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カテゴリー「日本古代史」の記事

2020年5月 5日 (火)

日向神話の歴史的意義に関する一考察(3)

崇神天皇に祟った天照大神の「鏡」と大国主の「八坂瓊」
 こうして、伊波礼毘古が、長髄彦を打ち破り橿原の地に大和王権を樹立(301年)した後、綏靖天皇から開化天皇まで八代が続く。しかし、これらの天皇については、系図に関する記述の他、事跡らしいものがほとんど書かれておらず、それらは、天皇記の年代を過去に引き延ばすために挿入された架空天皇ではないかとする意見が根強い。
 宮崎氏の場合は、神武=崇神とし、橿原に大和王権の基礎を築くまでを神武、三輪への勢力拡大や四道将軍派遣をするまでを崇神とし、両者を「初国知らし天皇」として同一人物と見ている。しかし、その後の天皇の治世を、広開土王碑に記録された神宮皇后の新羅侵攻(391年)から逆算した場合、その間の4代の天皇の治世が長くなり過ぎるという難点がある。
 崇神天皇は、邇芸速日より磐余彦に献上された天照大神の「鏡」と大国主の倭大国魂(やまとおおくにたま)「八(や)坂(さ)瓊(かに)」の二神を宮中に祭った。しかし、疫病が流行ったり百姓が逃亡したりしたので、天皇は二神の神威(祟り)を畏れるようになり、宮中に祀っていた「鏡」と「八(や)坂(さ)瓊(かに)」(現在大和神社のご神体となっており、宮中の八尺瓊勾玉とは別)を宮中の外で祀ることにした。
 天照大神の「鏡」は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して笠縫邑(かさぬいむら)(現在の檜原神社)に祀らせたが、その後宇陀、近江、美濃と周った末、最終的には、垂神天皇の時、皇女倭姫(やまとひめ)が伊勢に祀ることで落ち着いた。一方、倭大国魂(やまとおおくにみたま)は渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に預けて祀らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかったので、太田田根子(おおたたねこ)(大物主の子孫)を探して三輪山に祀らせることで落ち着いた。
①ここで、崇神天皇が、邇芸速日より献上された天照大神の「鏡」と倭大国魂の「八坂瓊」の二神を宮中祀ったが、疫病等の後、この二神の神威を畏れるようになったのはなぜか。
 その理由は、実は、この両方とも邇芸速日(実際はその子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと))が自ら進んで献上したものではなく、大和王権への帰順の証として神武天皇に奪われたものだということ。邇芸速日の宗家はこの時断絶したらしく、また、倭大国魂の元の持ち主である大国主の宗家も、天照大神一族による「出雲の国譲り」際に断絶したとされる。
 この両者の形代が、宮中に祀られた二神であったわけだが、崇神天皇はこの時、この「鏡」(卑弥呼が魏の皇帝より下賜された長宜子孫銘のある鏡)のレプリカ(銘のない内行花文鏡)を作って宮中に祀り、本物の「鏡」は最終的には伊勢神宮に祀った。一方の「八坂瓊」は大物主=事代主(大国主の子)の神託を受けて、太田田根子に祀らせた。つまり、崇神天皇は二神の祟りを怖れ、それを鎮めるために必要な措置をとったのである。
②では、往事の大和王権(神武天皇から仲哀天皇までの狗奴国王統)にとって、「卑弥呼の鏡」を主題とする天照大神神話を取り入れることには、どんなメリットがあったか。
 このことについて宮崎氏は、「第一に仇敵の邪馬台国女王を実名で祀らなくても良い。第二に降伏させた邪馬台国末裔に対して、彼らの象徴である「日の化身」(=卑弥呼)を皇祖天照大神として王権が祀ることで慰撫できたからだという。
 また、後世、応神天皇が邪馬台国王統を再興したとき、なぜ、天照大神を「卑弥呼大御神」といったように卑弥呼に冠した「神」に名称変更しなかったか、については、卑弥呼を殺害したのは彼らの遠祖である。心情的に卑弥呼を再降臨させることはできなかったと思われる、としている。(『三角縁神獣鏡が映す大和王権』p184)

景行天皇の熊襲征討と小碓命の川上梟帥征討
 その後、景行天皇の時、熊襲征討がなされ、天皇は、熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、大分から日向に入り、高屋に行(あん)宮(ぐう)を建て住まいとし熊襲を平定した。高屋の宮に居ること6年、日向に美人の聞こえ高い御刀媛(みはかしひめ)を召して妃とした。妃は日向国造(くにのみやつこ)の始祖である豊国別(とよくにわけ)皇子を産んだ。この縁で後に応神天皇の妃となった日向国の諸県君の娘髪(かみ)長(なが)姫(ひめ)が出る。
 その後、景行天皇は、今の児湯郡である子湯県の丹(に)裳(も)小野で遊び、東方を望んで左右の者に言った。「この国はただちに日の出る方に向かっている」。それでこの国を日向(ひむか)と呼ぶようになったという。また、夷守(ひなもり)に至り、諸県君泉媛の接待を受けた。また、その後熊襲が再叛すると、小碓尊(おうすのみこと)を遣わして川上梟帥(たける)を討たせた。(日本書紀がこの両者の話を記す。古事記は後者のみ)
 小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建(たける)を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はいない。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいた」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(やまとおぐな)と名乗る小碓命に名を譲って倭建の号を献じたという。
①ここで、熊襲とは、児湯あるいは諸県以南ということになるが、このように日向が熊襲征伐の基地とされたのはなぜか。
②また、川上梟帥が小碓尊に「倭建の号を献じた」というのは、熊襲と天皇家の皇子との関係において疑問とされるがなぜか
①について、宮崎氏は次のように説明する。
 海幸彦が、山幸彦との宗家争いに負けた後どのようにして隼人族と関係を持ったかだが、旧南那珂郡(現日南市)北郷町に潮嶽(うしおたけ)神社がある。この神社は海幸彦を祀る唯一の神社で「海幸彦が、磐(いわ)船(ふね)に乗って此の地に逃れ、此の地をりっぱに治め、隼人族の祖となった」という伝承が残る。西方の谷間地区にある王塚古墳は海幸彦の陵墓と伝わる。
 この南那珂郡は「景行天皇の御世に隼人と同祖の初小(そお)平定」とあり、この初小は景行期にある「襲国(そこく)」であり児湯県より南の広域をさす。つまり南那珂郡に隼人の拠点があったと考えることができる。海幸彦はここで隼人の女と結婚して隼人族の魁師(ひとごのかみ)となり、その子孫が隼人の魁師となり、天武11年展覧相撲の褒美として阿多君(あたきみ)に叙任されたのだろう。
 一方、宗家争いに勝った山幸彦の孫(子?)である伊波礼毘古は、日本書紀では「日向国吾田邑で吾(あ)平(い)津(ら)媛(つ)を娶り、妃となす」とある。この吾平津媛は伊波礼毘古と御子の手研耳命(たぎしみみのみこと)が東征に出た後、日向に残った。また、海幸彦を「吾田君小(お)橋(ばし)等の本祖」としており、この小橋君一族は、父あるいは祖父の海幸彦の後を追って旧南那珂郡に移ったと思われる。
 旧南那珂郡吾田邑戸高(現日南市戸高)に、吾平津姫と手研耳命を祀る吾(あが)田(た)神社(伝和銅2年創建)があり、この神社の位置が「小橋」とされている。小橋一族はこの地域を故郷を偲んで吾田と呼んだ。吾田神社の西北丘陵に吾平津媛の御陵伝説地が在り、陵の遙拝地に、後世、吾田神社が建てられたのだろう。近くの油津には吾平津姫を祀る神社がある。
 このように、伊波礼毘古の東征後、「日向の地に残留した狗奴国や奴国の民は、さらに南の沖積平野部に進出して大いに人口を増やして栄えた。襲国の熊襲梟帥を討つために、景行天皇とその皇軍が児湯縣(児湯郡と西都市あたり)に高屋宮を建てて約6年にわたり滞在できたのも、地元住民に狗奴国の裔が多くいたためと思われる」。
②については、海幸の裔孫が隼人族の魁師として、「日向国曽於郡から川内平野に移住して熊襲梟帥(川上梟帥)となっていたこと。このことが「瓊瓊杵尊の天下り譚」として後世に伝わったのではないかと宮崎氏は言う。その一部の裔孫が薩摩半島南部にまで達し、瓊瓊杵尊との木花咲耶姫の話を伝えたのではないかという。
 このように、川上梟帥が海幸彦の裔孫であるとすることができれば、日本武尊条で謎とされる、「川上梟帥が日本童男(小碓命)に日本武尊(倭建)の尊号を奉る」理由が、明らかとなる。川上梟帥が海幸彦の裔であれば、小碓命は山幸彦の裔であるので、二人は対等か、考え方によっては川上梟帥の方が上位にあたるともいえる」からである。

神功皇后と竹内宿禰による邪馬台国王統の樹立
 成(せい)務(む)天皇は、景行天皇の第四子であるが、第二子の小碓命が若くして死んだため即位し、武内宿禰(たけうちすくね)を大臣とした。諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(みやっこおさ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔(さかい)にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。
 仲哀天皇は日本武尊の第2子である。母は活目(いくめ)天皇(垂仁天皇)の皇女・両道(ふたじり)入姫命。気長足姫(おkながたらしひめ)尊を皇后とした(=神功皇后)。仲哀天皇は、これより前に妃としていた従妹の大(おお)中(なか)津(つ)姫(ひめ)命との間に香(こう)坂(さか)皇子(のみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)を得ていた。
 仲哀天皇は、再叛した熊襲を討つため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先のあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。(wiki「仲哀天皇」要約)
①仲哀天皇は、「託宣」を無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。翌年2月に急死し「神の怒りに触れた」とされた。熊襲の矢に当たったともされるが、「皇后への託宣」でもありその死は謎とされる。
②神功皇后は、仲哀天皇の遺志を継ぎ熊襲征伐を達成。その後、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させた(三韓征伐)。神功皇后は仲哀天皇の遺児である誉田別尊(ほむたわけのみこと)を出産。渡海の際は、「則ち石を取りて腰に挿みて」筑紫に帰ってきたとき生まれるようにと祈って出産を遅らせたというが、これも不思議な話。
 翌年、誉田別尊の異母兄である香坂皇子(かごさかのみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)を退けて凱旋帰国。神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれた。神功皇后は、明治時代までは一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていた(大正15に皇統譜より正式に歴代天皇から外された)。
①②の謎について、神宮皇后への託宣の審神者が竹内宿禰であり、託宣主は、天照大神荒魂、つまり三輪山の事代主神などの託宣であったこと。神宮皇后、竹内宿禰共に邪馬台国の邇芸速日の後裔であったことなど考え合わせると、神功皇后は、竹内宿禰と組んで狗奴国王統から邪馬台国王統への権力奪還を謀ったとも考えられる。生まれた子供(誉田別尊)が仲哀天皇の遺児であったかどうかは、その後の経過から見て疑わしいといわざるを得ない。

天武天皇の記紀編纂と隼人の関係
 「乙(いっ)巳(し)の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われた・・・既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。
 そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が(舎人親王等の手によって)編纂された。」 (wiki「日本書紀」)
 宮崎氏によれば、この『記紀』編纂を命じた天武天皇こそ、応神天皇以降天智天皇まで続いた邪馬台国王統を倒し、狗奴国王統を再興した狗奴国の後裔であるという。舎人親王は天武天皇の子である。通説では天武天皇は天智天皇の弟とされるが、宮崎氏によると、実はその始祖は、瓊瓊杵尊と共に日向に天下った天忍日(あめのおしひ)であるという。
 自らの出自を知った天武天皇は、『記紀』編纂において、狗奴国王統が日向から東征し大和王権を開いたという歴史的事実を後世に伝えるため、天照大神の出雲への天下りに瓊瓊杵尊の日向への天降りを接続し、天照大神の神勅「この豊(とよ)葦(あし)原(はら)水(みず)穂(ほ)国(ぐに)は、汝知らさむ国ぞと言依(ことよ)さしたまふ」)をもって天照大神に続く狗奴国王統の正統性を確立しようとした。
 また、天武天皇の治世時、多くの隼人が宮殿に来て貢ぎ物を奉ったり、隼人を宮殿に召して相撲を取らせたりしている。天武天皇は、隼人の魁師が海幸彦の後裔であることを知ってこれを優遇した。天武の死去に際しては隼人が「誄(しのびごと)」を奉ったという。その狗奴国王統はこの後第48代称徳天皇まで続き、次の光仁天皇から邪馬台国王統となり今日に続く。
①本郷和人氏によると、歴代天皇による伊勢神宮参拝は、実は、持統天皇の後、明治天皇直前の孝明天皇までの約千年間行われなかったという。
②また、天皇家の菩提寺である泉涌寺には、天武天皇から称徳天皇までの、宮崎氏がいうところの狗奴国王統の天皇の位牌は祀られていないという。この事実は一体何を物語るか。
①本郷氏は、この間の天皇は、神道より仏教をより篤く信仰していたことをその理由としているが、『記紀』編纂の過程で、「卑弥呼=天照大神」であり、卑弥呼は邪馬台国の人々に殺害されたが故に「日の化身=神」として祀られた事実が明らかになったことが、その本当の理由なのではないだろうか。
②また、仏教信仰が盛んになるのは大化の改新以降であるが、泉涌寺に位牌が置かれている最初の天皇は天智天皇である。その後、天武天皇以降称徳天皇まで七代の天皇の位牌がないということは、称徳天皇で天武天皇の血筋が断絶していることから、宮崎氏の「狗奴国王統vs邪馬台国王統論」の正しさを示しているように見える。、

おわりに
 宮崎氏の著作は『日向国の神々の聖跡巡礼』の他に、『三角縁神獣鏡が映す大和王権』、web版『狗奴国私考』、『女王卑弥呼が都した邪馬台国に至る』がある。これらを読み通すことは一般的には必ずしも容易ではないので、従来、「古事記」「日本書紀」で謎とされている点について、宮崎氏の説がどのような解答を示しているかを見ることにした。
 宮崎氏の説は、日本のアカデミズムが、歴史資料としてはほとんど無視する「記紀神話」について、可能な限り、その背後にある「歴史的事件」を、理系学者としての知識を駆使して読み取ろうとするものである。そこで基軸となった視点が、日本古代史を、委奴国を同祖とする狗奴国王統と邪馬台国王統の競合関係で見ることである。
 言うまでもなく、この視点は、宮崎氏固有の感性・理性に基づくもので仮説の一つに過ぎない。しかし、本稿で示したように、それは、従来の日本古代史をめぐる議論の中で、収拾がつかなくなっている『記紀』のもつ謎の数々について、トータルかつ合理的な解答を示している点で、唯一の論考ではないかと私は思う。
 日向神話における個々の物語は説話であって歴史ではない。当時の人々の「社会及び思想」を読み取るべき、というのはその通りだが、「天孫」と称する一団が九州北部の小国家群のせめぎ合いの中で日向にやってきて、何代か後に伊波礼毘古という英雄的人物に率いられて大和に王権を樹立したことは、以上の論考から、どうやら事実のように思われる。
 これは、私が延岡人であることとは別に、『記紀』に根ざす日本の天皇制の歴史をもっと明らかしたいという、長い間、日本人の比較文化論的研究に注力してきた者の願いでもある。戦後アカデミズムは、「日向神話」に関心をもたず、それをフィクションとする。その迷妄に果敢に挑戦し、日本古代史に光を当てたのが、理系学者、宮崎照雄氏ではないだろうか。
            おわり

