはあらず、君をなみし、父をなみすこれより大きなるものなかるべし。たとひ其教とする所、父をなみし、君をなみすることに至らずとも、其流弊の甚だしき、必らず其君を弑し、其父を弑するに至るとも、相かへりみる所あるべからず。」

 つまり、白石は、キリスト教の布教を認めることによって、忠誠の対象が二極化することを恐れたのです。西欧社会は、392年にキリスト教がローマ国教となって以来、いろいろな紆余曲折はありましたが、基本的には「肉の秩序」と「霊の秩序」という分け方をして、つまり世俗の政治的秩序と宗教にもとづく精神的秩序の二者を並立させ、両者の緊張関係に生きることを当然としてきました。

 しかし、そのような考え方を日本に容れれば、必ず「分裂して相争い秩序が崩壊して統治不能になる」と考えたのです。つまり、日本における秩序原理は、組織への忠誠を絶対化するもので、「天を祀ることができるのは天子だけ、臣は君を天として祀り、子は父を天として祀っても、一個人が天に直結してはならない」つまり、「人々は常に自己の属する何らかの組織を天としなければならない」(『受容と排除の軌跡』山本七平p128)という考え方です。(そういえば、知事から「天の声」が出てますよね)

 こうした白石の考え方は、徳川時代の日本人の正統的な考え方となり、それが家庭内の秩序をも支配する原理となり、これが「忠孝一本」(君主に対する忠義と父母に対する孝行とは一体であるという考え方)という水戸学の宗族的・家族主義的国家観に発展したのです。この考え方を端的に表明したものが教育勅語(明治23年)であって、当然の事ながら、そこにおける教育原理は、その国家の首長たる天皇より示されることになりました。

 そして、この時(明治12年、民権思想に対する抑圧を開始して以降、政府は『教学大旨』や『幼学綱要』を示して儒教にもとづく道徳教育を復活しようとした)このような「治教一致」(政治秩序と道徳的教育秩序とが一致するという考え方)の政治的伝統の復活に対して敢然として立ち向かい、両者を切り離すとともに、前者の秩序を、後者の独立自尊の精神に支えられた個人の「最大幸福」をめざす相互契約によるべき、としたのが福沢諭吉でした。

 しかし、福沢諭吉は、一方で、従来の儒教主義にもとづく教育に対して仮借なき批判を加えながら、彼個人の身の処し方としては、その「痩我慢の説」に見るごとく、「数百年養い得たるわが日本武士の気風」=士道をもってその独立自尊の要としていました。

 その矛盾を解くカギは何かというと、実は、彼が批判してやまなかった儒教の「腐敗したる部分」とは、それが政治権力と構造的に癒着することによって生み出される社会の停滞と排他性、それに伴う人間差別(上下貴賎の差別、自由・人権の抑圧)に他ならなかったのです。「治教一致」体制の問題点はここにあります。

 では、福沢諭吉が「士風の維持は万世の要」という「士道」は、どのようにして培われてきたものでしょうか。また、それは中国の儒教、朱子学とはどのような点で違っているのでしょうか。また、その「現実の主従関係から遊離した廉恥節義や三河(戦国!)武士の魂を、私的次元における行動のエネルギーとして、客観的には文明の精神(対内的自由と対外的独立)を推進しようとした」(『忠誠と反逆』丸山真男p57)その精神は、現代の私たちとどのようにかかわっているのでしょうか。

 この問いをもって、「教育基本法改正問題について」のカテゴリーでの議論を一旦閉じたいと思います。

2007年1月17日 (水)

伝統文化の継承と発展 

 本稿は、昨年末12月15日に成立した「教育基本法改正」の問題点を指摘するために書き始めたものです。すでに成立したものを批判しても無駄ではないか、という意見もあると思いますが、大切なことは、そこに重要な問題点が含まれている場合には、それをしっかりと議論し対象化しておくということです。そうしない限り、その問題を克服をすることはできませんから。

 今回の教育基本法改正の問題点は、まとめていえば、私は、大体次のようなことだと考えています。

 まず、第1に、第2条(教育の目標)で教育理念を法定したこと。そのねらいは、旧教育基本法が個人主義に偏っていたので、それとバランスさせるために「公共の精神を養う」こと及び「伝統・文化の尊重とそれらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」ことを教育理念として挿入し、それに法的拘束力を持たせようとしたこと。

 第2に、これを受ける形で、第16条(教育行政)において、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とし、その第2項で国が教育施策を総合的に策定する、地方はその範囲内で地方の実情に応じた教育施策を策定する、としたこと。

 第3に、第17条で、政府が「教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図る」ため教育振興基本計画を定め、これを国会に報告する、としたことなどです。

 第1の問題点は、民主制下における法律の基本的な性格は、国民の外面的行為を規制するものであって、個人の内面的思想・心情を規制するものではありませんから、教育理念を法定化すること自体問題ではないか、ということ。

 第2の問題点は、教育を「法律に定めるところにより行われるべきもの」と規定できるのか、ということ。「教育」ではなくて「教育行政」ではないのかとも思いますが、第2条で教育目標を法定化した以上、こうなるんだろうなという感じ。

 第3の問題点は、この規定ぶりを見る限り、今までの「教育における地方分権」という教育改革理念は一体どこにいってしまったのか、ということ。さらに、教育の政治からの相対的自律性はどうなるのか、ということです。

 そこで、私は、第1の問題点に見られるような「教育理念を法定化することを怪しまない」風潮は、実は、我が国の儒教的伝統文化に根ざす「治教(政治と教育)一致」の政治的伝統によるものではないか、ということを指摘しました。

 そして、幕末から明治期、この弊害に最も早く気づき、それを克服するため「独立自尊」という個人主体の確立による人間性解放と、それに基づく新たな社会秩序の形成及び近代国家の確立をめざした人物が福沢諭吉であった、ということを指摘しました。

