「記紀」が描く日本古代史空白の時代
山本七平は、弥生時代末期のクニの共同祭祀の中心にいたのは、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼のようなシャーマン的存在ではないかと言っている。古事記・日本書紀には、この卑弥呼に相当する人物について神宮皇后であるかのような注記がなされているが、「記紀」編集者には、卑弥呼の活躍した年代は魏志倭人伝で分かっていたから、それを紀元前660年以前に活躍する天照大神に比定することは出来なかったであろう。
では、「記紀」神代の大和朝廷の祖先神とされた天照大神神話は、一体何を物語っているのだろうか。この問題をめぐっては、白鳥庫吉、和辻哲郎以来の多くの議論があるが、山本の所説にある通り、それは、縄文時代から弥生時代にかけて発展した村落共同体の生活の中から生まれた共同祭祀におけるシャーマン的存在であったと見るべきだろう。
京都大学東南アジア研究センター教授の高谷好一教授は、縄文時代の照葉樹林帯での日本人の生活を「半栽培屋敷園地」と名付けている。それは、「照葉樹林は食物が豊富で、一度破壊しても二次林として再生する。照葉樹林の森林面積は日本が世界一であり、この点では昔も今も「森の国」である」と。
「半栽培屋敷園地」とは、例えば小川に臨んだ丘陵の端に小部落を作る。集落のまわりだけは照葉樹林が伐り払われていて、そこにクリやドングリそれにイチゴなどが比較的多く生えている。・・・照葉樹林帯でのこの種の生活は一旦確立してしまうとかなり安定したものになる。」
縄文時代は一般的に狩猟採集生活というが、その実際の生活はこのようなもので、こうした共同体が、弥生時代の稲作を受け入れる中で、次第にクニとして組織化されるようになった。そして、その組織力を強化するリーダーシップの一つの形態として、卑弥呼のようなシャーマンによる共同祭祀が行われたと考えられる。
おそらく大和朝廷を切り拓いた天皇家は、そのルーツにこうした共同祭祀の司祭の伝統を持っており、その記憶と伝承が天照大神神話として編集されたのではないか。ここで注意すべきは、神話といっても、天照大神をめぐる物語は、稲作をはじめとする農耕や、狩猟漁猟を営む人間たちの自然の中での生活が描かれているということである。
つまり、「記紀」に描かれた天照大神を中心とする神々の物語は、「高天原」と称する地域から、地上世界である「葦原中国」の出雲や日向、そして大和へと勢力を拡大していき、最終的には、日向から東征した神武天皇によって大和王権が開かれ、第十代の崇神天皇の時に、天照大神を象徴する「鏡」が宮中で祀られ、皇室の祖先神となる由縁を描いているのである。
では、この「鏡」によって象徴される天照大神とは誰であったかというと、日本の伝統的な神観念からいえば、大和朝廷を開いた天孫族の祖先神であると同時に、何らかの悲劇的様相を持った人物が考えられる。そこで、これに相当する人物を日本の古代史に求めるとすれば、自ずと、魏志倭人伝に記された卑弥呼に行き着く。
「記紀」神話の、天照大神の「天の岩戸隠れ」や「天の岩戸開き」の物語は、邪馬台国と狗奴国の戦争、卑弥呼の死、その後男王が立ったがクニが治まらず、卑弥呼の宋女台与を女王に再臨することで治まったとする魏志倭人伝の記述に照応する。「出雲国譲り」や神武東征は、北九州の弥生勢力の畿内への勢力拡大と見ることができる。
問題は、この勢力拡大がなぜ、北九州から三つのルート(出雲ルート、大和ルート、日向ルート)に分かれたかであり、特に、日向ルートの解明が課題となる。現在の定説では、「日向神話」は、大和朝廷の支配に服さなない隼人の懐柔策であり、そのために「隼人の祖先を皇室の祖先とする物語を創作した」とするが、これは「記紀」の記述と一致しない。
そもそも、天孫降臨は日向だけでなく、出雲そして大和へも行われたのである。それを、日向という僻遠の地に降りた一派が、先に大和に入り先住民と血縁関係を結んだ一派を打倒して大和朝廷を開いたとする話は、出自や血縁をとりわけ重視する古代人にとって、それが何らかの事実に基づかない限り、「記紀」に採録されることはなかったであろう。
なお、この天孫族の出自についてだが、AD239年に卑弥呼が魏に遣使した時、『魏略』には「其の旧語(昔話)を聞くに、自らを太伯の後(胤)と謂く」と記されている。ということは、邪馬台国の王族は、その出自を中国江南の「呉」としていたということで、これは、魏志倭人伝に記す倭人の黥面文身の風俗が、呉の海人の風俗と一致することでも了解される。
この呉の海人とは、「中国長江下流の水郷地帯に住み、漁業と水稲耕作を営んでいた海人族であり・・・呉が隣国の越に滅ぼされたBC473以降、中国江南の地から直接海を越え、あるいは朝鮮半島を経由して縄文時代の日本列島に渡来してきた人々」で、彼等が、中国の先進文化を縄文人に伝えたことで、日本に弥生文化が花開き、クニが生まれ、全国統一へと発展したと考えられる。
いずれにしろ、「記紀」神代の物語が、どの程度史実を反映するものであるかは、あらゆる角度からの実証研究が必要であるが、1世紀から4世紀の間の日本古代史は、今なお、まさに「藪の中」と言うべき状態である。この主たる原因が、「記紀」神話の資料的価値を全く認めない戦後古代史学会の一般的空気にあることは言うまでもない。
こうした空気が日本の敗戦によりもたらされたことはいうまでもないが、「記紀」は確固たる文献資料であって、それを素直に読めば、先に述べたような、日本の縄文文化から大陸の先進文化を受容し弥生文化へと発展していったプロセスを大筋つかむことが出来るのである。また、そこに日本人の感情や思想の源流を見ることができる。(R2.10.4修正)
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