日向神話の歴史的意義に関する一考察(2)

「記紀神話」における「天孫降臨」の謎
 こうした、宮崎氏の思い切った「記紀神話」解釈の妥当性については、これが、以下のような「記紀神話」をめぐる謎を、それがどれだけ合理的に説明できるかにかかっていると言える。
①なぜ出雲への天降りの話が、突然日向への天降りとなったか。
②なぜ僻遠の地日向への天降りとなったか。
③天降りに際して天照大神から渡されたはずの三種の神器の話が、降臨後の日向神話に出てこないのはなぜか。また、天降りに際して随伴した神々は誰か。
④天降りに際して原住民(猿田毘古(さるたひこ)や大山津見神(おおやまつみのかみ)、塩老翁(しおつちのおじ)=事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)(紀))との争いはなく、むしろ迎えられているのはなぜか。
⑤降臨後に出てくる話は、男女関係、夫婦関係、兄弟関係など私的な話ばかりで、国作りなど公の話がないのはなぜか。
 これらの疑問が、アカデミズムにおいて日向神話をフィクションとする根拠になっているわけである。そして、瓊瓊杵尊の長男火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)が、次(三?)男火遠理命(ほおりのみこと)(山幸彦)との後継争いに負けて後、古事記に「隼人阿多君(あたきみ)の祖」と注記されていることを以て、そうした作話の動機を「隼人の服属の起源を神話時代にさかのぼって示す」ためとしているのである。
 一方、宮崎氏は、これらの謎を解く鍵として、日向に天降りした一族は、天照大神(=邪馬台国系)の一族ではなく、素戔嗚尊(=狗奴国系)の一族であったとする。この天照系と狗奴国系は、委奴国から分立した同根の種族であるが、先述した通り、中国との外交関係をめぐって、分裂・融和・対立を繰り返した。
 その後、卑弥呼は、邪馬台国の女王に共立され、魏より「親魏倭王」に叙任され、そのためこの「同盟」に反対する狗奴国と戦争になった。時はあたかも中国史の三国時代であり、魏、呉、蜀が覇権を争っており、日本がいつその戦争に巻き込まれるか判らなかった。そこで魏(あるいは呉)の侵攻を怖れた狗奴国は、その王族の一部を、高千穂から日向へと避難させた、それが瓊瓊杵尊の「天孫降臨」であると。
 『記紀』が編纂されたのは、その後約500年後のことであるが、これは、日本が663年白村江(はくすきえ)の戦いに敗れ、唐・新羅連合の脅威に直面するという国家的危機の中で、日本国の独立と天皇家の統治の正統性を内外に示さんとしたものである。その際、従来の氏姓制度に代わる、天皇による律令的・中央集権的統治の正統性の根拠を、卑弥呼(日の巫女)以来の神祀りの伝統に求めることになった。
 これを実行に移したのが、狗奴国王統に属する天武天皇で、天皇は自らの祖先が日向から大和に東征し大和王権を樹立したことを知り、太陽神であり皇祖神とされる天照大神の出雲(葦原の中つ国)への天降りの話に、瓊瓊杵尊(=狗古智卑狗)の日向への「天降り」を接続した。これが①②の疑問に対する宮崎氏の答えである。
③については、当然のことながら、狗奴国人である瓊瓊杵尊は天照大神のレガリア(宝器)である三種の神器は継承していない。また、天孫降臨の時に随伴した神々で降臨後に顔を出すのは天宇受賣命(あめのうずめ)(猿女君)と、神武東征で活躍する天忍日(あめのおしひ)命(大伴連等の祖)や天津久米(あまつくめ)命(久米直等の祖)だけである。久米兵士は「黥利目(さけるとめ)」(いれずみ)をしていたというから安曇氏の一族かもしれない。
④⑤の謎については、実は狗奴国人の南方への移住は、倭国大乱以降始まっていて、日向への移住も、瓊瓊杵尊の「天降り」に先立って行われていたとする。瓊瓊杵尊は日向の高千穂之久士布流多気(くじふるたけ)に天降った後、「此地は韓国に向ひ、笠紗の御前(みさき)に真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ほて)る国なり。故、此地は甚吉(いとよ)き地(ところ)」(古事記)といった。
 ここで韓国は、日本書紀では空国(からくに)(一書第四)となっていて人口が少ないということ。その後、「笠紗の御前」に到ったが、この地には、大山津見(おおやまつみ)神や事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)(塩土の老翁)らが先住していた。日本書紀では、事勝国勝長狭が瓊瓊杵尊に「国在りや」と問われ、長狭は「勅(みこと)の随(まにまに)に奉(まつ)らむ」(紀「神代下」第九段一書第四)と答えている。つまり、人口が少なく、土地争いがなく平和な土地だったということである。
 その後、日向神話は、海幸彦の山幸彦いじめ→山幸彦の綿(わた)津(つ)見(み)の神の宮訪問→豊(とよ)玉(たま)姫との結婚→故郷への帰還→海幸彦との宗家争い→山幸彦勝利し、海幸彦は山幸彦の守護人となることを約束→豊玉姫が鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産→山幸彦と豊玉姫と離別→鵜草葺不合命と玉依(たまより)姫の結婚→五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の誕生→神武東征となる。(宮崎氏は鵜草葺不合命の存在を疑問視し、玉依姫と結婚したのは山幸彦と見る)

海幸彦と隼人の関係をめぐる謎
①まず、山幸彦の綿(わた)津(つ)見(み)の神の宮(海神宮)訪問という「おとぎ話」は何を意味するか、
②火照命(海幸)が古事記に「隼人阿多君(あたきみ)の祖」、日本書紀に「是隼人等が始祖なり」などと注記されているのはなぜか。
①についての宮崎氏の見解は、これは「おとぎ話」ではなく、日向の吾田(延岡)に瓊瓊杵尊が天降る前に先住していた狗奴国人の事勝国勝長狭(塩老翁)が、瓊瓊杵尊の宗家争いにおいて、山幸彦を後継者としてふさわしいと判断し、狗奴国の本貫である奴国(現在の福岡市付近にあったとされる)に留学させたものとする。
 この奴国は、金印「漢委奴国王」が福岡市志賀島から出土したことから判るように朝鮮や中国への航海を支えた海神族(安曇氏)をその一族としていた。安曇氏一族は山幸彦の出自を知ってこれを歓迎し、娘の豊玉姫と結婚させた。そして海神族ならではの天候や海況(津波の知識など)を読む力を教えて日向に「一尋和邇(ひとひろわに)」(小型船?)で帰した。(伊波礼毘古が神武東征の途中岡田宮に立ち寄ったのもそのため)
②海幸彦と山幸彦の宗家争いにおいて、『記紀』では、海幸彦は頑固で意地悪、一方、山幸彦は正直で優しい人物に描かれている。いじめられて泣く山幸彦に塩老翁が声をかけ綿津見神のもとに送り多くの知恵を学ばせた結果、山幸彦は海幸彦との宗家争いに勝利する。海幸彦は「弟の神(あや)しき徳有(いきおいま)すことを知りて、遂にその弟に伏事(したが)ふ」(紀「神代下」第十段一書第二)。
 その後、海幸彦は南に下り隼人と縁を結んだ。日本書紀には「火(ひ)酢(ず)芹(せり)命(みこと)(海幸彦)の苗裔、諸の隼人等、今に到るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠ゆる狗(いぬ)して奉事(つかえまつ)る者なり」(同上)とある。これは、「隼人等の祖先が海幸彦」という意味ではなく、「海幸彦が山幸彦との宗家争いに負けて南下し隼人と縁を結んだ」ということ。
 これらについてのアカデミズムの解釈は、「隼人の服属の起源を神話の時代に遡って示す」というものだが、隼人にしてみれば、こんな惨めな起源譚に満足できたであろうか。また、この話が「作り話」とすれば、いかに「次男の後継」を正当化するためとはいえ、熊襲と呼ばれ曰佐(通訳)が必要とされた隼人の祖を「天孫」(海幸彦)とするはずがない。
 つまり、この海幸彦の話は「作り話」ではないのである。天武天皇の治世時、多くの隼人が宮殿に来て貢ぎ物を奉ったり、宮殿に召されて相撲を取ったりしている。天武天皇は、隼人の魁師(ひとごのかみ)(首長)が海幸彦の後裔であることを知り、「阿多君」に叙すると共に、「記紀編纂」に際して、この事実を「事実として」神代の物語に記したのである。

伊波礼毘古の「神武東征」をめぐる謎
①古事記には「即ち日向(ひむか)より発たして」とあるのみ。日本書紀では「天皇、親ら諸の皇子(みこたち)・舟師(ふねいくさ)を帥(ひき)いて東に征(う)ちたまふ」とあるがどの港から出立したかは明かでない。鹿児島や宮崎にいくつかの伝承があるだけである。
②古事記では「豊国の宇狭をへて、筑紫の岡(おか)田宮(だのみや)に1年、安芸の多祁理宮(たけりのみや)に7年、吉備の高(たか)嶋(しまの)宮(みや)に8年、浪(なみ)早渡(はやのわたり)を経て青雲の白肩津に泊(は)てたまいき」とする。一方、日本書紀では経路は同じだが、「安芸にほぼ一ヶ月、吉備の高嶋宮に3年」(「狗奴国私考」)となっている。この両者の滞在期間の違いもさることながら、それぞれの寄留地で一体何をしていたのか判然としない。また、わざわざ逆行して岡田宮に入ったことも謎とされる。
①については、宮崎では美々津が有名だが、鹿児島では、瓊瓊杵尊が天孫降臨して過ごした笠狭を薩摩半島南部の加世田、「笠狭碕」を野間半島に比定し、神武東征の出発地を志布志湾岸としている。こうした治定の経緯は『日向神話の本舞台』に詳しい。鹿児島は明治以降、維新政府の威信を背景に、急速に「神蹟の我田引水的な付会」を行ったと宮崎氏はいう。(『日向国の神々の聖跡巡礼』p112)
 といっても、日向神話の神蹟の比定に、このように日向と薩摩とで齟齬が生じたのは、先述した古事記や日本書紀の注記の他に、古事記では瓊瓊杵尊の妃を「神阿多都比賣」(別名木花咲耶姫)などとしているためでもある。古事記より後に編纂された日本書紀では「神吾田津姫」とするなど「吾田」と「阿多」に表記上の混乱はない。
 宮崎氏は、吉田東伍(1964~1918)が「大日本地名辞書」で「吾田」は「阿多」の古語とし、吾田国(つまり阿多)は薩摩国の旧名称である」としていることについて、その根拠となったのは薩摩国風土記の「閼駝」を「吾田」としたためではないかという。また、古事記が「神阿多都姫」としたのはのは、「隼人阿多君(あたきみ)の祖」としていたためではないかと。
 ②については、紀には、神武天皇の述懐として、「我、東を征(う)ちしより茲に六年」という言葉があるが、この間、寄留地において、伊波礼毘古に先立ってこれらの地に東遷したと思われる勢力や、在地豪族との戦いは記録されておらず、その間、伊波礼毘古が兵力を増強することに成功したらしいことは、誠に不思議と言わざるを得ない。
 そのため、日向からの東遷を疑問視する向きも多い。仮に、日向からの「お船出」であったとしても大軍勢であったとは思われず、途中で船や武器・食料等を調達する必要があった。そのために、河内に上陸するまで長い月日を要したのであろうが、それにしても、この大事業を初心貫徹した伊波礼毘古なる人物のカリスマ性とはどのようなものであったろうか。
 なお、岡田宮に関門海峡を逆行して入ったことについては、伊波礼毘古は狗奴国人であり、その狗奴国は奴国より分立したものであって狗奴国の本貫である。従って、伊波礼毘古は、その東征に際して、奴国東方遠賀川河口の岡田宮(不弥国領域で邪馬台国東遷に従軍し空家化していた?)に立ち寄り、船軍や武器食料等を調達したとする。

隠された邇芸速日命等の天降り
 ところで、神武東征といえば「日向」であるが、『記紀』には、この他に、天照大神一族の葦原中国(出雲)への東征、さらには、それとは別の流れで、天照大神の孫にあたる「邇芸速日命」による畿内への天降りがある。
 その邇芸速日の畿内への天降りが出てくるのは、日本書紀に、伊波礼毘古の東征の動機として「東に美(よ)き地(くに)有り。青山四周(あおやまよもに)れり。其の中に亦、天磐船(あまのいはふね)に乗りて飛び降る者有り」と塩老翁に聞いた。その地は「大業(あまつひつぎ)を恢き弘(ひらきの)べるに十分な六合(くに)」の中心だと思った。その飛び降りる者は「是邇芸速日と謂うか」というところ。
 また、磐余彦と長髄彦の戦いの最終段階において、長髄彦が、「昔、天つ神の御子で邇芸速日が天降り、わが娘三炊屋姫(みかしやひめ)を娶って可美眞手命(うましまじのみこと)を生んだ。以て邇芸速日に仕えているが、天神の子が二種あるというなら、その証拠である天羽羽矢(あめのははや)や歩靫(かちゆき)を見せよ」といったところにも出てくる。
 これに対して磐余彦は、その証拠として長髄彦が示したものと同じ天羽羽矢や歩靫を見せるが、長髄彦は戦いを止めない。邇芸速日は、それを見て長髄彦を裏切って殺し、「天つ神の御子天降り坐(ま)しつと聞きしかば、追いて参降(まいりくだ)り来つ、とまおして、即ち天(あま)津(つ)瑞(しるし)を(磐余彦に)献(たてまつ)りて仕え奉(まつ)りき」といった。(古事記中巻)。
①では、なぜ『記紀』は、この邇芸速日の天降り(東征)にほとんど触れず、磐余彦の東征だけ詳細に記したのか。
②また、邇芸速日が、長髄彦の娘を嫁にもらい子供をなしておきながら、最終的に長髄彦を裏切ったのはなぜか。
①は言うまでもなく、磐余彦と邇芸速日が、王権をめぐって狗奴国王統vs邪馬台国王統のライバル関係にあり、『記紀』はあくまで磐余彦の立場で書かれたということであろう。しかし、このライバル関係は、畿内への「天孫族の天降り」という意味では敵対関係ではないとされていることが注目される。
②日本書紀には「邇芸速日命、本より天神慇懃(ねむごろに)したまわくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且夫の長髄彦の稟性(ひととなり)愎(いすかし)恨(もと)りて、教うるに天人の際(あいだ)を以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆を帥(ひき)て帰順(まつろ)ふ。天皇、素より邇芸速日命は、是天より降れりということを聞しめせり。而して今果して忠効(ただしきまこと)を立つ。則ち褒めて寵(めぐ)みたまふ。此物部氏の遠祖(とおつおや)なり」(紀「神武天皇」)とある。
 つまり、邇芸速日は初めから、同じ天孫である磐余彦と手を組もうと思っていて、品性が劣り教え甲斐のない長髄彦を殺して磐余彦に帰順した。天皇(磐余彦)は邇芸速日も天孫であると聞き、今自分に忠孝を立てたところを見て褒めてやり褒美を与えた。こうして邇芸速日は物部氏の遠祖となった、ということ。要するに磐余彦は邇芸速日と同じ天孫であり、邇芸速日は日向から東征してきた磐余彦に自ら進んで帰順したと言うことを強調しているのである。

