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カテゴリー「日本歴史」の記事

2020年10月 3日 (土)

「記紀」が描く日本古代史空白の時代

 山本七平は、弥生時代末期のクニの共同祭祀の中心にいたのは、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼のようなシャーマン的存在ではないかと言っている。古事記・日本書紀には、この卑弥呼に相当する人物について神宮皇后であるかのような注記がなされているが、「記紀」編集者には、卑弥呼の活躍した年代は魏志倭人伝で分かっていたから、それを紀元前660年以前に活躍する天照大神に比定することは出来なかったであろう。

 では、「記紀」神代の大和朝廷の祖先神とされた天照大神神話は、一体何を物語っているのだろうか。この問題をめぐっては、白鳥庫吉、和辻哲郎以来の多くの議論があるが、山本の所説にある通り、それは、縄文時代から弥生時代にかけて発展した村落共同体の生活の中から生まれた共同祭祀におけるシャーマン的存在であったと見るべきだろう。

 京都大学東南アジア研究センター教授の高谷好一教授は、縄文時代の照葉樹林帯での日本人の生活を「半栽培屋敷園地」と名付けている。それは、「照葉樹林は食物が豊富で、一度破壊しても二次林として再生する。照葉樹林の森林面積は日本が世界一であり、この点では昔も今も「森の国」である」と。

 「半栽培屋敷園地」とは、例えば小川に臨んだ丘陵の端に小部落を作る。集落のまわりだけは照葉樹林が伐り払われていて、そこにクリやドングリそれにイチゴなどが比較的多く生えている。・・・照葉樹林帯でのこの種の生活は一旦確立してしまうとかなり安定したものになる。」

 縄文時代は一般的に狩猟採集生活というが、その実際の生活はこのようなもので、こうした共同体が、弥生時代の稲作を受け入れる中で、次第にクニとして組織化されるようになった。そして、その組織力を強化するリーダーシップの一つの形態として、卑弥呼のようなシャーマンによる共同祭祀が行われたと考えられる。

 おそらく大和朝廷を切り拓いた天皇家は、そのルーツにこうした共同祭祀の司祭の伝統を持っており、その記憶と伝承が天照大神神話として編集されたのではないか。ここで注意すべきは、神話といっても、天照大神をめぐる物語は、稲作をはじめとする農耕や、狩猟漁猟を営む人間たちの自然の中での生活が描かれているということである。

 つまり、「記紀」に描かれた天照大神を中心とする神々の物語は、「高天原」と称する地域から、地上世界である「葦原中国」の出雲や日向、そして大和へと勢力を拡大していき、最終的には、日向から東征した神武天皇によって大和王権が開かれ、第十代の崇神天皇の時に、天照大神を象徴する「鏡」が宮中で祀られ、皇室の祖先神となる由縁を描いているのである。

 では、この「鏡」によって象徴される天照大神とは誰であったかというと、日本の伝統的な神観念からいえば、大和朝廷を開いた天孫族の祖先神であると同時に、何らかの悲劇的様相を持った人物が考えられる。そこで、これに相当する人物を日本の古代史に求めるとすれば、自ずと、魏志倭人伝に記された卑弥呼に行き着く。

 「記紀」神話の、天照大神の「天の岩戸隠れ」や「天の岩戸開き」の物語は、邪馬台国と狗奴国の戦争、卑弥呼の死、その後男王が立ったがクニが治まらず、卑弥呼の宋女台与を女王に再臨することで治まったとする魏志倭人伝の記述に照応する。「出雲国譲り」や神武東征は、北九州の弥生勢力の畿内への勢力拡大と見ることができる。

 問題は、この勢力拡大がなぜ、北九州から三つのルート(出雲ルート、大和ルート、日向ルート)に分かれたかであり、特に、日向ルートの解明が課題となる。現在の定説では、「日向神話」は、大和朝廷の支配に服さなない隼人の懐柔策であり、そのために「隼人の祖先を皇室の祖先とする物語を創作した」とするが、これは「記紀」の記述と一致しない。