 では、福沢諭吉は、この「一身にして二世を経るが如き」革命の時代をどのように生きたか、彼は、確かに儒教主義に対する苛烈な批判者としてスタートしました。しかし、彼の胸底には個人的な儒教倫理のエートスが生きており、彼はその上に「独立自尊」の個人主義原理を打ち立てることで、伝統を、明治という近代社会の時代精神に創造・発展させようとした。これが私の福沢諭吉の言動の「矛盾」を解くおおよその見当なのです。

 ここで福沢諭吉の言動の「矛盾」というのは、一つは、彼の儒教主義に対する態度で、これが後年に至って変節・保守化したのではないかということ、もう一つは、彼の対外政策=清国及び李氏朝鮮に対する最強硬の「タカ派」姿勢と、日清戦争後の排外主義に対する批判とが矛盾するのではないか、という一般的な疑問を指しています。

 このことについて、丸山真男は次のように批評しています。

 「福沢の対外政策についての論考を綿密に辿ると、彼が滅亡とか衰退とかいう悲観的言葉を語るのは多くの場合、その実質的な対象が中国や朝鮮の人民や国民に対してよりは『満清政府』あるいは李氏政権に向けられていたことが容易に判別される。福沢はこれら旧体制の政権が帝国主義列強の集中的な浸食に自力で抵抗する可能性を果たしてもっているか、そうした抵抗のために不可避な近代国家への自己変革(自由と独立への道)を自力できりひらくことができるか、という展望について、悲観的になっていたことは否定できない。そうした悲観や失望はあくまで旧体制の政府に対して発せられていた。だから、日清戦争について最強硬の『タカ派』であった福沢は、戦勝後の日本の中に、中国と中国人とを侮蔑し軽視する態度が生まれていることに対し、憂慮し警告することを忘れなかったのである。

 『儒教主義』にたいする福沢の根深い敵意と反対も、上に述べたような区別の立場を考慮せずには理解できない。すなわち、彼の攻撃目標は、儒教の個々の徳目に向けられたというよりは、体制イデオロギーとしての『儒教主義』の病理に向けられたのである。国内的には夫子君臣の上下倫理の絶対化によって、対外的には華夷内外の弁という階層的国際秩序観によって、政治権力と儒教とが構造的に癒着するところには、体制の停滞と腐敗がくりかえし再生産される、というのが福沢の確信であった。」(『福沢諭吉の哲学』「福沢諭吉と日本の近代化」序p285)

 まんざら、私の見当もはずしてはいなかったな、とうれしく思いましたが、そんな安堵よりも、この福沢諭吉の努力を無にしないよう、彼の伝統思想の継承と創造的発展を、どう受け継ぎ発展させていくかということが、私たちに問われているように思います。

2007年1月14日 (日)

「徳教」は「自主独立」が前提

  福沢の儒教批判の主たる論点は、明治維新以降の開国・欧化の流れの中で、かっての徳川幕藩体制下における儒教主義の旧き「因習に対する合理、差別に対する平等、束縛に対する自由、服従に対する独立、人性をその自然のままに解き放つこと」(『福沢諭吉』小泉信三p200)を主張するものでした。 

  従って、この際、徳教の働きがなくなるというわけではないけれども、自ずからそれを今日の時代に合ったものに変える必要がある。つまり、過去の徳教が、君臣夫子夫婦長幼各二者間の相互依存関係に立っていたものを、「先づ我一身を独立せしめ、我一身を重んじて、自らその身を金玉視し、以て他の関係を維持して人事の秩序を保つ可し」というわけです。

 そして、そのように一身独立すれば、目を転じて他人の独立を勧め、遂に同国人と共に一国の独立を謀ることも自然の流れとなる。また、父母につかえることも、夫婦の倫も、長幼の序も、また朋友の信もここからその適切な秩序を整えることができる。

 「故に、我輩に於いては、今世の教育論者が古来の(儒教)教典を徳育の用に供せんとするを咎(とがめ)るには非ざれども、その教書の働きを自然に任して正に今の公儀世論に適せしめ、その働きの達すべき部分にのみ働きを逞(たくまし)ふせしめんと欲する者なり。」というのです。(『福沢諭吉全集』第5巻「徳育如何」p363)

 問題は、このような諭吉のいう「独立自尊」の精神と、従来の儒教倫理とがどのように「自然に」結びつくことができるかということですが、これは、諭吉自身の人格の中に見事に統合されていたというほかありません。それを物語る次のような話が残されています。(『福沢諭吉全集』第15巻p396)

 これは、明治11年1月20日、亡父(福沢百助)の友中村栗園が諭吉に手紙を書いて、もし諭吉が儒教の「孝悌の道」を重しとしないなら、それは亡父の意志に背くものだといったことに対し、亡父の「言行が果して儒ならば、生(諭吉)はすなわち儒の道を信じて疑はざる者なり」と答書した上で、その10日あまり後「福沢氏古銭配分の記」を書いて6人の子女に示したというものです。

 「福沢の父百助は、大阪在勤中古銭を集めて楽しみとした。或る日、銭差しにさした穴銅銭の中から珍しいと思うもの幾文ずつを選び出して取り、他を元の如く銭差しにさして、忘れてそのまま外出した。然るに、家人はそれを知らず、その銭差しを不足なきものと思って、偶々売りに来た魚屋に魚の代金として払ってしまった。当時大阪の慣習で、売買にいちいち銭の枚数を数えることせず、銭差しの凡その長さによって授受してあやしまぬ風であったから、こういうことにもなったのであるという。あとでこのことを知った百助は、大いに驚き、そのままでは済まされずと、人を雇って百方その魚屋を捜索させ、両三日してその本人を見出して、これに不足金の銭若干を払い、さらにまた煩労を謝するためにと若干の銭をそのものに与えて、不注意の罪を謝した、というのである。

