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カテゴリー「教育改革を考える」の記事

2008年10月25日 (土)

最近の教育界をめぐる”ちんぶんかん”

 最近、我が国の教育や教育界のあり方をめぐって、「意外な」事件が明るみに出たり、意表を突く発言や行動が相次いで、なんだか”ちんぷんかん”な状況が生じていますので、簡単に問題点の整理をしておきます。

 まず、大分の教員採用や教頭・校長の昇任をめぐる口利き汚職事件についてですが、これについては、「教育委員会を腐敗させたのは誰か」寺脇研氏の主張について、で一通り説明しました。

 その要点は、公立学校の場合は、一種の「教員ギルド社会」がベースにあるということで、現在でも、「旧師範学校の支配体制が残っている「田舎」や、教員組合と教育委員会が癒着している都道府県が危ない。」そんなところでは、採用や昇任人事などに、表向きのルールとは別の裏のルールが働く。ただし、「大分のように「お金が動く」というのはレアケースで、普通は「お金」ではなく県会議員や地域のボスからの「圧力」が多い。また、権力者に覚えめでたくなるためには、それまで盆、暮、正月の挨拶をはじめ、雑巾がけのようなことをし尽くさなければならない」といったような、一種の派閥人事に陥るケースが多い。

 また、教育委員会の人事が、「教育委員会生え抜きの職員が出世できず、課長以上の上級職を『教員出身者』と『教育現場をよく知らない県庁からの出向者』が固め」るようになると問題が大きくなる。しかも、トップの教育長が知事部局から来た場合、教育について詳しくなく、「『じゃあ、教員出身でナンバー2の富松審議官よろしく頼みます』となる。こうして不正につながりました。」というわけ。

 そこで結論としては、「結局、問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです。日本という社会は、昔はすべてそうして成り立っていたともいえます。建設業界に限らず、日本全体が巨大談合社会でした。しかし、それがどんどん暴かれて、今は入札談合はできなくなりました。教育は「最後の聖域」・・・ということではないでしょうか。」ということになります。

 では、どうしたらこのような問題点を解消することができるか、ですが、最初の「教員ギルド社会」の問題について、私は、教員免許制度及びその資格基準をより客観性のある全国統一のものとするため、従来の単位制から、国家試験制度とすることを提起しました。現在はこの教員の資格基準が曖昧なため、採用試験がこれに代わるものとなり、結局、その合否判定の曖昧さが、かえって採用時の不正や新たな「教員ギルド社会」の形成につながっていると考えるからです。

 次の、教育委員会の人事構成の問題ですが、これは決して特異なケースではなく、現行教育委員会制度がもたらす当然の結果だと思います。都道府県教育委員会の場合は、知事が教育委員を任命し、その教育委員によって構成される教育委員会が教育長を任命することになっています。また、教育に関する財政権は知事部局がもっていますので、教育委員会事務局の管理部門の重要ポストは知事部局が抑えることになります。

 市町村教育委員会の場合は、市町村長が教育委員を任命しその教育委員によって構成される教育委員会が、教育委員の中から教育長を任命するようになっています。そして、教育委員会事務局職員は指導主事を除いてすべて市町村の職員です。本来は学校と教育委員会事務局は一体のものであり当然人事交流すべきですが、県費負担教職員制度のもとではこの道は閉ざされています。

 これらの事実は一体何を物語るか、寺脇氏は「問題の本質は、教員や政治家たちが、国民のために働くという世界に身を置きながら、教育を受ける側の事を誰も考えていなくて、仲間内の論理だけで動いているということです」といっています。しかし、本当は、これは教員や政治家達の個人的な心構えの問題ではなくて、そもそも現行制度下の学校経営システム総体が、教員ギルドや知事部局や市町村部局の仲間内の論理に引き裂かれていて、学校経営体としての責任主体が一体どこにあるかわからなくなっていることから起こっていることなのです。そして、このような無責任なシステムの維持に文科省が深く関わっている、この事実を、寺脇氏は文科省の「仲間内の論理」から見て見ぬふりをしているというか、隠しているというか、責任を他に転嫁していると思います。

