最近の教育界をめぐる”ちんぶんかん”
最近、我が国の教育や教育界のあり方をめぐって、「意外な」事件が明るみに出たり、意表を突く発言や行動が相次いで、なんだか”ちんぷんかん”な状況が生じていますので、簡単に問題点の整理をしておきます。
まず、大分の教員採用や教頭・校長の昇任をめぐる口利き汚職事件についてですが、これについては、「教育委員会を腐敗させたのは誰か」寺脇研氏の主張について、で一通り説明しました。
その要点は、公立学校の場合は、一種の「教員ギルド社会」がベースにあるということで、現在でも、「旧師範学校の支配体制が残っている「田舎」や、教員組合と教育委員会が癒着している都道府県が危ない。」そんなところでは、採用や昇任人事などに、表向きのルールとは別の裏のルールが働く。ただし、「大分のように「お金が動く」というのはレアケースで、普通は「お金」ではなく県会議員や地域のボスからの「圧力」が多い。また、権力者に覚えめでたくなるためには、それまで盆、暮、正月の挨拶をはじめ、雑巾がけのようなことをし尽くさなければならない」といったような、一種の派閥人事に陥るケースが多い。
また、教育委員会の人事が、「教育委員会生え抜きの職員が出世できず、課長以上の上級職を『教員出身者』と『教育現場をよく知らない県庁からの出向者』が固め」るようになると問題が大きくなる。しかも、トップの教育長が知事部局から来た場合、教育について詳しくなく、「『じゃあ、教員出身でナンバー2の富松審議官よろしく頼みます』となる。こうして不正につながりました。」というわけ。
そこで結論としては、「結局、問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです。日本という社会は、昔はすべてそうして成り立っていたともいえます。建設業界に限らず、日本全体が巨大談合社会でした。しかし、それがどんどん暴かれて、今は入札談合はできなくなりました。教育は「最後の聖域」・・・ということではないでしょうか。」ということになります。
では、どうしたらこのような問題点を解消することができるか、ですが、最初の「教員ギルド社会」の問題について、私は、教員免許制度及びその資格基準をより客観性のある全国統一のものとするため、従来の単位制から、国家試験制度とすることを提起しました。現在はこの教員の資格基準が曖昧なため、採用試験がこれに代わるものとなり、結局、その合否判定の曖昧さが、かえって採用時の不正や新たな「教員ギルド社会」の形成につながっていると考えるからです。
次の、教育委員会の人事構成の問題ですが、これは決して特異なケースではなく、現行教育委員会制度がもたらす当然の結果だと思います。都道府県教育委員会の場合は、知事が教育委員を任命し、その教育委員によって構成される教育委員会が教育長を任命することになっています。また、教育に関する財政権は知事部局がもっていますので、教育委員会事務局の管理部門の重要ポストは知事部局が抑えることになります。
市町村教育委員会の場合は、市町村長が教育委員を任命しその教育委員によって構成される教育委員会が、教育委員の中から教育長を任命するようになっています。そして、教育委員会事務局職員は指導主事を除いてすべて市町村の職員です。本来は学校と教育委員会事務局は一体のものであり当然人事交流すべきですが、県費負担教職員制度のもとではこの道は閉ざされています。
これらの事実は一体何を物語るか、寺脇氏は「問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです」といっています。しかし、本当は、これは教員や政治家達の個人的な心構えの問題ではなくて、そもそも現行制度下の学校経営システム総体が、教員ギルドや知事部局や市町村部局の仲間内の論理に引き裂かれていて、学校経営体としての責任主体が一体どこにあるかわからなくなっていることから起こっていることなのです。そして、このような無責任なシステムの維持に文科省が深く関わっている、この事実を、寺脇氏は文科省の「仲間内の論理」から見て見ぬふりをしているというか、隠しているというか、責任を他に転嫁していると思います。
果たせるかな、こうした矛盾に一見傍若無人な言い方で批判を加えているのが、大阪府の橋下知事です。
①8月29日、橋下徹知事は、全国学力テストで大阪府小学校が45位だったことについて、「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」と述べ、府教委を厳しく批判した。