 そもそも、天孫降臨は日向だけでなく、出雲そして大和へも行われたのである。それを、日向という僻遠の地に降りた一派が、先に大和に入り先住民と血縁関係を結んだ一派を打倒して大和朝廷を開いたとする話は、出自や血縁をとりわけ重視する古代人にとって、それが何らかの事実に基づかない限り、「記紀」に採録されることはなかったであろう。

 なお、この天孫族の出自についてだが、AD239年に卑弥呼が魏に遣使した時、『魏略』には「其の旧語(昔話)を聞くに、自らを太伯の後(胤)と謂く」と記されている。ということは、邪馬台国の王族は、その出自を中国江南の「呉」としていたということで、これは、魏志倭人伝に記す倭人の黥面文身の風俗が、呉の海人の風俗と一致することでも了解される。

 この呉の海人とは、「中国長江下流の水郷地帯に住み、漁業と水稲耕作を営んでいた海人族であり・・・呉が隣国の越に滅ぼされたBC473以降、中国江南の地から直接海を越え、あるいは朝鮮半島を経由して縄文時代の日本列島に渡来してきた人々」で、彼等が、中国の先進文化を縄文人に伝えたことで、日本に弥生文化が花開き、クニが生まれ、全国統一へと発展したと考えられる。

 いずれにしろ、「記紀」神代の物語が、どの程度史実を反映するものであるかは、あらゆる角度からの実証研究が必要であるが、1世紀から4世紀の間の日本古代史は、今なお、まさに「藪の中」と言うべき状態である。この主たる原因が、「記紀」神話の資料的価値を全く認めない戦後古代史学会の一般的空気にあることは言うまでもない。

 こうした空気が日本の敗戦によりもたらされたことはいうまでもないが、「記紀」は確固たる文献資料であって、それを素直に読めば、先に述べたような、日本の縄文文化から大陸の先進文化を受容し弥生文化へと発展していったプロセスを大筋つかむことが出来るのである。また、そこに日本人の感情や思想の源流を見ることができる。(R2.10.4修正) 

2020年9月12日 (土)

なぜ、縄文人は弥生系渡来人に征服されなかったか

 日本人の起源については、考古学的研究に加えて最近は核DNA解析が行われ、どのようなルートで日本に来て、周辺文化の影響を受けて発展してきたかが次第に明らかになってきた。ここでとりわけ重要な観点は、なぜ、約一万二千年前に大陸から切り離され、孤立した日本列島の中で生き延びてきた縄文人が、その後の超先進的な中国文化の流入になぜ吸収されなかったか、ということである。(R3.10.4修正の上再掲)

 現生人類=ホモサピエンスは、今から20万年前から10万年前にかけてアフリカで現生人類として進化した後、6万年前にアフリカを離れて世界に広がり、先住のネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの初期人類集団との交代劇を繰り広げたとされる(wiki「ホモサピエンス」)。そして、約4万年前頃、アジア東北岸に到達し、その後、最終氷期に伴う海面低下や氷結により日本列島に上陸した。

 「洪積世の終わり2万年前頃には、ほぼ現在に近い地形であるが、最終氷期最盛期のため海面が低下し、大陸と陸続きになることがしばしばあった。」「 例えば、間宮海峡は浅いため、外満州・樺太・北海道はしばしば陸橋で連絡があった。津軽・対馬両海峡は130 - 140メートルと深いため、陸橋になった時期は限られていた。」「最後の氷期が終わり、マイナス約60mの宗谷海峡が海水面下に没したのは、更新世の終末から完新世の初頭、すなわち約1万3,000年から1万2,000年前である。」(wiki「日本列島」)

 その後、日本列島は次第に温暖になり、縄文式土器を特徴とする縄文文化が栄えることになる。縄文時代の中期の最盛期の人口は約26万人と推計されているが、その人口分布は東北地方の落葉広葉樹林帯が中心で、クリ、ナラ、ブナなどの繁茂する森での狩猟採集や川や海でのサケ、マスの漁労が行われた。青森県の山内丸山遺跡からはクリやマメなどの栽培農業も行われていたことが分かっている。