 福沢は母からきいたままに、この父の逸話をさらにその子等に語る。福沢の手許には亡父の集めた古銭八十七文があった。この中には、彼の魚屋に払い渡した銭差しから抜き取った銭もあるに違いない。福沢はいう。今これをお前たちと自分とで配分するから、これを修身処世の記念品とせよ、自分もまたその一分を手許に留めて、生涯の鑑とすること旧のごとくにするであろう。福沢の家は貧しくて余財がなかった。有るものは皆な売り尽くして自分の学資にしてしまったから、家に伝わるものとして、お前たちに分けてやるものは何もない。またあっても、それは金を出せば買えるものだから、なくても遺憾はない。
 『独りこの古銭に至ては千金を投ずるも買う可らざる宝物にして、先人の余光の存するものなり。今余と汝等と共に此余光を被る、遺物大なりと云う可し。謹で此宝物を失うなかれ。謹で、此宝物の精神を忘るるなかれ。汝等子あればこれを子に伝えよ、孫あらばまた孫に伝えしめよ。世々子孫、福沢の血統、孜々勉強して自律自活、能く家を治む可きは言うまでもなきことながら、万一不幸にして財に貧なるの憂あるも、文明独立の大義を忘れ、節を屈して心飢るの貧に沈むなかれ。』」(以上『福沢諭吉』小泉信三p207-208より引用)

 この本の著者小泉信三は、1933年から1947年まで慶應義塾塾長兼慶大総長、戦後は東宮教育参与を務めた人です。また、『福沢諭吉全集』全21巻の監修者も務めた福沢諭吉の代表的研究者ですが、「ここに孝子福沢諭吉、厳慈の父福沢諭吉の面目を見る」として、次のようにいっています。

 「不幸にしてその面影をも知らぬ亡き父を慕い、その志を尊び、居常その名を恥ずかしめぬことを期する心は、福沢にあって強い道徳的支柱となった。そうして、福沢が父の肉親を見ず、その肉声を聴かなかったことは、かえって一層その父の影像として理想化せしめるものではものではなかったろうか。これは実践的モラリスト福沢諭吉を理解する上において、年来私のひそかに抱く仮説である。」

 このようにして、亡父(諭吉が生後18ヶ月の時死亡したが、寡婦となった母は朝夕に子供たちに在りし日の父の言行を語ったという。)より受け継いだ厳しい自己規律の精神が、彼の「独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神」を支えていたのではないでしょうか。(本ブログ「福沢諭吉の儒教批判その1」参照)

2007年1月 8日 (月)

哲学の私情は立国の公道

 私は、前回、福沢諭吉の儒教主義批判は決して全面的なものではなく、その腐敗し易き部分(徳地主義的・家族的国家観つまり「治教(政治と教育)一致」の国家観が、上下貴賎の差別主義、自由・人権の抑圧、排他的全体主義に陥り易いという点)に対する批判だったのではないか、ということを申しました。

 このことは、後年の諭吉の言葉にも現れている訳ですが、私がそう思わざるを得ないのは、何度か申しましたが、諭吉の独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神は、決して、洋学を学んでのち身につけたというものではなく、漢学者であった父や仏教の信心深かった母、そして自身の漢学の勉強を通して身につけたものと思われるからです。

 こういう問題意識から、では諭吉は儒教主義のどの部分を批判の対象としてきたのか、ということを検討してきた訳ですが、私の結論としては、諭吉が批判の対象としたのは、数理学実学の欠如ということを別にすれば、その徳治主義的=「治教一致」的な政治体制に対する批判ではなかったかと思わざるを得ません。

 つまり、諭吉の父のように、徳川幕藩体制下の門閥制度の特権に与れない下級武士や、郷士と呼ばれた人々(武士でありながら城下町に住まず農村に居住し農業を営んだ)など、実務や生産業に携わるとともに、武士的(=儒教的)倫理で身を処していた人々には、個人の能力を無視した門閥主義に対する不満が鬱積していた、つまり、儒教がそうした批判のエートスの供給源になっていたのではないかということです。

 このことがもっとも鮮明に現れたのが、諭吉が、勝海舟の身の処し方について加えた論難の書簡「痩我慢の説」です。これは、福沢諭吉が明治24年に執筆し、勝海舟及び榎本武揚に送って意見を求めたもので、その後は秘して他に漏らさなかったものが、漏れて10年後の明治34年1月の時事新報紙上に発表されたものです。この年の2月、諭吉は脳溢血で66才の生涯を閉じています。

 その内容は、王政維新の時、即ち徳川家の末路に、「家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向かいて抵抗を試みず、ひたすら和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済に於いて一事の利益を成したりと雖も、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷ふたるの不利は決して少なからず。得を以て損を償ふに足らざるものと云うべし。」というものです。

 この家臣の一部分というのは勝海舟のことで、「蓋し勝氏輩の所見は内乱の戦争を以て無上の災害無益の浪費と認め、味方に勝算なき限りは速やかに和して速やかに事を収めるに若かずとの数理を信じたるものに外ならず。其口に説く所を聞けば主公の安危または外交の利害と云うと雖も、その心術の底を叩いてこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に痩我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会に最も重んずる所の一大主義を曖昧模糊の間に瞞着したるものなりと評して、これに答うるの辞はなかる可し。」と非難しました。

 また、彼の功績を評価せんとする意見も後世にあることなれば、一応それを認めるとしても、「氏の為に謀れば、たとえ今日の文明流に従って維新後に幸に身を全うする事を得たるも、自ら省みて我立国の為に至大至重なる上流士人の気風を害したる罪を引き・・・断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去りてその跡を隠す」べきではなかったか、そうしなかったのは、「ただに氏の私の為に惜しむのみならず、士人社会風教の為に深く悲しむべき所のものなり。」といっています。

 これが当時の世間の人々を驚ろかしたことはいうまでもありません。というのは、当時福沢諭吉は「拝金宗」功利主義の鼓吹者、「拝金家の大和尚」などといわれていましたので、彼に「侠骨稜々」たる士風の維持と気概を見いだし、「平素福沢の思想に反感を抱いていた保守側からも『よし福沢全集は焚く可きも、此の一文は不朽なり』という歓迎の辞さへ呈せられた」(『福沢諭吉選集8』解題 家永三郎)といいます。