 果たせるかな、こうした矛盾に一見傍若無人な言い方で批判を加えているのが、大阪府の橋下知事です。

 ①8月29日、橋下徹知事は、全国学力テストで大阪府小学校が45位だったことについて、「教育委員会には最悪だと言いたい。これまで『大阪の教育は…』とさんざん言っておきながら、このザマは何なんだ」と述べ、府教委を厳しく批判した。

 ② 9月7日、橋本知事は、同府箕面市で地元FM局の公開生放送に出演した際、全国学力テストの結果公表に消極的な市町村教育委員会などを指して「くそ教育委員会が、みんな『発表しない』と言うんです」と発言した。

 ③ 橋下徹知事は17日の定例会見で、全国学力テストの結果公表をめぐり、市町村別データを明らかにしないよう文科省が都道府県教委に求めていることについて、「国民の意思はお構いなしだ。市町村別データ公表を序列化というなら、(民意を踏まえないような)文科省はいらない」と批判した。

 ④ 都道府県や市町村の教育委員会の見解を、教育委員長ではなく、事務局の教育長や課長が述べているケースが多いと指摘し、「教育長がホームページで教育観を披露していることさえある。これは暴走だ。関東軍と同じだ」と訴えた。

 ⑤ 橋下知事は「自民、公明両党が本気で地方分権に取り組んでいるのか不安だ。国会議員にたびたび地方分権をお願いしているのに改革が進まない」と苦言を呈し、両党が明確な地方分権改革案を打ち出さないかぎり、次期衆院選で応援しない意向を示した。さらに地方分権改革推進を打ち出している民主党の政策を評価したうえで、「今の段階では民主党の方が地方分権に力を入れていると思う。行政の長として民主の考え方に感銘を覚える」と述べた。

 ①は、知事の府教委批判です。府の教育委員は知事が任命しますから、これはかまいませんね。②は、知事の市町村教委批判ですが、こんなこと知事がいう権限はありません。③は、学力テスト結果の公表についての文科省の都道府県教委に対する指示に対する批判です。これは一種の頭越しですから当然⑤につながります。④は、教育委員会(合議制の)が形骸化しているということ。権限のないはずの事務局が実質的にそれを支配していることを「関東軍」になぞらえていったものです。適切な比喩ではないと思いますが。⑤は、教育行政においても地方分権が必要だということをいったものです。

 まあ、橋下知事のこれらの発言は、自分の権限とか責任ということは一まず措いて、「全国学力テスト」の結果をどのように公表するかということについて直截な私見を述べた、ということにすぎないと思います。しかし、確かに現行制度の矛盾があからさまに指摘されていることも事実です。結論からいうと、これは先に大分の教員採用や教頭・校長の昇任をめぐる口利き汚職事件について私見を申し述べたとおり、今日の教育委員会制度のもとでは、とりわけ公立小中学校経営の責任主体が曖昧になっているということに尽きるのです。一体誰が公立小中学校経営について最終的な経営責任を負っているのか皆目わからない、このイライラ感を橋下知事が表明したと見るべきです。

 そして、その解決策は、まず公立学校経営の基本単位を確定すること。その上で、現在文科省、都道府県知事、都道府県教育委員会、市町村長、市町村教育委員会間でバラバラになっている学校経営権をできるだけそこに委譲し、その責任を明確化することが、必要です。そのためには、現在の教育委員会制度は抜本的に改正する必要がある。都道府県教委と市町村教委の機能分担(前者は狭義教育行政、後者は学校経営)、教育委員の選出方法やその権能の再検討、学校教育と社会教育の分離、学校経営体としての教育委員会事務局の再編、学校から事務局まで統一的な職員制度の確立などです。

 また、この公立小中学校経営に関わる文科省の権限について、現在、先に成立した改正教育基本法によって、文科省の権限が大幅に強化され、補助金制度などによる中央集権的な学校経営関与が強くなっているかのような印象があります。この点についても、先ほど述べた学校経営の責任主体の確立と矛盾しない、義務教育推進に果たすべき国の役割を明確にしていく必要があります。

 ここで、最近話題になった中山成彬元国土交通大臣の「日教組批判」について私見を申し述べておきます。氏は、現在の歴史教科書が自虐史観に陥っていることを批判して次のように言っています。