日向神話の歴史的意義に関する一考察(1)

はじめに
 日本という国の面白さは、日本神話の中で語られた神々の子孫とされるものが今もなお天皇(エンペラー)であり続けているということ。神話時代から二十世紀まで、新しい時代と併存し、日本文化の継続性を維持し続けてきたこと。そして、その天皇の正統性の根拠が、日本神話の天照大神の神勅に置かれているということである。
 それは、天壌無窮の神勅とされるもので、「葦原千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みつほ)の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(しら)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわまり)り無(な)けむ。」(紀「神代下第九段」一書第一)というもの。この神勅が天孫降臨する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に下されるところから日向神話が始まるのである。
 この即位の儀式の中でも、とりわけ大(だい)嘗(じょう)祭(さい)は、新たに「大嘗宮」と呼ばれる神殿を建設し、その中の「悠(ゆう)紀(き)殿(でん)」と「主(す)基(き)殿(でん)」において食事をするもので、その際「御衾(おふすま)」なる寝床で横に臥して、また起き上がる」いわゆる「真床追衾(まどこおうふすま)」という天皇家最大の秘儀とされる儀式が行われる。(wiki「大嘗祭」)
 この真床追衾は、民俗学者の折口信夫によれば、天孫降臨の際、瓊瓊杵尊がくるまっていた衾(ふすま)(「絹の布」を重ねた「寝座」で神が休む場所)のことで、つまり、御衾に寝る皇太子は、真床追衾に包まれた瓊瓊杵尊となり、天孫降臨を演じることによって、王権を継承し、新しい天皇として即位するというのが、大嘗祭の本質だという。
 本稿では、このような天皇の即位の儀式に見るような祭祀の伝統が、日向神話の冒頭天孫降臨の物語に由来しているという事実を直視する中で、この神話が一体どうして生まれたのか、それが天皇制とどう関わっているのか、そもそも、この物語の背後にはいかなる歴史的事実が隠されているのかを、宮崎照雄氏の説を紹介する中で考えて見たい。

『宮崎県史』の日向神話解釈
 まずはじめに、天皇家においてこのように重要視されている瓊瓊杵尊の天孫降臨の物語が、日本のアカデミズムにおいてどのように扱われているかを、『宮崎県史』の「日向神話」解説に見てみたい。
 『記紀』の「天孫降臨」は、「朝鮮から内陸アジアに広く分布している垂直降臨」であり「穀霊神の降臨」であろう。問題は、その降臨の地として、出雲や大和の外に、なぜ僻遠の「空国(からくに)」である日向への降臨がなされたかが問題となるが、「その最大の理由は、隼人の服属の起源を神話の時代に遡(さかのぼ)って示すことにあったと考えられる」(『宮崎県史』p107)
 そして、『記紀』の記述を見れば「日向への降臨の地として南九州を求めていたことは明らか」であるとして、西臼杵高千穂説ではなく霧島説をとる。理由は、「隼人の服属の起源を神話時代にさかのぼって示す」ためには、その降臨の地を、「政府の支配に服属している地である日向と隼人の地との境界に位置する峰」の霧島に降臨させる必要があったとする。(同上107)
 また、瓊瓊杵尊の降臨に際して、神器の継承が実際になされたかどうかや、随伴する神々の神名が諸書によりまちまちであることなどを指摘。さらに、ホノニニギの原型は幼童の姿で降臨する穀霊神であり、このように種族の祖神が天上から降臨する神話は朝鮮から内陸アジアにかけて広く分布するという。(同上p78~80)
 また、日向神話のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの結婚をめぐる説話は、東南アジアからニューギニアにかけて広く分布するバナナタイプの「死の起源神話」に含まれるとする比較神話学に基づく見解を紹介。コノハナサクヤヒメの火中出産の話も、民俗学の成果によれば、東南アジア一帯に広がるマザーロースティングと呼ばれる習俗との関係が深いという。(同上p85)
 また、海幸彦と山幸彦の争いについて、この説話には、次の三つのモチーフ、1.失われた釣り針、2.洪水、3.メリュジーヌ・モチーフ(トヨタマヒメが出産シーンを見られて怒る)があるが、その構成要素の分布は、東アジアから東南アジアなどに広く及んでいる。また、ヒコホホデミが海神宮を訪ねる話は、大嘗祭の祭儀神話として機能していた可能性があるとしている。(同上p93)
 また、日向三代の山稜については、「もともと神代三代は神話的存在であり実在しなかったわけであるから、神代山稜の所在地が不明であるのは当然のこと」(同上p105)。では何のためにこのような「日向神話」が創作されたかというと、次のような二つの重要な意義があったと考えられるとしている。
 「第一に、天皇権力がそれによって支えられている基盤をより確かにかつ広く生産社会の信仰の中に打ち立てること、すなわち始祖天皇である神武が高天原の主神アマテラスの後嗣としてその権威を受け継ぐだけでなく、山の神と海の神の血統を受け継いでその呪能を持つものとして出現することを説くこと。第二に隼人の服属の起源を説くことと考えられる。」
 「このように日向神話の中で隼人の服属の説話が後次的なものであることからすれば、神話の舞台として出てくる日向地方の伝承や信仰とは全く関係なく、神話の構成上の舞台として地名を借りただけに過ぎないとする見解は妥当であると考えられる。」(同上p106~107)

『日向神話の本舞台―宮崎県北編』の出版
 以上が『宮崎県史』の「日向神話」解説であるが、延岡では、宮崎照雄氏の『日向国の神々の聖跡巡礼』の出版を契機に、愛宕山がかって笠狭山と呼ばれていたことが新資料で裏付けられるなど注目を集めている。そこで、高千穂、延岡、日向の有志が集まり「日向神話研究会」を立ち上げ、その研究成果として、この度『日向神話の本舞台―宮崎県北編』が出版された。
 新資料というのは、『日向国御料発端其外旧記』(徳川幕府直轄地富高陣屋(現日向市)記録1858)で、その中に”皇孫(瓊瓊杵尊)ノ御遊行ハ・・・高千穂ニ御立玉ヒテ御橋ヲ渡リ早日ノ峯ヨリ吾田長屋笠狭ノ御碕(延岡城シタ)ニ至リ玉ウ・・・”という記述があること。これは幕府直轄地富高の史料であり、愛宕山が当時「笠狭ノ御碕」と呼ばれていたことを傍証するものといえる。
 また、この本には、高千穂町郷土資料『天孫の神跡地 大高千穂の全貌』(押方宏之著1940)とその付属資料「昭和15年2月の『東京朝日新聞』掲載記事「高千穂の聖跡に就いて」(三編)が紹介されている。ここでは、「日向の襲の高千穂の峰」の「襲」は「山岳重畳の地」の意であって、霧島山の「麓」を、曽於郡の「曽」とする誤りを指摘するなど「霧島高千穂説」に反論している。
 また、「美々津(日向市)の故事・伝承・聖蹟について」では、なぜ神武天皇が美々津を「お船出」に選んだかや、それにまつわる様々な故事伝承を紹介。「細島(日向市)に伝わる聖蹟について」では、細島の「米の山」が神武東征に従軍した「大久米命」にちなむことや、伊勢ヶ浜を挟んで立つ「櫛の山」は、瓊瓊杵尊が笠狭碕から「櫛の山」に至り、これより諸方を眺望したことなどが紹介されている。
 また、高千穂に関しては、伊波礼毘古の兄の御毛入野(みけいりぬ)命が東征の途中高千穂に帰還し鬼八(きはち)退治をしたこと。その子孫が三田井氏であること。特に面白いのは、神武天皇が東征後出雲系の伊須気余理比売(いすきよりひめ)を妃として生まれた長男の日子八井耳(ひこやいみみ)が、九州阿蘇地方に派遣され、日向・肥後の地を官し、その子孫が阿蘇宮川氏の祖となったこと。
 また、神武天皇の次男で神沼河耳(かみぬなかわみみ)命に皇位を譲った神八井耳(かみやいみみ)命の子が「建磐龍命(たけいわたつのみこと)」で、「九州の長官に就任した際、宮崎に立ち寄り、宮崎宮(宮崎市)の旧址に社殿を建てて祖父の神霊を祀ったのが宮崎神宮の始まりであり、その子孫が意富臣(おおのおみ)、大分君(おおきだのきみ)、阿(あ)蘇(そ)君(のきみ)となったことなどを紹介している。
 これらは、戦前盛んに行われた「高千穂論争」を継承するもので、先に紹介した『宮崎県史』の比較神話学解釈には触れていない。もちろん、それを無視することはできないが、その前に、とかく我田引水に陥りがちな日向神話の神々の「囲い込み現象」を、せめて高千穂、延岡、日向だけでも克服しようと一致したことが評価される。
 といっても、アカデミズムの世界では、先に紹介したように、日向神話の史実性は全く認められていない。では、紀元四世紀以前の日本古代史研究がどこまで進んでいるかというと、実は、未だ邪馬台国が畿内か北九州かも決着していないわけで、つまり、まだ何も判っていないのである。これを解く文献資料として『記紀』の研究をもっと進める必要があると思うのだが。

津田左右吉の「記紀神話」解釈
 そこで、こうした戦後アカデミズムの「記紀神話」の文献史学的解釈を基礎づけたとされる津田左右吉が、「記紀神話」に正統性の根拠を置く日本の天皇制を、どのように評価していたかを見てみたい。
 津田はまず、これらの神話は確かに「歴史的事件」の記録ではないが、それが生まれた時代の社会及び思想という「歴史的事実」を語っており、これを解明する必要があるという。では、「記紀神話」から読み取れる日本古代史の「歴史的事実」及びそれを生んだ歴史的背景はどのようなものか。要約すると次のようになる。
 「日本は島国であって他民族との闘争もなく、同じ人種、同じ言語を使うようになった。そうした生活の座を背景に様々な説話が生まれた。戦争の話が少ないのは平和だったからで、天皇家の国家統一も、戦争より何らかの文化的優位性をもって、他の政治的小勢力を服属していったことが判る。
 その文化的優位性とは、言うまでもなくシナ文化の伝播によるものだが、それは武力的征服によって押しつけられたものではなく、日本の土着文化と折り合いをつける中で徐々に浸透していった。このようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、日本独自の天皇を中心とする統治体制を形成するに至った。」
 山本七平はこれを敷衍して次のようにいう。
 「この統治の基本的な形は、邪馬台国の卑弥呼(日の巫女とすれば)の祭祀形態にあり、いわゆる祭祀は卑弥呼が行うが、実際の政治は男弟が行うという祭祀と政治の二元制で、これを維持することが、卑弥呼死後も台与の擁立という形で守られ、律令制導入後も神祇官と太政官の並立という形で守られた。」(『日本人とは何か(上)』p130)
 こうした二元制は、平安時代においては摂関制、武士の時代においては幕府制、明治憲法下では解釈に混乱はあったものの立憲君主制、日本国憲法下では象徴天皇制という形で継続している。津田左右吉自身も、こうした皇室の伝統的な有り様は「民主主義とも調和するものであり、国民統合の生きた象徴である」として次のように主張している。
 「この二元制下における天皇の有り様は、決して祀られる対象としてではなく、あくまで、その即位の時に執り行われる大嘗祭の儀に象徴されるような「新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念するものである。」(「建国の事情と万世一系の思想」)
 こうした天皇の基本的有り様は、神祇官が太政官に上位する形で養老律令(718年)に規定された。唐の律令制には神祇官はなく、皇帝の下に三省(中書省、尚書省、文科省)があるだけである。折しも、712年には古事記、720年には日本書紀が編纂され、こうした日本独自の統治体制が「記紀神話」にその正統性をおく形で規定された。(上掲書p106) 
 こうした見方は、「記紀神話」に史実性を求めるものではないが、さりとて、その全てを「後世の作り話」とはしない。津田自身は、大和朝廷は豊沃な後背地を持つ大和に起こったとし、日向への天孫降臨や神武東征を認めていないが、一方で、「この頃の日本は不明な点が多く、今後の研究の成果を待たねばならないだろう」と言っている。

理系学者宮崎照雄氏の「記紀神話」の研究手法
 折しも、延岡では、先に紹介した『日向神話の本舞台』が発刊され、その論考の主要な部分で、三重大学名誉教授宮崎照雄氏の『日向国の神々の聖跡巡礼』の見解が紹介された。氏は、魚の病理学を専門とする理系学者で、日本古代史研究の専門家ではないが、中朝の史料と併せて「記紀神話」を読み解くことで、独自の日本古代史論を展開している。
 宮崎氏は、『記紀』の神話伝説を『非科学的』・『渡来説話のパクリ』とするのは、日本の文系学者が、理系科学(動物学・植物学・医学・生理学・科学・地学・地理学)の知識に乏しいことにより、「記紀神話」が正しく理解できず、上古の人が「古代の史実として信じた」神話や伝説を、「後世の奈良時代の舎人の作り話」としたためという。
 また、理系学者の研究においては、独創性が重要で、多数の先学の論文を読むが、その目的は自分の研究対象を先学がすでに研究しているか否かを確認するためである。従って、研究の過程ではオリジナルの史料のみを参照し、それをもとに、日本古代史の謎を解く「合理的ストーリー」を論考し、オリジナル論文に仕上げるという。
 さらにもう一つの特徴は、「歴史を作ったのは『人の情念』である」という考え方である。従って、そのようにして自説を駆使して生まれた「合理的ストーリー」は、「人の息吹が感じられるストーリー」でなければならないという。私自身、そうした「古代に生きる人々の息吹」に触れることで、日本古代史への興味を新たにすることができた。