 しかしながら、こうした理解に対しては「勝の幕府に対するは封建的主従関係以上のものではないのであって、福沢も認めている如く一片の『私情』の問題に過ぎぬ。封建組織にいち早く見切りをつけ、明治新社会の文明開化を諸手をあげて歓迎した福沢が、勝等に向かってのみ封建道徳の遵守を強要するのは、少しく辻褄が合わない感を免れないでもなかろう。」(上掲書)という疑問も呈されます。

 それゆえに、本書簡が、そうした誤解を以て受け止められることが必定と考えたために、諭吉はこの書簡を10年も隠した訳ですが、では彼がこの「痩我慢の説」で心底いわんとしたことは何だったか、ということが問題となります。この件については、先の家永三郎氏をはじめ多くの論者が論じていますが、私は、小林秀雄は次のような評が最も正鵠を得ているのではないかと思います。

 「『士道』とか『三河武士の精神』とかいう言葉に躓く者は、著者がこれらの言葉を使役して、何を考えているかを見ない者であろう。封建道徳という道徳のある形が賛美されているわけではないし、論じられてもいない。注意して読めば、読者は、福沢が面接した道徳問題の本質的な困難に、連れて行かれる筈なのだ。彼が本当に言いたかった事は、私には明らかなように思われる。道徳は言葉にはない、人心の機微のうちにあるということが、彼は言いたいのである。」

 「『痩我慢の説』は、『立国は私なり、公に非ず』という文句から始まっている。物事を考え詰めて行けば、福沢に言わせれば、『哲学流』に考えれば、一地方、一国のうちで身を立てるのが私情から発する如く、世界各国の立国も、各国民の私情に出ている事は明白な筈である。これは『自然の公道』ではなく、人生開闢以来の実情である。この実をまず確かめておかないから、忠君愛国などという美名に、惑わされるのである。」

 つまり、この「『哲学の私情は立国の公道』という明察を保持していなければ、公道は公認の美徳と化して人々を酔わせるかあるいは習慣的義務と化して人々を引廻すのである。これは事の成り行きであり勢いであって、これに抵抗しないところに、人間の独立、私立があるわけがない。」この「私立」が「痩我慢」であって、「痩我慢は私情に発するであろうが、我慢である限り、単なる私情ではない。」つまり、「私情と公道との緊張関係の自覚であろう。福沢は其処に『私立』を見たのである。」

 小林秀雄流のむずかしい言い回しですが、確かにそう解釈するのが妥当ではないかと私は思います。つまり、福沢の言う「痩我慢」とは、彼が『学問のすすめ』で述べた、「いまの世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀り、余力あらんば他人の独立を助けなすべし。」という言葉と同義であり、その「独立心」より発せられる「私情」と「立国の公道」との緊張関係を維持する事が大切であると言っているのです。

 従って、究極的には、その「私情」より発せられる「立国の公道」と、官許の「立国の公道」とが衝突する場面も考えられます。その場合、自らの「私情」を優先して官許の「公道」に抵抗する事が許されるかどうか、ということが問題になりますが、この点について諭吉の思想を最も明快に表出しているのものが、西郷隆盛を弁じて明治10年に表した「丁丑公論諸言」です。(この公表はなんと24年後の明治34年、諭吉の逝去後のことです)

 「凡そ人として我が思う所を施行せんと欲せざる者なし。即ち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性というも可なり。人にして然り。政府にして然らざる可らざるなり。政府の専制咎む可らずと雖も、之を放頓すれば際限ある事なし。又これを防がざる可らず。今之を防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。」

 「近来日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰退するが如し。苟(いやしく)も憂国の士は之を救うの術を求めざる可らず。抵抗の法一様ならず、或いは文を以てし、或いは武を以てし、又或いは金を持ってする者あり。今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考えとは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然(=非難)す可きものなし。」

  「余は西郷氏に一面識の交もなく、又其の人を庇護せんと欲するにも非ずと雖も、特に数日の労を費やして一冊子を記し之を公論と名付けたるは、人の為に私するに非ず、一国の公平を保護せんが為なり。方今出版の条例ありて少しく人の妨げを為す。故に之を家に蔵めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、其の気脈を絶つことなからしめんと欲する微意のみ。」

 諭吉が、この抵抗の精神を「士道」=「痩我慢」の伝統精神に見ていたことに、十分な注意を払うべきです。つまり、彼が批判してやまなかった儒教精神の腐敗したる部分とは、従ってここではなく、むしろ、こうした政府の専制に対する、抵抗の精神のよって来るところの「私情」=「私立」=「独立心」を外から犯し続けているもの、その「治教一致」の政治的伝統に対する批判ではなかったかと私は推測しています。

2007年1月 5日 (金)

福沢諭吉の儒教批判その4

5 「治教一致」批判 

 諭吉は「学問のすすめ」で「人権思想」をベースに「契約国家」論を展開しました。これは、いうまでもなく徳川幕藩体制下の門閥制度(家老の家に生まれた者は家老に、足軽の家に生まれた者は足軽になるというような)に対する批判として述べられたものですが、それと同時に、その門閥制度を支えた儒教的「治教一致」の国家観に対しても徹底した批判を行いました。

 この「治教一致」の国家観は、エントリー「『治教一致』という日本の伝統」で紹介したとおり、教育勅語の国家観に象徴的に現れているものです。これは、水戸学の「忠孝一本」という宗族的・家族主義的国家観に立つことによって、「治教(政治と教育)一致」の国家体制を構築せんとしたもので、こうして、全日本人が平等に遵守すべき道徳的基準(=教育勅語)が、宗家の家長たる天皇=政治的最高権力者より示されることになりました。

 諭吉は、こうした儒教主義に基づく国家観が間違っていることを次のように批判しています。 「アジヤ諸国においては、国君のことを民の父母と言い、人民のことを臣子または赤子と言」う。これは、「かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直きこと矢のごとく、おのが心を推して人に及ぼし、民を撫育するに情愛を主とし、・・・民のこれに従うは草の靡(なび)くがごとく・・・上下合体ともに太平を謡わんとする目論見ならん。」