 ではこの縄文人とはいかなる民族か、について、山本七平は『日本人とは何か(上)』で、日沼頼夫博士の「ATLウイルスキャリア」による研究を紹介している。これによると、このウイルスキャリアは東アジアでは日本人にしかないこと、日本以外では沿海州からサハリンに分布している少数民族に発見されているに過ぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことが発見されたという。

 さらに興味深いのは、そのキャリアの日本における分布で、全国的に平均しているわけではなく、沖縄、アイヌなど日本列島の周辺部が極端に高く、稲作が早く伝播したと思われる地域が低いことが分かった。このことから、縄文人はATLウイルスを持っており、稲作を持ってきた弥生人にはATLがなく、それとの混血が早かった地方ほどATLのキャリアが少ないという仮説が成り立つ。

 日沼氏は、このATLウイルスを持つ日本の先住民は「中央アジアから東進して東北アジアに至り、その一部は日本列島に至った」としているが、ただ、残念ながら「東北アジア」方面に「ATLウイルスキャリア」が多いというデータは示されていないと、安本美典氏は指摘している。(『日本人と日本語の起源P163』)

 ところが、最新の分子人類学研究によると、中国や朝鮮では極めて少ない「Y染色体ハプログループD1a2a」は、日本人の約32%~39%にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占め、アイヌでは80%以上もこれに属する。」しかし、漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、ハプログループD1a2aは縄文人に特徴的なY染色体だとされる。(wiki「日本人」)

 「ハプログループD1は、ハプログループCFとともに、現在アフリカの角と呼ばれる地域から、ホモ・サピエンスとしては初めて紅海を渡ってアフリカ大陸を脱出した。アラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進みイラン付近に至った。さらにイラン付近からアルタイ山脈付近に北上したと推定される。

 ハプログループD1のうち、東進して日本列島に至り生まれたのがハプログループD1a2aである・・・アリゾナ大学のマイケル・F・ハマーは「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1a2aが誕生した」とする説を唱えた。崎谷満はハプログループD1a2が華北を経由し九州北部に到達し、日本列島でD1a2aが誕生したとしている。(wiki「ハプログループD1a2a (Y染色体)」)

 これによって、安本美典氏が提出した日沼説に対する疑問は解かれることになり、日本の先住民は「中央アジアから東進して東北アジアに至りその一部は日本列島に至った」とする仮説が実証されることになった。つまり、これらの日本先住民が、その後約8000年に渡って、大陸から切り離され孤立した日本列島の中で、縄文文化を形成し、それが日本文化の基底となったのである。

 また、核DNA解析による研究では、最初に日本列島に到達し住み着いて縄文人となった旧石器時代人のDNA(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)は、現在の大半の東アジア人とは大きく異なっている。どういうことかというと、縄文人は「(出アフリカ後)古い時代に東アジア人の共通祖先から先に分岐し、独自の進化をとげたことが判明した」という。これは従来の説を裏付けるものである。

 その後、縄文時代後期(約4400年前-3000年前)、第二の渡来民が流入した。これは縄文人とDNAを大きく異にしていたが、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた。斎藤成也はこの集団を黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であったとした。この集団は日本列島中心部において縄文人と混血した。(wiki「日本人」)*ハプログループO2グループに属し陸稲をもたらしたという。

 次いで、縄文時代晩期(約3000年前)から弥生時代末期(1700年前)にかけて、中国江南から海を渡り、あるいは朝鮮経由で、水稲栽培が日本に持ち込まれた。日本列島へのこのハプログループO1b2の流入は弥生人と関連し、「則ちこのグループの到来と共に縄文時代から弥生時代へ移行しはじめたと考えられる。O1b2系統は日本列島の他、朝鮮半島や中国東北部の一部でも比較的多く見られる。」(wiki「日本人」)