 「どこの国の教科書をみても、祖国をつくり、祖国を護った英雄達の話はいっぱい出ているが、祖先が悪いことばかりしてきたということを教えている国はない。(中略)日本民族としての自覚と素晴らしい祖先を持ったという誇り、そして世界のために貢献したいという高い志を持った青少年を育てなければならないが、そのためには、自虐史観に貫かれた今の歴史教科書を一日も早く改定することが国家百年の計として必要であると考える」(『歴史教科書への疑問』489―490頁)

 また、日本の道徳教育の再建について、次のように述べています。
 「教育勅語が謳いあげている『目指すべき教育のあり方』が、けっして間違ったものでなかったことは明白であろう。むしろ、こうした指針がなくなったことが現在の教育の荒廃を生む一因となったと理解いただけるのではないだろうか。だからこそ、私たちは、『かつての教育勅語に相当する教育理念の制定を目指すべきではないか』と提案する」(『人づくりは国の根幹です!』78頁)。

  前者の見解についてですが、私も、いわゆる「自虐史観」は好きではない。なぜか、それは、「自分を被害者の位置に置くことで自己正当化しようとするため、一方的な意見を鵜呑みにする傾向がある」からです。いずれにしろ、歴史的事実はしっかり見つめないといけない。その上で、それが自分たちの父祖の時代に起こった出来事ならば、その恩恵とともに負債も引き受けて、それを次の時代に向けて改善し発展させなければいけません。現在私が本ブログで取り組んでいる「日本近現代史をどう教えるか」というテーマもそうした作業の一つです。(アンダーラインの部分を修正10/28)

 その意味では、ほんとに教科書をよくしたいと思えば、私は、自由に教科書は作らせて、検定制度で基本的な審査をしてパスしたものについては、現場教師にその採択を任せる、それくらいの責任を教師に持たせることが必要だと思います。現在の教科書採択制度など、その建前と実態は余りに違いすぎて不信感に陥らざるを得ません。これなど現在の教育委員会制度の表と裏の乖離を象徴する出来事だと思います。まあ、(教科書問題は)国民の、国を愛する心、そして伝統的英知に信頼を寄せるしかありませんね。

 また、後者の教育勅語の評価についてですが、これは山本七平さんが見事にそれと明治憲法との関係を解明しています。この二つが、前者は道徳教育、後者が立憲君主制として相互補完しながら日本の近代化を支えるべく期待されたのですが、明治時代はそれがうまくいったのですが、昭和になってその矛盾が明らかとなり、結局、教育勅語の天皇親政という政治思想が国民の意識を支配することとなって、議会政治が崩壊し、軍が政治を支配することになったのです。

 こうした歴史的事実を踏まえながら、日本人の道徳教育のあり方を考えていくほかありませんね。それは他から強制されるものではなく、自分を内から支えるもの、いわば自律を担保するものですから、法律の規制作用でできることではないのです。確かに人間は「教えなければ禽獣に近し」ですから、人間にするための「教え」は絶対に必要ですが、それは民族の知恵として親から子へその実際の「生き方」を通して伝えていくほかないもので、これもまた日本国民の力を信じるしかありません。

 この点で、中山氏のように日教組批判をすることは、裏から見れば過度に教師に期待を寄せるもので、福田恆存などは教員に道徳教育は諦めて知識教育の徹底を勧めていたほどです。それが本物の批判力とともに知識を超えた道徳規範の大切さを教えることになると。まあ、いずれにしろ、教育勅語に語られた道徳規範は、中国の儒教の教えを元にしており、これを見ても、道徳原理などというものは国家の枠を超えるものなのです。

 それとは別に愛国心を教えるというなら、私は今中教審の会長をしている山崎正和氏の次のような意見が妥当ではないかと思います。

 「このさい私が提案したいのは、内面的な価値としての倫理を学校で教えることはあきらめ、もっぱら客観的な順法精神の寛容に徹すべきだ」

 「こうして学校で教育できることが倫理ではなく法的正義だとわかれば、そこで教えられる愛国心」とは「法と法で定められた制度からなりたつ国への愛情であり、いいかえれば、合理的な近代国家への愛情であるほかはない」