 「されどもよく事実を考うれば、政府と人民とはもと骨肉の縁あるにあらず、実に他人の付き合いなり。他人と他人との付き合いには情実を用ゆべからず。必ず規則約束なるものを作り、互いにこれを守りて厘毛の差を争い、双方ともにかえって丸く治まるものにて、これすなわち国法の起こりし所以なり。かつ右のごとく、聖明の君と賢良の士と従順なる民とその注文あれども、いずれの学校に入れば、かく無疵なるなる聖賢を作り出すべきや、なんらの教育を施せばかく結構なる民を得べきや」

 「しかるにこの意味を知らずして、きかぬ薬を再三飲むがごとく、小刀細工の仁政を用い、神ならぬ身の聖賢が、その仁政に無理を調合して強いて御恩を蒙らしめんとし、御恩は変じて迷惑となり、仁政は化して苛法となり、なお太平を謡わんとするか。謡わんと欲せば一人謡いて可なり。これに和する者はなかるべし。その目論見こそ迂遠なれ。実に隣ながらも抱腹に堪えざる次第なり。」

 諭吉は、明治政府が明治15年頃、このような儒教主義に基づく教育を復活しようとしたことに対して、「我文明は退歩するものには非ずや」「儒教荳(あに)唯道徳のみならんや」「漢学の主義その無効なるをしらざる乎」などの題名で儒教教育復活反対の論陣を張っています。また、明治30年前後には、不平等条約改正問題の過程で、排外的思潮が勃興したのに対して、政府の儒教主義教育の効果が現れたものとして政府の責任を追及しています。

 ただ、諭吉の維新当初の儒教主義批判が徹底的かつ全面的であったものが、後期になると余裕が出てきたのか様子が変わってきます。曰く「我輩が只管(ひたすら)儒教主義を排斥せんとする所以のものは決して其主義の有害なるを認めたるが為に非ず、周公孔子の教は忠孝仁義の道を説きたるものにて一点の批判もなきのみか寧ろ社会人道の標準としてみずから敬重すべきものなれ」とか「その主義の純粋無垢なるに拘わらず腐敗し易き性質を具へて今は全く本来の本性を一変して腐敗の極に達したるその害毒を認むる」がゆえに排撃するといった具合です。(「儒教主義の害は其腐敗にあり」)

 つまり、諭吉の儒教批判は、(数理学など実学を伴わないことの批判は別にして)その名分論から生まれる門閥制度に対する批判が根底にあり、それを欧米に学んだ人権思想や契約国家論で理論づけしているわけです。しかし、そのもととなった独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神は、実は、その自伝を見れば判るように、本人の性質もあるにしろ、正銘の漢学者であった諭吉の父や、仏教の信心深かった母親の影響によるものがより大きいように思われます。

 ということは、諭吉は、儒教の教えのその純粋無垢なる部分=忠孝仁義など社会人道の標準(個人倫理の基準)を説いた部分についてはその価値を認めるが、国家が、その人倫関係を擬制して、いわゆる徳治主義的・家族的国家観をとることによって、逆に国家が個人の生活を道徳的に支配する結果となることについて、その弊害(上下貴賎の差別、自由・人権の抑圧、排他的全体主義)を指摘し批判したといえるのではないかと思います。

 しかし、残念ながら、諭吉のこの努力は成功しませんでした。というのは、明治は、その国家体制を西欧の立憲君主制(=法による制限君主制)に基づき編成しましたが、同時に、教育勅語(明治23年)を通して、臣民に対する宗族的・家族主義的な国家論=国体論の教化に努めるというダブルスタンダードを犯してしまったのです。

 私は、このことの弊害が大正4年の対華二十一箇条要求あたりから出ているように思います。それが、昭和になって「天皇機関説問題」「国体明徴問題」として暴発し、いわゆる皇国史観に基づく超国家主義の歯止めが効かなくなりますが、このあたりの議論は「『山本七平学』のすすめ」のなかで改めて紹介したいと思います。

2007年1月 1日 (月)

福沢諭吉の儒教批判その3

3 学問のすすめ

 諭吉の徳川幕藩体制下の門閥制度批判を支えた思想は、1872年に刊行された『学問のすすめ』の冒頭の言葉に明快に言い表されています。

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心の働きをもって天地の間にあるよろずのものを資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめたもうの趣意なり。」

 ここから、人と人との同等なる関係について、これは、人の「有様(貧富強弱あること)の等しきをいうにあらず、権利通義の等しきをいうなり」として、一種の「法の下の平等」を主張します。

 さらに、続けて「すなわち、その権利通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にする大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛を設けたるものなれば、なんらのことあるも人力を持ってこれを害すべからず。」これは一種の「天賦人権論」ですね。

 そして、ここから政府と人民の関係について次のようにいっています。「そもそも政府と人民の間柄は、前にいえるごとくただ強弱の有様を異にするのみにて権利の異同あるの理なし、百姓は米を作りて人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。これすなわち百姓町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し善人を保護す。これすなわち、政府の商売なり。」これは政府の「当然の職分」にして「御恩というべからず。」

 つまり「政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、かたく約束したるものなり。」「ゆえにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹んで守らざるべからず。これすなわち人民の職分なり。」これは「代議制」及び「法治主義」の主張ですね。

 「しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁れ、・・・子をおばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、・・・かかる馬鹿者を取り扱うには、とても道理をもってすべからず、不本意ながら力を持って威し、一事の大害を鎮むるよりよりほか方便あることなし。」と云々。

 とてもいまの言論人には口に出せぬ思い切った表現ですが、いわんとするところは、「ゆえにいわく、人民もし暴政を避けんとせば、すみやかに学問に志しみずから才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからす。これ余輩の勧むる学問の趣意なり。」ということなのです。この場合、才(知識や技術)だけでなく徳を高くすることも考慮されている点に注意しておきましょう。(以上『学問のすすめ』)