 興味深いのは、「核DNA解析」によって、韓国人のDNAは東アジア人のグループに属するのではなく、東アジア集団の北京中国人と縄文人の中間に位置することが明らかになったことである。これは、朝鮮人と縄文系日本人の混血を示すものだが、韓国語と日本語の基礎単語の違いが大きいことから、言語的な分離はかなり早かったものと思われる。(「弥生人DNAで迫る日本人の起源」2018年12月23日放映 )

 次に、縄文人はどのような言語を話していたかというと、実は、日本語は「系統未詳言語」であるとされ、中国語や韓国語とも系統を別にする「混合後=クレオール言語」とされる。その文法構造は、モンゴル語、満州語、朝鮮語などのアルタイ系言語に似ているが、基礎単語は南方オストラネシア系のものが多いという。

 つまり、大陸から切り離された後も、日本列島には、生き残った旧石器時代人の他に、南方から海を渡ってやってきた人々が多数いて、縄文人との混血を繰り返していたということ。列島では温暖化が進み、これらの多様な人々の言葉が入り混じって、紀元前3000年までには、日本語の原型が成立したと考えられるのである。
 
 その後、春秋戦国時代の混乱期に、水稲栽培の技術と鉄器と家畜を持った人々が、中国江南から日本列島に渡来するようになり、その先進文化を縄文人が吸収同化する形で弥生文化が生まれた。水稲栽培は西日本から東日本へと急速に広まり、各地に部族が形成されクニが生まれ、さらに全国的な統一政権樹立へと進んでいった。

 ここで問題となるのが、この間に流入した人口は、新撰姓氏録に見るように相当数いたと思われるのに、なぜ、日本語が朝鮮語の語彙や中国語の文法構造の影響を受けなかったかということである。それは、先に述べたように、日本語の原型が堅固であったことと、この間の人口流入が、長い時間をかけて徐々に行われたためであろうと思われる。

 朝鮮との関係については、かって稲作は朝鮮から日本に伝わったと考えられていたが、「遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっており九州からの伝来と議論されている。」という。(wiki「稲作」)

 

日本の歴史の「弁証法的発展」をとらえた伊達千広の歴史区分

 今日、日本の歴史研究においては、古代・中世・近世・近代とする時代区分法が用いられる。古代については古代国家の形成、中世については、荘園公領制の形成、近世は、幕藩体制の形成、近代は、明治維新以降の近代社会形成をそれぞれの時代区分の指標としている。

 だが、この「古代・中世・近世・近代」という歴史区分は、もともとヨーロッパの歴史を分析するために考え出されたもので、「この区分法の起源は、ルネサンスの人文主義者たちが、古代ギリシア・ローマ時代を理想とし、ルネサンスはその古代文明の再生であり、その間の中世を古代の文明が中断された暗黒時代と捉えたのがそもそもの始まりである」とされる。 

 従って、あえてこうした時代区分法を日本の歴史に適用するなら、日本におけるルネサンス(文芸復興)に相当する文明開化は、幕末から明治維新に至る尊皇思想運動に比すことができる。この場合、理想とさるべき「古代」は、平安時代以前の「天皇親政」の時代になり、中間の武家政治の時代が「暗黒の時代」となる。 

 しかし、日本における「古代・中世・近世・近代」という歴史区分は、こうした指標に基づくものではなく、「発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘」(wiki「日本の歴史」)されている。従って、あえてこの区分法を用いるなら、前述したように、尊皇思想を指標とする時代区分を採用した方がはるかに面白いと私は思う。 

 また、飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(安土町・京都市伏見区)・江戸時代(東京都)という時代区分は、あくまで政治の中心地の所在地を基準に区分したものであり、日本歴史全体の弁証法的な流れをつかむことは出来ない。 

 この点、伊達千広が嘉永元年(一八四八年)に執筆した『大勢三転考』による時代区分は、「骨の代」「職の代」「名の代」となっていて、日本が、中華文明の辺境にあってその影響を受けつつ、どのように独自の文化を形成したを、弁証法的に生き生きと捉える時代区分となっている。