 「端的にいえば、愛されるのはたとえば『和の心』や『日本的協調』ではなく、比較的犯罪が少なく納税意識が高く、衛生や交通の秩序が守られている現在の日本であるべきなのである。」

 ところで「この日本という政治単位が初めて誕生し、全ての住民がそれに帰属意識を覚え始めたのは、近代以降のことで・・・今日では、その版図は世界的な範囲に起源をもつ芸術や社会風俗をうちに含んでいる」

 そうした「現在の多元的な日本文化のあいだで、例外的に近代国家の成立とともにつくられ、結果として国民を一元的に統一している文化は、共通語としての日本語しかない」ように思われる。

 つまり、それは「異質な価値観を媒介して、日本社会を分裂から守る最強の防波堤に他ならない。しかもこれは十分に制度的な学校教育になじみやすい対象だから、愛国心はまず思いきった国語教育の充実に徹するべきだろう。」

 まあ、こんなところではないでしょうか。

2007年2月10日 (土)

教育再生会議の提言を検証する2

(3)すべての子供に規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する

 ここでは、「道徳の時間」の確保と充実、高校での奉仕活動の必修化などが提言されています。これについては、前回のエントリー「山崎正和氏、次期「中教審」会長に内定」で紹介したとおり、道徳教育については、「国語教育や歴史教育の充実」を通して子どもたちの規範意識を育てていく外ないと思います。

 特に、歴史教育のあり方については、外国の視点でなく「比較的犯罪が少なく納税意識が高く、衛生や交通の秩序が守られている現在の日本」を維持・発展させていくという観点から、徹底した議論を積み重ねていくことが大切だと思います。福沢諭吉のいう「独立自尊」の精神に支えられた愛国こそが求められていると思います。

(4)あらゆる手だてを総動員し、魅力的で尊敬できる先生を育てる

 ここでは、2割を社会の多様な分野から教員に採用することや、優れた教員の優遇、指導力不足教員の認定及び分限の厳格化が提言されています。
 私のこの問題に対する意見は、「教員免許を国レベルの統一試験にする」ということです。(「私の教育再建策」参照)そのことによって、教員の質を高め一定水準以上に保つことができると同時に、その受験資格制限を撤廃することによって、社会人からも意欲有る人材を幅広く教師に登用することができます。

 現在の単位取得による免許制度では、その専門職としての能力保証が十分でなく、いきおい採用試験がそれに代わることとなり、それを突破しさえすれば、その後は専門職能の成長というより官僚制的なキャリヤアップを図ることが常識となります。その結果、県レベルの排他的かつ権威主義的な教員閥が形成される、これが問題なのです。

(5)保護者や地域の信頼に真に応える学校にする

 ここでは、「教育水準保障機関」による外部評価、副校長・主幹等の新設、民間人校長など管理職に外部の人材を登用が提言されています。
 ここでの課題は、要するに、教育委員会レベルの学校経営権を確立するにはどうしたらいいかということです。これに手をつけないで、現行制度のままで文科省や外部機関による評価や統制を強化をしても、私は決して「保護者や地域の信頼に真に応える学校」を創ることにはならないと思います。このことは、そのまま次の課題につながります。

(6)教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す

 ここでは、教委を住民・議会が検証する。教職員の人事権は市町村にできるだけ移譲する。5万人以下教育委員会の統廃合を行う、などが提言されています。
 まず、教育委員会を地域の専門的学校経営機関にするにはどうしたらいいか、ということですが、私見では、まず、合議制の執行機関としての教育委員会の機能と、教育委員会事務局の機能を区別する必要があると思います。その上で、前者は執行機関ではなく教育行政の評価・審査機関とし、後者は教育長を中心とする専門的学校経営機関とするべきだと思います。

 そのためには、教育委員会の統合は不可欠です。現行の地方教育行政法でも広域連合による教育委員会が設置可能なのですから、思いきって5万人以上の人口規模の地域に統合し、そこに教職員の人事権や給与決定権を都道府県から委譲すべきです。ただし、現在の単位制免許制度のもとにおいては、採用試験における名簿登載、給料表の作成、服務基準の作成などは、県域の人事調整を可能にする観点から県レベルで行い、その後の採用、昇任昇格、転任や服務監督は地教委で行うこととするのです。