4 独立のすすめ

 「学問のすすめ」で、諭吉は、「富めるも貧しきも強きも弱きも人民も政府も、その権義(権利通義のこと)において異なる事なし」といいました。このことをさらに国と国との関係について述べるとどうなるか。

 「日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば、互いにその権義を妨ぐるの理なし。一人が一人に向いて害を加うるの理なくば、二人が二人に向かいて害を加うるの理もなかるべし。百万人も千万人も同様の訳にて、物事の道理は人数の多少により変ずべからず。・・・しかるに今自国の富強なる勢いをもって貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士が腕の力を持って病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義において許すべからざることなり。」

 従って、もしも「道理にもとりて曲を蒙るの日にいたりては、世界中を敵にするも恐るるに足らず、・・・日本国中の人民一人も残らず命を捨てて国の威光を落とさずとはこのことなり。」しかしながら、「国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶる事」はできない。というのも「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。」であり、「内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶることあたわず」であり、「独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。」だからである。

 こうしたことは「皆人民に独立の心なきより生ずる災害」であって、「いまの世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀り、余力あらんば他人の独立を助けなすべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商ともに独立して国を守らざるべからず。概してこれをいえば、人を束縛して一人心配を求むるより、人を放ちてともに苦楽をともにするにしかざるなり。」(同『学問のすすめ』」)

 ここに述べられていること、「愛国をいう者はまず自己の独立を謀るべし」という言葉、これは重要ですね。また、親や教師が子供にまず教えるべきことは「独立のすすめ」であって、それが国の独立つまり愛国につながるという指摘も重要です。また、ここは、戦後、「諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意し」た(つまり受身の)私たちの「立国の精神」に対する批判にもなっていると思います。

2006年12月29日 (金)

福沢諭吉の儒教批判その2

 福沢諭吉が正真正銘の漢学者である父のもとで儒教的規範を身につけ、また自ら漢書を学んで儒教的教養を高めていたことは、「福沢諭吉の儒教批判1」で紹介しました。それが洋学を学ぶにつれて、次第に儒教批判を強め、「今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年の脳中にわだかまってはとても西洋の文明は国にいることはできない」と考えるようになりました。

 「人の私徳のみに名を下したる文字にて、その考えのあるところを察するに、古書に温良恭謙譲といい、無為にして治まるといい、聖人に夢なしといい、君子聖徳の士は愚かなるごとしといい、仁者は山のごとしというなど、すべてこれらの趣をもって本旨となし、結局、外にあらわるる働きよりも内に存するものを徳義と名づくるのみにて、西洋の語にていえば「パッシーブ」とて、われより働くにはあらずして物に対して受身の姿となり、ただ私心を放解するの一事をもって要領となすがごとし。・・・ただ堪忍卑屈の旨を勧むるに過ぎず。」(『文明論の概略』「知徳の弁」)

 こうした諭吉の反儒教主義はその後も折に触れて繰り返され、ほとんど彼の生涯のテーマとなった観があります。しかし、こうした儒教批判の根底にあった彼の独立心や平等の精神、世俗からの超越、集団あるいは伝統からの自由といった精神は、必ずしも「洋学」によるものとはいえない。また、「いやしくも卑劣なことは絶対しない」とか「から威張りほど見苦しいものはない」といった道徳(儒教)的規範意識も終生変わることはありませんでした。

 また、学者としての誇りや身分制への憤りは漢学者であった父親からうけついだものであったし、また、仏教の信心深かった母親が、身分の低いものにも平等の愛を注いだことや、また中津藩士としての義理を捨て、学問に精進することを決意したとき、無条件に支持した母の強さについても、福沢は、単なる肉親への愛の表現を超えた敬慕の情を繰り返し強調しています。

 つまり、諭吉の儒教に対する批判はその言説の激しさにもかかわらず、決してトータルなものではなく、いわばその「腐敗したる部分」に対する批判だったのではないかと思われます。そこで、以下、その批判の内容を具体的に見てみたいと思います。そうすることによって、徳川幕藩体制から明治立憲君主制へと移行する時代、「恰も一身にして二生世を経るが如き時代」における彼の精神の置きどころが見えてくるのではないかと思います。

1 門閥制度は親の敵(かたき)

 諭吉は19歳で長崎に遊学するまで大分の中津に育ちました。そこは「封建制度でチャンと物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年たってもちょいとも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間にはさまっているものも同様、何年たってもちょいとも変化というものがない。」

 そんな牢固たる門閥制度の中で「父の生涯、45年間のその間、封建制度に束縛されてなにごともできず、むなしく不平をのんで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児(諭吉)の行く末をはかり、これを坊主にしても名をなさしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ(当時魚屋の息子が大僧正になったというような話がいくらもあったらしい)、その愛情の深さ、私はこのことを思い出し、封建の門閥制度を憤るとともに、亡父の心事を察してひとり泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵でござる」

 したがって、幕末に至って日本の政府が東西2派、勤王派と佐幕派に分かれ争っているときの彼の基本的態度は次のようなものでした。「第一、私は幕府の門閥圧制鎖国主義がごくごくきらいでこれに力を尽くす気はない。第二、さればとてかの勤王家という一類を見れば幕府よりなおいっそうはなはだしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。」というわけで、慶応33年(1867)大政奉還、翌鳥羽伏見の戦いから江戸城明渡しという時節には、官軍、賊軍どちらに向かっても中立的態度を保持しました。

 それというのも、諭吉は19歳で長崎で蘭学を学びはじめ、20歳で大阪の緒方洪庵の適塾に入門22歳でその塾長となり生理学、医学、物理学、化学などの原書を読み、種々の実験を試み、24歳で蘭学から英学に転向、25歳で咸臨丸に乗って渡米、26歳で遣欧使節翻訳方として渡欧し、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルを経て1862年12月に帰朝、32歳(1867)で再び幕府の軍艦受け取り随員として渡米し東部諸州を回り6月帰朝するといったような体験によって西洋事情に通じていましたから、攘夷論が無謀であることを知り抜いていたのです。