 まず「骨の代」であるが、骨は姓(かばね)であって、「すなわち各氏族の住んでいる場所と職業の内容から生まれた姓が世を治めた時代のことである。神武天皇が国造、県主を設けたのが姓の始まりである。姓と領地を世襲する氏族の統率者によって、国の政治が分担されていた時代が「骨の代」である。

 次に「聖徳太子と天智天皇、天武天皇らの一大政治変革によって、「職」の時代へと移り変わった。すなわち、十七条憲法から大宝律令制定への古代の一大変革が、天皇から官職を授けられたものによって治められた時代、すなわち「職の代」を切り開いた。いうまでもなく、律令的官僚政治の時期を指しているのであり、摂関政治、院政、平家の台頭の時代までも含んで考えられる。 

 そして第三番目の「名の代」は、名前を持っている人が世を治めた時代である。源頼朝の鎌倉開幕に始まり、徳川幕府の成立に至って全盛期を迎えたのが「名」の時代である。「骨の代」においては、軍事に際しては天皇自らが兵を率い賊軍を平定した。ところが「職の代」では、文官と武官に身分が別れ、文官優位の官僚体制となり、次に「名の代」となって武官が文官に権力によって取って代わるという逆転の時代を迎えたと見なされている。」(『国民の歴史』西尾幹二p49~50) 

 この時代区分によって次のようなことが分かってくる。

 まず、「神武東征」によって大和を中心に統一国家作りが始まり、功臣や在地豪族に「かばね」と称する「国造や県主」などの地位・職掌が与えられ世襲された。その後、大陸より仏教・儒教の教えや律令制度が伝えられると、旧来の「かばね」が桎梏とされるようになり、大化の改新を経て「大宝律令」(701年)で「かばね」が廃され、以後、律令制度に基づく世襲ではない任命制の「職」が置かれた。

 こうして「職の代」となったが、皇国の「自然神代のことわり消失ず」、摂関の職が藤原氏に独占され、道長の「この世をばわが代とぞ思う」となった。これに対して「藤原氏の勢をくじき賜へる」動きが始まり、白河法皇の院政となり藤原氏が排除され、その「御楯御矛」として「猛き物部(もののふ)」=「北面の武士」が置かれた。

 これが保元平治の乱を経て「平氏にあらざれば人に非ず」となって、「院政の御政も摂関の威勢もこれがために打けたれ」たが、「この入道相国は、すべての状、摂関の意見をうつせるふるまい」となり、源氏により滅ぼされた。その後、頼朝が六十余州総追捕使となり、国衙に守護、荘園に地頭を置いて行政権を掌握し、「職の代」から「名の代」へと移っていった。

 ここで「名(みょう)」とは、「公田」に対する「名田」の意味で、「いわば所有権を主張する何らかの「名を付した田」を所有すること。その所有者が名主、それを最終的に統合したのが「大名」である。この間、承久の変や建武の中興など、天皇家による「往古に立ち返るべき」動きがあったが、「時代の流れ」でやむをえないとしている。是によって天皇家は「将軍より王位を賜ふ勢い」となった。 

 大名は、当初は、あくまで室町幕府の任命する守護大名であったが、次第に、自らの領国を私有するようになり、「かれ大名小名も、あるは和順、あるはそむくこと、時雨の空の定なきが如く、大けきは小さきを呑み、小さきは大けきを奪ひ、あるはおのが君たる人を逐らひて、其国を奪う」という戦国の世となった。

 その後、織田右大臣による天下統一は「はかなき夢となり」、豊臣関白は「他の国まで軍を出して、闘い止む日なければ、治国の化(おもむけ)はあらざるけり。故薨(ゆえにかくれ)賜ふと、やがて、また乱れしかど、遂に徳川の御稜威に靡きて・・・太平無事の御代となり、名の代・・・ここにして盛大なり」で『大勢三転考』は終わっている。

 この歴史区分を延長すると、明治は「君の代」(立憲君主制)、戦後は「民の代」(民主制)に区分できるように思う。幕末に考案された『大勢三転考』の歴史区分が、今の時代の歴史区分よりはるかに判りやすく客観的であるとは、一体どうしたことだろうか。 

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