② 9月7日、橋本知事は、同府箕面市で地元FM局の公開生放送に出演した際、全国学力テストの結果公表に消極的な市町村教育委員会などを指して「くそ教育委員会が、みんな『発表しない』と言うんです」と発言した。
③ 橋下徹知事は17日の定例会見で、全国学力テストの結果公表をめぐり、市町村別データを明らかにしないよう文科省が都道府県教委に求めていることについて、「国民の意思はお構いなしだ。市町村別データ公表を序列化というなら、(民意を踏まえないような)文科省はいらない」と批判した。
④ 都道府県や市町村の教育委員会の見解を、教育委員長ではなく、事務局の教育長や課長が述べているケースが多いと指摘し、「教育長がホームページで教育観を披露していることさえある。これは暴走だ。関東軍と同じだ」と訴えた。
⑤ 橋下知事は「自民、公明両党が本気で地方分権に取り組んでいるのか不安だ。国会議員にたびたび地方分権をお願いしているのに改革が進まない」と苦言を呈し、両党が明確な地方分権改革案を打ち出さないかぎり、次期衆院選で応援しない意向を示した。さらに地方分権改革推進を打ち出している民主党の政策を評価したうえで、「今の段階では民主党の方が地方分権に力を入れていると思う。行政の長として民主の考え方に感銘を覚える」と述べた。
①は、知事の府教委批判です。府の教育委員は知事が任命しますから、これはかまいませんね。②は、知事の市町村教委批判ですが、こんなこと知事がいう権限はありません。③は、学力テスト結果の公表についての文科省の都道府県教委に対する指示に対する批判です。これは一種の頭越しですから当然⑤につながります。④は、教育委員会(合議制の)が形骸化しているということ。権限のないはずの事務局が実質的にそれを支配していることを「関東軍」になぞらえていったものです。適切な比喩ではないと思いますが。⑤は、教育行政においても地方分権が必要だということをいったものです。
まあ、橋下知事のこれらの発言は、自分の権限とか責任ということは一まず措いて、「全国学力テスト」の結果をどのように公表するかということについて直截な私見を述べた、ということにすぎないと思います。しかし、確かに現行制度の矛盾があからさまに指摘されていることも事実です。結論からいうと、これは先に大分の教員採用や教頭・校長の昇任をめぐる口利き汚職事件について私見を申し述べたとおり、今日の教育委員会制度のもとでは、とりわけ公立小中学校経営の責任主体が曖昧になっているということに尽きるのです。一体誰が公立小中学校経営について最終的な経営責任を負っているのか皆目わからない、このイライラ感を橋下知事が表明したと見るべきです。
そして、その解決策は、まず公立学校経営の基本単位を確定すること。その上で、現在文科省、都道府県知事、都道府県教育委員会、市町村長、市町村教育委員会間でバラバラになっている学校経営権をできるだけそこに委譲し、その責任を明確化することが、必要です。そのためには、現在の教育委員会制度は抜本的に改正する必要がある。都道府県教委と市町村教委の機能分担(前者は狭義教育行政、後者は学校経営)、教育委員の選出方法やその権能の再検討、学校教育と社会教育の分離、学校経営体としての教育委員会事務局の再編、学校から事務局まで統一的な職員制度の確立などです。
また、この公立小中学校経営に関わる文科省の権限について、現在、先に成立した改正教育基本法によって、文科省の権限が大幅に強化され、補助金制度などによる中央集権的な学校経営関与が強くなっているかのような印象があります。この点についても、先ほど述べた学校経営の責任主体の確立と矛盾しない、義務教育推進に果たすべき国の役割を明確にしていく必要があります。
ここで、最近話題になった中山成彬元国土交通大臣の「日教組批判」について私見を申し述べておきます。氏は、現在の歴史教科書が自虐史観に陥っていることを批判して次のように言っています。
「どこの国の教科書をみても、祖国をつくり、祖国を護った英雄達の話はいっぱい出ているが、祖先が悪いことばかりしてきたということを教えている国はない。(中略)日本民族としての自覚と素晴らしい祖先を持ったという誇り、そして世界のために貢献したいという高い志を持った青少年を育てなければならないが、そのためには、自虐史観に貫かれた今の歴史教科書を一日も早く改定することが国家百年の計として必要であると考える」(『歴史教科書への疑問』489―490頁)
また、日本の道徳教育の再建について、次のように述べています。