宮崎照雄氏の独創的な「記紀神話」の謎解き
 まず、『記紀』の「神代」に記された物語をどう見るかだが、宮崎氏はそれを、猿女君や語部(出雲神話)が「舞と誦」によって語り継いてきた「伝承」であり、「乙巳の変で帝紀や旧辞など史書が火災で灰燼に帰した後も、八世紀初頭に『記紀』が編纂できたのは、「人の脳」という「記録媒体」があったおかげである」という。
 そうした「伝承」や残された記録を整理して、天武天皇の時代に稗田阿礼に誦習させた。それを元明天皇の時代に太安万侶に撰録させたものが古事記。その後、漢文を用いて本格的な国史として編纂されたものが日本書紀である。宮崎氏は、これらの記述は「一部改竄も含むが、『歴史の捏造』があったとは思わない。日本人は日本歴史を正当に伝えている」という。(『狗奴国私考』「飛鳥浄御原宮での天武天皇」(4)『日本書紀』編纂」)
 日本古代史には「謎の4世紀」という言葉があるが、先に言及したように、実際には未だ邪馬台国の位置も判っていないわけで、4世紀以前は謎というべきである。宮崎氏はこの間の歴史を、魚の病理学研究の画像診断を生かした「鏡・銅鐸・銅矛」の研究をベースに、中朝の史書や『記紀』を徹底的に読み込み、次のような、古代から『記紀』編纂に至るまでの歴史の「合理的ストーリー」を展開している。(以下、宮崎氏の諸著作を参照)
 伊耶那伎と伊耶那美による国生みから実際の国造りが始まるのは、伊耶那伎の禊ぎによる三貴子(天照・月読(つくよみ)・須佐之男)の誕生と分知(役割分担)からである。その後、天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)による三女子と五男子の誕生→須佐之男命の乱暴→天照大神の石屋戸こもり→高天原の「祅(わざわい)」→天照の再臨による「祅」の終息と続く。
 この間の歴史を、宮崎氏は、紀元57年の「漢(かんの)委(いな)奴(こく)国王(おう)」の委奴(いな)国を起点に、伊都国と奴国の分裂→伊都国優位→107年伊都国が後漢に生口160人を献上→奴国の一部が狗奴国を分立し南方に移住→180年頃「倭国大乱→188年邪馬台国連合が卑弥呼共立→239年卑弥呼が「親魏倭王」の印綬受ける(=魏と同盟)→狗奴国と邪馬台国の戦争→247年邪馬台国敗れ卑弥呼死(殺害?)→248年邪馬台国男王立つも治まらず台与を擁立し混乱終熄」と見る。
 その後、『記紀』の物語は、素戔嗚尊の出雲追放に始まる出雲神話となり、大国主の出雲国作り(日本書紀は詳述せず)→天照大神(天孫)への「出雲の国譲り」となる。ところが、いよいよ天孫の「葦原中つ国」への天下りとなると、なんと、その天下り先は、出雲ではなく突然日向高千穂となる。ここから「日向神話」の、次のような多くの謎をはらむ物語が始まるのである。
 まず、注意すべきは、宮崎氏は「漢委奴国王」を「漢の倭(わ)の奴の国王」ではなく、あくまで「漢の委奴(いな)国王」としていることである。その委奴国が中国との外交関係をめぐって伊都国と奴国に分裂→伊都国優位の中でさらに奴国から狗奴国が分立し南方(熊本の菊池川流域の玉名、山鹿、菊池郡など)に移住。一部は高千穂を経て日向にも住んだとする。
 その後、倭国の緊張関係はさらに高まり倭国大乱となった。『記紀』では、この辺り天照大神と素戔嗚尊の愛憎入り交じった関係や、誓約(うけい)による三女子、五男子の誕生などを記している。宮崎氏は、この間に、伊都国と狗奴国の卑弥呼と卑弥弓子の縁組みによる融和や、邪馬台国連合の編成と卑弥呼共立、狗奴国と邪馬台国の対立激化(卑弥呼と卑弥弓呼の離別)があったとする。

2019年8月29日 (木)

『日本国記』の「古代史」及び「現代史」を検証する(2)(2019-04-22 13:05:14掲載)

『日本国記』の「現代史」に対する私の疑問

 次に『日本国記』の「現代史」に関して私見を申し述べたい。私が、特に違和感を感じたのは、百田氏の外交官幣原喜重郎に対する評価である。

百田氏は、中村粲氏の『大東亜戦争への道』と同様、日英同盟の破棄や、第一次南京事件等に対する幣原の宥和的・国際協調外交を繰り返し批判している。

 確かに、日英同盟の廃棄は、もう少し慎重であるべきだったと私も思う。これは、集団的自衛権いわゆる同盟と集団安全保障の違いを十分見極められなかったこともあるが、この時期、いわゆる「21箇条要求」で傷ついた日中関係の修復と同時に、アメリカとの外交関係を再構築する必要があったことも事実である。

 それを不可能にしたのが、第一次南京事件を幣原外交批判に結びつけ、第一次若槻内閣を倒して田中義一内閣に代え、済南事件さらには張作霖爆殺事件を引き起こして、日中の外交的基盤を破壊した、当時の軍や一部の政治家の責任を不問に付すわけにはいかない。幣原外交を破綻させたのは彼らの責任は大きい。

 百田氏は、張学良支配下の満州における排日運動に対する幣原の宥和的態度も批判している。しかし、田中内閣の大陸政策の惨憺たる失敗を受けた後の、浜口雄幸内閣下における佐分利公使を介した外交による日中関係の修復は、軍の露骨な政治介入のため、ほとんど不可能な状態に陥った。

 外相幣原に代わり日中の外交関係修復にあたった佐分利公使怪死事件、ロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐって発生した「統帥権干犯事件」、浜口雄幸首相狙撃事件、3月事件というクーデター未遂事件、そして、張作霖爆殺事件の「やり直し」としての柳条湖列車爆破事件を口実とする満州事変等々。

 百田氏は、こうした軍の政治介入の責任を幣原に求めることに急なあまり、張作霖爆殺事件にソビエトの関与が疑われることをもって河本大作を不問の伏すなど、いささかバランスを欠く論述が多いように思った。欺されたのは「欲張った」からであって、強欲に対する批判を免れるものではない。

 また、満州事変をもって、その後の日中戦争を不可避なものとしているが、これも満州に踏みとどまり満州経営に専念すべしとの当初の基本方針を堅持すれば、日中全面戦争は避けられたのである。これも華北の資源欲しさに華北分離工作などやったからで、蒋介石が掃共作戦から国共合作に転じたのはそのためである。

 さらに、戦後の日本国憲法制定過程における幣原の役割について、その戦力放棄条項の発案が幣原であるとの説を否定し、これをあくまでマッカーサーの日本弱体化策としていること。そうすることで、現憲法がそうした策略下に生まれたことを強調することで、自主憲法制定の必要を説こうとしている。

 しかし、「平野文書」にある通り、現憲法の武力放棄条項が幣原の発案であることは明白である。それは、天皇制を日本軍国主義と結びつける国際世論に対して、憲法に武力放棄を書き込むことで天皇制と軍国主義の結びつきを絶ち天皇制を守ろうとした、これが幣原の第一の狙いだった。

 では、裸同然の日本は誰が守るか、当時はアメリカが核を独占し国際秩序はアメリカによって守られていた。当然、日本の安全はアメリカが守る。さらに、そこに平和国家日本を守るという理念を挿入することで、アメリカに主体性を持たせる。それによって予想される戦後の東西イデオロギー対立の中で、日本の安全を確保しようとしたのである。

 そうした外交的狡知が幣原にあったことは事実であると私は思う。マッカーサーは、軍人であると同時に、千年王国的な素朴なキリスト教信者であった。それを見抜いた幣原はマッカーサーを「負けて勝つ」外交戦略の操り人形とした。軍人であるマッカーサーが「永久平和」を夢見た原因は、その他には考えられない。

 もちろん、幣原の目には、戦後の東西イデオロギー対立の中で、日本軍がアメリカ軍の先兵とされることを避ける狙いもあったと思う。同時に、その流れの中で日本軍国主義が復活する危険を未然に防止する狙いもあったと思う。ただし、それはアメリカの核独占による国際秩序維持が可能な限りにおいてだが。

 「平野文書」には、核時代を迎えて戦争を回避する唯一の手段として、軍事力を国際機関に一元化し、各国は警察力のみを持つことで世界平和を維持するとの理想が語られている。ただ、そうした軍縮は各国の疑心暗鬼の中では不可能であり、狂人にしかできないが、たまたま日本がその狂人を演じる立場にあるので、思い切って憲法に戦力放棄をマッカーサーに書き込ませたと幣原は言っている。

 それは、当時の状況の中で、幣原が独断的に行った外交奇策だが、当時の内閣もそれを追認したのであって、結果的には、核のアメリカ独占が壊れ東西冷戦が深刻化する中で、日本は、この憲法条項を盾に、朝鮮戦争やベトナム戦争への参戦を免れ、経済発展に国力を集中することに成功したのである。

 ただ、こうしたことが、いわば密教的になし崩しで行われたために、それが一国平和主義的な空想を国民に蔓延させることになった。それが、戦後のGHQによる言論統制の影響もあり、日本の歴史や国民性を自虐的に捉え、日本が何もしなければ世界の平和が守られるという倒錯した心理に日本人を陥らせることになった。

 百田氏は、そうした風潮に反発しているわけだが、その原因を、日本を「欺した」中国やソ連あるいはマッカーサーだけに求めることはできない。欺された戦前の日本にも「欺されるだけの原因」があり、戦後については、「欺したことにも気づかない」日本人の偽善も、同時に指摘すべきである。

おわりに
 以上、『日本国記』の「古代史」と「現代史」を検証した。「古代史」については、私が宮崎照雄説を支持していることもあり、また、八幡和郎氏の日本史から世界史にわたる通史や、日中及び日韓・日朝関係についての著作に多くのことを学んでいる関係で、これらの視点を併せて『日本国記』を検証することになった。問題は、卑弥呼、神武、欠史八代、崇神の関係及び応神までの時代設定をどう考えるかが、今後の研究課題だと思った。

 『日本国記』の「現代史」については、私はその弱点は幣原評にあると思った。私は、昭和史において軍が政治外交の主導権を握ることがなければ、昭和の悲劇は避けられたと思っている。その意味で、幣原外交に象徴される外交がなぜ挫折したのか、その罪を幣原だけに負わせるのではなく、当時の政治家や軍及びマスコミの責任を、バランスよく問う必要があると思う。

 日本は、当時の国際政治の情報戦に負けて、思いがけず「するはずのなかった」日中全面戦争に巻き込まれた。これは事実である。また、同じく、「してはならない」日米戦争に突入することになった。そこに謀略があったことも事実である、というより当然であって、「欺された」と言って免罪されるものではない。

 以上、『日本国記』の「はじめ」と「おわり」を見てきた。もちろん、この本に教えられたこともたくさんあるし、特に戦後の日本国民が、WGIPと称される情報戦に翻弄され続けているとの指摘は正しい。WGIPなどなかったと強弁するのは、戦前の日本を破滅に追いやった国際情報戦の敗北を認めないに等しく、うらんかなのマスコミや衒学趣味に陥る学者の通弊であると思う。 おわり
 

『日本国記』の「古代史」及び「現代史」を検証する(1)(2019-04-22 13:05:14掲載) )

はじめに
 百田尚樹氏の『日本国記』が、ベストセラーとなったということもあり賛否両論の議論が交わされている。私も、遅ればせながら同書に目を通してみた。全体的な感想としては、通史といいながら、著者の視点は、主に近現代史の従来の解釈の見直しに置かれていて、特に、「古代史」は、いろんな説を紹介しているものの、全体的に主張に一貫性がないように思われた。

 この本に対する具体的な批評は、八幡和郎氏が『日本国記は世紀の名著かトンデモ本か』でかなり綿密に行っている。これに百田氏は感情的な反発を示しているようだが、この本の表題は確かに揶揄的だが、内容は真摯なもので、他に通史的な著作を多くものしている八幡氏には当然の批評かと思われた。

 そこで、まず、『日本国記』の「古代史」を検証する。それから、これに対する八幡和郎氏の批判を項目毎に紹介する。その上で、これらを、私が現在、最も興味深いと思っている宮崎照雄氏の説に照らすとどうなるかを述べる。これによって、現代日本の「日本古代史研究」の現在位置がわかるし、宮崎説の妥当性を検証することにもなるからである。

『日本国記』の論点

 百田氏は、日本古代史について、弥生時代の日本について書かれた最も重要な歴史書は、いわゆる『魏志倭人伝』であると言っている。ただし、「3世紀から6世紀にかけての日本の王朝のことは、今のところよくわかっていないのが実情である」と言い、その時代の出来事を物語る『記紀』の記述に対しては、かなり懐疑的な見方を示し、次のような自説を展開している。

1.邪馬台国は九州にあったのではないか。
2.卑弥呼は「日の巫女」であるなら大いに納得できる。
3.井沢元彦氏は、卑弥呼は天変地異(日食)の責任を取らされて殺された可能性があると言う説を唱えているが大いに納得できる説である。
4.古事記の天照大神の「天の岩戸隠れ」は日食の暗喩だという人もいるが、「卑弥呼=天照大神」と言う説には賛同しない。
5.邪馬台国が大和朝廷になったのではない。なぜなら記紀には卑弥呼のことも邪馬台国のことも書かれていないから。大和朝廷は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないか。いわゆる「神武東征」は真実であったのではないか。つまり、邪馬台国と戦った狗奴国が邪馬台国を滅ぼし東征したのではないか。
6.天照大神が大国主命から「葦原の中つ国」を譲られる話は、大和朝廷が出雲地方を征服した話ではないか。
7.神武天皇と崇神天皇は実は同一人物ではないかという説も根強い。
8.日本は369年に新羅と戦い、百済を服属させた。そして弁韓を任那と名付けた。391年から404年にかけては、百済と新羅の連合軍を破り、さらには高句麗とも戦い、つまり日本の国力が相当大きかったと考えられ、当時の日本にとって朝鮮半島の一部が非常に重要な地位であったと考えられる。日本書紀には、神宮皇后の時代に大和朝廷が朝鮮半島に進出し、新羅を屈服させて百済を直轄地としたという記述があるが、はたしてこれが広開土王碑に記されている391年の出来事であったかどうかは不明である。
9.歴史研究家の中には、この時に王朝が入れ替わったのではないかと言う説を唱える人が少なくないが、仲哀天皇は熊襲との戦いで戦死し、代わって熊襲が大和朝廷を滅ぼして権力を掌握したという「王朝交代説」は説得力がある。
10.仲哀天皇が死んだのが平時ではなく、九州での戦の途中であったことからも、戦死であった可能性が窺える。
11.古事記によると、応神天皇は父の仲哀天皇の死後十五ヶ月後、日本書紀では十月十日後に出産したことになっており、実子であるかどうか疑わしい。
12.いわゆる「倭の五王」について、讃、珍、済、興、武を履中天皇から雄略天皇に充てる説が定説になっているが、『記紀』にはこれらの天皇が朝貢したという記述はなく、古田武彦氏は、倭の五王は九州王朝の王とする説を述べている。
13.4~6世紀は「大和朝廷時代」と呼ばれてきたが、近年の研究でこの時代は大和朝廷が日本を統一したわけではないという見解が一般的で、「古墳時代」と呼ぶようになり、その王朝は「ヤマト王権」と呼ばれる事が多い。
14.仁徳天皇陵などの巨大な古墳は、その王朝がかなりの国力を持っていたことの証であり、同時にその王の権力の強大さがうかがえる。同じような前方後円墳が日本各地に作られていることから、大和王権の権力はほぼ全国にわたっていたと考えられる。
15.6世紀後半になると大規模古墳は作られなくなった。それは「朝鮮半島を支配した騎馬民族が海を渡ってやってきて新たな王朝を立てたため」とする、いわゆる「騎馬民族説」は、今日では荒唐無稽な説として否定されている。
16.継体天皇は謎の多い人物で、第25代武烈天皇が崩御したとき皇位継承者がおらず、応神天皇の五世孫の継体天皇が58歳で即位した。武烈天皇が残虐であったとの記述もあり、この時、皇位簒奪があったとする説は、私も十中八九そうであろうと思う。