 また、専門的学校経営機関である教育委員会の監督者はだれかというと、それは、その自治体の長とし、その長が教育長をリクルートしてきて地域内の学校経営を任せる。その結果については、評価・審査機関である教育委員会(スクールボード)の意見を参考に長が判断する。

 また、教育予算は当然議会の承認を必要としますが、学校予算の執行はできるだけ学校の裁量に任せる。なを、地域住民の教育に関する民意は、議会及び評価・審査機関である教育委員会を通じて自治体の教育経営に反映されることになります。

 こうした改革に手を付けるのかどうかということが、教育再生会議の今後を占う試金石になると思います。これをやらないで教育委員会の無力をあげつらい、それを根拠に中央統制を強化するなど、まさに「いいがかり行政」という外ありません。

 なぜなら、教育委員会の地域の学校経営機関としての権能をほとんど換骨奪胎したままで、つまり、市町村教育委員会から教職員人事権や給与決定権を奪ったままで、その経営改善努力を期待するなど、できるはずがないからです。

(7)社会総がかりで子供の教育にあたる

 ここでは、提言されている「早寝・早起き・朝ご飯運動」は、蔭山英男氏らの自由で地道な教育実践の中から生み出されてきたもので、これは日本の伝統的教育法を継承するものといえます。ただし、これはあくまで教師や保護者による自主的な取り組みとして推進していくべきだと思います。朝の読書もいいですよね。

 次の、「経済的・時間的に子育て困難家庭への支援」については、私も大変いいことだと思います。老人のケアーだけでなく、こうした厳しい環境におかれた子どもに対する専門的ケアーは必要だと思います。私自身、母や姉の介護で、福祉施設の職員の皆さんに親身なお世話をいただき、心から感謝しています。

 次の、「社会総がかりで子供の教育にあたる」というのは、教育の問題を社会全体で共有するということであって、自分を正義と見立てて他を非難することではないと思います。「美しい日本」とはまず、自分自身を厳しく問う言葉であって欲しいと思います。

2007年2月 9日 (金)

教育再生会議の提言を検証する1

 去る1月24日、内閣に設置された教育再生会議の第1次報告「教育再生のための当面の取り組み」(『七つの提言と五つの緊急対応』)」が同会議総会で決定されました。新聞報道によると、安部首相も「今やるべきことを網羅している。ベストの案をいただいた。そういう意味では、100点だ」と、満足げな表情を浮かべたといいます。 

 また、首相は当総会で、「教育再生は待ったなしだ。第1次報告の実現に向けて内閣を挙げて取り組んでいきたい」と強調し、提言を実行に移すために、教員免許法改正案(免許更新制度導入)、学校教育法改正案(ゆとり教育見直し)、地方教育行政法改正案(教育委員会制度改正)の3法案を25日召集の通常国会に提出、成立を目指す考えを表明しました。

 こうして、今国会において、これら3法案が審議されることになったわけですが、これらの法案化をめぐって、今後、以上紹介した政府の教育再生会議(有識者17名、座長野依良治)と、文部科学省の諮問機関である中央教育審議会(第4期、30名の委員を任命、会長山崎正和)が、教育改革の方向性をめぐって激しいつばぜりあいを演じることになるのではないかと思います。

 ここにおける議論の焦点は、いうまでもなく、私は「教育委員会制度のあり方」だろうと思います。再生会議からは、地方教育行政法改正案に文科相の教委に対する是正指示(勧告)権を盛り込むことなど、小泉内閣下において進められてきた「地方分権」の流れに逆行する意見も出ています。びっくり!だって、文科省の教育委員会に対する「措置要求権」は、地方分権一括法によって99年に廃止されたばかりですから。

 早速、今回の教育基本法改正の効果が現れたか、といった想いがよぎりますが、ともあれ、24日に発表された教育再生会議の第1次報告の提言内容を、この地方分権という観点から検証してみたいと思います。