 そういうわけで、徳川幕藩体制下の門閥制度の「圧制空威張り」を憎むと同時に、勤王佐幕派を通じたその攘夷主義に対しても批判的で、特に勤王家の攘夷論についても「こんな不文不明な乱暴者に国を渡せば亡国は眼前に見える、情けないことだという考えが、しじゅう胸にしみこんで」いました。結局、その生来の独立心から「維新前後にもひとり別物になっていたことと、自分で自分のことを推察しています」と述懐しています。

2 数理学と独立心の欠如

 ところが、こんなわけで「今度の明治政府は古風一点張りの攘夷政府と思いこんでいた」ところが、「のちに至ってその政府がだんだん文明開化の道に進んで、今日に及んだというのは実にありがたいめでたい次第であるが」、それが「私には初めから測量でき」なかっために、「身は政府に近づかずに、ただ日本にいてなにか努めてみようと安心決定」していたといっています。

 そこで、このように新政府が文明開化の道に進んでくれるならばありがたいというわけで、諭吉としては「畢竟この私がこの日本に洋学を盛んにして、どうでもして西洋流の文明強国にしたいという熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、あたかも東道の主人となり、西洋流の一手販売、特別エゼントとでもいうような役を勤め」ることにしました。

 そのときの「私の教育主義は自然の原則に重きを置いて、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてソレカラ割り出して行きたい。また一方の道徳論においては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重いやしくも卑劣なことはできない。不品行なことはできない。不仁不義不忠不幸ソンナあさましいことは、だれに頼まれても何事に切迫してもできないと、一身を高等至極にし、いわゆる独立の点に安心するようにしたいものだと、まず土台を定め」ました。

 「ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義を比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点である。」これなしには「さしむき国を開いて西洋諸強国と肩を並べることはできそうにもない。」というわけで、その私塾においては、数理学と一方においては独立主義を教育方針としたといっています。(以上『福翁自伝』より)

2006年12月19日 (火)

韓国の教育基本法

 私は、教育基本法の基本的性格は、市川昭午先生も言われるように、「理念法」ではなく「施策法」とすべきだと思います。つまり、国民教育に国家が関与する場合の基本原則を定めるものであって、教育理念を高らかに謳いあげるものではない、地味なもので良いと思うのです。

 その点、韓国の教育基本法は、その第1条において次のように規定しています。
第1条 (目的)この法律は,教育に関する国民の権利・義務と国家及び地方自治団体の責任を定め,教育制度及びその運営に関する基本的事項を規定することを目的とする。

 つまり、あれだけ、儒教的道徳規範意識の強い国において、それを教育基本法に明記する必要を感じていないということです。このことに注目すべきです。つまり、その必要がないほど規範意識が国民一般に根付いているということで、逆に言えば、日本の場合は、脱宗教意識が徹底しすぎていて、無規範状態に陥りつつあるということかもしれません。

 しかし、だからといってこれを、法律で決めて、守らなければ罰するぞということで外面的な強制力でもって教え込むことができるでしょうか。また、その弊害はないでしょうか。

 実は、日本人は江戸時代にも似たようなことをやりました。それは、キリシタン弾圧の一方策として徳川幕府は日本人を強制的に仏教信者にし、戸籍登録という形で寺の檀家制度に組み入れたこと、「いわば宗教が政治の下請けをするという関係が生じたのである。太田錦城は(明和2年・1765年生まれ)は、『梧窓漫筆拾遺』という本の中でこの関係を次のように記している。
 天主教は破られて、宗門、宗旨ということ定められてより、仏法盤石の固めをなせり。僧というもの、検死の役人になりたり。・・・・能々考うれば、僧徒には大功ありて真の仏法には大害あり。是よりして、僧徒は無学にても、不徳にても、事すむことになりたれば、これ僧徒には大利ありて、破戒不如法の僧のみ多くして、仏理を弁じ、仏心を得るもの、掃地にして絶え、今時の甚だしきに至れば、仏法は滅却したりとも言うべし。是仏法には大害なり・・・。」(『受容と排除の軌跡』山本七平p149)

 この事態が今日に及んでいることに慄然とするのは私だけでしょうか。

 ところで、私は年来、我が国の教育改革の基本的視点として、「教育をする側と受ける側の権利義務関係を明確にすべき」と主張してきました。というのは、義務教育といえども、児童・生徒、保護者に権利だけがあるのではなく義務もあるのだということを、明確する必要があるのではないかということです。

 この点、韓国の教育基本法は、「施策法」としての性格が明確であると同時に、教育を受ける側(学習者)の義務も次のように明記しています。

第12条 (学習者)学生を含んだ学習者の基本的人権は,学校教育又は社会教育の過程で尊重され,保護される。
 教育内容・教育方法・教材及び教育施設は,学習者の人格を尊重して,個性を重視するとともに,学習者の能力が最大限に発揮されるように講じられなければならない。
 学生は,学校の規則を遵守しなければならず,教員の教育・研究活動を妨害したり,学内の秩序を乱してはならない。
   
第13条 (保護者)父母等の保護者は,その保護する子女又は児童が正しい心を持ち,健康に成長するよう教育する権利と責任を持つ。
 父母等保護者は,その保護する子女又は児童の教育に関して学校に意見を提示することができ,学校はこれを尊重しなければならない。
 
 なんか、俳優だけでなく、教育基本法も韓国に負けそうですね。

2006年12月18日 (月)

教育基本法改正、文科省のねらい

 極東ブログが「教育基本法改正雑感」のエントリーで、この改正の真のねらいがどこにあるのか問題提起しています。そこで、私なりのコメントをしておきましたので、本ブログの記事と併せて参考に供しておきます。http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/12/post_2574.html

 文科省は、教育基本法改正によって、全国知事会が要求した教育の分権化(つまり教育行政を知事のもとにおくこと)をブロックしたということです。つまり、「教育は、・・・この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」(教育条件だけでなく教育内容も含めて法律で規定し、その法律は文科省がつくる)とするとともに、「教育に関する施策を総合的に策定し、実施」する権限を確保する。これで、その財政保証措置である国庫負担制度を維持できる、というわけです。