『日本国記』に対する八幡和郎氏の批判と意見

 こうした百田氏の見解に対して、八幡和郎氏は、項目毎の論点に対し、次のような批判ないし自説を述べている。

 まず、『記紀』の内容は、古代の王者たちの長過ぎる寿命を別にすれば、系図も事績もさほど不自然なところはなく信頼性は高く、中国や韓国の史書や「好太王碑」とも符合し、考古学的見地からも特に矛盾はないと考える」と言う。その上で、

1~4についてはほぼ同じ見解
5→私は、「万世一系」を肯定している。日向からやってきた武人が大和南西部に作ったクニが発展して日本国家となり、その王者は男系男子で現在の皇室まで継続しているということは荒唐無稽でないと思うからだ。

 神武東征とか大和国の畝傍山麓での建国というのは、記紀にも書いておらず、中世以降成立した伝説である。神武天皇は多人数の軍隊と一緒に東征したわけでもないし、大和で建てたクニは日本国家ではなく、せいぜい現在の橿原市と御所市あたりだけを領域とするだけだったというのが『記紀』に書かれている出来事であって、リアリティも高いと思う。

  後に神武天皇と呼ばれる男は、何らかの事情で家族を残して出奔した可能性が強い。一行は、安芸などを経て吉備に三年留まっているが、こうした武装集団が見知らぬ土地で居場所を見つけられるのは、用心棒か傭兵として雇われるとか、特殊な技術でも持っているときで、おそらく彼らは、そこの土着勢力に雇われて定着し、少しばかりの手下を得たのではないか。

  神武天皇と呼ばれることになる人物は、並外れた武芸の達人かよほどカリスマ的魅力もあったに違いない。長髄彦の妹婿だった物部氏の祖先である𩜙速日もこの侵入者と手を組み、長髄彦に勝って畝傍山の麓に小さな王国を建国した。

  神武天皇は大国主の命の孫娘を皇后とし、綏靖天皇の皇后も母親の姉妹を皇后としたとあるから、天皇家がやってくる前の大和の支配者たちが出雲と縁のある人々だった可能性が高い。(百田氏の狗奴国東征説には反対。一方、百田氏は神武東征は認めるが日向からとは言わない。大和では、旧勢力の征服ではなく縁組みによる融和である。)

6→十代目の崇神天皇が大和国を統一し、さらに吉備や出雲を服属させ、その曾孫のヤマトタケルらが関東や九州の一部に勢力を広げた。
  出雲では天照大神の子孫でも皇室とは別系統の者が支配者となっていたが、崇神天皇のときに服属したというのが、大和と出雲の関係だというわけだ。

7→『日本国記』は神武天皇と崇神天皇同一人物説に理解を示しているが、そうなると、九州出身の崇神天皇は九州から吉備などを通過して大和を征服し、その後、かって通過してきた吉備や、そこから近い出雲の制圧に乗り出したことになり、なんとも不自然なのである。
  日本書紀に書いている景行天皇やヤマトタケルの活躍は、細部はともかくとして、ストーリーとしては無理がない。崇神天皇が吉備や出雲まで支配下に置いたのを、九州まで勢力を広げ、東国でも関東地方をほぼ制圧したと言うことだ。
  また、倭の五王の一人雄略天皇だとされる「武」は「自分の先祖は畿内から出発して、西日本と東日本にそれぞれほぼ均等に勢力を伸ばしたと中国の南朝への上表文で語ってをり、この「先祖」が崇神天皇なら判るが、九州からやってきた神武天皇とするとおかしくなる。
 (欠史八代と言われる諸天皇は実在したと考える。従って神武=崇神はない)

8→仲哀天皇の死後、神宮皇后は大陸から半島に渡り、戦わずして新羅を降伏させ、高麗や百済も自然と従うことになった。これ以降、これらの国は朝貢するようになってその後三世紀にわたって継続した。
  皇太后は、仲哀天皇の死後になって生まれた子(後の応神天皇)をつれて畿内に凱旋した。現在の皇統譜では仲哀天皇の後は応神天皇になっているが、これは大正十五年になってそう定められたのであって、『日本書紀』もその後の朝廷の公式見解でも、神宮皇太后が女帝であったとしていた。(日本書紀の記述を信用すべし)

9→百田氏は、万世一系を世界に誇るべき事としながら、応神天皇は熊襲だとか継体天皇は簒奪者だとかいう可能性を、さほどの根拠なく主張して一貫性がない。
  仲哀天皇が熊襲の反乱を聞いて筑紫に入った。筑紫との間に戦争がなかったのは、北九州にあった邪馬台国が滅亡した後小国に分裂していたらしい九州が、熊襲の圧力からの防衛や大陸で勢力を広げるために、軍事大国だった大和の宗主権を認め後ろ盾にしたと考えてよい。(応神天皇を熊襲の王というなら、熊襲が大和を征服したことをもって建国史とすればよいではないか)

10→熊襲を攻めるより大陸の新羅を討つべしとの神功皇后に現れた「お告げ」に反対した仲哀天皇の死は、暗殺の可能性が強く感じられる。

11→継体天皇の継承の時にむしろ第一候補だったのが、仲哀天皇の子孫だった倭彦命だったことを見れば、仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈に合わない。

12→仁徳天皇の後の履中天皇から雄略天皇までは、中国の南北朝時代の南朝と宋王朝と交流したと中国の正史に詳細に記載されている。日本人の任那領有を認めながら、その主体は大和朝廷でなく九州王朝かも知れなどと書いて曖昧にしてしまっている。

13→第十代崇神天皇に至って、纏向遺跡などがあって大和で最も栄えた三輪地方を支配下に収めて大和を統一した。さらに、畿内全域、そして出雲や吉備当たりまで支配下に置いたというのが日本書紀に書いてあることだ。

14,15は同様の見解

16→五世紀後半に武烈天皇に近い血縁の男子がなく、応神天皇の子孫で越前にいた継体天皇を招聘したが、その経緯に不自然なところはない。
  継体天皇は、遠縁と言ってもかなりメジャーな皇族だった。なにしろ、父の従姉妹姉が允恭天皇の皇后であり、雄略天皇の母なのである。また歴史の編纂は推古天皇のときに始まっており、推古天皇の父は継体天皇の末っ子である欽明天皇であり、いい加減 なことは書けないはずである。

八幡説の推定する「日本古代史」の実年代

 八幡氏は、以上の自説について、「もちろん『日本書紀』の記述はそのままでは史実としてはあり得ないが、同書の系図と事跡は、①少なくとも荒唐無稽ではないし、②ウソを書いたという動機も説明できておらず、③ほぼそのまま信頼できると結論づけた」と言い、その上で、古代天皇の実年代について次のような見解を述べる。

ア倭王武と雄略天皇が同一人物であることはほぼ間違いなく、『日本書紀』の実年代を推定する上で、基準点の一つになると考えている(宋への朝貢478年)。
  いずれにせよ、大事なことは、『日本書紀』に書かれている系図とか歴代天皇の事跡が真実だとしたら、中国や韓国の史書や、好太王碑の内容、さらには、考古学的知見とひどく矛盾するようなことはないということが大切なのだ。

イ倭の五王以前の出来事の実年代については、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは四世紀初頭であり、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀の中頃にあたる。卑弥呼の宋女である壹與と同年代だろう。

ウそこから大和朝廷の統一過程を推定すれば、大和統一が240年、吉備や出雲を支配下に置いたのが260年、ヤマトタケルの活躍が310年前後、仲哀天皇の筑紫進出と列島統一と応神天皇の誕生が340年あたりだ。

エ卑弥呼が九州で活躍(二世後半の倭国大乱の後に邪馬台国の女王に共立)していたとすれば、同じ時期の大和では統一王権は成立しておらず、壹與の時代になって崇神天皇による大和統一と中国地方などへの進出が始まったということだ。

オ邪馬台国の位置は、私は九州中部とみるのが最も自然で、具体的には筑後、次いで宇佐などが有力だと思う。

カまた『記紀』には、畿内の大和朝廷が九州を征服したと書いているし、倭王武の上表文も同じだ。九州国家が畿内を征服したなどと言うのは、何の根拠もない奇説なのである。『日本国記』では、卑弥呼の死とか天の岩戸伝説が日食に触発されたものと言いつつ、そこから天照大神と卑弥呼が同一人物とかいう無理な推論をしていないのはいいことだ。

キ『日本国記』は、邪馬台国と対立していた狗奴国の誰かが東征したものではないかとしているが、それなら、卑弥呼より後の時代の人物ということになる。それが、大和を征服して大和朝廷を建国した後、逆コースで西に戻って、吉備や出雲に勢力を伸ばし、仲哀天皇のときに九州に再び登場して邪馬台国や狗奴国の故知にやってきたことになるのが不自然だ。

『日本国記』の論点に対する宮崎照雄氏の見解

 それでは最後に、以上のような『日本国記』とそれに対する八幡氏の批判ないし見解に対して、宮崎照雄氏説ではどうであるか見てみる。

 宮崎氏は、魚の病理学を専門とする学者である。もちろんフィールドワークを多くこなしてきた。そして、そこで得られた研究手法や理系科学知識を総動員して、「記紀神話の古史書だけでなく、考古遺物や華夏の史書をとり上げて総合的に論考し、今一度古代の神々の事績を正しく理解」しようと努めたと言う。

 氏は『記紀』の位置づけについて「記紀は一部改竄を含む。しかしながら、高名な文系の歴史学者が主張するような「歴史の捏造」があったとは、私は思わない。日本人は日本の歴史を正当に伝えているのである」と言う。

 その上で、「天鈿女以来、長い日本の歴史を誦と舞で伝承してきた猿女君が伝えてきた歴史の記憶」である『記紀』を、より正確に理解するためには、「客観性の保証が難しい」が、あえて、その時代を生きた「人の息吹が感じられる合理的なストーリー」の構築に努めた、と言う。以下、『日本国記』の論点に即して宮崎説を述べる。

1.邪馬台国の位置については、魏志倭人伝の里程のついての宮崎氏独自の見解から、北九州の福岡糸島付近にあったとされる「伊都国の南、徒歩一日(倭人伝の「一月」は「一日」の誤植とする)の距離に位置」していたとする。
2.卑弥呼は、180年頃の「倭国大乱」を収めるために共立された邪馬台国の女王である。弥生時代の農耕を左右したのは天候及び人口であり、「日の順行」と「長宜子孫」を祈ることが王としての勤めであった。「卑弥呼」は言うまでもなく中華による卑称であり、倭では「日の巫女」であったと考えられる。(「長宜子孫」は魏より贈られた卑弥呼の鏡の銘文で子孫繁栄という意味)
3.邪馬台国の卑弥呼は、卑弥呼が魏と同盟したことで始まった狗奴国との戦争で敗戦の責任を問われ殺されたと見る。丁度この時(247年3月24日日没前)「皆既日食」が起こった。それが、卑弥呼の「日の順行」「長宜子孫」を祈る霊力の衰えの示すものとされ、殺害に至ったと見る。
4.八幡氏も、百田氏が「卑弥呼=天照大神」説を否定したことに同意し、これを「奇説」とするが、宮崎氏は、天照大神は卑弥呼と登與の二人を神格化したものと見る。
5.「狗奴国が東征し大和王国(朝廷)を作った」という百田氏の見解は、宮崎氏と同じ。ただし、宮崎氏は、邪馬台国は滅ぼされたわけではなく、宇佐に遷都した後、「神武東征」前に、台与の子の𩜙速日らを東征させ、𩜙速日は土公の長髄彦と縁を結び大和に一定の勢力を得ていたとする。
6.「出雲の国譲り」は、台与(=天照)の時代の邪馬台国の事跡とする(訂正:素戔嗚の事跡としたのは私の間違い)。出雲に続いて、出雲の影響下にあった「葦原中つ国」も、𩜙速日と長髄彦の縁組みにより、畿内における国づくりが進んでいた。そこに神武が東征し、𩜙速日が長髄彦を見限り神武に帰順することで、神武の大和王権が成立した。
7.幼名を狭野命とする神武が、大和を征服し拠点を築くまでを神武天皇の事跡とし、それ以降大和朝廷の樹立までを崇神天皇の事跡とする(つまり神武=崇神)。八幡氏は「欠史八代」を否定し八代の天皇を置くので神武=崇神とせず、神武を1~2世紀の人物と見る。従って、3世紀半ばの卑弥呼とは無関係となり、卑弥呼を、神武の五世祖である天照大神とする見方を「奇説」として否定する。
8.神宮皇后の「三韓征伐」は、「広開土王碑」に記された通り。「当時の日本にとって朝鮮半島の一部が非常に重要な地位であった」(百田氏は「植民地」とするが、八幡氏は「植民地」ではなく「日本の領土」とすべきと言う。
9.宮崎氏は、日本古代史のダイナミズムを「狗奴国王統」と「邪馬台国王統」の争いと見ており、この場合は、万世一系の断絶を意味する「王朝交代」ではなく「狗奴国王統」の仲哀天皇が暗殺され「邪馬台国王統」である神宮皇后の子応神天皇が即位した「王統交代」と見る。神功皇后とその参謀竹内宿禰は、共に𩜙速日につながる「邪馬台国王統」であった。
10.前項に見た通り、仲哀天皇は百田氏がいうような「戦死」ではなく、「邪馬台国王統」の復活を望む竹内宿禰に殺されたと見る。八幡氏は「暗殺の可能性が強く感じられる」としている。
11.宮崎氏は、応神天皇は神功皇后と仲哀天皇の子ではなく、神功皇后と武内宿禰の子と見る。出産が遅れたように見せかけたのはそのため。八幡氏は「仲哀天皇と応神天皇の父子関係を否定するのは理屈に合わない」というが、「父子関係」にあるかのような偽装工作が行われたと見た方が妥当である。
12.宮崎氏は「讃」は応神天皇、「珍」は仁徳天皇、「済」は二人の天皇に充てられているようであり、履中天皇と允恭天皇とする。間の反正天皇は事跡がないので「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇とする。もちろん、百田氏のような「倭の五王」九州王朝説はとらない。また、百田氏のいう「記紀にもこれらの天皇が朝貢したという記述がない」については、記紀編纂を命じた天武天皇が、狗奴国の伝統的外交政策である「中国への朝貢」をよしとしなかったため、あえて省いたとしている。八幡氏は、倭の五王は、当然大和朝廷の王であるといい、「讃」を仁徳天皇、「珍」を反正天皇、「済」を允恭天皇、「興」を安康天皇、「武」は雄略天皇に充てる。
13.八幡氏は「第十代崇神天皇にいたって、纏向遺跡などがあって大和で最も栄えた三輪地方を支配下に収めて大和を統一した。さらに、畿内全域、そして出雲や吉備当りまで支配下に置いたというのが日本書紀に書いてあること」であり、「大和王権」ではなく「大和朝廷」と呼ぶべきという。
  百田氏の見解は、3世紀から始まる古墳時代には倭国の首長は「王」や「大王」と呼称されていたことをもって、「この時代を「大和」「朝廷」と言う語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではない」(wiki「大和王権」)とする1970年代以降の見解を反映したものと思われる。宮崎氏は、先に述べたように、この時代を「王権交代」ではなく「王統交代」と見ており、天皇家による統治は継続しているから、その時代を「大和王権」と呼ぶか「大和朝廷」と呼ぶかには特にこだわりを見せていない。
14.仁徳天皇の事跡としては、河内平野の大規模農地開発のための土木工事、水害防止のための堤防の増築、田地開拓のための灌漑用水を引くなどが行われた。この時代の天皇陵の巨大さは、生産力の増大と共に、それを指揮する政権の巨大さ、強固さを物語るものであることはいうまでもない。
15.騎馬民族説とは、「日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満州の松花江流域にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立された」とする説で、天孫降臨説話や神武東征説話を朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表すとする。この説は、昭和23年(1948)に江上波夫が提唱した説で、敗戦直後の日本の自虐的な歴史解釈風潮を反映したものと言える。これは、騎馬に関する考古学的所見に基づくものとされるが、『記紀』の記述にはその痕跡はなく、現在は「奇説」として否定される。
16.継体天皇となる男大迹(おほどのおおきみ)は、応神天皇が13歳の時、武内宿禰に連れられて敦賀に巡幸した時に息長氏の媛のもとに残された落胤の若沼毛二俣王(わかぬけふたまたおう)の四代孫である。息長氏は中央に進出することなく地方豪族として琵琶湖水運と敦賀を拠点とする日本海貿易を支配して栄えた。それ故雄略天皇の粛清の嵐に巻き込まれることはなかったが、詳細な系図は中央には伝わっておらず、それ故に継体天皇の行為の正当性が後々まで疑われることになった。