(1)ゆとり教育を見直し、学力を向上する

 ここでは、授業時間の10%増、土曜スクールの実施、習熟度別指導の充実、地域の実情に留意のうえ学校選択制の導入、などが提言されています。こうした、ゆとり教育の問題点については、市川昭午氏がつとに指摘してきたところであり、その結末も、そこで予測された通りです。(本ブログ「総合的学習のゆくえ」参照

 それにしても、授業時間の10%増については、総合的学習や選択学習の見直しで何とかなるとしても、土曜スクールの予算措置はどうするのでしょうか。教員の時間外勤務は、近年、次々に押し寄せる教育課題のため増える一方ですが、教員の場合は、労働基準法37条が適用除外されているので実績にもとづく時間外勤務手当は支給されないのです。こうした新たな施策に伴う定数改善や時間外勤務に対する手当等、必要な予算措置は確保されるのでしょうか。

  (2)学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする

 ここでは、出席停止制度の活用、反社会的行動を繰り返す子供に毅然たる指導などが挙げられていますが、これも、「ゆとり教育」に関わって主張された「個性主義による学校教育改革の帰結」といえる一面があることは否定できません。従って、ここでは、論語にいう「教えなければ禽獣に近し」という教育の原点に立ち返ることが必要です。

 それにしても、「いじめ問題」をめぐって、政府が教育委員会の責任を「一方的に」追及する姿勢を示しているのは、政略とはいえ滑稽さを通り越していきどおりを感じざるを得ません。このことに関し市川昭午氏は次のように言っています。

 「いじめ問題については、それを根絶できると考えるより、むしろ、いじめをしのぐ教育、単純ないじめに耐えられる教育も大切である。一方、犯罪行為に等しいいじめや暴力には厳正に対処することが必要である。そのためには、いじめに対処する具体的な基準を行政当局が作成し専門の職員を配置して対応したり、これらの問題に専門的に対処する教育機関を設置することなどが必要である。要するに『社会で許されないことは子供にも許されない』という規範意識を持たせることが大切である。」(『未来形の教育』市川昭午) 

 また、私見としては、義務教育をめぐるこうした問題点を抜本的に解決するためには、義務教育といえども、「教育をする側」と「教育を受ける側」の権利義務関係を明確にしておくことが必要だと思います。その意味で、「地域の実情に留意のうえ学校選択制の導入」ということも意味を持ってくると思います。(つづく)

2007年2月 2日 (金)

山崎正和氏、次期「中教審」会長に内定

 読売新聞(1月29日)によると、「伊吹文部科学相は29日、1月末で任期が切れる中央教育審議会(文部科学相の諮問機関、中教審)の鳥居泰彦会長(70)の後任に、劇作家で評論家の山崎正和氏(72)を起用することを内定した。」そうです。

 この山崎正和氏は、一週間ほど前の読売新聞(1月21日)『地球を読む』シリーズのエッセイで、「愛すべき現在の日本」と題して、次のように述べています。

 「新しい教育基本法が制定されて学校は従来にない課題を背負うことになった。・・・『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する』心の涵養が求められているからである。もっともこの理想はきわめて穏当であって、政治思想の点で右傾化したとかの心配を誘うものではない。・・・そのせいか国会の論戦はイデオロギー的にはきわめて低調であった。」

 だが、「教育現場にとって真に困難でもあり、混乱を招きそうな課題は・・・愛郷心や愛国心といい、いずれも人間の内面の問題」だということで、こうした個人の価値観や規範意識にかかわることがらを、近代の制度的・組織的な学校のなかでどうして教えられるか、ということである。

 「論点は大きく二つに分けられる。・・・現代では・・価値の多元化がさらに進み、その多様性を認めることこそ倫理的だと広く考えられている」こと。もう一つは多くの内面的な価値は教える人の人格に結びついていて、教壇から組織的に伝授することは不可能に近いということである」

 前段でこのように述べた上で、中段では、新基本法が敬愛する「日本の伝統」そのものも、時代によってまた地域や階層によって違いがあり、時には価値観の上で衝突を招くことさえあった、と述べ、さらに、価値観の多元化の深刻な現代において、倫理問題について、平均的な教師が学校で教えられる事は限られている、と注意を促しています。