 第2条の教育目標に定められた教育理念は、ほとんど実定法としての内容をもっていないのでどうにでもなる。従って、近年強力な主導性を発揮している政府権力とこの面では妥協し、その「治教一致」的傾向を逆に利用して、文科省の教育行政の総合的施策官庁としての地方に対する主導性を確立した、ということだと思います。

 また、これによって教育委員会制度がどうなるか、ということですが、これは独立行政委員会としての性格から首長の権限を強化する方向に向かわざるをえない。(このとき教育委員会制度の基本理念である「教育の住民統制」は、学校選択制に見るような「市場統制」にシフトしていく)。もちろん義務制の場合は都道府県ではなくて合併後の広域自治体の首長にです。といっても、学校経営のノウハウも金も市町村にはないですから、これを文科省が総合的政策官庁として専門的にあるいは財政的に支えていくという体制になる。従って、現行「地方教育行政法」はこの方向での改正を余儀なくされると思います。

 旧左翼がどうして反対するか。いうまでもなくそれは都道府県単位に組織化された組合組織の解体につながるからです。同時に県教委や校長会を含めた教員閥組織の解体にもつながる恐れがあります。今後の議論の中心は、以上の利害関係をベースに公教育の公共性・共同性を主張する立場と市場統制主義をとる立場のせめぎ合いになると思います。

 改正教育基本法がこの時どんな役割を演ずるか、これが政治との妥協の産物(それもかなり政略的な)であるだけに、しばらくは教育が政治に翻弄される季節が続くのではないでしょうか。改正教育基本法が教育界にとってその傷痕を印す墓標とならなければよろしいですが。

2006年12月14日 (木)

教育基本法改正は時代に逆行する

 新聞報道によると、「教育基本法改正案は14日午後、参院特別委員会で自民、公明の与党の賛成多数で可決される見込み」という。自民党内には「民主党案」の良い部分を容れ修正に応じるべきとする意見もあるそうだが、いずれにしろ、会期内成立をめざす方針には変わりはない。

 私は、このブログのエントリーを「教育基本法改正の疑問」から始め、前回のエントリーでは「福沢諭吉の儒教批判1」として、明治がなぜ、それまでの伝統的教育法をバッサリと切り捨てたかということを、福沢諭吉の論に見ようとした。なぜかというと、今回の教育基本法改正でもっとも注目を集めている、改正法案第2条の「我が国の伝統文化を尊重し」の、その「伝統文化」の意味内容を歴史的に把握しておく必要があると思ったからである。

 だが、本法案成立も間近いようなので、この機会に、私自身の体験もふまえて、改正教育基本法についての私の考えを述べておきたい。

 まず第一に、今回の教育基本法改正法案の内容は、やはり時代に逆行するものではないか、ということである。端的に言って、それは前内閣が推し進めてきた教育改革の基本理念である「教育における地方分権」に逆行し、政治権力による教育内容を含めた中央集権統制に陥る恐れがあるということである。

 というのは、現行教育基本法は「教育理念法」としての性格と「教育行政施策法」としての性格が入り交じったものであるが、前文および第1条(教育の目的)に述べられた「教育理念」は、全体主義に陥った戦前の教育に対する反省から、教育の目的を特に「個人の人格の完成」においた「歴史的文書」と見るべきであり、第2条(教育の方針)以下の条文は、教育行政の基本政策を述べたものであって、その基本的性格は「教育行政施策法」というべきものである。

 これに対して、今回の改正法案は、こうした現行教育基本法の基本的性格を改め、「教育の目的・理念及び具体的な教育目標」を直接法律に定める「教育理念法」としての性格を明確にしている。 それは、第2条に「教育は・・・次の目標を達成するよう行われるものとする」として20項目を超える教育目標を明示した上で、第16条において、「教育は・・・この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」と規定していることで明らかである。

 つまり、教育条件だけでなく教育内容も含めてすべて政府が権限と責任をもつといっているのである。2007年1月号の『文藝春秋』で吉本隆明が、いじめ自殺予告を「文部大臣が真に受けて、自分が何とかできると思っているなら、お前さん、お門違いだよ」(「いじめ自殺あえて親に問う」)といっているが、その通りであって、責任を取れるというのがお門違いなら、権限があるというのは傲慢という他はない。

 つまり、現政府は、江戸時代以来の日本の教育的伝統である「治教一致」=「徳治主義」的伝統の克服という視点を見失っているのである。「伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す」といいながら、その「伝統」がなにかということもわからず、従って、それを創造的に発展させるにはどうしたらいいか、ということも考えられないのである。

 今回の教育基本法改正論議の中で「愛国心」ということが話題になっているが、自分の生まれた国を愛するということは、自分自身を愛することと同様当然のことである。しかし、政治家が教育に関心を持つことは当然であるとしても、「民主制のもとにおいては、政治は、教育の一対象領域である各個人の内的規範の育成にはタッチしない」というのが原則であり、その原則をふまえて、伝統の創造的発展ということを考えるべきなのである。

 そして、そのためには、従来の文科省による過度の中央集権的教育行政制度は改め、地方自治体の教育行政上の権限を拡大し、学校経営の自主性・自律性を確立してその主体的な改善努力を待つことが、どうしても必要である。地方自治行政においては、教育行政ほど「おもしろくない」行政はないとされてきたが、それは、なにもかも法律で決まっていて裁量の余地がほとんどなかったからである。

 これを地方自治体・教師・親・地域住民が共同して創りあげる生き生きとした仕事にしていかなければならないのである。それが教育改革の正しい方向であって、現場の教育関係者をさらにロボット化するような法律や政策がうまくいくはずがない。名ばかりの地方分権ではなく、名実そろった学校経営主体をどう確立していくか、それが今日の教育改革で問われていることことなのである。(本ブログ[私の教育再建策]参照)

 

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