八幡氏の説に対する私の疑問

 八幡氏は、『日本国記』の古代史に関する記述に疑問を呈し自説を開陳した後、古代天皇の実年代について先に紹介したような見解を述べている。八幡氏は、雄略天皇の「宋への朝貢478年」を起点に、ヤマトタケルが活躍して大和朝廷の勢力が九州の一部や関東にまで広がり始めたのは四世紀初頭であり、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は三世紀の中頃にあたるとする。

 これに対して宮崎氏は、『記』が記す崇神天皇の没年は戊寅318年とし、治世は約20年で崇神朝の始まりを301年としている。また、神武が45歳で東征のため日向祖出発した申寅年を294年とすれば、神武は即位前「45歳で東征のため日向に向かって出発してから6年」と述懐しているので、辛酉年301年が橿原宮に即位した年とすることができるという。*この「神武=崇神」説については、私は疑問に思っている。

 八幡氏は、崇神天皇全盛期を3世紀中頃としているので、宮崎氏の説より60年(六十干支)遡ることになる。それ故に、「台与の時代になって崇神天皇による大和統一と中国地方などへの進出が始まった」とするのである。

 問題は、崇神天皇の前に欠史八代を置き、一代20年×8=160年遡らせて、神武天皇を1~2世紀の人物とするため、神武の五世祖である天照大神と卑弥呼を同一視する見方を奇説として排除していることである。そこで「『日本国記』が「天照大神と卑弥呼が同一人物とかいう無理な推論をしていないのはいいことだ」と褒める。

 また、八幡氏は、邪馬台国が「東征」あるいは「東遷」したとする説を、「記紀には、畿内の大和朝廷が九州を征服したと書いているし、倭王武の上表文も同じだ。九州国家が畿内を征服したなどと言うのは、何の根拠もない奇説なのである」と言う。

 また、「『日本国記』が、「邪馬台国と対立していた狗奴国の誰かが東征したものではないか」としているのに対し、「それなら、卑弥呼より後の時代の人物ということになる。それが、大和を征服して大和朝廷を建国した後、逆コースで西に戻って、吉備や出雲に勢力を伸ばし、仲哀天皇のときに九州に再び登場して邪馬台国や狗奴国の故知にやってきたことになるのが不自然だ」と言っている。

 これが八幡氏の、邪馬台国東征説否定、併せて狗奴国東征説否定の論拠になっているわけだが、邪馬台国が「葦原中つ国」に何度も東征・東遷を繰り返していることは『記紀』に明らかだし、宮崎氏が狗奴国末裔という景行天皇やヤマトタケル、さらには仲哀天皇が故知日向や北九州にやってきて熊襲を討ったことについても、これが大規模な征討でなかったことは、カワカミタケルの謀殺の話を見ても明らかである。

 なぜ隼人が、大和朝廷に反攻したかは、狗奴国の王族である瓊瓊杵尊一行が日向に天下りした後、海幸と山幸の後継争いがあり、長男である海幸が負けて南方に逃げ隼人と縁を結んだことで説明できる。東征した神武は、海幸との後継争いに勝利した山幸の子孫だったからである。

 それにしても、「神武は日向から何やら地元に居れなくなるようなことをしでかして少人数で出奔し、途中、安芸や備中で用心棒に雇われるなどして勢力を増やし、ついには大和を征服し「大和朝廷」を建てた」とする八幡氏の説は、いささか無理筋と言えないか。「天孫が『葦原中つ国』に天下りし全国を支配する」という「使命感」なしに、大和朝廷の樹立が可能であったとは思われない。

 また、神武の出自について八幡氏は何も言っていない。辺境に英雄的人物が生まれることがあり、神武にはそうしたカリスマ的資質が備わっていたとするだけである。これに対して宮崎氏は、神武の祖先は、中国の三国志の時代、邪馬台国が魏と同盟したことに抗して戦った狗奴国の王族であって、魏と対立する呉が有明海から狗奴国に侵攻することを怖れ、一族の後継を高千穂越えで日向に避難させたとしている。

 もちろん、北九州を中心に発展した倭の国々の人々が、日向や球磨・薩摩・大隅に広がり始めたのは、邪馬台国以前の「漢委奴国王」(「親魏倭王」は誤記2019.8.29)の時代からであろう。しかし、それが「葦原の中つ国」ではなく、日向への「天孫降臨」として語り継がれたのは、それが否定しようのない事実であり、それが辺境の地であるが故に、それを「天孫の天下り」として権威づける必要があったのではないだろうか。私が宮崎照雄説に賛同する所以である。

日本古代史研究のアポリアを紐解く理系学者宮崎照雄氏の視点(2019-04-06 15:38:11 掲載)

 はじめに
 日本人の頭を悩ませ続けてきた記紀神話の世界、とりわけ「日向神話」。その謎を、理系学者の視点で見事に解明し、日本古代史の全体像を蘇らせたのが、宮崎照雄氏の『日向神話の神々の聖跡巡礼』及び『狗奴国私考』(webβ版)である。
 驚くべきは、氏の語る「日向神話の主要舞台が延岡であり、ここを起点に、神話の舞台が日向一円さらには薩摩隼人の地へと展開したとしていることである。延岡は、西臼杵の高千穂が天孫降臨の聖地とされる一方、笠沙の岬、可愛の山稜他多くの史跡を持ちながら、日向神話街道ルートからも外されている。
 こうした迷妄を一擲し、中国との外交関係をめぐる邪馬台国と狗奴国のせめぎ合いを軸に、日向神話の史実性を一挙に高めたのが、宮崎照雄氏の研究の魅力といえる。それが従来の説とどう異なり、また、謎とされてきた数々の疑問点をどう解明しているかを、日本古代史研究の歴史を概観する中でその解説を試みたのが本稿である。

1『宮崎県史』の「日向神話」理解
  『宮崎県史』通史編古代2(p105~106)には、次のような「日向神話」の起源についての解説がなされている。
 「日向神話は高天原の神々の営みを受けて、以下に展開される天皇統治の時代を導き、両者を連続的に結ぶよう置かれている。日向神話の持つ二つの重要な意義としては」、第一、天皇権力基盤を打ち立てること。第二、隼人の服属の起源を説くことと考えられている。
 「日向神話」は、高天原が「葦原中国」に加えて海原を手中におさめると言う話の展開になっているが、そこで物語られた説話は「日向地方の伝承や信仰とは全く関係なく、神話の構成上の舞台として地名を借りたに過ぎないとする見解は妥当であると考えられる」(シンポジウム『日本の神話』(吉井・岡田・大林)の一節を引用したもの)。
 では、なぜ「日向神話」の舞台が日向の地でなければならなかったのか。その最大の理由は上述した意義の第二であり、ニニギの降臨の地が、政府の支配地と隼人の地の境界の峰(日向襲高千穂=霧島)とすることに意味があったとている。
 要するに、「日向神話」の舞台を日向の地としたのは、”まつろわぬ”隼人を服属させるために、大和朝廷が、天皇家の祖先は隼人の祖先と同じとする神話――天孫が日向高千穂(=霧島)に天下りした――を創作したといっているのである。(そんなバナナ!)

2宮崎県『史跡調査報告』の結論
 明治以後の近代史学では、「歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、他の史料を史料批判なしに使ってはならない」という原則が、広く受け入れられつつあった。
 ただし、同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた(wiki「津田左右吉」)。こうした時代背景の中で、『記紀」』神話をもとに、いわゆる「高千穂論争」が盛んに行われた。宮崎県「史跡調査報告」(大正13年)もその一つで、天孫瓊瓊杵尊の高千穂への天下りを所与として、その地が西臼杵か霧島かを論じた。
 『調査報告』の結論としては、「源平盛衰記」が書かれた当時、霧島には未だ高千穂の呼称はなく、西臼杵の高千穂のみで、その経路は、遺跡や遺物の発見とも相関連して、阿蘇→高千穂→吾田の長屋の笠狭崎(愛宕山)であること疑いなし、とした。

3津田左右吉の『記紀』神話理解
 こうした中で、明治以降の近代実証主義を日本古代史にも当てはめ、記紀の成立過程について合理的な説明を行ったのが津田左右吉である。
 津田は、記紀の神代は観念上の所産であり、歴史的事実を記したものではないとして、次のような主張を行った。
一、「神武東征」否定
  大和朝廷は大和で発生した。それを日向からの東征としたのは、神代観念)と歴史時  代をつなぐ「かけ橋」を必要としたからである。
二、「日向神話」否定
  なぜ、日向のような僻陬(へきすう)の地が皇室発祥の地となったか。それは政治的  統治者としての皇室の由来を「日の神」につなぎ神性を持たせるためである。
三、「現人神」否定
  高天原の神々の能力や行動は、神的であるより童話的であり、宗教的性質はない。死  もある。つまり人間である。(「神武天皇東遷の物語」及び「神代氏の性質およびそ  の精神」津田左右吉参照)

4戦後、幻と消えた「高千穂論争」
 こうした津田の主張は、s15年に関連著書の発禁、早稲田大学教授辞職に追い込まれただけでなく、「皇室の尊厳を冒涜した」として起訴され有罪判決を受けるに至った(s19年時効により免訴)。しかし、津田の所説は、第二次大戦後の懐疑的な風潮の中でよみがえり、わが国史学会で圧倒的な勢力を占めるようになった。ただし、津田自身は、マルクス主義の立場からの天皇制否定には批判的で、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」とする立場を堅持した。
 戦後は、天孫降臨を前提とした「高千穂論争」はほとんど行われなくなり、代わって「邪馬台国論争」が盛んに論じられるようになった。そこでは、津田左右吉流の文献批判が主流となり、「端的に言えば、神代や古代天皇の話は、いわば机上で作られた虚構であり、事実を記した歴史ではない、ただ、それを伝えた古代人の精神や思想をうかがうものとしては重要な意味を持つ」とされた。(安本美典『邪馬台国はその後どうなったか』(p17)

5安本美典氏の「記紀」神話解釈
 こうした戦後の歴史学会の論調に対して、安本美典氏は次のような所説を展開している。(以下「前掲書」)
 「戦前のわが国の歴史学のすべてが皇国史観によっておおわれていたわけではない。津田史学の盛行は、皇国史観を否定するとともに、津田史学と相いれない面を持つ、多くの理性的・科学的成果をも顧みない傾向をもたらした。私は、「天孫降臨伝承」や「高千穂伝承」は、かってこの地上で起きた史的事実を伝えている部分があると考える。
 私は、北九州の甘木市付近にあった邪馬台国の一部、または主要な勢力が、卑弥呼(天照大神)の死後、三世紀後半に、南九州へ移動した事実があったであろうと考える。これが「天孫降臨」という形で伝承化したと考える。南九州の邪馬台国勢力は、さらに東にうつり、大和朝廷をうちたてたと考える。それは三世紀末のこととみられる。すなわち私は、邪馬台国東遷の史実が「神武東遷」という形で伝えられたと考える。」

6大和朝廷の力の源泉はどこから?
 では、そうした日本古代史を推進した天皇家の力の源泉は何であったかというと、氏は、主に二つあったという。(「前掲書」要約)
 一つは、伝統からくる力である。中国の魏によって承認された、日本を代表する邪馬台国の後継勢力であり、宗教的・政治的な伝統を持つことからくる力。もう一つは、「魏志倭人伝」に倭人は「租賦を納む」とあるが、租税をとることによって国家ははじめて部族国家の域を脱する。兵士を雇い、最新式の武器を持ち、組織的訓練を受けた兵士に一般の人は勝てない。
 なお、日本書紀でさえ「膂宍の空国」(荒れてやせた不毛の地)と記されている南九州から、大和朝廷の起源となる勢力が勃興することがあるであろうかとする疑問については、「私は、歴史を考えるばあいに、「歴史の必然性」や「可能性」以外に「英雄性」なども考慮しなければならないと考えている。元の勃興がジンギス汗という個人の「英雄性」に負うところが大きい」のと同様である。(*辺境から英雄が出る!)