「教育勅語が謳いあげている『目指すべき教育のあり方』が、けっして間違ったものでなかったことは明白であろう。むしろ、こうした指針がなくなったことが現在の教育の荒廃を生む一因となったと理解いただけるのではないだろうか。だからこそ、私たちは、『かつての教育勅語に相当する教育理念の制定を目指すべきではないか』と提案する」(『人づくりは国の根幹です!』78頁)。
前者の見解についてですが、私も、いわゆる「自虐史観」は好きではない。なぜか、それは、「自分を被害者の位置に置くことで自己正当化しようとするため、一方的な意見を鵜呑みにする傾向がある」からです。いずれにしろ、歴史的事実はしっかり見つめないといけない。その上で、それが自分たちの父祖の時代に起こった出来事ならば、その恩恵とともに負債も引き受けて、それを次の時代に向けて改善し発展させなければいけません。現在私が本ブログで取り組んでいる「日本近現代史をどう教えるか」というテーマもそうした作業の一つです。(アンダーラインの部分を修正10/28)
その意味では、ほんとに教科書をよくしたいと思えば、私は、自由に教科書は作らせて、検定制度で基本的な審査をしてパスしたものについては、現場教師にその採択を任せる、それくらいの責任を教師に持たせることが必要だと思います。現在の教科書採択制度など、その建前と実態は余りに違いすぎて不信感に陥らざるを得ません。これなど現在の教育委員会制度の表と裏の乖離を象徴する出来事だと思います。まあ、(教科書問題は)国民の、国を愛する心、そして伝統的英知に信頼を寄せるしかありませんね。
また、後者の教育勅語の評価についてですが、これは山本七平さんが見事にそれと明治憲法との関係を解明しています。この二つが、前者は道徳教育、後者が立憲君主制として相互補完しながら日本の近代化を支えるべく期待されたのですが、明治時代はそれがうまくいったのですが、昭和になってその矛盾が明らかとなり、結局、教育勅語の天皇親政という政治思想が国民の意識を支配することとなって、議会政治が崩壊し、軍が政治を支配することになったのです。
こうした歴史的事実を踏まえながら、日本人の道徳教育のあり方を考えていくほかありませんね。それは他から強制されるものではなく、自分を内から支えるもの、いわば自律を担保するものですから、法律の規制作用でできることではないのです。確かに人間は「教えなければ禽獣に近し」ですから、人間にするための「教え」は絶対に必要ですが、それは民族の知恵として親から子へその実際の「生き方」を通して伝えていくほかないもので、これもまた日本国民の力を信じるしかありません。
この点で、中山氏のように日教組批判をすることは、裏から見れば過度に教師に期待を寄せるもので、福田恆存などは教員に道徳教育は諦めて知識教育の徹底を勧めていたほどです。それが本物の批判力とともに知識を超えた道徳規範の大切さを教えることになると。まあ、いずれにしろ、教育勅語に語られた道徳規範は、中国の儒教の教えを元にしており、これを見ても、道徳原理などというものは国家の枠を超えるものなのです。
それとは別に愛国心を教えるというなら、私は今中教審の会長をしている山崎正和氏の次のような意見が妥当ではないかと思います。
「このさい私が提案したいのは、内面的な価値としての倫理を学校で教えることはあきらめ、もっぱら客観的な順法精神の寛容に徹すべきだ」
「こうして学校で教育できることが倫理ではなく法的正義だとわかれば、そこで教えられる愛国心」とは「法と法で定められた制度からなりたつ国への愛情であり、いいかえれば、合理的な近代国家への愛情であるほかはない」
「端的にいえば、愛されるのはたとえば『和の心』や『日本的協調』ではなく、比較的犯罪が少なく納税意識が高く、衛生や交通の秩序が守られている現在の日本であるべきなのである。」
ところで「この日本という政治単位が初めて誕生し、全ての住民がそれに帰属意識を覚え始めたのは、近代以降のことで・・・今日では、その版図は世界的な範囲に起源をもつ芸術や社会風俗をうちに含んでいる」
そうした「現在の多元的な日本文化のあいだで、例外的に近代国家の成立とともにつくられ、結果として国民を一元的に統一している文化は、共通語としての日本語しかない」ように思われる。
つまり、それは「異質な価値観を媒介して、日本社会を分裂から守る最強の防波堤に他ならない。しかもこれは十分に制度的な学校教育になじみやすい対象だから、愛国心はまず思いきった国語教育の充実に徹するべきだろう。」
まあ、こんなところではないでしょうか。


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