 そして後段では、「このさい私が提案したいのは、内面的な価値としての倫理を学校で教えることはあきらめ、もっぱら客観的な順法精神の寛容に徹すべきだ」として、次のように結論づけています。

 「こうして学校で教育できることが倫理ではなく法的正義だとわかれば、そこで教えられる愛国心」とは「法と法で定められた制度からなりたつ国への愛情であり、いいかえれば、合理的な近代国家への愛情であるほかはない」

 「端的にいえば、愛されるのはたとえば『和の心』や『日本的協調』ではなく、比較的犯罪が少なく納税意識が高く、衛生や交通の秩序が守られている現在の日本であるべきなのである。」

 ところで「この日本という政治単位が初めて誕生し、全ての住民がそれに帰属意識を覚え始めたのは、近代以降のことで・・・今日では、その版図は世界的な範囲に起源をもつ芸術や社会風俗をうちに含んでいる」

 そうした「現在の多元的な日本文化のあいだで、例外的に近代国家の成立とともにつくられ、結果として国民を一元的に統一している文化は、共通語としての日本語しかない」ように思われる。

 つまり、それは「異質な価値観を媒介して、日本社会を分裂から守る最強の防波堤に他ならない。しかもこれは十分に制度的な学校教育になじみやすい対象だから、愛国心はまず思いきった国語教育の充実に徹するべきだろう。」

 氏が、このエッセイで最もいいたかったことは、この最後の部分、「愛国心はまず思いきった国語教育の充実に徹するべきだろう」ということだろうと思います。こうした山崎氏の主張を見れば、今回、氏が中教審の会長に選出されたことは、私は、政治とのバランスをとる上で大変いいことだと思います。

 私は、本来、文部大臣というポストは、氏のような見識を備えた文化人が引き受けるべきで、戦後のイデオロギー対立の激しい時代はやむを得ないとしても、もうそろそろ、政治主義に対して文化主義を対置しうる人物を据えるべきではないか、と考えます。

 いずれにしても、今回の「教育基本法改正」は、政治の力で道徳教育をやれるという思い込みを具現化したものですから、私の予想では、これは次第に保守に対する信頼を失わせるひとつの契機になるのではないかと思います。

 もちろん、私は、このような議論をするからといって、日本人の愛国心やそのよって立つ歴史・伝統・文化を否定的に見ているわけではありません。それは、自分たちの言葉を大切にするという意味で当然のことだと思っています。

 それ故にこそ、それは決して法律でもって国民に強制するものではないということをいっているのです。福沢諭吉の言葉を借りれば、それは独立自尊の精神と分かちがたく結びつく「哲学の私情」ということになります。

 ところで、最近の朝日新聞(H19.1.25)の世論調査によると、日本に生まれて良かったと答えた人が、男女とも全ての年代で9割を超し、愛国心があると答えた人は78%に上ったといいます。

 おそらく、これは、北朝鮮や中国など、日本を取り巻く国際的な政治環境が厳しさを増していることによるものと思われますが、一方で、「愛国心」をしっかり持つ人の方が過去の戦争に対する反省も強いという結果も出ています。

 また、近年、蔭山英男氏や斉藤孝氏によっる、日本の伝統的な教育法である「読み・書き・計算」を生かした教育や、古典の暗唱教育などが注目を集めています。また、「早寝・早起き・朝ごはん」などの国民運動も始まろうとしています。

 こうした動きを見ると、一国における伝統・文化の創造的発展は、決して、権力による画一的強制によって生まれるものではないということが分かります。おそらく、今後は、国語教育から歴史教育の充実へと人々の関心が移っていくものと思われます。

 山崎正和氏は「愛されるのは・・・比較的犯罪が少なく納税意識が高く、衛生や交通の秩序が守られている現在の日本であるべき」といっています。しかし、それは偶然の産物ではなく、あくまで歴史的に形成されてきたものです。

 それだけに、安穏だからといって現状を無批判に肯定したり、またそれがいつまでも続くかのような錯覚に陥らないようにしなければなりません。歴史的思考法及び比較文化的思考法を学ぶ必要があります。私が「山本七平学」をすすめる所以です。

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