7邪馬台国が降臨した高千穂は何処
 安本氏は、こうした議論を経て、天孫降臨の高千穂の地が西臼杵であるか霧島であるかについて、次のように言う。(「前掲書」要約)
 私は、邪馬台国を伝承的に伝えた「高天原」は北九州の甘木市付近と考える。北九州と都城付近と大和の地名の類似は、天孫降臨や神武東征の伝承と関係するであろうと考える。
魏志倭人伝に「水行十日、陸行一月」とあるのは、邪馬台国の勢力が北九州から南九州に移ったという伝承(「天孫降臨」)が混乱し、(それが)邪馬台国までとなったのではないか。
 いずれにしても、瓊瓊杵尊らが北九州から南九州に至ったことは確かであり、経路としては、私は、西臼杵の高千穂を通り、霧島の高千穂に至ったとする本居宣長の折衷説を支持する。ただし、神代三山稜の比定地から見ても、日向三代の都(高千穂の宮=宮崎神宮)の伝承地から見ても、高千穂の峰は霧島山とする説の方が、西臼杵説より有利と考える。

8安本美典氏の説に対する私の疑問
 こうした安本氏の議論の中で、特に問題となるのは、高千穂論争の考察において、延岡方面には、可愛(え)の山稜があるだけで、「瓊瓊杵尊が至ったとされる笠沙に当たる地は求めにくい」としている点である。(「前掲書」p244)
延岡には、このほか、祝子川とホオリ、五ヶ瀬川とイツセという名称の一致や、西階地区が古来高天原と言われていたこと。吉野や三輪など大和と一致する地名が残されていること。さらには、近隣の門川や日向に、伊勢地方の地名と一致する五十鈴川や伊勢が浜があることなどの事実が無視されている。
また、論理的な問題としては、「魏によって承認された伝統的な力を持ち、租税をとる脱部族国家」であるはずの邪馬台国が、なにゆえに、生産性の低い九州南部に降臨しなければならなかったか、についての説明が不十分であように思われる(辺境から英雄が出るはよしとしても)。いずれにしても、こうした論理的な疑問は、津田左右吉が提出したものでもあり、安本説はこうした疑問に十分答えているとは言えない。

9石川恒太郎『延岡市史』の日向神話
 ここで、昭和25年に、個人で『延岡市史』を書きあげた石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 - 1990年10月30日)の、日向神話についての所説を見ておきたい。氏の経歴は次の通り。
 「宮崎県日向市生まれ。宮崎県立延岡中学校、専修大学卒業。「日州新聞」「大阪毎日新聞」などの記者を経て1940年、宮崎県立上代日向研究所特別委員となる。戦後は宮崎県文化財専門委員として考古学や地方史研究に携わる。歴史研究のかたわらラジオ番組で郷土史の講義を行う。1960年宮崎県文化賞を受賞」(wiki「石川恒太郎」)
 この『延岡市史』は、昭和14年に延岡市の紀元二千六百年記念事業として計画され、石川氏がその編纂を委嘱され、昭和19年に原稿が出来上がったが、戦災で焼失。戦後は、市や市議会の制度が変わったため、石川氏の個人出版として出版を続け、昭和25年までに三巻を出版したものである。

(1)日向神話の史実性は考古学が決する
 この『延岡市史』では、日向神話は、第二章(付録一)「高千穂の伝説について」として、約20ページが充てられている。
 ここで石川氏は、戦後の風潮も反映したのだろうが、「伝承上の「筑紫の日向」は必ずしも現実の日向国とは限らない。それはあくまで説話上の日向であったと思う」と言いつつ、「ただ然し、日本民族の古い伝承が、全然事実を伝えるものではなく、空想的なものであると断言することもできないであろう。何故ならば、『古事記』や『日本書紀』が大和朝廷の淵源を説明するために編纂されたのに、尚ほその朝廷の初源地を大和国と言わずして、日向国と書いていることは、日本民族の古い伝承の上では、日向国として伝えられていたためであると考えられる。」「従って、この皇祖の日向降臨の伝説が事実を伝えるものであるか否かは、今後に於ける考古学の研究の進歩によって、決する以外に方法はないのである」(「上掲書」p312)と但し書きしている。

(2)石川恒太郎の『邪馬台国と日向』
 石川氏には、この他に、昭和47年発行の『邪馬台国と日向』という著書がある。石川氏はここで、「古代日本の国家形成との関係においては、邪馬台国と対立していた狗奴国の研究が最も重要である」として、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、狗奴国と、日向の位置関係を確定することの重要性を説いている。
 氏は、冒頭「今から152年前の文政元年に、現在の宮崎県串間市今町で、中国の前漢の時代のものと思われる「穀璧」(こくへき)が発掘されたこと、同じ穀璧が福岡県の怡土郡(奴国)でも出たことを述べ、これは串間市に「漢と交わりを結んでいた国があったことを証明するもの」としている。その上で、魏志倭人伝の帯方郡から倭国への道程について、榎和夫氏の説を採り、邪馬台国を筑紫国の山門郡にとり、他の国は九州の県郡を充てるべきとしている。この中に「奴国」が二つあるが、後の「奴国」を日向の那珂郡に比定し、その南に、邪馬台国と対立した狗奴国=隼人があったとしている。

(3)狗奴国が東遷し大和朝廷を建てた
 その説を要約すると、その奴国の南にあった狗奴国の領域=宮崎郡は、日向のほぼ南半分の海岸を占める地域で、海洋による生活によって、大隅や薩摩をむすぶ男王卑弥弓呼を中心とする大連合をつくり、邪馬台国の卑弥呼と対立していた。
 瓊瓊杵尊の妃木花開耶姫は、神吾田(阿多)津姫であり、神武天皇は「阿多之小橋君」の妹「阿比(姶)良津姫」を娶っていることから、大和朝廷を開いた皇室の御祖先である氏族と隼人とは兄弟関係にあったと知れる。
 卑弥呼は魏に朝貢(239年)、243年にふたたび朝貢、魏王は使者の難升米に黄幢(こうどう=軍旗)を授けた。これは、女王国が、かねて仲の良くなかった男王の狗奴国と戦争始めたことを意味する。戦争中の248年に卑弥呼は死んだ。
 女王国では、卑弥呼に代わって男王を立てたが大乱となり、卑弥呼の長女壱与という13歳の少女を立ててようやく国が収まった。魏は265年に倒れ西晋の時代となった。翌266年、倭人が朝貢しているがこの倭人は女王国とは記されていない。
 これは倭国に異変が起こったということで、女王国は狗奴国に滅ぼされたのであろう。戦争の原因は、その当時は、弥生時代の後期で水田耕作が盛んになった時代であるから、邪馬台国の穀倉地帯をめぐる戦いであったと推測される。
 狗奴国すなわち隼人は、女王壱与の邪馬台国を滅ぼし、第二邪馬台国と称し、都を肥後の菊池郡に移したが、熊襲に叛かれて短時日にして滅んだ。その後、その後裔が日向に入り、3世紀末に東遷し大和朝廷を立てた。

10戦いに敗れた狗奴国の東遷は無理
 これが、石川恒太郎氏の狗奴国東遷説だが、あえてここで氏の説を紹介したのは、これが、先に提出した「なにゆえに、邪馬台国が、生産性の低い九州南部に移住したか」という疑問に答えており、これから紹介する宮崎照雄氏の「狗奴国が大和朝廷をたてた」とする説に似ているからである。
 ただ、石川氏の説で問題となるのは、邪馬台国=熊襲、狗奴国=隼人としていること。狗奴国が邪馬台国を滅ぼして菊池郡に移り第二邪馬台国と称したが、熊襲に叛かれて短命に終わり、その後日向に移った後、一転して、後裔が大和に東遷し大和朝廷を建てた、とする筋立てに無理があることである。
 この無理は、「女王国と狗奴国が不仲だった」「魏の滅亡と同時に女王国が消えた」「大和朝廷を開いた皇室の御祖先である氏族と隼人とは兄弟関係にあった」とする認識と、天照大神の孫である瓊瓊杵尊一行が西臼杵の高千穂に天下りし、その後東征したとする伝承との整合性をはかるため生じたものだろう。

11天孫降臨の史実性の鍵は日向神話
 ここで、『記紀』神話で史実性が問われている「天岩戸隠れ」「天孫降臨」「神武東征」について、今までに交わされてきた議論を整理しておく。
一、天岩戸隠れ
 天照大神を卑弥呼とすれば、魏志倭人伝の倭国に関する記述と大筋で一致する。247年と248年の日食と関連付けることができればなおさらである。
二、天孫降臨
 なぜ、天孫は日向のような僻陬(へきすう)の地に降臨したか、については、先に紹介した『宮崎県史』や石川氏の解釈には無理があると思う。また、安本氏の「英雄説」もいまいち。
三、神武東征
 今日、邪馬台国が九州にあったとする説が有力であり、出発地が日向であるかどうかを別にすれば、九州勢力が大和に東遷した可能性が高い。従って、一の天照大神=卑弥呼とすれば三の可能性も高いわけで、従って、もし、二の史実性を説得的に説明できるなら、三の出発地の問題も解決でき、『記紀』神話の「史実性」が一挙に高まるわけである。

12日向神話の史実性を毀損する疑問
 つまり、日向神話が『記紀』神話の史実性を疑わせる根本原因となっているわけである。それは、①なぜ、天孫が僻陬の地日向に天下ったか?に始まり、②三種の神器をもって天下りしたのに、その後、このことが全く言及されていないこと。③日向まで猿田彦が瓊瓊杵尊一行を先導したり、吾田(延岡)で大山津見神や事勝国勝長狭が瓊瓊杵尊を迎えているのはなぜか?④高千穂が二か所あるのはなぜか?⑤海神宮は何処にあったか?海新宮訪問の目的はなにか?⑥ 海幸彦はどうして隼人の祖となったか?⑦東征した勢力はどれ程?⑧なぜ、直接瀬戸内海に入らず福岡の岡田に立ち寄ったか?等々、疑問が尽きないのである。

13宮崎照雄氏の大胆な記紀神話解釈
 こうした疑問の数々を、独創的な視点で包括的に解いたのが、理系学者である宮崎照雄氏である。以下、その大胆な仮説の概要を紹介する。
 氏は、魚の病理学を専門とする学者である。もちろんフィールドワークを多くこなしてきた。そして、そこで得られた研究手法や理科学知見を総動員して、「記紀神話の古史書だけでなく、考古遺物や華夏の史書をとり上げて総合的に論考し、今一度古代の神々の事績を正しく理解」しようと努めた。
 氏の最初の著作は『三角縁神獣鏡が映す大和王権』であるが、氏は、倭人の権力者が欲した「鏡」の研究を通して、鏡の原点ともいえる天照大神を作り出し伝承したのはだれか?なぜ天照大神(鏡)は、崇神天皇により改鋳されねばならなかったか?なぜ天照大神(鏡)は宮中から出され、伊勢神宮に祭られねばならなかったのか?だれが三角縁神獣鏡を作ったか?なぜ三角縁神獣鏡は古墳に埋納されたか、等々の疑問をどう解くか悩んだ。

(1)「人の情念」を主体に歴史を考察
 そして、これらの疑問を解くためには、客観性の保証が難しいが、あえて、その時代を生きた「人々の情念」を主体において歴史を考察する必要があると考えた。そこで見えてきたのが、先学と全く異なる新たな歴史観だった。その概要は次の通り。(『日本国の神々の聖跡巡礼』『狗奴国私考』「神武は鯨を見たか」等参照)
 一、邪馬台国(連合)は九州北部にあり、邪馬台国の卑弥呼は、魏の明帝から下賜された「長宜子孫」連弧文鏡を「卑弥呼の鏡」として祭っていた。
 二、卑弥呼は248年の日食の日に、狗奴国との戦争の敗北の責任を責められ、邪馬台国の人々の手で殺害された。その卑弥呼の跡を襲ったのが壹與( 「臺與=登与」)で、壹與の時代に邪馬台国(連合)の豪族たちは東遷して近畿、中国、山陰地方に移住し、そこを領有して開発した。
 三、邪馬台国(連合)と交戦後、いったん南九州に移住した狗奴国後継が、その地で武力を蓄え、崇神=神武の時代に「うまし土地」を求めて東征し、先住の邪馬台国後継氏族を降して、その開発した三輪の地を占領した。
 四、東征において、崇神=神邪馬台国後継が持っていた王統の象徴の「卑弥呼の鏡」を譲り受け(簒奪?)し、大和王権を創造した。
 五、その後、邪馬台国後継は百済など漢半島からの帰化人の助力を受けて勢力を盛り返し、応神天皇を即位させて、邪馬台国王統を再興した。

 このように「時空を超えた邪馬台国(連合)と狗奴国の対立関係を軸に歴史を見ると、古代の歴史的事象が矛盾なく理解できることが分かった」(『三角縁神獣鏡が映す大和王権』)というのである。そこで捉えられた、日本古代史の全体像は以下の通り
 伊弉諾尊とは、紀元57年に後漢王朝に朝貢し金印を得た委奴(伊那)国王を神格化した神で、その子孫が瓊瓊杵尊の天下りの前に日向の国の吾田邑にいた。その後、伊那国の倭国王叙任に反発した伊都国の首長との間で権力闘争が起こり、奴国と伊都国に分裂、戦いに敗れた伊那国王は、金印を志賀島に秘匿して遠所(日向?)に逃れ済んだ。

(2)狗奴国と伊都国の戦いと卑弥呼共立
 この分裂を記紀神話に当てはめて考えると、伊弉諾の禊から生まれた天照大神は伊都国を象徴し、月夜見尊は伊都国の後塵を拝する奴国に見える。その後、奴国の王となった伊都国は、107年に後漢に朝貢して叙任を求めた。この時160人の生口(技術者)を献上したことに奴国の民は激怒し、多くの不満分子が熊本県の菊池川流域に移住し狗奴国を起こした。その後国力をつけた狗奴国は倭国の覇権をかけて伊都国と戦った。これが倭国大乱で、この乱を終わらせるため、卑弥呼が邪馬台国の女王として共立された。
 この情景を記紀神話は、天照大神(卑弥呼)と素戔嗚尊(卑弥弓呼)の誓約と素戔嗚尊の乱暴狼藉として著している。時は魏蜀呉三国鼎立時代。呉の孫権は230年徴兵のため夷州(台湾?)の住民数千人、山越(ベトナム?)から6万人を拉致、倭が呉の属領にされれば、何万人の倭人が軍役に駆り出される恐れがあった。狗奴国の卑弥弓呼は卑弥呼が魏の柵封体制に入ったことに反発したのである。

(3)卑弥呼の死と狗奴国の日向移住
 卑弥呼は239年再び魏に朝貢し、「親魏倭王」の金印を得、魏と同盟関係に入った。このことに反発した狗奴国は、卑弥呼の邪馬台国と248年頃まで、倭国の覇権をかけて戦争を続けた。この戦争で、邪馬台国と狗奴国はともに人的に消耗し、狗奴国の卑弥弓呼は有明海からの呉の侵攻を恐れ、一族を高千穂を経て日向国に移住させた。
 この時、稲穂を持って高千穂に入った卑弥弓呼の子狗古智彦一行の様子が、瓊瓊杵尊の天下りとして記紀に物語られた。これが何時かというと、『日向風土記』逸文に「天暗冥く、夜昼別かず・・・天開晴り、日月照り光きき」と、日食を思わせる文があり、これは248年9月5日朝の日食と思われる。一方、248年には、邪馬台国の卑弥呼が死に(殺された?)、宗女の台与が新女王に推戴された。これが天照大神の岩戸隠れと天照大神の再臨の物語となった。

(4)瓊瓊杵尊は天照大神の孫ではない
 ここで問題となるのが、瓊瓊杵尊は天照大神の孫ということになっているが、天照の宗女台与はこの時13才であり「結婚をして子をなし、その子が青年になっていたとはあり得ない。それ故、瓊瓊杵尊は天照大神の孫(天孫)ではありえない。」
 また、天孫降臨した一族が後に東征し大和王権を立てたが、『後漢書』倭伝(范曄432年上梓)に「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る、皆倭種といえども女王に属さず」とある。魏志倭人伝では狗奴国の位置は邪馬台国の南となっていたのに、この時は「東、海を渡ること千余里」となっているのは、狗奴国が河内・大和国に東遷したと読み取れるのではないか。
 瓊瓊杵尊一行を先導したのは猿田彦(始原奴国の一族)で、阿蘇→高千穂を経て五ヶ瀬川を下り吾田邑の天下に至った。問題は、天孫が葦原中国、つまり日本全土を統べるべく天下りしたはずなのに、瓊瓊杵尊が天下りした地は筑紫の日向国だった。ではなぜこの矛盾が放置されたか。天武天皇が狗奴国系だったからではないか。

(5)吾田邑には伊那国の一族が先に
 ところで、「大国主が国譲りした葦原の中国、すなわち河内・大和に天下りした天照大神(卑弥呼)の孫は実在した。」それが饒速日尊(天日明命)で、臺(台)与の子だが、『記紀』ではこの天下り説話は葬られた。狗奴国系の天武天皇には不都合だったからである。
 高千穂に天下りした瓊瓊杵尊は吾田長屋の笠狭之御碕(かささのみさき)に至った。この地の国主、事勝国勝長狭(遠所に逃れた伊那国の一族)が「ここは住む人の少ない土地(空国)である。「請はくは任意に遊せ」といった。
 瓊瓊杵尊は、ここに高千穂の宮を建て、大山祇神の子で美人の木花咲耶姫と出逢って結婚し、ホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホオリ(山幸彦)を生んだ。大山祇神とは、五ヶ瀬川支流の山間部で金や銀を採取する山の民で、移住してきた伊那国一族と縁を結んでいたと考えられる。
 このように、伊那国または狗奴国の移住者が次第に南の方に居住域を拡大したことで、宮崎の伊弉諾から神武に至る様々な伝承が生まれることになったと考えられる。

(6)海幸彦の出自は隼人族ではない
 瓊瓊杵尊が天下りに随伴した天鈿女命は猿女君となり、猿田彦に請われて「伊勢の狭長田の五十鈴川の上」に同行した。「上」とは南であり、五十鈴川は門川、その南に日向市の伊勢ケ浜、その間の「あまり広くない湿地帯」が狭長田であった。
 ここで猿女君とは、巫女ではなく、文字がない時代に「誦と舞」で、それぞれの国の歴史を伝承する職能集団だった。そして、「誦」によって伝えられた伝承を『記紀』に集大成した人物こそ天鈿女を祖とする猿女君の稗田阿礼だった。
 木花咲耶姫の子ホデリ(海幸彦)について『記紀』は、「是隼人の始祖なり」としている。これを根拠に、木花咲耶姫を隼人族の女神とし、神武天皇を高祖とする皇族を隼人族の血統とする通説が生まれ、さらに拡大されて、瓊瓊杵尊の天下り先が霧島連山の高千穂峯とする通説が生まれた。これは山幸彦との後継者争いに負けた海幸彦が、宮崎の南方に逃れ、隼人族と結婚し魁師となったことから生まれたものである。

(7)山幸が訪問した海神宮は福岡の奴国
 海幸彦と山幸彦の後継者争いで問題となるのが、山幸彦の海神之宮訪問だが、塩土老翁(=事勝国勝長狭)は弓矢と人柄で山幸を後継者に選び、自分の出身地である「橘の小戸」(福岡市那珂川流域にあった奴国の領域)の海神之宮に行くことを勧めた。
 山幸彦は奴国の海人安曇氏の王の館に遊学し、海人の知識(田の作り方、天候の見分け方、津波の知識など)を学ぶとともに諸々の情報を入手した。饒速日の大和国への東遷の情報もそこでつかみ、それが後に磐余彦尊の東征の契機になったと思われる。
 海神宮で三年過ごした山幸彦は帰国し、兄の海幸との後継争いに勝利する。そこに臨月の豊玉姫が妹の玉依姫に付き添われてやってくるが、豊玉姫は生まれた我が子を残して海神宮に帰ってしまった。そこで、妹の玉依姫が生まれた鵜葺草葺不合を養育した。
 ところで、この鵜葺草葺不合は事績を全く持たない。その子供とされる磐余彦は山幸彦の本名彦火火出見を持つので、鵜葺草葺不合は長じて五瀬となったと見た方が合理的である。

(8)天武天皇が小橋君を優遇したわけ
 また、『紀』は海幸彦を「吾田君小橋等之本祖」としている。『記』では「阿多」となっているが吾田が正しい。つまり、海幸彦は吾田村で吾平出身の女(小橋君)と結婚し、磐余彦はその妹吾平津姫と結婚した。小橋氏は神武東征後、海幸彦のいる南那珂郡に移ったと見ることができる。日南には吾田村があり、吾田神社もあり、この神社の位置は小橋とされている。日南の油津に吾平津神社があるのもそのためであろう。
 磐余彦は小橋君の妹吾平津姫と結婚し、手研耳命と岐須美美命を生んだが、手研耳は、神武東征後の神武の後妻(事代主の娘媛蹈鞴五十鈴媛)の子神八井耳命と神渟名川耳との皇位争いで殺され、岐須美美が小橋氏の裔となったことから、磐余彦(神武)の流れをくむ天武天皇が隼人族の魁師を優遇したものと思われる。
 45歳になった磐余彦は吾田邑の高千穂宮で、五瀬命らと、日向は西の辺境なので、葦原中国を治めるためには、塩土老翁から聞いた「東の美き地」に行って都を作ろうと提案し賛同を得た。

(9)神武東征と残留組の宮崎方面進出
 中国(中つ国)を目指して東征に出るには船軍が必要である。そこで造船所を築き木材を得るに適した美々津(奴国出身や地元の海人がいた)を選んだ。『記紀』にはその場所を記さないが、地元では神立山から楠材を切り出し匠河原で造船したと伝わる。
 「磐余彦尊の東征の船軍には、吾田邑、伊勢ケ浜や美々津の海人が多数参加した。日向の地に残留した狗奴国や奴国の民は、さらに南の沖積平野部に進出して大いに人口を増やして栄えた。一ツ瀬川から大淀川流域には、奴国ゆかりの地名が移植され、それにちなむ住吉神社、江田神社、小戸神社が建てられた。
 西都原古墳には男狭穂塚と女狭穂塚があり、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫と伝わるが、これらは狗奴国系の崇神、景行天皇陵と類似する前方後円墳(5世紀)であり、景行天皇、応神、仁徳天皇などの妃となった御刀姫、髪長姫、その父牛諸井らの墓と見た方がよいのではないか。

(10)磐余彦はなぜ筑紫岡田宮に寄港した
 磐余彦の船軍は、美々津の民を乗せ美々津を出港した。船軍は細島(鉾島)に立ち寄り、イワレヒコが鯨退治を行ったと伝わる。その後、五ヶ瀬川河口の吾田津に入り、磐余彦の母の玉依姫を乗船させた。また、東征に用いる鉄製武器も船に積み込んだ。磐余彦の兄の御毛沼命は参軍せず、高千穂に残ったのではないか。(鬼八退治の伝説)
 磐余彦の船軍は、吾田津を出港した後、宇佐に寄港し、なぜか関門海峡を通って古遠賀潟に入り筑紫国の岡田宮で1年滞在している。この旅程の目的を『記紀』は記さないが、五瀬が母の豊玉姫に別れを告げ、磐余彦は母玉依姫を奴国に送り届けるためと、奴国の技術者を用いて多くの軍船を建造するとともに、日向の吾田村からの軍衆の到着を待つためだったと考える。大和で戦った久米兵士は黥利目(入れ墨目)をしており、奴国の安曇目をした安曇氏の一族であったとしたい。
 東征軍はそこから、安岐国の多祁理宮に立ち寄り(『紀』では1月) 、吉備国の高島宮で船の修理と兵糧を獲得し(『紀』では3年)、難波の岬を通って河内国の草香邑の白肩津に着いた。そこから、奈良盆地侵入を試みた。

(11)奈良侵入ルートは『記』が正しい
 最初は信貴山南麓の竜田越えを試みたが道が険しくて断念、次に胆駒山の北を超えて侵攻しようとするが地元の豪族長髄彦に阻まれ敗退した。この戦いで五瀬命は矢傷を負い、紀伊国の男之水門で亡くなり、紀ノ川の河口竈山に遺体を葬った。
 東征軍は熊野(『紀』では、この熊野を三重県の熊野とし上陸し紀伊山脈(1500~1900m)を越えて宇陀に入ったとするが無理)に至った後、八咫烏(カラスではない)の案内で紀ノ川から吉野川に沿って進軍した。途中、多くの荒ぶる神を避け、また、地元の豪族を味方につけつつ、吉野を経て奈良盆地の東の宇陀(後に吾田邑の海人が入植してつけた名?)に至った。吉野川の流域には吾田邑の入植の跡が色濃く残っている。(熊野はイヤと読み紀伊半島西北部を指した)
 この奈良盆地で、長髄彦と最後の決戦をし長髄彦を討って兄五瀬の敵をとった。その後、磯城の豪族兄師木と弟師木を討った。その後、磐余彦より早く大和に天下った饒速日命が磐余彦に天璽(あまつしるし)を献上して帰順し、磐余彦が橿原の地に大和王権を築き初代神武天皇となった。

14見たことも聞いたこともない日本古代史
 以上、瓊瓊杵尊が日向に降臨するに至った前段の事情の解明から、東征し大和に王権を打ち立てるまでの、宮崎照雄氏の独創的見解を見てきた。まさに、氏自身の言う通り「これまで見たことも聞いたこともない日本の古代史に遭遇した」という思いに打たれたのは私だけであろうか。
 この論文について氏は、「先行論文は読むが引用せず、オリジナルの史料のみを参照し、日本古代史の謎を解く、全体的な「合理的ストーリー」を展開した」と言っている。冒頭紹介した通り、戦後の日本古代史研究におけるアカデミズムは、日本神話の史実性を全く認めていない。そんな中で、宮崎氏は、それは「日本に文字がない時代に猿女の君によって誦習され伝えられた歴史の記録」であるとして、そこから「人の情念で作られる」史実を解き明かそうとしたという。
 氏の論文「神武は鯨を見たか」は、平成27年度「邪馬台国全国大会in福岡」の論文募集において最優秀賞を獲得しているが、アカデミズムは今なお無視しているかに見える。

15宮崎氏の卑弥呼の鏡についての疑問に対する宮崎氏の答え(1)
 なお、NO13で紹介した、宮崎氏の卑弥呼の鏡ついての疑問に対する、氏自身の答を見ておく。(『三角縁神獣鏡が映す大和政権』)
一、鏡の原点ともいえる天照大神を作り出し伝承したのはだれか?
 卑弥呼を殺した邪馬台国後継が卑弥呼を日の神とする天照神話を創った。神武が邪馬台国王統の饒速日を倒し卑弥呼の鏡(天照神話)を簒奪し大和政権の守り神とした。邪馬台国末裔を慰撫する必要もあった。これを正当化するため、瓊瓊杵尊の天下りの際に天照大神が鏡・玉・剣の神器を授けたとする神話を創作した。
二、なぜ天照大神の鏡は、崇神天皇により改鋳されねばならなかったか?
 最初は卑弥呼の鏡である長宜子孫銘のある内行花文神獣鏡を模した大型の「八葉紐座内行花文鏡」(=八咫鏡)が宮中に置かれたが、崇神=神武の時、疫病がはやるなど、鏡の祟りを恐れるようになった。そのため本物は他に移し、宮中には改鋳した鏡を置いた。
三、なぜ天照大神(八咫鏡)は宮中から出され、伊勢神宮に祭られねばならなかったのか?
 鏡は宮中から笠縫邑の神籠に移され、その後、宇陀、近江、美濃をめぐり最終的に紀伊半島東端の伊勢神宮に移された。この鏡の移動は大和政権が「長宜子孫」を断念させられた鏡の怨念を恐れていた証左。(式年遷宮?)
四、だれが三角縁神獣鏡を作ったか?
 大和政権は饒速日氏族が行ってきた出雲との妥協の産物である銅鐸の製造と祭祀をやめさせた替わりに、三角縁神獣鏡を作らせた。
五、なぜ三角縁神獣鏡は古墳に埋納されたか?
 物部氏は饒速日を遠祖とし、宮中の鎮魂祭や大嘗祭にかかわった。三角縁神獣鏡を葬具として陵墓に埋納し死者を供養するアイデアも彼らのものと推測される。

おわりに──“日本人とはなにか” 
 実を言うと、私も、宮崎説に出会う前は、日向神話について、津田左右吉や吉田敦彦氏が言うように、宗教的というよりむしろ童話的な、今日と変わらない家族の愛憎劇をみるだけで、そこに歴史性というものはあまり感じなかった。
 宮崎氏のおかげで、2世紀から5世紀にかけての日本が、近年の「集団的自衛権」をめぐる政争と同様、中国との同盟関係をめぐり激しく対立していたこと。それが日向という僻陬の地への天孫降臨、あるいは邪馬台国の東遷、そして、統一王朝の樹立へと進んでいったことが理解できた。
 私は、山本七平の教えを受け、昭和史の研究を通して“日本人とはなにか”を考えてきた。宮崎氏の若いころからの興味も“日本人とは?”だったそうで、それが日本古代史研究に発展したとのことである。
 氏の著書を読むと、随所に、「日本人のオリジナリティー」を問う言葉が出てくる。その古代史研究の舞台が延岡というのも、私にとっては、日本古代史を理解する上でまさに僥倖だった。氏の独創的研究によって、日本古代史学会の迷妄が啓かれる日が来ることを願ってやまない。 おわり (延岡史談会第四回講演2018.11.4)

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